新コミュニティ・コンセプトを打ち出す「ニューAVショップ」の提唱を思い起こして(1/2) |
テーマは、当時レーザーディスクやVHDを売り出していたオーディオ・メーカーの課題であった、販路店舗を「マニアショップからソフトファンのプラザへ」転換するという課題への対応策だった。
ご興味ご関心のある方は、こちらからpdfファイルをダウンロードしてほしい。
http://www2.gol.com/users/cds/avshop.pdf
本論では、論文中の概念図を掲載して、現在の情報家電の商品サービス政策や販路政策に重大に関わるポイントのみを、特に「経験デザイン」の心理学的側面から解説することにしたい。
すでに前記事で触れたが、これを久々に読んでしみじみと思ったことは、私が理想型としたAVショップは、20年たった今日、日本のメーカーが凌ぎをけずっている家電量販店ではなく、APPLE SHOPにおいて、まさに「経験をデザインする」ことによって完璧に実現されているということだった。
このことを具体的に検討していきたい。
無論、「経験デザイン」は、販路店舗だけでどうこうできるものではないし、家電量販店の店頭はメーカー1社の意向を反映させるには限界がある。
「経験デザイン」は、商品やサービスそしてビジネスモデルが、「経験デザイン」を実現することこそが新価値を創造することなのだ、という全社的パラダイムがなければ成立しない。
本論では、概念図の内容に関連する、日本の家電メーカーとAPPLE、家電量販店とAPPLE SHOPとの比較検討も合わせて行いたい。
日本の家電メーカーはいまだに
「メカマニアをハイエンドユーザーに想定するパラダイム」にある
かつてオーディオ専門店に足しげく通い、オーディオ専門情報を求めた「メカマニア」は、いかなる特徴をもった階層だったのだろう。
以上の中央の図表「『好きな場所』と『休日の過ごし方』」を見てほしい。
<人の少ない静かな所が好き>で<休日は一人で過ごすことが多い>と答えた、趣味が「写真・美術」「コンピューター」「カメラ・オーディオ」の人々が標準的な「メカマニア」と解釈された。
一方、楽しいAVライフ情報を求める標準的な「ソフトファン」は、<盛り場や人の沢山集まる所が好き>で<休日は友達と一緒のことが多い>と答えた、趣味が「ファッション」「自動車・オートバイ」「食べ物」「映画・演劇」「音楽」「プロスポーツ」の人々と解釈された。
これは20年前のデータであるが、おおよそ「メカマニア」の方が「タコツボ人間」的で、「ソフトファン」の方が「仲間エンジョイ人間」的である傾向は今日も変わっていない。
現在のAV市場でも、高い注文生産の真空管オーディオを順番待ちしてまで購入する「メカマニア」は健在である。また、高級住宅をこだわりをもって購入した家族の男性が、リビング空間のAVシアターの購入時点でハイエンド志向のメカマニア的傾向を示す場合も多い。そして、家電量販店の特別仕立てのAVシアター売り場は、これに対応していると言える。
この20年間に「オーディオ市場」は「AV市場」に展開し、「AV市場」はパソコンやデジカメやムービーカメラと連動する「AVCC市場」に展開し、さらにウェブとリンクする「AVCCインターネット市場」そしてオンウェブ・ケータイやiPodを介する「モバイルAV市場」へと展開した。
以上の概念図の「『マニアライフの時代』から『多様なソフトライフ』の時代へ」という予測が現実のものとなっている。
ただここで、現在の問題として重視すべきことがある。
それは、
「市場をリードするのが<メカマニアのAライフ>から<メカマニアのAVライフ>、さらに<ソフトファンのAVライフ>へととっくの昔に転換しているのにもかかわらず、
日本の情報家電メーカーの商品サービス開発とデザイン、そしてそれが販路とする家電量販店の売り場は、相変わらず「機能情報を学習的情報として提供する」パラダイムにある」
ということだ。
一方、iTunes、iPod、iPhone、iPod touchを打ち出すAPPLEの商品サービス開発とデザイン、そしてAPPLE SHOPが、一貫して「生活情報を官能的情報として提供する」パラダイムにある。また、DSやWiiを打ち出す任天堂の商品サービス開発とデザインもこのパラダイムにある。つまりユニークな存在として堅調かつ成長しているエクセレントな企業はちゃんと時代変化に即応しているのだ。
前者と後者の違いは、無論、経営戦略やビジネスモデルの違いに依るのだが、私は何がそのような発想思考の決定的な違いを生むのかを検討したいのだ。
20年前を振り返ると、パイオニアやビクターは異なる方式のビデオディスクを拡販するべく、コンテンツに入り込み、カラオケ店という生活現場にまで足を踏み入れていた。また、APPLEの方は、マッキントッシュのOSとデバイスを売る事に専念していた。任天堂もテレビゲームの市場拡大に専念していた。つまり、日本のAVメーカーとAPPLEや任天堂の違いは、時間とともに大きくかつ固定的になってきた、ということなのである。唯一の例外がPSやAIBOを打ち出して平成不況下でも成長したソニーだったが、それも2003年のソニーショック以降、他メーカーと似たり寄ったりになってしまった。
