日本の独自性の源泉をレビューする(4/5) |
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http://cds190.exblog.jp/6705607/
からのつづき
<自他の未分化性>という日本人と日本文化の独自性
<自他の未分化性>とは、心理学用語で幼児の自己中心性のことである。
「幼児においては、自他が未分化な為、 自分の視点や経験を中心にして物事を捉え、他人の視点に立ったり、 自他の経験を相対化したり、自他の相互関係を捉えて判断することが難しいことを表す」
よって、日本人の特性として指摘する場合、往々にして欧米的な大人ではない幼児性を批判することが多かった。
欧米的な批判はロジカルになされる。
幼稚な人間は以下のような3段論法をしてしまいがちだという。
(1)Aさんは「X=Y」と言っている。
(2)自分は「X=Z」と思っている
(3)従って「X=Z」と思わないAさんは間違っている
この場合、(2)の自分の知識・価値判断・感覚を根拠に、(3)の周囲の判断をしてしまっている。
これが「自他が未分化な為、自分の視点や経験を中心にして物事を捉え、他人の視点に立ったり、自他の経験を相対化したり、自他の相互関係を捉えて判断することが難しい」と批判されるべき展開だ。
しかし、日本人の発想思考やその成果である日本文化に、このような幼児性があるという批判は当らない。
外国人が日本人の発想思考を理解できない原因を幼児性に求めたり、日本人自らが自分たちの発想思考プロセスを近代合理主義的なロジックで説明できない原因を幼児性に求めるのは、じつはそれこそが幼児性を示す(1)(2)(3)の幼稚な三段論法である。
三段論法のロジックは因果律(原因Aが結果Bを現象させる)にある。
しかし、物事を共時性(現象Aがある時、現象Bもある)でとらえる発想思考そして文化もある。
さらに日本の特徴は、因果律と共時性を渾然一体にする縁起にのっとることで、以下のような偶有性(AであってもいいがたまたまBである)でとらえる発想思考そして文化である。
(1)Aさんは「X=Y」と言っている。
(2)自分は「X=Z」と思っている
(3)きっと「X=Z」と思わないAさんと自分は縁がないのだろう
(4)あるいは「X=Z」と思わないAさんと自分が縁を結べば何か新しいことができるのかも知れない
三段論法ではなく、「起承転結の物語にしていく発想思考プロセス」だ。
仮にどちらも幼児性だとしても、前者は「決定論の幼児性」であり、後者は「可能主義の幼児性」である。
現代で言えば、画一的なグローバリズム一点張りの幼児性と、無定見に文化多元主義を夢想する幼児性くらいに両者は真逆のものだ。
後者は、日本人が古来、外来文化を導入し自分流に再編してきたやり方であり、様々な文化を等価に隣接させ相乗的に進化なり深化させてきた過程に他ならない。
そして後者のやり方や過程こそが、前項(1/5)で検討した「内発的動機づけと日本の独自性の源泉とが関わる『集団位相』」である。
ただ惜しむらくは、私たち日本人はそうした対外的な特徴を意図的に目的とした訳ではなく、よってたかって自由奔放にやってきたらそうなってしまっただけ、ということである。
日本の独自性であるこの「集団位相」の源泉には、状況やその対応を縁起にのっとって(悪く言えば成り行き任せの)「起承転結の物語にしていく発想思考プロセス」がある。
それは「見立ての物語化」と「見立てプロセスのゲーム化」として捉えられる、と私は考えている。
そして、この両者の意味内容と記号表現の網の目が縦横無尽に張り巡らされた日本語と日本文化という、高度に文化化された神話的時空である「劇場空間」において、共同出演者としての個々の主体が(追って解説する著者が指摘するような)<自他の未分化性>を「お約束」としてきた、そういう日本人の共同幻想を捉えたい。
本項(4)では、このような観点から、本書の内容を検討していきたい。
日本の企業および企業社会において<自他の未分化性>は重要なテーマである。
それを、決定論的にネガティブに捉えるのか、可能主義的にポジティブに捉えるのかで、人材個人も職場組織の状況や可能性もまったく違ってくる。
著者は、中華経済圏のビジネスマンと日本企業の現地法人関係者の以下のような発言を引用している。
アメリカ企業で二十数年働いて日本企業に三年、以後台湾や香港の企業で働いた経験のある日本人ビジネスマンの発言
「日本の企業は専門家を養成しないんですよ。くるくると部署をかえては広く浅く体験させて、平均的な力をもったゼネラリストを養成しようとする。アメリカや香港のビジネスマンは会社を頻繁にかわりますが、それは常に自分の個人的な能力を生かせる場を求めるからです。会社をかえても仕事をかえるわけではないんです。彼らが身につけたいのはある職種に対する専門的な力であり、その力を発揮すればするだけ、高い給与が得られるし昇進も約束される、そういう実力主義優先の場を求めているんです。日本企業はそうした要求に応えられていないんです」
日本人ビジネスマン氏のいう「実力主義」とは、正確には個人がある業務ユニットを「自己完結する実力主義」ということで、ある業務ユニットをこなす個人として「交換可能な人材像」を前提していて、明示的な「ある特定の専門分野のエキスパートとしての実力主義」である。
