日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(2/5) |
私は前項(1)で、
英語は、
コトに着目しそれをモノとして捉えようとする認知表現のパターン
(因果律のような抽象性から具象を捉える)が色濃く、
日本語は、
モノに着目しそれをコトとして捉えようとする認知表現のパターン
(具象から縁起(因果律+共時性)のような抽象性を捉える)が色濃い、
という現代にまで通じる傾向を捉えることができないか、
と述べました。
そして著者が安西徹雄著「英語の発想」の捉え方について、「英語と日本語を対立項とせず、ものとものとの関係としてことが捉えられる、とするところに大きな収穫が感じられる」
としていることについては、
欧米的な<知>起点の発想思考
日本的な<情>起点の発想思考
中国的な<意>起点の発想思考
を、それぞれに
<モノの機能>の重視
<モノとコトの感覚>の重視
<コトの意味>の重視
を特徴とする概念形成メカニズムとして把握できないか、
と述べました。
安西徹雄著「英語の発想」によると、
「英語は名詞中心の<もの>的な捉え方をすると同時に、行動中心の<する>型の表現を取るのにたいして、
日本語は動詞中心の<こと>的な捉え方と同時に、<なる>型の表現が特徴である」
とのことです。
これが、英語は「主語主義」、日本語は「述語主義」という捉え方に重ることについてもすでに触れました。
以下、中国語のことも交えて検討していきたいと思います。
中国語は、常に主語が明快で能動態の行動中心の<する>型の表現であることにおいて英語と同じですが、漢字を前提として動詞形容詞が変容しない点が英語と異なります。たとえば、過去形や未来形がないのですが、昨日、明日とあればそれは過去だろう未来だろうということになります。
この英中の<する>型の違いは、因果律のような抽象性から具象を捉える傾向の英語文化と、具象から共時性のような抽象性を捉える傾向の中国語文化との違いに繋がっていると考えられます。
<する>ことの正しさが英語文化では合理性に依拠し、中国語文化では道理への合致に依拠していて、英語と中国語はそれぞれの論点が際立つような構造になっています。
それは単に文法の違いではなく、たとえば漢詩のように、道理に合致した文章は文字数と行数が揃う筈だという書き言葉の前提なども含みます。(この点は、母音主義の日本語の歌い言葉としての七五調や話し言葉としてのダジャレが対比されます。日本人は主体が発声した際に縁起を盛り込んだり読み込もうとしている感じがします。)
日本語は、必ずしも主語が明快でない受動態の<なる>型の表現となることにおいて中国語とも英語とも違いますが、「てにをは」という助詞の存在が、それがない中国語と英語とのそれぞれとの違いを形成しています。
特にこの点での日中の違いが、具象から縁起(因果律+共時性)のような抽象性を捉える傾向の<なる>型日本語文化と、具象から共時性のような抽象性を捉える傾向の<する>型中国語文化との違いに繋がっていると解釈できます。
(日本語文化の<なる>型は、日本の神話における超越的存在の発生物語から、現代の日本人にもある受け身の多用や「〜させていただく」といった表現にまで至るが、人間を含めた自然、これを受け入れるパラダイムが土台に一貫していると考えられます。)
「天時不如地利、地利不如人和」
(天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず)
<社会人的な心性>というレベルで中国文化とその影響を受けた日本文化には、こういう考え方があります。
中国文化は、「天の時」を中心に据えた「共時性」を尊重するものでした。
