日本型のパターン認識とパターン変換の採集(10) 日本人のひらめきの対象「見立て」 その1 |
日本人が意識していない日本型の分類法
すでに本書については(1)で以下のように紹介しました。
「日本の美を語る」というこの本は、その構造を語るにふさわしい人々による対話です。
私は、ここのところ関心をもっている日本型のパターン認識とパターン変換の観察事項を採集するべく読み始めたところ、まず最初にこの作業に取りかかる上で重要な示唆を得ました。
それは、序で高階氏が述べている、美意識としての浪漫主義と合理主義の対立についてです。
ある新古典主義の理想家は「芸術を科学と同じように扱う」「美を合理的原理から考えようとした」とし、「この伝統はルネサンス以来西欧において支配的だった」「さらにさかのぼれば、ルネサンスが手本とした古代ギリシアにまで辿りつく」、それに対し「ロマン主義は、美とは決して万人にとって普遍的なものではなく、それぞれの時代や民族に特有の美があると主張した」、とするのです。
本論では、高階氏と文化人類学者の山口昌男氏の対談「『見立て』と日本文化」の内容を検討します。
「ロマン主義的な美」がどのようなパラダイムにおいて成立するかということを、もっとも端的に表すのが「美というものをいかに『見立てる』か?」ということです。
日本文化には日本型のロマン主義があり、日本型の「見立て」による分類法があるということに着目します。
それは私たち日本人にとってあまりにも空気のようなもので認識されないことと、明治以来の強力な一般常識の欧米化によってその価値や意義が見失われてきたことが惜しまれます。
具体的には、知識や情報は欧米型の分類法をして当たり前で、分類法といえばそれしかない、それしか有意義ではないとする勘違いや思考停止が横行しているのが現代の日本なのです。
そのことに焦点をあてて、結局は「見立てる」としか言いようのない「日本型の分類法」というものの存在を再確認して参ります。
それは、日本人のひらめきの独自性をその対象の特徴として明らかにすることに他なりません。
対談冒頭、山口氏は、日本の博物館の展示には異なる2つの時期があると述べます。
「近代の日本の博物館の伝統は明治20年代に組織化されて、伊藤博文や九鬼隆一らがヨーロッパのギリシアの殿堂をうつしかえるようなかたちを試みたことに始まります。カトリックの教会に行くと小部屋は聖人の絵でいっぱいで、天井も美術館そのものなんですが、それが通用しなくなった18世紀後半くらいから、都市の中心部に美術館や音楽堂ができはじめる」
美術館の分類法が欧米型の典型です。つまり、絵画、彫刻とまずモノで分類する。次に時代や地域に分け、作者ごとに年代で並べていく。博物館の場合、モノの原理や機構を解説するモデルやモノの全体と部分の関係を解説する配置も考慮されますが、基本は同じです。こうした分類法や分類要素の文脈化は、私たちの日常の仕事場や情報整理においても客観的な合理性があり馴染みのものです。
「日本でもヨーロッパ全体を見立てる制度の一環として、美術館というものができた。でもそれ以前の日本に美術の展示がなかったのかというとそんなことはなかったわけで、美術は、そもそも日本の展示の方法の中にまどろんでいたんです。
それは美術だけの問題ではなくて、『見立て』という言葉でしか表現できないようなしかけを使って行われていたのです」
つまり、知識や情報の日本型の分類法である「見立て」は、複雑をさけて欧米型と対比しますが、正確にはいわゆる「神が死んだ」欧米近代型と対比すべきであり、合理主義との対立として位置づけられることを最初に確認しておきましょう。
対談は、その上で、「見立て」についての大和言葉からの解明に向かいます。
神と「見立て」
「見立て」の起源はアニミズムにあり、その仕掛けは大和言葉の名残から解明されます。
山口氏は、まず「やま」ということから説き起こします。
