日本的な「話し合い」と欧米的な「議論」、そしてボームのいう「対話」(4) |
中澤美依論述/平安女学院大学研究年報 第1号2000 発
「話し合い」と「議論」のメインテーマの違いとその背景
「ムラ」は、対外的には朝廷や幕府の支配被支配、対内的には掟やしきたりという既存パラダイムに呪縛された存在であった。
村寄り合いの「話し合い」は、江戸時代に連帯責任を追わされた運命共同体意識と、共同体内で激しくなった階層対立の危機感とから編み出された手法であった。
必然的に、そのメインテーマは既存パラダイムの枠組みの中のあれこれであって、
「話し合い」では、「ムラ」の秩序や人間関係の維持という前提が常に最優先された。
一方、ギリシャの都市国家の民会は議会のはじまりであって、基本的に立法をする。
メインテーマは、大きくは国家の行く末を方向づけることであり、小さくも何かの制度を改変することであり、必然的に常に既存パラダイムと新規パラダイムとの対立を伴うものとなる。よって
「議論」は、自分の主張を通し相手の主張を退ける説得力の戦いであった。
人間関係や場は、欧米文化にとっても日本文化にとっても重要な要素であるが、
欧米文化は言葉と情報だけにフォーカスするべく人間関係や場が収斂されている
日本文化は人間関係と場を維持向上するべく言葉と情報が制御されている
両者は真逆の位置づけにある。
村寄り合いの「話し合い」と民会の「議論」の違いは、次に述べるような日本とギリシャの「認識論的特徴」の違いにおいて生じている。
ギリシャ人は、「はじめに言葉ありき」と考え、現代の欧米人も無自覚的にそう思っている。
一方、日本人は、「はじめに自然ありき」、八百万の神があると感じ、現代人も無自覚的にそう思っている。
欧米人は、意識に特化した世界観と人生観、生活感や仕事感をもち、
日本人は、無自覚的にだが「集合的無意識」を尊重しそれに照らそうとする世界観と人生観、生活感や仕事感をもっている。
ここでエドワード・T・ホールが提唱した「<モノクロニック>VS<ポリクロニック>」という時間認識についての対概念が参考になる。
彼は、同じヨーロッパでも、アングロサクソン系は<モノクロニック>、地球海沿いのラテン系は<ポリクロニック>としている。このことは、多神教のギリシャ〜ローマの時代には、<モノクロニック=因果律>+<ポリクロニック=共時性>のウェルバランスがあったのが、キリスト教のローマの時代以降、<モノクロニック=因果律>の偏重がヨーロッパ全域の支配被支配パラダイムとして普遍化したこと、それでもラテン系の人々の一般生活文化の深部にまでは到達しなかったことを示している。
私はホールの対概念に加えて<メッセージング>と<ルーミング>という情報認識についての対概念を提唱している。
これは自然観、人間観をより強く反映するもので、ギリシャをはじめとするヨーロッパだけでなく中国、韓国など「石で建物をつくったエリア」は<メッセージング>、日本やポリネシアや東南アジアなど「木で建物をつくったエリア」は<ルーミング>と捉えられる。
ただ、以上のことは、西欧文明やアメリカ型のグローバル・スタンダードやITコミュニケーションで覆い尽くされた現代世界において、あくまで無自覚的な共通感覚や「集合的無意識」の様相である。
しかしそれでも、オフィス空間で、管理職がガラス張りの個室を与えられる欧米に対して、管理職も平社員と同じ大部屋で気心を交わすかのようにいる日本、といった対照性がある。
同じ対照性が、ここを見るのですよという「窓」を提示する額縁のある西洋画、プロセニアムのあるオペラ舞台と、鑑賞者に浸るべき「間」を醸成するべく掛け軸で床の間と一体となる日本画、花道で客席と気脈を通じる歌舞伎舞台との間にもある。
それは、石造で窓が穿たれた家や城壁で囲まれた大門のある城塞都市と、木造で縁側で内外が融合する家や水堀や空堀をめぐらせた環濠都市(堺や金沢、弥生時代の環濠集落に祖を辿る)との対照性でもある。
