日本的な「話し合い」と欧米的な「議論」、そしてボームのいう「対話」(3) |
中澤美依論述/平安女学院大学研究年報 第1号2000 発
村寄り合いの「話し合い」の何が温存されたかをみる視点
村寄り合いの「話し合い」だけでなく、すべての「話し合い」そして「議論」がそうだが、それで解決できる事とそうでない事がある。
解決できない事の主な解決方法は、暴力や戦力の行使か、共同体や同盟関係などを離脱することだ。
村寄り合いの「話し合い」は共同体の維持を前提としたものであったから、共同体を破滅させるような暴力の行使を防ぎまたあった際はそれを罰した。しかし、そうした対立が無意味であり共同体を去る人々がいた筈である。無論、掟にしたがって「話し合い」無しに「ムラ」を離脱する人々もいた。
私は彼らが遊行の民となったり、農漁業に隣接する様々な職人になったのだと思う。
彼らはともに「ムラ」から逸脱した時空に暮らす者同士として緊密に連携した。
「農村」に対する「都会」という概念、つまりは神話性は、交通の要衝で市がたつ場において、そんな彼らが集ったり落ち合う場として形成されていった。
私は、この「都会」という概念つまり神話性の構造は、部族社会の共同体の外れでサイレント・トレードをした「異界との重なり領域」に由来すると捉えている。
日本列島は四周の民の参入した「異界の民合衆国」状態で「異界との重なり」が列島縦断していた。そして、各テリトリーは、内部秩序を維持するのに「予祝儀礼」や「収穫儀礼」を役立てていたのに対して、新しい産物や道具を導入するには「異界との重なり領域」での「象徴交換」を役立てた。両者は、つまりはピュシス(自然、実在)のプロセスの取り込み機構の、共同体の中心を場とするものと、周縁を場とするものである。
「異界との重なり領域」という共同体の周縁を場とするピュシス(自然、実在)のプロセスの取り込み機構では、
主体は、共同体という井の中の蛙である自己(身内)ではなく、かといって異界の民という氏素性の知れない他者(余所者)でもなく、自己と他者(身内と余所者)の遭遇によって生じる「場に生じる成り行き」だった。これはピュシスの現れと見なされた。
成り行きがもたらす産物や情報の交換の妥当性は、何によって担保されたのだろうか。
それは「象徴価値」によってである。
貨幣はもちろん数の概念が生まれる前の話であり、むしろこの場からそれらが生まれたと考えられる。現代の日本でも見られる原初的な象徴交換の名残は、結納や神事の引き出物や供物である。
原初的には「象徴価値」は、どのように交換価値の妥当性として認識されたり合意されたりしたのだろうか。引き出物や供物のように形式化、つまり明示知化される前、いかなる暗黙知がいかに認識されたかというそもそものはじまりである。
私は、最初はポトラッチのような、共同体の首長同士の神経事象の状態空間を同じうして共有する「感応合意メカニズム」によって確認されたのだと思う。そして、このメカニズムが、「音楽する(歌い踊る)」や「饗宴する」という身内と余所者の交流の営みをともなって集団化、形式化していったと想像する。
ちなみに、千利休が茶において洗練させた一味同心や一期一会の神話性はこの「感応合意メカニズム」に由来するものと思われる。
洗練は、共同体の中心の渦中に周縁を仮象し、「音楽する(歌い踊る)」や「饗宴する」をはぎ取って、集団ではなくて「主客」という個人対個人の交流にフォーカスした、という天才的発想に他ならない。
そこに利休が招き入れたのは、大名や都の商人や茶人など、身分において「異界の民」同士となる人々であった。その多くは秀吉を筆頭に「ムラ」からの離脱を出自にもつ人々であった。
私は、鎌倉幕府に敵対した後醍醐が、従来の朝廷とは異なるやり方でしようとしたピュシス(自然、実在)のプロセスの取り込み機構を表の、つまりは集団化×明示知化の体制パラダイム転換であるとすれば、秀吉に対抗した利休がしようとしたのは、まさに裏の、つまりは個人化×暗黙知化の体制パラダイム転換ではなかったかと思えてならない。
いずれにせよ、本論の主題は日本人の「話し合い」であるが、茶室でのコミュニケーション・モードはその一つの極地を提示していて看過できない。
