社会構成主義と「コンセプト思考術〜日本型集団独創」の一致点 その6 |
記号論から脱構築へそして社会構成主義へ
「言語研究をはっきりとした形ではじめて行ったのは、スイスの言語学者ソシュールでした。(中略)ソシュールの記号論は、「記号の科学」、すなわち私たちがコミュニケーションするシステムに焦点をあてた科学でした。
私たちの目下の議論にとって重要なのは、ソシュールによる次の二つの主張です。
第一に、彼は『意味するもの(シニフィアン)』と『意味されるもの(シニフィエ)』という概念を提示しました。(中略)ソシュールは、『シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的なものである』と述べています(筆者注:たとえば、なぜ机のことを『つくえ』と言うのかは、誰かがそう呼んだことに始まる)。(中略)
第二にの重要な主張は、『記号のシステムはその内的な論理に支配されている」というものです。私たちの言語(記号システムとしての言語)は、文法や統語法などの、さまざまな規則によって記述することができます。」
この考え方は、前に触れた「言葉の写し絵理論」「言語の対応理論」のような「言葉は、事実と対応したものであるはずだ」という考え方を否定する。
「では、いったいどうして特定の言葉の配列に、『事実と一致している』という特権が与えられるのでしょうか。
言葉と世界を結びつけているものは、いってしまえば社会的慣習に過ぎないのです」
「ある言語を『客観的に正確である』とし、別の言語を『感覚的である』あるいは『不明瞭である』として区別するものは、いったい何なのでしょうか。(中略)
私たちが出会ったのは、多様な記述のスタイルだけです。ここからいえるのは、真理も『一つのスタイル』-----中でも好ましいとされるスタイル-----にすぎないのではないかということです。(中略)
いかに『真理』『客観性』『報告の正確さ』が主張されていても、実は『ものごとを表現する方法の一つ』を見せられているにすぎないということ、これに私たちは気づかなければなりません。これらは「慣習にもとづく真理」であり、いってみれば、ある特定のグループの人々によって、真理の特権を与えられているだけなのです」
「客観的合理性に裏打ちされた事業計画」が発表される。(獲らぬ狸の皮算用の数字も言葉であり言い回しである。)
後にそれがまったくの空振りに終わり経営不振に陥り、
「あの時点では正しい判断だった」との弁明がなされる。
そうした事態を思い起こせば、ソシュールの言っていることが、別段高邁な哲学ではないことが理解される。
「ある単語や言い回しは、『世界がどのようにあるか』ということとは無関係に(筆者注=『経営がどうあるべきか』ということとは無関係に)、他の単語やフレーズとの関係からのみ、その意味を与えられる」
ちなみに明らかな経営の失敗を前に「あの時点では正しい判断だった」と弁明することは、実質的には従業員と株主をふくむ社内外に対して「うちの会社のことで経営に口出しすることはまかりならぬ」という意味を発している。
「世界についての理解が、言葉の間の関係のみから成り立っているというこの可能性に最も関心を示したのは、文学理論、中でもフランスの理論家デリダでした。(中略)
私たちに特に関係があるのは、次の二点です。
第一に、すべての有意味な行為-----合理的な決定をする、人生における重大な問題に対してよい答えを出す-----はすべて、『ありえたかもしれない多様な意味を抑圧する」ことによって成り立っています。合理性とは、非常に近視眼的なものであるということです」
もし、近視眼ではない「曖昧」とか「どっちつかず」という選択肢があるならば、それが一番いいということか。ひょっとして、「中庸」とはそういう意味だったのか。
マーケティング&マネジメントの世界では、すでに「不確実性」を前提にした非決定論的経営戦略が評価されてきた。毎年毎年、「市場や競争はこうあるだろう」と予測し「だから我が社はこうすべきだ」とする決定論を繰り返す経営の不毛が現実に明らかにもなってきた。
