リーダーシップという言葉以前にあった心のこと(3/5) |
ひきつづき、リーダーシップからみで本書の気になった所を引用して思うところを述べていきたい。
リーダーシップの本質的な有り方は、何のためのリーダーシップなのか、という目的論で決まる。
ビジネス書というとかつてはノウハウ本と相場は決まっていたが、最近は、「何のための仕事なのか=仕事論」が多く出版されたり、ホリエモン騒動以来、「何のための会社なのか=会社は誰のものか論」がマスコミで交わされたりするようになった。
本来は、ある「仕事の目的論」をもった人が集ったある「会社の目的論」に従ってある「リーダーシップの目的論」がある、というのが一番スッキリする。
この3者のセットが価値観や諸状況に応じて幾つかあっていい筈なのだが、なぜか現状は、一つ一つ個別にこれぞ正しい目的論だと論じられているの観がある。
そして読者や視聴者は、それらを鵜呑みにするのではなく、自身の価値観や職場の諸事情を考え合わせて持論をもち、中にはそれを仲間同士で照らし合わせて話し合う人々もいる。
私はこうした状況に、私たちが無自覚的に展開している「日本型の集団独創」をみてしまう。
私たち日本人の心有るビジネスパーソンは、つまり「自他の理想の関係性」を求める成長動機の持ち主は、漠然とではあるがおおよそこういう方向性の目的意識を一貫して求めているのではないかという暗黙の信頼があり、それを明快化し具現化するための知識共創を図っているように感じるのだ。
その過程は、欧米的に<知>的ロジック一辺倒ではないし、中国的に<意>的イデオロギー一辺倒でもなく、両者を「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」で統合しようとしていると言える。
時代の変革期にあたり、おそらく私たちはまだ、ばらばらに展開されている「仕事の目的論」「会社の目的論」「リーダーシップの目的論」の3者の納得のいく統合を、個々人が自らの問題として<情>起点で模索している段階なのではないか。
本論では、西郷の尊守した「敬天愛人」という概念を踏まえて、またそれに密接に関わる現実を描写して、3つの目的論を私なりに統合していくヒントを得たいと思う。
「自他の理想の関係性」を求める成長動機の持ち主は、漠然とではあるがおおよそこういう方向性の目的意識を一貫して求めているのではないかという暗黙の信頼があると感じると述べたが、それは多くの論者がおおよそ同じ主旨のことを述べているためだ。
それは、稲盛さんもこのように述べていることだ。
「人間はもともと、世のため人のために何かをしたいという善なる思いを持っています。そのような家族のために働く、友人を助ける、親孝行するといった、つつましく、ささやかな個々の利他行が、やがて社会のため、国のため、世界のためといった大きな規模の利他へと地続きになっていくのです」
そして、
「この自己の欲望を抑え、他を利するという考え方は、西郷南洲の『敬天愛人』という教えの核心です」
遺訓の現代語訳はこうなっている。
「道というものは、この天地のおのずからなる道理であるから、学問を極めるには敬天愛人(天は神としてもいいが、道理と解するべき。すなわち、道理を慎み守るのが敬天である。また人は皆自分の同胞であり、仁の心をもって衆を愛するのが愛人である)を目的とし、自分の修養には己れに克つということをいつも心がけなけねばならない」
ここで、
「己れに克つということの真の目標は論語にある『意なり、必なし、固なし、我なし』(当て推量をしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない)ということだ」
私が、何をおいても「万機公論して決するオープンでフェアなコミュニケーション」を尊重し、これを疎外するようなリーダーシップを認めないのはこのためだ。
会社の全体最適の方策を誠実に練りに練った者たちがその異なる意見をぶつけあえば、そこには自ずと会社の目指すべき方向性の代替案とその好悪得失が客観的に了解される。
その上で、代替案のどれを選択するか、そしてその理由の説明責任がトップの仕事であり、そこにこそリーダーシップが重大に発揮される。
これが「意なり、必なし、固なし、我なし」のリーダーシップの大前提だ。
しかし、現実には、派閥人事でYESマンで経営幹部をかため主流派の方策だけを押し進め、異なる意見を聞く事が無いばかりか、多様な意見を社員同士で交わし合うための場も積極的に設けようとはしないリーダーシップが多い。
だから、社内SNSとオフサイト・ミーティングを「万機公論して決するオープンでフェアなコミュニケーション」の場として捉えて、その成果を積極的に経営に反映するといった実例は決して多くはならない。
これでは、まさに「意あり、必あり、固あり、我あり」(当て推量をする。無理押しをする。固執する。我を通す)のリーダーシップではないか。