なぜ、このような前置きをするかというと、理由は2つある。
1つは、村寄り合いの「話し合い」のコミュニケーション・モードの要素と、その後生まれた多様な「話し合い」のコミュニケーション・モードの要素とが渾然一体となることで、現代の私たち日本人特有の「話し合い」のコミュニケーション・モードが形成されていると考えられるためである。
そこで前項(2)で、「ムラ」という被支配者の共同体を支配した支配者のコミュニケーション・モードと天地一対の、主に「集団と定住と体制などの決まり」に関わる神話性を捉えた。
本項(3)では、その支配被支配体制から洩れ落ちた「ムラ」からの離脱者たちの、主に「個人と交流と変革などの移ろい」に関わる神話性を捉えるつもりである。
いま1つは、日本人特有の「話し合い」のコミュニケーション・モードは、人間関係や場の維持向上を無意識的に図っている文脈依存、場依存の側面が強い。
そこには言葉と情報のやり取りだけではない、人間関係や場を形成する様々な要素が大いに作用している。欧米型の「議論」は、逆に言葉と情報のやり取りだけに特化する傾向が強い。
だから、人間関係や場は、欧米文化にとっても日本文化にとっても重要な要素であるが、
欧米文化は言葉と情報だけにフォーカスするべく人間関係や場が収斂されている
のに対して、
日本文化は人間関係と場を維持向上するべく言葉と情報が制御されている
という真逆の位置づけにある。
私は、このことを本ブログでも、
<メッセージング>×<モノクロニック>
と
<ルーミング>×<ポリクロニック>
としてご提示し解説している。
(「<モノクロニック>と<ポリクロニック>」http://cds190.exblog.jp/255178/
「<メッセージング>と<ルーミング>」http://cds190.exblog.jp/259530/
を参照。)
以上述べた観点と課題をもって、以下、中澤氏の論文のつづきを踏まえて検討を進めていきたい。
ムラ内部で生じた問題の特徴
中澤氏はこう述べている。
「自治が許されていたといっても、封建制度のもとのことであり、村人の間にははっきりとした身分の違いがあった。基本的には、身分は、家と土地を所有する本百姓、独立した家は持つが農地は本百姓から借りてこれを耕す水呑み百姓、独立した家も土地ももたず本百姓に寄生する家人の三つの層にわかれていた」
現代の会社で言えば、かなりの株式をもつ経営者、株式をもたない管理職、平社員や派遣社員といったところか。平社員を水呑み百姓に入れるか、家人に入れるかはケース・バイ・ケースとする。
「さらに本百姓も、村役人となることができる大土地所有者と小規模な土地を所有する平百姓に区別された」
前者が、オーナー経営者であり後者が雇われ経営者といったところか。
今でも、国税庁が目を光らせるのは巨大な相続のある前者であって、体制の首根っこの押さえ所は変っていない。
ただし、中澤氏は、こうした封建的なタテ社会の様相ばかりが強調されてきたが、「ムラ」には「身分に因らない平等な関係」の存在を柳田國男が指摘していることに触れ、それが村寄り合いの「話し合い」に現れているとする。
「それ(筆者注:柳田の指摘)は具体的には、生活、生産活動において相互扶助が不可欠であったこと、また、身分というものが、村という共同体の中では決して絶対的なものではなく、社会状況や時代によってかなり流動的であったためだという」
農耕から生活に至るさまざまな局面で身分の違いを越えた相互扶助が行われていたとはいえ、「村人の間にはさまざまな対立や抗争が常に存在していた」という。
「村役人が特権を乱用したり何らかの不正を働いたため、一般百姓が代官や領主に訴えたという記録が数多く残っている(白川部達夫、1999)。つまり、村社会における支配の構造は絶対的なものではなく、ときには一般百姓からの抵抗にあい覆されることもあった」
こうしたケースでは、村寄り合いの「話し合い」の場では解決できないことが、支配者の裁きに委ねられたということである。しかしこれも、支配被支配の既存パラダイムの枠組みでの解決であることには変わりない。