たとえば、私たちは「あの一件は片付いた」とか「あの『やま』は終えた」という言い方をします。一件の方は片仮名英語で「あのケース」と言い換えても過不足ありません。しかし、「やま」の方はそうはいきません。「やま」には起承転結のようなストーリー性があり、そのストーリー性には人間の力だけではどうしようもないような偶然性が関与しているニュアンスがあるからです。「やま」には昇って降りる連想がありますし、その過程で何がどう起こるかをすべて合理的に予測したり対処することはできない含意があるように思います。ですから、刑事ドラマなどでよく聞く台詞だったりします。
「たとえば宗教的な行事において砂で山をつくるのは、魂がいる山を見立ててうつしかえてきたということです(筆者注:料理屋の盛り塩なども同様)。(中略)
神の住まいとしての『山』という言葉を、神の魂が出てきてまたそこで戻っていく場所という意味で、いろんなところに使ったという。たとえば『山車(だし)』というのも、神がのりうつって移動していく場所として、『山』の本質をあらわしています」
世の亭主族が恐れる山の神、なんていうのもその類いなのでしょうか。
冗談はさておき、日本語のとくに大和言葉の特徴として注目すべきは、言葉という言語が、山車や盛り塩などの視覚はじめ五感のイメージの言語と色濃く連動していることです。
合理主義的な分類法では、言葉という概念の分類パラダイム、視覚言語の分類パラダイム、聴覚言語の分類パラダイム、触覚、嗅覚、味覚の分類パラダイム、身振り手振りの分類パラダイムは分離しています。
一方、日本型のロマン主義的な分類法では、それら分類パラダイムがそもそも渾然一体となったままである点こそ出発点の大きな違いなのです。そして、日本語が漢字や漢語や欧米からの外来語を取り入れるに際しても、あくまで大和言葉の文脈や含意を土台としてその渾然一体の融通無碍の感覚を尊重し固持してきた。
「それから『山』という言葉を使わなくても、神の力がのりうつって形としてあらわれているものもある。歌舞伎ではやぐら太鼓や役者の衣装が『山』としての性格をもっているし、能でもそうだと思います。役者はそのようなものを見立てる伝達者で、衣装を通してあらわれてくる形そのものが『山』としての性格をもつ。だから役者自身も、『山』となり、つまり全部『見立て』られているんです。『立役者』というと、普通は主演俳優と思われているけれど、本来は何か形を立ち上がらせる知識や牽引力をもつ役者のことを言っているのではないかと思うんですね。
『立つ』は、日本語ではいろんなニュアンスをもっていて、多くの場合、神のあらわれるところに使われている。(中略)
『見立て』の語感の中にそういう要素がある。その結果として立ち上がるものを、立ち上がらせる趣向が問題になる」
以上を前置きとして、ここから山口氏は「見立て」論に入っていきます。
「まねしているように見せかけて、実はその本質を見抜いてもっとおもしろいかたちで見るに耐えるものにしていくことに、日本の芸術の装置が働いているのではないか」
と山口氏が述べる時、そのことはアメリカの軍事技術を平和利用する形で商品開発してきた日本の成果、つまりトランジスタ・ラジオ、オートフォーカス、カーナビなどにも当てはまると思うのは、私ばかりではないでしょう。
「歌舞伎を例にとってみると、『世界』と『趣向』というものがあります。
同時代の言葉で表現できないから、『忠臣蔵』なども『太平記』の時代を体裁としている。『太平記』をモデルとしてつくられているのが『世界』で、芝居を現在にうつしかえるのは『趣向』である。(中略)これも典型的な『見立て』のやり方です」
江戸時代、歌舞伎の女形の化粧を町娘が真似たそうですがそれは「趣向」であり、今もトレンディドラマの人気タレントのようなファッションやライフシーンを大衆が真似ることに同じです。「世界」の方も健在で、宇宙戦艦ヤマトとかルパン三世とか人気アニメの定型ですね。
このような流行現象は、古今東西あったことだと思いますから、そこで何が日本型の見立てと言える特徴なのかということが問われます。
「芭蕉が使ったことで知られている『不易流行』という言葉の中にも、『見立て』に通じる考え方があらわれています。
