プロセス指向心理学の企業社会からみた面白さ |
「プロセス指向心理学概論」藤見幸雄 発
集団に現象するドリームボディは家庭にも企業体にもあると思う
「ドリームボディとは夢=身体を意味する(ミンデルはC・A・マイヤーが夢と身体の共時性について述べて以来、ユング派として初めて、その考えをイメージやメタファーとして捉えるだけでなく、ボディーワークに応用したのだ)。
それは、いわゆる『この現実(現象学的に言うと、合意された現実)』より深みにあり、夢にも身体症状にも分(節)化されておらず、そしてその両者として表現されうる独自の現実性と自律性をもった存在、というとイメージしやすいかもしれない。(中略)
またそれは、『この現実』からすると、夢でも身体でもありながら、夢だけにも身体だけにも還元できない『中間者』『両義的存在』あるいは『X』とでもしか言いようのないものである。あるいは心(夢)と身体を明確に区分するデカルト流二元論では対応しきれない存在と言ってもいいだろう(したがってそれは『肉体』とは異なる)」
なんだか哲学的で難しい内容のようだが、ことドリームボディなのだから、感性で理屈ぬきにつかみ取るならばポイントはとてもシンプルだ。
たとえば、工業製品でも誰もが認める名品というのがある。単にデザインが優れているだけでなく、搭載した技術や需要した時代の人々の息吹を時を隔てても鮮やかに伝え続けるような代物だ。そういう点では、秀逸なる伝統工芸品や美術工芸品のような存在なのかも知れない。私たちがそれらをいかに感じて捉えているかというと、夢でもあり物体でもある、まさにドリームボディなのではないか。
さらにそれらを作り続けてきた何かも、文化風土と精神規範に裏打ちされたいわば◯◯魂でもあり、特定の集団や組織でもある、つまり両者不可分のドリームボディと言えまいか。
ドリームボディが夢であり身体であるように、企業のドリームボディも理想的には、企業精神を拠り所にした社員の魂の総体でもあり、グループとして有機的に連携機能する事業組織の総体でもある、両者不可分の何かである。
そしてじつは、社内外の人々に対して有意義なコミュニケーション効果をあげる企業ヴィジョンとは、この何かを魅力的に感じさせる物語でなくてはならない。
しかし、もしそもそもヴィジョンづくりが、現業の事業部方針に対して当たり障りのない言葉上の整合性をとるだけで、まったくもって現実的な事業戦略を統括するつもりがはなからないという前提で行われていたら、まずそんな白けたお遊びの経緯自体が社員と職場に対する最大のメッセージになっている。
また、「人材の個性を育み生かす」という魅力的な物語が語られたとして、現実には組織制度を機械化し人材をその規格に適合する機械部品化して、不適合人材をただただリストラしているのであれば、「絵に描いた餅」よりタチが悪い。しかしそういう企業は少なくない。
環境保全や環境技術、省エネ技術の向上を謳い上げる企業は多い。しかし、世界の平和や友好への貢献に言及する企業は少ない。実際に石油はじめ鉱物資源をめぐって戦争や紛争が起こっている以上、代替エネルギーの開発や石油消費の低減による世界平和への貢献に触れてもいいはずだし、貿易摩擦を回避することによる友好、そしてフェアトレードによる南北問題是正にも触れてもいいはずだ。
物語に魅力を感じるのはヒトである。
その会社に入って仕事をしようと夢見る若者から、その会社の商品やサービスを買って生活や人生を向上させようとする市民までのヒトだ。
ヒトに、相手側の関心事において魅力的に受けとめられる物語を、現代の一流企業の多くは、紡げないのか、紡ぐ気持ちがそもそもないのか、そのどちらかのようだ。
それは「企業のドリームボディが疲弊しきっている」ということもあるようだ。
自分のことばかりで必死の人間に、他人の期待や信頼にこたえる余裕がないかのように。
現実に、トップが数字を上げた中期事業計画のようなステートメントを提示して、それこそがカンパニー・ヴィジョンだとして平然としている企業もある。
すでに企業とは、「ただモノを作って売る」「ただサービスをしてお金を稼ぐ」機械のような事業組織の総体でしかない、そう公言しているようなものだ。
企業は、精神理念を拠り所として働く人々の魂の総体ではなくなってしまったのか。
ヒトが信頼し期待するのはけっきょくはヒトだ。そうい点から言えば、企業は、生活者や社会から期待と信頼を受ける「人づくり」を真摯に目指すものでもなくなってしまったのか。
こうした事態は、ドリームボディの疲弊が、ドリームの疲弊とボディの疲弊の両方を、そしてその他のチャネルを通じての諸々を来していると解釈できるようだ。
ドリームボディと8つのチャンネル