こうした対照性が現代世界に生きる私たちの認識にまったく影響を与えることなしに断絶していると考えることはできない。
以上のような観点にたって、以下、中澤氏の「時間と場の共有」という論述に触れつつ、「現代世界における調和的な対話」を模索するヒントを回収していきたい。
時間と場の共有について
中澤氏はホールを引用してこう述べる。
「西洋人の時間の捉え方には、次のような特色があるという。
われわれは時間の節約を強調するが、それは時間を数量化し、一つの名詞として
あつかうことである。これはまた、スピードを高く評価することにつながる。
(1987, p.52)
集団の意思決定に際しても、まず、それぞれの議案の審議時間を設定し、所定の時間がすぎると多数決をとって審議を終了する。そして、できるだけ短時間のうちに決定を下すことを効率のよい議論だと考える」
こうした合理性追求は、現代人の一般的なやり方でもあるが、村寄り合いの「話し合い」にはこれとは異なる、参加者の心理面での合理性があると中澤氏は指摘する。
「まず、個人のレベルで考えてみると、同じ問題を話し合うにしても、個人によって自分の考えをまとめ判断を下すのに必要な時間は異なるだろう。(中略)
あるいは自分の利害が深くかかわっている問題とそうでない場合とでは判断を下すのに必要な時間は違うだろう。(中略)
村社会においても、実は、いつも全員一致の結論が下されるわけではなかった(宮田、高桑、竹内、1995, p.262)。そんな場合、(中略)たとえ多数決によって決めるにしても、十分に時間をかけて少数派の意見に耳を傾けるのと、そうではない場合とでは、少数派になった者の気持ちはおおいに違うだろう。
だからこそ、村寄り合いでは『協議の結論よりも結論にいたるまでの過程を重視する姿勢がそこに貫かれ、それは村の成員すべてに疎外感を抱かせないためのゆきとどいた配慮(高取,1975, p.56)』として審議にたっぷりと時間をかけた。
ここにも、人間の気持ち、感情をコミュニケーションの一番重要な要素と考えるコミュニケーション観がうかがわれる」
村寄り合いの「話し合い」が、参加者の現場でのコミュニケーション能力の高低ないしは質的違いを踏まえることはその美点である。
現代のITコミュニケーションならば、会議事前に情報共有しておくことや、会議事後も社内掲示板で「話し合い」を続行することで、この美点は現代的に再現できよう。実際、これはすでに広く実行されている。
問題なのは、経営者や経営幹部がコントロール下にある会議がらみではそうした方策を許せても、社内SNSやそれから自然発生するオフサイト・ミーティングのような制御不可能な方策をとりたがらない場合だ。
社内SNSは出入り自由で、自分の部門部署職能以外の事柄についても発言可能とする。盛り上がればオフサイト・ミーティングで部門部署職能の垣根を越えた個人的な人材交流が起こる。一般論としては組織知識創造の活力となることを認めても、自分の会社の現実論となると、思い通りの経営を雑音なく遂行したい経営幹部や縄張り意識強い現場責任者は歓迎しない。
たとえ社内SNSが立ち上がっても、「上に立つ人」のネガティブな反応が予測される場合、ほとんど他愛無いおしゃべり程度の発言しか呼び込めない。
現実論としては、組織や集団を牛耳ることに熱心な人々にとって、会議はみんなで「話し合い」や「議論」をする場ではなく、自分の考えをオーソライズするステップでしかない。それが古今東西かわらぬ人間模様である。このことが社内コミュニケーションの全体を貧困なものにしている。
こうした事態は、「話し合い」や「議論」が抱える問題ではなくて、それらの開催の仕方、設定の仕方という社内政治の問題と言える。
