日本の独自性の源泉をレビューする(1/5) |
新版への序(2007年)と旧版まえがき(1998年) 発
この本は、韓国人の目からみた日本の美点的特徴の評論に定評のある呉善花氏のいまから10年前、1998年の著作だ。
日本の独自性の源泉、そして私が「日本型の集団独創」とするものの源泉を、とても具体的に分かり易く説明している。
私が著者の着眼と評論を重視するのは、それが日本人自身のものではない客観的なものだからだ。しかも、私たち日本人が往々にして欧米との対比において日本人と日本文化を論じてきたのに対して、彼女は東アジアの儒教文化の影響下にある中華文化圏や韓国との対比において論じる。
このことが、日本の独自性の源泉を「農耕以前に遡る深み」において明らかにしてくれるのだ。
本論では、私が「日本型の集団独創」とするものの主要概念を著者がいかに説明しているかを中心に、言わば我田引水的に本書の内容を検討していくことにしたい。
日本人人材を内発的に動機づけることと日本の生活文化の独自性の源泉との関係
まず、前提として以下のことを明快にしておきたい。
少し長い前提知識の解説になりますがご容赦ください。
人材育成において「内発的な動機づけ」が重視されている。
「内発的動機」は、マズローの言う「自己実現欲求」による「成長動機」である場合、とても純度が高い、つまり意志として強く、無理なく永く持続する。
欲求五段階説の他の欲求、たとえば「自我(自尊)の欲求」や「親和(所属愛)の欲求」は、単純化して言えば「いい会社に入っていい配偶者を得ていい家庭を築き、いい家やクルマをもって、子供をいい学校に通わせたい」といった所有や帰属、自尊心の満足と自己の顕示をもたらすものだ。
これらをマズローは、「生理的欲求」や「安全の欲求」のような動物ももっている欲求と合わせて「欠乏動機」とした。
何らかの具体的で明らかな欠乏を補おうとする動機であると言う訳だ。
「欠乏動機」も、「内発的な動機」でありうる。
まず、「生理的欲求」や「安全の欲求」は動物的でほとんど無意識的に発現する根源的なものだからだ。しかし、それが純度が高いためには、生命の危険や飢え死にする可能性がある極限状況かそれを想起させる状況にある必要があるだろう。「お腹がすいたから何か食べよう」といった日常的なレベルでは、それが「生理的欲求」であるにはあるが、すぐに「今日は和食にしよう」などと贅沢が言える、つまり「自我(自尊)の欲求」が入ってくる。
次に「自我(自尊)の欲求」や「親和(所属愛)の欲求」も、誰に言われた訳でもなく、自分の意志でそうしたいのだと本人に言われれば、「内発的な動機」であると言わざるを得ない。意志として強く長く持続するのであれば、純度も高いと言わざるを得ない。しかし、それは往々にして日常会話において他者に発せられる表層の話である。なぜなら、なにゆえ本人がそう思うようになったのかを問うて行けば、けっして「生理的欲求」や「安全の欲求」のように赤ん坊の時からあった本能とは言えない場合が多いからだ。
確かに、「自我(自尊)の欲求」はオスが優性性を訴求してメスを得ようとする本能、「親和(所属愛)の欲求」は猿や羊が群れをなして種の保存を図る本能の延長にはある。しかし、それゆえに根源的で無意識的に作用するものだとしても、ある特定の内容をともなって発現する、その内容によっては純度の高い「内発的な動機」とは言えない場合が多い。
具体的に説明しよう。
交流分析心理学では、5つの自我状態を想定する。
大きく分けて<子供>と<大人>と<親>の3つがある。
<子供>には<FC自由な子供>と<AC順応する子供>がある。
前者が赤ん坊で、後者が親の顔色をみるいい子である。
大雑把に、赤ん坊は内発的であり、いい子は外発的と言える。
たとえば、宇宙船の発射や宇宙飛行士の活躍をみて「僕も宇宙飛行士になりたい!」と子供が目を輝かせて思った場合、これは<FC自由な子供>の自我状態にある。宇宙飛行士になればモテるとか、宇宙航空事業団に入れば喰いっぱぐれがないといった雑念、つまり、そうならなければ何かが欠乏するという感覚はない。
しかしどうだろう。たとえば、代々医者の家系の家に生まれた子供が、幼心ついた頃には子供ながらに「この家に生まれたからには医者にならねばならないようだ」と漠然と思ったり、威厳ある父親が医者として患者に接している姿を垣間みて「僕もお父さんみたいになりたい」と思ったとしたら。この場合、自分がこの家系で医者にならなかった場合に、この父の息子でありながら医者にならなかった場合に、何かが欠乏するであろうことを直感する側面を否定できない。
