リーダーシップという言葉以前にあった心のこと(4/5) |
ひきつづき、リーダーシップからみで本書の気になった所を引用して思うところを述べていきたい。
マクロマネジメントのリーダーシップにとって、パラダイム・シフトを見抜いて対応することが不可欠である。
コンセプト思考術の講義では、パラダイムを、「考え方の基本的な枠組み」であり、意識のそれと無意識のそれがあるが、問題性の本質はつねに「無意識のパラダイム」にあると解説してきた。
パラダイムとは、一般的には「社会や集団の中で共有されている支配的な価値規範」のことを言い、それは私流には「意識のパラダイム」に属する。しかし、それがそのまま問題性に直結するのではない。それに潜んだ無自覚的な側面、無意識的な側面が問題性に直結している。
科学史家トーマス・クーンは、既存の支配的なパラダイムを破壊する新しい理論の登場、つまりパラダイム・シフトにより、科学が非連続的に発展するとした。これも「意識のパラダイム」についての指摘だ。
パラダイムの考え方は、科学理論だけでなく、戦争論、ビジネス論でも生きている。
日本のビジネスパーソンの話題としては、戦争論をビジネス論に応用する形で、「日本海軍が大鑑巨砲優位から航空優位、つまりは航空母艦優位へのパラダイム・シフトを見誤ったこと」がよく論じられる。
私もこれに大いに着目するがそれは、そのような<知>的ロジックの整合性やその変容についてではないのだ。
たとえば、2002年10月28日号の日経ビジネスの特集「道路倒産」の「組織が内包する病理-----日本軍、国鉄、道路公団に見る敗北の系譜」という記事のこういう内容に着目する。
「第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の作戦を立案した源田実(故人、戦後は参院議員)は、後に『真珠湾の大勝利で大鑑巨砲の時代が終わったことを海軍の幕僚は熟知していた』と述懐している。
にもかかわらず、変われなかったのは、源田の言葉を借りれば『水兵を切れなかった』からだ。ここでの水兵とは、直接的に言えば兵員と将校だが、より実情に近い言い方をすれば海軍組織全体である。
戦艦から航空機へという変化は単なる装備の刷新ではない。艦隊決戦というそれまで金科玉条としてきた価値観を捨てることであり、海軍の歴史や伝統、教育・訓練、組織序列のことごとくを否定するに等しい。組織の持つ自己保存欲求が、それを拒絶したと言ってよいだろう」
海軍幕僚のリーダーシップが下した判断は、「組織の自己保存」であったのだ。
それは、「日本型の集団独創」の特徴である「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」が悪くでたものだったと言える。
日本国民全体の<情>の深みの普遍性ではなく、海軍組織に属する限られた軍人の雇用、実質的には海軍幕僚の保身意識という皮相的な<情>を起点としたものだったからだ。
私は、このような「過てるリーダーシップを生んでしまうメンタリティ」が、現代の日本人にも息づいていると思う。
当然、私たちが希求すべきは、このような「有りもしない予定調和を求めるメンタリティの惰性から企業全体を果敢に決別させるリーダーシップ」である筈だ。
私が前項(3)で、
「何をおいても『万機公論して決するオープンでフェアなコミュニケーション』を尊重し、これを疎外するようなリーダーシップを認めない」
とした上で、
業界劣位の資本規模や売上シェアの企業にとって合理的である方策の事例として、
(欧米の<知>的ロジックによる、しかもスティーブ・ジョブスという個人のリーダーシップではあるが、)
「もはやパソコンのハードとかソフトの時代ではないことを前提に、次世代に向けた事業革新の先手をとった」「<Mac←iPod→IPhone>のようにモノ分類横断的な『コト分類の選択と集中』の方策」
を取り上げた意図もここにあった。
本論では、このような観点から、明治維新を導いた西郷の遺訓を、現代の私たちの問題にひきつけて検討していきたい。
「広く諸外国の制度をとり入れ、文明開化をめざして進もうと思うならば、まず我が国の本体をよくわきまえ、風俗教化の作興に努め、そして後、次第に外国の長所をとり入れるべきである。
そうではなく、ただみだりに外国に追随し、これを見習うならば、国体は衰え、風俗教化はすたれて救い難い有様になるであろう。そして、ついには外国に制せられ国を危うくすることになるであろう」
業界最大手の巨大企業にとって合理的な「モノ分類の選択と集中」の方策を、アメリカ型のグローバルスタンダードを理由に、劣位企業までが追随的に専念することに、この遺訓の予測をそのまま当てはめることができよう。
