宇宙の「意志の力」にゆだねるという主体性(3/15) |
ウエイン・W・ダイアー著/ダイヤモンド社刊 発
スピリチュアリズムについての誤解と短絡を排する
スピリチュアリズムを眉唾だとする人の言い分にも正しいものがある。
しかし、それはスピリチュアリズムと似て非なるものをスピリチュアリズムと誤解して糾弾している場合である。霊感商法の類までスピリチュアリズムとして十把一絡げにしている週刊誌などその典型だが、それは詐欺師の類までビジネスマンとして十把一絡げにしているに等しい。
たとえば著者は、第三章の冒頭、太字でこう記している。
「創造の源である精神との関係を築き、そこから力を受けるためには、願う状態がすでに周りに実現している、とつねに考えていることです」
このような表現は、マーフィーから現代日本の人気催眠療法家まで、大筋で同じようにしている。
これを「デスノートに金正日と書けば彼が急死して極東の安全が保たれる」的に読んで、そんなことはある訳はないと思う人々がいる。彼らは、だから眉唾なのだと結論する。
しかしよく読むと、まともな著者はそんなことは一言も言っていない。
あり得ないことを思い浮かべて眉唾と思う読者がいる一方で、
あり得ることを思い浮かべてそうかも知れないと信じたり、過去の経験を思い起こして確かにそうだと確信する読者がいる。
私は、このこと自体に「意志の力」がすでに作用していると思う。
たとえば催眠療法家は、貧乏人が「すでにお金持ちになった」といくら思い込んでも無理があり、潜在意識は「お金持ちではない」現実を思い知らされ、むしろそれを常態ととらえてしまう。当然やる気や希望は湧いてこない。ところが、「お金持ちになりつつある」と思い、さらに「お金持ちに一歩でも近づく実践」をしてその「具体的なフィードバック」を日々得ていると、潜在意識は「お金持ちになりつつある」ことを常態ととらえやる気や希望が湧くだけでなく、具体的な可能性が現実的に発展していく、とする。
これは、前向きな人々が日々実践していることそのままであり、催眠療法家は、それを実践できないでいる患者を実践できるようインストラクションしているに過ぎない。当然どこにも眉唾なところはない。
霊感商法とそれに同調してしまう人々は、以上のような<自覚→実践→フィードバック>という途中プロセスの一切を捨象している。そしてその点では、スピリチュアリズムを「百害あって一利なし」と切り捨てる人の切り捨て方も同じなのだ。
マーフィーの本は「ある望みが適った状態をイメージし、実際そうであるかのように振る舞っていたら、ほんとうに幸運が訪れてそうなった」という多くの事例に満ちている。事例である以上眉唾ではないのだが、「自分も同じようにすればそうなる」と短絡する読者が話をややこしくする。マーフィーがそう仕向けていると決めつける人は、そんな事例は眉唾であって本を売る形の霊感商法に過ぎないと切り捨てる。
しかし私は、責めるべきは短絡的な読者とその誤解の方だと思う。
単純に「自分も同じようにすればそうなる」と考える読者には、二つの大きな短絡がある。
一つは、マーフィーの事例では、登場人物にとってその望みが叶うことの精神的な意義が素朴にある、ということをまったく理解していないことだ。
この精神の素朴さこそがポイントなのだが、その内実は実践する主体の主観だけが知るものである。しかしそれを本で言葉にしたとたんに、想像力の乏しい読者は、自分と同じように「素朴に金が欲しいのだろう」「素朴に異性にモテたいのだろう」と短絡してしまう。
言葉にできない部分に想像力を働かせない責任は読者にあるのであって、短絡を誘っているとマーフィーを責めるのはお門違いだ。しかも、そんな形の批判をしても誰の人間的成長にも繋がらない。
おそらく、マーフィーの事例の登場人物が「すでに望みが叶ったかのようにイメージし振る舞った」際の精神にも同様の素朴さがあったと、私は想像する。そして登場人物にとって、そうした振る舞いは心の底から楽しく、そのようにイメージすることはそれだけで喜びが溢れてくる、そんな素朴な精神の営みであった筈だ。
