「家族形態」史から分かる日本人の「居場所づくり」いろいろ(7:補説 その1) |
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2018年 01月 07日
(6:総括) 補説の論題 その1 =様々な渡来人勢力の「転住民」性から首長の「継承形式」を仮説する 最初に、中国の新石器時代から古代にかけての「家族形態」史と、人類普遍の石器時代の部族社会の様相からざっくりと言えることを、 私個人の見解として整理するとこうなる。 ①中国の新石器時代も日本の縄文時代も、部族社会において、権力者である族長と権威者である祈祷師が並立して部族を指導していた。 つまり、「権力」と「権威」の不一致。 そして部族社会では、族長も祈祷師も、必ずしも特定の氏族の世襲制で固定されず、部族全体の合意による選任が繰り返された。 つまり、支配層と被支配層の階級未分離の状態にあった。 世の中は、「神と人間の関係性」を大枠とし、神の意志が絶対で、人間は共同体として神にそして神の意志に対峙してそれに従った。 <これは人類普遍の新石器時代人の様相であり、日本列島の縄文時代の縄文人の集落の様相でもある。> ②殷代になると、占いに専従する「貞人」集団を率いる王が神の意志の媒介者となる。 世の中が、「神と人間の関係性」を大枠とし、神の意志が絶対で、人間は共同体として神にそして神の意志に対峙したことは変わらないが、 王が、人間に対して絶対的な神の意志の媒介者となって共同体を代表したことによって「権力」と「権威」の一致の状態になった。 王は、唯一の最高権力者でありかつ唯一の最高権威者となった。その後の中国の王朝の皇帝そして現代の共産党中国の国家主席まで、このことは引き継がれている。 ただし、殷は正確には王朝とは言えなかった。 なぜなら、「王朝」とは特定の血縁一族が王族として王位を世襲するものとされるが、殷の場合、王族集団において王位が言わば「回り持ち」で継承されたことが、死後の諡号である王名・妣名に十干がついていることから推察されている。つまり、血縁関係にない王族集団という「首長層における首長交替制」だったと考えらるからである。 新石器時代から、大集落が小集落を率いてより大きくなるという「累層的構造」が見られる。 その大集落群が「くに」を形成し、それぞれの大集落を率いた者たちが王族集団になったとすれば、王族集団がもともとは血縁関係になかったことになる。 このような王族集団の「首長層における首長交替制」によって立てられた王の命令は「累層的構造」の末端にまで届かない。「くに」全体としての事柄については、神意の代理者である王の意向に在地勢力としての王族集団は従ったが、それぞれの支配域の地域密着型の事柄については、(血縁関係がなければなおさらのこと)王族集団の各位の自治に委ねられたと考えられる。 <日本列島において、縄文人も大集落が小集落を率いていたと考えられるが、特定の縄文人の大集落が大集落群を統合して「くに」を成した経過は確認されていない。 私個人的には、無かった公算が高いと考えている。 理由は、 縄文人がそもそもそういう志向性を欠いた<部族人的な心性>のままで推移していたところに さまざまな<社会人的な心性>を担った弥生人の渡来があって、 縄文人だけによる「くに」の形成が阻まれる結果となった と考えられるからである。 日本列島においては、 匈奴に同行した鉄生産専従民の「テュルク族」の渡来人勢力が、 自分たちの「累層的構造」に縄文人を取り込んだり 朝鮮半島で「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた騎馬民族の「濊(わい)人」の九州上陸した渡来人勢力が、 他の渡来人勢力を取り込む形で新たな「累層的構造」を再編して統一的な国家を目指した と考えられる。 さらに、仮説としてこのような可能性が考えられる。 大陸で匈奴に同行していた段階の「テュルク族」は、血縁関係にない族長たちが複数いて、匈奴の複数の展開域で活動していた。 そして「テュルク族」全体のメタ族長が「首長層における首長交替制」で選ばれていた。 そんな部族の一部が、日本列島に渡来した段階から、 渡来と最初の定住(転住)を成功させた族長の血縁一族を首長層とする「首長層における首長交替制」に転じた。 同様に、 朝鮮半島で「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた段階の「濊(わい)人」は、ちょうとヤクザの組長のように血縁関係にない族長たちが複数いて縄張りの「くに」ぐにに対応していた。 そんな部族の一部が、日本列島に渡来した段階から、 九州での養兵や畿内への侵攻により征服王朝樹立を成功に導いた族長の血縁一族を首長層とする「首長層における首長交替制」に転じた。 私個人的には、ヤマト王権の初期勢力は「濊(わい)人」が率いた征服王朝として出発したという説をとるが、 ヤマト王権樹立当初の大王(天皇)の継承過程は、 「首長層における首長交替制」をとっていた「濊(わい)人」の首長層のメタ首長が あくまでキングメーカーとして黒幕化して実質的には首長層としての民族的な血脈をつなぐ形で 表向きには家系的に出雲系や大和系の大王(天皇)を建てて行った と考える。 (詳しくは追って検討)> ③周代になると、周が、ともに殷を滅ぼした勢力を従えて「封建制」をしく。 それは、周の王族と功臣を諸候に封じることで、王の命令が「国」全体としての事柄についても、地域密着型の事柄についても届くようにするという目的だった。 しかし、周王も諸候もその血縁一族の「世襲制」をしき、諸候は在地勢力と姻戚関係を結ぶことで権勢を維持した。 この周の段階で「宗法制」が登場して、周王の宗室から諸候の宗室まで「宗族社会」が展開する。 おそらく、諸候による地方自治に委ねることになっても、周王の命令が地域密着型の事柄にまで行き届くようにするためには、「宗法制」を定めて「宗族社会」を末端にまで徹底させることが必要だったのだろう。(ちょうど、徳川幕府が「お家至上主義」を譜代・外様をとわず各藩に徹底させたのと同じようにである。) <日本列島においては、 秦漢時代からヤマト王権の支配層が中国文化を学び始め、7世紀半ば、大化の改新からヤマト王権として「宗法制」の導入を工夫しはじめるが、「氏姓制度」の枠組みに留まるまったく中国とは異なるものとなった。 その背景には、ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」が、少数派でかつ文明文化の後進性をもっていたために、多数派でかつ文明文化の先進性をもった様々な渡来人勢力を傀儡化して取り込んでいくしかなく、その帰結として生じた「ウヂ」集団が支配層を形成していたことがあった。 日本列島においては、 呉の遺臣を祖とする海上交易民で政商化した「安曇氏」 「安曇氏」によって入植された越の遺民の末裔 がそれらの内部において、「宗法制」を応用した擬制的な「宗族社会」を工夫していた可能性がある。 なお「出雲族」は、中国の戦乱を逃れた中国商人が朝鮮半島北部東岸の交易拠点に至って、海外との遠隔地交易をするようになり、オオクニヌシに象徴される「交易ビッグマン」に率いられた海上交易民が島根半島西部に渡来したものと、私個人的には考えている。 殷が滅んで難民化した遺民が「商人」と呼ばれた。その「商人」を祖とする交易民であれば、周に始まった「宗法制」の対象外で影響を受けていないことになる。 また、後の春秋戦国時代の商人化した難民を祖とする交易民であれば、台頭する領域国家の支配下での管理貿易を嫌った脱国家主義にあった筈で、中央集権と一体化した「宗族社会」を嫌った筈である。 