稲盛さんは国についてこう論じる。それは企業においても当てはまる。
「求められているのは、半年や一年という短期の時間軸ではなく、『国家100年の大計」、日本というこの国をひとつの時代にあたり、どういう方向へ薦めて行くのかという明確な方向性です。
大計なく、思いつきでいかにも対症療法的な施策を打っていると、国の将来は危うい、といっているのです。これは、現代の政治についてもそのままあてはまる、とても大事なことだと思います」
先日みたNHK番組「証言記録 兵士たちの戦争『マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法~鈴鹿海軍航空隊』」では、「皇国の興廃この一戦にあり」のZ旗を掲げた海戦において、作戦の根幹であった日本海軍艦載機の航続距離の長さを生かした「アウトレンジ戦法」が、高度なレーダーと無線で防空部隊を集合させることができ、近接信管により高い艦隊防空能力を誇っていたアメリカ海軍の前にまったく機能しなかったことが紹介されていた。
これを見れば誰もが、「アウトレンジ戦法」は日本側のパラダイムでは最善で勝利必須のものだったが、アメリカ側のパラダイム自体が日本のそれを凌駕していたことを、具体的に理解できる。
しかし、今でも、この作戦がフィリピンの艦隊集結しての海上演習地含めて日本軍司令官の拿捕によりバレていてその報告がなかったことを敗因とする論はじめ、やりようによっては勝てたとする論がある。あるいは、当時の状況としてはそれが最善の判断だったとし、それを最善としたパラダイムについては等閑視する人たちもいる。
私は、前述した「大鑑巨砲主義を捨てられなかった」というパラダイム・シフトを怠ったことが、すべての既存パラダイムを前提とした対症療法的施策を招いた訳で、そもそもの敗因だと思えてならない。
時代遅れと知りつつの既存パラダイムへの執着の上でいくら合理的とする施策を展開したところで、客観的にはそれは「大計なき、思いつきでいかにも対症療法的な施策」に他ならない。
だから、その正当性を国民や海軍組織に対して維持するには、過てる情報統制が不可避的に必要になってしまったのだ。ちなみに、この皇国の興廃を分けた一戦は、勝利したと報道された。
CEATECというエレクトロニクス総合展が今年も開催された。
今年は行かなかったがテレビで会場レポートをみた。数年前、あるクライアント筋が、ホログラフによるカーナビゲーションのイメージ・モデルを搭載した実車を展示したことを思い出した。私は、会場でこれを見ていて、図らずも来場者の不評の連発を耳にすることになる。時間がたっているから時効としてお伝えすることにする。「見にくいわね」「これじゃ運転できないわね」と特に女性たちの物言いは手厳しい。その点男性は無感動に黙っていたが、何か業界人としての同情のようなものを感じた。
私は「こんな稚拙なイメージ・モデルを搭載した実車を展示する必要があったのだろうか」という疑問を抱いた。当時、ホログラムこそ次世代市場を支える技術だという声が社内で多く聞かれたので、ここまでやってしまったかと思った。運転席方面からしか見ないカーナビ・モニターの場合、3Dでも用は足りるからだ。それに大切なのはハードではなくどんなソフト展開になるかの方で、本来、それができてからのモデル公開ではないか。今年の会場レポートを見ても同様の危惧を抱いた。
その危惧は、大本的には、ちょうど省庁がモノ割り縦割りで、縄張りの権益を死守して獲得予算を単年度で使い切っているのと同じように、研究開発も製品事業分野別に予算が立てられ推進されているということだ。
「モノ分類の選択と集中」をすると当然、選択製品関連の研究開発に予算が集中するが、企業の全体最適の視点が欠落するから、視野狭窄の無駄遣いないしは的外れと思われる活動と成果が立ち現れる。
いずれどこかで役に立つと考えれば無駄ではないにしても、モデルとしても稚拙未完成の状態でCEATECのような公式の場で発表して、対外的なイメージアップに繋がると身内で思い込んでしまう所にパラダイムの魔力がある。
さらにパラダイムの魔力は、私が会場での観衆の言葉をあるがままに伝えることも、社内的には良くないこと、外部ブレインにあるまじきことにしてしまうのだ。時効になったことについて述べ、今年のことについては触れないのは、私も余計な波風を立てたくないからだが、ほんとうはそんなことで外部ブレインが敬遠されること自体、日本海軍の幕僚状態と言えよう。