この20年間にバブルがありその崩壊の後の「空白の10年」があった。
最近は「空白の15年」を指摘する向きもある。確かに以上のような日本メーカーの質的な沈滞状況に関する限り「空白の15年」が確かにあり、いまもその余韻から脱しきれていないと言える。
(業界人や機関投資家筋には、「日本の家電メーカーは弱小資本がまだ残っていて再編が遅れているために国際的な競争力を落としている」という、まったくマネタリーなマクロマネジメントの話だけをする再編論者、合併論者が多い。
しかし、私は、市場が「多様なソフトライフの時代」になり、世界レベルではけっして巨大資本とは言えないAPPLEが健闘し、任天堂が巨大資本の総合電機メーカーに負けない国際的活躍をしている事実からしても、事はそんな単純な話ではなないと思う。短絡的に数字ばかりを追う算盤経営では済まない。そして、文化論を欠いた企業ヴィジョンしかもてない算盤経営をした資本規模の小さい大手はみな吸収の憂き目に合っている。つまり、私からすると結果に見えることを、再編論者、合併論者は原因と捉えている。
特に <ソフトファンのAVライフ>という現実の世界市場において、いかに自分好みの官能的ソフトライフを楽しむか?という「生活情報」が「官能的情報」として求められている実情がある。にもかかわらず、業界再編した巨大企業少数社が、高性能低価格な業界横並びのデバイス競争に打ち勝っただけで、その商品サービスが世界の生活者や顧客から期待され満足されるとはどうしても思えない。文化論も多様性もない事業活動の成果がどれほどの感動を人々に与えることができるというのだろう。
はっきり言って、日本の家電業界再編論者は、いわば従来型の「モノだけづくり」しか見ない古いパラダイムの人々ではないかと思えてならない。
大切なのは、どのような生活者を想定してどのようなライフスタイルの創出していくか、である。そのために理想的なパートナー企業たちが提携なり合併を適宜に適正規模で行うことだ。提携や合併は、需要の安定性と成長性があり需要の開拓と囲い込みが可能な方策を前提に、行われるべきだ。当然、同業界の同業種の企業たちが組むだけではなく、異業界の異業種の企業たちが組むパートナーシップも想定されてしかるべきだ。
具体的には、たとえば「パイオニアがTSUTAYAと提携したら?」いかなる企業進化を遂げる可能性が生まれるか、と思考実験して視野を広げてほしいのだ。
そのような方策を議論することなく、ただよってたかって業界再編して資本規模の巨大なメーカーに絞り込めば日本として勝って行ける、という文脈で「日本業界」を持ち出すところも、私にはどうもしっくりこない。結論が先にありき、という立場で思考停止しているのではないか。機関投資家筋がそういう判断をするのは立場上致し方ない。しかし、家電、それも総合電機ではない製品分野を限った特徴ある情報家電メーカーの経営までが同調していくのであれば、企業のヴィジョンや理念の担い手、顧客や就労者の期待と満足に応えるべき責任者という立場からして、あまりに短絡的の誹りは免れない。
かつてホンダの自動車メーカーとしての登録申請を旧通産省が渋った話は有名だ。
官僚は弱小国日本の自動車業界は大手数社に絞り込むべきだという発想をした。もしこの行政指導に従っていたら世界のホンダは生まれなかった。
私は現場の知識創造の革新を語らずに、大所高所のマネタリーなマクロマネジメントの話ばかりをする人の意見がどうしても信用できない。
資本規模の巨大な少数社になって、スケールメリット追求のあまりビジネス文化やその成果である商品文化やサービス文化までが画一化してしまえば、多様な顧客の期待や満足はどうなるのだろう。さらに、何かユニークな物事を創造しては世の中に送り出すことに生き甲斐を見いだしてきた就労者たちは、何を喜びとして仕事をしていくというのだろうか。
「タコツボ人間」はなにもメカマニアだけではない。企業社会においてはマネタリーなマクロマネジメントのマニアも多い、というのが私の実感だ。
世界市場では国際競争力を問われるという現実がある。
しかし世界市場は、中国を見るまでもなく、拡大していて、階層格差なり階層多様性が色濃く反映するようになった現実もある。
かつて、日本の農業は大規模農業化しないと国際競争力が高まらない、とか、中央集権的な管理統制のために減反政策が押し進められるなど、現場の知識創造とは無関係の思潮が当たり前のように受け止められていた時期がある。しかし今やどうだろう。確固たる農業ヴィジョン、農業文化を維持した小規模農家が中国人ハイソサエティ向けの安全野菜や高級果物を輸出している。
私は、それがいくらグローバルに通じる価値観だとしても、一元的な価値観ですべてを画一的に扱い均質化する類いの論は、政治にしろ、経済にしろ、文化にしろ、時代に逆行しているように思う。
私たちは、今一度、立ち止まって、企業は社会においていかなる存在であるべきかを考え、存在の仕方を改めて熟慮すべき時代に入ったのではなかろうか。)