現代で言えば、組合による内部告発、株主代表権訴訟といったところか。
「17世紀中頃から、米以外の作物を商品として売買するようになると、それまで身分の低かった者の中から大きな経済力を持つ者が生まれ、逆にそれまで身分の高かった者の中から経済的に没落する者がでてくる。そうなると、かつての社会的な身分による秩序を守ろうとする者と獲得した経済力をもとに新しい秩序を作り出そうとする者の間に対立が起こった。実際、中には金で身分や特権を獲得する者もあらわれ、旧勢力と新興勢力の抗争が激しくなった(布川、1999)」
さすがに江戸も元禄、化政の都市文化が発展するころには、神社の霊力よりも経済力の方が重大な関心事となっていて、現代に至る経済階層の流動性にまつわるのと同じ現象が起こっている。
ここで忘れてはならないのは、いわゆる「構造的な問題の発生」とは時間を止めてみれば不安材料であるが、時間軸をマクロにみれば「構造変化を促す予兆」として希望材料であるということだ。ただし、このような見方は、「ムラ」のような既存パラダイムの維持を前提とする共同体の中にいてはなかなか出来ない。
実際、前掲の「米以外の作物を商品として売買するようになった者」とは、前述の村からの離脱を出自にもつ商人と緊密な関係をもった村人だった。彼らは、米をつくる共同作業をしぶり、家の普請も金で大工や人夫を雇ってやり、村人の茅葺きの共同作業なども金銭で処理したのではないか。総じて「旧勢力と新興勢力の抗争」というのは、「農村」のピュシスへの「都会」のピュシスの浸食という形となったではないかと想像する。
村人の共同作業が都会的な商品や金銭で代替されるようになると、耕地の境界や水の権利についてより神経質になりその争いが多発するようになる。
しかし、年貢は米で納めるものでありかつ「ムラ」の連帯責任である。
「村人全員の相互協力なしには、身分の違いを越えて誰の生活も成り立たなかった。そこで、様々な対立関係を乗り越え、村人全員の協力と合意を可能にする方法として編み出されたのが『話し合い』というコミュニケーション手法であった」
つまり、共同体を維持向上させるための村寄り合いは太古の昔からあった。ところが、生じる利害関係が複雑化した江戸中期に、誰一人逃げようのない窮地において、その問題解決手段として編み出されたのが「話し合い」だったのである。
ということは、本来的な「話し合い」が成立するためには、まず何より参加者一人一人に運命共同体意識と危機感がなければならないことになる。
それなしにただのんべんだらりとやっているのは、そもそも「話し合い」でもなんでもない、ただの寄り合いに過ぎないのだ。
中澤氏は、1990年代の変化として「話し合い」ができなくなり欧米的な「議論」がそれに置き換わって行ったことを指摘した。
私も賛成する。
ただ企業社会では、2000年以降は、バブル崩壊後の平成不況初期にピークに達した危機感が希薄化し、またリストラが一巡して会社への帰属意識という運命共同体意識も希薄化したことが、会社での会議を、根源的な問題を直視しない、潜在的な問題を探り出さない、単なる「寄り合い」に貶めたと言えることに気づかされる。
このことと、2000年以降の世界におけるITコミュニケーションの普及による「議論」が相対戦争メタファーからネットゲーム・メタファーに移行したこととが重なって、日本の企業社会におけるコミュニケーション・モードの現在が形成されているのではないか。コミュニケーションそのものの総体としては、画一的な効率性が高まったが、有意義な変化には富まなくなった。
ちなみにこの間むしろ世界的に成長発展したトヨタ、キャノン、セブンイレブンは、終身雇用を短絡的に崩壊させることなく運命共同体意識を堅持し、日々の実務の細部にまで高度な問題意識という形の危機感を持たせ、カイゼンやタンピンカンリを押し進めてきた。
これを外国人にも理解実行できる仕掛け化、見える化をしたことで、飛び地としての「ムラ」を世界に創出展開していく、という画期的な日本型の経営モデルをつくったと言える。