村寄り合いの「話し合い」でも、同様の村内政治の問題があった。しかしそれは、おおそれながらとお上に申し出ることで解決された。村人も本人ばかりでなくその子供孫も死ぬまで離れられない運命共同体のことだからそういう決死の行動にも出た。しかし、それも支配被支配の既存パラダイムの枠組みの中でのことであって、議会のはじまりの「民会」のように新規パラダイムを対立させる行為ではなかった。
いずれにせよ現代日本の企業社会の場合、「ムラ」とは社会的状況が大きく違う。
社員は会社を自由意志でやめられるし、大方の会社は終身雇用を崩壊させてしまった。
「ムラ」のように、運命共同体意識と危機感が他律的に存在している訳ではない。
よって、
村寄り合いの「話し合い」の美点を現代的に再生するためには、
社員が自律的に運命共同体意識と危機感をもつことがまず第一の課題になる。
この課題をクリヤーしてはじめて、出入り自由で、自分の部門部署職能以外の事柄についても発言可能とする社内SNSを盛り上げて、オフサイト・ミーティングで部門部署職能の垣根を越えた個人レベルの人材交流を起こして、それを組織知識創造の活力とすることができる。
私は、新規パラダイムの模索をも受け入れることによってこそ、村寄り合いの「話し合い」の美点の現代的再生となると考える。
もっと言えば、この第一の課題さえクリヤーすれば、ITコミュニケーションを活用した現代版の村寄り合いの「話し合い」は、ほっておいても若い世代が進めてしまうに違いない。
「なぜ、『話し合い』に長い時間をかけるのかというもう一つの理由は、『集団の無意識』の形成にある。このレベルの考察には、ホールの『集団のリズム』と『共調』(筆者注:同期のこと)という概念が示唆深い。ホールは、それぞれの文化(集団)には長年の間に培われたその文化(集団)独特のリズムがあるという」
この「『集団の無意識』の形成」「『集団のリズム』と『共調』(筆者注:同期)」は、ITコミュニケーションでは難しい。
リアルな場で人と人が居合わせ相対することで可能となる。これをITコミュニケーションで維持向上させることはできても、もともとの土台はリアルな場で形成するしかない。
1990年代にそれまで盛んであったのが下火になった事に、いわゆる「飲みニケーション」がある。
気の合う同僚同士のそれはまだまだあるとしても、管理職が部下たちを連れ立ってするそれはほとんど見かけなくなった。上司が領収書を切れなくなったためだとも言われたが、それは経営がそういう社内コミュニケーションの価値を認めなくなったということに他ならない。部下たちも割り勘で上司についていってまで得るものがあるとは感じられなくなっていた。
ビジネス環境が変化してそれに対応して短絡的に組織や制度を機械論化した会社が増えて、かつての経験則が役立たなくなったとも解釈できる。確かに、マニュアルに従って機械の歯車のようにノルマをこなすだけであれば、かつての経験則などいらないし、知識共有システムで同僚の今現在のノウハウをシェアすれば済む。
そしてそれはそれで大切な仕事であり、ノルマが高まって忙殺される社員の賢明なやり方である。
でも、情報を処理しているか、それとも知識を創造しているかと問えば、前者になる。同業界の他の会社で同様の仕事をした経験のある者がくれば、今日からでも交代できる公算は高い。
しかし、誰にでもその人にしかできない物事というのがある。それは、その人のいま、ここ、この関係にあるからこそ浮かんだ発想である。さらにその発想は、自分がいま所属している部門部署以外の事柄であるかも知れないし、自分の職能と無関係の門外漢の事柄であるかも知れない。しかしだからこそ第三者的な、グレートアマチュアリズムのシンプルかつ明快な発想である場合がある。それは、今日来たばかりの新入りにできることではない。
私が言いたいのは、仮にあなたが情報処理型の仕事を日々しているとしても、頭は勝手に動いていて常に会社にとって有意義なアイデアや仮説を発想することができるし、すでにしていたりする、ということである。あなたが、縄張り意識の相互不干渉の不文律を思い浮かべて、誰にも話すことなく無駄にしている、それをそのままにする組織知識創造があるだろうか、ということなのだ。鈴木敏文氏なら愚問だと言うだろう。
