社会構成主義の論じる「実証研究の言説」パラダイム つづき |
(つづき)
実践から独立した事実
「実証的研究の目的は、経験(筆者注:再現可能な実験など)に裏づけられた、広い視野をもつ理論を生み出すことだとされています。(中略)
したがって、非常に限定された実践についての研究には、科学的に見てそれほど価値があるとはいえません。なぜなら、そうした研究には一般性がないからです。
逆に、基礎的なプロセスさえ明らかになれば、実践する人々は、その知識をどんな状況にもあてはめることができます。基本的な事実を手にしさえすれば、実践は最も効果的に進捗するはずなのです」
ビジネスという現実においても、以上の幻想にしか過ぎない「実践から独立した事実」、という実証研究の言説が十全に機能している。
その典型が、顔のない、単にモノを買ってくれる消費者のことをコンシューマーと呼ぶ「コンシューマー狙いのマーケティング」である。
家電量販店にいけば、競合各社横並びでスペックと値段だけが違っている商品群ばかりだ。テレビならば画面の大きさの違いは見れば分かるが、あとはどこがどう違うか分からない。それが、万人向けの「コンシューマー狙いのマーケティング」で生まれた商品である。
苛烈な低価格高性能競争をしている「レッドオーシャン市場」を形成している。レッドオーシャンとは競合各社消耗戦をして血潮を流す海域、という意味である。
万人向け商品は、ほとんど同じ基礎技術と応用技術を土台として、より大量に生産しより大量に販売すれば儲かるだろうという極めて単純でもっともらしい理屈を展開する。問題は、競合各社みな横並びで同じことを考えてするから首の締め合いになるということだ。これは子供でも分かる理屈だが、大の大人が自分たちだけは生き残ると思って、なぜかそれ一辺倒でやり続けている。
ここに正しく、「基礎的なプロセスさえ明らかになれば、実践する人々は、その知識をどんな状況にもあてはめることができ、基本的な事実を手にしさえすれば、実践は最も効果的に進捗するはず」というパラダイムが機能している。
「コンシューマー狙いのマーケティング」一辺倒になると、単純に低価格高性能競争になっていく。高デザインとは言っても、万人受けしか狙えない。
そうすると商品開発活動の起点として何が重視されるようになるかというと、やはり応用的な技術開発、そして基礎的な研究開発だ。
それは大学の同じような専門学科の研究室出身の社員がやっている活動で、その知識基盤は科学技術であるから、基本的には同じ前提、同じ原理原則で、同じ専門用語で考えることになる。つまり、実証研究の言説「実践から独立した事実」が、そのまま温存されている世界だ。
「コンシューマー狙いのマーケティング」にも「顧客志向」はある。しかしその実際は、<送り手側のモノ提供の論理>の枠組みの中で顧客満足を大方既存のベンチマーキング指標で図るものでしかない。要は、競合ふくむ自分たち業界人の慣れ親しんだやり方でできる範囲の「顧客志向」なのだ。
それは決して、生活者が夢には見るが諦めているような高い顧客期待に応えようとするものでもなければ、顧客が夢にも見たことのない未対応ニーズを掘り起こすものでもない。つまりライフスタイルを刷新するような真の感動を与えようとする、そんな志があるものではないのだ。
この考え方に馴染んだ人たちは、技術職から販促企画者まで、感動というものを技術進歩による高性能化の文脈でしか捉えられない。「感動の鮮やかさ」「感動の薄さ」「感動の速さ」。テレビCMを見れば分かるが、それを「高級化とはイコール高性能化」として訴求する。
実際、生活者が夢に見るのは何かとの問いに、ホログラフだ、とモノ発想してしまう技術者管理職が本当にいるのだ。そんなモノの夢を見るのは科学好きの少年くらいだろう。
ふつの生活者は行為や状況などのコトの夢を見る。
この象徴的な例において、「実践から独立した事実」とは、送り手側が「受け手側の実践パラダイム」を無視していることだと分かってほしい。送り手側が「自分たちの実践パラダイム」だけで物事を考えているということなのだ。