一方、日本列島の先住民には縄文由来の<部族人的な心性>があり、早い時代の渡来民ほど大枠として同じ<部族人的な心性>をもちきたり、遅い時代の渡来民ほど中国文化の影響を受けた<社会人的な心性>をもちきたった。彼らは利害を対立させたにせよ協調させたにせよ、極東の列島が四周から文化や産物をとりいれることのできた「地の利」(因果律)を踏まえました。そして最終的に「和をもって尊しとする」という「人の和」(因果律+共時性=縁起)を踏まえる国家を打ち立てました。こうした出発した日本文化はまさに「縁起」を尊重するものとして今日にまで至っています。
私は、この「縁起」の尊重は、石器時代以来の日本列島におけるアニミズムを温存しようとしたものであって、その仕掛け、装置として日本語が形成されていったと直観します。
それは、発音的には母音主義、文法的には「てにをは」を固守する和語を中核とするものでした。
本書「日本語の力」はこの経緯のポイントを具体的に解説してくれます。
同じモノを捉えるにしても、中国の「格物致知」の「物」と、日本の「もののあわれ」の「もの」では異なります。
前者は共時性を前提にした「物」であって、後者は縁起を前提にした「もの」です。
本書の「やまとことばの豊かさ」という章でも、
「『もの』一つとり上げても、『もの』(物・魂)は流動をもち動詞的であり、日本語的だという」和辻哲郎の知見に言及し、彼の「やまとことばをまず固定して、その対象とする中味を探ろうとする方向」は著者の日本的論理を求める方向と一致すると述べています。
「気と象」「か→かた→かたち」
「東洋人は、古くから自然の根源的な働きの中に、気とよぶものを設定した。
人体にあって、根源の気が元気である。この気が病におかされると病気になり、力をたくわえたものは勇気と呼ばれた。したがってたとえば病気にしても、それは症状をいうのではなく、気の一つの状態をいうものであった」
「実態としてあるというよりは、働きや動きとして存在するものが気である」
「この気は、日本でも『き』とよばれるほかに『か』とも『け』とも音(筆者注=母音)が変化しつつ、一連のものとして尊重された」
「か」は香で、「においとして漂うもの」であり、酒などを醸成することである「をり」と合わせて、気を醸し出されることを意味する「かをり」となった。
「け」は、「何となく存在する不可解なもの、魂の働き」であり、物の怪という単語もつくった。そうした「け」が延う(はう)状態が「けはい」となった。
「もちろん気は『き』という発音そのままに日本でも通用した」(現代の中国語ではチーである)
「そして、『き』のもっとも本来的な働きも『きざす(兆)』という日本語の中にとり入れた。気が差すのである」
「『老子』にも『惚たり恍たり。中に象(きざし)あり』と見える。象という漢字には『かたち』という意味があり、『しるし』という意味がある。つまり根源の恍惚として(ぼんやりとした)中に、兆してきて見えるものがかたちなのである」
建築家菊竹清訓が提唱した「か→かた→かたち」論は、以上述べてきた「気」が「形=象」になる媒介項として「型」を想定し、「た」や「ち」を含め大和言葉からその原理を探っています。これについては機会を改めて検討しますが、日本文化は型の文化だということと考え合わせると、そのこと自体が原初の<なる>型の文化に由来することを雄弁に物語っていると言えましょう。
「気こそが存在する物象の基本だという考え」は広く東洋のもので、日中共通ですが、陰陽五行という普遍的な抽象論と漢方のような自然操作に向かった中国に対して、石器時代以来の個別的な具体論を自然主義的に温存した日本という対照が指摘できるように思います。
(参照:
「パターン認識としての<かたち・かた・か> 」
http://cds190.exblog.jp/4643989/)
ケとハレとケガレ
ケが日常で、ハレが「晴れがましい時」である非日常です。
「このケは気のことだ。日本語ではキ・ケ・カと音(筆者注=母音)が変る」
「古代人は、ケという根源の存在が充満し、天地にこもりすぎると、万物もその中に隠ってしまって命が衰弱していく。だからこの状態を払拭しなければならない。そこで神さまにお祈りをして、こもったケをお払いしてもらう。その結果出現する状態をハレといった」
