人口減少社会日本、行動はストレートに脳が最大限に満足する方向に向かっている |
人口抑制装置としての文化の働きとそれに対応するマーケティング
この本は「人口減少社会」の日本をどう見るか、日本の歴史においていかに位置づけるかについて、とても示唆に富んでいます。
その視座から、いかなるマーケティング発想を導くかについて私は著者と意見の違いがありますが、「人口減少社会日本」について著者のように文化論的な検討をしている人はあまりいないのではないかと思います。
著者は、
「人口にはもともと増加する傾向があり、人口容量に余裕が少なくなると、人口抑制装置が作動する」
「動物の場合、本能的に作動するが、『本能が欠如した動物』『本能が壊れた動物』と言われる人間の場合、『文化』という人間独自の方法を作動する」
と述べています。
人口容量は地政学的な条件と文明的な条件で決まります。
著者は、
「超長期的に日本の人口推移を振り返ってみると、間違いなく人口容量は存在している」
「人口減少社会のモデルはヨーロッパにあるだけでなく、日本の江戸時代中期もまた、約100年間にわたって人口が停滞し、それなりに充実した国を作り上げていた」
とします。
著者の結論は、
「人口減少が示唆しているのは加工貿易文明の限界、つまりは西欧型技術、近代的市場経済、自由主義を組み合わせた現代日本文明の限界という、よりマクロな現象なのである」
とした上で、
「21世紀の先進国とは、人口増加に裏付けられた20世紀型の成長・拡大型国家ではなく、
人口を抑制し、モノの消費も縮小するが、
それでもなお一定の生活水準を維持し、心豊かな生活形態を作り出せる国家である」
というものです。
私は、「国家」という概念でくくる物言いでは言い表せない事柄が21世紀の中心課題になるだろうと考えます。
しかしおおよその著者の結論に同意した上で、マーケティング発想の観点から日本の「人口減少社会」の動向を国際的にも捉えてみたいと思います。
では、著者はどのような特徴的なマーケティング発想をしているのでしょうか。
一つの特徴は、
「今後は『少子化に対応する出産・育児・教育分野や、高齢化に対応する介護・医療分野、人口分布の変動に対応する住宅・都市関連分野や生活サービス関連分野、さらに環境問題に対応する環境対策分野などへ進出すべきだ』との意見が多い」
とした上で、
「だが、以上の方策によって当面の消費低迷は突破できたとしても、なおも消費者が減り続け、かつモノを求めなくなる時代を乗り切れるのだろうか」
「人口減少時代の生活価値観は増加時代とは大きく変わっていくはずだ」
と、マーケティングがモノ発想からコト発想に転換すると主張する点です。
ただし、著者の消費動向の説明はまだモノに偏っている感じはします。
いま一つの特徴は、
「自分の判断よりも社会的な権威を優先しようとするユーザー」(ユング心理学でいう外向性、自分の外側の価値観で生活世界をとらえるタイプ)に対応する「ブランド権威主義」を脱して、
「インナーマーケティング」(ユング心理学でいう内向性、自分の内側の価値観で生活世界をとらえるタイプに対応)を提唱している点です。
私は、著者とほぼ同じ方向性の「人口減少社会」日本に対する視座から「インナーマーケティング」的に発想するのですが、
著者が「外向型から内向型へ」「意識的欲望から無意識的欲動へ」のマーケット推移を捉えるのに対して、
私は、日本人全体としては「外向型/内向型」問わず、「意識的欲望/無意識的欲動」問わず、
「人口減少社会日本、行動はストレートに脳が最大限に満足する方向に向かっている」ことが重大である
と考える点で異なります。
ちなみにこれは消費行動に限定されることではありません。
著者と私の考え方の違いは、マズローの欲求段階説をどう捉えるかの違いにも繋がります。
著者がマズローの欲求段階説は「意識的な欲望と欲求」にのみ関わるものと想定するのに対して、
私はマズローの欲求段階のそれぞれに「外向型〜内向型」「意識的欲望〜無意識的欲動」のすべてが関わっていると考えます。
本論では、私のマーケティング発想が導く結論の重要なポイントだけ、著者の結論と比較しつつ解説します。
私流のマズロー欲求段階説の捉え方を著者のそれと比較解説するのは、紙幅の関係で機会を改めたいと思います。
人口減少期、増大するエドピアンと縮小するヘイアンピアンに二極化
著者は、
ヨーロッパの「スローライフ」を人口減少時代のライフスタイルを示唆するものとし、さらに江戸の「化政文化」が「表面的な華麗さを”野暮”とみなし、裏側の抑えられた趣向を”粋”や”通”として尊ぶ、江戸町人の美意識」をもつことに触れた上で、