改題された本書の元本が1998年に出版されてから10年の月日がたつ今(本論執筆2007年現在)、多くの日本企業は組織制度を機械論化した上で、技術職や企画職を含む組織全体で、前述した意味合いの「ある特定の専門分野のエキスパートとしての実力主義」を徹底した。結果、組織が機械論化し、機械の歯車のような人材個人および集団の知識創造が画一化し、そのアウトプットであるプロダクトが業界横並びの似たり寄ったりになっている。
(家電量販の店頭に並ぶ商品が典型である。極論すれば、消費者からすれば大して変わらぬ製品ならば一社で十分なのだから、市場の原理として供給過剰や低価格化競争が起こって当然である。私は日本のデフレが止らないことには、送り手側(企業だけでなく公共事業体も含むすべてのプロダクトの供給者)の知識創造が画一化しそのアウトプットが横並びになって多様な選択可能性を失っているという定性的な側面が重大に働いていると思っている。)
また営業職そして企画職については、歯車と歯車の新しい噛み合わせを考えたり実現するタイプのリーダー的人材が育ちようがなくなっている。
「ゼネラリスト=平均的な能力の寄せ集め人材」と短絡して全否定したために、「職能や部門を横断するユニークな再編能力のあるゼネラリスト」までが否定されてしまったからだ。
(衰退著しい家電メーカーの場合、組織制度としては、<モノ割り縦割り>を効率化すべく、事業部制からカンパニー制に移行するところが10年前には多かったが、最近はその弊害から、もとの事業部制に戻すところが出てきている。
今や競合横並びのレッドオーシャン市場を脱するブルーオーシャン戦略を導くために、メーカーならばハード〜システム、ソフト〜コンテンツ、オンウェブ・サービス〜ソリューションを三位一体化させて<コト割り横ぐし>で「職能や部門を横断するユニークな再編能力のあるゼネラリスト」が水平的に活躍することが求められている。
このことは、メーカーの技術職に関して言うと、
これまでメーカー内の歯車として展開してきた開発から設計そして生産に至る垂直軸の「ある特定の専門分野のエキスパートとしての実力主義」と、
すでにメーカーや業界の外の広い世間で発展してしまっているオペレーション・ソフト、アプリケーション・ソフト、オンウェブ・ネットワークといった水平軸の「ある特定の専門分野のエキスパートとしての実力主義」とを、
恊働すべき人材問題としてどう対応していくかという課題に帰結する。
後者を社内部門として拡充するにしてもアウトソーシングで対応するにしても、いずれにせよ水平軸の「職能や部門を横断するユニークな再編能力のあるゼネラリスト」による全社的観点からのコーディネートが求められる。)
上海の日系企業に勤める30代の中国人男性の発言
「日本人はすぐ協調、協調というでしょう。
でも、具体的な協調関係のあり方については必ずしもはっきりしていない」
日本人同士の間で機能している「可能主義的な意志」が、外国人からみれば「可能主義的な幼児性」にしか思えない。
なぜなら、具体的な協調関係は具体的な目的と目標を共有する意志によって成り立つ、と共時性にのっとった<意>起点の発想思考を特徴とする中国人は考える。
ところが、縁起にのっとった<情>起点の発想思考を特徴とする日本人は、たとえば「いいモノづくりをしよう」という抽象的な目的を共有して、それを達成するために目指す目標については決め込まないで個々に任せたり成り行きで捉えていくからだ。
(但しこれはバブル崩壊後しばらくまで標準とされてきた日本型経営の話で、それを全否定してグローバリズムにのっとり組織を機械論化し人材を機械部品化した企業では話は違っている。因果律にのっとった<知>起点の発想思考を特徴とする欧米人特にアメリカ人にならって、人間論的な協調はいわれず、実質的には機械論的なノルマ達成のみへの専念がいわれるようになっている。そこでは「協調」という言葉が使われたとしても、その意味するところは与えられたノルマ以外のことはするな考えるなという「機械の部品に徹しろ」であって、正確には「滅私」ではなく「滅人間」である。)
「だから(筆者注:外国人にとっては)、協調という言葉が一種の行動規制みたいに働いてしまって、個人が死んでしまう。日本的集団主義というのは、どう考えても滅私だと思いますね」
(本書は、バブル期の1998年に出版された「日本が嫌いな日本人へ」を改訂・改題したもので時代的に、この中国人ビジネスマン氏の発言は、バブル崩壊後に日本型経営が全否定される前のまだ日本の会社一般に共同体性があって組織と人材が人間論的であった時代のものである。
また、この中国人ビジネスマン氏の語る「日本的集団主義」観は、かつて朝鮮半島や東南アジアに進出した日本軍が神社を建てて参拝を強制したことに対する現地の人々の印象と似通っている。彼らのほとんどは鳥居をくぐって本殿に参拝するものの、いったい何を拝んでいるのか分からなかった。仏像やキリスト像のような明示的なものがなく、さりとて偶像崇拝を拒むイスラム教のように経典がある訳でもない。しかし彼らは「滅私」を強いられているということだけは確かだと実感したのだった。)
日本人にとっては、とにかくみんなで切磋琢磨して頑張って、たとえばいいモノづくりをしたり、お客様は神様です、とお客様を大切にしたりしていけばみんな幸せになるということが、誰もが自然体で抱いている情緒であり信仰である。
そして、そこさえ組織の一員が全員一致していれば、あとはいろいろあるだろうがいい方向に向かう。そして終わりよければすべて良しだという楽観がある。
これは、神道の信仰と構造的に重なっている。
自然を神とし八百万の神を大切にする、日本人だろうが皇民だろうが共和すべき五族だろうがそこさえ全員一致していれば、あとはいろいろあるだろうがいい方向に向かう。そして終わりよければすべて良しだというのと同じだ。
