日本人の発想について河合隼雄先生に学ぶ(4) 間章 |
河合隼雄・谷川俊太郎対話/講談社+α文庫 発
対話の底を流れている重きを占めるものを
空間軸でとらえる「箱庭」と時間軸でとらえる「物語」
心理療法は、患者と対話して言語を交換することで言語化され得ないものをつかむ作業をする。その際、「対話の底を流れているものが重きを占めるんですが、それをつかむことは本当にむずかしい」と河合隼雄先生はおっしゃる。
ユング派が活用する「箱庭療法」も、そのための有効手段としてある。
「箱庭のアイデアは、内面を表現するときには、言語的なものよりもイメージのほうが直接的で、かえって表わしやすいというところから出てきているんです。
だから一番初めにこれを考案した人は、『ザ・ワールド』と呼んでいたんです。つまり『内界』ですね」
私は、「箱庭療法」とは、患者につくってもらって治療者がそれを見立てるもの、つまり静態的なものかと思っていたのだが、河合氏の解説を読んでいくと、日本の子供が怪獣を置いておいてやがてウルトラマンを登場させる、といったように物語を語らせる動態的なものでもある。
だから「箱庭」はけっして静態的なものだけを捉える訳ではないのだが、やはり最初の場を想定するということから始まる点で、空間軸優位の内容を探るツールと言える。
そしてそれと同時並行して展開する、物語を語らせていく対話の部分は、起承転結がある訳で時間軸優位の内容を探るツールと言える。
一方、パラダイム転換発想は、発想主体が自分自身や自分たち自身と対話して、言語を交換することで言語化され得ないものをつかむ作業である。
そして私が彼らに対して行う発想ファシリテーションは、私が発想主体と対話して、言語を交換することで言語化され得ないものをつかむ作業である、という二重構造になっている。
大枠を言えば、私という第三者が後者の、彼らの思考を思考するメタ思考による対話をすることで、彼らは経験したメタ思考を自らでするようになる、ということがポイントだ。
ともに、対話と物語を重視する点で、時間軸優位の内容を探る作業だ。
これは、ファシリテーターと呼称される役割全般に言えることだが、アイデアを評価してアイデアを方向づけるのはアドバイザーやスーパーバイザーであって、そればかりをしようとするならファシリテーターとしては失格だ。まず、社内ファシリテーターの場合、この誤解が横行しているので指摘しておきたい。
お前もやっているじゃないかと言われそうだが、私が研修でしているのは、発想主体のアイデアを発展案に仕上げることで、一度メタ思考をやってみせるためである。しかも発展案提示は、受講者の発表の後でそれを受けてやっていて、グループワークに際しては触発のためのヒントを与えるにとどめている。
実務の発想ファシリテーションでも、発想主体のその時点での成果に対して同様にしている。それは特定パラダイムしか見えなくなっている発想主体に対して具体的例解を示すことで、異なるパラダイムの可能性の存在をはじめて納得してもらえるからでしかない。一つのパラダイムに囚われている人たちは、たとえ異なるパラダイムが存在する具体的例解を示しても軽視する場合が多いくらいなので、具体的例解の伴わない抽象論的触発であれば無視されるのが現実なのだ。
さて、その際、「コンセプト思考術」(話し言葉の4つの概念要素の組み立てによる)では、<送り手側のモノ提供の論理>から<受け手側のコト実現の論理>へパラダイム転換する思考フォーマットを活用する。
これは、仕上がった成果をみれば、「問題の発見→課題の創出→課題解決の方法」を示していてロジカル・シンキングされても合理性が認められるようになっている。しかしそれは結果的にそうなのであって、本来それが目的でも手段でもない。
この思考フォーマットならではのキモは、最終的に6つの概念空欄に記入した言葉を繋げればパラダイム転換物語の起承転結に仕上がることにある。