企業社会において1990年代から「俊敏さ」が求められ、2000年以降もさらに求められている。
しかし、「俊敏さ」にも量的なそれと、発想の飛躍、パラダイム転換、そして革新といった質的なそれがある。
ITが無条件に達成するのは前者であり、「話し合い」や「議論」を工夫することで達成されるのは後者である。
ところが、企業活動の「目的を吟味し目標を設定する」後者を蔑ろにしておいて、「手段を吟味し実施する」前者だけを拡充するというのが一般的傾向だったのではないか。
かつての「飲みニケーション」は、実は集団レベルと個人レベルの2系統あった。
管理職が部下たちを連れ立って、というのは集団レベルだ。
部門部署の異なる管理職同士二人でしたり、管理職がこれはと思う部下と二人でする「飲みニケーション」は個人レベルだ。
集団レベルのそれが誰もが経験する他の手段でも代替できるものだったのに対して、
個人レベルのそれは限られた者しか経験しない他の手段では代替できないものであった。
後者は経験したものしかその実態を知らないから、その効用は経験者が整理して説明するしかない。
同じ会社の社員、同じ事業部の部員、同じ職場のメンバーであれば個人差なく無条件にできる「集団の無意識」の共有は、集団レベルの「飲みニケーション」によって容易になされる。基本的には「集団による明示知の共有再確認」であって、それにほぼ個人差なく「集団の無意識」の共有が伴うだろうということで、他のイベントや社内PRでも代替可能である。
一方、気脈を通じようとする者同士の個人レベルの「飲みニケーション」によってのみ可能になることがあった。それがキーマン同士の場合、会社全体にとってとても有効に働いていた。それは信頼できる相手との「個人の無意識」の共有を伴い、単なる情報交換ではない。
二人が打ち解けてはじめて両者の間に生まれてくる「発想や可能性という暗黙知の共同掘り起こし」であって、誰との間でもできることではない。だから機械論化の不可能な人間的な対話であった。
ここで、人間的とは、ピュシス(自然、実在)が介在するという意味である。
キーマン同士の有意義な個人レベルの「飲みニケーション」は、利休の茶室での「一期一会」「一味同心」に通じるものである。そんなことが機械論化した組織や制度の管理下でできる訳がないし、また、機械論化を押し進める経営幹部もそんな制御不能なコミュニケーションの勝手な展開を好まない。
集団レベルの「飲みニケーション」が習慣的に流布していた頃は、イメージ的にはドリップ式のコーヒーメーカーのように広い間口で顔合わせをしておいて、気脈を通じ合いたい者、あるいは通じ合えそうな者だけを濾紙でこして見出しては個人レベルの「飲みニケーション」に至る、そんなことをお互いにしあう回路が多様な形で会社の内外にあった。
社内の回路が「飲みニケーション」であって、社外の回路が「勉強会」や「異業種交流会」であった。
気脈を通じれば相手の人脈までが自分に関わってくる、そんな連鎖が自然発生していたのである。イメージ的には、それぞれの人脈はマインドマップのような形になっていた。
現在は、キーマンは会社の現状に異論を唱えるような自分の考えや志を露にすることができずに、集団の中に潜んで孤立している。そして、気脈を通じるべき相手や通じえる相手を見出す効率的な回路を持てないでいる。
社員の意識的に明示知化した文言ならば、社内のコミュニケーション・インフラでいかようにも読むことができる。しかし、本人の意図するところや秘めたる動機、さらには人となりについては、リアルな場で相対しなければ確認できない。そしてその機会はかつてとは比べ物にならないくらい少なくなっている。私はフリーランスだが、クライアント企業のキーマン同士の人脈連鎖を体験しいまもお世話になっているからそう思うが、少なくなった後しか知らない世代は、周りの同僚もそんな回路をもたないから、日本の企業社会はそんなものだと思っているとすればそれが一番怖い。社員の力で何かが変るという希望が持てないということだからだ。