リーダーは哭いて馬謖を切ることも必要だと、どこかの権威が言えば、そこだけを金科玉条のごとく言い立ててリストラを敢行する。
しかし最大のポイントは、事前にオープンでフェアな話し合いや客観的な代替方策の提示と比較検証をしていないことなのだ。
こういうことを言うと、いや誰が考えてもこの方策一つしかない、よって異論はすべて不合理なものばかりなので相手にする必要はない、という幹部がいる。
しかし、それも実際に有意義な話し合いをしてみなければ分からないことなのだ。
「選択と集中」という金科玉条にもの申す
たとえば、バブル崩壊してから「選択と集中」ということが言われ、「業界シェア1位か2位を保つ事業だけに集中的に資源配分せよ」というのが常識となった。しかし、それまでの常識は、業界シェアも高く利益率も高い事業を「金のなる木」と称して押し進めるべし、両方低いのを「負け犬」と称して撤退すべしとか、成長性を勘案して立ち上げる新規事業はどこもやっていないのでシェア100%、儲けは当面ないから利益率−100%、だけど次世代市場を創出し先行者利益を上げるべくやろうじゃないか、と肌理細かく代替方策を比較検討するものだった。
バブル崩壊と冷戦終結がかさなり世界市場と競争環境が大きく質的変化をしたから、確かに常識も変ったとは言えるが、どうして猫もしゃくしもたとえば従業員数が国内だけで10万人クラスの企業と同じ考え方をしなければならないのか、私には賦に落ちない。
資本規模が圧倒的に大きく国内外に巨大な従業員数を有する企業ゆえに、事業部門を分類項とする「モノ分類の選択と集中」が合理的であることは確かである。
しかしだ。比較するべくもなく資本規模が小さく従業員数も国内に集中していてせいぜい2〜3万人の企業にとって、同じ方策は不合理である。
このことは、もはや「ブルーオーシャン戦略」なる言葉を知るビジネスパーソンにとっては常識の部類に属する。
なぜ業界劣位企業の経営者は、業界優位企業の経営者と同じ「モノ分類の選択と集中」をしようとするのだろうか。
答えは明快だ。
同じ「モノ分類」の競争しかすることがなく、(勝つことも、勝ち続けることも難しいのは分かっているのだが、という条件つきで)勝てるとすれば「最も業績の良い1事業分野に自社資源を集中的に投入する方策」以外にはない、そう考えるからだ。
(たまたま先日、NHK番組「証言記録 兵士たちの戦争『マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法~鈴鹿海軍航空隊』」というのをみた。私が着目したのは「皇国の興廃この一戦にあり」のZ旗を掲げたこの海戦の作戦を策定した海軍司令部の物事の捉え方考え方が、現代もまったく同じに息づいていることだった。異なるパラダイムの方向性代替案を比較検討しなくなる幹部の心理傾向とその正当性を保持しようとする組織の情報統制が同じなのだ。)
しかしだ、冷静にまわりを見まわしてほしい。
スティーブ・ジョブスが帰ってきてからのAPPLE社をみるまでもなく、特定ライフスタイルや特定ワークスタイルにこだわる特定ニーズにフォーカスする「コト分類の選択と集中」という考え方もある。
カワサキ、ホンダに対抗しないで自らの世界を保持するハーレー・ダビッドソン、上野動物園にはない感動でリピーターを呼び込む旭山動物園、これらの起死回生物語も、「コト分類の選択と集中」として説明できる。
一つ一つの製品事業分野の市場シェアは低いが、自社生産比率を落して生産設備投資を極力抑えて利益を安定させる縮小均衡策をとる。その上で、iTunesからiPodへと展開して、「成長性を勘案して、どこもやっていないのでシェアは100%、利益率も−100%、だけど次世代の市場を創出し先行者利益を上げる可能性」を実際に切り拓いた。APPLE社のような企業もあるのだ。
マイクロソフトに資本規模でもパソコン関連の市場シェアでも比較に成らぬほど劣っていたアップルは、相手に有利な土俵でわざわざ勝負に出ることはなかった。むしろ逆に、1997年、マイクロソフトから1億5000万ドルの投資をうけて同社の人気ソフト「オフィス」のマック版を開発する提携をしている。
1億5000万ドルといえば、ざっと160〜170億円だ。
日本のメーカーが銀行借り入れで設備投資をするのが1000億円単位であることを考えると決して大きな数字ではないことは記憶しておいていいだろう。
リーダーシップが考える戦略的な方向性代替案、これが大胆かつ明快であることはとても大事なのだが、戦略的な転換が必要とするお金という数字はかならずしも大きくないのだ。
アップルを引き合いに出せばこういうことも言えるだろう。
その後のアップルは、もはやパソコンのハードとかソフトの時代ではないことを前提に、次世代に向けた事業革新の先手をとった、ということだ。