「第二に、私たちが行うすべての決定は、たとえいかに合理的に見えても、合理性の根拠を突き詰めていけば必ず崩壊する可能性をはらんでいます。したがって、合理性がある-----理性にかなっている-----からといって、特定の政治や科学(筆者注:そして経営)の制度に正当性を与えることもできないし、何が道徳的であり、何に価値があるのかを決定することもできません。
結局、私たちの『理性』とは、抑圧的であり空虚なものなのだとデリタは主張します」
つまり、こういうことだ。
私の持論は、<モノ割り縦割り>で組織を機械化し人材を機械の部品のように捉えていくことは、人材を活かす上でも、ブルーオーシャン戦略を推進する上でも、業界で資本規模劣位の企業にとってはリスクが大きく長期的には勝ち目はないという経営の観点からも、合理的ではないとし、<コト割り横ぐし>の各種事業戦略要素、各種組織戦略要素も経営は取り入れた方がいい、というものだ。
しかし<モノ割り縦割り>の方がいいとする人たちは、それでは「選択と集中」が完結しないから競争力がそがれる、不採算部門を整理するのは「家族の稼ぎ頭を引き立て家庭を守るために不可欠」なのと同じ理屈だ、リストラにしても「早期希望退職に応じる方が本人のためには幸せなのだ」といった、これまた合理的な反論ができる訳だ。
(じつは、私が社会構成主義を勉強しようと思ったのは、このような、ともすると私自身があえて眼を向けなかった現実を出発点とする知見だからだ。
ただ、その知見に行き着くためには、まだまだ本書を緻密に読み込み自分の課題にひきつけて内省的読書を続けなければならないが。)
「脱構築主義者たちは、合理性が意味の抑圧や剥奪の上に成り立つという結論に、どうやって到達するのでしょうか。デリダは、初期の言語論にもとづいて、言語とは差異のシステムであると考えました。
彼によれば、言語は一つの流れのようなものではなく、個々の単位(語)に分けることが可能です。それぞれの単位(語)とそれ以外の単位(語)以外の間には差異があります。ここで言う差異とは、二分法(二つに分けること)を意味します。つまり、それぞれの語を弁別できるのは、『その語』と『その語ではない』との間に裂け目があるからなのです。(中略)つまり、言葉の意味は『在』と『不在』、すなわち、その言葉によって示されるものと示されないものとの区別によって成立することになります。
言葉が意味をなすということは、『不在』を背景として『在』の側から話す-----『示されないもの』を背景にして『示されるもの』の側から話す-----ということなのです。
おわかりのように、『在』の方が特権的であり、言葉それ自体によって焦点をあてられるのに対して、『不在』はただ暗示されるか、完全に忘れ去られているのかのどちらかです」
ここで、「コンセプト思考術」のパラダイム転換の発想を誘い洞察を深める思考フォーマットを思い起こして戴きたい。
<送り手側のモノ提供の論理>の色眼鏡で無自覚的に受け入れている現状の問題を洞察しようとつとめ、
<受け手側のコト実現の論理>の色眼鏡で自覚的に本来あるべき理想を発想しようとつとめてもらう。
最終的な発表では、前者から後者にいたる起承転結の物語にしてもらうが、洞察発想の段階では、後者のある概念要素の所定空欄に記入されるべき言葉が想い浮かび、後帰って前者のある概念要素の所定空欄に記入されるべき言葉が連想され、他の満たされていない空欄に記入されるべき言葉を推量していき、パラダイム転換の全体像が外在化してくる場合もある。また、逆に、前者から後者に順説に言葉が想い浮かんだり、推量により空欄が満たされていく場合もあるし、全体像が外在化してそれを踏まえていま一度前者の空欄から起承転結の順説で修正していって仕上がる場合もある。
いずれにせよ、どの局面も、
パラダイム転換発想とは、『在』を背景として『不在』の側から話す-----『示されているもの』を背景にして『示されていないもの』の側から話す-----ということと言える。