「飲みニケーション」全般が激減したのは、何も領収書を切れなくなったというミクロな理由や、経営が制度と組織を機械論化したというマクロな理由だけではない。
世の中というのは変化するときには、その時点では全貌のつかめねい構造変化がそこかしこで同時進行しているものである。
サービス残業が増えて慢性的な疲労感が社員同士のアフター5ライフを貧困なものにした。それにより機械論化が社員の労働時間だけでなく、生活時間にまで及んだという時間軸の指摘もできよう。
しかし私は想像以上の影響があったのは空間軸だと思っている。
なぜなら、時間は即座にアレンジして対応できるが、確固たる空間はそうはいかず習慣を固定するからだ。
2000年の前後に、多くの業界大手の東京本社が超高層ビルのフロアに移転した。それまでは高度成長期以来拠点としたエリアに本社ビルがありその周囲に部門拠点や子会社の小振りのビルが集積しているという展開だった。
たとえば東京駅前の古い低層大型ビルにあった大手広告代理店の拠点では、社員は長い廊下を歩いて必ず隣接部門の知り合いと擦れ違った。そして立ち話をしたりカフェにさそって情報交換をした。ある部署の話したこともない社員の様子をドアごしに垣間みただけで、何らかのニュアンスを感じ取り自分の知っている情報に引きつけては何かを推察したりした。
社員同士の個人レベルの「飲みニケーション」は、こうした廊下での立ち話がきっかけで、では夕刻と約束して、エリア周辺で行われることがよくあった。そんな時、キーマン人材の場合、周辺ビルの異なる部門や子会社のキーマン人材に誘いを掛けることもしばしばだった。これに、私のような外部ブレインも誘われた。
こういうことは、別に長い廊下がなくても、どんな会社でも日常的に展開しているコミュニケーション・スタイルだったのだ。
ある時から、喫煙室や給湯室が有効な社内コミュニケーションの場になっていると言われるようになった。
それは以下のような状況が一般化してからだと思う。
この大手広告代理店が全部まとまって芝浦の高層ビルの各階に引っ越した。
すると、それまで長い廊下であったような現象がすべてなくなった。
エレベーターホールでは遭遇の頻度は少なくなり、同じビルに入居している他社の社員や来訪者もいる訳だ。同僚との遭遇の機会は定期的反復性がなくなり、他の部署の仕事場にいる社員の様子を垣間みることは皆無となった。
当然、それまでにあった個人レベルの「飲みニケーション」、特に部門部署の異なる社員とのそれが、遭遇によって発生することも皆無になった。
現在のように、メールで事前にテーマとメンバーを提示して誘うという計画的な誘い方になった。
ここで、誘い方が遭遇ではなく計画的であるということは、相対でなければ感じ取ることができない暗黙知が起点にならなくなったことを意味する。
そして、自分がいま知っていたり考えている想定の範囲でしか対話が始められなくなったことを意味する。
結果として、偶然の成り行きだからこそ広がる、未知の機会や知識や情報との出会いの可能性を、期待したり活用しようとする動機を人々は無くしていった。
そして具体的にどういうことになったかというと、
たとえば、ある業界のある会社のある部門部署にいてあるクライアントを担当している社員が知っていたり考えていることと、業界人が常識的に知っていたり考えていることとの間に、ほとんど差がなくなるという画一化が生じたのである。
この知識や考動の画一化は、組織や制度の機械論化を押し進めた経営にとっては、社員が効率的に動いてくれることに繋がっていて、けっして問題視することはなかった。「金太郎飴」という言葉は死語になった。それは「金太郎飴」な人材がいなくなったからではないのだ。