つまり、
今世代の事業パラダイムで劣勢であることは、次世代の事業パラダイムの優勢を導く活動に集中することができる
ということなのだ。
相手に有利な土俵で一過的に勝利したとしても、それはかなりの無理をしてのことで、その次は相手の巻き返しを跳ね返す余力がない可能性が高い。
アップルは、今世代の事業パラダイムで一過的な勝利を狙い続ける方策と、次世代の事業パラダイムの優勢を導く活動に集中する方策とを客観合理的に比較し、迷うことなく後者を選択したのだろう。
結果、もとはといえばマックユーザー向けのiTunesサービスがiPodでウィンドウズユーザーにも向けた市場拡大を図り、マックPCは特定ファンへのこだわりをさらに深化させてその固定化と拡大を図り、さらにiPhoneで新機軸を打ち出して、それら事業群の相乗効果を上げる連携を志向している。
APPLE社が、このようなモノ割り縦割りを横連動させた「コト分類の選択と集中」を展開してきたこと成功したことを、日本のメーカーたとえば家電業界の人々は当然知っていた。
それでも数的には業界のほとんどを占める劣位企業が、業界最大手と同じ「モノ分類の選択と集中」方策をとり過剰投資が奏効せずに資本提携そして合併へと展開したのは、いったいどうしてなのだろう。
ほんとうにそれしか選択肢がない、致し方ないことだったのだろうか。
私は、ある時点で業績優良なる事業部門の長がトップになり派閥人事をして、当該部門の拡大政策をとることについてほとんど議論の余地がないという雰囲気の中で、広がりと深みのある話し合いがなされなかったのではないかと推察している。
(かつて御前会議で天皇の考えが結果的に軍部に押し切られ封殺されたように、いまも何かがその時の実力者によって押し切られ封殺されているようだ。)
しかし、どうだろう。
もし日本人がそろってそんな業界横並びの思考と行動をとっていったら、日本にはAPPLE社のようなメーカーも、ハーレーダビッドソンやポルシェのようなメーカーも生まれないことになる。
「モノ分類の選択と集中」をよしとする人たちの論を敷衍すると、より競争が熾烈化していって最終的には「1製品、1メーカー」だけが安定的利益を上げられるようになる訳だが、中には日本企業は撤退という製品も出てくるということなのか。
私には、仮にそのような未来となるとして、腕力にものを言わせた限られた僅かな巨大メーカーだけが生き残ったとしても、日本の「モノづくり」の価値が高まるとはとても思えない。
加えて、リストラを免れた就労者たちといえどもその幸福度もむしろ質的に劣化していくと思う。
ちょっと目先をメーカー以外に向けてみよう。
すると、任天堂がDSやWiiなるハードを開発して世界に市場拡大していたりする。
これは「コト分類の選択と集中」として説明できる。
モノづくりのメーカーではなかったセクターから、APPLE社的な方策を模索し成功させるところが出てきているのは注目に値する。
つまり、従来型の業界劣位メーカーがAPPLE社的な方策をとれないのは、客観合理的正解ではない方策に執着しているからでしかない、ということがバレてしまっているのだ。
「客観合理的正解ではない方策」とは何か、要は、自分たちが変らなくて済む方策ということだ。
お金に余裕がなくそちらまで手が回らないのではなく、他に手を回させないくらいにお金を全部執着する方策につぎ込んでいるのだ。
すでに資本主体が変ってしまった企業については、「つぎ込んでしまった」と過去形にすべきだが、まだ現在進行形でこの路線にいるメーカーも多い。
(リーダーシップ論には、マクロマネジメントのそれと、ミクロマネジメントのそれがある。
以上、マクロマネジメントの少し生々しい現実に触れたが、この際、補足しておきたいことがある。
私が、業界劣位メーカーの「モノ分類の選択と集中」方策とそのリストラに否定的であることを、外野から社員にいいかっこをしていると言う人がいるが、「コト分類の選択と集中」方策をとってもリストラクチャリングは必要だと考えている。ただ、そこまで質問されないから答えていないだけなのだ。
モノ分類の事業部門のどれかを拡大し残りを縮小したり撤退するという考えはしない。
しかし、すべての事業部門の、競争により多大な設備投資を強いられる生産部門、これを根本的な考え方からリストラクチャリングすべきと考えている。
いまの「モノ分類の選択と集中」方策の多大な借り入れさらに資本提携しての設備投資を見ていると、まるで「モノを生産する工場を稼働させるために企業活動をしている」ような錯覚に陥る。
企業価値を固有に特徴づけお金を稼ぐ核となる独自分野、これを見直した上で集中する研究投資、その成果を盛り込む基幹部品あるいはその基幹部品を製造する装置の生産に限った設備投資をして、後は身軽になった方がいいというのが私の考えだ。