企業社会において1990年代から「俊敏さ」が求められ、2000年以降もさらに求められている。しかし、「俊敏さ」にも量的なそれと、発想の飛躍、パラダイム転換、そして革新といった質的なそれがある。
ITが無条件に達成するのは前者であり、「話し合い」や「議論」を工夫することで達成されるのは後者である。ところが、企業活動の「目的を吟味し目標を設定する」後者を蔑ろにして、「手段を吟味し実施する」前者だけを拡充するというのが一般的傾向だったのではないか。
トヨタ、キャノン、セブンイレブンは数少ない例外であるが、彼らは、企業活動の「目的を吟味し目標を設定する」後者を徹底して、「アメリカ型のグローバル・スタンダードへの安直なる盲従」をせず、「日本的経営の短絡的なる全否定」をせずに、自らのオリジナリティを維持発展させることを自分自身の頭で考える<仮説→検証→綜合>で繰り返したのだった。
村寄り合いの「話し合い」による問題解決の実際
「村寄り合いの話し合いの一番の特色は、複数の話題を同時に話し合うことにある」
これは、前出のエドワード・T・ホールの提示した<ポリクロニック>であり、アングロサクソン系の欧州人とアメリカ人にみられる<モノクロニック>と好対照である。
「まず、村の代表が村人に話し合ってもらいたい話題を提示する。しかし、すぐにその話題に審議には入らず、他のいくつかの話題と平行して話し合いは進められる」
「原則としていずれの事項も参加者全員が納得するまで、昼夜を分かたず話し合いを続けることになっていたという。だが、たいていの問題は三日もすると結論がでたそうである」
さすがに、この時間感覚は農村の農民生活(中澤論文は宮本常一による昭和25年の対馬の調査成果を掲載)ならでは許されるものであって、現代の私たちならずも、江戸時代の商人や職人の生活においてさえ許されるものではなかった筈だ。
農民にとって、仕事と生活、生産と消費が分離していなかったから許された時間感覚である。
商人や職人が台頭した都市は、そもそも支配者たちの時空であり、仕事と生活は男女の役割分担や家の内外として分離していた。生産と消費は都市の内外として分離していた。
欧米型の「議論」と日本型の「話し合い」の比較
中澤氏はこう解説している。
アリストテレスによると、
「『議論』の目的は人々を説得することにあるとし、その説得を可能にするのは、エトス(話し手の信頼性)、パトス(聞き手の気持ち)、ロゴス(情報の内容や論理性)の三つの要因であるという理論を展開した。これが現在でも説得理論の基本になっている」
G.A.Kennedyの世界の伝統的社会のコミュニケーションを比較する著書「An Historical and Cross-caltural Introduction」によると、
「アリストテレスがあげた三つの説得の要因のうち、ギリシアに端を発する西洋のコミュニケーション観は、ロゴスをエトスやパトスよりも重視する(中略)
『勝つか』『負けるか』、個人の名誉を賭けた直接対決というのが、ギリシャ時代からの西洋の『議論』コミュニケーションの基本的なスタイルなのである。そしてその勝敗を左右する一番重要な要因がロゴスであると考えられていた。
『議論』とは、いかに相手の主張を攻撃し、自分の主張を守り抜くか、まさに『ことばの戦争』そのものであった」
その中核部分だけを特化したのが、「ディベート」ということになる。
中澤氏は、「このような勝者と敗者を明確にする形の議論を日本人は好まない」とし、その理由を説明する司馬遼太郎氏を引用している。
「議論などはよほど重大なときでないかぎり、してはならぬ、と自分にいいきかせている。もし議論に勝ったにせよ。相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論にまけても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである」
私もその通りだと思う。
しかし私は、司馬氏も「重大なときは議論する」と言っていることに着目して、村寄り合いの「話し合い」が運命共同体意識と危機感を抱いた村人が編み出した問題解決方法だったことを思い起こすと、欧米的な「議論」をしても日本的な「話し合い」のように勝者と敗者をつくらない方法論を工夫することも可能だと思うのだ。
