社会構成主義を生に勉強中 |
コーヒーブレイクにmixi日記を「僕」を「私」にかえて以下転載します。
12年の塵埃を払拭する作業はなかなか終わりません。しかし、それを自分の身体をつかって無心にすることは、自己革新をめざす新しい門出においてとても大切であると直感します。
新しい物語を紡ぎだして行くためには、古い物語を心の底からきれいに終わらせなくてはなりません。)
ここ3月、4月、5月は引っ越しの準備、実施、後処理に専念していて、仕事としては、年度末に今後の研究課題ときめた社会構成主義の読書だけをしている。それも遅々として進まないのだが、寸暇を惜しんで読み進めると面白くてしかたがない。
自分の考えてきた多方面の事どもが社会構成主義のパラダイムで総括でき、それが分かっていくのが楽しい。5月には決算もしなければならないが、来期からの研究活動には今からワクワクしている。まずはその成果を今年度のPMSのテキスト更改に結実させるつもりだ。
社会構成主義については、「人間の織りなすさまざまな行為や関係を『言葉』『語り』『物語』という視点からとらえ直す作業が、人文科学、社会科学のさまざまな領域で活発化してきた」この思潮であるとだけ説明しておきたい。
まだ勉強をはじめたばかりでまったくその全体像について理解も想像さえも及んでいないからだ。
私はパラダイム転換発想において、自分および自分たちの思考を俯瞰的に客観するメタ思考を重視してきた。また、企業革新のヴィジョンづくりにおいて、南アフリカの白人社会をアパルトヘイトを自ら改めることに導いたシナリオプラニングを重視してきた。これは、利害の対立する者(南アフリカの場合は白人と黒人の代表)が共同で複数の可能性あるシナリオの経過と結果を予測するもので、利害を一致させるシナリオが問題解決策として関係者に納得される、というものだ。
メタ思考もシナリオプラニングも「物語」を主要な手段にしている点で一致している。
では、社会構成主義は、そうした従来の思考ツールと何がどう違うのか。
今のところの私の理解は、どうも、社会構成主義は、「物語」を独自の生き物のごとく扱う点が特徴であり、主義というからには、「物語」こそが、あるいはその乱立と対立が社会を構成していると主張しているようだ。
さらに、「物語」に着目しかつそれを新たな「物語」に転換させる関係者の語りを採集して全員で語り直しとも言うべき手法を展開することを「ナラティブ」というのだが、「ナラティブ」は医療分野から主要な実験成果を上げてきている。つまり、人文科学や社会科学にとどまらず、心理学や脳科学を媒介に、医療健康分野にまで展開している。(そこでは「ナラティブ」が「患者のケア」の方法論として論じられてまた実践されているのだが、これを「企業組織のケア」「商品開発のケア」と捉え直すことができる。)
「物語」が顕在潜在に自律的に存在していて、これに主体性を想定する社会構成主義は、「物語」が知情意の心理的働きだけでなく生理的な働きにまで、集団レベル、個人レベルで作用しているとする。この点、トランスパーソナル心理学のフォーカシングで、たとえば痛みに主体性を想定しこれに問いかけ答えを得ることに似ている。私は、ひらめきに主体性を想定しこれに問いかけ答えを得ることを発想を誘い洞察を深める方法論としているが、それはひらめきに内在する自律的な「物語」を見い出す行為と言える。)
私はここのところ代々木から伊豆高原への移転作業にかまけていて勉強ができないと述べた。
しかし、社会構成主義を身体知として学んでいると思う。
暮らしの場、仕事の場が東京都心から別荘地に変わるということは否が応でも「物語」の転換を迫る。
また、勝手気侭な単身生活から高齢の両親との同居に変わるということもそうだろう。
移転作業にまつわる体験は、この「物語」の転換プロセスの実感を伴っている。
たとえば、社会構成主義のある本のある箇所で「問題の内在化と外在化」という議論があった。
私たちが漠然と口にしている「問題」には、問題の原因、問題、問題の影響の意味があり、それをごっちゃにしている。そして、問題の原因を自分に求める内在化と他者や環境に求める外在化とがあるが、ともに問題解決に向かうにおいて困難がつきまとう。ところが社会構成主義者の独創は、問題の原因、問題、問題の影響をトータルに一つの「物語」として自律的な主体性を想定してしまい、関係者全員で客観視しようとするのだ。こうすることで、問題の原因=自分、あるいは、問題の原因=他者や環境、という形で問題が関係者や場と渾然一体になっているのを、ある振る舞いをして周囲を巻き込む一つの生き物のような「物語」として自分や他者や環境から分離することができる。これで、問題の現象全体=「物語」を客観視することと、問題から影響を受けるばかりでいた関係者の側が問題に対して影響を与えることができるようになっていく。これが、関係者が語る新たな物語による状況転換という問題解決につながっていく。
やや専門的で抽象的な解説になってしまうが、こうした方法論は、具体的には日産のゴーン社長が実際に指導したことであり、また私事の家族の感情の交流や力学においていかに問題と向き合いそれを超克していくかの重要な示唆となる、とても有意義かつ実効性のあるものだと思う。
前掲の本にはこういう一文があった。
「こうしてドミナント・ストーリー*のドミナントさが揺らぎ始める時、これとは別の新しいストーリー、オルタナティブ・ストーリーが生まれる準備が整ったことになる。