神道の本義は日常的なエコロジーの実践だから、そこさえ全員一致していれば、あとは自然災害がいろいろあるだろうがいい方向に向かう、というのは楽観ではない。だが、国家神道が選民思想と結びついて帝国主義を正当化するとなると話は違ってくる。先の戦争で民族国籍を問わぬ多大な犠牲者を出し国内の主要都市が焼け野原になったのだから、そのような楽観は決して許されまい。
いいモノづくりは、それ自体はより高い新価値を創造していくことなのだから悪い訳はない。しかしそればかりに専念して、それで利益を安定的に維持向上するビジネスモデルの構築を怠ったことが、バブル崩壊以降の日本の大手メーカーの経営悪化や凋落に繋がったことは明らかだ。いいモノさえつくれば売れるという楽観も、世界最大級の戦艦大和をつくれば戦争に勝てるという楽観と同様にもはや許されまい。
このような情緒的な楽観を日本人は受け入れてきたし、ひょっとするとまだ今も受け入れようとし続けているのかも知れない。
しかし、歴史や伝統や思想の異なりによって根本的なパラダイム(考え方の基本的な枠組み)が異なる外国人や異民族までが、この種の楽観を同様に受け入れることはあり得ない。
「その点、欧米の企業は個人の責任の範囲を明確にして、そのうえでシステムとしての協力関係を説きますから、ずっとわかりやすいし合理的だと思います」
この中国人ビジネスマン氏の発言の主旨は、欧米企業が欧米人社員を管理してきたやり方が、明示知を基軸とする低コンテクストなもので文脈依存性が低く分かりやすい、ということである。
このこと自体に間違いはないが、私はもどかしさを禁じ得ない。
なぜなら、明示知基軸の低コンテクストな働き方やビジネスモデルは、その合理性ゆえに合理性を徹底していく訳だが、容易に組織の機械論化と人材の機械部品化という非人間論化に行き着き、会社と社会から共同体性を奪っていくからである。
一方、人間論的な組織と人材を前提にした共同体性を温存した会社が、仕事仲間や深い信頼関係にある顧客の暗黙知と身体知を尊重した高コンテクストな働き方やビジネスモデルを成功裏に展開している。企業やNPOや公共事業体が社会の共同体性を維持向上するという目的やヴィジョンをもつならばこちらの方を尊重すべきだろう。
そのような会社や社会が夢物語でなく実現可能であることを、モノづくり(ハードとそのシステム)だけで事足りた戦後昭和の時代に証明したのが、まさに日本型経営だった。ちなみに、日本が「もっとも成功した社会主義国」と言われその通りだったのは、共同体性をもった日本型経営が企業社会の標準となった時代のことであり、それが崩壊した後は非正規社員の拡大とともに「アメリカ型の自己責任一辺倒の資本主義国」に近づいてきている。
この中国人ビジネスマン氏の発言は日本型経営が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で賞賛されていた時代のものなのだが、日本型経営の美質に気づいていないし、グローバリズムの非人間性を予感していないから、私はもどかしいのである。
そしてその主旨はつまるところ、かつて列強商人に買弁として仕えた華人(華僑などの国際派の中国人)の見識となんら変わらない、とも思うのである。
買弁となって列強商人に仕えた中国人は、国や民族がどうなろうと知ったことではなかった。あくまで自分と親族が国際情勢に対応してサバイバルしより稼ぐことができればいいと考えるタイプの知識労働者であった。彼らの考え方は、現代のグローバリズムを無条件に受け入れてグローバル・ビジネスパーソンを自負する者と同じパラダイムである。
ほんとうはここで、
欧米的な合理性とは違ったパラダイムの人材観・組織観もあるのであって、それはそれで有効なのだ、
と私たちは胸をはって説明できなくてはならないのだが、できないでいる。
私たち日本人が自分たちの道理の煮詰めをせずにそれを外国人に説明することができないでいるのは、戦前や戦中の昔からのことで、戦後数十年たった今でも同じである。
そんな私たちとは対照的に、第三者的な立場にある著者は、華人たちの話を聞いていて韓国人との共通性を感じた上で、このように解説する。
「韓国人にとっても華人にとっても、集団とはまず第一に血縁集団(宗教)であり、この血縁集団の維持・発展のためには、おおおいに協調の力を発揮する。中国や韓国の農村は、歴史的にこうした血縁集団の内部で人々の情緒的な関係を育んできた。
この伝統からすれば、血縁の外での集団関係は、あくまで契約関係、制度上の関係(筆者注:明示知基軸の低コンテクスト)なのであって、本当の意味での人と人との協調性(筆者注:人間論的な組織と人材)を期待すべきではない。それぞれバラバラな個人が、制度的な約束事を承認しあったうえで協力関係(筆者注:機械論的な組織と人材)を結ぶ。それ以上のものではない。この点が、欧米的な個人主義・契約主義・能力主義などを受け入れやすい基盤となっている」
「日本人の場合は、古くから非血縁共同体で村落を営み、そこでの情緒的な関係を育んできた長い歴史をもっている。
この伝統からすれば、会社などの社会集団には、とくに契約的な意識や制度的な意識なしに、スッと入っていくことができる。ひとたび一個の会社に入ったとなれば、自然に集団への帰属意識が生まれ、会社という集団の発展のために協調して仕事をしようとする(筆者注:「場」の暗黙知と身体知を基軸とする高コンテクスト)」
こうした落差を理屈で分かっていても実際面でどう対応していいか分からないのが日系企業の悩みだという著者は、以下のようなヒントをくれる。