一方、短絡的な読者の「自分も素朴に・・・・・したい」的な動機による似て非なるイメージングと振る舞いは、素朴というよりも、単純に「いま貧乏だから金がほしい」「いま淋しいからモテたい」という今の否定に基づいたものであって、けっして楽しいとか喜びが満ちてくるような素朴な精神の営みではない。
いま一つの大きな短絡は、マーフィーの事例の登場人物のような精神の素朴さにおいてイメージングや振る舞いのできるテーマとは何かということに関わる。
人間誰だって、イメージして振る舞って、それだけで楽しく喜びが溢れてくるなどというテーマは、いくつも転がっている訳ではない。しかも、それは仮に満たされたとしても、汲めども尽きず飽きないものの筈だ。ということは、複数テーマがあるとしても、それらは人それぞれの中核的な個性が一生を通じて本質的に求め続ける連続性を反映するものだと思う。
人は、自分の中核的な個性をとても純粋なものとしてうすうすは感じているが、言葉ではどうしても十全に表現しきれない。同様に、なぜ中核的な個性があるテーマを求め好み、楽しみ喜ぶかその理由も分からない。好きだから好く、楽しいから楽しむ、喜ばしいから喜ぶだけだ。むしろ逆に、自分の一生を通じて本質的に求め好み続けたテーマを変容させながら、いろいろに楽しみ喜ぶ自分を発見しては、自分の中核的な個性というものに思い当たって行くのが人生なのだろう。
何を言いたいかというと、マーフィーの事例の登場人物が求めたものが、即物的にはお金であり異性であったとしても、彼らの中核的な個性が求めるテーマのために必要なお金であり、ふさわしいパートナーとしての異性であった、ということなのだ。
つまり、マーフィーの事例を読んで単純に「自分も同じようにすればそうなる」と考えた読者のいま一つの大きな短絡とは、自分の中核的な個性が求めるテーマに思いをはせ、それと関わるという意味でそもそも自分にふさわしい望みを抱いたとは言えない、ということなのである。
催眠療法家の方はマーフィーと同列に論じられるのを歓迎しないかも知れない。
これについては、以上のようにマーフィーの事例の登場人物たちが、催眠療法の提唱する<自覚→実践→フィードバック>による潜在意識への刷り込みプロセスを無自覚的にしていたと考えれば、催眠療法の理屈とマーフィーの理屈との距離は大きくはないと補足しておこう。
むしろ、距離がある、あるいは微妙な重なり方をしていると議論されるのは、催眠療法だけではない心理療法一般とスピリチュアリズムとの関係だ。
ここでは深入りは避けるが、心理療法のプロセスにスピリチュアリズムを応用することは一般的ではないが、心理療法の有意義なプロセスや成果が結果的にスピリチュアリズムに合致することは大いにある、としているのが大方の捉え方のようだ。
(「スピリチュアリティは方法ではなく理想の過程や成果だ」を参照。)
以上、スピリチュアリズムについての誤解と短絡を排した上で、さらに余計な誤解と短絡を招かぬ論述を以下心がけていこうと思う。
「無意識のパラダイム」の内実
著者は、「万物の創造エネルギーがあなたの内にもある」という項目で、巷間よく聞かれるそういう表現が意味することの内実を具体的に解説していく。
「あなたが日々どのように感じながら生きているかは、あなたの考え方、物の見方、意識の内での言葉の巡り方によってわかります。
意志の力をあなたが感じることができるなら、あなたもまた意志の力の本質を自分の内に感じて、自分への信頼と成長、発展への可能性を信じることができるでしょう」
「パラダイム=考え方の基本的な枠組み」には、意識的なものと無意識的なものがあり、後者が前者の根底、前提になっている。
物事の構造的な問題性は、そして個人や集団や組織がどのような未来を描き切り開いて行くことができるかという可能性は、後者の「無意識のパラダイム」によって根っこのところで制約されている。
しかし「無意識のパラダイム」について私たちの意識が直接気づくことはできない。それこそ無意識のものだからだ。
発想や洞察とは「無意識のパラダイム」についての気づきであり、それはあくまで「ひらめき」として無意識が浮上させる。
「ひらめき」は当然意識が受け止めるが、たいていの場合、パラダイムという全体性の部分、かけらであって、全体性は「推量」という思考によって把捉される。