日本の祭りは二つの側面をもっていて、一つは不易という変わらない構造です。これはちょうど伊勢神宮の遷宮祭が二十年ごとに延々続けられているようなものですね(筆者注:モノが固定的に変わらないのではなく、モノを移し替えるやり方というコトの中で不易を維持していくことについては追って検討)。
もう一つは、春日の若宮の例大祭に典型的にあらわれています。真夜中に神霊を包み抱え、たいまつを地にうって御旅所に行き、次の日は御旅所で次々に芸能が行われる。こうした儀礼は万劫不易で変わらない状態、時間を越えた世界を表現しているけれど、芸能は時間の中における(筆者注:移りゆく)人間の神へのメッセージという形で行われる。それこそ『風流』といわれるような芸能は、新しい要素をどんどんつけ加えていきますね。踊りや芝居など、芸能の趣向におけるこうした流行の部分に、『見立て』という表現が出てくると思うんです」
第二次大戦後、創業し成長した家電や自動車のメーカーにとって、新しい商品の開発は世のため人の為という意識に裏打ちされてきました。この意識は、高度成長期までは、単なる儲け主義の競争意識とは次元の異なるものだったように思います。ホンダがマン島レースで優勝した時に本田宗一郎が「これで株が上がる」と漏らしたことに、組合が「そんな金儲けのためにやったのではなかったのではないか」と諌言したという、今の御用組合には想像だにできないような美談も本当にあったのです。松下幸之助の水道哲学もけっして建前論ではなかったことは、ビクターの開発したVHSを松下が採用し世界標準にさせたことにも気脈を通じています。
私は、こうした企業人の社会貢献意識は、「自らの仕事の過程とビジネスの成果を神に奉納している意識」ではないかと捉えています。
残念なのは、そういう先達の意識を、日本人特有の重要リソースだということを認識しないまま、単なる金儲け競争に身をやつしてそれこそがベストだと勘違いしていてそれに気づきもしない人たちが増えてしまったことです。しかも、アメリカ型の競争という相手の得意な土俵にのって、知情意の内の知、それも因果律の合理主義の知のみを偏重して、自分たち固有の知情意をバランスさせる文化的リソースを活かすことなくむしろ絶やそうとしている企業がまったくもって多いことです。
高階氏はこう応えます。
「それは一種のパフォーマンスですね」
私は、これが芸能芸術に限らない日本人の「アニミズムの神への奉納」意識の所産であると捉えます。心頭滅却する◯◯修行や一意専心する◯◯道といったニュアンスにも同じ意識が通底しているのではないか。実際に修験道や神道の儀礼が尊重されもします。
「芸能はもちろん、芸術全体に対する考え方が日本と西洋ではずいぶん違う。
つまり美術館には、それこそ全然動かない、変わらないものを並べるという思想があります(筆者注=合理主義は、固定的に変わらないモノを分類するという前提がある)。モナリザは永遠であるという感じがありますね(筆者中=科学知は永遠普遍性を前提とする)。
しかし日本の場合、美術館思想が入ってくる以前は、今のような『見立て』ないしはもっと広い意味での『祭り』なり『飾り』なり(筆者注:どちらもアニミズムの意味での神を前提としている)の中で美術鑑賞が行われていた。床の間にポッと掛けておいて、終わったらしまうというようなかたちで」
高階氏は、中世までの日本とヨーロッパの宗教的な絵解きコンンテンツの類似性を指摘した上でこう述べます。
「西洋はそれを石に彫り込むというようなかたちで後世に残すわけです。ヨーロッパの大聖堂は二十年ごとに建て替えるのではなくて、一度建てたらずっと残そうという意識が非常に強い。それは西洋の、残ることを理想とするモニュメントの思想につながっていると思うのです」
大聖堂を建てるのに百年有余の年月をかけたことからして、正確に言うと、西洋人には「残すべきものを残そうとする」ことが人間の営みであるとすることと、同時に「残すべきものは残る」という決定論とが、無意識のパラダイムとして働いてきたと言えましょう。一神教の永遠普遍の神は、単線状に一方向に進む時間を前提とする因果律の神でもあります。だから、キリスト教社会がそのまま近代合理主義、科学万能主義の社会に移行したことは偶然ではない。科学も永遠普遍の真理を残す営みであり、それが残ることを前提としている訳です。