物語には主人公がいて物語が展開する場面がある。そこに主人公の感情の推移が展開し、物語を聴いた人に感情移入や共感が発生する。じつに当たり前のことだが、前述のロジカル・シンキングの合理性ではありえない真逆の認知表現であり、真逆の発想思考回路であることが重要なのだ。
特に、「帰納」と「演繹」とともにロジカル・シンキングの仲間に入れられている「推量」は、何にのっとって何に着目していかに推量するかということが、人類普遍ではなく、文化によって異なる、ということは重大だ。
そこで、
欧米では「推量」が、因果律(機能論)にのっとった「推察」や「推測」として現れやすく、
中国では「推量」が、共時性(意味論)にのっとった「決めつけ(こうあるべし)」として現れやすく、
日本では「推量」が、縁起(コトとモノを結ぶ感覚論)にのっとった「受けいれ(こうあってほしい)」として現れやすい、
といった仮説を立てることができる。
単純明快に、「推量」とは「物語を語る発想思考回路」である、と捉えれば、
欧米では「推量」が、機能論が当たったり外れたりする物語として現れやすい、
中国では「推量」が、意味論が一貫したり逸脱したりする物語として現れやすい、
日本では「推量」が、感覚論が調和したり不調和したりする物語として現れやすい、
ということになるが、これは私たちの実感するところではなかろうか。
たとえば現代昨今の政治的話題で言えば、
アメリカが京都議定書に反対した理由(地球環境悪化の科学的根拠がないとしたのだが、その後政府の行った調査報告の改ざんがあったことが、報告書を提出した科学者によって告発された)、
中国で毛沢東の奪権手段に過ぎなかった文化大革命の展開(思想闘争の名のもとに骨肉相食む派閥闘争が中国全土で起こり多くの犠牲者が出た)、
日本人が、総理大臣に言われなくても美的調和を求める民族性があり、総理の辞任劇も美的調和を崩す話として国民に受けとめられたこと
などを典型例として上げることができるだろう。
ここでユングが性格分析の概念ポートフォリオを思い起こすことは有意義だ。
それは
<合理性の軸>で「思考」と「感情」を対置し、
<非合理性の軸>で「直観」と「感覚」を対置させるものだ。
これを踏まえると、
欧米の「推量」、因果律(機能論)にのっとった「推察」や「推測」は、<合理性の軸>の一方の極「思考」に重点をおいている。
中国の「推量」、共時性(意味論)にのっとった「決めつけ(こうあるべし)は、<合理性の軸>の両極「思考」と「感情」の行き来に重点をおいている。
(「中庸」の実質はこれなのかも知れない。)
そして、
日本の「推量」、縁起(コトとモノを結ぶ感覚論)にのっとった「受けいれ(こうあってほしい)」は、<非合理性の軸>の両極「直観」と「感覚」の行き来に重点をおいている
と言えよう。
これは、
日本がアニミズムの発想思考回路を温存しつづけてきたのに対して、
中国がシャーマニズムの発想思考回路に移行、これを温存しつづけていること
(中華人民共和国がいまでの直接民主主義制をとらずにシャーマン主席交代制をとっていることにも通じる)、
欧米が一神教から科学的合理主義の発想思考回路に移行、これを保持しかつ世界に蔓延させてきたこと
に符号する。
日本の発想思考回路が一番遅れている、あるいは奇異であるとするのは、欧米や中国の発想思考回路を進んだものとみる観点に立つからである。
しかし有史以前の人類はみなそこから出発したのであって、ユングは、アーキタイプにより紡がれる神話的物語として、現代人といえども洋の東西問わずその集合的無意識にいまも息づいているとする。
現代世界の「クールジャパン」の人気と高い評価は、たとえばジャパンアニメを芸術性から、たとえば日本食を栄養学からといった具合いに個別論で説明できるが、私は、人類普遍の集合的無意識を受け皿とする日本文化の骨太の構造から総論で説明できると思う。
近代合理主義の機械論的な世界観が、マネタリズムのグローバリズムによって行き着くところまで行き着いて世界津々浦々の生活の隅々まで蔓延し、ついに世界の人々の大きく抑圧された集合的無意識の巻き返しが始まっていると言えまいか。
