シンクロニシティを追想し再考する(3/5) |
ジョセフ・ジャウォスキー著 発
人間性への信頼と一貫性(コヒーレント)
著者は言う。
「リーダーシップとは、つまりは人間の可能性を解き放つということだ。すぐれたリーダーシップに必要な条件の一つは、そのグループにいる人々に活力を与える能力である。人々の心を動かし、勇気づけ、活動に集中させる能力であり、一心不乱に取り組み、最大限の力を発揮してものごとを行う手助けをする能力である。
人々に活力を与えるというこの能力の重要な要素は、その人たちに対して伝えることだ。
あなたがその人たちのすばらしさを信じている、ということを。
その人たちにはほかの人に与えるべき何か大切なものがあることが、あなたにはわかっている、ということを」
そして、ジョン・ウィリアム・ガードナー(「リーダーシップの本質」の著者)の言葉を引用する。
「若者に対して導いたり教えたり付き合ったりする場合、あるいは、影響を与えたり方向づけをしたり手を貸したり育てたりすることを含む何らかの活動を行う場合、リーダーシップが全体にどう作用するかは、人間の可能性に対する信頼感によって左右される。
それは、次から次へと新たなものを生み出す要素であり、相手との関係をたしかなものにする流れの源である」
「あなたが相手に対して持つ信頼感は、相手が自分に対して持つ信頼感を、ある程度決定する」
信頼感をもつとは、無条件にそうする場合、それは因になる。
一方、何らかの裏付けがあってそうする場合、それは果である。
以上の意味合いで、信頼感は相互的かつ相対的と言える。
しかし、著者が言おうとしていることの本質は、そうした巷間よく耳にする常識ではない。
「人間の可能性に対する信頼感」なのである。
仮に誰かに対する信頼感をもつことは手段であるとしよう。その場合、目的が、信頼しうる善なるものでない限り、その達成の手段としての信頼感はまっとうできない。信頼している泥棒仲間に対して、最後にうばった金品を持ち逃げしてしまうのではないかと疑わざるを得ない。泥棒としての仲間を信頼しているのだから。
「人間の可能性に対する信頼感」とは、人間が信頼しうる善なる目的に心から向かおうとする場合、何人をも信頼することができる、ということである。
この場合、誰かに対する信頼感は、厳密に言えば、手段ではない。目的ですらない。
どういうことかと言うと、誰かとの間にいまある相互信頼は、目的達成時の心理状況の現時点での先取り、いわば予兆であり予祝であるからだ。これは「通時性」である。
豊穣を祝う予祝儀礼は、先に豊穣の喜びに至る過程を集団でイメージトレイニングしてしまうというコミュニケーション効果をもっている。これが自己への信頼感を強化し集団を結束させるヴィジョン志向の原型だと思う。
その原理が「通時性」だ。
予祝したから豊穣となった、という因果律では決してない。
まして、予祝と豊穣は時を違えているから共時性でもない。
私は、縁起の内、
時を同じくして空間軸(X軸)で展開するのが共時性、
場を同じくして時間軸(Y軸)で展開するのが「通時性」、
時を違え場も違えてエネルギー状態軸(Z軸)で展開するのが因果律
ではないかと考えている。
このように「通時性」を捉えると、「人間の可能性に対する信頼感」とは、何かをするにあたっての目的や手段ではなく、つねにこうありたい、あるいはあるべき「人間のあり方」ということになる。
これは、著者が引用した老子の言葉、
「あるのは、やり方ではなく、あり方だ」
に通じる。
ざっくばらんに言ってしまえば、「人間の可能性に対する信頼感」を抱いて一番得をするのは自分であって、それも先の話ではなく、いまここから予祝や予兆という形の先取りの得をしてしまうのだ。
もし私たちが、「豊かに持つ必要性」に縛られずに、「豊かに生きる必要性」を感じるとするなら、以上のことはきわめて実際的なことなのである。
「豊かに生きる必要性」に焦点をあてる人にとって、人生や生活や仕事において自分的にも公的にも有意義な事柄において「一貫性=コヒーレント」や「一心に取り組む姿勢」を有することは、それだけでとても幸せである。
場を同じくして時間軸(Y軸)で展開する「通時性」とは、豊かに生きる幸せの展開軸であり、豊かに生きる自分への信頼軸なのだと思う。
著者は、友人からもらったヘルマン・ヘッセ「デミアン」の角の折られてあったページの次のような言葉を引用している。
「人間には一人ひとりに、ほんとうの使命が一つある。
それは、自分自身へとつながる道をみつけることだ。
------人間の使命は、自分自身の運命を(独断的な運命ではなく)見つけて、それを完全に、決然と、自分の中で実現することだ。