「払ふ」のフは、「願いをもって長く何かをしつづける時のことば」だそうです。
「ハレという状態は、きわめて価値が高く、むしろ神の力によって可能なものと考えたのであろう。冠婚葬祭(筆者注=祝祭儀礼)をハレといってきたことも、よくわかる」
「ケは充満しすぎてもいけないが、反対に離(か)れてしまうともっとよくない。ケガレは穢などと漢字で書かれる状態である。ケがなくなると無力になり、抵抗力のない体に細菌がうようよととりつく。これまた神さまの力で払って頂いたり、自分自身でミソギをしなければならないが、このばあいは、ケを払い落すのではない」
古代人の思考は三層構造になっていて、
日常をケのコモリの状態とし、
ケのコモリすぎを避けて払った状態をハレという非日常とし、
ケの離れた状態をケガレという異常とした訳です。
つまり気=ケがこのように<なる>ものであり、このような気の状態を表現したりまさに言霊によって変容させることに心砕いた日本語が<なる>型表現を特徴とするようになったのは当然の帰結でした。
そして、私たちが<なる>型表現を特徴とする日本語で物事を考えるということは、日本人の発想思考が、欧米や中国の<する>型とは異なる<なる>型の独自性や独創性をもっていることに繋がります。
心付と心ばなれ
「心付」とは俳諧の「詞付」「心付」「匂付」という展開の一概念です。<集団脳の営みである俳諧>が<個人脳の営みにである俳句>になっていく前段で、俳諧の連句のつながりが「言葉の縁」に求めていたのが、言葉で表現しうる「意味」に求められ、最後に言葉で表現しきれない「情緒イメージ」に求められていくようになる、その二番目のあり方を言います。
日本文化の連続性あるいは変容の型なのかも知れませんが、型として面白いのは、和歌にも<集団脳の営みである旋頭歌>から<個人脳の営みである和歌>への展開があることです。また和歌や日本画には、言葉や絵という言語で明示知的に表現しきれない「情緒イメージ」を暗黙知的に表現しようとする文学的、絵画的な仕掛けを工夫する独創性があることです。
このことは項をかえて検討します。
いまは、「心付」の「心」が意味のことであったこと、逆に「意味」とは本来は心にとってのコトであったことを指摘するにとどめます。著者は、意味が心にとってのコトではなくなることを「心ばなれ」と称しているのです。
著者は万葉集の和歌を例示して、「苦しくも 降り来る雨の」の「くるし」と、「東風(あゆのかぜ)いたし吹くらし」の「いたし」について、身体的な意味ではなくて、「心苦しい」「心が痛む」と考えるのが万葉人であったと解説しています。
「総じて古代語が生きつづけている時の変容をみると、心の喪失がいちじるしい。
そのことは、すでに現代に姿を消した単語が、心の喪失にともなって姿を消したのと同じ経緯をたどったことになる。
どうやらことばの不易と流行は、ことば自体の問題ではなく、心の消長によって、ことばが不易と流行とに分かれるらしい」と意味深長です。
どうも著者は、「心にとってのコトとしての意味」を表現するに日本語ほど明快な言葉はない、決して曖昧なのではない、と言っているようなのです。
「日本人はあいまいだという、合い言葉のようなものがそれこそ流行中だが、この『あいまい』は、れっきとした中国語『曖昧』で、日本語ではない。
ということは本来日本人には『あいまい』という概念をもたなかったから、表現したいとい思わなかったし、単語もなかった。
ところが中国からあえて『曖昧』という語を輸入し、本来『くらい』という意味であるにもかかわらず、それを不分明と変えて用いるようになった。これまた、不分明さを認識し、『あいまい』と同じように、表現したいという心が生じたからである」
つまり、文字を導入して文字に明示的に定着できないコトという不分明が発生して、曖昧という語も使われるようになったのではないか。声に出して語ったり歌ったりしていた段階では「あかるい」コトの内、文字にすると抜け落ちてしまうコトが出てきたということではないか、と想像します。それは語りや歌いが<場が介在する集団脳の営み>であり、文字に定着するということが、基本的に<場を喪失した個人脳の営み>になることと密接に関係するのでしょう。