「21世紀の日本は一歩先行く北欧・西欧諸国に追いつき追い越して、江戸中期のような濃縮型社会に進んでいく。つまり、”ヨロピアン化”を突き抜けて、”エドピアン化”へ向かう」
としています。
私も大筋で賛成なのですが、
著者が<北欧・西欧諸国>に追いつき追い越して<現代版江戸>に進むとする様々な内容の中で(その中には”情報化”という概念もある)、
私は人口減少に関連する現象として確認される<ストレートに脳が最大限に満足する方向に向かう>ことにフォーカスします。
なぜ、その方向に向かうのかという理由については確かなことは言えません。
家庭をもたず子供を持たない晩婚化、非婚化を受け入れる感性は、刹那的およびミーイズムに向かうという「意識」の側面と、計画的および社会的な「意識」の制約を解かれた分浮上する「無意識的欲動」の側面とが、<ストレートに脳が最大限に満足する方向に向かう>傾向を助長するのではないか、と大雑把に推測するばかりです。
しかし現実に、すでにその方向に向かっている周知の事実があり、それを手掛かりに検討していきたいと思います。
さらにこの方向には、インターネットやテレビゲームの普及した「電脳世界」ゆえの展開が重なります。
計画的および社会的な「意識」の制約を解かれた分浮上する「無意識的欲動」と言っても、それがリアルな生活世界において現実的に満たされることは容易ではありません。しかし、ヴァーチャルな「電脳世界」であれば容易に満たされる。そして脳内現象としては、リアルの時と同じに快楽物質が分泌されてしまう。ここがミソです。
ここで、人々の「脳的満足」が電脳でネットワークされるということは、当然、日本国内だけの空間、過去から現在までの時間には収まりません。これは私が国家でくくる物言いをしない理由の一つです。
次に著者は、超長期的に日本の人口推移を振り返って、
「農業前波の増加期(弥生〜奈良時代)には、古墳技術や水稲・易・暦・医学などに主導された渡来系実用文化が伸びたが、減少期(平安〜鎌倉時代)になると国風文学や仏教国風化といった和風情報文化へ移行している」
と指摘します。
しかし、そこでは”エドピアン”のような論及はしていません。
私は、平安文学を生んだ貴族社会という都市型社会が「妻問婚=通い婚」の母系相続社会であったことにも論及すべきだと思います。
いかに子供を作って系統を保つかは人口減少と深い関わりがあるに違いないからです。
現代の日本社会でも、マスオさん的な結婚、シングルマザー、長生きするつもりの母親が自分の娘に面倒をみてもらいたいと欲することなど、かなり”ヘイアンピアン”な女性主導の状況があります。
おそらく現代の日本人は、子供をもうけて母子相続することを前提にしたこの”ヘイアンピアン化”を「家」概念を払拭する形で突き抜けて、著者の指摘する「何よりも自分が大切という自意識を高める」言わば”ミーピアン化”へ向かっている、ということなのでしょう。
さらに著者は、江戸のような都市は、男子人口が女子人口より著しく多いため有配偶率が低く晩婚化と出生率低下を招いたことを指摘し、周辺農村からの余剰人口を引きつけては次々に減らしていく「蟻地獄」であったようだという論述に触れています。
地方出身者の独身者が多く暮らす東京、その晩婚化と非婚化は著しい。
今やその傾向が全国のいわば「東京化」と言える都市化と情報化の進展により、日本全体が「蟻地獄」化している。それが「少子化問題」の本質かも知れません。
私は、
現代日本の人口減少期は、
所得と資産の格差が広がるいわゆる「希望格差社会」化の進展と重なる訳ですが、
「やっぱり勝ち組がいい」志向の人たちの<女性主導のヘイアンピンア化>
と、
「負け組も気楽で楽しい」志向の人たちの<男性主導のエドピアン化>
とが
二極化して同時進行している
とざっくり捉えることができる
と考えます。
そしてグローバルに世界を見渡すと、
負け組の方が圧倒的に人口が多い訳ですが、
安いおカネで脳の満足を瞬時にかつ持続的に得られる日本のアニメやゲームなど「子供および子供化した大人向けの商品」が<男性主導のエドピアン化>を進展する形でヒットしている。
一方、勝ち組の方が数は少ないが経済グローバル化で人口(たとえば中国の億万長者)と単位当たりの消費額(たとえば銀座の中国人買い物客)を増大している訳ですが、
高いおカネを払って自己顕示や他者操作を主要な手立てとする脳の満足を得られる高級ブランドのセレブファッションや高級車や高級家電など「グローバルスタンダードで見劣りしない金持ち向けの商品」が<女性主導のヘイアンピアン化>を進展する形でヒットしている。
