正座と合わせの着物と褌がなぜセットで日本に残ったか |
私は「日本型の集団独創のファシリテーション」の方法論の追究をライフワークにしています。
というと、とても難しいことのようですが、そもそもどこの国の文化もユニークだということが集団独創の成果であり、ほっておいたってその国型の集団独創が促されてきました。
しかし、ここに問題が3つあります。
1つは、集団独創の過程自体がじつは認知表現のパターンとそのコミュニケーションとしてユニークなのですが、その国の人々にとっては空気のように当たり前で、当たり前とも意識していないことです。仮にある生活文化的な事柄が日本人にとって当たり前であることまでは意識したとして、どうしてそうなのかという根っこまで探る人は少なく、ましてそうした事どもに通底している土壌であるパラダイム(考え方の基本的な枠組み、特に無意識のそれが重大)までを見極めようとする人はさらに少ない。
「まあ、日本人ならいちいち言葉にしなくてもみんな皮膚感覚で分かっているからいいじゃないか」というのが大方の人々の本音でしょう。無論、こうした自国文化に対する感覚は何も日本人に限ったことではありません。
さらに1つの問題は、結果、たとえばビジネスの世界でも、日本人にとって当たり前の集団独創が方法論として客観的に体系化されずいつまでも暗黙知にとどまってしまい、世界の人々にノウハウとして伝えたり理解してもらうことを怠りがちであることです。
多くの日本人が心の底で、「日本人らしい物の考え方は日本独特のもので日本人にしか分からないのだ」と、ある意味とても閉鎖的な割り切り方をしていて、思考停止に陥っているように感じます。
思考停止というのは、客観的に体系化し世界の人々にも理解できるように伝えることを怠る、ということと、伝えるとしてもすでに完成された自己完結した伝統として伝えて満足している、ということです。これは人間関係で言えば、自己紹介をして満足しているに過ぎません。つまり、人と人が知り合い互いを理解しあうことは大切ですが、それはスタートラインです。ゴールはその上でともに何かを創造していこうではないか、ということであり、自己紹介だけではそれを怠っていることになります。
いまやトヨタの改善やセブンイレブンの日本発のコンビニ経営手法などが各国で現地就労者の理解を得ている以上、こうした思考停止はビジネス的に国際的にも問題外です。
また、伝統の保存とその海外への発信は意義深い文化事業ではありますが、そもそも異なる生活文化を移入融合して新しい世界を形作ってきたのが日本文化の伝統でありそれこそが「創造性の本質」であることを思えば、世界各国の生活文化を融合して未来志向で新しい可能性を模索することにイマジネーションが至らないことは、日本人全体としては怠慢、美田を活かせずただ誇るだけの三代目の体たらくと言えます。
最後の1つの問題は、世界の現代的状況からみて、日本文化や日本人の本来的な物の考え方がとても必要とされているのに、そのことを日本人自体が深く認識していないことです。
このままでは経済至上主義の文化一元主義であるアメリカ型グローバリズム一色に世界もそして日本もなってしまうでしょう。ようは希望格差社会が世界の津々浦々に蔓延し標準化するとともに、北が南を経済的に収奪する南北問題はいつまでも解決しない。
さらに説明をはしょりますが、中国人はその生活文化と物の考え方に素晴らしい特徴があるのですが、それを中国人自体がちょうど以上述べてきた日本人と同じように気づかなかったり客観的な説明を怠ったり伝統の保持だけで自尊心を保ち自己満足していたりする内に、結局はアメリカ型グローバリズムに政府ともども加担しそこで地歩を保つことを目指してしまう。このままいけば、中国の経済発展こそがアメリカ型グローパリズムを世界人民の一元的な価値観とする決定打になる。中国自体も、これまで庶民が貧乏でも温存していた伝統的な生活文化のほとんどが、経済的に余裕のある者だけに許される商品やサービスになっていく、ということです。
気がついた時には、世界の一般庶民に許される伝統的な生活文化は、コンビニエンスストアの品揃えと国営テレビ放送の番組の中だけとなりかねません。環境資源問題は、そうした実体経済を温存する前提でしか是正されることができなくなる。それは、各国のエコロジー運動の効果も生活文化の個性も限界づけられることを意味します。それで果たして人類は物心両面で豊かで幸せな方向に向かうと言えるのでしょうか。経済的に余裕がある人々のリゾートライフでさえ、ハワイに熱波がおそいアルプスの雪が解け沖縄の海が汚れたならばままならなくなるのです。