「彼ら(筆者注=中国人や韓国人)の個人主義は、欧米的な個人主義ではなく、非血縁者の他者との協業関係への不安からくる個人主義なのである。彼らは自分の権利ばかりを主張し、義務や他人の権利に無頓着な傾向が強いと指摘する日本人ビジネスマンが多いのも、彼らの個人主義が近代的な個人主義とは異質なものであることを物語っている」
一方、
「欧米の企業でも、しだいに集団内部の協力関係を生み出すにはどうしたらいいか悩みはじめてきている。共生・和・ボトムアップなどをテーマに、日本式のグループ活動を導入する欧米企業も増えてきている。(中略)
私の考えでは、日本的な企業システムとは、アジア的なものと西欧的なものとの絶妙な組み合わせから生み出された独創的なものであって、いまだ有効性を失ってはいない」
(バブル崩壊後の改訂時に著者がこのようにおっしゃってくれたのは有り難いが、2016年の本論改訂時には残念ながらすべての日本企業に当てはまる話ではなかったことが明らかになりつつある。
要は、「日本的な企業システムとは、アジア的なものと西欧的なものとの絶妙な組み合わせから生み出された独創的なもの」ということを自覚して意識的に経営戦略を構築したエクセレント企業と、たまたまそういうやり方をしてきただけの企業の2通りあったのだ。
自覚的に日本型の美質を現代化・国際化した企業は数少ない例外で、長引く平成不況にむしろ世界企業としてより成長した。しかし、日本型経営をしてきた企業の大方は、短絡的に日本型経営を全否定し、アメリカ型のグローバリズムへの対応と称して誤った組織の機械論化と人材の機械部品化を進めてかえって経営を悪化させたり破綻させたのである。
この点で、トヨタ、キャノン、イトーヨーカ堂(IYグループ)が終身雇用を崩さずに実力主義を国際レベルで強化したことは象徴的だ。
そして、「アメリカ型経営」を金科玉条のごとく掲げ短絡的な「モノ割り縦割りの選択と集中」を行い、人材戦略を伴わなない希望退職を募る形の大雑把なリストラを繰り返し、身の丈に合わない巨額設備投資の競馬で言えば単勝一点買いの大ばくちに走った企業が、最終的に吸収合併の憂き目にあっている。それらはすべて、モノクロニックにモノづくりばかりに執着しマネタリーなマクロマネジメントを偏重する前時代的な算盤経営でありその当然の帰結だった。
むしろ堅調であり発展が期待されるのは、バブル崩壊後の長引く平成不況を経て起業したベンチャー企業である。彼らは、かつての慣習化に過ぎなかった日本型経営とアメリカ型のグローバル経営の好悪得失を冷静に踏まえて、現代の日本社会や世界市場にふさわしい自分流の新たな日本型経営を摸索し実践していっている。)
企業社会における<自他の未分化性>のポジティブな可能性
私は本論冒頭でこう述べた。
「日本の独自性であるこの『集団位相』の源泉には、状況とその対応を『起承転結の物語にしていく発想思考プロセス』がある。
それは『見立ての物語化』と『見立てプロセスのゲーム化』として捉えられるのではないか」
それは抽象的な表現だが指し示すことは具体的である。
たとえば、トヨタ流のクルマづくりとホンダ流のクルマづくりは、生産体制という明示知だけ見れば大枠として大して変わらぬ枠組みにある。しかし、クルマづくりの思想から現場の集団恊働までの暗黙知と身体知を比べていけば大いに異なるだろう。だからアウトプットのクルマもトヨタとホンダでは違ってくる。
それは「オタクの感受性」の異なりが「見立ての物語化」を異ならせ、「群れ遊びの仕方」の異なりが「見立てプロセスのゲーム化」を異ならせるためである。
「そして、両者の意味内容と記号表現の網の目が縦横無尽に張り巡らされた日本語と日本文化という、高度に文化化された神話的時空である『劇場空間』において、共同出演者としての個々の主体が<自他の未分化性>を『お約束』としてきた、そういう日本人の共同幻想を捉えたい」
これも抽象的な表現だが指し示すことは具体的である。
トヨタの五回の「なぜ」を自問自答する「なぜなぜ分析」。
ホンダの役職や年齢、性別を越えて気軽にワイワイ ガヤガヤと話し合う「わいがや」。
ともに自社の流儀として社内で発生した知識創造方法であり、一般にも普及した知識創造文化である。
競合他社とは際立ったアウトプットを出す企業は、たいていこうしたオリジナルの知識創造方法を社内で発生させ成熟させている。
そして主要な社員同士の対話や恊働の「場」において自社流の知識創造文化を尊重することが「お約束」になっている。
「場」は意図的に「劇場空間」とされることもあり、そこで社員は「お約束」を守る恊働出演者として言動を方向づけられることになる。
テレビCMになった再春館製薬の「認識一致の太鼓」はその分かりやすい例である。
それは「全社員に、取り急ぎ共有したいことがあったとき、メールではなく、直接顔を見合わせて、思いもふくめて伝えることで、全社員が同じ思いで行動ができる」という考え方によって生まれたという。オフィス空間の中央に太鼓を鳴らして集合する「場」が設けられている。
ここで、
私のいう「見立ての物語化」と「見立てプロセスのゲーム化」、
両者の意味内容と記号表現の網の目が縦横無尽に張り巡らされた「劇場空間」という共同幻想
というものと、
呉善花氏が日本人に見られる<自他の未分化性>についていう
「日本人の精神性が主客未分離な状態にある」のではなくて、
「日本人の精神性が主体と客体に分離できない領域への強いこだわりがある」
ということとが表裏一体に重なる。
「主体と客体に分離できない領域」とは、主体と客体との間の「間」であったり、主体と客体が居合わせる「場」であったりする。