それ以外のことはすべて、存在しているようでしていないものであり、逃避を試みることであり、大衆の理想(筆者注:誰でもない人たちの衆愚)へ帰ることであり、自分自身の内面性に対して服従したり畏れたりすること(筆者注:エゴの殻に閉じこもることやそれを脱することを畏れること)である」
そして著者ジョセフ・ジャウォスキーは、現代物理学の開拓者でありユングとともに共時性を論じたあのデヴィッド・ボームに会うことになる。
内蔵秩序、ただ一つの精神、そしてシンクロニシティ
著者は、ある時目に飛び込んできたという、ボームの最新著書「全体性と内蔵秩序」の紹介記事から以下の引用をしている。
「内蔵秩序(由来は『包まれること』を意味するラテン語)においては、存在の全体は、空間および時間の一つひとつの『断片』、すなわち『何か一つのものや、考えや、出来事』の内部に含まれる。このようにして、宇宙のあらゆるものはほかのあらゆるものに影響をもたらす。それらはみな、同じ完全なる全体の一部だからである。
ボームは、現代における分裂への動きは、われわれの文法における主語・動詞・目的語という構造のなかに組み込まれている、と考えている。
またそうした動きは、個人や集団を自分とは『違う人(たち)』として考えるわれわれの傾向によって、個人や社会レベルで反映され、孤立や身勝手さや戦争を引き起こしている、とも考えている」
サーバント・リーダーシップを育てる組織を立ち上げることに邁進していた著者は、「まさにこれだ。これこそ、私が思いをめぐらし、考えていたことにほかならない。それは、リーダーシップのカリキュラムの土台を表現してくれていた」と感じたという。
著者は、ボームとの対話において触れた「ベルの定理」についてこう解説する。
「相互作用する二粒子系の素粒子が二個あると想像してほしい。それらの素粒子を離れた場所に、たとえば一方をニューヨークに、もう一方をサンフランシスコに置いて、どちらか一方の回転を変化させると、もう一方の素粒子も同時にその回転を変化させるというのである。
これは、離れているように見えるものの一体性がシンプルな形で示されたものだ。ボームが言ったとおり、『われわれはみな一つ』なのである」
これは、共時性のもっともシンプルな形でもある。
「ボームによれば、(中略)あらゆるものが、ほかのあらゆるものとつながっている。このつながりがどのように作用しているのかは定かではないが、『非分離の分離』があることは間違いない。われわれの宇宙はそのようにしてつくられている。『ベルの定理に暗に含まれる一体性は、人間も原子も同様に包み込む』のである」
なんとボームの提示する世界観は、古の部族社会の人間が自然エネルギー、宇宙エネルギーの法則として縁やむすびを感じ取り、人間と自然の未分化性、自己と他者の未分化性を受け入れて暮らしていた世界観とまったく同じだ。
「ボームは言った。
『実際、きみという人間そのものが人類の全体だ。そしてそれこそが、内蔵秩序の概念であり、あらゆるものはあらゆるもののなかに含まれるということなんだ。すべての過去がとても巧妙にわれわれ一人のなかに含まれている。もし自分自身のなかに深く手を伸ばすなら、人類の本質に到達することになる。
そして、意識の根源的な深みへと-----人類の全体にとって共通であり、人類の全体がそのなかに含まれる、意識の根源的な深み(筆者注:ユングの言う集合的無意識)へと導かれることになる。
そのことに一人ひとりが敏感になれるかどうかが、人類の変化にとって重要なポイントになる。(中略)
目下のところ、人々は断片的な考えによって互いのあいだに垣根をつくっている。一人ひとりがばらばらに活動しているのだ。そうした垣根が取り払われたら、『ただ一つの精神』が生まれる。全員で一つの個でありながら、一人ひとりはそれぞれの自己を持ったままでいる、という『精神』だ(筆者注:「統一意識」に裏打ちされた個性の集合ということだと思う)。
そして、離れているときでさえその『ただ一つの精神』は存在し(筆者注:共時性)、集まったときにはまるで離れてなどいなかったようになる(筆者注:「通時性」)。
それがまさに一つの知性であり、互いに関連している人々に作用している(筆者注:縁起)」
ボームは著者のサーバント・リーダーシップを育てる組織を立ち上げる抱負に賛同して、以下のようなアドバイスをする。
「きみは意識におおいに注意を払わなければならない。これは、われわれの社会が知らないことの一つだ。意識に注意を払う必要などないと思われているんだ。しかし、それは注意を与えるべきものだ。意識それ自体が細心の注意を必要としている。注意が払わられなければ、意識はみずからを破壊してしまうだろう。それはとても繊細なメカニズムなんだ」
私は、<知><情><意>という3つの側面で意識と捉えてきた。
