<知><情><意>バランスあってすべてが始まる(9/10) |
教育と医学2002/10特集/慶應義塾大学出版会
「意志の芽生えと発達」岩下純一 発
自我の芽生え
「じぶんの足で歩き始めると、一歳から二歳にかけて自律・独立への欲求は高まってくる。子どもは母親を安全基地としながら、まさにじぶんの意志で外界へ関心を向け、かかわっていいこうとする。(中略)
そのなかで二歳半ば頃には、自我の芽生えとよばれる時期を迎える。この頃、他者とは違う、他者に対置する独自で固有な<わたし>が強く意識されてくる。それは、「わたし(ぼく)が〜する」と、大人の介助を拒否してまでも、このじぶんの意図(つもり)をあくまで主張し、貫き通そうとする中核的な自己(自我)の芽生えを意味する」
「じぶんの目標をもってじぶんで行動をプログラミングし、それが達成されればじぶんを誇り、そうでないときには恥ずかしさを覚える、まさに意志的な人格としての自我が成立してくるのである」
意志の達成の可能不可能によって誇りと恥ずかしさという感情を覚える、ということです。
「じぶんのつもり(意図)にはひたすら忠実に振る舞おうとするが、まだ他者のつもりに配慮することはなかなか難しい。自己中心的(じぶん勝手)と称されるゆえんでもある。ところが年中児に入る頃には、しだいに他者のつもりを考慮しながら、自己の行為を調整するようになってくる」
この他者のつもりを考慮するということは、他者が感じるだろう誇りと恥ずかしさの可能性をも判断するということなのだろうか。もし、そうならばそれは<情>と<知>の一体になったものと言えましょう。その場合、誇りと恥ずかしさについて自覚的であることと、他者のそれを思いはかることとは、密接な関係にあることになります。
心のメタ化
「人の心は欲求、信念、意図(筆者注=<意>に分類されよう)などから成っており、それらが人の行為の仕方に影響を及ぼすと考えられる。そのような心の働きが、四歳頃から理解されてくる。たとえば他者が誤った信念をもち、それが他者に誤った行動をとらせるといったことを推測できるようにもなる。
ちょうどこの頃、未分化なままであった意図と欲求が、別々の心的な表象としてとらえられるようになってくる。一般的には、まず欲求があり、それが欲求の実現をめざす意図をひきおこし、その意図的行為によって結果が生じるのである。しかし現実には、意図の実現と欲求の満足が必ずしも一致するとは限らない」
「じぶんの意図が、必ずしもじぶんの欲求の満足につながらないといった理解は、意志的な行為の発達にとっても重要である。(中略)
特にそれは、じぶんの欲求の満足につながらない意図の実現をめざす行為への可能性を拓くことになる。
それが、他者の意志(思いやつもり)や、社会的な規範を考慮しつつ、『〜したくないけど〜する』『〜したいけれども〜しない』といった、じぶんの欲求満足を意図的にコントロールした抑制的な行為を可能にしていく。まさに社会的な行為者として、じぶんを意志的に制御していく自己の力が育つ基盤となるのである」
世のため人のために何かをしたいと思う、それを達成しようとする自分に誇りを感じるといった自己実現欲求は、この基盤における人格向上の帰結なのでしょう。
自己のパースペクティブ
「四歳の頃には、自己を時間的な広がりのなかでとらえられるようになってくる。この頃、じぶんの経験を自伝的な記憶として自発的に物語り、この自伝的な記憶が自己のアイデンティティを自覚させ、形づくっていくようになる。また、じぶんの過去を物語るだけではなく、自己の未来を想像し、そのありうる自己を、期待や希望として物語ることも同時に可能になってくる。
それは、先取りしたじぶんの観点から、今のじぶんの行動を調整していく能力にもつながってくる」
このことは、自己の未来を想像する<知>と期待や希望という<意>とが、また先取りしたじぶんの観点から今のじぶんをみる<知>とそれにより行動を調整する<意>とが密接な関係にあることを示しています。
「パレッシーは、子どもが好きなステッカーをもらう際、次のような四条件下における選択行動をみている。
①今じぶんだけが一枚もらうか、それともじぶんと他児と一枚ずつもらうか
②今じぶんが二枚もらうか、それとも他児と一枚ずつもらうか
(犠牲を伴う愛他的共有)
③今じぶんが一枚もらうか、それとも待ってあとで二枚もらうか
(より大きな満足のために目先の満足を我慢できるかどうかである)
④今じぶんが一枚もらうか、それともあとでじぶんと他児が一枚ずつもらうか
(犠牲を伴わない愛他的な共有)
その結果をみると、
三歳児でも①②のように今この直接的な状況下なら、じぶんの欲求満足だけではなく他者の欲求をも考えて行動することができる。
しかし、③④のように、時間的遅延を伴うと、三歳児は四歳や五歳児と比べて、先の状況における自他の様相を考えることが難しい。未来への時間的な展望のなかで、よりあとの大きな満足のため、また他者の満足をも考えて目先の欲求(誘惑)に耐えることが難しいのである」
これは大人の世界でも同じで、先進国を自負する国ほど南北問題や地球環境問題を配慮しなければならず、本来配慮する能力がある筈であることや、先に会社を去る経営幹部ほど我が身のことではなく会社と社員全体の将来を深慮遠謀すべきであることは、まったく①〜④と同じ構造にあります。そして、今の状況に対して三歳児でもできることを大の大人ができないことがある、ということになります。
著者はこういう言葉で論文を終えています。
「さいごに、このような意志的な行為を可能にし、その発達を側面で支えるのが、手段目的関係を構造化していく『知』や、行為の遂行を動機づける『情』の発達であることは言うまでもない」
なぜ前述のような嘆かわしい大人がいるのかと言えば、それは「エゴに囚われて自分に好都合な手段を自己目的化する歪んだ知性」と「愛他的かつ公共的な行為を回避する非情」の者がいるからと言うしかありません。
そして大なり小なり人間は、無論私も含めてですが、現実主義と理想主義の間で揺れ動いて日々そして人生を送っています。
←本ブログをご評価ください
ブログratings - ビジネス・経済TOP50