和歌の生い立ち
「いったい日本人は、和歌をいつごろから作り始めたのだろう。
まだ、よくわかっていない。何しろ近ごろは日本人そのものの歴史が五十万年前までさかのぼってしまった。(中略)
縄文人がうたっていた歌はどんなものか、それは楽しく想像するしかない。
そこで、いま残っている和歌をもとに考えてみると、いまから千五百年ほど前、五世紀のころにはすでに和歌の形式が始まっていたという見通しが立つ」
著者は、文献がもっとも古い歌と伝えるスサノオの歌、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」を示して、それが「想像物語の中の男女二神の喜ばしい結婚は、空中に湧き起こり、美しく二神を包んでしまう雲の中の出来事として語られるのが、いちばんふさわしかったと思われる」と解説しています。
もっとも古い歌が、神話的な祝婚歌であり、自然賛歌であることは日本に限ったことではないでしょう。
そして、著者は十世紀はじめにできた古今和歌集においても、紀貫之が書いた序文にこのスサノオの歌が三十一文字の和歌の最初としていていることに触れ、それに続いて天皇をめぐる歌の最初である「難波津に 咲くや木(こ)の花 冬こもり 今は春べと 咲くや木の花」を示して、それが王仁(わに)という渡来人が皇子に天皇即位を促して歌ったものと解説しています。それは帝の徳をたたえるものなのですが、人の心を自然にたとえることの始まりに他なりません。
これは、意味とは心にとってのコトであり、それが自然にたとえられる、つまりは自然に兆しをみるものであるという認知表現パターンですが、それがたとえば一般的な慣用句の「花と散る」やオタク言葉の「萌え〜」にまで連綿と継承されてきたことは、日本独自のことと言えます。
現代の日本人にとっても余りに当たり前で気にも止めないことですが、このような和歌に共感できる前提として日本列島の四季や空海の体感の共有があります。ここで、自然への共感が無意識的に前提されていることに<自他の未分化性>が認められます。また、歌はモノではなくコトですが最もプリミティブな人工であり、それが自然讃歌だったり自然になぞらえた愛情表現であることに<自然と人工の未分化性>が認められます。ともに人類普遍の<部族人的な心性>の要件です。
現代の天皇家に至る儀礼において和歌の位置づけが大きいことは、日本人が<社会人的な心性>を<部族人的な心性>をベースとして温存して形成してきたことを最も象徴的に物語っていると言えましょう。
「五音と七音の組み合わせから成り立つ和歌は、とりわけて格調高いもので、はっきりと日常生活のことばとは区別されるものであった。だから神さまのことばは、和歌の形で人間に与えられた。神さまや帝をほめたたえることばも、和歌の形で行われた。それがいまの二首の場合である。
ちなみに古代日本では、ずいぶん後まで男女の愛は、和歌の形で相手に伝えるのが決まりだった」
と著者は締めくくっています。
(それは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗である「歌垣(うたがき)」の日本古代形であった。「歌垣」は、現代でも、中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。つまり<部族人の心性>に根ざした男女のコミュニケーション・パターンであり、古今東西の歌劇や演劇において同じパターンの台詞の掛け合いが私たちの深層心理を揺さぶってきた。)
男女の愛の原初性を考えると、七五調の元になるようなリズムの歌の掛け合いが先に存在していて、人と神との関係性を男女の関係性に重ねる形で神道の言祝ぎや祝詞が生まれていった、とするのが自然です。
「じつは、三十一文字の和歌より、もう一つ古い形式の歌がある。旋頭歌と呼ばれる六句体のもので、五音、七音、七音、を二回くり返す。