また、「ひらめき」にいたる前段には、本人が意識するかしないかはともかくも、ほのかで微妙なニュアンスの身体感覚「フェルトセンス」がある。意識的に注意する習慣をもつと、「あ、いま何か無意識がひっかかっているな」とか「あ、いま何か無意識が思いつこうとしているな」というサインを受け取れるようになる。
この「意識的に注意する習慣」というのが、著者の言う「意志の力の本質を自分の内に感じて、自分への信頼と成長、発展への可能性を信じる」ということなのだ。
だからはっきり言って、意識するか無自覚的にかはともかくも、意志の力を信じない限り、自分ならではの、そしていま、ここのある世間や周囲との関わりならではのユニークな「ひらめき」を導くことはできない。できるのは、代わり映えしない発想や洞察をユニークだと思い込むことだけだ。
私は、「意志の力を信じるべきだ」とスピリチュアリズムを強要することはけっしてしないし、また発想や洞察を促進する方法論としてスピリチュアリズムを利用することもしない。ただ、社会的にも発想主体にとっても有意義な発想や洞察のプロセスと成果が、スピリチュアリズムに合致することは大いにあることを解説はする。
多くの人々にとって好ましくないが致し方ないと我慢している現実がある。それは、「ある食べ物を美味しく味わえない」から「その食べ物が嫌いなのだ」と思い込んでいることにたとえられる。私は、「料理の仕方や提供の仕方を工夫すれば、その食べ物が美味しく味わえて好きにさえなれる」という事実を分かってもらいたいのだ。
私が繰り返し提示する具体的な「パラダイム転換発想」はその実践であり、研修や現業でする「発想ファシリテーション」は、より多くの人々に自らの中核的な個性を活性化する発想や洞察の実践を促す営みに他ならない。
(今朝未明にも、あるフェルトセンスを感じ取った私は、発想内容をもたらす無意識に主体性を想定しフォーカシング的にアイデアを浮上させた。
部分的な「ひらめき」というかけらをパラダイムの全体性にする「推量によるメタ思考」は、mixi日記に書きつけて想念を外在化し対象化するという形で行った。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=711332295&owner_id=6267825
コピーして本ブログの次回記事にする。
世界中でいま問題になっていることの解決策だが、みなさんには私のアイデアの正否の判断よりも、私が実践している習慣の日常的な具体性の理解をしてほしい。)
意志の力を信じて活用することと<知><情><意>の関係
意志の力を信じて活用することについて、著者はこう述べる。
「失敗の恐れはそこにはありません。それはつねに増え続け、創造を続けています。
芸術家が自分の思考や感覚の完全な表現を望むように、意志の力は生命の完全な自己表現を求めて進みます。
感情は進むべき道と可能性を探るうえでのカギであり、あたなを通じて完全に表現されるものを求めています」
「感情」は「思考」を方向づける。
「感情」は意識であり、その土台には「情動」があり、それは「身体反応に対する感覚」つまりフェルトセンスという無意識的な反応に由来する。
私たちは、<フェルトセンス→情動→感情→思考>と分析的に解釈するが、この過程にはフィードバック回路もあるから、渾然一体となった一連の流れとして営まれているのが実態である。
認知の営みの3要素として<知><情><意>を捉える時、「感情」と「情動」は明らかに<情>の範疇に入る。フェルトセンスを含む「感覚」は、認知の営みとして捉える限り情緒であるから、やはり<情>の範疇に入れてよいのではないか。というか、<知>を「思考」という認知と捉える以上、<知>の範疇には入らない。まして<意>という意志的な認知の範疇には入らない。
よって、以上の論述は、
<情>は<知>を方向づけ、さらに<意>を決定する、
と言い換えることができよう。
森羅万象に働いている意志の力は、<フェルトセンス→情動>の無意識的な過程においては個我を、つまりはエゴを超越して働いている。
ところが、<感情→思考>の意識的な過程においては個我により、つまりはエゴにより遠ざけられてしまう。