特に、領域国家などなかった新石器時代からやっていた言わば自由貿易において、交易というものが売り手と買い手の対等な関係性において成り立つという原理原則が重大である。仮に文明文化の先進性をもった渡来人でも、先住民と交易関係をもつにはこの対等原則が不可欠で、支配者が被支配者より圧倒的優位に立つ朝貢交易のような交易がいきなり成立するとは考えにくい。オオクニヌシが、先住民の首長たちの娘たちを娶っていったのは、あくまで対等関係の交易を拡張していくための、縄文人側の「贈与」経済のやりとりを踏まえた活動であったと考えられる。 記紀神話では、オオクニヌシはスサノオの血脈にあり、スサノオの娘を正妻にしていることからして、「宗法制」の「同姓不婚」の原則から大いに逸脱している。 オオクニヌシがスサノオという親の七光り的に頼ることなく、その時々、その場所場所で交易に役立つ「親類」を形成している様相は、現在の日本人一般の「親類」観念に近しい。 (詳しくは追って検討)> ここで重要な論点が浮上する。 ①「テュルク族」が、大陸では血縁関係のない族長集団の「首長層における首長交代制」だったのが、日本列島に渡来して血縁関係のある王族集団の「首長層における首長交替制」となったとして、 それはどういう様相だったと考えられるか。 この論題を、以下、騎馬民族の血縁集団の継承形式から検討したい。 北陸に上陸した「テュルク族」は鉄製の武器と農具を媒介に先住民=縄文人を農耕民として支配しつつ、鉄資源を求めて琵琶湖地方経由で大和地方に至り「邪馬台国」を建てた 「邪馬台国」はそれまでの経過で「テュルク族」が建てた「くに」ぐにを連合させる連合政府だった という説を、私個人的にはとっている。 男王が立っていたが鉄資源の確保の失敗から内乱状態となったのが「倭国大乱」で、 魏に朝貢して鉄塊なり鉄梃なりを下賜してもらう代表として女王卑弥呼が共立されて内乱状態が収まった と考える。 このような「くに」ぐにの連合政府である「邪馬台国」の王の共立の背景には「首長層における首長交替制」があったと考えられる。 血縁関係のある王族集団の「首長層における首長交替制」だったとして、それは具体的にどのようなものだったのだろうか? このことを、本項(補説)で、騎馬民族の血縁集団の継承形式から検討したい。 ②「濊(わい)人」が、朝鮮半島では血縁関係のない族長集団の「首長層における首長交代制」だったのが、九州上陸=天孫降臨してから血縁関係のある王族集団の「首長層における首長交替制」となったとして、それは具体的にどのように展開したのだろうか? このことを、本項(補説)で、記紀に記された天孫から皇統に至る継承形式から検討したい。 神代の天孫族から人代のヤマトタケルの頃までの皇統の継承形式が直系の「末子相続」が顕著で、 記紀によると「欠史八代」が開けた頃から継承形式が傍系の「兄弟相続」が顕著となっていることが、 騎馬民族の継承形式が基本、「末子相続」か「兄弟宗族」であることを反映している。 これは、 「実際に起ったこと」としては、 「濊(わい)人」は、 渡来当初から展開していた、血縁関係のある王族集団の「首長層における首長交替制」という継承形式を、 征服王朝樹立後も実質的には継続してきたが、 表向きには「濊(わい)人」という自らの名とその征服王朝樹立の過程を歴史から抹消した その際、 騎馬民族の継承文化を暗示しながらも、 記紀神話にあるような特定の血縁一族による継承形式という言い伝えにしてきた ヤマト王権樹立後も当初は、家系的に出雲系や大和系の天皇が即位したという体裁を整えた と考えられる。 なぜ、一般的な、というか記紀に記されているような父系の世襲制の継承形式ではないのか。 それは、朝鮮半島の縄張りを追われて九州に上陸しそこで兵を養って畿内に侵攻して征服王朝樹立を狙うような勢力の場合、その運命共同体の首長に選ばれるのは実力主義によるしかないからである。 「首長層における首長交替制」は、殷のそれがそうだったように、回り持ちで首長が選ばれることによって王族の継承機会が均等になるケースと、首長層の総意によって実力者が選任されるケースがあり、新拠点開拓型の「転住民」の「転住社会」の場合、後者になると考えられる。 騎馬民族の継承文化を暗示しながらも、 記紀神話にあるような特定の血縁一族による継承形式という言い伝えにしてきた ということは、 ヤマト王権樹立当初の段階では「濊(わい)人」自身によって行われ、 「実際に起ったこと」に即して直系末子継承と傍系兄弟継承がもっとランダムに展開するものだったかも知れない。 後世の七世紀後半から八世紀初頭にかけての記紀編纂の段階では編纂者が、 2つの継承形式それぞれが顕著な時期Aから時期Bに転換する分かりやすい史実に構造化したのかも知れない。 記紀編纂期のさらに後世、桓武天皇による、男系直系前提の「宗法制」にならった中国風の氏姓録が工夫される。 しかし結局は、氏族制度の現実である、非出自的(祖は仮想)で無形的(直系、傍系、双系なんでもあり)の「ウヂ」構造の継承形式の枠組みを脱することはできなかった。 これを正当化していたのが、記紀、中でも国際向け=建前重視の日本書紀ではなくて、国内支配層向け=本音重視の古事記であったことは示唆的である。 「ウヂ」構造の血族関係における親族意識や継承形式は、現在の日本人にまで至る、主体を起点に「親類」を想定するもの(父方だけでなく母方も含み、兄弟姉妹の配偶者まで含む)である。 その想定は「親類」とお互いに見なし合う者同士でもズレているのだから、主観的な「暗黙知」に属する。 これは、中国人が祖先からの系譜を客観的な史実として辿れて、しかもそれを明示する男系の「姓」を男女ともに継承する夫婦別姓である中国の「宗族」が、客観的な「明示知」であることと好対照をなす。 新石器時代の部族社会の「家族形態」では、女性の地位が高く、母系継承が展開、あるいは男系継承と並行したと考えられる。 日本人の<社会人的な心性>はベースとして<部族人的な心性>を温存して形成されていることを特徴とする。継承形式という<社会人的な心性>においてもそれは同じで、日本の歴史において、建前として男系継承が打ち出されてきた一方で、本音としての女系継承も実質的に展開して血脈をつないだり家督が継承されたりしてきた(分かりやすいのは、現実の一般的な日本人の夫婦関係や、史実としては信長〜秀吉〜家康の時代の殿ではなく姫の血脈)。 こうした歴史が可能になった最初に、古代の非出自的(祖は仮想)で無形的(直系、傍系、双系なんでもあり)の「ウヂ」構造の継承形式の枠組みがあることは間違いない。 この辺りのことを念頭において、本項(補説)では、騎馬民族の継承形式や「宗族社会」の系譜形式を検討していきたい。 神代から人代にかけての皇位の継承形式の変遷から見えること (1)古事記・日本書紀の記録によれば 初代神武天皇(前711〜前585)から第17代履中天皇(西暦336〜405)までは直系継承が基本 男系の直系継承とは父子相続のことであり、 兄弟相続その他(甥、叔父、従兄弟などへの継承)は傍系継承である。 直系継承が基本、とは、傍系継承はあくまで長男直系に不測の事態が生じた時の備えであるということである。 そして、 父子相続には長子相続と末子相続がある。 注目すべきは、 神代の天孫族からこの時期まで末子相続が顕著であったことである。 そしてこれに続く(2)の時期は傍系継承の兄弟相続が顕著になっていることである。 私個人的には神武東征は、「濊(わい)人」が「邪馬台国」を降伏させたものと捉えている。 (「邪馬台国」に都をおいたとされる卑弥呼は西暦170年〜248年で、「邪馬台国」の滅亡と初代神武天皇とのタイムギャップは記紀によれば数百年になる。 しかし、それは史実と伝説のギャップである。 