ここで思い起こして戴きたいことは、私たち日本人の物の考え方や生活文化の特徴は、中国からも影響をうけ、アメリカからも影響を受けているという周知のことです。
それは、アメリカが現代経済において先鋭化した近代主義と、中国が古来理想としてきた道徳主義とを、整合性をもって実践的に融合してきたということです。しかもその融合を、縄文弥生以来の日本型アニミズムを土台として自然と人工、自分と他者を共生させてる方向でやってきたのです。
日本の生活文化と日本人の「縁起」を尊重する情起点の発想思考は、現代の人類と地球環境においてそうした実績と可能性をもっている。
このことを、日本人自身がよく理解しそれを踏めた現代的ソリューションを打ち出し、それが世界にとってとても有意義なことであることを指し示していくことが求められています。
それは、私たち日本人にとっても、自分さえ良ければよい的な狭隘な自己満足に終わらない高い誇りと自負をもてる「世界ヴィジョン」なのだと思います。
本論では、私たちが自分たちの間では当たり前に思っている日本人の根源的感性を、いま一度「それはどうしてなんだろう?」と思いを馳せるに最適の話題を提供したい、と思います。
たまたま私自身、mixi仲間でのやりとりから興味をもって検討したことで、専門家でもない私がちゃんと検証できた訳もなく、仮説に過ぎない話を敢えて知的興味をひく形でさせて戴きます。
この仮説については大いに異論も反論もあると思います。
しかし私は、私たちにとって当たり前になっている生活文化的な事柄の大本を、ああでもない、こうでもないと推量したり議論することこそが、私たちの集団独創を活性化する、そう思うのです。
正座と合わせの着物と褌がなぜセットで日本に残ったか
それを問いつつ史実を確認する
この問いは、日本人の感性の大本に密接に関連していると思われます。なぜなら、それらが日本人の生活文化のベースになっているからであり、また椅子と洋服とパンツになった現代においても、身体的にはもちろん精神的にも日本人を呪縛していると考えられるからです。
この問いの答えを求めながら、まずは史実を確認していくことにしましょう。
正座は中国から合わせの服(→和服の原型)とともに日本に入ってきた。中国は両方ともにやめてしまうのだが、日本は和服を明治以降に廃れるまでやめず、和服で胡座をかくことができぬので正座が続いた、と言われている。
なぜ和服で胡座をかけぬかというと大事な所が見えちゃうから、なのだそうで、ここで「和服が前提で正座が採用された」という順序に着目しておきたい。
そして、合わせの服が入ってきた魏志倭人伝の頃からおおよそ昭和戦前のついこの前まで和服生活=正座生活だった。
下着を着ていればモノは見えないじゃないかとも思うが、中国古代からあったもももひきのような下着は、開 示富 示庫 カイタンクーという「社会の窓」がお尻まで延長されたような代物であり、今も幼児に履かせて簡単に用が足せるようになっている代物だった。これを合わせの着物の下に履いたならば正座しなければ見えてしまう。男女ともに大人の富の庫はそう簡単に見せてはならぬ。それで合わせの着物という前提に対して男性は褌、女性は腰巻きが採用されていく。
正座の採用には農耕民族の労働や暮らしの身体的特徴を理由とする人たちもいるのだが、同じ農耕民族でも正座を採用しなかったり捨ててしまうものがあった史実に対して、それではなぜ日本人だけが捨てなかったのか理由を説明できない。
「合わせの着物への固執」という大前提こそが理由だった。
そう考えることは、アイヌが本来はインディアン的に動物や鮭の皮を素材とし狩猟や漁労をしていたのが江戸時代以降の同化政策とともに木綿の合わせが入って行ったことや、沖縄もエイサー男性衣装のようなズボンもあるが男女ともに普段着は木綿の合わせで晴れ着も豪華になるがやはり合わせで、朝鮮半島のシマチョゴリのようなスカートはないこと、などとも整合する。 つまり、日本人というものを、「合わせの着物に固執する文化に生きた人々」と再定義することもできるのだ。
台湾の民族衣装を調べると、時代は分からないがスカートや貫頭衣様のものが出てくる。
どんどん南へ下って行ってタイにまで脚を伸ばすと、 ツーピースやスカウトやズボンの民族衣装が出てくる。
ツーピースならば、下だけ巻きスカート様の袷でも大事なところを見えないように立ったり座ったりができる。 やはり、衣服が前提として先にあり生活スタイルが規定されるのだ。
日本人は合わせの着物を普段着にした、すると正座しないとチラリとなるので正座し続けた。