その際、APPLE社の場合の<Mac←iPod→IPhone>のようにモノ分類横断的に、相乗的な新価値が創造される方向性を見据えて、自社の独自リソースかつ利益センターとなる研究体制や生産体制を「コト分類の選択と集中」で構築し展開する。
こうしたマクロマネジメントの方向性を提示した上で、従来型の生産体制と研究体制のリストラクチャリングを敢行することを提唱する。
これはこれで社員から抵抗のある話で、別に私がきれいごとを言っていい人ぶっている訳ではないのだ。)
己を愛するのは善からぬことなり
「己れを愛するは善からぬことの第一也。
修業の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐り驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也」
(自分を愛すること、すなわち自分さえよければ人はどうでもいいというような心は最もよくないことである。修業をできなのも、事業の成功しないのも、過ちを改めることのできないのも、自分の功績を誇り高ぶるのも皆、自分を愛することから生ずることであり、決してそういう利己的なことをしてはならない)
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
(道というのは、この天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である)
「英国の哲学者ジェームズ・アレン(1864~1912)は、『原因と結果の法則』で、『純粋な心』にこそ人と社会を良い方向に導く素晴らしい力があると説きました。
事業でも政治でもそうですが、資金も地位も能力もある人が知恵を絞り、企画を立て、戦略や戦術を練ってもなかなかうまくいかないことがあります。
ところが、非常にピュアな心を持った人が、純粋に物事を考えてやり始めると、あれよあれよという間にびっくりするような成功を収めてしまうことがあります。純粋で美しい心、純真な思いには素晴らしい力がある。大きな成功を遂げた人というのは、往々にして、そういう純粋な心から出発しているものだ、とジェームズ・アレンはいっています。
私も、リーダーと呼ばれる人が第一に身につけるべきは、マキャベリズムではなく、アレンの説く、純粋な心であると確信しています」
冒頭ご提起した「仕事の目的論」「会社の目的論」「リーダーシップの目的論」の3者の納得のいく統合も、私たち一人一人が、純粋な心においてしていくべきなのでしょう。
私自身は、クルマと家電、特に音と映像の家電に心ひかれてきました。
最初は若い時にディスプレイ業界にいて店舗のAV化という入り口から入ったのですが、移動することと音や映像が映り変ることに何か、共通する魅力を感じ取りました。
博覧会や博物館や商業施設で非日常世界を演出することも、音と映像の家電で日常世界を演出することも、クルマでドライブしながら音と映像に浸ることも、私にとっては一つの物語に織りなされる事柄でした。
以上は私の思い入れですが、同じように実際に生活世界を紡ぎ出して暮らしている人々は確かにいます。
私は、そういう人々の多様で多彩な生活の可能性をどんどん打ち出していきたい。
また、新しい個性を伸ばし育む生活を人々も期待していると思うのです。
(例えば、電気自動車の時代にはクルマは単なる移動手段ではなくなるでしょう。)
私の論じるマクロマネジメントは、マネタリーベースを欠いている、メーカーの販売競争や研究開発競争の現状を知らな過ぎるというご批判もありましょう。
しかし、企業が何のために存在するかを考える時、販売競争のためでもなければ、研究開発競争のためでもありません。
青臭いことを言うようですが、企業は、自分たちが理想とすることのために存在するのではないでしょうか。
その理想を実現するために、研究開発をする。
その理想がユニークで個性的なものであれば、販売は必ずしも競争にはならない。
確かに、販売競争に勝たねば企業が存立できないとすれば話は始まりません。
しかし、販売競争にならないような方策や、製品一つ一つの販売競争ではまあまあでも、特定ライフスタイルにこだわるお客様が製品群をセットで指名買いしてくださり、他社製品ではできない連携した使い勝手を楽しんでくれる方策もある。
そんな固定ファンがいて継続的にソフトの買い替えやオンウェブのサービスを利用して下されば御の字である、という考え方もあります。
いな、生活文化の実態そして動向の側からすれば、そういう考え方の方が顧客志向となりつつあります。
新しい生活を創造する私たちも楽しい、
商品を買ってサービスを利用してくださるお客様も新しい生活を実現できてうれしい。
原点はそんなところに有るのではないでしょうか。
私は、創業の原点を常に想起させつつ固有のヴィジョンへの道程を導くリーダーシップに期待します。