後者の志向性をもつ者の内の多数は、ごく一部の上流セレブではありません。ただそれへの上昇志向を抱く追随所得階層の女性たちであり、彼女たちと関係をもちたいと欲する男性たちです。
以上のような両者の二極化と同時進行は、世界の都市型消費社会の一般的現実として指摘できます。
後者の「グローバルスタンダードで見劣りしない金持ち向けの商品」を好む<女性主導のヘイアンピアン化>は、著者の指摘する「20世紀型の成長・拡大型」の生産消費の内に位置づけられますが、21世紀も当面引きずらざるを得ない筈です、
と述べたのは、本記事を書いた2005年でした。
いまその余りの悪文の酷さにてにをはを修正しているのですが、2010年です。
この間に欧州高級ブランドの日本撤退が加速しました。
逆にユニクロが銀座や表参道、そしてニューヨークに出店しました。ユニクロは今後も海外売上げを拡大すべく外国人雇用を拡大して行く計画です。
また銀座や原宿には、スウェーデンを本拠地とする世界有数の衣料チェーン「H&M (Hennes & Mauritz/ヘネス&モーリッツ)」が出店。その価格帯はモダンベーシックでトップスが2,000円台、カレントで3,000円から6,000円、ハイファッションでも20,000円以下です。
“H&M”に続いて、イギリスの“TopShop”、LAの“『FOREVER 21』フォーエバー21”などいわゆる「ハイストリートファッションのチープブランド」が日本進出してきました。
いずれもユニクロ同様の、安価なアイテムを自分好みの多様なスタイルに自由にコーディネートして楽しめるブランドです。
つまりサブプライムローン問題(2008)、リーマンショック(2009)と続いた世界不況で、世界でも日本でも「グローバルスタンダードで見劣りしない金持ち向けの商品」の売れ行きが悪くなりました。
日本における<女性主導のヘイアンピアン化>も、たとえ憧れや好みという志向性としては維持しても、それを経済的に具現化することのできない階層が拡大しました。
まず最初に、<女性主導のヘイアンピアン化>に迎合していた男性たちを脱落させました。私は男性視点から観察して、その典型として「若者のクルマ離れ」を捉えています。
またかつて「空白の10年」当時まで社会問題になっていた「援助交際」、その世代がスライドしたと思われる「キャバクラ嬢のファッションリーダー化」といった現象も高級ブランド品を主要素としていて、<女性主導のヘイアンピアン化>の予備軍としての一般的ニュアンスが濃厚でした。しかしそれが、世界不況を境に「てんこもりのヘアスタイル」など一般人はけっして憧れないガラパゴス化の様相を見せるようになりました。
女性視点からの観察は不得意な私ですが、こんなことが言えると思います。
<女性主導のヘイアンピアン化>の志向性を経済的にも自由闊達に具現化している若い人気女性タレント、そんな彼女たちにもテレビゲームやアニメやコスプレにはまっている人が多い。またそうした彼女たちに共感する若い女性たちも一般的であることから、「子供および子供化した大人向けの商品」を好む<男性主導のエドピアン化>が女性にも浸透度合いを高めてきたと感じます。
AKB48とそのステージを盛り上げるオタクの観客たち、あの光景は、<男性主導のエドピアン化>領域と<女性主導のエドピアン化>領域の重なりを象徴しているように感じます。
ちょうど男性主導だったコミックの世界にレディースコミックが参入し定着していってコミック全体の裾野を広くしたような構造変化が、アキバ系サブカルチャーでも起こってきているのでしょう。
グローバリズムにおけるエドピアン化
日本でそして世界でグローバリズムが格差社会を蔓延させれば、可処分所得や資産の違いによって、消費傾向も生活価値観も二極化してくるのは当然です。
しかし日本発の動向を注意深く見ると、こんなことが指摘できます。
渋谷109に代表される東京カワイイ・ファッションは、周辺のデパートに比べてヤング女性向け、パルコに比べて「子供化した大人向けの商品」と位置づけられます。ポイントを言えば、「いつまでも大人になりたくない情緒」を基調にしています。「社会の階層に組み込まれたくない情緒」と言ってもよいでしょう。そうした情緒を起点にしてしか、全体に一貫する偶発性を楽しむカオスのノリ=いろんな次元の祝祭性を説明できません。
東京カワイイ・ファッションは、<女性主導のエドピアン化>領域の代表であると考えます。
そして、<男性主導のエドピアン化>領域も<女性主導のエドピアン化>領域も、ちょうど江戸町民文化が厳しい身分社会を超越して武家にも受け入れられたように、経済階層に関係なく人気があります。それも単なる好きにとどまらず人によっては活力源や精神的な支柱にすらなっている場合も多い。