褌や腰巻きが見えてはダメという美意識や礼節があったことは確かだ。 労働着としてはモンペとか作務衣とか、正装としては袴なんてものもあったが、日常は合わせの着物だった。 だから祭りや悪場所では秩序が逆転して褌や腰巻きを見せることが非日常的文脈を構成したのだ。
こうした日常と非日常の線引きを含めた生活世界の時空を根源的に秩序づけるものは、<無意識のパラダイム>に属する認知表現の体系だ。僕ら日本人はなにも意識せずに自然と受け入れているが、傍からみれば変わった風習の代表格であることを忘れてはならない。
なぜ中国で正座と合わせの服をやめてしまったかというと、騎馬民族の襲来に備えて万里の長城をつくり自分たちも騎馬隊をもって乗馬に適したズボン様に、皇帝の鶴の一声でしてしまったということだ。胡座も敵方の座り方のことで、最初のうちは戦争を特権階級が儀礼を守ってやっていたのが農民皆兵の総力戦になっていってズボン様の服と生活が一般化した。つまり、中国では万里の長城の頃からもう袷をやめてズボンになっていた。
そしてその理由が、個人にとっては生命をかけ国家にとってはその存亡にかかわる戦争に由来するじつに権威主義的かつ実用主義的なものだったことは、後で検討する日本の場合との大きな違いとして記憶しておくべきだろう。
ではタイなどはなぜ着物の合わせじゃなかったのか?
インドシナの民族は中国人が南下したものときくから、自然な成り行きと言えるが、とても蒸し暑いのだから上下一体の合わせの着物の方が涼しいじゃないか、と突っ込みたくもなる。
ひょっとすると、女性の無意識的な身体感覚に属するレベルの貞操観念(=空間イメージという意味で)の差なのかなあ? と思わせることを、「中国人という生き方」という本で、著者の田島英一氏が述べている。
「ズボンは、中国人の肉体を解放した。しかも、昨日今日起こった解放ではない。そのせいか中国人女性は、腰から下のガードが甘い。男性顔負けの大股で、颯爽と歩く。歩いている分には格好がよいのだが、座る時にも、ひざをそろえない。人によってはミニスカートでも平気でしゃがみこむ」
つまり、こういうことだ。
日本人の生活文化の前提が「合わせの着物への固執」であり、その生活文化が女性の無意識的な身体感覚に属するレベルの貞操観念を決定している。
一方、中国人の生活文化の前提は権威主義的かつ実用主義的なものであり、その生活文化が女性の無意識的な身体感覚に属するレベルの貞操観念を決定している。中国人が南下してタイに至る際に、気候変化から衣服は実用に適す形の変容を受け入れただろう。その際に「中国人女性の腰から下のガードの甘さ」という貞操観念(=空間イメージという意味で)が前提になったのではないか。異境に進出したその土地での少数民族である中国人が血を純粋に保ち絶やさぬことに神経を尖らせたとして不思議はない。
前掲書の著者は、このような指摘をしている。
「そんな中国人女性が和服を着ると、どうも妙な具合になる。(中略)日本料理店では、和服姿の中国人女性たちが給仕をしていた。ところが彼女たち、いかり肩で風を切るわ、脚で裾をけりあげるわで、不似合いなことこの上ない」
私もバンコク出張で宿泊したホテルの和食レストランで見た光景でもあります。
「これと好対照をなすのが、日本人女性。まず、ガードが甘いのは腰から上。左ひじと右手でしっかりハンドバックをガードする中国人に対して、死角となる背中のバックに平気で財布を放り込んで、両手をぶらぶらさせたまま歩く。一方腰から下はというと、ジーンズ姿にもかかわらず、申し訳程度に足を開き、座る時は律儀にひざをそろえる。ジーンズなんぞ、所詮はアメリカ農民の作業着、本来おつにすましてはくようなものではない」
と手厳しい。
『日本女性が日常和服を着なくなって、もうどれほどの月日がたったのだろう。今では、自分で着付けのできる人とてまれになった。しかしてなお、今日も小股の大和撫子が南京路を行く。あたかも、見えざる和服に呪縛されているかのように』
この著者の意見にそって言うならば、日本人の身体とその立ち居振る舞いだけでなく日本人の発想思考も悪く言えば呪縛されている。しかし、良く言えば、日本人の身体を活かした歩き方や走法があり、その立ち居振る舞いを活かす作法や居ずまいがあるように、日本人ならではの感性を活かした集団独創が可能になる。
私はこのことをみんなで思い起こすところから、日本人ならば誰でも自然体で発揮できる地に足のついた日本型の集団独創というものをファシリテーションしていきたいと思う。
正座と合わせの着物と褌がなぜセットで日本に残ったか
問いの答えを仮説する
以上、史実を振り返って、「合わせの着物への固執」ということが大前提になっていることを了解するとして、ではなぜ日本人は合わせの着物に固執したのか?