梯(はし)立の 倉椅(はし)山に 立てる白雲
見まく欲(ほ)り わがするなへに 立てる白雲(『万葉集』巻七-一二八二)
のような歌である。
じつは旋頭歌というのは、右の一行目の三句---これを『片歌』という---がリーダーによって示されたテーマで、そのテーマについて集団の人びとが歌いついだ三句が二行目である。題句と付句といいかえてもいい」
要は、奈良の飛鳥の音羽山に沸き立つ白雲というテーマをリーダーが提示して、その白雲の意味付け(=俳諧でいう心付)を要求する。すると即興で「私が恋人に逢いたいと思っていると、都合よく湧いてきた白雲よ」と付句されたということです。この即興を繰り返し、同じ題句が使われて戻ったために旋頭の歌となったとのことです。
旋頭歌をたくさんの人たちでやっていたのが、ひとりで歌う和歌になると、題句の三句目が省略されて、
梯(はし)立の 倉椅(はし)山に
見まく欲(ほ)り わがするなへに 立てる白雲
の三十一文字になったのだっそうです。
以上の和歌成立の経緯には、「日本型の集団独創」の構造的な源流があるように、私には思えてなりません。
和歌成立の経緯は、連歌や連歌から派生した俳諧そしてその発句である俳句への経緯にも繰り返してもいる。そこでは、明示知的には個人の発想成果と思しきものの内に集団の独創の仮想が「型」として盛り込まれている。
集団独創の成果を踏まえて、あるいは集団独創を触発することを前提に個々人が発想している、ということである。これは、いわゆる本歌取りのように単に人々が共有する知識を前提に和歌や俳句を創作するといったこととは次元の異なる、集団が集う場を踏まえた高コンテクスト性であり、場における集団の発想思考パターン論です。
「だから、前の節であげた最古の和歌が、三十一文字になっても、繰り返しをもっているのは、まだまだたくさんの人によって歌われた旋頭歌時代の名残りを残しているということだ」
「三十一文字の形態を備え、題句・付句などと区別しようもない後のちの和歌にしても前後で切って遊ぶという、今日の百人一首のような習慣が存続する。一首の中でも主題と叙述という二部構成のものが少なからずある」
として、著者はこのように総括します。
「和歌がこのように根生(ねお)いの要素を保ちつづけるのは、きわめて本質的なことでもある。そもそも『和歌』という名前は、『和』(日本)の歌という意味だから、当然中国からやってきた『漢詩』に対立して名づけたものである。
和歌の名は、古代朝鮮の新羅の国でも民族詩を『郷歌』(『国ぶりの歌』)とよんだのとまったくひとしく、同じく漢字文化圏であった二国のありさまとして興味ぶかいが、さらに日本・新羅ともどもに『歌』として『詩』を排したことも注目されてよい。
いうまでもなく『歌』とはウタウことであり、物に書きつけることではない。ところが中国では『詩』は志だという解釈があるように、心を述べることである」
まさに、日本的な<情>起点の発想思考と、中国的な<意>起点の発想思考であります。
「このいきさつを考えると、和歌は日本人の伝統的な固有の(筆者注:ウタウときに重要な)韻文に対する自負と誇りを示すものと思われる。漢詩(筆者注:書きつけるときの文字数にこだわる)とあい対立せしめつつ、わが国の韻文を対等に位置づけようとしたものであった」
著者の検討は、以上のように出発した和歌が、以後「表現上のどのような機能を担当し」日本文化に貢献してきたかに移ります。
「第一に、旋頭歌から独立して以来、歌人は孤独の立場を身の上として和歌をよんだ。とすると和歌はひたぶるにわが心の情調を叙述することを心がけるしかない。
ほぼ八世紀までの和歌を集めたと思われる『万葉集』には、また『物に寄せて思(おもひ)を陳(の)べたる』といって素材に託して心情を述べる歌と『正(ただ)に心緒(おもひ)を述べたる』という、ただ心情を述べる歌と両方の分類があるが、この前者はすでに言及したとおりの旋頭歌的な形態であり、もはや『万葉集』でも中心は(筆者注:後者の)『正に心緒を述べたる』にある」