「意志の力を信じて活用する」とは、<思考→感情→情動>のフィードバック回路を意図的に使ってポジティブな「優しさ」という感情と「愛」に繋がる情動を増幅し、逆にこれらを打ち消すネガティブな感情と情動を抑制することである。さらに、その上で可能となる<フェルトセンス>への注意と感じ取りを習慣化する、ということでもある。
「無意識が浮上させる発想や洞察」も、それが自己を成長させ社会に貢献する有意義なものである場合、この「意志の力を信じて活用する」ことに他ならない。
このような観点から、認知の営みとしての<知><情><意>の
<意>とは、<思考→感情→情動→フェルトセンス>のフィードバック回路の有効性を信じること、そして自分の中核的な個性としてある意志の力を活性し活用しようとする意志である、とすることができる。
少なくとも、有意義なる自己の成長と社会への貢献を目指す<意>についてそう考えることが有効だと思う。
当然、泥棒や痴漢も<意>という認知を営み、彼らは彼らなりのフィードバック回路の有効性を信じて活用もしている。しかし、それがあくまで狭隘なエゴに囚われたものであることにおいて、(悪事仲間以外の)他者に働く意志の力と恊働する可能性が絶たれていて孤立し、むしろ他者に働く意志の力を挫こうとする。当然、宇宙全体の森羅万象に働く意志の力と繋がることはできない。
著者は「感情は進むべき道と可能性を探るうえでのカギ」だと解説した。
それは、私たちが往々にして純粋な意識の営みであるとする「思考」の成果、「理性」を尊重するだけでなく至上であり万能であるとする過ちと関係している。すでに「思考」が「感情」や「情動」や「身体的反応に対する感覚フェルトセンス」に由来することを確認したが、「理性」も「感性」ないし「情緒」に由来している。つまり、一般的に「理性」と「感性」ないし「情緒」は対立的なものと理解されているが、じつは「理性」と「感性」ないし「情緒」は、理性的ともくされる事柄と感性的ないし情緒的ともくされる事柄とが渾然一体となっている現実を、分別して認識するためのパラダイムなのである。
よって、現実を「理性」で認識し構成した物語に対して、同じ現実を「感性」ないし「情緒」で認識し構成した「もう一つの物語」にすることが、一つのパラダイム転換の有り方となる。
この、同じ現実を「感性」ないし「情緒」で認識し構成した「もう一つの物語」にすることにおいて、「感情が進むべき道と可能性を探るうえでのカギとなる」のだ。
<情>こそが、<知>を編集し<意>を決定づけるカギとなる、
と言い換えることができよう。
発想内容をもたらす無意識に主体を想定しフォーカシングして受け入れる
言うまでもなく、「感情」は感情を抱く主体の主観が理解するものであって、「感情」自体に正しい感情、正しくない感情がある訳ではない。ただ、意志の力を増進するポジティブな感情と、意志の力を遠ざけるネガティブな感情とがあるだけだ。
このことを短絡的に正邪に結びつけるから、スピリチュアリズムという「精神の摂理」を正義のように振りかざすスピリチュアリズム至上主義者が出てきて、これを糾弾するスピリチュアリズム否定論者も出てくることになる。この構図は、自分が信仰する宗教宗派が正しくその他の異教異派はすべて邪教だとする宗教対立の図式と同じもので、宇宙の「意志の力」からは遠く離れている。
著者はこう述べる。
「意志の力の場は生命の自己実現を追い求め、あなたは成長、発展を続けることによって自らの生命を表現するのです。
あなたは成長、発展を自らの本質とすることで、高エネルギーの場をイメージする能力を養ったら、いろいろな時代に現れたスピリチュアル・リーダーたちに耳を傾けたりすることで、意志の力という高エネルギーの領域を知ることができるようになります。
実際、そのエネルギーの場はどこにでもあります。そして生命の表現を求めています。それは働き続ける純粋な愛であり、ゆるぎないものであり、あなた自身なのです。
それをあなたは忘れてしまっていますが、創造の精神があなたを通じて、あなたのために現れてくれることを信じましょう。
なすべきことは、生命のエネルギー、愛、美、優しさを思い、それをよく味わうことです。これらに一致した行いはどれも、あなたの内に意志の力が働いているのを示しているのです」