その答えが、正座と合わせの着物と褌がなぜセットで日本に残ったか?という問いの大本にある筈だ。
しかも、その理由は、中国のズボンの採用のような権威主義的かつ実用主義的なものではなくて、日本型アニミズムにのっとった象徴主義的なものではないか、と仮説したい。
褌のことを調べてみたら、この仮説が荒唐無稽の希望的観測ではないことが分かった。
写真はハワイでサーフィンする褌をした青年の立ち姿なのだが、1800年代後半の撮影、褌は日本の六尺褌の前垂れ付きそのものだ。
そして、なんと六尺褌には「南方渡来説」というのがあって、南方からハワイや日本に伝わったというのだ。
そこでサーフィンの起源を調べてみると、サーフィンの祝祭性に行き当たった。
「ハワイ伝承の中のサーフィン」という項目。 酋長達の「賭けサーフィン」が、まさにポトラッチ的な様相であったことなど興味深い内容だが、とりあえず起源のとこだけを読む。
「サーフィンは、一箇所から広まったというより、南太平洋のタヒチ、サモア、トンガ、ハワイの源流であるマルケサス諸島、そしてアフリカのセネガルや象牙海岸で、同時発生的に生まれたという説もある。」
サーフィンも褌同様、「南方渡来説」がある訳だ。
ちなみに、およそミッドウェー諸島(ハワイ諸島内)、アオテアロア(ニュージーランド)、ラパ・ヌイ(イースター島)を結んだ三角形がポリネシアである。
これは言うまでもなく、日本語とポリネシア語(各諸島海を隔てて似通った言語)だけが母音主義だと「日本人の脳」で角田忠信教授が解説しているあのポリネシアだ。
イースター島にマルケサス諸島からポリネシア人が渡来するのは4世紀でさほど古い話ではない。ではポリネシアへの人類拡散プロセスはと調べると、現在では東南アジア説が定説となっているとのこと。いつ頃かというと、船をつくれた時代ということだ。
袷と正座が徐々に日本に入り始めたのが魏志倭人伝の頃として、それが3世紀末だから、南方渡来の褌がその時すでに日本に流布していたかどうか、タイミングは微妙だ。
日本人がカイタンクーを採用せずに褌を選択した、それは「合わせの着物への固執」を大前提としていて、この大前提を成立させている日本型アニミズムにのっとった象徴主義的な理由が、南方渡来の六尺褌をも受け入れたのではないか。
日本型アニミズムとポリネシア型アニミズムが気脈を通じ合ったのではないか、というのが私の仮説だ。
褌には大陸伝来説もある。
越中褌は大陸渡来ではないかと言われている。大陸渡来の褌は、中国では特鼻褌=とくびこんと言われ(特鼻とは子牛の鼻のことで褌をまとった局所がそれに似ていることからの命名)、その名は古事記や日本書紀に登場している。ただし、褌の字が示すように、戦の衣であり、朝鮮半島では戦着の一つとして用いられていた。我が国の戦国時代でもこの戦褌が武将の間で用いられ、赤穂浪士も仇討ちの時に用いたそうな。越中状の前垂れの部分に紐を縫いそれを首にかけるもので緩むことがない。
戦闘用だったということは、仮に特鼻褌由来の越中褌の方がかなり早くから展開していたとしても、合わせの着物の下に着る時期まで日常的な使用の流布は待たねばならなかったのかも知れない。
こちらも、合わせと正座が徐々に日本に入り始めた頃に、すでに流布していたかどうか、タイミングは微妙だ。
いずれにしても、貫頭衣の時代があって仮にその時に下にカイタンクーを着ていたとして、そこに袷が入ってきて褌の方が採用されてカイタンクーが捨てられたのか、それとも先に褌が流布していてカイタンクーの出る幕はなかったのか、そのどちらかということだ。
いずれにせよ、正座にしろ褌にしろ、局所方面をちらつかせないようにするこだわりだったことになる。アダムとイブの葉っぱ以来、衣服の要諦はそこにあるのだから、いたって自然なことなのだが、 私たちが留意すべき一点は、それは中国のような実用主義的理由による取捨選択ではなくて、日本型アニミズムにのっとった象徴主義的な理由による取捨選択である、ということだ。
そして、この一点は以下のような周知の特徴を展開していく。