「一方、日本は、それがそのときで終わってしまってかまわない。あるいは別の残し方をする。たとえば伊勢神宮は新しくかえることによって残していきますね。だから残り方が違う。またパフォーマンスの要素(筆者注=神への奉納の要素)も強く、繰り返されることで継承されていき、年中行事になっていく」
ここで、高階氏が「残し方」と言わずに「残り方」と言っているのが注目されます。ある主体が残そうとすることばかりでなく、他の主体が譲り受けて残ってしまうという、「共同体の文化という仕掛け」があることに触れているともとれるからです。
つまり、伊勢神宮は式年造替によって建物を残そうとしているのですが、結果的に建築の技術や思想までが残ってしまう訳です。それは誰かが意識してやっているのではなく、「共同体の文化という仕掛け」を大切にしてきた、そういう「共同体の文化という仕掛け」を大切にする共同体であったということです。
このことは現代日本の企業社会にも連なっています。
たとえば、脳力開発という成果の一部は、任天堂のゲームソフトとして残ってしまいました。従来手段を新規目的のために転用することを「応用」と言いますが、任天堂は能力開発という新規目的のためにゲーム機という従来手段を転用する「応用」をした訳ですが、これは、日本の企業社会という共同体における「残り方」でもあるのです。
日本はモノづくりの匠の技がありモノづくり大国であるというのが一般的な常識ですが、私は、「知識や経験をモノづくりに託して残してしまう」のが得意な民族だったということが本質であって、モノづくりの匠の技やモノづくり大国はその成果の一部でしかないとみています。ちょうど村の各戸の麦藁屋根の葺き替えを村人総出で恊働して巡回することで、葺き替えに関わるハードウエア、ソフトウエア、ヒューマンウエアはもとよりそれを成立させる自然環境や知識環境や人的環境までが残ってしまうようにです。
西洋との対比で整理すれば、日本人には「残るべきものが残ってしまう」ように掟を守って生きることが人間の営みであるとすることと、同時に「残るべきものとその残り方は神のみぞ知る」という非決定論とが、無意識のパラダイムとして働いてきたと言えましょう。日本のアニミズムの八百万の神は、円環状に一年単位で進む時間を前提とする縁起の神でもあります。
ちなみに最近では、モノ作りよりもWeb2.0の代表であるmixiやはてなやwikipediaのようなITサービスの方が、日本型の大衆コミュニケーションの特徴の「残り方」を示していると思います。追って触れますが、芸能など表現する人と鑑賞する人の間に確固たる壁を設けないで、両者一体で「山」を盛り立てるような「祭り」の構造が、古来より村祭りにありそして中世の能にしろ近世の歌舞伎にしろあり、そして現代にまで至っていると考えられるからです。特定の主体が権威なり役割を独占して「残す」のではなくて、共同体の仕掛けの内に残ってしまう「残り方」こそが、本来は日本の伝統の本質なのではないでしょうか。
ソニーがアイボなどの人気商品を打ち出しながらもロボットから撤退しました。
その経営戦略上の理由は、おそらく事業性と成長性そして研究開発成果の他事業とのシナジーについての評価ゆえなのでしょう。
しかし、私は、ソニーという企業における「共同体の文化という仕掛け」を大切にすることをやめたのではないか、と様子見をしています。
日本型の「共同体の文化という仕掛け」の特徴は、とくにアメリカ型が「単線状に一方向に進む時間を前提とする因果律の神」を意識的に未来志向で崇めるのと好対照に、一年の春夏秋冬にあわせて「祭り」や「お飾り」を移し替えていく、あるいは二十年ごとに式年造替する「円環状に循環する時間を前提とする縁起の神」(それぞれの時空で生じる縁=場をとらえる神)を無意識的に崇めるものです。