私は、神武東征の終局でナガスネヒコがニギハヤヒに殺される物語が、「邪馬台国」の難升米を「伊都国」の長官が謀殺した史実と捉える説をとっている。 ちょうど歌舞伎の物語が時に史実にはありえない繋ぎ方で構成されるように記紀の神話も構成されていると考える。 そもそも歴史が過去の史実を記録して未来に伝えるものであるのと逆に、神話は史実をもとにして物語を創作し、神を人間の似絵として仮想させるものである。神代の神話に人代の最近の史実をアレンジすることがあって不思議はない。しかも日本の記紀神話の場合、神話は歴史と地続きで歴史を正統化する助走路をなしているのだからなおさらである。) 「濊(わい)人」は朝鮮半島で「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた騎馬民族である。 第14代仲哀天皇(西暦149年〜200年)の父ヤマトタケルの西討東征の奔走はその様相と重なる。未勝目料を払わない者を懲らしめて回った観がある。 神代からヤマトタケルの頃までは、天孫族ないし皇統において騎馬民族性がさまざまに見受けられる。 そもそも騎馬民族をその内に含んだ遊牧民社会では、子は成人すると親から家畜群や隷属民などを分与されて独立するが、末子は最後まで親許から独立せず、親が死ぬと親の手許に残った財産をそのまま相続することから末子相続が生じる。これは財産(家畜)の分割の容易な遊牧民に見られる相続形態である。ただし、家督の相続と財産の相続とは必ずしも一致せず、家督の継承は実力によるところが大きかった。 そして騎馬民族については、チンギスハンが弟を従えたことから長子相続が基本という説と、兄弟相続が普通という説を耳にする。 どうも判然としないので「チンギスハンからの系図」を調べてみた。 ニニギは、山の神オオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメを妻とする。山の神オオヤマツミは「弥生文化を受け入れた縄文人」を象徴し、私個人的には、この経過は「濊(わい)人」と縄文人との混淆を暗示していると捉えている。 ニニギは、コノハナサクヤヒメが一夜で妊娠したことから先住民の子ではないかと疑ったため、コノハナサクヤヒメが疑いを晴らすべく「火中出産」して生まれたのが、火照命(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(山幸彦)だった。そして海彦山彦譚にあるように兄の海幸彦を従えて、弟の山幸彦が結果的に末子相続。 神武東征を兄たちの協力をえてかつ兄たちを犠牲にして成功させた神武天皇が結果的に末子相続。兄たちは、長男が流れ矢の傷で死に、次男三男が入水。 父の命令を誤解して兄を殺してしまったヤマトタケルも結果的に末子相続するところだったが東征からの帰路に客死。だが子が仲哀天皇になってその血脈が繋がっている。 第15代の応神天皇は、神功皇后が妊娠したまま三韓征伐に向かって、お腹にいる時から皇位を約束されていたとして「胎中天皇」と呼ばれた末子相続。異母兄たちは、神功皇后の帰還の際に畿内で反乱を起して平定された。 兄が死んでしまったり怖じ気づいて皇位を譲ったりといったことで「結果的に」、という物語展開について、後世の長子相続を当然視する神話編纂者による「これは例外」と暗示するための演出とする説がある。 確かに、記紀神話の主要な登場者の多くが末子相続であれば、「実際に起ったこと」としては末子相続が当時のしきたりだったと考えて自然である。 しかし私の考え方は少し観点が違う。 私は記紀を、歴史的資料として見るのではなくて、あくまで「ヤマト王権の支配層に対するパブリック・リレーションのための戦略的コンテンツ」として見る。 その観点から、 記紀は、 天孫降臨=九州上陸のニニギから、反乱者の鎮圧に西討東征に奔走したヤマトタケルの頃まで、 「濊(わい)人」の首長は、直系継承が基本でかつ末子相続が顕著だった と印象づけている それは、 長子相続と緊急避難的な兄弟相続を基本とする記紀編纂期の読み手に違和感を与えるが、同時にそれがためにかえって、 (表向きには歴史から抹消されるも天皇周囲の支配層においてはその征服王朝樹立が暗黙の了解事項となっていた) 「濊(わい)人」が帯びていた騎馬民族性を暗黙裡に想起させる=暗示する 記紀編纂者はそうした読み手への効果を狙ったのではないか と捉えたい。 第2代綏靖天皇(前632年〜前549年)から第9代開化天皇(前208年〜前98年)までは「欠史八代」と呼ばれ、記紀において系譜(帝記)は存在するがその事績(旧事)が記されていない。 現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う説が主流となっている。一方で実在説を唱える学者も少なくない。 天皇の系譜から派生した氏族の祖について言及する「氏祖注」によると、 第2代綏靖天皇の兄神八井耳(かむやいみみ)は多臣(おおのおみ)の祖 第7代孝霊天皇の子稚武彦(わかたけひこ)は吉備臣(きびのおみ)の祖 第8代孝元天皇の子大彦(おおびこ)は 阿部臣、膳臣(かしわでのおみ)、阿エノ(門構えに下)臣、狭狭城山君(ささきのやまのきみ)、筑紫国造、越国造、伊賀臣など七族の祖 第8代孝元天皇の子彦太忍信(ひこふつのおしのまこと)は武内宿禰(たけしうちのすくね)の祖父 となっている。 これは、後世に活躍する有力豪族の祖先を天皇家の系譜と結びつけることでその権威を正統化するものとなった。 注目すべきは、古事記において48氏が「欠史八代」の天皇を祖としていることである。 特に、阿部、蘇我、小勢(こせ)、膳(かしわで)などの有力豪族の祖はほぼ「欠史八代」に集中している。 また48氏の内、臣姓を与えられた有力豪族が「欠史八代」に集中しているのに対して、 中級豪族は第10代崇神天皇から第15代応神天皇までの系譜に連なっているものが多い。 なお古事記が「一祖多氏」形式をとるのに対して、 日本書紀は「一祖一氏」形式をとるため天皇に結びつけられる氏族の数は圧倒的に少ない。 日本書紀が「一祖一氏」形式をとったのは、漢語を用いた国際的な正史として中国の「宗法制」の「一祖一氏」原則を踏まえたためだろう。 古事記は「国内的なパブリック・リレーションのための戦略的コンテンツ」であり、自国の支配層に通用し歓迎される祖神設定という「後づけの仮想」で整合性を図ったことは明らかである。 記紀の神代の神話も人代の伝説も、「実際に起ったこと」を脚色したり隠蔽するところがあり、「実際にはなかったこと」を「実際に起ったこと」に捏造しているところがある。 私個人的には、 天皇の前身の「大王」を立てたヤマト王権を統一的国家にしようとする初期勢力の中核は「濊(わい)人」だった 彼らは朝鮮半島で、「くに」ぐにの王のように民を直接支配するのではなく、「くに」ぐにから未勝目料をとってまわる黒幕としての二重支配に慣れ親しんでいた 「濊(わい)人」は、敢えて自らの名を歴史の舞台から消し去り家系的に表立たない黒幕として、あくまで少数民族「濊(わい)人」の王族集団の血脈をつなぐことを最優先するキングメーカーに徹した (「濊(わい)人」が自らの足跡を拭い去ったがために「欠史八代」も生じている) と捉えている。 「濊(わい)人」の首長層は、朝鮮半島で分立した小国群から未勝目料をとって回っていた際には、ちょうどヤクザの組が縄張りを主張し組を組長が仕切るような構造にあった。 それが領域国家の台頭によりみんなそろって食いっ逸れたところに、有志の組長たちが連合して日本列島に侵攻し征服王朝を立てるという構想を「倭人」から持ちかけられ、文字通り「渡りに船」を用意される形で話に乗った。 