このようにある動機が「欠乏動機」か、ただ単にそうなりたい「成長動機」か、という判定はじつに微妙であり、さらにそれが内発的か外発的かという線引きも難しい。
しかしそれが、本人意識しようとしまいと、人々の人生において心理学的健康に関わる一大事であることだけは確かだ。
芥川賞作家、藤原智美氏は、「家族を『する』家」ほかの著作において、いい子だった子供が引き蘢りになりそれが20代、30代にまで続いてしまう現代特有の現象の原因として、両親や家庭や近隣からの無言の「あるべき姿」の圧力を指摘している。
たとえば、東京の世田谷区に引きこもりが多いという統計的事実があるのだが、高級住宅地の近隣、エリートコースを歩んで当然とする両親、そうした家庭や地域にふさわしい言動をするべしという暗黙の規律がある。幼少の頃からその規律にたとえ喜々として従っていたとしても、何かの理由で挫折や息切れをした時、はじめて本人は、それまで頑張ってきた動機(欠乏動機)が、けっして内発的とは言えない「外発的動機」だったことに気づくことになる。
(引きこもりとは対照的な海外脱出というものがある。それは、思春期の留学から青年期の遊学や移民そして離婚してたまたま訪れた外国で有意義な活動を始めるなど多様である。そうした結果の様相からすると引きこもりとは無縁なようだが、動機のそもそもの脱出願望という原因だけを取り出せば、家庭なり家族の一員なりあるいは世間の一員としてふさわしい言動をするべしという暗黙の規律からの反抗的な逸脱であり、その点で引きこもりと重なる。テレビなどでは成功した有意義な事例ばかりが紹介されるが、本人自身が有意義とは言えない形で日本に引き返す事例の方が圧倒的に多い。そういうケースも世田谷区に多いのか興味のあるところである。
また、海外の一流大学を単に聴講したり国際組織で無給のボランティアをしただけで卒業した職員であったと経歴詐称する者も有名人をはじめ多い。彼らと嘘偽りなく経歴とする体験をした者には心理学的な大きな違いがある。彼らは「外発的動機」の「欠乏動機」の脱出願望を抱き、帰国後も経歴詐称で「欠乏」を補う形でそれを抱き続けているということである。けっして健全な「成長動機」の持ち主とは言えないだろう。)
「内発的動機」は、欠乏動機でない場合に純度が高く、欠乏動機である場合でも、外発的な意志ではないのだから競争ストレスで疲弊したり息切れする確率はより少ない筈だ。それこそ内発的に軌道修正して無理なく動機を持続させることができるからだ。
よって一般的な経験則としては、
「欠乏動機」は、本人の意志として内発的に見える場合でも、「内発的な動機」ではない
ことが多いと言えよう。
この辺りの「成長動機」か「欠乏動機」か、「内発的動機」か「外発的動機」かの線引きは、じつに微妙で難しい。本人でさえ一生気づかない場合もあるし、欠乏動機と分かっていたものがやがて成長動機に変容する場合、外発的だったものがやがて内発的に変容する場合もある。
そして企業社会における実際問題としては、企業における多様な就労者の多様な自我状態を念頭に個人のそれと集団のそれをよりポジティブで創造的なものとすることが人材育成部門の課題である。
たとえば、もし企業が、「外発的動機」だけで入社してきた人材に対して、その動機だけに対応してそれを助長するならば、彼らがより好条件の会社に転職することを促進することになる筈だ。そして実際に、即戦力や戦力向上を狙うスキル教育ばかりがなされるようになった昨今、その効果が大きかった人材ほどより好条件の会社に転職するキャリアアップを望むようになっている。
一方、かつて日本型経営の共同体性があった頃は、この会社だからこそ自ら内発的に動機づけることのできる<自己実現欲求>の有り方を導き出すことこそ、企業における人材育成の要諦であり理想形であった。その効果が大きかった人材ほど会社やそこでの仕事に誇りをもって貢献した。より好条件の他所を目指すのではなくて、仲間とともに自分の居場所をより好条件にしようとした。
(私は、これは単に研修カリキュラムの問題ではなくて、たとえばある事業が不採算だったり成長性に乏しくても、その会社ならでは人材アイデンティティ形成に資する象徴的な事業であれば、その効果に見合った負担において温存すべきだと考える。単にビジネス効率のいい事業だけを選択し集中していくと、そもそもの創業の理念やヴィジョン、そしてその会社の人材特有のスピリットが希薄になっていく、そういう事例が多々あるからだ。たとえば、ソニーが他社に先駆け先行していたロボット事業から撤退したことなどが上がる。)