しかし、業界を越えて組織、制度、情報、知識、考動の画一化が社会的に一般化するに至って、業界人が知っていたり考えていることと、一般人が知っていたり考えていることとが、専門知識や現場実務のディテールでは熟知と無知ほどに違っても、大枠としてのパラダイムは同じになってしまった。だいたい考えていることの方向性が読めたり、同じだったりするということだ。
大枠としてのパラダイムが同じであれば、マスコミや情報誌やネットへの書き込みも対応しやすいから、情報や知識のギャップもすぐに埋められてしまう。つまり先々の企業活動や業界動向までが、みんなの想定内になっていった。
一般人の中にはビジネスマンだけでなく、顧客や生活者も含まれるから、送り手は受け手も自分たちと同じことを考えていると思うようになった。思いやすいだけだったのだが、会社で思っても許される、いやむしろ思えと言われる状況となっていく。
それはナレッジワーカーを自称する社員の現場実務をとても楽チンなものにした。クリエイティビティやオリジナリティを求められないからだ。
しかし、それでは受け手の予想や期待を上回って、真に感動を与える商品やサービスを開発することはできない。そればかりか、開発しようとする動機が失せてしまう。自分が感動できない開発実務をしていて、なんで相手を感動させることができるだろう。
既存パラダイムの枠組みにおいて商品やサービスの改善をする考動ばかりが現場実務である、という認識が常識化していく。
業界横並びの既存パラダイムの裏をかいた新規パラダイムで未対応のニーズの塊を掘り起こす、そんな発想は現場実務としない。それこそがブルーオーシャン戦略だという本を読んでいてもだ。この不作為を正当化するために、ホンモノの新規パラダイムを模索し論じることを敬遠する管理職が多くなる。
「生活者はより高性能で低価格のデザインのいい商品を求めている、ただそれだけだ」
そういうことにすれば、ナレッジワーカーが知るべきこと考えるべきは目前のことだけに限定される!
高性能低価格化競争において消耗戦が激化することが分かっていて、資本規模劣位の会社が優位の会社とほとんど同じ手だてしか打たず、いわゆるレッドオーシャン市場に自ら呑み込まれていく。
それでもナレッジワーカーのほとんどは目前の仕事に脇目も振らずに忙殺されていることで、自己と周囲をそれこそが現場実務であると正当化していく。
じつは現代日本の企業社会において、中澤氏の指摘する「集団のリズム」と「共調」(同期)が抜き指しがたく強いのは、具体的にはこういう状況なのである。
不毛なる楽チンを嫌い、いやそれではいけない、それは違うだろうと自分の頭を使って事態打開を考える有志キーマンもいる。
しかし彼らは孤立していて、かつての「飲みニケーション」のような、信頼できる有志同士が個人レベルでネットワーキングする、効率的かつ効果的な社会的回路はもはやない。
以上、現代の企業社会のコミュニケーション状況をスケッチした。
「現代世界における不調和、対話の不在」の現状を提示した形になってしまった。
私は、こうした事態を打開する現実的な「現代世界における調和的な対話」を求めている。
そこで、
日々の私たちのコミュニケーションが、通時的には言葉や立ち居振る舞いの「集団のリズム」、反復的には通勤や会議などの「集団のリズム」という時間軸により規定されているのと同時に、空間軸でも規定されている
という現実を示したかったのだ。
空間軸には、大別して2系統ある。
1つは、以上スケッチしたビルや会議室などのリアルな環境である。
いま1つは、日本人の得意とする情報認識である<ルーミング>のような、神話世界を仮象している概念的な空間構成である。
両者はアナロジーの関係にあって相乗効果を発揮し、日々の私たちのコミュニケーションを規定している。
リアルな環境による制約には、ITコミュニケーションで乗り越えられるものと乗り越えられないものがある。