「倭人」とは、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした海上交易民であり、「くに」が存在しない縄文時代からいわば自由貿易をしていたが、それが領域国家の管理貿易に圧迫されこちらも食いっ逸れたのだった。「倭人」は、日本列島に樹立される新王朝の交易利権を独占することを見返りとして「濊(わい)人」を全面的にバックアップしたのである。 そして「濊(わい)人」は「倭人」の全面的バックアップにより、天孫降臨=九州上陸、日向三代=兵を養い鉄製武器で武装し軍船を整え、神武東征=黒潮にのって一気に海上東征し「邪馬台国」を降伏させてヤマト王権樹立に至った と私個人的には捉えている。 そこでポイントは、 「濊(わい)人」は、 渡来当初から展開していた、血縁関係のある王族集団の「首長層における首長交替制」という継承形式を、 征服王朝樹立後も実質的には継続してきたが、 表向きには「濊(わい)人」という自らの名とその征服王朝樹立の過程を歴史から抹消した ということである。 そう考える理由は、 征服を目指す対象地に乗り込み、一気呵成に不安定な征服王朝を樹立した少数民族が求心力あるイニシアティブの持続可能性を最大化するには、 渡来と侵攻の功績を誰もが認めた一族の血縁関係で王族集団を形成し、それを首長層として「首長層における首長交替制」をとることが最適である からである。 これは、単純に生まれ落ちた段階で跡継ぎが決まる血縁主義の世襲制ではなく、生まれ落ちた後の本人の実績や周囲の信頼などが評価される実力主義である。 王族の中には、男子に恵まれず有望な青年を婿にとって嫡子としたものもあったであろう。 つまりは、 「濊(わい)人」の首長層は実力主義の血縁集団であって、メタ首長が「首長層における首長交替制」で選任されたこと 「濊(わい)人」のメタ首長が黒幕的に大王(天皇)を擁立して二重支配をして、民を直接支配することはなかったこと がポイントとなった。 「濊(わい)人」の首長層はその嫡子たちに、降伏した後に傀儡化した「出雲族」や「テュルク族」(「邪馬台国」が連合政府となって率いた「くに」ぐに)の族長たちの娘を娶って婿入りさせた。 なぜ「出雲族」や「テュルク族」だったのか。 それは彼らが日本列島において民を直接支配して国を運営する経験とノウハウを持っていたからに他ならない。 「濊(わい)人」を全面的にバックアップした「倭人」は縄文人由来の海上交易民であり、そのような経験もノウハウもない。 神武東征伐の終局から「濊(わい)人」に加担した「安曇氏」は、魏の出先機関としての行政拠点の「伊都国」、稲作拠点の「奴国」、軍事拠点の「一大国」を治めていたが、宗主国の魏を後ろ盾にした政商型の交易民としての限られた支配域の条件づけられた経験とノウハウしか持っていなかった。むしろ、ヤマト王権樹立直後の支配体制づくりにおいて「安曇氏」の協力に依存することは、せっかく征服した日本列島の支配域を魏に差し出すことになりかねず、これは回避された筈だ。 「濊(わい)人」の首長層全体を取り仕切るメタ首長が、天皇(大王)にその長子を立てたかも知れないし、その時々の主要な渡来人勢力の外部状況と、首相層の構成員の内部事情を勘案して最も適した家系の婿になっているヒラ構成員の長子を立てたかも知れない。 ある時期、家系的に出雲系の天皇(大王)を立てられ、ある時期、大和系の天皇(大王)を立てられたのは、そのような総合的な政治判断による。「濊(わい)人」の首長層全体の目的は、天皇の私経済による蓄財から上前を跳ねることであり、上前を最大化させ安定化させることにおいてその構成員の利害は完全に一致していたから、その判断にみな従ったと考えられる。 このようにして、 征服王朝を樹立した少数民族「濊(わい)人」の首長層全体の血脈を血統とした皇統は万世一系でありつつ、 家系としての皇統はある時は出雲系となったり、ある時は大和系となったりした。 それが、 文明文化的に後進しかつ数的劣位にある「濊(わい)人」が 文明文化的に先行しかつ数的優位にある様々な渡来人勢力を支配していくために ヤマト王権樹立当初の不安定な支配体制においてとりうる最適のやり方だった。 キングメーカーとキングを操る黒幕に徹した「濊(わい)人」は自らの名を歴史の表舞台から消し去った。 ゆえにその名は記紀に登場しない。 記紀において、 なぜ中国の歴史書に登場する「邪馬台国」の名が登場しないのか 海の神オオワタツミは、本来ならば「濊(わい)人」の海上移動から武器武装の供給、軍船の用意まで全面的にバックアップした海上交易民の「倭人」の祖とされるべき筈である。それがなぜ、神武東征の終局で難升米の謀殺に貢献してからの協力者である「安曇氏」の祖とされたのか すべての謎は、「濊(わい)人」が征服者としての自らの名を歴史の表舞台から消し去るためだったと考えれば氷解する。 「濊(わい)人」が自らの名を歴史から消し去るということは、記紀において征服王朝樹立への経過を実名をもって明示せず、神々の物語として仮想の登場者に置き換えることで暗示に留めることを意味した。 「倭人」の全面的なバックアップという大貢献を明示せず、その名も歴史から消し去った。 降伏させて従えた「邪馬台国」や「テュルク族」の名も消し去り物語上の諸々に置き換えた。 いわゆる「謎の四世紀」に重なる時期に、「濊(わい)人」が、その首長層の嫡子たちを主要渡来人勢力に婿入りさせ、その中から諸状況を総合的に政治判断して選択して天皇(大王)を立てていったキングメーキングは、天皇周囲の支配層には「暗黙の了解事項」だった筈である。 後世の七世紀後半から八世紀初めにかけての記紀編纂期には、この「暗黙の了解事項」を知るのは天皇の周辺に限られていたと考えられるが、記紀編纂者は知らずとも教えられたに違いない。なぜなら、ヤマト王権の「国内的なパブリック・リレーションのための戦略的コンテンツ」を構成演出する彼らの作業は、すべてを知っていなければできないことだからだ。 記紀編纂作業の前提として、 神話としても史実としても明示的に記すことができないことと、できること 暗示的に記すべきことと、暗示的にも記すべきではないこと その仕分けが最初に共有された筈である。 まずそもそもヤマト王権の草創期、「濊(わい)人」の首長層自身が、天孫族の族長の継承譚と樹立直後の天皇(大王)の継承譚を、「実際に起ったこと」を踏まえながらも脚色した。 その際は、ヤマト王権の初期勢力を筆頭とする多様な渡来人勢力にとって「実際に起ったこと」は目前の事実だから、かなりの部分でそれを踏まえざるを得なかった筈である。そこで、騎馬民族のしきたりの王位継承原理にのっとった実際の系譜(直系継承と傍系継承がランダムに展開)が流布され、創作された言い伝えの流布は限られた筈である。その内容は、記紀の記述よりももっとケースバイケースのリアル感があって秩序立っていないものだった筈である。 そして後世の記紀編纂期に、編纂者はそうした実際の系譜と創作の言い伝えを、創作の経緯や目的とともに知らされた筈である。彼らは、現在の読み手への暗示成果を、現在のヤマト王権の意図にさらに沿うものとすべく整理して秩序立てなければならなかった。 そして結果的に、ある時期までは末子相続が顕著、ある時期からは兄弟相続が顕著という段階的な展開に、記紀編纂者が演出した公算が高い。 遊牧民社会では、直系継承の長子相続の逆パターンである末子相続が生じていた。 これは、子は成人すると親から家畜群や隷属民などの財産を分与されて独立するが、末子は最後まで親許から独立せず、親が死ぬと手許に残った親の財産のほとんどをそのまま相続したことによる。 ただし、家督の相続と財産の相続とは必ずしも一致せず、家督の継承は実力によるところが大きかった、 ということを前述した。 