無意識が浮上させる有意義な発想や洞察も、「創造の精神があなたを通じて、あなたのために現れてくれる」ということに他ならない。とスピリチュアリズムの言葉で表現したからと言って、オカルティックな発想の魔法や呪文がある訳ではない。
発想内容をもたらす無意識に主体を想定し、フォーカシング的にその仄かなフェルトセンスを感じ取る。私たちは、ど忘れした人の名前をもう少しで思い出せそうな感じ、あの喉まで出てきているという台詞を言う時に喉元あたりに仄かなフェルトセンスを感じ取っている。これと同様のことであって、まったくオカルティックでも何でもない。
自己の成長にとって有意義であり社会に貢献する可能性のあるものの場合、「生命のエネルギー、愛、美、優しさの味わい」を感じ取ることができる。感じ取るべきは、それらが有るか無いかだけなので、仄かであっても感じ取れるのだ。(身体に感じるとは限らない。両手の間に感じたり、NLPで解釈できる虚空位置に感じる場合もある。)
「それは気のせいだと、そう思おうとするからそう思えるのだ」と言われたら認めるしかない。しかし、それこそが信じて感じ取ろうとすることである。確かに、それが有効なプロセスかどうかは人それぞれだ。しかし、有効なプロセスである可能性は、私が実際にそのプロセスを経て有意義なパラダイム転換発想という成果を得ることで示すことができる。もしそれでも「いや、あなたは天才だからそんな発想ができるのであって、意志の力とは無関係だ」と言われれば、私はいろいろな方法でいかようにも「私が凡人であること」を証明しよう。
フェルトセンスという兆しを味わったら大切に胸中にしまい込む。そしてきれいさっぱり忘れてしまう。それは意識から手放すということで、意志の力に委ねるということだ。
やがて忘れた頃に、フェルトセンスは「ひらめき」や「気にかかること」に熟して、無意識がそれを「はい、こんなんでました」と浮上させてくれる。
そして意識が、それを単なる「気の迷い」や「気まぐれ」とネガティブに受け取るのではなくて、何か意味のある可能性を秘めたかけらなのだと受け取ることが大切だ。かけらからパラダイムの全体性を「推量によるメタ思考」することで、他者に伝えて共感され共有してもらえる発想や洞察となる。
そして、
「あは〜、言われてみればそうだ」
「そうか、そういうやり方もありだな」
というアハー体験を誘う。
アハー体験の内実と意義を再考する
アハー体験とは、誰もが知っている知識や情報を、「既存の物語」とは異なる「物の見方」で再構成し、誰もが納得する「もう一つの物語」を紡ぎ出すことで導くことができる。
見慣れた景色が、今までとは異なる地点から眺めることで違って見える。
「あは〜、こちらからみるとこう見えるのか」
「こちらからの景色もなかなかいいな」
そういうシンプルかつ明快な新鮮な驚きがアハー体験にはある。
知識偏重、学力至上主義の現代では、一般人が知らない専門知識や誰も知らない最先端の知識が尊重される。
また、顕微鏡や望遠鏡で微細な世界や遠隔の世界を探索することで新しい世界が広がると考えられている。
つまりは、知識も学力も、科学万能主義や即物的な機械論を前提にしている。
一般的な生活と人生をおくる人々は、そうした営みに直接触れて実感することも、実感を想像することもできず、実際に見学したり説明をしてもらって触れたとしても、前述したアハー体験はない。
「え、そういう世界があるのか」
「あれ〜、そんなこともできるの」
と驚くばかりである。
確かに、そうした驚きの科学や技術が現代生活を支えている。
しかし現代生活において、一般的な生活者や就労者が受動的な存在でいる度合いが高まっているのも事実だ。つまり、自分の人生を自主制作する主人公でいられる領域が限定されてきている。
多くの人々が某かの専門家やエキスパートとして仕事している。その環境が著しく機械論化しているとすれば、人々は仕事を通じてお互いの生活を限界づけあったり制約しあっていることになる。
私は、こういう全体パラダイムの現状にこそ、真のパラダイム転換発想が求められていると思えてならない。
そんな現代世界に要請されるパラダイム転換発想とは、発想主体である個人や集団や組織に、人格変容や精神活性を伴った自己成長を促すものである。
発想や洞察を披露されてアハー体験をする人々にとっては、「理性」と「感性」ないし「情緒」との調和を回復してくれる「もう一つの物語」として共感するものとなる。