☆衣服だけでなく正座という立ち居振る舞いがセットになっている
☆合わせと褌がセットで採用された
☆着物も褌も直線裁断のシンプルさを極めていった
こうした異文化の移入と変容の構造にこそ、日本人の美意識のほとんど無意識的な、つまりは体感的な感性という土台があるように思えてならない。
たとえば、何かと日本文化の型として取り上げられる風呂敷だが、物を包む布としての起源は正倉院御物になる。正倉院ができたのは8世紀中葉だから、褌の方が先なのだ。
まさに物を包んでいるのは褌の方が先なのであって、いかほどに直線裁断のシンプルさが極まっていたか分からないが、形が単純なだけにほとんど風呂敷様だったと想像できる。つまり風呂敷の自由自在性、融通無碍性の認知表現のパターンは褌において万人に体感されていて、そこに由来したことになる。
これがあながち的外れでないことは、風呂敷のことを調べると分かる。
wikipediaによると、「平安時代には、『平裏』『平包』と呼ばれて、庶民が衣服を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている。この時代、
私はひょんなことから一度だけ滝行をしたことがある。おそらくオーラの泉の人と同じ東京都下の滝だ。その時、白い浴衣で褌なしのふるちんだった。つまり男女ともに白衣のみだった。禊をしてから御神体である滝に向かう手順を踏んだ時、古来の修験道の滝行のイメージが入浴のもつ儀式性に反映したのではないかと思った。 (現代の日本の銭湯でも、湯船の上に富士山の絵があるのを注意して見ると手前に水域が描かれそれが湯船に繋がっているイメージになっている。つまり無意識的にだが富士山をご神体にした沐浴の形式になっている。)
確かに、
☆白い浴衣の袷という形式は、水で不浄を払うとか正座するという立ち居振る舞いと意味的・感覚的・機能的に連動している
☆滝行やお祭りで男女がまとう浴衣と男性だけがしめる褌はジェンダーの表現になっている。
☆着物も褌そして風呂敷も、神籬(ひもろぎ)の紙のよりしろのように直線裁断のシンプルさを当初から志向していた。
こうした要素の内容を置き換えればポリネシアと似たような象徴の構造が見てとれる。
たとえば現代のポリネシアでは、浴衣とアロハシャツは似たような位置関係にある。ゴーギャン時代のポリネシアでは、男が褌をするのは日本と同じで、男女とも腰蓑をして女はノーブラだったが、それは腰蓑と浴衣が同じ位置関係にあったことになる。総合的なデザイン性は、日本が直線と無地を基調にしたのに対して、ポリネシアは通風しの良さや遮熱を重視し風がそよぐようなイメージの植物の模様が象徴的に用いられた。日本は湿潤と寒暖の差に適応し、ポリネシアは常夏に適応し、自然に寄り添うというパラダイムは同じである。
そして、サーフィンがポリネシア版の滝行に相当する儀礼であったと考えれば、そこで褌や腰蓑が日常非日常の体感という基礎的感性を、自然に寄り添う行為において維持する不可欠の仕掛けであったことが了解される。
日本とポリネシアに通底するパラダイムは、言語の母音主義同様、やはり石器時代以来のアニムズムだ、ということにここでもなる。
つまりは、合わせと褌の採用は、修験道に体系化されていったような日本型アニミズムの儀式性に則りこれを維持するものだったと考えられる。
日本とポリネシアに通底するのは、具体的には母音主義の言語、情緒の左脳(言語脳)優位性、自然音を有意味音として聞くこと、母音主義ゆえの歌と踊りのゆったり感と自然をテーマとすること、つまりは<自然と人工の未分化性>だ。
先日NHKの「その時歴史は動いた」で小錦さん演じるハワイ王朝最後の王がアメリカに併合されるのを嫌って明治天皇に同盟を要請し、それを日本の方から断ってしまった話をみた。もったいなことをしたなあとか、真珠湾をではなくそこから米国本土を攻撃することになっていたのかとか、歴史に「もし」はないとはいえ頭の中が「もし多発状態」になった。それはさておき、ハワイ王自らが日本という国に親近感をもって同盟を望んだ訳だが、それこそ同じパラダイムにおける<自分と他者の未分化性>がポリネシア人にあったことを雄弁に物語ってはいまいか。