このことは、家電や自動車のメーカーの場合、デパートやコンビニのように歳時記に合わせて新商品を打ち出すということではありません。異なる円環状の循環をする時間をなぞる多様な企業活動を同時進行させる。そして、世間の時の流れに応じて、それらが結びつけたり離したりしながら新商品を打ち出して行く、ということことです。
つまり、一企業における「共同体の文化という仕掛け」は、実際に産業界や日本社会というより大きな「共同体の文化という仕掛け」の中で働くのです。
アイボが仮に単独で事業的魅力に乏しいとしても、こうした「共同体の文化という仕掛け」の入れ子構造の中では、どのようなシナジーが生じてどのような「残り方」をするかは不確定であって人智の及ぶところではない。しかし、だからと言ってそういう不確定の類いをすべて切り捨ててしまえば、今現在の人間の浅知恵で「残す」気になったモノしか残せなくなってしまう。
ソニーが、こうした不確定要素を積極的に取り入れようとする、良い日本型の「共同体の文化という仕掛け」を尊重するのであれば、縮小均衡してでもロボット事業を継続すべきだったと私は考えます。(ちなみにソニーはそうしなかったために、ロボット関連のキーマンはスピンアウトして起業してしまいました。携帯ハードディスク・プレイヤーを提唱したが受け入れられなかった社員がアップル社に引き抜かれiPodが生まれたという経緯にも、同じソニーの体質変化があります。)
そもそも事業を分類するに際して「モノ割り縦割り」という硬直した分類法のみに囚われることがなければ、トヨタがクルマのオートロックを住宅分野にも展開するように、それこそ多様な「見立て」が可能になる訳です。
結局、「コト割り横ぐし」の事業戦略とは「見立て」のことであります。「コト割り横ぐし」の分類法、それは主体と場により多様な可能性がありますから、「見立て」としか言いようがないのです。
最初にこういう「見立て」が可能だとは自明ではないから、組織として創造性が求められる。
この組織の知識創造性を保証するのが、企業における「共同体の文化という仕掛け」とその社会的連鎖の入れ子構造を広く深く受け入れる体制なのです。言うまでもないことですが、企業は社会や生活者とあらゆる意味で共同体を形成しているべきでしょう。
「つくり」と「もどき」
「山口さんはシンポジウムの中で『つくり』ということを言われていますね。
『おつくり』もそうですが、それは何かのときに新しくつくるもので、そこには記憶がある。記憶があるからつながっていくのであって、何もないところから出てくるわけではない。文化のあらわれ方と継承のしかたということが美術館の展示の問題としても出てきたというのが、非常におもしろいと思いました」
という高階氏の発言を読んで、私は、メーカーの商品ラインアップのことを想いました。
たとえば、前出のアイボなどは、ソニーにとって「おつくり」のようなものだったのではないか、ということです。
製品というものは、プラズマテレビ、DVD、カーナビなどと、一般的に「モノ割り縦割り」で分類されるのみですが、その時その時の世の中の流れにふさわしい「コト割り横ぐし」の「見立て」をすることよって、有意義なパフォーマンスないしは神への奉納としての価値を生ずる=高付加価値化するという考え方ができます。
誕生時のアイボは「つくり」であり、その成果を追って検討する「もどき」化して新製品を打ち出したり、他分野製品に反映したりすることが可能だったのかも知れません。アイボはアイボ自体をキャラクター化しようとした傾向が顕著でしたが、そもそもキャラクター市場というのはもっと巨大で多様です。よって、アキバ系の好むフィギュアなどにアイボの成果の「もどき」化は反映できたのではないか。
山口氏はこう述べます。
「普通の家の感覚でも、床の間に掛ける絵は季節ごとに変わっていきますね。だから同じものにとどまらない。しかしとどまらないことにおいて逆に何か保存されて、世界全体のイメージがとどまるのだと思うのです」
「『見立て』をしていくと、日本文化の横並びの性格がよく分かります。