ここで、欧米発のチープブランドはこうした範疇ではないことに留意してください。来日したアメリカのセレブ女性タレントも渋谷の109に直行するのです。そこには東京カワイイ・ファッションと欧米発ストリートハイファッションの曰く言いがたい違い(いろんな次元の庶民参加の祝祭性が関与している前者としていない後者)がある訳です。
また蛇足になりますが、ここで論じているのは貧富の格差が影響しない段階の幼児や児童に限らない全般階層の現象です。また万国共通にいるコレクターやマニアといった一部の大人に限らない、一般的な大人男女を含む全般階層の現象です。
ユニクロはさすがにセレブにまでファンがいるとは言えませんし、店舗VMDの整然としたニュアンスは明らかに渋谷109のカオスとは異なります。
しかし、子供から大人まで、下流から中流まで広く受け入れられていることは、GAP以来の欧米発チープブランドと大きく異なり、アンダーウエア含めた「新機能性衣料」の毎年の打ち出しという祝祭性もこの違いを象徴します。
私は、<男性主導のエドピアン化>領域において、日常衣料と衣料生活の全体を空間時間的に再構成したのがユニクロではないかと捉えています。
これは<女性主導のエドピアン化>領域において、東京カワイイ・ファションが読者モデルやショーイベントを媒介にファッション雑誌と連携して、女性衣料雑貨と女性ファッションライフの全体を空間時間的に再構成していることと、抽象的には相似する構造をもっています。
日本食が世界に評価されるポイントに、日本人の受け手一体の集団独創の成果あり
世界における日本食のブームと定着化にも、以上と同様の観察ができます。
日本においてファーストフードの日本食とスローフードの日本食があるように、
世界において、
健康維持コストを節約するという意味合いの「生理的なサバイバルのケの食」として
<男性主導のエドピアン化>を進めるファーストフードと、
美容健康コストを掛けるという意味合いの「社交的なサバイバルのハレの食」として
<女性主導のヘイアンピアン化>を進めるスローフードと
同時進行、二極化しています。
生活スタイル全般についてのスローライフとファーストライフも同時進行しています。
テレビのレポート番組や生活情報誌の文脈では、物語としてスローライフとファーストライフに二極化していますが、現実は経済的条件が形成します。
つまり現実生活は人によって、
エドピアン流のお金のかからないスローライフとファーストライフの組み合わせと、
ヘイアンピアン流のお金のかかるスローライフとファーストライフの組み合わせに
二極化しています。
著者は、従来の高度情報化してきたファーストライフに加えて新たにスローライフが顕著化することにのみ着目したようです。
しかし現実としては人々は経済的に具現化可能性が制約されて、
「エドピアン流のお金のかからない」志向性か、
「ヘイアンピアン流のお金のかかる」志向性か
がまずあって、
それぞれに「スローライフとファーストライフ」を自分流に組み合わせてカスタマイズしている。
こうした生活者一人一人の生活文脈のカスタマイズにおいて日本食も、
「生理的なサバイバルのケの食」として<男性主導のエドピアン化>を進めるファーストフードと、
「社交的なサバイバルのハレの食」として<女性主導のヘイアンピアン化>を進めるスローフードと
が適宜に経済条件とTPOにあわせて取捨選択されて展開していると概観することができましょう。
そして私が注目するのは、前者です。
後者の美容健康コストを掛けるという意味合いの「社交的なサバイバルのハレの食」は、
世界各国、古今東西に存在してきたし存在しているからです。手間ひまをかけて財を記号化した料理を展開することや、何らかの関係上で上位の者が上位を記号化する外見を維持しようとすることは普遍的です。
そしてここで注意すべきは、記号を認知表現しているのは「意識的欲望」であるということです。
一方、前者の健康維持コストを節約するという意味合いの「生理的なサバイバルのケの食」は、それこそ有史以前の部族社会から普遍的ですが、特に風土に根ざした自然素材は直接的に人間の生理に多様な反応をもたらし、そういう意味で多様な「無意識的欲動」に連携します。当然それは日本食に限ったことではなく、世界各民族の朝食のようなシンプルな伝統食はその蓄積が定型化したものと言えます。
以上を踏まえて私は、世界において日本食がブームとなり定着化したことの本質は何か、そのポイントを次の3つと考えます。