それを支援するツールとして、
<送り手側のモノ提供の論理>の色眼鏡
<受け手側のコト実現の論理>の色眼鏡
がある。
そして、この色眼鏡の使い方は、たまたま浮かんだ発想の断片を、概念要素に応じた所定空欄に言葉として記入し、たまたま気づいた洞察の切り口を手掛りに満たされていない空欄を推量によって埋めていき、魅力的な物語を構成するように全空欄の言葉使いを収斂させていくというもので、「コンセプト思考術」は酷評する人たちの言葉通り「合理的な推論」ではない。「物語的な推量」なのである。
「ただし、『在』は『不在』なしには意味をなさないということに注意しなければなりません。二分法の区別、すなわち差異がなければ、意味はありえないのです。(中略)
ここで、脱構築主義者の議論を思い出してみましょう。
脱構築論によれば、『物質』という言葉は、二分法、すなわち『非物質』との差異にもとづいて、その意味を獲得するのでした。そこで、この二分法を『物質/精神』を例に考えてみましょう。(中略)物質が意味あるものになるために、精神が存在しなければならないとすれば、もはや『宇宙イコール物質』ではありえません。別の言い方をすれば、物質主義の世界観では、精神的世界が片隅に追いやられてしまっているのです。精神は、語られない『不在』です。しかし、この『不在』の『在』がなければ、『宇宙は物質である』というまさにその意味が、成り立たなくなってしまうのです。
あらゆる物質主義的世界観が、精神の抑圧に支えられているというのは、こういう意味なのです」
<送り手側のモノ提供の論理>の色眼鏡で見抜くことができた「じつは問題ある現状」=「在」は、
<受け手側のコト実現の論理>の色眼鏡で導くことができた「本来そうあるべき理想」=「不在」の抑圧に支えられている。
非常に鋭い洞察による有意義な発想の発表をきいた受講者は、「言われてみればそうだよな」と「不在」の可能性を知り、「なぜそういうことをしないのだろう」と現実における「在」による「不在」の抑圧に気づく。
発想演習では、ターゲットとする「受け手」とその未対応ニーズを概念ポートフォリオで想定する。だから発表をきいた受講者は、「受け手」の身になってみれば、現実に困っているだろうと理解したり、その理由として「送り手」の自分たちの都合のよいターゲット想定をはじめとする<送り手側のモノ提供の論理>(たとえば万人狙いで手間なく儲けやすい手慣れた方法に限界づけているなど)が見えてくる。
「コンセプト思考術」の発想演習で、初日は作業の全体や記入する言葉使いのルールをざっと指導するために課題テーマを出すが、それでも、正しい一つの答えがある訳ではない。それは、正しい一つの答えを求める合理性や合理的な推論とは、デリダの言うように「ありえたかもしれない多様な意味を抑圧すること」だからだ。つまり「コンセプト思考術」は、<送り手側の論理>の合理性によって「抑圧されている、ありえる多様な意味」を物語ってみる作業と言えよう。あるいは、「片隅に追いやられてしまっている多様な世界」を物語ってみる作業と言えよう。
デリダのデの字も齧ったこともなかった12年前の私が、こうまで社会構成主義と一致点のある「コンセプト思考術」の思考フォーマットをどうして直観したのか、今にして思えば不思議としか言いようがない。。
考えてみれば、少ないながらも良き理解者や固定ファンに恵まれたことも幸運だった。
「コンセプト思考術」は「合理的推論ではない恣意的なものである」と批判されればほんとにその通りと頷くしかなかったのだから、否定されたり相手にされなくて当然だった。
デリダを引用して反駁することは私にはできなかったし、しても理解する人もいなかったろう。
何の権威も知名度もないフリーランスの私が、たまたま思いついた思考フォーマット1つ、バカの一つ憶えと言われて12年、しかも研修講師は本業ではないのによく続けてこれたと神に感謝せずにはいられない。いや本業ではないから正しいと思うことを率直に言い続けてこれたのだろう。