☆白い浴衣の袷という形式は、水で不浄を払うとか正座するという立ち居振る舞いと意味的・感覚的・機能的に連動している
という点は、特に女性において意味深い。男は褌をし女は腰巻きをしたとしても、女の方は性器が空気に晒されているからだ。袷の採用当時、一般庶民がどの程度腰巻きも着用したかは疑問で、祭りにおいて女が大和言葉を発しながら歌い踊って袷がはだけるような状況で、腰巻きが必要とされたりチラリズムのようなファッション化をしていったのではなかろうか。
袷の着物は、ちょうど貝合わせの貝が最初は歌だけが書かれたのが絵を描かれるようになったように、美しい絵柄が施されるようになっていく。貝や貝を合わせることの性的なイメージは、女性の着物のイメージとの連想をもったとも考えられる。
日本の舞踊は江戸に向けて屏風や床の間を背にして平面的な見えがかりを完成させて行くのが特徴であるが、このことは着物の直線裁断がシンプル化していったことと関係があるのではないか。衣服の構造が立ち居振る舞いの形式性に反映して両者の相関を成熟させていったと考えられる。
私はハワイのアロハシャツがどのようにして生まれ定着したのか知らないが、ハワイ人がこだわる空間と立ち居振る舞いを一貫させるコアが何かあってそうなったと考えられ、日本人にも内容は違うが同様の位置づけの要素とそれを組み立てる構造があったと言えよう。
九鬼周三はその著「粋の構造」で、粋とは、媚態を質量因とし、肉体への通路開放と通路封鎖の両義性を形相因としていると述べた。
僕は、これは粋だけにとどまらない日本型の体感構造だと感じてきた。九鬼も着物に着目し、草稿では縦縞にこだわり、本稿では透ける襦袢の話だけにしている。
(参照:「私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その1=『いき』」
http://cds190.exblog.jp/11717362/)
しかし、合わせという服の構造が、開いたり閉じたりする、文字通りの通路開放と通路封鎖の両義性を明快に示すものだった、と今にして気づいた。これはシンプルにすぎて気づかなかった。
合わせと正座で局所方面をちらつかせないことにこだわりをもったのも、下半身のガードをいい加減にあっけらかんとしたり、ズボンやスカートのように閉鎖性を前面に押し出しては、両義性が崩れてしまう。
そしてアニミズムに立脚すれば、
男女性器を起点に下着や服をどのような構造に仕立てるかという
認知表現のパターン(性器→褌→合わせ→正座の時空)は、
自然と人間の関係性をどのような構造として捉えているかという
認知表現のパターン(滝→白衣→心身→行の時空)を踏襲した、
それが日本型ということではないか。
(ポリネシア型の場合、
日常的な自他間の認知表現パターンが、
性器→腰蓑→胡座の時空
非日常的な自然人間間の認知表現パターンが、
波→褌→心身→サーフィンの時空
なのか。
滝行が山深き谷あいの動かぬ大地の上で水系と一体化する行為であるのに対して、サーフィンが広い空と海の狭間である波の上で水系と一体化する行為であることは、まさに対照性を際立たせている。しかし、いずれもその原初性を尊重した感性が衣服を選択させ、その衣服の有りようが立ち居振る舞いを規定する一方で、石器時代以来の母音主義を温存する言語とそれを歌い踊る芸能を生活の中で保持してきたことは、単なる偶然とは言えない。
そして、日本型とポリネシア型ともに、アニミズムを核心とするユニークな生活文化という集団独創の成果を生み育んできたことは事実だ。)
最後に繰り返しますが、以上の仮説については大いに異論も反論もあると思います。
しかし私は、私たちにとって当たり前になっている生活文化的な事柄の大本を、ああでもない、こうでもないと推量したり議論することこそが、私たちの集団独創を活性化すると思うのです。
是非みなさんもご自身の仮説を練ってみてください。