「ドリームボディは夢と身体症状に収まりきるものではなく、他の『チャンネル』にもさまざまな形で現れる(中略)。そして、そのチャンネル間で行き交う『X』の自律的なプロセスを尊重してワークを進めるところから、『プロセスワーク』あるいは『プロセス指向心理学』と呼ばれるようになった」
「主に次の8つのチャンネルがある。
まず感覚器官(いわゆる五感)に根差したものとして、『聴覚』『視覚』『身体感覚』『動作』『嗅覚』『味覚』の6つ。
さらにその6チャネルのいずれかに関与しながら、時にそれ以上分解(還元)不可能なプロセスを捉える複合チャネルとして、『対人関係(二者間の関係)』と『世界(三者間以上の関係』(たとえば、家族、共時性、多くの先住民文化にとっての自然など)の2つ」
ここで注目すべきは、POPの考え方では、自己表現の対象との「対人関係」、その背景や舞台となる「世界」、その際の個人の身体症状(身体感覚)や夢(視覚)、さらには姿勢(動作)や声のトーン(聴覚)は、ホログラフィックあるいはフラクタル(筆者注:形成原理として自己相似的)な関係にある、とするところである。
「デカルト流二元論が『現実』を内と外にはっきり分けるのに対し、POPはドリームボディという独自性をもった現実を『非内非外』と捉えるのだ」
このことは、どうしてそういう現象が起こるのかを説明することは困難だが、多くの人々が経験として理解していることだと思う。自分の心の状態が周囲の状況を導いたり他者との関係に反映することをもって「鏡」をメタファーとする説明をきくが、そういうことから、虫の知らせやちょっとしたことから直感や予感を得ることまで、枚挙に暇がない。
(私は、『非内非外』という言葉に触れて、たまたま昨晩テレビでみた女性大和絵師のレポートを思い出した。彼女は貝合わせの貝の内側に絵を描いていて、こういう主旨のことを語っていた。
「貝の内面に絵があるという感じではなく、貝の内面の向こうに平安の世界が見通せる、そういう感じの作品を求めている」
貝合わせの貝を合わせた時、内と外が物理的には発生する。しかし、貝の内面の向こうに平安世界を見通せるという精神的な現象を捉えれば、合わせた貝の内側は全周囲を平安世界として見通せる中心であり、外側は閉じた私がいる世界ではなくて、見通された平安世界が広大かつ深淵に広がる世界である。
ドリームボディの『非内非外』という現象は、メタファーでもあるが、8つのチャンネルによって知覚しうるホログラフィックなものということは、一つの日本的なイメージとしてはこういうことかも知れない。
貝合わせというモノが五感に訴えてくる諸々、そして貝合わせというコトが形成する「対人関係」と「世界」、それらの集約された時空が、合わせ閉じられた貝が集約しているように感じるのだ。)
そして、POPの真骨頂はこういうことだという。
「今日まで夢分析とボディワーク・セラピー、個人療法と家族療法の関係に見られるように、各心理療法は分断され、対立するものとされてきた。しかしプロセスワークでは、各心理療法は別々のチャネルを切り口としているものの、実は同じ『X』を取り扱い、フラクタルな関係にある」
つまり、8チャンネルそれぞれに、活用できる心理療法は適宜に活用してしまう、ということなのだ。
「適宜に」とは、「クライアントに布置されたプロセスが立ち現れるチャネルに、忠実に従っている」ということである。
仮に日本人向けセラピーとして、前述した貝合わせをツール化することにたとえるとすれば、
ある時は聴覚チャネルに向けて和歌を歌い上げ、
ある時は視覚チャネルに向けて絵画をみたり並べてもらい、
ある時は身体感覚チャネルに向けその印象のフォーカシングを誘い、
動作チャネルに向け貝を用いた仕草を誘い、
嗅覚チャネルに向け香道、味覚チャネルに向け茶道を連携し、
ゲームとしての貝合わせをモチーフに関係性チャネルに向けてロールプレイをしてもらい、
世界チャネルに向けて占いやグループワークをしてもらう、
といった具合いだ。
貝を閉じ合わせた際に現象する精神世界は、人それぞれに違うドリームボディを象徴している訳で、それをあるクライアントがどのように捉えて活性化するかは以上の反応によって表現されよう。
一次プロセス、二次プロセス、エッジでとらえる世界と私
「一次プロセスとは、そのとき布置されているプロセスの中で(私が)相対的に同一化しているプロセスのことであり、ユングの言うNo.1パーソナリティ(筆者注=合理的な自分)、
二次プロセスとは、相対的に同一化していないプロセス、あるいはユングの言うNo.2パーソナリティ(筆者注=非合理的な自分)を指す」
著者は分かり易い説明をしてくれている。
「その時々の一次・二次プロセスは、(私の)『立脚点』によって変化する。たとえば私が会社に迫害されている夢を見て、不愉快に思っているとしよう。このとき(私の)立脚点は迫害され不快に感じている私にあるが、プロセスワークではそれを『一次プロセス』と呼ぶ。一方、夢の中に布置されていながら同一化していない部分あるいはプロセス、つまりPOPで言う『二次プロセス』は、私を迫害する会社である。