余談だが、少し前にマーケティング&マネジメントの流行語となった「レッドオーシャン市場に対するところのブルーオーシャン戦略」は、そのまま<送り手側のモノ提供の論理>に則った品種・業種・店種と、<受け手側のコト実現の論理>に則った品態・業態・店態のことだった。コンセプト思考術の受講者は外来のビジネス翻訳書の出版のずっと以前から、また出版後もそれを読んでその筋の専門用語で考えなくても、すでにその本質を理解していたことになる。私はまったくこの上ない天からの授かり物を得たのだと思う。
「私たちは、さまざまな場面で、自信満々の専門家や権威に出会います。しかし、デリダにいわせれば、彼らの自信には何の根拠もないということになります。合理性とは、空虚なものだからです」
私がやってこれたのは、誰も疑いを挟むことのなかった、万国共通の言葉使いの4概念要素を用いたパラダイム転換の原理原則の除けば、思考フォーマットを使って魅力的なパラダイム転換アイデアの物語を紡ぎ出せるかどうかは、やってみなければ分からない。つまり自信満々とはなれない。それを良い意味で受けとめてくれた人たちが良き理解者となってくれたからだと思う。彼らは様々な筋の専門性に対してデリタ同様の疑問符を直観的に抱いていて人たちだった。
一方、様々な筋の専門性を後ろ盾にして私の自信満々でない様子をみて、それを私の弱みやコンセプト思考術の弱点と受けとめた人たちが批判者となったのだと思う。
しかし、それはなるべくしてそうなったことで、今にして思えばそれで良かったのだ。
そういうことを分からせてくれた本書は、私にとって意味のある本となった。本の序盤を読み終えただけでまだまだ先が長いが、じっくりと自分の課題にひきつけて内省的に読破しようと思う。
「『言語は自己完結したシステムであり、それぞれの語の意味は、他の語との関係に依存する』(中略)
デリダによれば、語と語の依存関係は、『差異(difference)』と『遅延(deferral)』の二つから成り立っていると考えることができます。
第一に、それぞれの語は、他の語との違いによってその意味を獲得します」
「講演(こうえん)」は、「講義(こうぎ)」や「講習(こうしゅう)」などとの違いによってそれと認識される。
しかし、差異だけでは語を理解するには十分ではない。
同じ (こうえん) でも「講演」なのか「公園」なのか「公演」なのかは、語を聞いただけでは分からず、文の前後関係から推量される。
「つまり、ある語は、言語学やテキストの多様な歴史から、(中略)意味の痕跡を引きずっているのです。
そしてこの『差延(differance)』(「異なること(difference)」と「遅延すること(deferral)」の区別を超えるために、デリダが編み出した造語)のプロセスには出口がないという点に注意しましょう」
私たちは日常会話で、「ああ、この人の言っている (こうえん) は講演のことだな」と前後関係において納得している訳だが、それは、起点ないし終点になる語を探り当ててそうであると納得する訳ではない。あくまで文脈という全体の語の関係性によって納得する。
この仕掛けは、会話だけの話にとどまらない「言語のもつ記号システム」なのだ。
「『民主主義』という語は、それと対比する語、例えば『全体主義』や『君主制』などから文字の上で区別されることによって、意味をもつようになります。しかし、このような差異だけではまだ、その語を理解するには十分ではありません。単なる『君主制ではないもの』以上のものとしての『民主主義』とは何でしょうか。その意味をより明確にするためには、『自由』や『平等』のような別の語を待つ必要があります」
そして「自由」や「平等」という語もまた以下同文な訳で、差延のプロセスに出口がない、ということになる。
「コンセプト思考術」の4概念要素による6つの所定空欄には、パラダイム転換物語を形成する内容の言葉使いが求められる。
それを私たちは、「合理的推論」によって、最初の空欄にこういう言葉が入ったのだから次の空欄はこういう言葉が入るのが合理的だ、と記入していくことはできない。