①日本食が自然素材の持ち味を活かすことを最優先し、言わば人工化を最低限にとどめるものであり、そのことが対極的に人工化により高度化した欧米や中国の食文化に補完的に受け入れられた。
②元々の欧米料理や中華料理であったメニューが日本化した日本食が、曰く言いがたい斬新さと多様性そして変容可能性をもっていて、そのことが権威的に固定された欧米や中国の食文化に意外性をもって受け入れられた。
③回転寿司や握りロボットなど伝統的食文化でさえメカトロニクスと融合させてしまう日本のモダニズムが、伝統的食文化においては頑なにモダニズムを排除してきた欧米や中国に意外性をもって受け入れられた。
つまり、日本食が自然素材の持ち味を活かす、というのはポイントの一部①でしかない。しかも厳密に言えば、世界各国の料理も自然素材の持ち味をその風土で最大限に活かしてきているし、完全に生の食材を食べるところは中国でも大連、欧州でもイタリア、スペイン、ポルトガルなどあり、日本食ならではの特徴とは言えない。
私はむしろポイント②③のような、かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われたバブル期までの日本の家電製品やクルマが世界から評価されたのと同じ特徴が、日本食の人気定着のポイントではないかと考えます。
いま現在、そのような特徴をもって世界をリードする創造性を発揮し続けているのは、日本発では先ずジャパンアニメ、東京カワイイ・ファッションそして日本食であり、工業製品ではかつての蓄積の延長にある「ハイブリッド車」や「ウォシュレット」のようなものに限られています。
むしろ、グローカルなニーズに積極的に対応して「芋も洗える洗濯機」を開発したハイアール(中国)や、「蚊を追い払うクーラー」を開発したLG電子(韓国)の方が、技術開発の方向性から新機軸に転換する従来の日本型発想を展開している。
この「開発の方向性から新機軸に転換する従来の日本型発想」というのが、まさに日本食が世界から評価されるポイント②③に相当します。
エドピアンな日本発の世界的ヒット商品であるカラオケ、アニメ、ゲーム,日本食は、
みな人類普遍に「ストレートに脳を満足させる」消費ジャンルのものです。
それは偶然ではありません。
日本食が世界から評価されるポイント②③
=技術開発の方向性から新機軸に転換する従来の日本型発想とは、
受け手側の生活者の身になり、生活現場に身をおいて、その場ならではの<情>を起点に発想思考するものです。
そしてその<情>とは「ストレートに脳を満足させる」道筋を的確に推量させる認知表現に他ならない。
たとえば、中国内陸部で洗濯機で芋を洗う購入者が多く故障が多発した際に、そういう生活者ならば芋も洗えた方が嬉しいだろうなあ、と素直な想像力を働かせるのは<情>です。
やはり中国人は遅れているから先進国の生活者がどのように洗濯機を使うかちゃんと解説指導しなければならないと教条的にあるいは手前勝手に考えるのは<知>や<意>の偏りです。ハイアールは<情>起点の発想思考をした訳です。
インドネシアの人々は蚊に悩まされています。部屋が涼しくなっただけでは快適ではありません。エアコンとは部屋での暮らしを快適にしたい、そういう期待を担っている、ならば蚊を寄せ付けなくすればもっと快適ではないか、と素直な想像力を働かせるのは<情>です。
いろいろな省エネ機能を入れ混むぞと意気込んで高性能な高価格製品にしてしまうのは<知>や<意>の偏りに他なりません。
このように考えてくると、
世界において日本食がブームとなり定着化したことの本質と私が捉えた、
「②元々の欧米料理や中華料理であったメニューが日本化した日本食が、曰く言いがたい斬新さと多様性そして変容可能性をもっていて、そのことが権威的に固定された欧米や中国の食文化に意外性をもって受け入れられた」は、
食べ手との長い年月のやりとりにおいて作り手が繰り返してきた<情>起点の発想思考の成果の曰く言いがたい蓄積だと思い当たります。
「③回転寿司や握りロボットなど伝統的食文化でさえメカトロニクスと融合させてしまう日本のモダニズムが、伝統的食文化においては頑なにモダニズムを排除してきた欧米や中国に意外性をもって受け入れられた」も、
単なるメカトロニクス化ではなく、伝統の本質を、例えば家族連れでも安上がりに楽しく快適に食事できる庶民性ととらえ、庶民性を現代化するための<情>起点の発想思考によるメカトロニクス化だったことが分かります。だから、伝統的食文化とメカトロニクスの融合に欧米人や中国人の抱くような抵抗感が微塵もなかった。
「人口減少」「人口減少社会」は果たしてほんとうに問題なのか?
