ムスビの力を肌で感じる<身体知>という日本文化の土台(2/3) |
宇宙は人間を誕生させるために創造された
「第二章 地球の誕生」の冒頭で著者は言い切る。
「100億年という気の遠くなるような宇宙の歴史は、すべて地球を造るための過程であろうと思います」
「そこには先ず、地球上に人間を誕生させようという、神さまのお心(知恵)と、ムスビの力が働かなければ、地球はできないだろうと思うのです」
そしてその科学的な素晴らしさの論述が続く。
ビッグバンによって、生命が誕生しうる水地球が誕生するのは奇跡のような確率で多大な条件が重ならなければならなかったことは確かだ。
著者の考えの面白いところは、この奇跡こそを単純に神さまの御技とする言わば創世記の科学化にとどまらないところだ。
「第三章 生命の誕生」で論ずる、生命の誕生の神秘を科学的に検討した成果を、大宇宙の奇跡と小宇宙の奇跡を一方向に直進する時間軸で繋げて、あるいは易のように多様な相として空間軸で重ねて満足するのではない。あくまで「肌で感じ取る」<身体知>の体系として捉えようとしている。
ここからキーワードになるのは、前項(1)で検討した「ムスビの神さまの働き」であり、地球誕生においては「中間子の波動」、本項(2)で検討する人類誕生においては「生物の分子のブラウン運動」であり、この両者を結びつけているのが「海水そして水」であるというのが著者の思索のグランドデザインだ。
そして著者の「肌」は日本人の肌なので、感じ取る大切なことは日本列島の風土や日本文化や神道がモチーフになっている。私は著者が日本人の優位性に囚われているとは思わないが、読み方によってはそう読んでしまう人も多いだろうとは思う。
たとえば、
「日本人は、世界ではじめて縄文式土器といわれる土器を作り出し、その中に食糧を蓄えるようになりました。当時どのように食糧を蓄えたのか、もちろん詳しいことは分かっておりませんが、おそらく海から取れる塩を使って腐敗を防ぐことで、食べ物を長い間貯えることができたのだと思います」
という論述と、この塩がなぜ腐敗を防ぐことができるかは科学的に説明しきれていないことを考え合わせると、日本文化の先行性を思ってしまうが、著者の論点はそこではなく、海水の神秘の方にある。
また、地球に地軸が傾いているために北半球や南半球に季節変化があることに触れた上での
「日本列島はちょうど北半球の中央付近にあるため、この地球の回転と軸の傾きによって、春・夏・秋・冬という季節の移り変わりが、特にはっきりと現れるようになり、さらに日本は島国であるということなどから、日本人は素晴らしい進化をしてきたのだと思います」
という論述と、その後に続く日本独特の生活文化の進化を考え合わせると、日本文化の優秀性を思ってしまうが、著者の論点はそこではなく、遺伝子の活性や水の神秘の方にある。
以下本論では、民族主義的偏見につながるような誤解を避けて、著者の科学的な論点を明らかにする順序を工夫しつつ検討していきたい。
「ここで考えなければならないことは、小惑星の中に水蒸気が含まれていて、地球ができた頃にある程度の量の海の水があったことや、雪球が水を運んでくるというのは、地球だけのことではなく、他の星でもこのようなことは当然おきているはずです。
それなのに他の星には水がないのに、どうして地球だけに表面に水があるのか。私はこの点が一番重要ではないかと思うのです」
現在その理由として考えられているのは、
「地球の内面には他の星とは異なり、外部核というものがあるのです。
この外部核は、アルミニウムやカドミウム、金・銀などの軽い金属でできている二千から三千度の高温度の液体で、この液体が地球の回転にあわせて、すさまじいスピードで回転しているのです。
このため地球には他の星にはない磁気エネルギーが発生し、これが水を地球上にひきつけていますので、地球の表面に水があると考えられるのです」
「そして、地球の内部からのエネルギーと宇宙からのエネルギーが共鳴して、生命のエネルギーが出るわけでありますが、この両方のエネルギーを結ぶものが、水の力ではないかと思うのです」
著者は水をいわばムスビ媒体と捉えるのだが、水は先ずこのように地球の内部エネルギーと外部エネルギーとの大宇宙版ムスビ媒体である訳だ。
次に著者は、水が言わば中宇宙版ムスビ媒体であるという論述に進む。
「ライアル・ワトソン氏によると、水の分子は誰でも知っているように、H2Oという化学式であらわされる単純な分子でありますが、誰も単一の水の分子を見たものはいないということです。
