非攻にして墨守する「墨攻」 |
(「墨攻」公式サイト)
1989年、第1回の日本ファンタジーノベル大賞を受賞した酒見賢一の小説を、森秀樹が1992年から4年以上にわたりビックコミックで連載、いずれも香港等で翻訳され、それに感動したジェイコブ・チャン監督により撮られた。華人社会では日本人原作による反戦作品という点も興味をもたれるらしい。
出演者を香港、台湾、韓国の精鋭が、撮影と音楽を日本の精鋭が固めている。
私は、1986年個人事務所設立して間もない意気盛んな当時、原作小説を読んで「墨家」の理念と「墨攻」の仕事人としての有り方に心酔してしまった。
おそらく外部ブレインとして企業のプロジェクトに単身参画して、何らかの影響力を行使する仕事をしている人で、その仕事に自負をもつ者であれば、何らかの形で自らに引きつけて見てしまう内容だと思われる。
それが、大好きな「甲殻機動隊」や「イノセンス」の川井憲次の音楽で映画化されるという。私は昨年「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」で予告編をみてはロードショーを待ち遠しがった。奇しくもみな現代を問う反戦映画である。
私はこの映画は好きだ。
そもそも中華系の映画に好きな物は多いが戦記物だけはあまり好きになれなかった。これは初めての例外になった。
それは、やはり「墨家」と戦国時代の人間の有りようを現代において問うているからだと思う。
「墨家」が「儒家」とならぶ二大勢力であったことはあまり知られていない。
天下統一を果たした秦の後、「儒家」が官僚制そして中華思想の根幹になっていったのとは逆に、「墨家」は歴史から消えてしまったからだ。史実資料はほとんど皆無で、「墨守」という言葉が名残となっている。
その思想は、「兼愛」と「非攻」を中軸とし、激しく「儒家」と対立した。ともに官僚の精神的支柱になった訳で、その対立は代議員がいない王制の時代、今でいうと二大政党制の政策対立のようなもの以上だったと思う。
「兼愛」と「非攻」というと何か綺麗事のようだが、「墨攻」たちに言わせれば、「儒者」こそが戦争を回避しようとせず手を拱いているだけの形式主義、ご都合主義の小人だということになる。
じつに「墨攻」は、その時代のハイテク軍事顧問傭兵集団なのだ。
大国に攻められる小国に乞われては都市国家要塞の防衛、つまりは篭城を支援しに行く。「非攻」とは専守防衛のことだ。そして、報酬はもらわない。もちろん地位も名誉も拒んで、篭城が成功すれば次の任地へと去ってしまうし、篭城が失敗すれば征服される城市においてそこの民と生死を共にしてしまう。
そして、彼らはよく小国を守り抜いた。その社会的信頼はあつく、ゆえに「墨家」に学ぶことが官職を得る道ともなり、それが戦国時代の国際的情報網にもなったという。また、その時々の「墨攻」の長は鬼神に通じるとの民間信仰もあったそうで、天意を尊重する中国文化らしい。
昨今で言うと、リベラル市民派のMPAやMBA取得者が最先端のIT技術者でもあるといった感じだ。もし今そんな実践者エリートで「墨攻」のような高邁な理想と知行合一に比肩する者たちが実際にいるとしたら、現代人の民心でさえその長に天意を読み取りたくなるのかも知れない。
私はそんな熱血漢も熱狂も聞いたことがないが、それは幸なりや不幸なりや。映画でもそうした問い掛けが出てくる。
私は、中国の縦横家の時代に、そのような潔い実践者がいたことを想うだけで心臓が高鳴り目が潤んでしまう。
どんな時代であろうとも、自分もそういう人間であるよう努めたいという思いを新たにする。
唐突だが、人智学の創始者であり教育者であるルドルフ・シュタイナーは、その「カルマ論」でこう述べている。(この本でシュタイナーは「カルマ」を「霊的な因果法則」と定義し、よく読むとそれは因果律と共時性を合わせた因縁のことと読める。)
「私たち人間は、自分たちのためだけではなく、宇宙にまで働きを及ぼす愛を発達させるためにも働くのですが、それは高次の存在たちのカルマのためでもあります。私たちよりも高次の存在たちの中に、私たちの愛を流し込み、そしてその存在たちがこの愛を供犠として受け取るとき、それは『魂の供犠』であり、かつて贈り物を私たちに送り届けてくれた存在たちへの供犠なのです。人間が霊的な文化をまだ所有していた時代、供犠の煙が霊たちの所にまで立ち昇っていきました。」
実際にあったであろう小国城塞都市の炎上の煙は、こうして映画の中でまた立ち昇り、それを観る私たちそれぞれの魂に某かを伝える因縁を繋いでいるように感じた。
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