たとえば14世紀中頃、ヨーロッパをペストが襲い、わずか3〜4年の間に30%の命が奪われた。そのような「人口減少」は間違いなく問題です。
しかし、著者の主張するような「人口抑制機能としての文化が作用しての人口減少」であれば、本来は問題ではない筈です。
また現在の日本で仮に「人口減少」が問題だとしても、世界では「人口増加」こそが問題であり、人類の一員として「人口爆発」を回避しなければいけない以上、その折り合いを日本と各国はどうつけていくのでしょうか。少なくともそれを問うていかねばなりません。
以上は、「結果としての人口減少」の善し悪しを問う疑問です。
さらに「人口抑制機能」としての文化が作用するのは、人口規模に比し相対的に経済環境が縮小している時期と考えられます。
つまり「原因としての人口減少」を問うと、さらにその原因として「経済環境の縮小」こそを捉えなくてはなりません。
歴史的には、「経済環境が拡大」しているのに「人口減少」がありそれが問題になる、ということもありました。ある民族が他民族を支配し領土を拡大した場合、支配者となった民族は経済環境が拡大するが一時的に戦争によって人口減少している、すぐに回復したとしても被支配民に比し相対的に少数派の度合いは深めている訳です。この場合、支配が揺らぐ可能性が問題となります。そこで、民族同化、異民族支配層の傀儡化や官僚化、民族浄化といった解決策がとられた。ただ、民族から「産めよ増やせよ」という行為とその動機までが失せた訳ではありませんでした。
一方、日本の人口縮小期である「平安〜鎌倉期」と「江戸中期」の場合、人口規模に比し相対的に経済環境が縮小し、「産めよ増やせよ」という行為のコスト対効果が減衰し、動機から失せさせるないしは限界づける文化が「人口抑制機能」として働いた、ということです。
ここで正確に言えば、「人口規模に比し相対的に経済環境が縮小」することこそが原因だということになりますが、結果としての「人口減少」「人口減少社会」が悪いとは決めつけられない以上、「人口規模に比し相対的に経済環境が縮小」することは「人口増加を抑制」し当該世界の「人口過剰を回避」するに有効な手立てであるとも言える訳です。
さらに「経済環境の縮小」は、当該世界における「自然環境の保全」「省資源」にも繋がります。
じつは、私が「脳の満足の容易さと即効性」に着目したのも、以上のことと密接に関係します。
「電脳世界」で暮らしてリアルな生活に劣らない「脳の満足」を得ることができれば、世界経済的にも国民経済的にも個人家計的にも消費という側面で「経済環境の縮小」を容易に達成するからです。
極端な話、家をもって家財を溜め込む必要はなくなります。
世界の人口爆発を回避することが至上命題化すれば、定住して子供を産み育てることが必ずしも最善策だったり、良識として義務とはされない。
そのような場合、何が問題として残るかというと、生産という側面で「経済環境の縮小」が起こる。
そして、従来からの、多い国民人口を前提とした国家運営を維持するための税収が、企業の生産と国民の消費から上がってくる訳ですが、これが縮小する、つまり「国家税収の縮小」が起こる。
このように見てくると、
けっきょく、国家が「人口減少」と「人口減少社会」を問題視するのは、「国家税収の縮小」に直結するからであり、「従来からの、多い国民人口を前提とした国家運営を維持する」ことができなくなるからだ、ということが見えてきます
換言すれば、
「世界の人口爆発を回避するために各国が具体化していくべき、より少ない国民人口を前提とした新しい国家運営を構想し追求する」ということをサボタージュしている。
私には、これこそが問題であり、雑多なアジェンダをミスリードさせ検討状況を複雑かつ無益にしている諸悪の根源であると思えてなりません。
「人口規模に比し相対的に経済環境が縮小」しはじめた平安期、貴族社会では「妻問婚=通い婚」の母系相続社会でした。
