「単騎、千里を走る」考 |
映画好きの私としてはマナーを守りなるべく筋に触れないようにして、若干思ったことを述べたいと思います。
まず、映画のタイトルですが、これは三国志の関羽将軍が「富を拒み、友を助けるために何千里もの道のりを馬でひた走り、忠誠の象徴となった」物語です。本作でも仮面劇の舞踊家がこれを歌います。
関羽といえば帳簿を発明したといわれ、また「約束を守る精神が商売の極意ということから、華僑の商売の神様として祀られるようになった」とのことです。どこか、ピューリタニズムが資本主義の精神を形作ったとされることに一脈通じるような話であることはさておいて、私は、現代中国の人心において商売=ビジネスと友愛=ハピネスとがどんどん乖離していくことを、どうにかくい止めたいと考えている人たちが少なからずいることを感じます。(政府やハイアール会長などが推進する「儒商」概念の内外への啓蒙発信にはそうした面も汲み取れます。)
おそらく、本作に出てくる中国奥地の様子をみた沿海部の人々は、都会で失われようとしている伝統的な共同体の記憶を、ちょうど私たちが「ALWAYS三丁目の夕日」をみて町内のご近所付き合いを思い出すように辿るのかも知れません。当時は、商売と友愛が、ビジネスとハピネスが一つにつながったものでした。
前掲の「元型論を踏まえた神話的思考が発想をいざなう(7)補説後半」で、私はこう述べました。
「本ブログで繰り返しご指摘している
<送り手側論理のモノ割り縦割りの量的効率性至上主義のモノクロニックなメッセージング体制>(モノと数量の世界)と
<受け手側論理のコト割り横ぐしの質的意味性至上主義のポリクロニックなルーミング体制>(コトとこころの世界)
という対立的パラダイムは、じつは東西の両陣営の中でも常にありました。しかし、対立エネルギーは東西冷戦という外の敵への対応において吸収されていた訳です。内において対立エネルギーを吸収したのは伝統的な共同体や家族でした。それが、現代のグローバル社会では、伝統的な共同体や家族が解体されていきエネルギーの緩衝帯がなくなってしまった。そのことは、崩壊したロシアで過酷にあり、中国において沿海部と内陸部、若年世代と高齢世代の格差になっています」
と。
しかし、本作で出てくる石頭山という村では、伝統的な共同体(コトとこころの世界)が健全に存続していました。ストーリーの上では、父に捨てられた孤児が父に会うために共同体を離れることを拒むくらいに、共同体はまさに共同体でした。ストーリーを除いた村長はじめ地元民が演じる村の様相が、現実の本当のことであって映画のための演出ではないのだとしたら、誠に喜ばしいことです。中国の都会の若者たち、そして私たち日本人に対し、それはドキュメンタリーとしての意味をもつからです。
本作は父と息子の和解の物語という体裁をとっていますが、私には、近代社会と伝統社会の和解の物語のように思えてなりません。
父が異境の地で息子の足跡を辿る旅は、人付き合いの苦手な孤独な現代人が伝統的な共同体に迷い込む旅でもあり、そこで得られる和解は、親と子、日本人と中国人といった隔たりを、ちょうど舞踊家が仮面をとった時のような素顔の心において解消する望ましき調和を象徴しています。
しかし現代人である私たち一人ひとりの日常と人生において、そんな調和に至ることは「単騎、千里を走る」に匹敵することなのかも知れません。仮面、ペルソナとは現代を特徴づける個人主義を象徴するものであり、仮面の下に心を隠してにせよ、仮面をとって心を表わしてにせよ調和に到達するための一人ひとりの営みは人生そのものだからです。
現代社会の現実において心の旅をすることは、場合によってとても勇気のいることです。しかし、旅をしなければ出会えない人々そして人生があることも確かです。
映画を見終わったサニタリテーションとエアコンを愛する無精者の私は、みぞれ降る夜の雑踏を歩みながら「せめて私たちのビジネスそのものを心の旅にすべく画策しよう」と思いました。
主人公が途中立ち寄った地方都市の役所や刑務所といったモノクロニックなメッセージング体制の下にありながら確かに心をもっていた官吏と服役囚のことを思いました。映画の中で、彼らは歯車でもなく歯車になれなかった落伍者でもありませんでした。
「ビジネスそのものを心の旅にしたい」そう思われる方は是非、
「単騎、千里を走る」ご覧ください。