「ご近所の底力」と「しゃべり場」の「語り」の違い 追記というかついで |
この2つって、たまたま同じNHKがやってる時代のコミュニケーションのあり方を象徴する番組だと思います。
酒場にも、 すみません例が卑近で、
「しゃべり場」的な店と「ご近所の底力」的な店とあり、残念ながらほとんどは前者ですが、後者も稀少ではありますがありますね。
で、その店の主とそこに集う人がそれを決定しているようで、「しゃべり場」的な話しかできない人と、せっかくのその場の縁を大切にその一期一会からしか生まれぬ何かをともに探ろうとする「ご近所の底力」的な人がいます。
若〜い頃は、日本が劣っていて、欧米は勝っているようなとても短絡的な勘違いをしていたのですが、最近は、古今東西とわず、そういう2人種とそれが集う2つの場があると思うようになりました。
一時的なその場だけの小我の感情的優位という、次元の低い刹那的な利得を追求する人や場、がある。
そしてそれと対極的に、
本来こうあった方が有意義なのではないか、楽しいのではないかという、誰が考えたという訳でもないが誰もが素直にうなづけるような、そこで生まれる有意義な発想を求めそれを大切にする、そういう人やそういう場、がある。別にそういう人が大我の人とは言いません。ただ、酒を飲む時くらい日常の小我の自分を忘れたい、そういう忘我の人になりたい人ではあるのでしょう。
これは縁起なのでしょう。
そういう人同士の出会いや場が結縁するところはなぜかいつも結縁し、しないところはどうころんでも絶対にしない。
なぜそうなのかはじつに不可思議で、誰も因果関係として説明はできません。
しかしそうであること、つまり意味のある偶然の一致が現象する共時性は、みなさん経験則で知っている。
じつに妙味のあることです。
実際問題として酒のうまさに関わります。