単純明快に言えば、お金儲けのためのお金儲け、生産のための消費、消費のための生産と、世界は自己目的化した手段の連鎖となっていき、ついに地球環境を破壊してまでその増殖を続けることの意義が問われるまでに至った。
つまり、日本文化の発想思考回路が、科学や経済の発達した現代において、世界の人々の人間としての素直で奥深くそして平和な本音にもっとも着実に応える、目的志向論的な正解なのではないかと認められ始めている、
と私は思うのだが、みなさんはいかが思われるだろうか。
コンセプト思考術の思考フォーマットは時間軸優位の物語を紡がせる仕掛け
思考フォーマットの6概念空欄の記入内容を繋げるとパラダイム転換物語の起承転結を形成するようにする、という作業は、出来映えよく出来上がったものをみると、なんだそんなことかと誰もが簡単そうに思う。
ところが、いざ自分でやってみると難しい。
この難しさは、河合氏がおっしゃる「自分自身や他者との対話の底を流れている重きを占めるものとらえることの難しさ」と同じものである。
特に心理臨床家ではない一般庶民の私たちの場合、まったく自覚はしていないのだが、現実として、私たちの意識と無意識に強く根をはった近代合理主義の発想思考回路の習い症に常に邪魔されていることを指摘したい。
前項ですでに触れたが、思考が<モノの特徴的な機能>という1つの概念空欄に集中して、そこを起点としそこを終点とする傾向が顕著なのだ。
ところが、そもそも日本人が得意とする発想思考回路は、現状の<モノの没個性的な感覚>を嫌って理想の<コトの個性的な感覚>を求めるところに重点をおくものである。
前者と後者の違いは、出来上がった思考フォーマットの内容を踏まえて4枚の「情動フリップ」を描いてもらうとハッキリする。
「情動フリップ」とは、
1枚目:不快の情動誘発の場面
2枚目:快の情動誘発の場面
3枚目:(1枚目から2枚目への)情動転換のアイデア
4枚目:新しい生活願望への情動
というものである。
(最近の演習成果の発展案で私が作成した「情動4フリップ」は、こちらの「*緊急ニーズ互助型レンタルフリマ」。)
情動とは、(思考の土台である)感情の土台であって、無意識的な身体反応をともなうものだ。たとえば、喜怒哀楽でも、冷静に言葉にして思考してじわじわと湧き上がってくるような感情ではないもっと直接的、瞬間的な反応のことだ。気がついたら笑っていた、泣いていた、血圧が上がっていた、冷や汗がでていた、顔面蒼白になっていたという類いだ。
結局、パラダイムという考え方の基本的な枠組み、それも問題性があるのは無意識的に受け入れているパラダイムであり、それを転換するためには、思考の土台である感情、さらに感情の土台である情動に作用する場面が展開しなければならない。
4枚の「情動フリップ」の内容は、パラダイム転換物語が人々に受け入れられる最低限の要素であり、これが描けなければ、出来上がった思考フォーマットの内容は頭だけで考えた机上論から出ることはあり得ない。
描くといっても、前掲の「情動4フリップ」のように、マッチ棒状の人を描いて、台詞を吹き出しに書きこみ、TPOが分かるような絵にするということで、想定する受け手の情動展開についてイメージがしっかりあれば作業的には簡単にできることだ。
私の演習という臨床を踏まえた結論をいうと、
日本人ビジネスパーソンは、ここ10年の間に急激に、受け手の情動→感情→思考の展開をイメージする能力を欠いてきている。
思考フォーマットの6記入空欄の内の1つ<モノの特徴的な機能>にばかり思考が集中する傾向が、とくに情動感情回路によって認知表現される<コトの感覚>についてのイマージネーション=想像力を減衰させているようだ。
<モノの特徴的な機能>の記入内容は、機械論的なシステムや制度である。機械には入力から出力に至る時間軸があるにはあるが、その全体の位置づけはモノの、あるいは機械の部品化した人間の連関という空間軸優位のものである。ここばかりを思考することが時間軸優位の物語を生むわけがない。