そして発想思考という観点から、
「欧米的な因果律にのっとった<知>起点の発想思考」
「中国的な共時性にのっとった<意>起点の発想思考」
「日本的な縁起にのとった<情>起点の発想思考」
という鼎立的把握をしてきた。
そして、
「欧米的な因果律にのっとった<知>起点の発想思考」
は、科学万能主義、経済至上主義を極めて現代世界を混迷に至らしめている。
「中国的な共時性にのっとった<意>起点の発想思考」
は、国家イデオロギーによる人民支配を極めて中国を文化大革命の混乱に陥れた。
現在の中国は、前者との折衷が進み、著しい経済発展の影で未曾有の不調和をもたらしている。
「日本的な縁起にのとった<情>起点の発想思考」
は、無意識的な部分では脈々と息づいているが、意識的なところでは形式化して、本来の暗黙知や身体知については忘れ去られている。つまり、「通時性」が弱まっている。
極まって破綻することはないが、客観的に理解し活用することができる明示知の体系として意識化する努力を怠ってきたツケがまわってきている。
私には、これを早急に行ってそれを土台としてその上で前二者を調和的に再構成することこそが、人類をボームが言う『ただ一つの精神』に導く方法論だと思えてならない。
無論、大上段に構えた抽象論を整理しようというのではない。これは有志一人ひとりが、それぞれの持ち場で問題意識をもって現状を捉え直し具体的な改革をしていく、そしてそうした動きをネットワークしてより大きな問題に恊働で立ち向かって行こう、ということだ。
このような「日本型の集団独創」は今に始まったことではない。そしてその系譜は、けっして完璧でもなくまた世界に向けては開放的でもなく、時に力強くもなくしなやかでもなかったが、それなりに日本の古代から現代に至る歴史が有効性を検証してきたものだ。
そこには、現代世界が悩み苦しむ宗教対立や自然破壊の立ち入る隙はないし、経済格差がかならずしも幸福格差とはならない文化体系も歴史的に育まれてきていて、しかもその現代的成果は世界市場で人気商品となるに至っている。
このような事実は、私が日本人として身贔屓した評価ではないだろう。
ボームはこうも述べている。
「われわれは、われわれが持っているあらゆるもの(筆者注:<知>=頭、<情>=心、<意>=身体)を使って考えなければならない。
筋肉を使って考えなければならない。アインシュタイン(筆者注:ボームの親友でもあった)が言ったように、筋肉のなかにある感情を使って考えなければならない(筆者注:心臓の筋肉が<情>、腹の筋肉が<意>なのか)。
あらゆるものを使って考えなさい。そうすれば、意識は流れるような過程にすすみ、外へも内へも流れ、意思の伝達を可能にしてくれるようになる」
「その道を突き進みなさい。
すばらしい絵を描こうとするとき(筆者注:のキャンバス上の絵筆の動き)と同様、夢に向かうときも一つ所にとどまってはいられない。
細心の注意を払い、自己を認識しなさい。そうすれば機会が現れ、その機会に向かってすばらしい力が発揮できるようになるだろう」
著者は述べる。
「私たちは、自立した個人であろうと努力しているが、まさに同じ瞬間に、自分たちより大きな重要な力に巻き込まれてもいる。
私たちは自分自身の人生の主人公であるかもしれない。しかし同時に、もっと壮大な劇の重要な参加者でもある」
「アーサー・ケストラーも著書『ホロン革命』(工作舎)のなかでシンクロニシティについて説明しているが、これも役に立つものだった。(中略)
宇宙のあらゆるものが一つにまとまっているという説は、老荘哲学や仏教の教えの、あるいは新プラトン主義者やルネッサンス初期の哲学者たちの中心思想にもなっている。ケストラーはこう結論づけた。
『テレパシーや透視や予知や・・・・・シンクロニシティは同じ普遍原理、すなわち因果律に従う力と因果律に支配されない力の両方のを通して作用する総合的な流れ(筆者注:縁起)が、さまざまな状況の下でさまざまな形をとって現れたものにすぎない』」
私たち一人ひとりは、一般人であって超能力者ではない。
しかし、自分に割り振られたほんとうの使命が一つあることを弁え、「もっと壮大な劇の重要な参加者」である私として生きようとする限りにおいて、じつは超能力者なのである。
「人間の可能性に対する信頼感」は、まずそうした自分自身の本質を理解し納得することから始まると思う。
「自分はより大きな全体の一部であると信じて行動し、その一方で柔軟性や忍耐力や鋭い認識力を持ちつづけると、『手に入るなどとは誰も夢にも思わないような、あらゆる種類の思いがけない出来事や出会いや物質的援助』が手に入るようになるのだ」
今年初のお来しの方、明けましておめでとうございます。
本年もみなさまのご多幸をお祈り申し上げます。