ちなみに、私は建築が好きで建築家になるべく建築学科に進んだ。そして現代数奇屋を設計施工している老舗工務店に就職した。そして現場で働いてみてはじめて、自分は建築物を作りたい訳ではなかったことが判明した。なんと私は現代数奇屋が好きで自分が住みたかっただけなのだった。私は頼むなら仕事の確かなこの工務店だと思った。
私たちは、世の中に流布している言葉で物事を考える。つまり、その時の社会が用意している分類用語で考える訳だが、私が社会に出た当時「建築家」「設計者」「施工者」という言葉はあっても、「プランナー」とか「コンセプトメーカー」などという洒落た言葉はなかった。私は、ディスプレイ企業に転職して、そのように呼ばれる職能を生業とし始めた訳だが、その時はその時で、同業者をみて自分が同じことをしているとはどうしても思えなかった。
独立して自分流儀の仕事の仕方をしていって、結局、自分は「建築的に物事を考える人」になりたかったのだと分かったのは40歳を過ぎてからのことだった。自分の他者との違いにこだわりつづけ、それが独りよがりにならないように社会と受発信しながらやってきて、どうやらそういう仕事の仕方があってもいいらしい、自分はそれを自分流にやっていけるのではないか、と思えてきたのだ。50歳を過ぎた今となっては、世間に「建築的に物事を考える人」についての呼称が無いことも、自分の職能を説明するのに窮しはするが気にならない。
私は思春期から建築家になろうと思ったのだが、それは父親が家業の店舗を設計する普請道楽を見て育ったせいだ。つまり最初は、父親を見倣おうとする、あるいは父親を越えようとする「外発的動機」だったものが、紆余曲折を経て、自分ならではの何かを自分流でしたいという「内発的動機」に収斂していったと言える。最近の状態は、それで飯が喰えようが喰えまいがやらずにはいられない、人や世間に評価されようがされまいがやらずには死ねないという類い意志であり、もはや父も家業も、所得も地位も名誉も関係ない<自己実現欲求>になっている。これは人生後半の全人格的な展開であって、幼少期の<FC自由な子供>という自我要素が屈託なく発露した「宇宙飛行士になりたい!」といった「成長動機」とは違う経緯と質であることは言うまでもない。
長くなったが、以上述べてきたことが、私自身のことも含めた内発的動機の「個人位相」の具体性である。
私の場合、実家が「都心型和風カフェ」の先駆けのようなことをしていて、父が自ら店舗設計をする普請道楽だったことが、現代数奇屋への関心を醸成させた。それが紆余曲折を経て最終的には「日本型の集団独創の促進方法論」の実践的究明をライフワークとするようになった。
これは、私という一人の日本人にとっての、内発的動機づけと日本の生活文化の独自性の源泉とが関わる「個人位相」である。
そして言うまでもなく、「個人位相」は百人百様、日本人の数だけある。
私がライフワークとする「日本型の集団独創の促進方法論」の実践的究明において検討したいのは「個人位相」ではない。
私が検討したいのは、私たち日本人一般にとっての、内発的動機づけと日本の生活文化の独自性の源泉とが関わる「集団位相」である。
「知の型」を指し示す典型例としてなかんづく自分が経過した「個人位相」を検討することは重視するが、それは「集団位相」に反映する限りにおいてである。
では、「内発的動機づけと日本の生活文化の独自性の源泉とが関わる『集団位相』」とは、具体的にどのような事柄なのか。
この辺りから、著者、呉善花氏の論述と関わってくる。
たとえば、アキバや歌舞伎町は世界に類例のない街である。
私たち日本人は意図的にああいう街にした訳ではないのだが、日本人がよってたかってやってるとああなってしまったのだ。
浮世絵や漫画、紙芝居やジャパンアニメにも同様な日本独自プロセスがあることは論を俟たない。歌合わせや俳諧などのやりとり、本歌取りやもどきなどなど、近代以前の文学にいたっては同様の日本独自プロセスばかりの観がある。
私は「内発的動機づけ」と便宜的に言っているが、こうした日本人の無意識的で無自覚的な集団レベルの内発的動機がそもそも私たちの生活文化に内蔵されている。つまり集団レベルや民族レベルの話としては、「動機づけ」とは、生活文化に潜在している動機を喚起することで独自の集団創造性を引き出すことに他ならない、と考えている。
すでに個々人や集団や民族が内蔵するものを引き出すとは、具体的には、個々人とその属する集団にそのことを自覚させて、それを展開する「知の型」を提示し、それを自覚的に活用する「知の手筈」を提示し、それを実践しうる「知の場」を用意することである。
