日本型のパターン認識とパターン変換の採集 (1) |
日本型のパターン認識とパターン変換を採集する旅に立つ
「日本の美を語る」というこの本は、その構造を語るにふさわしい人々による対話です。
私は、ここのところ関心をもっている日本型のパターン認識とパターン変換の観察事項を採集するべく読み始めたところ、まず最初にこの作業に取りかかる上で重要な示唆を得ました。
それは、序で高階氏が述べている、美意識としての浪漫主義と合理主義の対立についてです。
ある新古典主義の理想家は「芸術を科学と同じように扱う」「美を合理的原理から考えようとした」とし、「この伝統はルネサンス以来西欧において支配的だった」「さらにさかのぼれば、ルネサンスが手本とした古代ギリシアにまで辿りつく」、それに対し「ロマン主義は、美とは決して万人にとって普遍的なものではなく、それぞれの時代や民族に特有の美があると主張した」、とするのです。
私がここで思い起こしたのは、最近、「日本という国や日本人は美しさを基準とする」という主旨の言葉が特に政治家の口をついて出ることです。これについて、「美とは決して万人にとって普遍的なものではない」「時代や民族に特有の美がある」以上、私たちが尊重する美しさの基準を明快にしなければならないことは重大です。つまり、日本人の美しさの基準を、ファシズム的な決めつけでなく、明らかにしなければ、何も言っていないことになるし、この言葉に「よその国は美しさを基準としない」という主張が暗黙に含まれるとすれば、それだけを露骨に言っているのと同じになるからです。
そこで大切になるのが、この序の解説から得られる、「人間主義」と一言でいっても、欧米的な人間主義は神により契約された、つまりは自然から優位に差別された人間を尊重するものであり、日本の人間主義は、自然と一体である人間を、つまりは人間を含むそもそもの自然を尊重するものである、という示唆です。
そしてこの対立に注目すると、それは日本を他のアジア諸国からも特徴づけることになります。これは角田忠信教授が指摘した「日本人の脳の働きの特徴」や呉善花教授が提唱する(前アジア的な)「日本的精神の可能性」に合致する。
高階氏は、欧米の「美が富や力と容易に結びつくものである」ことを指摘し、「事実残された芸術作品を見ても、神々の像やスポーツ選手の彫像にうかがわれるように、『美』への憧れはそのまま『力』への憧れと自然に結びついていた」とし、一方日本人の美意識においては「力強さへの賛美が美の世界と結びつくこと」は「どちらかと言えば稀である」とし、清少納言が枕草紙で「なにもなにもちいさきものはみなうつくし」と断定していることを例示します。そして、源氏物語の主人公が「きよらかなる・・・みこ」と形容されていることをあげ、「つまり汚れのないということで、いやなもの、汚いもののない状態が日本人の美意識の重要な要素である」としています。
この「汚れのない」状態の土台に「自然と一体となった人間を、つまりは人間を含む自然を尊重する」という感性があるのでしょう。
清少納言があげた例としての「ようやくはい出したばかりの赤ん坊」と「きよらかさ」との連想から、私は赤ん坊の御所人形を想い浮かべます。私はよく、「床の間に御所人形が飾られると部屋の雰囲気が変わる」様相を例に間の現象を説明するのですが、こんな体験をしたことを思い出しました。
それはシンガポールのラッフルズホテルの辺りを散策した時に、御所人形の原型とおぼしき中国の人形が、観音開きのドアをとめる置物として直に廊下に対で置かれているのに遭遇したことです。散策の記憶として私が覚えているのは、シンガポールスリングが風通しの良いサロンで美味しかったことと、この人形の白肌がドアに当たったり人の靴に擦られたのでしょう、ところどころ黒く汚れていたことでした。
私たち日本人が当たり前と思っている、人形が黒の漆板や紫の布の上に置かれているのとうってかわり、まず廊下に直に置かれていることに違和感がありました。そして傷ついている様子をみて違和感は決定的になった。今にして思うと、あの肘をついて寝転がっている幼児の人形が古典的な形と質感のままで、扉止めの機能を担う置物に身を落としていること自体が日本ではあり得ない、ということです。(40〜50センチの大ぶりの素材も祖末なものであり、御所人形とは違うカテゴリーなのだ、と理屈で受け入れることはできても、新品状態をイメージすると、いやだなあ、自分はこういうことはできないなあ、と情緒が拒否反応を示してしまうのです。)