「集団レベルの明示知の共有再確認」とそれに付随した「集団の無意識」の共有は、ITコミュニケーションで対応できるものである。
それは基本的に、既存パラダイムを維持強化する方向に向かう。企業活動の「手段を吟味し実施する」というナレッジワークは、社員がたとえしたくなくても常にしろと言われている事柄である。逆にいえば、それだけやってノルマをこなして波風立てずにいればその日その日は無事終了する。
しかし、「個人レベルの発想や可能性という暗黙知の共同掘り起こし」とそれに付随した「個人の無意識」の共有は、ITコミュニケーションで対応できないものである。
それは、新規パラダイムを創出実現する方向に向かう唯一の起点となるものである。企業活動の「目的を吟味し目標を設定する」というナレッジワークを動機づけるものである。それを社員にやってもらい本気でそれに従おうとする、そんな賢人経営者はそうそういる訳ではないから、有志社員が勝手にやっていくしかないのだ。本当のヴィジョンづくりは、事業部門の現業戦略の立案を方向づけるものである筈だが、そういう事例はいたって少ない。
中澤氏は、ホールを引用してこう述べている。
「人間は、一つの文化(集団)の中で長い時間をともに過ごす中で無意識のうちにそのリズムを習得する。そして成員がその文化(集団)に固有のリズムに『共調(筆者中:同期)』することによって個人は集団に統合される。
集団のなかでのリズミックなメッセージの力は、私が知っているどんなものよりも
強い、それは、同一化(同一視)-----identification-----のプロセスにおける基本的な
構成要素の一つ、隠れた力であって、引力のように集団をまとめる。
(1987,p 233)」
私は空間軸の方が時間軸よりも強いなどと言うつもりはない。
そうではなくて、両軸は相乗効果している。
そして、既存パラダイムにおいては、時間軸の「集団のリズム」と「共調(同期)」が決定的な力を発揮している。既存パラダイムの擁護者たちは本能的に、それを空間軸において固定化しようとするものなのである。
祭りによる村人の時間軸支配は神の社という空間軸を媒介にする。それは血族小集団の首長から大和朝廷の天皇に至る大原則であった。
一方、既存パラダイムに対して新規パラダイムを模索実現しようとする挑戦者が、この空間軸で固定化された時間軸支配を乗り越えるためには、空間軸で「中心の間隙」や「周縁の異界との重なり領域」を求めるしかない。
そして、その考動は、千利休の茶室のような信頼できる相手と相対して「個人の気脈」を解放し通じ合わせる場からしか始まらない。
中澤氏は「時間と場の共有」という項目をこう締めくくっている。
「理性優先の人間観にたち、一つの場で、できるだけ短い時間の中で論理的優劣を基準に意思決定をするのが、西洋的な合理性であるとすれば、
感情優位の人間観に基づいて、より長い時間と、より多くの場を共有することによって、成員の合意を形成していくのが、伝統的な日本の村人たちの合理性ということになる」
現代日本の企業社会では、
村人たちの合理性は、集団レベル、つまりは組織の公式の<既存パラダイムの明示知化>体制に息づいている。
それは時として、既存パラダイムの擁護者である主流派の人だけの感情を優位におくものに堕すことがある。
歴史を振り返ればそのようなことは「ムラ」に限らずあったが、必ず共同体として不可欠なピュシス(自然、実在)を枯渇させている。
一方、「ムラ」からの離脱を出自にもつ人々の合理性も、個人レベル、つまりは組織の非公式の<新規パラダイムの暗黙知化>体制に息づいている。
新規パラダイムの模索者にして非主流派の有志が、もし組織の構成員全体の感情を優位におくのであれば、そこには必ず共同体が必要とするピュシスが宿っている。
歴史において前者から後者への交代劇が繰り返されてきたことはみな知っている。
そして、その転換を予兆しさきがけをなしたのは必ず個人レベルの考動だった。