まして、順序よく記入しおえれば、オートマティックに誰もが一つの正解のパラダイム転換物語に行き着く、ということはあり得ない。
繰り返し述べてきたように、たまたま思いついた発想の断片や気づいてしまった洞察の切り口を、その概念要素にふさわしい所定空欄に記入し、満たされていない空欄を、より有意義かつ魅力的な起承転結物語が紡ぎ出されるように推量していくしかない。
出来た、と思うまで試行錯誤が続く。
こちらにこういう言葉使いを記入したら、前に記入したあちらを書き換える、すると全体の起承転結がみえてきて、それなら出だしはこの方がいいんじゃないか、最後はこういう方がメリハリがあるぞ、と書き換えていく。
そして、物語に語れば確かに起承転結の文脈であるが、そもそもの概念要素の関係は全体と部分がホロニックなものとなっている。つまり、どこかが起点でどこかが終点ということではなく、概念要素の相互関係が一つのダイナミズムになっている。記入内容がそういう状態になった時が出来たと感じる時なのだ。
こうした思考フォーマット記入内容の書き換えを、ある時仕上げたのち時期を隔てて環境変化に応じてさらに続けることはとても大切なことで、是非やるべきだ。
物語的には結論となる、理想のパラダイムを実現する具体的な手段の空欄の記述は、テクノロジーの進化で変化する。すると、その前提である、発見すべき問題から捉え直す必要がある筈だ。
また、デリタの言った「差延のプロセスに出口がない」とは、物語は、誰が誰に、いつ、どこで、どのような機会に語るかでまったくコミュニケーション効果がまったく変わってくる、ということでもある。創業者なきあとの優良企業の経営が多くの場合大きな試練を迎えるのはこのためだ。
さらにこんなことも現実的にある。
最初は<受け手側のコト実現の論理>にのっとって立案された新業態も、成功的なものほどすぐに競合横並びの代わり映えしないものに陳腐化していく。
たとえば、百貨店もスーパーもコンビニも新業態として誕生した時には、<送り手側の論理>にのっとった既存業種のに対するところの「不在」として登場した。しかし、やがて<送り手側のモノ提供の論理>にのっとった既存業種となり「在」の側に立ってしまう。だから、次なる新業態という「不在」が常に呼び起こされてきた訳だ。それは新型店舗の創出だけでなく、同型店舗における新サービスによって未対応ターゲットの未充足ニーズに掘り起こし、受け手にとっての意味を画期的なものとしてもきた訳だ。
こうした過去と現在を踏まえて未来を模索し次なる思考フォーマットに「もう一つの物語」を紡ぎ出していくことも、「出口のない差延のプロセス」を敢えて物語ってみるパラダイム転換発想なのだと思う。
「脱構築主義は、合理的推論の無意味さを明らかにしますが、それ自身もまた、合理的推論です。デリダ自身も、自分の主張もまた維持されえず、彼の言葉によれば『抹消』されなければならないということに気づいていました。
デカルトは、自分の感覚、あらゆる権威、あらゆる知識に対して疑いをもちましたが、自分が疑っているというそのことだけは疑うことができませんでした。しかし、自分で疑っているということ、それさえも疑わなければならないのではないかという議論も生まれてきています。永久にもちこたえられる核のようなものなど、もはや存在しないのです。
このような批判と行きづまりの絶望という土壌に、社会構成主義という新しい芽は出てきます」
これが第一章を次なる章に引き継ぐ著者の言葉だ。
「永久にもちこたえられる核のようなものなど、もはや存在しない」という差延理論は理解した。
しかし、それを前提にしても、私は哲学者ではないので、
「疑っていることを、疑わなければならないかどうか」よりも、
「信じることを、どうすればもっと信じられるようにしていけるか」に関心がある。
鍵は、「信じることをもっと信じられるようにする物語を、紡ぎ出しては語り合っていく」ということだと思っている。
少なくとも、「コンセプト思考術」はそれを目指していきたい。
そして、「日本型の集団独創」も、そういうものだったと思う。