それは、たとえば、『自分がいかにしてブー(ある家族ケアのケースでカウンセラーが家族を支配していた物語に、その主体性を象徴して共通認識化すべく付けたあだ名)の罠から逃れたかを語り、人生は二度と奴の手には落ちない」という新たな物語のかたちをとる。
『問題に振り回されて途方にくれる物語』から、『問題の罠を見破り、それと戦う物語』へと物語は変わるのである。」
「*ドミナント・ストーリー」とは支配的な物語という意味で、交流分析心理学で言う「人生脚本」のことであり、企業体質論で言う「マインドセット」のことであり、僕のコンセプト思考術で言う「無意識のパラダイム」のことでもある。
伊豆高原の少し下田よりに伊豆稲取という温泉があり、たまたまmixiに「稲取温泉を救え!」というコミとそれと連動するコミの2つがあり、ちょっと前に連動コミの方に東京と伊豆を30年往復しいま移転しようとしているマーケティング・ストラテジストなりのアドバイスをしておいた。
観光振興の事務局長を公募したことが話題になりその選考結果がテレビニュースでも報じられたりしていた。その後どうなったのかと前述のコミを覗いてみると、たくさんの人たちからのアドバイスやアイデアの書き込みがあったにも拘らず、コミ主催者の思いもむなしくあまり現実の活動に反映される気配は無い。そこで、本家コミの方に最終アドバイスを書き込みした。
「ナラティブ」について触れなかったものの、本質的には、従来の物語の限界性を認めて、その箍(たが)を壊して、新たな物語づくりにチャレンジする気持ちに現地関係者がなるかどうか、それが成否を決するということを述べたつもりだ。(企業革新を試みたり、経営不振の起死回生を今試み中の人が読めば、組織の問題や課題とは*どこも同じだ*と思うに違いない。)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17862357&comm_id=1657224
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16028589&comm_id=1657224
(後者は、コメント14)
(以前に書き込みした連携コミとはこちら↓ コメント3,5,7,29)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14208044&comm_id=87326 0
不思議だな、とまたしても思う。
私はここのところずうっと東京から伊東への移転の物理的および手続き的作業に追われているのだが、それと並行して、私およびその周囲では、目下興味関心のあるテーマの対話や情報や検討が行き来している。
きっとそういうものなのかも知れない。
新しい「物語」 がすでに胎動しはじめているのか。
(何が*どこも同じ*なのか というと、
たとえばある会社が基幹事業(資源)がABCとあるとする。
そしてある個性的なライフスタイルなりあるワークスタイルの特定顧客を対象に<受け手>にとってのベネフィットの最大化をつねに図っているとしよう。
その際そのために、モノ割り縦割りよりもABCが適宜に連携したりしなかったりした方が良ければそうするのは当然だろうし、もし自らがもたない事業(資源)Dをも連携させた方がよければ異業種異業界の他社とも積極的に恊働して当たり前だろう。
しかし世間の実際はどうかというと、多くの企業とその経営者やその基幹事業(資源)を支える人材や組織は、モノ割り縦割りでAならAでやれること、BならBでやれること、CならCでやれること、つまりは自分たちの縄張りで自分たちの慣れ親しんだやり方をして保身と自らの立場の強化だけを短絡的に図っているのが一般的だ。それは、言葉使いを聞いていると明快で、そういう会社は、同じ専門性を感じ取り認め合える言わば同じ「部族の言葉」だけが行き交っていて、異なる「部族の言葉」と積極的に交流しようとしたり、ちょうど我が日本語のように多元的なパラダイムの言葉を混用することを無意識的に回避している。こういうことは、業界横断または学際的に仕事をしている外部ブレインからすると一目瞭然だ。
しかし、このモノ割り縦割りの枠組みでの知識創造と事業創造の方法で恒常的に勝って行けるのは、AならAの商品/サービス分野で資本規模優位のトップ1〜2社である、というのが世に言う「レッドオーシャン市場」に他ならない。そして、それは簡単な理屈なので、みんな頭で理解はしてはいる。
それでもなお、経営者はマネタリズムのマネジメントばかりを優先し、社員はリストラ圧力や職場で浮くことや面倒がられることを嫌って、けっしてそれから離脱し脱競合を図る「ブルーオーシャン戦略」を模索しようとはしない。それには本当に何か新しい物事を成功の不確定性のリスクをとって忍耐をもって創造していく、ほんとうの創造性と企業家精神が求められる。
資本規模劣位の日本のほとんどの企業が、業界横並びでモノ割り縦割りごとの競争ばかりをするのが当たり前だとさえ考えていて、自社がたまたま今市場優位にあるAならAの商品/サービス分野に一本化するのが最善策だと近視眼的に捉えている。そして人材と組織の機械化に短絡的に取り組み、自社の恒常的な個性的優位性を模索する道を放棄するだけでなく、同僚のリストラを黙認したり、自分たちの仕事を機械化する過程は、その会社なりの生い立ちや個性的な事業資源の取り合わせという個性を解消していって、アメリカ型のグローバルスタンダードに従いつつ、じつは悪名高いネオリベラリズムの金融資本主義を無自覚的に強化することに加担し、またわざわざそこに自分たちの企業社会を埋没させようとしている、とさえ言える。)/