「コンシューマー狙いのマーケティング」は顧客を「量的にセグメント」して対応する。購買能力、早い話が支払い能力でセグメントする。
しかし、「量的にセグメント」しているのは、実は消費者の方なのだ。
苛烈な競争によって、一年待てば値下がりして同じ値段でワンランク上の機種を買えると分かっていれば誰だって買い控える。つまり、この商品だったら来年買うわと、買うタイミングをセグメントしている。
iPodやWiiやDSが出た時に高くても並んででも買う、そんな気持ちにはならないところが、「コンシューマー狙いのマーケティング」が生む商品がコモディティ化すると言われる所以だ。
「コモディティ」とは、安売りセールの時にまとめ買いすればいいトイレットペーパーのような商品のことだ。
同じ家電量販で売ってはいるが、iPodやWiiやDSは<受け手側のコト実現の論理>の枠組みにある「カスタマー狙いのマーケティング」が生んだ商品である。
ゲームライフなり音楽リスニングライフなりの特定ライフスタイルへのこだわりがある顧客、つまり個々人の顔のある顧客をカスタマーと呼ぶ。彼らはつねに好みのテーマライフを自分流に向上させることを心がけている。ハードやそれにまつわるアイテムだけではない。ソフト/コンテンツ、オンウェブ・サービス/ソリューションにといった、自分流をカスタマイズする要素すべてに注意を払っている。
パソコンで言えば、Win使用者の一般人の大方は単純に高性能低価格そして相対的に高デザインの方がいいとするコンシューマーだ。一方、Mac使用者は、そもそも自分流の◯◯ライフそして◯◯ワークにフィットすると思って購入する人つまりカスタマーがほとんどである。
新発売のMacを買う買わないに関わらず、新しいマックライフの状況を気にしてAPPLEショップに足を運びAPPLEサイトにアクセスして情報チェックする。Win使用者がパソコンが故障した時くらいしかメーカーサイトにアクセスしないのとは対照的だ。
そして新製品が出たら、高い値段にもかかわらず、一つ前の型のマックを買ったばかりの人までがウズウズしてしまう。そしてWinマシンも共用はしてもマックから乗り換えることはない。
じつは、本来のデザイン戦略とは、こうした「カスタマー狙いのマーケティング」という土壌があってはじめて高度に展開されるのだ。
競合横並びのWinパソコンという枠組みの中でいくらデザイン高度化をしても、そもそも効果は限定されている。デザインコンペ状況で勝者となったことで得られる、次回コンペまでの成果がマックスである。
それに対してiPodは、まさに「新生活コンセプトからのデザイン活動」が生み出したものである。APPLE社そしてそのカスタマーが得ているその成果は継続性と拡張性がある。
SONYが類似商品で追撃したが苦戦している。それは、SONYのデザイン活動が機能や使い勝手と色形の関係性という皮相的なレベルに留まっているということだ。かつてデザインを誇ったあのSONYにしてこうだというで、日本のメーカーの企業内デザイナーの実力を問題視する人は多い。実際、形の面白いモノを作って、それにコンセプトらしき言葉を貼付けて世に出せば新しい価値の提案になると、生活者を見くびった若い企業内デザイナーも多い。どんなライフスタイルの刷新があるのか冷静に自問してみてほしい。おそらくそのようなアドバイスを説得的にできるデザイン・マネジメントが機能していないのだろう。
かつてのSONYには「新生活コンセプトからのデザイン活動」があった。今にして思えば、それは創業者由来の「顧客期待を上回る感動をデザインするスピリット」が、特に技術開発部門に息づいていた頃までの話のようだ。それまでは、そんな技術開発部門主導で商品企画、デザイン、マーケティングの各部門がうまく連動していた。SONYがロボット部門から撤退したことは、「顧客期待を上回る感動をデザインするスピリット」の終焉を告げる象徴的な出来事となったのかも知れない。