しかし同僚からすると、時に私は迫害的である。私は自分は迫害的だとは思っておらず、むしろ迫害の犠牲者だと信じて疑わない。
が、多くの心理学者が教えるように、私は犠牲者であると同時に迫害者でもあるに違いない。この両者が私のプロセスとして布置されている。しかし一次プロセスに比べて二次プロセスは遠く、それに同一化したり、自分の一側面だと考えることは困難である。
次に今度は居酒屋でライバル会社の社員と議論し、何度も『うちの会社は・・・』と叫んでいる夢を見たとする。ここでは(私の)立脚点は『うちの会社』にある。先程までは迫害的だと述べていた会社に、私はたやすく同一化している。立脚点が私から会社に移動したのだ。それとともに私の世界も私から世界(チャネル)へと拡大した」
著者は、一次プロセスはほぼ「自我」に相応し、そこに不動の立脚点を確立する「強い自我の確立」を従来の心理療法は目標としてきたが、POPは、「立脚点ないし視点は本来動的なものであり、その変化(無常)を自覚し、変化に従うことのできる柔軟性をより重視している」とする。
「POPでは一次プロセスだけでなく、布置されている二次プロセスを自覚し、立脚点を移動させ、そちらからも世界を経験することを大切にし、それを『深層民主主義』と呼んでいる」
「しかし先程の例(筆者注:会社に迫害される夢)を見るまでもなく、すでに布置されたものとはいえ、立脚点を自覚的に二次プロセス(筆者注:同僚を迫害している自分もいる)に移行させることは困難である。それは一つには、自覚が往々にして一次プロセスに汚染されているためである。また、立脚点の変化が、世界観、生き方、人生の神話(脚本)の死(と再生)を突きつけかねないからである。(中略)
が、POPは、ラディカルにもその(筆者注:立脚点を変化させる)立場を採用していく。
その一つの方法が、『増幅法』と言われるものである。これは、布置され自ずと生じてきた二次プロセスを深く体験することを促す技法である。それにより立脚点の変化と二次プロセスを自覚し、主体的に受容するのをサポートするのである」
その具体的様相については記事を改めて触れたい。
本論では、この立脚点の変化こそが、パラダイム転換の現実化を可能とする上で必要不可欠なスタートラインであるという観点から、さらに検討を進めたい。
「一次プロセスと二次プロセスの間に、POPでは『エッジ(境界)』を想定している。
それは二次プロセスとその立脚点にとっては保守的なもの、妨害者、壁のようなものである。
しかしその一方、一次プロセスにとっては、従来の世界観、生き方、見方を守り、保護する卵の殻のようなものである。
したがって、プロセスワークがラディカルなものであるとはいえ、それを行う者はエッジの両価的な性質を考慮し、クライアントのフィードバックを尊重しながら慎重にワークを進めていかなけらばならない。さもなければクライアントの従来の生活を不必要に揺さぶり、混乱をもたらしかねない。(中略)
クライアントのプロセスを操作したりプッシュすることなくプロセス指向であるには、フィードバックを尊重することが何より大切である。POPは一時『フィードバック指向心理療法』と命名された程である」
「エッジをより詳細に描写するなら、それは一つの状態(世界)から他の状態(世界)、あるいは一次プロセスから二次プロセスへの過渡(移行)状態と言える。従来の(一次プロセス的な)立脚点がもはや機能せず、かといって別の(二次プロセス的な)立脚点もまだ定まっていない、あれでもなければこれでもない中間的ないし両義的な状態(領域)である。
ゆえにそれはクライアントを混乱させ不安にさせる。
が同時にエッジはあれでもありこれでもあり、二次プロセスを新たに生む創造性と可能性に満ちあふれた空間でもある」
これは、ナラティブ・アプローチにおける「支配的な物語」に対して「もう一つの物語」を紡ぎ出す過程において、「支配的な物語」が機能しなくなっているにも関わらず、「もう一つの物語」が生まれていない段階に似ている。
二次プロセスを自覚的に導くのが困難なことは、たとえば企業において経営者が社員に「もう一つの物語」を紡ぎ出すための対話を積極的にさせない状況に似ている。
おそらく、企業の疲弊したドリームボディの再生を導く上での一次プロセスから二次プロセスへのエッジは、物語のX軸とプロセスのY軸による概念ポートフォリオで検討することができるのだろう。ちなみにハーレイダビッドソンや旭山動物園の起死回生は、市場的に機能しなくなった「支配的な物語」からすれば非合理的な二次プロセスへの立脚点の変化がスタートラインになっていて、こうしたプロセスを概念ポートフォリオに描けると思うのだ。