それはまた「ソフトアニミズム」や「オタクの感受性」を媒介するものでもある。
(参照:「日本的精神と日本人の対話フレームワーク」http://cds190.exblog.jp/3678652/)
世界に評価される大手から中小零細までの日本の会社の場合、
何らかの「日本人の精神性がこだわる主体と客体に分離できない領域」を媒介に「ソフトアニミズム」や「オタクの感受性」を独自の人材資源・文化資源として活かして理想的なオンリーワン企業になっていて、
その有り方に共鳴する人々がそれぞれの持ち場でヴィジョンを念頭に創意工夫を切磋琢磨していく
ということが「集団位相」において成功裏に実践されてきていることが共通している。
ここで私が「オタクの感受性」という言葉で表現するのは、「人間論的な自分なりのこだわり」であり、オタク同士はお互いのそれをたとえ違いがあっても認め合う、いなむしろ違いを楽しみ合うという人間関係についての感受性をも含んでいる。
ここは微妙だが重要な点なので少しく詳述したい。
たとえば、学者とオタクは似て非なるものである。まず学者は仕事であるがオタクは趣味である。オタクは基本、内向的(内的世界の価値観で外的世界を見る)なので、学者のように社会の権威やそれによる序列にまったく頓着しない。権威というものは分野を前提するが、オタクは既成の分野を踏まえない。学ぶ場合は自分の好奇心の赴くままに雑学する。学界であるような論争は知識として興味をもつが学者のようにそれに参戦しようとは思わない。
一方、オタクと似非オタクとの違いも重要だ。オタクは、知りたいことをできうる限り知った上で自分なりのアイデアや好みをもつ、披露はするが特段、万人や権威に認めてもらいたいとは思っていない。分かる人には分かってほしい、面白がる人に面白がってほしい、とだけ思っている。そうするとオタク同士は楽しみが増すからである。似非オタクは、言わば学者やプロの専門家の成りそこねである。自分のアイデアや好みを他者に押しつけたり論争したりしてオタク本来の楽しみとは縁遠い。本来のオタク同士の人間関係のような対等を前提とせず、他者に対して感情的な優位に立つことにこだわるためである。似非オタクは本質的には外向的(外的世界の価値観で内的世界を見る)である。
オタクは、職人的なエキスパートになるにしても、プロデューサー的なゼネラリストになるにしても、機械部品のような交換可能な存在とはならない。
なぜなら、その人の(前述したような意味での)内向的な人となりがその人ならではのこだわりや思い入れの有り方に反映しているからである。
単なる技能の優秀者は必ずしもオタクではない。単なる敏腕プロデューサーも必ずしもオタクではない。技能の優れないあるいは優れない段階のオタクもいるし、プロデュース能力の稚拙なあるいは稚拙な段階のオタクもいる。
つまりは(前述したような意味での)内向的な「人間論的な自分なりのこだわり」をもって事に望んでいる者がオタクなのである。
たとえば私自身の経験を話すと、私は独立当初の30代、マーケティングというジャンルのプランナーと呼ばれる仕事に多く関わった。その際、日本マーケティング協会の理事をされていた某メーカーのマーケティング部長に公私ともにいろいろよくして戴いた。氏は、私が20代後半、ディスプレイ企業に在籍していた時プロデュースした日本経済新聞社主催の見本市のテーマゾーンを見て、広告代理店を通じて私に連絡をとってきた。それがその後の長いおつきあいの始まりだった。
端的に言って、氏は「マーケティング・オタク」だった。喰うためにその仕事をしているのではなかった。好奇心にかられそれを満たすために仕事をする、そういうタイプの人だった。彼は自分の勤める会社の仕事ばかりでなく、自分の好奇心にひっかかる物事に貪欲にかつ俊敏に対応した。たとえば、世間で旭山動物園が話題になる前に氏は単身、北海道へ飛び園長にあって話を聞きに言っている。長い熱弁を聞かせてもらった話を私は氏から直後に聞いている。氏は、私と知り合って勤めていたメーカーの仕事やその業界の仕事を一緒にするようになってしばらくて、コンサルタント会社にヘッドハントされやがてコンサルタントとして独立した。氏は多方面から相談を受け、私も面白いと思ういろいろな案件を私と一緒に取り組んだり私に紹介したりしてくれた。
じつはその一つが、氏が某メーカーのOBとしてやっていたその企業研修で、私は人材育成というジャンルの仕事(「コンセプト思考術」の研修)もするようになったのである。某メーカーの人材開発子会社には氏と親しい「人材育成オタク」の人がいてやがて社長になる。私はその人とも新しい取り組みをしたり、他業界のメーカーの企業研修もするようになった。
「マーケティング・オタク」の氏も「人材育成オタク」の人も、何がオタクかと言えば、仕事を趣味として楽しんでいてたとえ稼ぎにならなくても好奇心の赴くままに自分流の研鑽を重ねていることだった。
類は類を呼ぶということだろう。気がつけば、私自身もこのようなブログを媒介に日本型の集団独創を雑学し続ける「日本型集団独創オタク」になっていた。
「オタク」という言葉は、「オタク」と呼ばれるようになった者同士が互いに相手のことを「オタク」と呼び合っていたことから造語された。
「オタク」というと部屋にこもって好きなことに没頭しているイメージがある。確かにそういう生活をしているオタクは多いのだが、そういう没頭者同士だから分かる物事をテーマに「好奇心をかり立て合うオタク同士の交流」をしている、ということが大前提になっている。