欧米的な「議論」が、ただ感情的なしこりを残すというそれだけの理由で全否定されるべきではない。(中澤氏がそう論じている訳ではない、念のため。)それでは、感情的なしこりを極端に回避しようとする日本人のメンタルモデルに囚われ続けるだけのことになる。
私は、前項(1)の補記で
一人の人間が心の安らぎをえて豊かな人生を送るためには
<知><情><意>のバランスが不可欠であるように、
現代の世界も
欧米的な因果律にのっとった<知>起点の発想思考
日本的な縁起にのっとった<情>起点の発想思考
中国的な共時性にのっとった<意>起点の発想思考
それぞれの過不足を理解しあって互いに協調すべきである
という持論を紹介した。
つまり、話し合いに臨む前に、お互いが以上の3パターンの発想思考を弁えて調和的に構成して対話すれば、
結果的に欧米的な「議論」に偏る事も、日本的な「話し合い」に偏る事も、中国的な天子や賢人の独断に偏ることもないのではないかと考える。
それこそお前の独断だろうと言われそうだが、そうではないのだ。
私は少なくとも二つの先例を知っている。
一つは、聖徳太子の「十七条憲法」であり、
いま一つは、それを踏まえた明治天皇の「五か条のご誓文」である。
後者の「万機公論に決すべし」は、前者の以下の部分を踏まえている。
冒頭「一、調和する事を貴い目標とし」、つまり「和をもって尊しとなす」と、
最後「十七、事件を一人で決定してはいけない。必ず多数の者で良く議論しなさい」
である。
ただし、それには前提条件がある。
「天子が調和して臣下の仲が良いと、事を議論するに調和する。
それで事の道理は自然にゆきわたる。何事も出来ないものは無い」
とあった。
「天子が調和して」とは、天子が道理を踏まえて天と調和して、という垂直方向の調和でこれは中国的な考えである。
ところがその後の「臣下が仲が良いと」には、「和をもって尊しとなす」に通じる水平方向の調和という日本的な考えを感じ取れると思うのだ。
これは、<自然と人間の未分化性>そして<自己と他者の未分化性>を基本とする、原初的な「ムラ」の運命共同体性に由来するものではないか。
つまり、当時のグローバル・スタンダードである漢文で書かれた十七条憲法にある、
「以和為貴」の和→
「則事理自通」の理+「必與衆宜論」の論
は、現代世界で置き換えればそのまま、
日本的な縁起にのっとった<情>起点の発想思考→
中国的な共時性にのっとった<意>起点の発想思考 +
欧米的な因果律にのっとった<知>起点の発想思考
になる。
そして、明治天皇の「五か条のご誓文」の「万機公論に決すべし」は、偏った発想思考の持ち主の独断専横を戒めたものであって、実際その精神は、近代国家設立に励んだ有志たちの漢才をも重視した和魂洋才の推進方法論ともなった。
私は、日本の歴史を振り返るとともに現代世界の企業社会の実状に照らして、今の言葉でこれを解説しなおしているだけなのである。
中澤氏は、ともに集団の意思決定の手法である欧米の「議論」と日本の「話し合い」において、前者が対立を際立たせ、後者が徹底的に対立を回避するものとなった理由をこう説明する。
「答えは、二つの手法を生み出した社会的状況の違いにあると考えられる。
一つめの違いは、集団の大きさである」
つまり、日本の村とギリシャの都市国家の規模を比較し、また村寄り合いと直接民主制の民会の参加者人数を比較し、量的規模の違いを第一の理由に上げる。
「また、村が、互いに日常的な生活を共にし、互いの協力なしには生きていけない共同体であったことももう一つの大きな社会状況の違いだ。(中略)
一方、都市国家の市民は基本的に生活には困らない人々の集団で、生活を支える労働はそれぞれの奴隷たちによってなされていた。従って、中には何らかの協力関係を必要とする人々もいただろうが、民会での対立が即生活の基盤を危うくする心配はなかった。だから、意志決定の場で、全面対決をすることもいとわなかった」
確かに、民会の規模からして、村寄り合いの「話し合い」のような手法をとることはできない、「議論」をするしかなかった。