決して知らないことを教えるのではないし、できないことをやらせるのでもない。
だから容易くできそうに思えるが、現実はそうはなかなかいかない。
正確に言えば、日本の企業社会において高度成長期からバブル崩壊まで自然発生的にうまくいってきたものが、いわゆる「空白の10年」(2013年現在の加筆修正時点では「空白の20年」と言われている)の間に根絶やしにされてしまった。
その背景を、本書で著者が客観的に説明してくれている。
要は、欧米コンプレックス、近代合理主義に慣れ親しみ、その最終形としてのアメリカ型グローバリズムに遅れまいと汲々とするばかりの体たらくが指摘されている。
自ら日本独自のヴィジョンを自他に示そうとしないことが問題なのだと著者は言う。
私もまったく同感で、同じ問題意識をもって、発想とそのファシリテーションという自分の持ち場において、「日本型の集団独創の促進方法論」という日本の生活文化ならではの独自のヴィジョンづくりのあり方を究明しようとしている。
日本人よ「自分らしさ」に立ち返りヴィジョンを語れ!
著者、呉善花氏は、夏目漱石が開花を振り返った論述、
「今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。・・・・・向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない」
を引用して、
「ここで漱石がいう内発的な開花(発展)とは、『内から自然にでて発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かうのを云い』、外発的な開花とは、『外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取る』ことを指している」
と解説し、漱石の出した結論、
「できるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くのが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方ない」
を引用している。
これは「外発的な開花」であるが、背負ってしまった「外発的動機」を、そのまま受けとめて神経衰弱にならないようになるべく「内発的動機」に転換していきましょう、という話だと受けとめられる。それはイギリス留学中に神経衰弱になり帰国後、日本回帰をする漱石自身の経過に重なる。
著者がこの本の論述を雑誌に寄稿したのは1995年9月からで、翌年1月に発足する橋本内閣がデフレ経済政策を押し進め、消費税率引き上げによる消費不振と景気の急速な冷え込みをもたらした時期と重なる。1991年のバブル崩壊の後の長引く平成不況がデフレ不況として立ち上がってきた頃だ。
本書の論述は元気を失っている日本人に向けて書かれている。当時の選挙ポスターには橋本自民党総裁の言い放った「頑張れ日本!」の文字が踊っていた。
この後、日本は小泉内閣によるいわゆる「耐えるべき痛みのある」構造改革路線が基本的には国民合意の上で押し進められる。そしていま、結果生じた戦後日本人にして初めて体験する格差社会において負け組と称される多数を占める国民が神経衰弱状態になっている訳だが、著者はこうした成り行きを本書で正確に予測していた。
2001年の米国同時多発テロ以降、ネオコンがリードした経済と軍事におけるアメリカの動きは、世界の津々浦々にニューリベラリズムを急激に浸透させた。
いま2007年の日本人は、10年前の1997年当時とは違った意味で、またしても夏目漱石と同じ逡巡や諦観を示しているように私には思える。
著者の日本人に対する10年前の提言はいまも意味がある、というより、より確かな意義をもってきている。
「グローバル・スタンダードを目指す、というところまではいいとして、そこから先の世界ヴィジョンが熱心に論じられることがない。それが私にはおおいに不満である。なぜならば、グローバル・スタンダードを目指すとはいっても、もし(筆者注:アメリカ型の)それだけならば結局のところ、高度成長時代のアメリカン・スタンダードのキャッチアップと同じことではないかと思えるからだ。
私は、日本人がいま、かなり自信を失っている原因はそこにあるのではないかと思っている。(中略)
なぜヴィジョンを語らず、『時代の流れだから仕方ない』という言い方をするのだろうか。(中略)