「カスタマー狙いのマーケティング」が生んだ商品は、脱競合の「ブルーオーシャン市場」を形成して安定した事業展開をしている。もちろん「ブルーオーシャン」とは、自分の他だれもいない波しずかで穏やかな海、そして自然の恵み豊かな海のことだ。
その理由は、競争がない指名買い商品だから高い利益率を確保できる。商品価値の特異性で勝負していてスケールメリットで勝負しなくていいから、ギャンブル的な巨額設備投資をしなくていい。ちなみにiPodのキーデバイスは東芝製だ。競合のない指名買い商品だからCM競争に巨額な広告費を費やさずに済む。ハード新製品投入の度に競合と天下分け目の決戦をするようなことがないので、顧客のブランドスイッチがなく、ソフト/コンテンツ、オンウェブ・サービス/ソリューションを介した立体的なカスタマイズ・ニーズに継続的に応えることで顧客との関係を深めつつ次なるビジネス機会を模索できる。中長期的なハード新製品の開発で、アップルの場合PCから派生してiPodを開発したように、自分たちの企業ヴィジョンと商品ブランドをより魅力的に強化する多様な可能性を追求できる。そしてこうした実践自体が、「コンシューマー狙いのマーケティング」一辺倒のたとえば日本の家電メーカーにはない次元のブランド性を構築していく。
思えばWiiもDSは任天堂、ゲームメーカーの商品だ。彼らは実証研究の言説「実践から独立した事実」などはなから眼中にない。
やはり日本の家電メーカーの限界は、ハード=モノからしか発想できないパラダイムにあり、実証研究の言説「実践から独立した事実」から免れられないのだろうか。現行のデザイン戦略重視の流れがパラダイムの呪縛を破れるものかどうか注目したい。
以上、「コンシューマー狙いのマーケティング」の商品が基盤的には製品技術と大量生産大量販売すれば儲かるという単純な理屈という2つの「一般性ある基礎的なプロセス」を土台にしていて、まさに実証研究の言説「実践から独立した事実」であることを確認した。
「基本的な事実を手にしさえすれば、どんな状況にもあてはめることができ、実践は最も効果的に進捗するはず」という実証研究の言説「実践から独立した事実」が、そのまま「コンシューマー狙いのマーケティング」一辺倒の経営の言説ともなっていることも確認した。
そして両者ともに、現実としては幻想にすぎないことを確認した。
「コンシューマー狙いのマーケティング」が宿命的に避けられない「レッドオーシャン市場」において、その苛烈極まる低価格高性能高デザイン競争に、長期的に利益を安定させた形で勝ち残れるのはそれぞれの業界の資本規模優位2社であり、3位以下は過剰な設備投資の回収ゲームにおいて経営リスクをつねに孕むことになる。
一方、「カスタマー狙いのマーケティング」の商品は、万人向けではなくて、特定ライフスタイルへのこだわりをもつ人々をターゲットとする。
これは、実証研究の言説「実践から独立した事実」における「非常に限定された実践」に他ならない。そして「それほど価値があるとはいえません。なぜなら、そうした研究には一般性がないから」という否定されるのまったく同じに、「コンシューマー狙いのマーケティング」一辺倒の経営幹部から、「カスタマー狙いのマーケティング」の商品を提案しても「そんなニーズはニッチに過ぎない」といった決めつけられる。
しかし改めて言うまでもないことだが、「カスタマー狙いのマーケティング」がニッチの終わるか、それともMacPCのオンウェブ・サービスから展開したiPodのようにメジャーになるかはまったくの別の問題なのだ。
彼らは、「カスタマー狙いのマーケティング」の商品づくりについて、知識としはiPodやWiiやDSなど知っていはいるが自分がしたことがないからやりたくない、というのが本音なんだと思う。あるいは中にはやりたいやるべきだと考える人がいても、トップが「コンシューマー狙いのマーケティング」の徹底効率化のみを号令しているので、それに異を唱えてるようなことはできないと黙っているのかも知れない。