これは、官位ポストが貴族人口に比し相対的に減少、これに対応して、最も優位ポストにあったり出世しそうな成長株の男性を家が取り込むメカニズムでした。
平安文学を栄えさせた和漢混合文による男女のコミュニケーションとその規範化も、このメカニズムを文化的に強化するものだったと位置づけられます。ちょうど、ヨーロッパの社交界の社交儀礼のように。
貴族社会の一員であっても血筋血統の低い者、規範化した素養をもたない者は排除されていきます。
つまり貴族社会に留まっては結婚できず子供ももてない。これは大袈裟な話ではありません。天皇の血を引く貴人でも末席だったり嫡子でない者が地方豪族の娘を嫁にもらって源氏平氏の武家が起こっていく訳です。これは合戦という文化=「人口減少装置」において、新たな強者=優位者を錬成し選抜していくことに繋がっていきます。
これは、現代のヘイアンピアンとおぼしき女性タレント(たとえば山口もえさん)がIT青年実業家と結婚する、それを一つの成功物語とする社会様相と重なります。
「人口規模に比し相対的に経済環境が縮小」しはじめた江戸中期、一大消費流通都市江戸が、農村部であぶれた人口を吸収しそのほとんどの生涯を独り者で終わらせる「蟻地獄」であったことはすでに述べました。
これは、現代のエドピアンとおぼしき男女単身生活者が晩婚化、非婚化している社会様相と重なります。
ここで着目すべきは、平安の貴族文化といい、江戸化成期の町人文化といい、
「人口縮小社会」は文化的には我が国の独自性の土台をなす、世界に評価される発展をしている、
という紛れもない事実です。
特に江戸化成期は、
町人の文化=カルチャーが庶民的、共生的、節約的だっただけでなく、
江戸幕府の文明=シヴィリゼーションも平和的、環境保全的、省資源的でした。
一方いまの日本に目を転じると、
<男性主導のエドピアン化>だけでなく<女性主導のエドピアン化>が進展し、
それが世界的にも評価され来日外国人を増加させているカルチャー、
その庶民性、共生性、節約性が江戸化成期のカルチャーに重なります。
しかし、
為政者は「世界の人口爆発を回避するために各国が具体化していくべき、より少ない国民人口を前提とした新しい国家運営を構想し追求する」ということをサボタージュしていて、
あるべき近未来から見れば決して十分に、平和的、環境保全的、省資源的とは言えません。
経済のグローバル化の進展とともに、格差社会が世界に蔓延し、商品もサービスも情報もすべてが国境を超えて同等かつ等価に流通し消費されるようになりました。
結果、
高いおカネを払って自己顕示や他者操作を主要な手立てとする「グローバルスタンダードで見劣りしない金持ち向けの商品」を消費する<女性主導のヘイアンピアン化>が
より数を限定しながら進展、
同時に、
安いおカネで脳の満足を瞬時にかつ持続的に得られる「子供および子供化した大人向けの商品」を消費する<男性主導のエドピアン化>そして<女性主導のエドピアン化>が
より数を拡大しながら進展
してきています。
そんな世界と日本を前に、私たち日本人が注視してより注力していくべきことは、
日本発の<エドピアン化>の商品やサービスが世界でも評価され市場をリードしていることです。
民間企業の創出する庶民的、共生的、節約的な<エドピアン化>の成果が、さらにそれを消費し利用する人々の<エドピアン化>を促進する訳ですが、
それは、
「世界の人口爆発を回避するために各国が具体化していくべき、より少ない国民人口を前提とした新しい国家運営を構想し追求する」
ことに直結します。
人類の人口が縮小し経済規模が全体として縮小しても、
<エドピアン化>した平和的、環境保全的、省資源的な経済の全体に占める割合が拡大し、
より多くの<エドピアン化>した人々が庶民的、共生的、節約的な安定した暮らしを心豊かに営めるとすれば、
それは一つの理想世界だと私は思います。/