留意すべきは、これは「移動民」の「移動社会」において、遊牧民の財産が家畜群や隷属民など<動産>であることから自然発生した相続形式であることだ。 つまり、財産が住居や土地などの<不動産>である「定住民」の「定住社会」でそのまま展開できる相続形式ではない。 ここで、様々な渡来人勢力が「転住民」だったことや、それが主導的立場を締めた「転住社会」の有り方が密接に関係してくる。 様々な渡来人勢力がいた中で、「濊(わい)人」と「テュルク族」がともに騎馬民族性を帯びていた。 「テュルク族」は匈奴に同行した鉄生産専従民だった。 「テュルク族」も 「移動民」として「移動社会」を形成した大陸では、 騎馬民族の基本、父子相続か兄弟相続か半々 どちらにするかはケースバイケース 父子相続においては末子相続が生じた と考えられる。 しかし、渡来して「転住民」として「転住社会」を形成した日本列島ではどうだったのだろうか。 私個人的には、 匈奴に同行した鉄生産先住民であった「テュルク族」は、北陸に上陸して鉄製農具(木製農具の一部に付ける類い)を媒介に先住民を農耕民として支配して「くに」ぐにを建てながら、鉄資源を求めて琵琶湖地方を経て大和地方に至りそこで「くに」ぐにの連合政府として「邪馬台国」を建てた という説をとっている。 その上で、 この建てていった「くに」ぐにを族長の長子から兄弟順番に相続して王位について「定住民」化していった、と考える。 つまり、遊牧民社会の長子から兄弟順番に成人した子が財産を分与されて独立していく展開の「定住民」化バージョンである。 鉄資源は、支配層の「テュルク族」が武装する鉄製武器を生産する原料であり、かつ被支配層の先住民に効率的な農耕をさせる鉄製農具を生産する原料であり、文字通り「テュルク族」の生命線だった。 ところが支配域が拡大するにつれて鉄器の需要に対して鉄資源が不足してくる。 つまり、「くに」内の原料産地で足りていた間は鉄資源=<不動産>であったが、「くに」外から鉄塊なり鉄梃の他所からの取得に頼るようになってからは鉄資源=<動産>となったのである。 そこで「テュルク族」の「くに」ぐには連合して中国地方に侵攻、島根半島東部に展開した産鉄民(八岐大蛇退治に暗示される半島西部との対立に敗退した後に「出雲族」の一員になったと考えられる)を攻めるも撃退される。 そのため鉄器需要の拡大に対して鉄資源が枯渇した「テュルク族」の内部で鉄資源の奪い合いが発生した。私個人的には、いわゆる「倭国大乱」はこのような「邪馬台国」が連合していた「テュルク族」の「くに」ぐに同士の内乱だった、と考える。 結果的に女王卑弥呼が共立されて内乱は収拾するが、それは、「邪馬台国」として魏にその王宮で珍重されるような貢ぎ物をもって朝貢することで鉄塊なり鉄梃なりを下賜してもらう作戦に出たのだと思う。その貢ぎ物を「くに」ぐにから集め、下賜された鉄資源を「くに」ぐにに分配する連合政府の代表には、ズルしない祈祷師的な女王がいい、魏にかしずく女王という体裁が朝貢貿易には適しているだろうということになった。 だから、この女王卑弥呼への継承は、後の女王壹与への継承とともに、男系できた「首長層による首長交替制」において異例中の異例の非常事態対応だったと言える。 おそらく「テュルク族」が大和地方に入った段階でその族長の元にはかなり幼い末子がいて、族長の死で末子が連合政府「邪馬台国」の王位につくも兄たちの「くに」ぐにがそれに従わない、そういう事態が始まったのではなかろうか。 「倭国大乱」の背景には、財産は末子が相続しても、家督は実力者の長兄(最初に北陸で建った「くに」)が継承するといった末子相続ならでは問題点があった公算が高い。 (ちなみに卑弥呼の弟が吉備津を平定して「吉備津国」を建てたとされるが、これも、女王卑弥呼を例外として、長子から順番に財産分与をして独立していく展開と捉えることができる。) 「テュルク族」は、騎馬民族の継承原理を渡来人勢力として「転住民」バージョン化して、長子から順番に財産分与して「くに」を建てて王位につけ、その兄弟たちを首長層としてその連合のメタ首長を「首長層による首長交替制」で選出するという継承形式をとっていた、と考えられる。その中で、鬼道をする祈祷師的な女王卑弥呼の共立は、あくまで非常事態対応の例外だったと考えられる。 (2)第17代履中天皇から第18代反正天皇への継承以後、 第37代斉明天皇までは兄弟継承が顕著 第17代履中天皇(倭王讃〜405)→第代18代反正天皇(倭王珍〜410)→第代19代允恭天皇(倭王済〜453) 第代20代安康天皇(倭王興〜456)→第代21代雄略天皇(倭王武〜479) (倭王◯:中国の『宋書』『梁書』の登場者に比定されている 『宋書』成立は宋滅亡479年の直後。『宋書』成立は梁滅亡557年の後629年。 記紀編纂者は内容をチェックしていると考えられる。) 第23代顕宗天皇→第24代仁賢天皇 第27代安閑天皇→第28代宣下天皇→第29代欽明天皇 第30代敏達天皇→第31代用命天皇→第32代崇峻天皇→第33代推古天皇(女性) 第35代皇極天皇(女性)→第36代孝徳天皇→第37代斉明天皇(女性:皇極天皇重祚) 以上、継承20回の内、兄弟継承は11回。 気になるのは、中国の『宋書』『梁書』に登場した「倭の五王」から兄弟継承が記録されていることである。 これはたまたまそうだったのかも知れないが、 「実際に起ったこと」としてはそれ以前にも兄弟継承があって、そうとは伝承されなかったか、記録されなかったかした可能性も払拭できない。 前漢の高祖が父子相続を原則とし兄弟相続を戒める遺志を示したことから、それが漢民族の王朝の継承原則となっていた。 ヤマト王権はこうした「宗法制」(大宗小宗)を踏まえた中国流儀に倣おうとはせず、継承20回の内、兄弟相続が11回、という騎馬民族の基本、父子相続か兄弟相続か半々に帰結している。 中国では女帝が禁忌された。 中国の歴史で唯一の例外が、唐の高宗の皇后となり唐に代わる武周朝を建てて自ら女帝となった(690年)武則天、則天武后である。 ヤマト王権では、それより半世紀ほど前の645年に第35代皇極天皇(女性)が弟に初の譲位をして、その没後の665年に第37代斉明天皇として初の重祚をしている。 ヤマト王権は、中国の「宗法制」を文明文化の先進性を誇る体裁を整えるために利用や配慮はしているが、卑弥呼や壹与を共立した「邪馬台国」と同様に、けっしてそれに囚われることはなかった。 その背景として、 ヤマト王権の皇統のパラダイム(考え方の基本的な枠組み)に、 黒幕的支配者だった「濊(わい)人」が帯びていた騎馬民族性が色濃く残存していたこと 「濊(わい)人」の首長層は実力主義の血縁集団であって、メタ首長が「首長層における首長交替制」で選任され、 首長層全体の内部事情と外戚に相当する主要な渡来人勢力の外部事情とを勘案して、天皇(大王)を立てていく体制をとるも それがためにやがて跡目争いが勃発しがちとなり、 それを女性天皇が中継する形で問題解消を図ろうとした先例として「邪馬台国」の女王共立があったこと を指摘できよう。 宗法制に照らして分かる中国系渡来人勢力の首長の継承形式の違い 新石器時代の部族社会は、人類普遍的に大集落が小集落を従える「累層的構造」をもった。 大集落がさらに大規模化して「くに」となり、その「くに」も都邑が族邑を従え族邑が属邑を従える「累層的構造」をもった。 新石器時代の部族では、族長という「権力」と祈祷師という「権威」が分立して、言わば双頭制の指導者となった。 しかも、それが世襲的に特定氏族に固定化されず、支配階級・被支配階級の階級分離は生じていない。 ところが「くに」の段階では、たとえば殷では、王が天意を授かりそれに王以外の人間が従うという形で、支配階級・被支配階級が固定化して階級分離が生じると同時に、王が最高の権力者であると同時に権威者であるという「権力」と「権威」の一致に至る。 