POPの新たな展開
POPに関する基本的な情報を述べた後、著者はその後の発展について解説している。
その中で私が注目するのは以下のことだ。
「一つには病や身体症状に関して、センシェント(sentient)と呼ばれる独自のリアリティを持った、ドリームボディよりさらに微細な(精妙な、直観的な)領域を射程とするようになった点。
この領域に働きかけるには、瞑想的な態度が必要とされる(中略)。これには瞑想に加えてフォーカシングやネオシャーマニズム的技法が役立つ。
それに加えて、発見されたエッセンスを、自己実現の過程を進めることができるように、イメージや身体、詩、箱庭などを用いて展開あるいは表現してみると良い。このとき注意すべき点は、(元型心理学流に言えば)私のではなく、病や症状の自己実現の過程が促されるようにすることである」
私がミンデルの集団対応に学ぼうとしているのは、ワールドワークのような葛藤を表出させて劇的体験を求めるようなことをしたいからではない。ワールドワークは利害関係や価値観が対立する物同士を現場相対させて行うもので、企業社会で言えば、ファシリテーターが介在した労使の団体交渉のようなものが連想されてしまう。
そんなものは社内でやってもらいたいし、そんなものを公式に行えるような体質であれば危惧されるような状況にはないとも言える。
私は外部ブレインであり、またパラダイム転換の発想ファシリテーターである、という立場を離れるつもりは毛頭ない。私が応援したいのは、あくまで多彩なパラダイム転換を多様にしていきたい社員有志であって、利害対立の代表者のどちらかの肩をもちたいという政治的な意図とは無縁だ。
そんな私がミンデルに一番学びたいのは、社員有志の立脚点のしなやかな移動と、有志予備軍の立脚点のゆるやかな移動による取り込みの方策である。
それには、「増幅法」よりもセンシェントを射程とする瞑想的態度を、有志の琴線にかかる某かの方法で促進していくことが有効だと直感している。
おそらく、これには非言語的シグナルへの働きかけである「シグナル・ワーク」に働きかけることや、対人関係や場のテーマを見抜いて「ドリームアップ」(相手の無意識的なダブルシグナルに無自覚に反応しいつのまにか相手の無意識の一側面を演じさせられる状態)を解消することなどが有効なのだろう。しかし、私のような、社員の方々とともにそういう場に居合わせることはないタイプの外部ブレインには、それらはそのままでは使えない方策なのだ。
たとえば、「シグナル・ワーク」は自閉症の子供が非言語的なシグナルをじつは発していてこれに働きかけたりすることだが、けっして有志とは言えないサイレント・マジョリティの社員でさえ、外部ブレインの私に隠れた回路で非言語的なシグナルを送ったり受け取ったりはしている。たとえば、私のあるブログ記事にアクセスしてカウント数を急激にアップさせることなどだ。さらに、現状を変えたい有志社員であれば、私が提示するパラダイム揺さぶり型のアイデアに触れて、立脚点のしなやかな移動を促されるかも知れない。そして自らのアイデアを発想する過程が、内省的な瞑想的態度に実質なってくれれば良い、私はそう考えることにしている。
ミンデルの集団対応に学んで私なりの方策を捉えて行きたいとは、そういうことの延長にある。
著者は、POPの新展開の解説の最後である論文の最後を、「メタスキル」に触れて締めくくっている。
「メタスキルとは、スキルを超えたもの、つまりセラピストの技術を扱う姿勢、情緒的態度、雰囲気に対する自覚を言うが、POPではこれを特に重視している。(中略)
プロセスワークでは、セラピーのスキルは勿論、メタスキルの意識化が常に問われるのである」
メタスキルは、現場相対で働くが、じつはメールのやり取りからブログやSNSといったデジタル・コミュニケーションを通じても働くと考える。むしろ、受け取る側に自分をさらすリスクがない分、ある意味マイペースでこまやかに取捨選択して受け入れられるのだから、受け取られた部分に関しては狭く深くの効果があるのではないか。そして、私が狙っているのは、私の考えやアイデアへの共感よりも、社員有志その個々人なりの立脚点のしなやかな移動であり、こうしたデジタル・コミュニケーションにおけるメタスキルの働きはより有効ではないか、と期待している。
私が研修フォローとしてやっているブログに受講修了者を中心とした社員有志が覗きにきてくれる、これでもいいと思っている。
しかし、多様多彩なパラダイム転換志向の社員有志が<内省を共有するような場づくり>としてSNSを展開して、私もその場に外部ブレインとして参加させてもらう、といった社員有志の主体性を前提とした形が望ましいとも思っている。