それはつまり、水の一つ一つの分子構造は、絶対に変わることはありませんが、周囲の環境によって、水素と酸素の間に複雑な組み合わせがつくられ、それが幾重にも連鎖して、分子の構成が変わっていきますので、水は環境の変化に合わせ、常に性質を変えているというのです。
このようなことから、川は水源から河口まで、無数の水の分子が結合した、一つの分子と表現することができますが、その川の水の性質は、それぞれの場所によって異なると言われるのです」
著者の科学的な神道論を肌で感じるのは、こうした科学的な事実を踏まえた上で、
「日本では川の源流、中流、下流に水の神さまがお祀りされていることが多いのですが、これは神さまのお恵みのもと、川全体が素晴らしい水であるようにと願う、水の性質をよく知る日本人の心の現れであるように思うのです」
と論ずるところだ。
「水にはこの他にも、いろいろな不思議な性質があります。その一つに、情報やエネルギーを結ぶという素晴らしい性質があるのですが、(中略)
多くの人は、水は振動を伝えにくいと考えておりますが、実際は空中より水中のほうが振動は鋭敏に伝わります」
と科学的な事実を踏まえた上で、
「宮崎県の海に浮かぶ島に住むサルが、イモを海水で洗って食べ始めたら、全然関係のない本土に住むサルが、同じように海水でイモを洗って食べ始めたということです」
とあの百匹目のサル現象に論及する。
確かこの話を有名にしたライアル・ワトソンの「生命潮流」という本だと思うが、どこかの現地人が砂浜でウミガメを呼ぶのに海面に手を浸したことが書いてあった。人類は普遍的にこうした海を使った通信能力を知っていたのかも知れない。この時海水に浸した手から発せられるのは、人間の思いが変換された何かである。だとすれば、前述の川沿いに神さまをお祀りしての願いが変換された何かが川に伝達されたということなのだろう。プリミティブには、信仰とは不確かな何かを感じ取り合うことを前提とした、自然への思いや願いの伝達行為だったということなのか。
「水は振動などを鋭敏に伝えるというだけでなく、ある特殊な方法で、さまざまな情報を記憶することができるのではないかと、考えられるようになってきました。
水が情報を記憶する仕組みについて、現在のところ全てが解明されているわけではありませんが、おそらく分子レベルの組合わせの変化が、関係しているのではないかと言われています。
これはちょうど遺伝子のDNAが、AGCTという四つの塩基の無数の組み合わせで情報を記憶しているのと、よく似た仕組みであろうと考えられています。このようなことから、DNAにいろいろな情報を記憶させることができるのは、水の分子レベルの記憶の力と、水の持つ結びの力が関係しているものと思われます」
と科学的な事実を踏まえた上で、
「水は生物にとって感覚器ともなりうる(筆者注:人間の肌にあたる)もので、気候の変化を肌で感じたり、世の中の流れを肌で知る、いわゆるヒジリ(聖・ゆきあい・日知り)の能力も、皮膚の中に含まれた体液、すなわち塩水が関係しているのかもしれません」
と私たちの不思議な<身体知>に論及する。
そして読者は何かを「頭(理屈)ではなく肌で感じ取る」ことになる。
生物の分子とブラウン運動
次に著者は、水が言わば小宇宙版ムスビ媒体であるという論述に進みます。
「水の中に生命が誕生する前に地球上には、生物の体を作る細胞の主成分であるタンパク質とDNA(遺伝子)ができたと言われています」
「このタンパク質と遺伝子が、海(塩水)の中に入り、モノの分子が生物の分子に変わったわけですが、どうしてモノの分子が、生物の分子に変わるのでしょうか。(中略)
機械をつくる分子も生物の体を造る分子も、分子としては同じでありますが、生物の体を造る分子は、最初から生物の体をつくるように決められているのかもしれません」
「宇宙ができた初めから、生命になる分子と、モノになる分子は分かれていたというのは、十分に考えられることなのです。
そして生命になるために現れてきた分子、つまり生物をつくる有機物の分子は、おそらく水の中だけで働くようになっているために、ビッグバンから百億年以上が経過して地球ができ、さらに海の水が現れた段階で、実際の生物となって現れたのだと思います。
このような生命の流れの中から、私たちが人間が発生してきたのです」
著者が「100億年という気の遠くなるような宇宙の歴史は、すべて地球を造るための過程であり、地球上に人間を誕生させようという、神さまのお心(知恵)と、ムスビの力が働いた」と言い切る根拠は、この仮説にある。
こうして小宇宙版ムスビ媒体論は、大宇宙版ムスビ媒体論にメビウスの輪のごとく繋がってしまう。
「コンピューターは、莫大なエネルギーをつぎ込んで、非常に正確に、そして高速で分子を働かせます。ですからコンピューターの素子は、正確かつ高速に働くということが生命線です」