最近の企業経営におけるデザイン戦略重視の流れ大方のメーカーの経営に採用されている。
それが<送り手側のモノ提供の論理>の枠組みの「カスタマー狙いのマーケティング」の商品を生み出すのか、
それとも<受け手側の実現の論理>の枠組みの「コンシューマー狙いのマーケティング」の商品を生み出すのか、
これを見定めれば当面の経営幹部の姿勢が読み取れるだろう。
(実証的研究の言説「実践から独立した事実」への)
「<社会構成主義からの反論>
どれだけデータを収集しても、そのデータは決してある理論が正しいかどうかを証明することができない。何がデータとみなされるか、どんなデータが信頼できるものであるかが、アプリオリ(筆者注:知っているが経験を通じてしったのではない。いかなる経験を通じて知られてもかまわないが、いかなる経験によっても反証されないという意)な解釈によって決定されているからである。
さらに、その解釈は特定の共同体の内部(筆者注:経営幹部の主流派)で行われているため、普遍的な事実を生み出そうとする欲望は、文化帝国主義-----『私にとっての真実が、すべての者にとっての真実である』-----を引き起こすことになる」
最後に強調しておきたいことがある。
私は、「コンシューマー狙いのマーケティング」が悪く、「カスター狙いのマーケティング」が良いと言っているのではない。
ちなみに、私はクライアントのカーナビとプラズマの会社やプリンターの会社に、両方を並行させ連携させる具体策を提案してきている。
自社商品が、業界優位1位か2位にあれば、基本的には「コンシューマー狙いのマーケティング」が良い。しかし将来的に競合の方が、資本規模や連携する商品やサービスの総合性(「モノ割り縦割り」を「コト割り横ぐし」する可能性)の面から自社より優位な顧客価値を実現しうる公算が高いならば、やはりその時になって慌てなくても済むよう、余裕がある今の内から「カスタマー狙いのマーケティング」の商品も世に送り出していくべきだ、と提案してきた。
自社商品が、業界劣位にあり、しかも自社が対抗してできる資本投入に限界があるならば、アップルがマイクロソフトに対抗したように「カスタマー狙いのマーケティング」を、ハード/システム〜ソフト/コンテンツ〜オンウェブ・サービス/ソリューションのカスタマイズ要素を総合的に連携して展開していくべきである。
冷戦で米ソが同じ核ミサイル軍拡競争をしてきて、アメリカがスタ−ウォーズ計画を出した時、ソ連はもはやそれに着いて行くことができないほどに経済が破綻していて、国自体が崩壊した。腕力で劣っている会社が、モノ割り縦割り毎に、顧客から見れば大差のない「万人向けハード商品」の勝負ばかりをしていけば、これとまったく同じになることは明らかだ。
これが私が十年前から主張してきたことだが、もはや世間の事実が示していることだ。
つまり、私は現実論として、是々非々でマーケティング戦略の選択肢を合わせ技ふくめて捉えようとしている。
一方、「コンシューマー狙いのマーケティング」一辺倒の経営は、社員が公式にこうした是々非々論を主張することを嫌ったり軽視する傾向があり、そこが大問題なのである。
多様な意見を尊重しない経営は、社員を黙らせる、言ってもだめだと諦めさせる。企業の精神、風土、文化を後ろ向きで閉鎖的なものにしていくのは明らかで、それがすでに予測ではなくて現実となっている会社も多い。
経営陣は交代すればそれで終わりかも知れない。しかし、会社は公器であって、その企業としての前向きで創造的な精神、風土、文化は創業以来多くの先達が培ってきたものである。将来を担う社員たちにも伝えて残していくべき「良知の結晶」である。
経営陣は何よりも、企業の核心である「良知の結晶」を踏まえて大切にする義務があるのではないか。「良知の結晶」がいかなる状態にあるか、それは社員同士の人間関係、部門同士の恊働関係を見れば分かる。
私はそう考えるが、みなさんはいかがだろうか。