私は、
日本人は「好奇心をかり立て合うオタク同士の交流」を
「群れ遊び」の徹底によって自然体でやってきた
と
日本人の一般的な「集団位相」の特徴を捉えている。
「群れ遊び」とは、哺乳類の子供の狩猟学習であり、未開部族の青少年の通過儀礼前の社会化学習である。世界各国で昔からある子供たちの家の近所遊びであり、極めて普遍的な人間集団の本源的資質の一つである。
ただ日本人に特徴的なことは、大の大人が仕事でまで「群れ遊び」を徹底してきた、ということなのである。
(参照:「日本人の脳の働きの特殊性とその発揮による集団独創(2)」http://cds190.exblog.jp/20809949)
以上述べてきた、
「日本人の精神性がこだわる主体と客体に分離できない領域」を媒介に
「ソフトアニミズム」や「オタクの感受性」を
「群れ遊び」している
という文脈が分かりやすい典型例を、国際展開する企業ではない事例で紹介しよう。
それは劇団四季である。
ミュージカルの劇団四季が中国人や韓国人の劇団員を採用し中国や韓国でも興行していることは、日本型集団独創の国際化という観点からみてじつに示唆に富む。
役者たちは劇団四季ならではのどの演目をどのような演出に従って演じればいいかという「お約束」を完璧に理解して実践している。そして中国や韓国の劇団四季ファンを満足させることに成功している。
こだわりあるオンリーワン企業として、こだわりある人材を確保育成し、こだわりあるカスタマーを集客維持することの国際的な事例に他ならない。
注目してもらいたいのは、
劇団四季では欧米の劇団とは異なる日本的集団主義が展開している訳だが、
前述した中国人ビジネスパーソン氏のような「協調という言葉が一種の行動規制みたいに働いてしまって、個人が死んでしまう。日本的集団主義というのは、どう考えても滅私だ」といった反応がないことである。
当たり前のことだが、そもそも入団した劇団員は、他劇団に比べて際立った劇団四季色に染まりたいという思いで入ってきている。
こういうことは日本では他にもある。たとえば宝塚に入団した劇団員も、他劇団に比べて際立った宝塚色に染まりたいという思いで入ってきている。
無論、普通の劇団にも個性はある。しかし、文学座を受けて落ちたが青年座は受かったので入団した、という劇団員も多い。彼らの場合、劇団員にとっての劇団の交換可能性、そして劇団にとっての劇団員の交換可能性が高いということである。海外のクラシックの一流バレー団などでも同じことが言える。
よくよく考えると、
日本のクルマメーカー、特にその生産部門には、劇団四季や宝塚と似通った側面がある。
つまりそれらと同じように、人材にとっての会社の交換可能性が低く、会社にとっての人材の交換可能性が低いのである。
クルマ好きの理系大学生が就職試験を受ける。多くはトヨタも日産も受けて受かった方に入った社員だろう。しかも一番好きなクルマは海外メーカーの外車だったりして、この時点で彼らは「人間論的な自分なりのこだわり」という意味の「オタクの感受性」の持ち主では必ずしもない。
しかし入社して会社で働いていく内に、トヨタならトヨタならではの「オタクの感受性」の持ち主の経営幹部や諸先輩に触れて行く。すると彼らに同化する者が出てくる。出世するかどうかは分からないが、「トヨタのクルマづくりオタク」の間では「好奇心をかり立て合うオタク同士の交流」ができる者と看做され、意欲的かつ創造的な恊働を担う仲間になっていく。
そこでは、劇団四季や宝塚に劇団ならではの舞台づくりがあるの同じように、トヨタならではのクルマづくりがあり、その恊働を通じて職能をアップしていく。その職能は基礎能力だけでなく、会社の仲間との恊働を前提にした応用能力もある。そして後者の方が、希少価値があり高付加価値である。
よって、トヨタのクルマづくりのあるジャンルのエキスパートがそのまま日産の同じジャンルのエキスパートとして日産で働けるかというと、トヨタならではの際立ちがあるジャンルほど困難だろう。また、そのことを誰に教わるでもなく暗黙知や身体知として感じ取っているから、トヨタをやめて日産に入ろうとするエキスパートは皆無に等しい。
こうしたことは、大なり小なり、日本の各業界の大手企業間の話でもあるので、少しく正確に論じておこう。
雇用の流動性を増すべきだという議論があるが、まず日本人の集団志向の2タイプのうちの1つ、集団を身内で固める「家康志向」のために、同業界の競合他社に移ろうとするあるいは移れるケースはほとんどない。
さらに、日本人の集団志向の2タイプのうちのもう1つ、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」もあるのだが、トヨタ社員が自由に活動する個人として「人間論的な自分なりのこだわり」という意味の「オタクの感受性」を発揮する「場」を得ている場合、日産に移ろうとすることはまずなく、日産の側が受け入れようとすることもない。なぜなら、それは彼の能力は仲間との恊働によって蓄積され発揮されるものだからである。この点は身一つで勝負する役者との大きな違いである。
結局、業界大手の正社員が競合大手に転職するという雇用の流動性に関して言えば、「家康志向」が量的に阻んでいて、さらにたとえ「信長志向」でその制約を乗り越えることができても「オタクの感受性」が定性的に阻んでいる、ということなのである。