だが建前としては、神が人間を支配する関係性が大枠であった。 ここで王族集団という「首長層」が登場し支配階級を構成するが、そこで展開したのは「首長層による首長交替制」であって特定血族を王族とする「世襲制」ではなかった。 これは、「濊(わい)人」が朝鮮半島で展開していた血縁関係にない族長たちで構成された首長層における、連合のメタ首長を選出する「首長層による首長交替制」と重なる。 「宗法制」は、殷を滅ぼした周に始まった。 周は、ともに殷を滅ぼした部族を従えて「封建制」をしいた。 この段階から、人間が人間を支配する関係性が大枠となり、それは後の秦に始まる全てを皇帝のものとする「公地公民」の理念や、周礼を重んじた儒教などによって中国の社会体制の大枠となっていった。 (ちなみに日本の社会体制は、天武・持統期に天皇という呼称が使われるようになって以来、天皇制によって「権力」と「権威」の分立が続いてきている。 また、天皇が律令神道に由来する宗教的「権威」=祈祷師である以上、厳密には人間が人間を支配する関係性が大枠とは言い切れない。) 周の「封建制」は、王族や功臣を諸候に封じるものとして出発するがすぐに、周王朝も諸候も特定の男系直系を基軸とする「世襲制」になり、その枠組みで諸候と在地勢力の首長層が姻戚関係を結んでいくようになる。 諸候の血脈を中心とする支配層の階層構造が、従来からあった言わば地域密着型の「都邑→族邑→属邑」の空間的な「累層的構造」の支配体制を取り込んでいった、あるいは、に取り込まれていったということである。いずれにせよ諸侯は自立性を高めていった。 一方、「宗法制」はこうした状況で普遍的な制度として王と諸侯に共有され中国は「宗法社会」になっている。 (この「宗法制」の展開は、日本の幕藩体制において、各藩の地方分権が行われるも家父長制が徹底されて「お家至上主義」が普遍化したことに、構造的には重なる。しかし、幕府による各藩の支配が安定化して太平が築かれたのとは真逆に、群雄に割拠していく東周時代=春秋戦国時代になっていった。) 「宗法制」は、王朝で説明すればこういう長子相続制である。 王位継承において、嫡長子が王位を継承して「大宗」となり、その諸弟が諸侯に封建されて「小宗」となる、というものである。 本家にあたる「大宗」は嫡長子孫によって永代にわたり受継がれる。これが「百世不遷」と言われる。(日本の皇統の「万世一系」はこれと似たものと誤解されがちだが、実態も本質もまったく違う。) 諸侯の継承においても同じことが入れ子で展開した。 「大宗」の兄弟は別子と呼ばれて「小宗」の祖となる。 「小宗」もまた長子相続を行うが、包含する族員の範囲は5世代まででそれをこえるとまた別の「小宗」集団を形成する。 (ちなみに、 第26代継体天皇は、第25代武烈天皇の高祖父の兄弟の玄孫であり、両天皇の4世遡った祖先が兄弟である。つまり「宗法制」にのっとれば、継体天皇は「小宗」のそれとみなされるギリギリの末裔だったことになる。これはヤマト王権においても異例の継承だった。 また、 呉の遺臣を祖として五島列島から北部九州に至った政商型の海上交易民の「安曇氏」、さらには越の滅亡に際して「安曇氏」によって北陸に入植されたと考えられるその遺民は、大陸では「宗法制」に則る「宗族社会」を形成していた筈である。日本列島に渡来して後も、それを諸事情に適応させて変容した継承形式を展開したと考えられる。 一方、殷や燕の滅亡から逃れて朝鮮半島北部東岸に交易拠点にもちそこから島根半島西部に渡来したと考えられる海上交易民の「出雲族」は、周で「宗法制」が成立する前に、「商人」と蔑称されるようになった殷の流民が朝鮮半島半島北部東岸に共益拠点をつくり、その後戦国時代に、「宗族社会」を経験した燕の遺民がちりじりにやってきたため、中国系渡来人ではあっても「宗法制」に則る継承形式に囚われなかった公算が高い。 基本的に、遠隔地交易民はその冒険的な航海や挑戦的な新拠点開拓など、信頼される実力者でなければ誰も従わないため、実力主義的な継承形式やビジネスモデル別の交易集団の分立が展開したと考えられる。) 中国の「宗族」は典型的な「父系出自」構造の血縁親族組織である。 日本人の「親類」とは本質的に異なりさまざまな側面で大きく違う。 単系的な「父系出自」の最大の特徴は、 その構成員の系譜関係を明確に辿ることができること、 「同一祖先から出た」いう意識によって結ばれる範囲が明確な特定な組織を形成すること にある。 その組織を維持するために集団は「外婚制」を厳格にとる。 その社会では、必ず自分の属する血縁集団以外の血縁集団の者と結婚するのが鉄則である。この掟を破って同一血縁集団の者と結婚するのは殺人よりも重い罪と考えられ、追放その他の制裁をうける。 中国では同じ「父系出自」の宗族の構成員はみな同じ「姓」を冠するから、これを「同姓不婚」という。 「同姓不婚」は宗族における婚姻制の「鉄則」であり、宗族は「同姓不婚」によって宗族の構成員の父系単系的な血統の「純潔性」を守ってきた。 「同姓不婚」に加えて「異姓不養」、すなわち「父系出自」の宗族以外の者を養子にすることができなかった。 夫婦は子どもがいない場合、夫の兄弟の子、すなわち「父系出自」の宗族以外の者を養子にすることができなかった。 これも父系単系的な血統の「純血性」を守るためである。 (日本の江戸時代の「お家至上主義」では、武家も商家も、血縁関係のない有能な青少年を養子にしてお家の存続を図ったことと対照的である。) 一方、日本神話では、もし神々に姓があれば「同姓婚」になる婚姻が目白押しである。 山の神オオヤマツミは、古事記では神産みにおいてイザナキとイザナミとの間に生まれたが、その娘のコノハナサクヤヒメが、イザナキの娘のアマテラスの孫のニニギと結婚している。これは姓があれば、ともにイザナキ姓の「同姓婚」になる。 海の神オオワタツミも、イザナキとイザナミとの間に生まれたが、その娘のトヨタマビメが、ニニギの子、山幸彦(ホオリノミコト)と結婚している。これも姓があれば、ともにイザナキ姓の「同姓婚」になる。 日本の皇統の「万世一系」はそもそもの大本がこうなのだから、宗法制の「百世不遷」とは似ても似つかぬものなのである。 また、オオクニヌシは、古事記ではスサノオの六世の孫、日本書紀ではスサノオの子、出雲風土記では別の系譜となっている。 オオクニヌシがスサノオの娘、スセリビメを正妻とした結婚は、古事記と日本書紀に従えば、姓があれば「同姓婚」ということになる。 日本の神々の系図を俯瞰すると、 単系的な「父系出自」の継承原則である「外婚制」になっていない。 前述した主要な登場者の末子相続も、「大宗」が嫡長子孫によって永代にわたり受継がれる「宗法制」と真逆である という特徴が指摘できる。 宗族の構成員はみな明確に「宗譜」に記載され、記載された族人の制限が非常に厳格であった。 たとえば、夭折したり、加冠・䈂字(日本でいう元服の一部分)しないうちに亡くなったり、未婚のまま死んだりした者は、「宗譜」に記載はされても一般「宗人」とは差がつけられる。 いったん「宗譜」に記載された後、僧侶や道士となって宗族を去ったり、僕隷・倡優・楽芸・巫祝などの職に身を転じた者、また「家規・族法」(宗族の規約)を犯したり、宗族の規定に背いたりした者は宗族から削除される。 この時、削除される以上、宗族の族長が死刑に処することもできるのである。 そして、このことこそが、「系譜性」と「機能性」の相互作用の中で本来の中国宗族の役割を果たすという。 宗族は、政治と法律が緊密につながって未分化な状態にあり、中央集権政府の最末端の組織としての役割を果たした。 (このことは、幕藩体制において「お家至上主義」が末端にまで行き届き、それを踏まえて家臣たちが殿様を蟄居させたり、跡継ぎのない武家がまったく血縁関係のない有能な養子をとったりして幕藩体制との整合性を保ったことに重なる。無論、中国の「異姓不養」はじめ違う展開であるが、同じ継承制度が末端にまで徹底されることで全体が調和的に安定するということにおいてである。) 宗族のさまざまな社会機能は、ほかのいかなる社会機関・組織・集団、政権や宗教集団が取って代わることができない。 中国古代社会の政治制度や経済関係は、みな宗法制度・宗族制度の基盤の上に成立したものである。 ここで宗族のもっとも重要な社会機能を整理しておこう。 ◯第一に、中国において一つ一つの単位家族は、3000年の中国社会におけるもっとも基本的な生産・消費の経済単位である。 つまり、家族は「一夫不耕、或受之飢。一女不織、或受之寒:(一夫耕さざれば、或は之に飢を受けしむ。一女織らざれば、或は之に寒を受けしむ)という「男耕女織」の自然経済単位と観念されてきた。(後宮では妃姫たちも日常的に織布をたしなみとしていて、その象徴的な意味合いは強いようだ。) 商人と手工業者たちも同様に、家族が売買や手作業工業生産者としての働きを分担する。 一方、農耕社会における農業生産・商品売買などは単位家族で独立して行うことはできず、単位家族以外の協力に依存せざるを得なかった。中国社会において、この種の協力は血縁の絆で各単位家族を結ぶ宗族に依頼して行うしかなかった。 農耕社会においては、宗族が地縁血縁的な共同体的諸関係を形成していたということである。 里における農民の「行政単位としての家族」は、「豪族」が誕生するまでは、お互いの恊働と共生を前提として農耕を遂行できた。 それは地縁血縁を踏まえた共同体的諸関係において行われた訳だが、血縁関係については宗族がその土台となった。 その共生の様相は、北宋時代に出現したとされる「族田」によく表れている。 ◯宗族では「族田」を設け、その収入は宗族内の各単位家族が災害・災禍にあうなどの経済的困難時の援助にあてられた。それは経済的力が弱い単位家族に安心感を与えた。 このように宗族は単位家族を支える経済基盤であり、農耕社会の自然経済が動くための重要な要素だった。 同族結合で大土地私有をした「豪族」の登場で、その仮作となる小農民が拡大し貧富の格差が拡大する。 「豪族」の同族結合においてその宗族が強力な勢力化した一方で、小農民の共同体的諸関係が解体されてその宗族が弱体化した。 ◯北宋時代に出現したとされる「族田」には、祭田・義田・学田などが含まれていた。 祭田からの収入は祭祖の費用、祠堂の修理や族譜の増修費などにあてた。義田からの収入は貧しい家族、父なし子、寡婦や天災人災の被害者の救済にあてられた。学田からの収入は一族の中に塾を開設する費用、子どもたちの学費などにあてた。 つまり「族田」の収入は宗族の中の各種公益事業を開設する費用とされたのである。 「族田」は族人の分裂を防ぎ、結合を強化するための経済的な基盤であった。 こうした慣行的制度は、同族結合で大土地私有をした「豪族」において自然発生したものが一般農民にまで普及した、ということではないか。 (この「◯◯田」を用意して◯◯の出費に当てるという考え方は日本の律令体制でも展開している。) 留意すべきは、 以上の話はすべて「定住社会」と「定住民」を前提としている、ということである。 そして、 里人に国家が土地を供与した「公地公民」においては、まず地縁が土台にあって血縁がそれにのる、あるいは、「地縁者の大集合」の中に「血縁者の小集合」が内包される、という構造にあったのが、 「豪族」の台頭によって、そのような構造が解体されて、「豪族」も小農民も、まず「豪族」の同族結合の血縁が土台にあって地縁がそれにのる、あるいは「血縁者の大集合」の中に「地縁者の小集合」が内包されるという構造に逆転した ということである。 (後者は、血縁者の一族がそれぞれの地縁において非血縁者の郎党を配下とするという一般的な構図でもあり、また物部氏の血縁一族の中に肩野物部氏という地縁一族が派生するという構図でもある。) ここで、 地縁が後回しになった後者の構造が必ずしも「定住社会」と「定住民」を前提としなくても成り立つ ということに留意してほしい。 「転住民」の「転住社会」の人間関係の絆は、新天地をともに開拓しようという志を共有することだがら、それは志縁というベきで、これがメジャーとはならないが新たに台頭しやすくなってくる。 「移動民」の「移動社会」の人間関係の絆は、特定の海域や陸域における移動をともなった輸送や行商、狩猟や海賊などに特定の技能で協力することだから、それは技能縁というベき古来あった関係性だが、社会の進展とともに自然発生を活発化しさらに高度化していった。 「定住民」の家族の一員でも自分の志縁や技能縁を血縁関係より優先して、たとえば「豪族」の同族結合の血縁が支配し束縛する地縁を嫌って「移動民」「転住民」に転じる者が容易に出て来るようになった。 すでに春秋時代に侠客、食客や孔子の志縁集団といった「転住民」が発生していたが、それは例外的な存在だった。「公地公民」の下ではあくまで「定住民」である農耕民がスタンダードであって、「移動民」性の強い商工民は制度的に把捉されはしたが差別的な待遇としてその増大が抑制された。それが、前漢から抑制が緩和し、参入者が拡大し競争原理が働いて商工業が発展していく。 「転住民」の活動の活発化は、こうした「移動民」による人、モノ、情報の流動化を踏まえたものと言えよう。 (ちなみに、 前漢当初は高祖以来、「無為自然」を主張する黄老思想が支配原理として尊ばれた。それが第七代の武帝で孔子思想に転じて儒教が国教化された。今日の儒教批判では儒教の尚古主義が批判されるが、武帝が儒教を国教化した当時、それに反対した皇太后を筆頭とする黄老思想を尊重する勢力の方が守旧派だった。彼らが崩壊しつつあった氏族制度の名門閥と朝廷の有職故実を尊重するのに対して、武帝を筆頭とする改革派は、皇帝と臣下の君臣関係を至上とする儒教と、法治主義を至上とする法家の能吏を実力主義で抜擢した。これは、複雑高度化した社会に対応する政策を安定化するためであった。 前漢建国当初は、大土地私有を同族結合でする富農としての「豪族」の発生当初であり社会がまだ単純だったので、支配原理は黄老思想の「無為自然」を体裁とする人治主義で十分だった。しかし「豪族」はその勢力を抑制的にコントロールできないほどに台頭する。そこで、考課に合格した「豪族」の子弟を実力主義で官吏に採用することで、「豪族」を法治主義を徹底した支配体制に組み込んでいく。これは「豪族」の官僚化は彼らにとってもその地位を安定化させるものであった。 結果的に、儒教の国教化と法家の能吏(酷吏)の活用がこうした動きの土台となったことは間違いない。 であるならば、このような方向性の改革を嫌った勢力が尊重した黄老思想とは、まず「為政者の祭政論」であり、実質的には、崩壊しつつあった氏族制度を踏まえた権威や既得権の保全のための論理だったと言えよう。 後漢末の五斗米道などの道教教団の発生に、原始道教の起源を求める考え方があり、これは「民衆の祭政論」であり社会改革志向にある。教学的側面を捉えれば、「為政者の祭政論」である黄老思想と連続性を認めることはできない。しかし、国教化した儒教や台頭する仏教に対して教勢の強化を図った道教は、宗教としての儀軌を整えて行く一貫で教祖として老子を設定する。儒教の孔子、仏教の仏陀に並び称される存在を打ち立てたのである。これがために、その後の道教に原始道教をはさんた黄老思想との連続性あるいは一体性が受け止められるようになったと考えられる。) ◯第二に、宗族は中国社会における倫理観・価値観を養い「礼教」を伝授・訓練する場であった。 