プロジェクトXに出てくるモノを開発する側の物語でさえ、必ず、従来の問題性にあたる<送り手側のモノ提供の論理>の<モノの画一的な機能→モノの没個性的な感覚→コトの皮相的な意味>の3つ、それを踏まえた課題となる<受け手側のコト実現の論理>の<コトの画期的な意味→コトの個性的な感覚>の2つ、つまり残る5つの概念空間の記入内容が盛り込まれて時間軸が生まれている。
結局、現代の高度に専門分化したタコツボ化とは、知識創造空間を細分化してそこに引きこもることであって空間軸優位にあり、時間軸をもつ物語を形成して行く志向性を、特に他者や生活者に開かれた形では欠落させていく傾向と言える。そうした様相が、何かの専門家だけでなく、一般のビジネスパーソンにまで蔓延しているのだ。
それを象徴的に示すのが、一般生活者に通じないそれぞれの専門用語による専門家同士の対話だ。その延長で、一般のビジネスパーソンが社内や職場だけで通じる用語のみで対話しているとしたら、それは生活者の思いやニーズからの乖離を呈している筈だ。
「コンセプト思考術」研修の二日目自由課題で4枚の「情動フリップ」も使って発表してもらうのだが、その内容が他グループから単純明快に理解され共感されるケースは著しく少なくなった。
前々から総じて、最終発表の他グループによる採点評価は、自分たちが想像した以上に厳しいものになるのが常だったが、その理由は、以前は単に、思考フォーマットの概念空欄への記入内容が煩雑で6つ繋げても明快な起承転結にならないというテクニカルな未熟さにあった。
しかし、最近はテクニックの習得能力はむしろ高まっていて、テクニック以前に大切な受け手の気持ちと身体反応についての思いやりや想像力の希薄なことが理由になってきている。
これは恐いことだと感じている。
なぜなら、
この情動感覚回路は、日本文化において江戸庶民が生活レベルで発揮していたことだし、私たち日本人の特徴として、日常の人間関係とそれが問われる場について非常に敏感である国民性がありそこでは今もこの回路を発揮して、<コトの感覚>と<モノの感覚>と両者の関連を起点なり終点なりにして重視しているからだ。
たとえば、学校でイジメをする連中は、
1枚目:不快の情動誘発の場面 = ストレスでむしゃくしゃする場面
2枚目:快の情動誘発の場面 = 気晴らししてすっきりする場面
3枚目:(1枚目から2枚目への)情動転換のアイデア =ムカツク奴を苛めるアイデア
4枚目:新しい生活願望への情動 = これからも奴をいじめてやろうとワクワクする
などと情動感覚回路を働かせている。
つまり、情動感覚回路自体は、善人ばかりでなく悪人でさえもみんな働かせることが容易にできるものなのに、なぜか自分たちでパラダイム転換発想した成果をその回路が働くかどうか検証してみましょう、ということになるとうまくできない、そんな事態になっているのだ。
これは、現代の日本人ビジネスパーソンが、情動感覚回路を抑圧した形で発想思考する習い症が根強くなり邪魔している、ということに他ならない。
私たちはビジネスパーソンになるスイッチを入れたとたんに、自らの「推量」を、因果律(機能論)にのっとった「推察」や「推測」に限定してしまうようになっている。
最悪のケースでは、数字やカネに「推量」を限定することが世間で当たり前化していくことは、ゼネコンの談合、マネーゲームにおける脱法行為、構造設計や食品表示の偽装、教育委員会や学校によるイジメ件数0とする隠蔽、警察や社会保険庁のカネ絡みのずさんの放置、などなどの世間では有能で偉いとされる人たちが冒す悪弊の自己正当化に繋がっている。
そう考えると、私たちが無自覚的に抑圧しているのは、
共時性(意味論)にのっとった「決めつけ(こうあるべし)」、
縁起(コトとモノを結ぶ感覚論)にのっとった「受けいれ(こうあってほしい)」、
この両方であることが見えてくる。
確かに、明治には儒教の影響を受けた「決めつけ(こうあるべし)」型の商道の実践者である渋沢栄一のような実業家がいて尊敬されていたし、昭和にも庶民主義とも言える「受けいれ(こうあってほしい)」型の松下幸之助や佐治敬三のような創業者がいて尊敬されていた。こうした目的論としての高い志から出発したリーダーシップは巷にも溢れていた。