著者はこのことと俳句とを比較して、
「俳句は叙述を主としない。反対に切断的であり即物的であり、思索的である。それでこそ車の両輪として歌と句は日本詩歌を支えてきた。
俳句は右の論旨でいうと、むしろ『物に寄せて思を陳べたる」の流れを復活したものだともいえるし、ひたぶるに感動の原質を述べるのが和歌だとすれば、対象にやや距離をおき、時として冷ややかに、批判的に物を眺める俳句の滑稽も、うなずきやすくなるであろう」
としています。
私は、『物に寄せて思を陳べたる」の流れは、和歌では文脈性が「時系列に展開する歌謡」であるのに対して、著者がそれを復活させたとする「俳句」では文脈性が「瞬間を再現する絵画」であると感じます。それは文字がなかった時代の聴覚の感受性から、文字と絵画が一体で成熟させた視覚の感受性への展開と解釈できます。
そして『物に寄せて思を陳べたる」の流れは、「時系列に展開する歌謡」と「瞬間を再現する絵画」の文脈性と感受性を合わせて、日本人のモノづくり=コト作りの発想思考に連なっていったように思えてなりません。
「第二に、もっとも日本語的な表現が和歌表現ではないか。わたしの持論だが、言語には詩の言語と科学の言語がある。後者は物事をくっきりと指示し、そのことで論理を構築していくための言語である。極端にいえば自然科学の言語はそれ以外にあってはならないだろう(筆者注:=因果律にのっとった<知>の言語)。(中略)
しかし日本語は太古の詩の言語だった性質を、たぐい稀に継承しているとわたしは考える。日本語はあいまいなのではない。詩的言語なのである(筆者注:=縁起にのっとった<情>の言語)」
私は、著者の指摘する2種類に加えて、中国語の史書を典型とする記の言語という、天意を記すための言語があったと考えます(共時性にのっとった<意>の言語)。
「和歌は基本的な日本的心性のリズム化を担っているとわたしは思う」
私は、これは心の型ないし心のデザインであり、日本文化の型ないしデザインの土台になっているのではないかと思っています。
「とくに古典和歌はさまざまなことば遊びもしてきた。それを第三の役割としてあげなければならないだろう。(中略)枕詞、序詞、縁語、掛詞はたまた物名、本歌取りなど。
枕詞というのはまったく不当な命名で、わたしは連合表現とよんでいるが、『ぬばたまの』といってカラスオウギの実を連ねることで、表現が立体化する効果をはかる試みであった」
脳科学でいうクオリア=質感の独自性が見出される訳です。
「こうした試みは、一般的にいうとことばの領域の拡大、重層化といってよいし、そこに展開する意外性の発見を楽しむものだといってもよいだろう」
著者は「多根ことばの共生」という章で、このようなことを述べています。
「『わたつみ』は、海を意味する韓国語のパタと日本語のウミが一つになってできたことばだ。
同じく韓国から姫神が日本にやって来て、ヒメコソの神社に鎮座したと『古事記』にある。これも姫を意味するコソという韓国語が日本語のヒメと結合したものである。
アイヌ語のピラは、もっと多く見られる。比良(ひら)坂、弊羅(へら)坂と『古事記』に登場するのは、同じ坂の意味の二カ国語が一つの単語を作ったことになる。(中略)
こうして、一つの社会が外国語と接すると、同じ意味の自国語を重ねて外来語を使うようになる」
私は、この「一つの社会が外国語と接すると、同じ意味の自国語を重ねて外来語を使うようになる」という普遍的な現象は、複合語を話すエリア=「異界との重なり領域」の地域性についての暗黙知を混めるものではないかと思います。
そして、大和言葉と漢語そしてカタカナ英語の混合語である戦後日本語が、敗戦して進駐軍に占領された極東辺境の時空=「異界との重なり領域」を出発点にしていることを思うと、そこに、日本人自らが戦前日本語を方言と位置づけ、世界中心の時空=アメリカの言葉を兆しとして取り込んでいった、そんな反転現象を捉えることもできるのではないかと思います。