日本は日本発の世界ヴィジョンをもってグローバル化の波を乗り切っていかなくてはならない。それが、アメリカのキャッチアップと感じられている限り、日本人は日本に自信がもてなくなっている。そういうことではないだろうか」
「少なくともいえることは、いまのアメリカの『勝利』は制度の勝利である。そして、その制度はなんら新しい未来的な制度ではなく、これまでの西欧近代の制度をより徹底させた、近代最後の姿なのではないか。
(筆者注:これを改訂している2016年、すでにアメリカのオバマ大統領は「アメリカは世界の警察官ではもはやない」と宣言している。アメリカ一国大国主義は昔話となり著者の主張が現実になっている。)
言葉を換えれば、ようやく近代世界が限界を迎えた、そういう時代がやってきたということではないか。だから未来はその先にあるのだと、私は考えようとしている。
私がそんな考えをもつのは、日本の中に、西欧近代を超えた未来への可能性を感じているからにほかならない」
前述した代々医者の家系に生まれた子供の話で言えば、漢方医の家系に生まれ時代の変化に即応して西洋医学を学び医者になったが限界にぶちあたった、そして一念発起して漢方医学を近代的に活用する予防医学を実践的に究明するようになる、そんなシナリオになろうか。
「西欧近代の制度の窮極の姿を示すアメリカン・スタンダードは、
現実を主体と客体に分離し(筆者注=会社の仕事の現実を社員という歯車と誰がやっても同じ工程に分離し)、
その『主体の自由』を徹底させた(筆者注=社員を自己責任で浮遊させるべく孤立化させる)リベラリズムだといってよい。
個人という主体、地域という主体、国家という主体が自由に活動できる世界(筆者注=企業という主体が社員と、社員がカスタマーとともに培ってきた精神的かつ文化的な価値などおかまいなしに自由に活動できる世界)を理想としている。
しかし日本は、全体と個、主体と客体が分離できない世界にこだわり続け、その調和を理想として独自の近代世界を切り開いてきたのではなかったか。
日本人がこの理想を投げ捨て、主体の自由を理想とするイデオロギーに乗り換えていくことなど、私にはとうて考えられない」
少なくとも政治思潮の転換点を示したと思われる、今回の参院選の自民党敗退*を思い出すに、以上の論述はそのままその選挙予想であったかのようだ。
(*解説:2007年4月の参院選挙の結果、民主党が単独過半数に迫る参議院第1党の議席を獲得し、参議院議長と議院運営委員長が同党から選出されることとなった。第一次安倍政権が安倍総理退陣で福田康夫政権にかわったが、参議院の首相指名では小沢一郎民主党代表が指名された。)
私のライフワーク「日本型の集団独創の促進方法論」との関わりでは、以下の論述が、日本人からは得難い貴重な示唆となっている。
「日本人は一般に、自己の否定的な評価・反省を通して前へ進む力がとても強い。どこが悪かったのか、どこを直せばいいのかを見抜く力にすぐれている。
しかしながら、どこまでも個性的なものとしてある『内発的な自己本位の能力』を存分に花開かせるには、その個性的なところで肯定的に評価できるのはどこかを見抜く力が必須の課題となってくる」
この課題に真正面から取り組むには、
「コンセプト思考術」研修のパラダイム転換発想のグループ演習の際にインストラクションさせて戴いているように、
某かへのキャッチアップという<従来の目的>に対して<従来の手段>で対応する「改善」と、<新しい手段>で対応する「開発」ではなくて、
独自の世界ヴィジョンという<新しい目的>に対して<新しい手段>で対応する「革新」と、日本の独自性の源泉由来の<従来の手段>で対応する「応用」こそを、
日本人ならではの集団独創プロセスにおいて打ち出していく、
ということが求められる。
新規の目的
応用 | 革新
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旧来の手段------------+------------新規の手段
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改善 | 開発
旧来の目的
以上のような観点と目的意識をもって本書本編を読み直しながら、「日本型の集団独創」に深く関連する「日本の独自性の源泉」を、次項よりレビューしていきたい。
なおレビューにあたっては、本ブログ既出の関連主要記事にリンクを貼り、小生と関心を同じくする方々の独習の便宜を図ることとする。お役立て戴ければ幸いである。
(2/5)
http://cds190.exblog.jp/6703657/
につづく