ところが、時代が下るにつれて、手段論としての高い能力ばかりが問われるようになり、そういうマネジメントが巷にも溢れるようになった。
こうした流れの中で、自らの「推量」を、因果律(機能論)にのっとった「推察」や「推測」に限定してしまう、それが世界のビジネスじゃないか、儲けてなんぼの商売じゃないか、というのが常識になっていった。
ところが皮肉なことに、経済成長が鈍化し世界規模で市場競争が激化してきた昨今、国内的には、原則鎖国の地産地消で経済が循環しつつ文化貢献もしていた江戸社会、資源ばかりでなく人、モノ、カネ、情報のすべてが循環型であった江戸社会が注目されてきた。そして国際的には、そんな江戸社会で培われた文化的DNAをもつ現代の日本型の独創成果が世界の人気を集めるようになってきた。
たまたまいま直木賞受賞作「吉原手引草」(松井今朝子)を読んでいるのだが、少し前に注目された「経験マーケティング」なんてものは、日本ではすでに江戸時代に文化にまで成熟していたことを実感した。何を今更スターバックスに学ばねばならないのだろう。
日本の企業社会がデザインを経営戦略として重視しはじめているが、これも灯台下暗しだ。
日本文化そのものに<コトの感覚>と<モノの感覚>を縁結びし重ね合わせる成熟したデザイン志向の系譜があった。そしてその中で商いも商道も受け止められてきたのである。
たとえば、行政の組織や制度でも、北町奉行所と南町奉行所が交代で江戸市中を治めることにより、不正や汚職を防いだことなどは、単なる機械論的な組織と制度の整合性ではおっつかない知恵がある。金品の誘惑は強いという<モノの感覚>、地位役職が固定すれば競争意識がなくなり職務怠慢になりろくな事は考えまいという<コトの感覚>、これらを踏まえたソリューションにして始めて「北町南町交代制」というパラダイム転換発想が生まれる。
いまは、役人は悪いことをする筈がない、学校や原子力発電所は落ち度がある筈がない、という<モノの機能>論(=人を機械の部品として捉える機械論)が成立する前提でソリューションが立案される、また立案してこれをオーソライズする体制もその方向で用意される。
社会保険庁の体たらくときた日には、江戸時代より遅れている。当時なら打ち首獄門になるような公金横領者が告訴もされていなかったと聞けば、何をかいわんやである。
さらに、国民健康保険はこのままで行くと財政破綻すると言われている。行政は、財政削減ばかりをする<モノの機能>論だ。しかし、そこには、国民に健康になってもらうという本来の<モノの感覚>とそれによって国民が安心して信頼を寄せられるサービスになるという<コトの感覚>が抜け落ちている。これでは無資格者が多くなり有資格者の負担は大きくなり、病気を悪化させる人が増えて財政破綻は加速されるという。
私は、別に不満分子ではない。
体制を批判するからといって左翼でもないし、日本語と日本文化という資源を強調するからといって右翼でもない。
庶民が誰でも不満を持つような事柄が、みな<モノの機能>論だけで、しかもそれが成立する前提において自己完結的に論じられている、その既存パラダイムの有り方が共通していることを指摘したいだけだ。
私たち日本人はそろそろ一度立ち止まって、国内的な江戸社会の再認識の思潮と、江戸社会で培われた文化的DNAをもつ日本型の独創成果への国際的な高い評価とを冷静に振り返りながら、そもそもなぜ企業はビジネスをするのか、そもそもなぜ人は人とともに仕事をするのか、といった基本的な目的論からすべてを問い直すべき時期にさしかかっているのではないか。
その時、「日本人として私は・・・」と括弧つきで考えることが、独自性と国際性を思い起こさせてくれると思う。
前置きとして検討してきたものが、随分と長くなってしまったので、本論は、インターメッツォー=間章としてここで終わることにする。
次項では、以上のような文化の異なり左右される「推量」の有り方に着目しつつ、ユング心理学から得られる示唆をひろっていきたい。