たとえば戦後復興期を終えた高度成長期当初のプロレス黎明期において、外国人プロレスラーはその祝祭性に必須の存在でした。そして彼らを、相撲取り風の名前の力道山がばったばったとやっつけて大衆が喝采したのでした。
その祝祭性は、その後の日本人プロレスラーの名前に展開します。ハーフでもないのに「ジャイアント馬場」「アントニオ猪木」「ジャンボ鶴田」などなど複合語になりました。
観衆はリングアナウンサーの歌い上げるリングネームを聴き、その名のプロレスラーが得意技を披露するのを見て、熱狂を重層化して現実の日本とは真逆の可能性を兆しとして求めた。そこには、アメリカに負けてアメリカに追いつこうとする日本人の、そして米軍に守られる日本列島という「異界との重なり領域」の地域性についての暗黙知が無自覚的に前提されていた、と解釈できます。
余談ですが、今のプロレスラーの名前は「小橋健太」みたいな普通の姓名の方が多いです。東西冷戦時代のアメリカに追いつこうという意識は遠になく、アメリカの核の傘で守られているという認識の希薄化とも通底しているのかも知れません。
私は、
日本人独特の発想思考パターンは、イマとココが「異界との重なり領域」としてあると前提して成立するものである
と捉えます。
イマは「過去と未来の重なり領域」であり、ココは「元々いた所とこれから向かう所との重なり領域」という意味です。
これは、松岡正剛氏の「おもかげの国うつろいの国」という考え方に重なります。
(参照:「いわく言いがたい暗黙知を重視した倭語が今も息づく」
http://cds190.exblog.jp/543561/)
日本人独特のパラダイム転換パターンは、
「異界との重なり領域」としてのイマ・ココの祝祭性を最大化するテーマを常に求め、
そのテーマ自体を起点に独創するものです。
それは、古来日本人が繰り返してきたこと(あるいは渡来人がそれに専念することで日本人になったこと)であり、私たちには余りにも当たり前で、自分たちの特性であると想像だにしなません。
しかし、自分のいる所が世界の中心だと欧米人も中国人も考えてきたのに対して、日本人は一度もそんな考えをもったことがない。それでも、様々なテーマやこだわりをもった世界の人々が、欧米や中国にはない何かがあるメッカとしての日本の秋葉原や原宿や渋谷にやってきている。それは、テレビの日本自画自賛番組が誇るような、日本凄い、日本人凄い、ということが理由ではありません。
私は、日本において古くは中国由来の文物、新しくは欧米由来の文物が日本化されている有りようが、<知>や<意>を極めることを偏重せずに、庶民の等身大の身体感覚をともなった<情>において調和していることに、彼らが安堵するからではないかと感じます。
過去から現在を経て未来に至るのは当然で、歴史が典型ですが、タンジュンに時系列の物語が因果律で説明されてしまう。
一方、日本人の時空観は、過去の「おもかげ」と未来の「きざし」が混在する「うつろい」に共時性をも捉えます。そこで何かに「ゆかり」や「えん」を結ぶことで自らの存在理由を見出す。つまり縁起にのっとるものと言えます。
リアル(現実)とヴァーチャル(仮想)の交錯そして相乗がその認知表現パターンの特徴です。
たとえば、秋葉原や原宿はタンジュンに未来を先取りする都会ではありません。その時空と文化は「きざし」的でもあり「おもかげ」的でもあります。
日本人に特徴的な認知表現パターン、パラダイム転換パターン、それらを展開する集団独創も「きざし」的でもあり「おもかげ」的でもあります。
こうした知識創造社会の全体と部分の構造を理解し、それに無自覚的に身を委ねて自然体で展開している私たち自身の発想思考を俯瞰し、「おもかげ」的文脈と「きざし」的文脈とを調和的に統合することが、日本人と日本文化の独自性を個人として集団としての創造的成果に着実に結びつけていくものと考えます。
「日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(3/5) 」
http://cds190.exblog.jp/4399068/
につづく*