しかし、ここで問うべきは、なぜギリシャの人々はそのような「議論」をする必要があったのかである。そもそも「議論」をする必要があったから、そのような規模で開催したのである。そして、その理由こそが現代にまで欧米型の「議論」を存続させているものであるし、その理由こそがギリシャの「議論」以外の文化にも通底していた筈だ。
たとえば私たちは、このような分析をするまで、私たち日本人のしている「話し合い」と「議論」に明確な線引きをしていただろうか。
「話し合い」を、「ディベート」や「ブレインストーミング」とは峻別していたが、「議論」とはかなりの糊しろの幅でダブらせていたというのが正直なところではないか。
日本人は、「はなしあい」という和語と、「議論」という漢語と、「ディスカッション」という英語をその場に求められるニュアンスによって使い分ける用語法をとっている。そして日常的には、「話し合い」と「議論」との分析的な線引きなどしていないのである。
日本人の日常会話における「話し合い」という言葉の概念、つまりは神話性は、「はなしあい」と「議論」と「ディスカッション」が融通無碍に渾然一体となってその場おいて妥当な理解を導く対話、というものなのである。
村寄り合いの「話し合い」の本質的な中核を今日まで存続させてきた理由を探るとしたら、こうした日本語の神話性をも捉えなければならない。なぜなら、日本人の日本語による「話し合い」の本質的な中核が現代においても存続していることは、まさにこの和漢洋の言葉の重層性によって可能になっているからだ。
私たちは意識で考えると、村寄り合いを開いてまで「話し合い」をする理由があった筈だと考える。ところが無意識、とくに「集合的無意識」を想定するならば、「話し合い」がしたくて村寄り合いを開いていたり、農耕をしていたとも仮説できる。
ギリシャ人がした「議論」についても同様に仮説できる。彼らは「議論」がしたくて民会を開いたり都市国家を運営していたのだと。
村寄り合いや民会は祝祭やそれに準ずるものである。大和言葉では、「まつり」と「まつりごと」は重なっている。そして、祝祭は何かの必要で生まれたと考えることも、祝祭のために人々は働いたと仮説することも、いやそもそも原初的には意識と「集合的無意識」は無境界であって、働くことと暮らしに区別はなく祝祭性はすべての局面に宿っていたとも言える。
「話し合い」や「議論」に祝祭性があるのであれば、そもそも「話し合い」を含む祝祭時空を選びとっていた、そもそも「議論」を含む祝祭時空を選びとっていた、と言えるのだ。
(この選びとりは、
社会的状況を理由にしたA→BかX→Yかの因果律の選択ではなくて、
祝祭時空を構成するのがA+BかX+Yかの共時性の選択である。
ギリシャは、西欧近代に向かう因果律偏重志向がまだない、キリスト教以前の多神教の世界にあった。)
日本語の用語法における重層性は、外国人にはとても難しいそうだ。
「やどや」「旅館」「ホテル」をどう使い分けるか、ビルになっているのがホテルだろうという所までは明示知なのだが、「やどや」と「旅館」の使い分けは暗黙知に属する。
私は、日本人は「原初的な意識と集合的無意識の無境界」状態を暗黙知としてそのまま受け入れるということを、用語法の重層性によって無自覚に行っているのだと思う。
日本人自体が無自覚にケースバイケースでやっていることだから、「やどや」と「旅館」の使い分けを外国人に説明することはできない。「やどや」か「旅館」かは、その宿泊施設の様子だけでなく居合わせたメンバーと宿泊する目的など様々な要素が勘案されて決定される。その決定方法の決まりもある訳ではない。私たちの日本語はそんな言葉であり、私たちの「話し合い」はそんな言葉を使ってするものなのである。
ギリシャ人は、「はじめに言葉ありき」と考えたし、現代の欧米人も無自覚的にそれで当たり前だと思っている。
このことはギリシャの多神教の神々の中には、抽象的な概念がそのまま神になっているものもあることに象徴的である。
言葉が自然を切り取って人間の現実世界をつくると考えた。