これは「機械をつくる分子」のメカニズムでもある。
「これに対して生物の(筆者注:体を造る)分子は、とても小さなエネルギーを使い、非常にいい加減で、またゆっくりと動いています。けれどもそれが集まると、筋肉や脳といった、とても機械では作れない、高級な機能を発現するのです」
「我々の体を作っている細胞の分子は、機械の分子のように、莫大なエネルギーをつぎ込んで動かしているのではなく、原則として自分の力で生きているのではなく、百パーセント宇宙の力で生きているのです。
そしてその運動は、機械の分子のように直線的なものではなく、左右に揺れる波動、つまりブラウン運動で生きているということを、ぜひ知ってほしいと思います」
以上の話は、本ブログで繰り返しご提示してきた
<モノクロニック>×<メッセージング>の体系
機械の分子のメカニズム→科学の因果律
→頭(理屈)で理解する→機械論的な人材と組織(=人体論的組織のロボット化)
に対するところの
<ポリクロニック>×<ルーミング>の体系
生物の分子のメカニズム→間や遊びの縁起
→肌で感じ取る→植物論的な人材と組織
の対立軸にそのまま相当する。
<縁起にのっとった日本的な情起点の発想思考>が発揮され活性するのはもちろん後者の方だ。
「日本人は昔から、人間は自分の力で生きるのではなく、全て神さまのお導きで生かされている。そして、そのことに感謝するのが、真実の人生であると知っていて、これを連綿と伝えてきました。
すなわち人生というものは、自分以外のものと対立するのでなく、神さまやご祖先さまをはじめ、全てのものと一体となって生きるのが、真実の人生であるということを伝えてきたのです」
著者の観点の面白さは、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の憲法化の背景にあったこうした倫理観を教条とするのではなく、以下のような科学的な根拠と合理性を見出していることだ。
「地球上に現れた最初の生物である原核生物、簡単にいえば細菌のことですが、この細菌というのは全て自然の気だけで生きる、ブラウン運動で生きています。(中略)
我々人間の体の原点も、もちろんブラウン運動ではありますが、私たちの体は細胞が無数に集まって個体を作っておりますので、単細胞生物の細菌のように、ブラウン運動だけで生きるというわけにはいきません。私たちの体はブラウン運動に、エネルギーをつぎ込んで生きているのです。(中略)
我々の体の細胞は、ATP(アデノシン三リン酸)のエネルギーを入れて、アクティブな運動をしているのです。(中略)つまり、ブラウン運動をする分子から、一つの方向の(筆者注:筋肉の収縮のような)運動を取り出すために、ATPのエネルギーを利用しているのです。
人工的な機械の場合は、分子に強力なエネルギーを与えて、一つの方向に分子が向かうよう運動を制御しています。
これに対して生物の分子の場合、そのような強いエネルギーを与えられてはおりませんので、自分でブラウン運動をしながら、ちょうど右にきた時に、それを取り出すためにATPのエネルギーを使うのです」
ここまでが、「和をもって尊しとなす」の科学的な根拠と合理性の解説を理解するための基礎知識である。
そして、著者の解説はこうだ。
「このように生物の分子は、自然のエネルギーで最大限に生き、しかもATPという、ごく少ないエネルギーを使って働こうとしているのです。
しかし、このようなやり方ですと、ちょうど都合のいい右側の運動がいつくるか分かりませんので、非常に非効率になるのです。
この場合、都合のよい機会というのは、だいたいブラウン運動を一万回行って一回くらいしかこない、ということです。
このことは、人工の機械の分子から考えると、非常にネガティブな性質でありますが、この一万回に一回の機会を待っているというところに、生物の分子の機能性や、やわらかさの本質があると思われるのです」
若干、引用していない部分を補足すると、このATP投入は極めて省エネタイプで、筋肉など疲れてもすぐに回復させることができることが長所である。しかし、機械のように酷使すれば破綻する。機械化した人材や組織は、人間本来の可能性を酷使によって破綻に向かわせているのかも知れない。
著者は「生物の分子の機能性ややわらかさの本質」が、どう合理的なのかを大和言葉人生論でこう語る。
「人生においても、この待つということが非常に大切です。
待つということを、『あそび』とか『ま』などと表現し、(中略)人と話をする時にも、この『ま』をとるということが、非常に大切なことになるのです。