私たちは、「感動」や「共感」という言葉を不用意に使いすぎたのではないか。
いまや、意志の力とともにあることへの祝福に満ちたそれらと、結果的に意志の力を遠ざけることに繋がるばかりのそれらとを、峻別すべき時期に来ている。
現実のパラダイム転換に結びつくアイデアやヴィジョンの要件
「推量によるメタ思考」をして見えてきたパラダイムの全体性を、現実のパラダイム転換に結びつくアイデアやヴィジョンとするためには、どのような要件が必要なのだろうか。
著者は、ヘルメスの言葉を引用している。
「『ある』ものは現れ出たものだ。
かつてあったもの、これからあるであろうものは、今現れ出てはいない。
しかし死んではいない。
たましいの眼は、
神の永遠の活動が、すべてに命を与えるのを視る」
想像力を働かせ自然と眼に浮かんでくるような物事を大切にする。
この営みは、単に想念によるばかりでなく、たとえばイージープロトタイピングのように紙や発泡スチロールで想念をモデル化しさらなる具体的なイメージを呼び起こす作業をも含む。
注意してほしいことは、このプロセスは、思考を形にするべく設計図をかいたり縮尺モデルを製作し思考成果をチェックする営みとは、全く逆のベクトルなのだということだ。
このことについて著者はこう解説する。
「意志の力につながって想像力の内にあるものを創造する能力を得る、ということについて、このヘルメスの言葉は重要です。
体やエゴというものが意志をもったり、創造したり、生命を与えたりするものではありません。エゴを退けましょう。人生に目的をもち、その実現を決意するのは大切です。しかし心の内の願いは、決意と努力で実現できるという幻想を退けましょう。(中略)
想像力に焦点を当ててください。そして到達したいゴール、望む活動はすべて、想像力があなたの内で働き、導き、励まし、そこへと運んでくれていると考えてみましょう。それらがみな、現実に現れる前からすでに。想像力とすべての想像の源であるエネルギーとの波動的な一致を求めることが大切です」
ここで、スピリチュアリズムを誤解するあの大きな短絡を招かないように論述する。
「想像力とすべての想像の源であるエネルギーとの波動的な一致」は、単純に「自分もお金がほしい」「自分も異性にモテたい」という望みにはない。いくらジュラルミン・ケースに入ったきっちり5億円の札束をまるでテレビドラマのように思い描けてもそれが手に入る訳ではない。いくら米倉涼子の頭の先から足の先までまるでグラビア・ポスターのように思い描けても彼女は洟もひっかけてはくれないだろう。
そんなことは当たり前だ、と私は叱られて然るべきだ。
しかし、多くの企業が「我が社も売上を上げたい」「我が社も顧客に支持されたい」と望み、それが全てだという思いのビジネスマンがほとんどである現実を、あなたはどう見るか。
「想像力によって『終わりから考える』という素晴らしいやり方が可能になります。
終わりから考える人の行く手を妨げるものは何もありません。実現のためのあらゆる手段を創造し、望みの実現についてまわるあらゆる制約を乗り越えます。想像力の中でゴールにいれば、すべてを創造するエネルギーに由来する力が望みを形にしてくれるのです。
あらゆるものの源である存在は恵み深く、素晴らしい七つの面とともにすべてを計らってくれますので、この方法だけを使えばいいでしょう」
ここで、終わり、というゴールをどこに設定するかがポイントだ。
たとえば先の戦争の終戦直前、世界最大の大鑑巨砲艦船、大和は数年分の国家予算を投じ技術の粋をつくして見事に完成し進水した。そこが終わり、ゴールだった。関係者は誰も、日本の将来の姿とそれに到達するためのシナリオまでは描いてはいなかったのだ。
後になって分かったことだが、ほんとうは私たち日本人は、心眼に自然と浮かんでくるような日本の将来の姿という終わりを捉えて、そこにゴールを設定しなければならなかったのだ。
そしてそのことは、戦後60年たった今も看過されている。
企業にとっても同じ事が言える。