かつて、私がクライアントの出展している見本市に行ったと言えば、クライアントの方から「で、どう感じました?」と率直な意見を聞かれたものだが、いまは悲しいかな、悪いことを口にする者は相手にしないという無言の圧力と黙殺の姿勢がありありとある。
「節義(かたい道義、みさお)、廉恥(潔白で恥を知ること)の心を失うようなことがあれば国家を維持することは決してできない。それは西洋各国であってもみな同じである。
上に立つ者が下に対して自分の利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれにならうようになって人は皆財欲に奔走し、卑しくけちな心が日に日に増長し、節義廉恥のみさおを失うようになり、親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するに至るのである。このようになったら何をもって国を維持することができようか」
稲盛さんは、「富国有徳」の国づくりを唱える。
それは、企業づくり、つまりは企業のパラダイム・シフトにも当てはまることだ。
「経済を例にとれば、GDPの総額は増えなくても、常に新しい産業が芽生え、古い産業が衰頽していくという新陳代謝が行われる、たとえパイは拡大しなくても、健全でダイナミックさが決して失われることがない、そのような経済社会をめざすべきだと思うのです。
そして、その活気を持ち続ける経済力を生かして、また『徳』に基づく国家施策を通じて、世界の国々と協調し共存し、助け合っていくような国家をつくりあげるべきではないかと思うのです」
「その意味では、この徳に基づく国家運営こそが、日本最大の安全保障策でもあると私は考えています」
物事は何を言うかではなく、誰が言うかによって影響力をもつと言われる。
徳のない小生が言えば影響力が無いどころかマイナスに働く場合さえあろう。
だから、以上の稲盛さんの国づくり論を、ご自身で自社のパラダイム・シフト論に置き換えるとどういうことになるのかそれぞれに解釈してほしい。
「世の中の多くがご都合主義、あるいは自分の利害得失で生きているなかで、真面目に、原理原則を貫いて生きていこうと思えば、いろいろと困難に遭遇してしまう。
しかし、正道を実行する人が困難に遭遇するのは当然のことだ。だからこそ、困難を楽しむくらいの境地にならなければ、正道を実践し続けることはできない、と堂々ということができる」
「『事には上手下手あり、物には出来る人出来ざる人ある』とは、本来、正道には、『上手下手』や『出来る出来ない』ということはないはずなのですが、人間は困難に遭遇すると、すぐに『もっとうまくやる方法はないものか』と方法論に走り、ついつい楽な道を探ってしまうものです。
そういう安易なことをしてはならない、と西郷はいいたいのでしょう。
それは、『正道を踏むことで、必ず報われる』ということを、西郷が信じていたからに違いありません。また、西郷は、正道を踏むということを『人生の王道』と考え、さらには、それが万人のつとめだと考えていたからだと私は考えています」
「現代が、『正道』を実践できないのは、『正道とはなんぞや』ということが、もはや分からなくなってしまっているせいかもしれません。
『正道』とは、人間の小賢しい考えが入っていない、いわゆる天の摂理のことです。
表現するとすれば、正義、公平、公正、誠実、謙虚、勇気、努力、博愛、そして西郷がいう無私というような、人間が生きていくにあたり規範となるべき、基本的な徳目のことです。
または『うそをつくな、正直であれ、人を騙すな』といった、幼い頃に親や先生から教わった、人間としてやっていいことと悪いことという道徳律のことです。そのようなプリミティブな教えこそが『正道』なのです。
正道というのは、そのようにあまりに単純で簡単なものですから、そんなものは当たり前ではないかと思い、みんな軽視して、実行しようとしないのです。
西郷のいう正道を踏み行うということは、そのような人間としての基本的な教えを守って、人生をいきていこうということです」
西郷の遺訓に戻ろう。
「常備する兵数すなわち国防の戦力ということであっても、また会計の制限の中で処理すべきで、決して軍備を拡張して、からいばりしてはならない。
兵士の気力を奮い立たせてすぐれた軍隊をつくりあげるならば、たとえ兵の数は少なくても外国との折衝にあたっても、また、侮りを防ぐにも事欠くことはないであろう」
この国の防衛論を、批判的にでもいい肯定的にでもいい、あなたの捉える正道に照らして御社の大計、中長期的な企業存立論に展開してみてほしい。
そこにマクロマネジメントについて、あなたが考えるリーダーシップの具体的な中味が浮上してくる筈だ。