つまり、『ま』のない言葉には生命(いのち)が存在しませんので、人に心を伝えることができないのです。現在の若い人がしゃべっている早口言葉には、この『ま』というものが一切ありませんので、いのちは伝わっておりません。このためいくら正しい理屈をしゃべっても、なんの効果もないのです」
言霊とは、そもそも自然や宇宙のムスビの力を取り入れた『ま』のある言葉に宿るものということか。ここでも不確かな何かを感じ取り合うことが前提であるということは、現代のブレインストーミングやトランスパーソナル心理学のフォーカシングに通じるということだ。
「これは冗談ではありません。子供の時から、そのような真実の話し方を教えていかなければ、日本人は滅びてしまいます。
現在の人は、言葉で民族が滅ぶといえば、そんなばかなと言うでしょうが、これは真実の話です。よく建物でも、『あそび』のない家は息が詰まって住むことができないと言われますが、これも真実のことです」
それにしても、この著者の主張は、そのまま現代の「機械化した人材と組織」のもつ社内コミュニケーションの弊害論でもある。人間は母国語で物事を考える以上、的を射た主張だ。
「神社で常に行っているお祭りも、まさにこのあそびの姿が現れているのです。(中略)祭りにあそびがなければ、神さまは現れてこないのです。(中略)
お祭りに理屈は存在しないのです。全く理屈をあらわさない。そして理屈を伝えないというところに、祭りの真実があり、そこに神さまのいのちが伝わるのです」
ここで著者の言う「理屈」とは、科学の因果律や、易の共時性=相のことで、神さまの現れ、神さまのいのちの伝わりとはそれら「理屈」によらず、ムスビの働き=縁起によるということだ。
しかし、それが単なる偶然でも魔法でもなく、科学的な根拠があることは、神経事象学や脳科学の知見からだんだん明らかにされていくだろう。
本ブログでは、「神さまのいのちの伝わり」=発想洞察と位置づけて、予祝儀礼のステップを脳科学的観点から分析して集団独創のファシリテーション方法論を導き出せるのではないかと試論している。(両者を文化人類学的に整理するテキスト資料あり)
多様性のバランスと共生
「生物の分子はブラウン運動で生きているのですが、自然の力、神さまの知恵というものは、我々の体の全ての分子を一つ一つ制御して統一しているわけではありません(筆者注=機械論的ではない)。
それぞれの分子が、それぞれ異なるリズムで揺らぐブラウン運動をしながら、全体として調和するようにしているのが、神さまの知恵であり、このよい例が日本の神道に見られるのです。
つまり、一つの神の教え(筆者注:たとえばある渡来人が来った縄張りの神)に統一するのではなく、日本の神社のように、祀る神さまはそれぞれ違いますが、神社同士が争うことなく、全体がバランスをとって調和していくのです。
これがすなわち多様性のバランスであり、私たち日本人が祖先から連綿と受け継いできた共生という素晴らしい生き方であります」
この共生のメカニズムに、ブラウン運動由来の「あそび」や「ま」という言わばセレンディピティを取り込む上での合理性があることはすでに触れたが、これはそのまま集団独創がセレンディピティを取り込む合理性でもあることを指摘したい。
本ブログでは、多様な集団や分野の隣接する言わば「古代の日本列島的状況」において、異界との重なり領域こそが新価値を創造するものと試論している。
前掲の予祝儀礼が「縄張りの内向的創造性の再生」のためのメカニズムであるのに対して、異界との重なり領域は「縄張りの外向的創造性の交流」のためのメカニズムの概念モデルである。
いずれの「日本型の集団独創」のメカニズムもポイントは「祭り」である、ということは改めて強調すべき価値があると思う。
「現在は労働であると思っている人が多いのでありますが、大和言葉の『はたらく』には、労働という意味は全くないのです。
『はたらく』を『働く』と漢字で書くから、本当の意味がわからなくなるのです。
『はたらく』という言葉は、『はた』と『らく』に分けられ、『はた』というのは周囲のことで、『らく』は楽しむことです。
つまり、周囲の人を楽しませるというのが、『はたらく』ということであり、これこそが真実の人生であるということを、祖先は十分に知っていて『はたらく』という日本語が生まれてきたのだと思います」
私は、発想したり洞察してアイデアを「ひらめく」ことは楽しい「あそび」であり、それを集団でする群遊びはこの上ない『はたらく』だと実感してきた。
著者のこの主張は、そのまま集団独創のファシリテーション・メッセージであると思う。
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