(象徴的な出来事を上げると、ソニーはバブル崩壊後の平成不況でむしろ世界的に成長していた。それが2003年のソニーショックから経営が悪化した。そして2006年に市場を創出し先行していたロボット事業から撤退する。私の見るところの時期を境に、ソニーの社内外で活発だった「信長志向」が排除され「家康志向」に一辺倒化し、それはアメリカ人CEOの就任後の組織の機械論化と人材の機械部品化をともなって決定的になった。
一世を風靡した犬ロボット「アイボ」の生みの親の経営幹部は、その後グールグに移りロボット事業を手がけ、「アイボ」の開発した仲間たちは自分たちで企業した。つまりそれぞれに「信長志向」を堅持したと言える。)
アメリカでは、業界大手の経営者や技術者が競合大手から引き抜かれたりそれに応じたりすることが当たり前に行われている。
前述の日本人ビジネスマン氏が言う「アメリカや香港のビジネスマンは会社を頻繁にかわりますが、それは常に自分の個人的な能力を生かせる場を求めるからです」ということで、集団における能力発揮を最大化させようとする日本人のビジネスマンはその対極に位置する。
これは、良い悪いの問題ではなく、日本の企業社会の特徴としておさえておいて欲しい。
アメリカ企業は「全体と個、主体と客体が分離できる世界」にこだわり続け、その調和を理想として独自の近代世界を切り開き、それが今やグローバルスタンダードの世界となっている。
一方、日本企業は、たとえば「トヨタとトヨタ社員、トヨタとトヨタ・ファンが分離できない世界」にこだわり続けて、その調和を理想として独自の近代世界を切り開いてきている。それはアメリカ流ではない日本流のグローバル化を達成している。
大きな業界の名だたる大手でない中小零細企業でも、同様のことが当たり前に見受けられる。
オンリーワン企業の社員は会社の独自性を自らに同化させ、そんな社員たちが集団独創を会社の独自性に反映しかえすという相乗関係を会社との「間」、会社という「場」に想定している。
そして、オンリーワン企業はそのファン顧客との関係性を尊重しそこから独創のタネを得たり高付加価値なサービスを具体化したりしている。
これは、日本企業は「全体と個、主体と客体が分離できない世界」にこだわり続けているということ以外の何ものでもない。
よく日本はモノづくり大国だと言われるが、
私に言わせれば、日本の本質は「仕事オタクの群れ遊び大国」である。
この本質が、工業や農業のモノづくりだけでなく、漁業の鮮度管理や商品としての品質管理、外食産業、各種サービス業、果てはエンターテイメント・ビジネスまですべての仕事文化をユニークに高度化し国際化させている。
「オンリーワン劇団の劇団員としての集団恊働」の国際的な拠点展開は、世界広しと言えども劇団四季しかやっていない。宝塚は、あくまで日本の宝塚市を拠点としている。宝塚は、歌舞伎の世界に世襲制のところを除いて構造的に似通っていてその女性現代版というニュアンスがある。
この点で注目されるのは、秋元康氏がプロデュースしたAKB48の方式をそのままアジア諸国を拠点に展開していることである。具体的には、タイ・バンコクのBNK48、フィリピン・マニラのMNL48、台湾・台北のTPE48の三つだ。劇団四季の舞台づくりの国際的な拠点展開の、コンサートやCD発売やテレビ出演などの歌謡エンターテイメント版と言えよう。
ここで、<自他の未分化性>の可能主義的なポジティブな可能性が見えてくる。
オンリーワン劇団の劇団員は、そこに属してその理想の実現に邁進する以上、「お約束」を完璧に理解し実践した上で自らの才能や個性を発揮したいと考える。ある演目のある役所である台詞をああ言えば、相手役がこの台詞をこう言う。これは役者Aを役者Bが交代しても成立する。
しかし、それは彼らが機械の交換可能な部品であるということではない。彼らは意志と意欲をもって、オンリーワン劇団でしか果たせない演劇を恊働で成立させるためにそこを居場所としているのである。
グローバリズムが労働者と消費者として前提する自己責任で浮遊する孤立化した個人である訳でもない。そこで食べていかなければ他に行き場がない、だから保身やサバイバルのために足の引っ張り合いでもなんでもする、そういう世知辛い世間や分際にも無頓着な「人となり」として仕事と仕事人生を生きている。
私は、このような共同性がかつての日本型企業にその美質として構造的にあった、と捉えている。
だから、メーカーの生産部門の技術者が営業部門にセールスエンジニアとして配属されても、同じ自社製品への思い入れを維持して顧客に対応することに誇りを持てたのである。そして顧客に触れた体験から得た暗黙知と身体知を生産部門に戻った時に技術者として活かすことができたのである。
しかし、日本の企業社会は大きく様変わりしてしまった。どこかの会社の社員になれる人自体が限られてきて多くが非正規労働者にとどまる時代になった。
今や、一部上場企業で国際市場に対応している企業ならどこでもいい、というのが大学生の高望みになっている。すると就職活動は、かつてのようにクルマ好きがクルマとその関連業界の競合各社を狙うのではなく、各種業界の前述の一流企業を狙う形になる。
つまり会社に新入社員が入ってくる段階で、機械部品的に交換可能な人材に留まる可能性が高い人材が多くなり、「人間論的な自分なりのこだわり」という意味の「オタクの感受性」の持ち主に育って行く可能性が高い人材が少なくなる、という傾向を指摘できる。
私は、この傾向が、日本の特に各業界の大手企業の集団独創力を個性化していた人材というそもそもの根底を揺るがしどんどんアウトプットを横並びにしている、と捉えている。
日本型の集団独創とそれを個性化する根底は、集団の構成員たる人材に関わる<自他の未分化性>の可能主義的なポジティブなあり方である。