企業にとっての終わり、ゴールとは、商品が生産され顧客が購入して使用することとされる。顧客が満足の表情を浮かべて生活したり仕事しているシーンを、製作したテレビCMのように想い浮かべることもできよう。経営者は、そうした個々の事業を束ねた単年度の決算やそれを発表する株主総会を、毎年の区切りとなる終わり、ゴールとしている。滞りなく議事が進行し無事に終わって関係者が胸をなでおろす、そんな毎年繰り返されるシーンを想い浮かべることもできよう。
しかしそれだけで、企業はその中核的な個性を活性するユニークな営みができるのだろうか。社員にそれぞれの中核的な個性を活性する働きがいを与え、顧客や社会からあの会社があってほんとうに良かったと思われることができるのだろうか。
私にはそうは思えない。
企業がヴィジョナリーであること、ヴィジョンを掲げそれを達成するためのシナリオを計画し実践することは、単なる合理的な事業計画とその効率的な達成という手段だけではできない。
人がその中核的な個性を発揮するためには、それにふさわしい「人生に目的をもつ」ことが大切であるように、企業もその中核的な個性を発揮するためには、それにふさわしい「企業が存続する目的をもつ」ことが大切だ。企業の存続が目的ではないのは言うまでもない。存続は何かをするための手段なのだ。目的なく生き長らえることを延命という。
健康で長生きすることが人生の目的だとするのが常識となっている。しかし、何かのために健康で長生きするのであって、健康と長生きは目的ではない。これと同じ無自覚的なパラダイムが企業社会にも通底している。
「会社が潰れてしまったら何もできないではないか」「健康を損なったり死んでしまったら何もできないではないか」という理屈は、物事の半面しか見ようとしていない。
人や企業の中核的な個性を活性する「もう一つの物語」を紡ぎ出そうという目的を、それを達成するための手段よりも後回しにしている。
無論私が問題視するのは、人が死にそうになっている時や企業が経営危機に陥っている時の話ではない。人の健康や企業の経営が健全な内から「最悪の状態を危惧して回避すること」を優先する無意識のパラダイムだ。
他人はどうでも自分は、他企業はどうでも自社は、人に何と言われようと、
「今すでにこういう精神で満たされている、これをもっと世間に広めていきたい」、
そんな「目的をもつ」ことが大切だ。
それは「使命感を抱く」ということでもある。
それは、いま、ここから、自らの中核的な個性を活性化する自然体の「精神の有り方」を自覚して実践する、ということでなくてはならない。
この点について著者はこう述べる。
「私は長く人間発達を専門としてきましたが、いちばんよく受けた質問は『欲しいものを手に入れるにはどうすればいいか』というものでした。この質問に今ここで答えるなら、次のようになるでしょう。
『あなたはあなたが考えているような人になります。
今考えていることが、欠けているものを手に入れたい、ということなら、あなたは
欠けているという状態でい続けることになるでしょう。
だから欲しいものをどうすれば手に入れられるか、という問いへの答えは、あなたの
質問を次のように書き換えてみる、ということです。すなわり、望むものをどうすれば
得られるだろうか、と。
この新しい問いへの答えは、望むものは意志の力と調和することで得られる、意志の
力こそすべての創造の源だからである、というものです』
意志の力と似たものになることで、想像力で見ているものを意志の力とともに創造できるのです」
企業にとってヴィジョンとは、全社員の「想像力でみているもの」を、常にその企業の中核的な個性という「意志の力」に添わせる役割を担う。
しかし、企業の組織と制度が著しく機械論化し、人材がいつでもどこでも交換可能な機械の部品化している現代、意志の力とのつながりを妨げる要因は山積している。
結果、ヴィジョンやミッション・ステートメントや企業理念などがあるにはあるが、絵に描いた餅、建前の御託に堕している企業は多い。
著者は第三章をこのような戒めで終えている。
「フィラデルフィアの創建者ウィリアム・ペンが言ったように、
『神(筆者注=意志の力)によって統治されない民は、
暴君によって統治されるようになる』
のです。
暴君とは、あなた(筆者:御社)が自分に押しつけた妨げであり、あなた(筆者:御社)の中にある低エネルギー要素である、ということを覚えておきましょう」