『つくり』の場合、刺身などは『おつくり』といって山の形にしますが、これはさっきの山の延長にある。
それを何も知らない一般の人に伝えるには、喜劇的なパフォーマンスが必要になってくる。それが『もどき』です。日本のすべての芸能の展開は『もどき』によるものです。能のもどきが狂言で、能・狂言のもどきが歌舞伎で、さらに歌舞伎の中から即興的な部分、歌舞伎の中の見立ての部分だけを生かしていくと『俄芝居』になります」
何か学者のお難い芸能論のようですが、江戸吉原の花魁は平安貴族のパロディーであることに通じる、じつは面白い話であります。
私は、パラパラが神楽坂のクラブから発生したという話を若い女性から聴いて、パラパラは日本舞踊の「もどき」であると思い当たりました。日本舞踊は、屏風などを背に上座に座っているお客様からの見栄の良さを工夫して踊るもので、遠くを見るような目で手振りを綺麗にみせるなどの特徴がある訳ですが、パラパラも欧米系ダンスにはないそうした特徴を共有しています。ここにも、日本型の「共同体の文化という仕掛け」の残り方が現象しています。
ここで山口氏は、メーカーはじめ企業にとって重要な示唆をしています。
「発展させるのではなく、崩していくことによって生まれる逆発展のような要素が常にあるのではなかろうかと思います」
これは、「円環状に循環する時間を前提とする縁起の神」を無意識的に崇めるものです。
「これは能の主役であるシテとその相手役のワキという形でもわかるように、ワキはシテの一部ですが、それが分身になって次に展開していくきっかけとして存在する。そうした開かれたものにするためにワキの気安さがあるんです」
アイボ誕生時には、アイボにはソニーの「ワキの気安さ」がありました。
最近の私のコンセプト思考術研修でも、演習であるグループの若手が「現代の楽曲をわざと古い時代の技術で再現するような楽しみ方が面白いのではないか」と発想しました。これは、まさに逆発展させる要素、ワキの発想でした。
つまり、メーカーサイドの「より高画質高音質を低価格で」という一元的かつ常識的な競争意識のタガを外せば、誰だって発想できるし、アイデアをきけば誰でもそれを楽しむ生活を思い描くことができる、そんな「共同体の文化という仕掛け」が私たちの周りには目に見えずとも存在しているのです。
「見立て」と比喩
「西欧で比喩というとメタファーですね。では比喩と「見立て」とはいったいどこが違うんでしょう」
という高階氏の問いに山口氏はこう答えます。
「『見立て』にはすりかえ、うつしかえがあるのです。似ているところを手がかりにして、それを違った形にうつしかえる。
一方、比喩というのは、コンテクストの中で、周りとの関係によって意味が変わるような装置ですが、『見立て』は、似ているところを残しながら、形を全部変えてしまって、距離感をつくりだすようなところがあると思います」
私が思うに、「見立て」と比喩の最大の違いは、
「見立て」は動態的なコミュニケーションを前提としたり狙っているのに対して、
比喩はあくまで静態的なコミュニケーション、つまりはある文脈なりパラダイムの固定を前提としている、
という点ではないでしょうか。
山口氏が「月に柄をさしたらばよき団扇(うちわ)かな」という連歌を提示し、高階氏が
「『団扇のようなお月さまだ』というのは単なる比喩ですが、これに柄をさしたらいい団扇になるな、というと、そこで一つの別の世界になります」
と応じてこう述べています。
「『見立て』はものの見方を変えていく。
俳諧の場合には、『付号』あるいは『見立付』というように、前の句の見方を変えて、別に動かしていくということがあります。『見立て』はそういう活力をもっていますね。単なる比喩のアクセントではなく、もっとダイナミックなものです」
これを私流に言えば、「見立て」はパラダイム転換を狙うものである、ということになります。
(「その2」へつづく)
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