<自他の未分化性>は石器時代の<部族人的な心性>に由来するものだが、この主張はけっして時代遅れの夢物語ではない。
むしろ<部族人的な心性>は人類普遍で現代世界の人々の深層心理にも息づいているのだが抑圧されているだけに、そのアウトプットは抑圧から解放させるものとして世界の人々から共感され人気を得たり新たな生活のベーシックとして歓迎されたりする。
世界中に特定多数、劇団四季に入団したいという役者志望者がいて、劇団四季のステージを愛するファンがいるということは、そういうことである。劇団四季で演じることで自らを解放できる人々と、劇団四季を観劇することで自らを解放できる人々が特定多数、世界中にいるということである。
何によって自らを解放することができるかは人それぞれだが、共通しているのは、抑圧は権威的な画一性によるのであって、それからの解放は草の根的な多様性の展開による、ということだ。メジャーなものや権威的なものだけでは解放されない人々がほとんどはないか。つまり解放テーマの総計は星の数ほどあり、かつ管理が高度化する現代世界において個々が日々を生きる上で心理的には切実なものとなっている。
抑圧されている<部族人的な心性>を日本発のものが解放する、それによってメジャーなものや権威的なものとはまったく異なる次元で世界の人々から人気をえてブームとなりブームが世界各地で生活文化として定着するということは、劇団四季やAKBの国際的な拠点展開に限らない。
ジャパンアニメや東京カワイイ系ファッションといったサブカルチャーでも起こっている。日本では大人が通勤電車で漫画週刊誌を平気で読んできたが、日本以外では漫画やアニメは大人になったら卒業すべしという観念があったところに、日本の漫画やアニメをみて幼少期を過ごした若者が大人になっても楽しめるものを受け入れていった。また、ファッションの都パリのティーンエイジャーは、かえってその伝統からロリータファッションなどできない。それが日本にきてロリータファッションで街を歩いても別段白い目で見られることもなく快適だという。こうしたことも社会の抑圧からの解放と言える。
同様のことが、匠の技を世界に評価される中小零細のメーカーや農家の生産品とその得意客との関係性にも見られる。
日本製の優れた道具や工具は顧客が職人であるために適格に評価される。欧州ではギルドに由来する権威主義の職人社会があり、道具や工具は多少不満があってもこういうものという縛りがある。そこに、日本製の不満を解消するものがあるぞっと発見された。それは職人が抑圧していた不満を解放するものとなった。
なぜ日本人はそんな優れたものを自然体で追求してしまうのだろうか。
私は、日本人の「オタクの感受性」と「好奇心をかり立てあう群れ遊び」のためだと思う。
中国の富裕層が日本の農産物を安全でおいしいと国産品に比べて高値でも買っている。安全もおいしさを求めるのはプリミティブな欲求の不満を抑圧して暮らしてきたが、お金さえ払えば抑圧を解放できるようになった。
安全な有機農法やおいしい野菜を安定して生産することも、日本人の「オタクの感受性」と「好奇心をかり立てあう群れ遊び」の切磋琢磨の成果である。
無条件に世界の職人が日本製の道具を買う訳ではないし、日本製の道具ならどこのでも歓迎されるというものでもないのは当然である。無条件に中国の富裕層が日本産の農産物を買う訳ではないし、日本産の農産物ならなんでも歓迎される訳ではないのも当然である。
歓迎されているのは、「オタクの感受性」と「好奇心をかり立てあう群れ遊び」の成果でありそれを体制として維持している供給者によるものである。
「好奇心をかり立てあう群れ遊び」は、必ずしもリアルにオタク同士が対話したり恊働することを前提しない。
主体がああでもないこうでもないと自問自答する形でもいいし、師匠が弟子を指導したり指導しながら学び直す形でもいいし、日本一になろうと仮想の競合者を想定した競い合いでもいい。
日本人の「オタクの感受性」の持ち主は、そういう個人だったり、集団を構成したり、その道の世間を想定したりして、自分流の研鑽を積む傾向がある。
この傾向は個人に帰属する個性のようだがそうではない。
実態的には、この傾向を発生させ維持させているのは自分が帰属する他者を含めた「世間」である。
それは、著者の言う
「日本人の精神性が強いこだわりをもつ主体と客体に分離できない領域」
でもある。
「世間」とは、人間関係の総体であり、日本人は実態的にはそれを「社会」のように捉えて暮らしている。
そして自らのアイデンティティを、「世間」における位置づけである「分際」=「自分」として捉えて心理的に安定する。
一方、欧米人や中国人は超越者(神)なり超越的な原理(天意)と個々が単身向き合う存在として暮らしている。「社会」とはそういう個々の集合であって、よって為政者は超越者(神)から支配権を授かったり超越的な原理(天意)により支配権を剥奪されたりする建前になっている。
日本人はこうした「社会」に生きる「個人」ではないのである。
日本人は、複数の「世間」に生きる複数の「自分」を複合ないし並行した存在として自らのアイデンティティを確保している。
「オタク」も、「好奇心をかり立て合うオタク同士の交流」という人間関係の総体である「世間」に生きていて、そこでの位置づけでしか自らのアイデンティティを確認したり維持したり向上したりすることができない、きわめて日本的かつ人間論的な存在なのである。
(5/5)
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につづく