たとえば息や呼吸にはピュシス(自然、実在)があるとされたが、言葉は息や呼吸のピュシスを現実世界に取り込むものであったのではないか。気や呼吸を重んじる中国も同様であった。
このことは、日本語とポリネシア語以外はみな子音主義であることに符号する。
子音は息の微妙なニュアンスを明示知化する。そして子音の発声は、比較的近所にいる人間同士にしか伝わらない。
一方、日本人は、「はじめに自然ありき」、八百万の神があると考えたし、現代人も無自覚的にそれで当たり前だと思っている。
森羅万象の霊力の様相に名前をつけて言葉をつくった。だから言葉には霊力があるとされた。(「あま」が、空だったり海だったりするのはそのためだ。ちなみに密教を伝来した空海は、そういう大和言葉の特性や自然主義的文化の特徴を踏まえての命名だったと思えてならない。)現実世界は自然であり、人間はその一部であった。
日本語とポリネシア語だけが母音主義である。動物の鳴きまねや物真似から歌や踊りが生まれ、そこから言葉や話しがうまれたとする神経事象学の説(ウィリアム・ベンソン著「音楽する脳」*補記)を踏まえれば、母音主義は原初的な動物の鳴きまねの母音をそのまま温存したものと言える。
動物の鳴きまねは狩猟において動物をおびき寄せたり追いやったりするためのもので、発声を聞いてもらいたい相手は動物なのである。また、獲物に集中しながら即座に発生し遠くまで届くものでなくてはならない。犬ならワンワン、猫なやにゃーにゃー、鶏ならコケコッコーといった母音反復である必要がある。cock-a-doodle-dooのような複雑な子音連鎖ではダメなのだ。
日本人とギリシャ人では、原初的な言葉そのものの意味合い、言葉を交わす人間と自然の関係性、言葉を交わす人間同士の関係性が異なる。それらのことがすべて日本人と欧米人の「集合的無意識」においていまも継続している。
(特に、西洋人と東洋人では同じ物事を見ても注意して記憶することが異なることは実験的に証明されている。リチャード・E・ネスビット著「木を見る西洋人 森を見る東洋人」**補記)
欧米人は、意識に特化した世界観と人生観、生活感や仕事感をもち、
日本人は、無自覚的にだが「集合的無意識」を尊重しそれに照らそうとする世界観と人生観、生活感や仕事感をもっている。
(日本語で物事を考えたり話したりする時の脳の働き方が、外国語の場合と異なることが関係していることが実験的に検証されている。***補記)
当初から現代にいたるまで、日本人と欧米人はそれぞれの神話パラダイムを大切にしてそこでのみ生きようとしてきた。それは、以上のように言語活動にまつわる脳の働きまでを秩序づける文化構造になっている。
その中核的なコミュニケーション手段として、一方は村寄り合いの「話し合い」をうみ、それを土台に村人以外の多様な「話し合い」や、中国的な「議論」や、欧米的な「ディスカッション」を渾然一体としてきて今日に至った。
そして一方は、民会の「議論」を手法的に高度化し、アメリカが大統領制に先鋭化するなど制度的に拡張して今日に至っている。
村寄り合いの「話し合い」と民会の「議論」の違いは、ある時期ある場所での社会的状況の違いである以前に、人々が異なる神話世界を仮象したことによると「認識論的違い」を捉えることができる。
企業社会における有意義なコミュニケーション・モードを究明したい、という私の関心事からすると、このように「認識論的違い」を捉えた方が、「現代世界における調和的な対話」を模索していくことに応用可能性が出てくる。
次項(4)では、「現代世界における調和的な対話」を模索するヒントを、中澤氏の論文のつづきに触れつつ検討していきたい。
*補記
ウィリアム・ベンソン著「音楽する脳」については、
「パラダイム転換発想の講義、演習そしてファシリテーションで『音楽する』とは?
(1/3)」の
「『音楽する脳』が私に開示したパラダイム」という項目で論じています。
**補記
リチャード・E・ネスビット著「木を見る西洋人 森を見る東洋人」については、
「西洋人と東洋人では注意し記憶することが異なるという事実」
で論じています。
***補記
「日本人の脳の働きの特殊性」については、「日本人の脳」角田忠信著を参照。