日本人は、御所人形のミニチュアを根付けよろしくケータイストラップにすることはある。しかし、それは清少納言以来の美意識を尊重してのことであって、ユーザーもその延長にある愛着をもつのではないでしょうか。けっして、廊下に直置きする扉止めに転用する、という発想はしないし実際しなかった。
ラッフルズホテル周辺は植民地文化の名残でもあり、それが華人の感性であるというつもりはありません。だからこの一事をもって断定する訳では決してないのですが、
欧米の美が現代のセレブ御用達ブランドよろしく「権力化する美」(それがコルビジェが言った機能であるにしても)であるとすれば、
中国の美は「道具化する美」(つまりは物質的ないしは精神的な有用性の美)で、
日本の美は「自然化する美」(民芸品が使われなくとも美しいとか、車の見えないところまで仕上げるといった作る側の心までが作品となるとか、もったいないという使う側の心までが共同作品になるような)である
といった、それぞれに異なる原則があることだけは確かでしょう。
(この点は、「<意>の文化と<情>の文化」で編著者王敏氏が述べている、知の欧米、意の中国、情の日本という位置づけとの関係で、いずれ詳しく検討したいと思います。)
中国や欧米からモノ=文明でもコト=文化でも道具(たとえば武器や武術)として入ってきた物事が、「自然化する美」に修練されてしまった、されてしまうということは、日本人には大いにあります。
名刀や五輪の書、戦艦大和や零戦は、モノの機能(品質や性能)よりももっぱら芸術性や哲学性という意味が問われ、死地に赴いた「擬人化された物語」が形をかえて語り継がれている。この「モノに託された物語」というパターンは、鉄人28号や宇宙戦艦ヤマト、そしてガンダムやエバンゲリオンにまで至るのでしょう。日本のアニメ文化の深層には「高度化したアニミズム」があると言える。
こう考えると、宮崎駿と押井守では作風が大いに異なりますが、それは「高度化したアニミズム」の切り口の違いに過ぎません。前者は、ディズニー的な<時間軸物語>を展開し、後者は、どこにもないある空間に私たちを居させてくれる<空間軸物語>を展開する。私は押井賛美者ですが、それは日本的な間を媒介とした<ルーミング>×<ポリクロニック>志向だからです。とくに見る訳でもなくBGVにして掛けっぱなしにしていても心地よい。宮崎作品が明快な<メッセージング>×<モノクロニック>志向であることと対照的です。宮崎作品は事の顛末を知ってしまえばよほどカルトなマニア以外は繰り返し見たり再生することはないでしょう。
押井守監督が傑作「イノセンス」で生きた人形(サイボーグ)の存在性を主題とし、東京都現代美術館で球体関節人形展を監修開催し、作品の中で近未来中国語圏に廃墟のような摩天楼ゴシックの都市空間を出現させたこと、すべては<ルーミング>×<ポリクロニック>志向の文脈で高度に象徴的だったと思います。
そういえば昨日、「自然化する美」に修練されてしまったという文脈で、行きつけの珈琲店のおやじさんが、私たちがいま当たり前だと思っている「仏教ですらじつはそうなんだ」とおっしゃっていました。もともとの仏教にはアニミズム的要素はなかった。だとすると、日本人をして「自然化する美」に修練させてしまったダイナミズムは、やはり石器時代以来のアニミズムに求めるしかありません。
私は、日本の美には、それが自然という調和的な宇宙の元型的イメージを表現する美である以上、単体で一つの自然観(それは世界観であり人間観でもある)を表現してしまおうとする自立性、またその自立性を尊重するような感性が無意識的に働いていると言えるのではないかと仮説します。
日本型のパターン認識とパターン変換を採集していく旅に立つに際して、私は本書の序でその特質についての貴重な示唆を得て、この仮説を導くことができました。
旅立ちは上々です。
しかし、これから本書を出発点に始める旅は、おそらく終わりのない日本人としての学びの旅になるのでしょう。
私は常々
「日本人は、アニミズムを土台とした<個の浪漫主義>と<公の合理主義>を調和的に統合する感性を大切にしているのではないか」
と睨んでいて、それが世界の将来にきっと役立つと信じています。
この旅がそれを証してくれる旅になることを期待します。
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