現代の史記を律気に生きよう |
私事で恐縮だが、私は今週はずうっと引っ越しの荷造り作業をしている。およそ昼の12時から夜の12時までだが、無論、他の用事もある。
事務所と自宅の両方の引っ越しだからなかなか終わらない。そこにきて父が軽い脳梗塞で倒れて入院したりもしている。そもそも両親が二人暮らしする伊豆で、老老介護の限界がきて同居するための引っ越しだから日程を先送りする訳にもいかない。
さてそんな今日、さ〜て今日もやるかぁ〜、と作業を始めた時、本と資料の整理は終えた筈なのに、飾り棚にまだ本があるのに気づいた。
徳間書店刊の「司馬遷の史記」その4巻と5巻の2冊だ。赤いカバーに入っているのでアクセントに飾ったのだろうか?埃をかぶっている。飾ったのが10年以上前で憶えていない。
そこで4巻をパラっと開いてみた。するとそこにこういう文章があった。長いがそのまま引用する。(P72)
「山西省の山合いを南下する黄河の流れが、潼関(どうかん)のあたりで東に屈折し、やがて華北平原に出ようとするあたり、激流のなかに大岩がつったっている。その毅然としたありさまが、『中流の砥柱(しちゅう)』という形容を生んだ。信念を固守して、時流に流されぬもののたとえである。
流れに乗ろうとしない“頑固な精神”は、あるいは反動になりかねない。あるいはまた、新しい時代からは置き去りをくうかもしれない。だがしかし、このような精神が、風にそよぐ凧のおもりとなって、歴史を支えてきた一面の作用を無視することはできまい。
暴君を武力で倒そうとした周の武王を批判し、ついに餓死した伯夷、淑斉の兄弟をはじめとして、『史記』には、さまざまな“律気者”が登場する。時代や体制のいかんを問わず、人間が律気を失ったとき、歴史はどこに漂流していくだろうか。
この精神も歴史の表面には現れないが、底流となって継承されるのである。」
第二章「中流の砥柱(しちゅう」の最初の解説だ。
私にとって読書は血肉だと思う。
本人は忘れてしまった文章でも、感じ入ったことを実践しようと意識しないでもしてしまうようになる。そして、また実践したいと思うことが書いてある本を手に取って読む、そういう連鎖が生じる。
私は、あらためて現代の史記を律気に生きようと思った。
きっと、人それぞれに「現代の史記」を感じる今そして世界があるのだろう。