いわゆる「儒家文化」はその中で産み出されていった。 例えば「親疎の別」「長幼の序」のもとで、宗族内の構成員は、誰でもその宗族祖先の血統の鎖の中に位置した。そしてその血統の鎖のどこに位置するかによって宗族内での地位を定められたのであり、個人的な資質・能力の如何によって身分が左右されるのではなかった。 (これは、日本人にとっての、帰属する人間関係の総体「世間」とそこでの位置づけである「分際」に構造的には重なる。「お家」という「世間」でも嫡子という「分際」が長男であることで決する。しかし、跡継ぎがいない場合、血縁関係のない優秀な青少年を養子にしたり、落語家や絵師などの「一門」という擬制的家族では実力者が継承者を襲名した。「お家至上主義」は「宗族制」と真逆の実力主義の一面ももつ。) また第一に述べた経済的理由で、人々は宗族に対してきわめて強い安心感を抱き、これは宗族成員間の強い依存心となって、それによって人々は独立の個性や進取の心を失ったという一面を持っている。 しかし、これは「定住社会」の「定住民」の話であって、「定住社会」から離脱する「転住民」や、「定住社会」と「定住社会」を結ぶ境界域で活動する「移動民」は、「定住民」よりも独立の志向や進取の心性が色濃く、それぞれに多様な展開をするのであった。 たとえば後世の中国人の「転住民」である華僑は、同じく宗族社会に生きたが、異郷の地で血縁しか依存できるものがないために、構成員間のより強い依存心を発揮する方向に向かった。 たとえば後世の中国人の「移動民」である後期和冦は、逆に宗族社会とは無縁の朝鮮人や日本人と恊働したが、もとより血縁も地縁も依存しえない境界人同士としてお互いの存在を認め合った。 このように、古今東西の人々の継承形式はそれぞれの出自、その祖の有り方といった過去に由来した筈ではあるが、 それ以上に、 その勢力を拡大維持する主導層が いかなる「定住社会」を形成する「定住民」か いかなる「転住社会」を形成する「転住民」か いかなる「移動社会」を形成する「移動民」か という現在から未来に向けた志向性によって決定されてきた と考えられる。 実際に、日本古代の多様な渡来人勢力も、たとえ同じ出自でもこうした志向性の違いによって、まったく異なる勢力に分派している。 また、多様な渡来人勢力同士の混淆も進んだが、その際も、同じ志向性の者同士が恊働や共生を目指して姻戚関係を結んでいった筈である。 いわゆる「出自論」が全般的に示す限界はこの辺りにある。 また、全体社会は、 新石器時代の大集落を頂点とする「累層的構造」にしろ、都市国家群の全体にしろ、領域国家にしろ、おしなべて 「定住民」の「定住社会」 「転住民」の「転住社会」 「移動民」の「移動社会」 の三位一体として成立している。 たとえばヤマト王権は統一国家を標榜し、それは領域を占有する「定住社会」という建前であり見えがかりがある。 農地を農民が耕すことを土台とする農本主義の国家観とは普遍的にそういうものである。 しかし、中央の朝廷が地方の令制国から徴収する租税だけでヤマト王権が成り立っていた訳ではない。 天皇直轄の「贄人」のような天皇に初物を貢納するという大義名分のもと通行特権を得た「移動民」が国内外交易を展開して天皇の私経済を拡大維持することが不可欠だった。 天皇直轄の「贄人」は単なる物流を担う輸送者ではなく商流を担う決裁者であって、朝廷の通信インフラである「宿駅伝馬制」をも特権的に利用したと考えられる。 つまり、「贄人」の周囲の国内外の交易に関わった人間関係の総体は「移動民」の「移動社会」として捉えることができる。 さらに天皇という存在は、国家という「定住社会」の最高権威を象徴しているが、藤原京までは天皇が即位するたびの遷都が慣例であって、新しく即位する天皇は自身の政治判断で遷都先を選定した「転住民」だった。 つまりそれまでの都ないし宮処そして朝廷は「転住社会」だったと言えるのである。 「宗族」と本質的に違う日本古代の「ウヂ」構造に始まった日本人の「親類」観念 ここで、日本の「ウヂ」と中国の宗法制の「姓」との本質的な違いを確認しておきたい。 それは、日本古代の血縁親族構造と中国古代の血縁親族構造のとの本質的な違いでもある。 そもそも血統そのものは目に見えない「暗黙知」である。 宗姓はそれを「明示知」化して、血縁関係を観察・識別できるようにさせた。 血統の源を「明示知」化する「宗」 血統の流れを「明示知化」する「姓」 両者により血統の「本」と「枝」を明快化する これが、中国宗族の本質である。 「宗法制」を含む中国文化が日本に伝わったのは秦漢時代からだが、大規模な政治・経済体制・法令などが体系的に日本に伝わったのは七世紀中期の大化の改新以後である。 その際、ヤマト王権は、国内の諸状況に応じて、中国の政治・経済体制を模倣して法令の条文を更新していった。例えば「養老令」の中の「戸令」は、唐の「戸令」がほとんどそのまま導入されているという。 大規模な制度的な導入によって、皇室を含め朝廷を構成する支配層は深く中国文化の影響を受けた。 そして、八世紀末の桓武天皇の段階で、七世紀半ば唐で編纂された「姓氏録」を模倣しようとして、勅の中で中国風の「宗」「姓」と「源」「流」などの言葉がそのまま引用されるに至っている。 (ちなみに、 この後、平安時代初期の九世紀初頭に嵯峨天皇の命によって古代氏族名鑑の「新撰姓氏録」が編纂されている。 それによると、当時の畿内の氏族の3分の1は渡来系であった。この数字は重要だ。) しかし、結論から言って、 日本には父系・母系・双系などの「外婚制」を前提とする出自集団が存在せず、 「ウヂ」という父系擬制的・非出自的・無系的な血統上未分化のキンドレッド(主体を中心として関係づけられる血縁関係者=「親類」)しか存在しないため、 血統の源を「宗」に統一化する 血統の流れを「姓」に統一化する 両者により血統の「本」と「枝」を明快化する といった宗法制がしている一連のことができない。 それゆえ、 源が同じでも流れが別 「宗」が異なっても「姓」は同じ という「ウヂ」の構造が一般化した。 (注:無形的、とは、系譜が女性や祖母と男性や祖父の一体として構成され、兄弟姉妹だけでなく姉妹の子や彼女たちの夫を含む一群の人々も、みな一族内の構成員、つまりは「親類」とみなす意識が人々に強く存在していることを言う。 このことは現在にまで至る日本人にとっては当たり前の「親類」観念=「親戚」観念である。 これはさまざまな渡来系氏族が支配層においてそして庶民層において混淆していった「ウヂ」の構造を、社会を安定化させるものとして正当化したことに始まるのではないか。) 大化の改新および律令時代から、朝廷は中国宗法制親族集団(後の宋代に「宗族」と称した)を模倣しようと努力していた。 例えば「男女の法」において「姓」の使用開始や律令の中の「嫡子制」「養子法」などである。 しかし、血統上未分化のキンドレッドの中では中国の「嫡子制」「養子法」のそのままの導入は困難であり、結局は「ウヂ」の構造に適応した日本型にアレンジされている。 桓武天皇の段階でも、その勅の中で「枝流並継嗣歴名」の要求をしていない。 それは、したくても「ウヂ」構造ではできなかったと言えるが、そもそも目前の現実として展開している「ウヂ」構造を秩序立てて安定化させるための日本型の氏族系譜(本系帳)を追求したと考えられる。 「ウヂ」構造を安定化させるために、「ウヂ」の氏族系譜(本系帳)において、中国の宗譜とは異なるやり方で「凡庸之徒」と「冠蓋之族」を大別しようとしたのである。 中国でも魏晋以降、隋唐にかけて名門望族が尊貴の血統を誇った門閥意識があり、血統の尊卑・等級をもって官界に入る際の根拠とした。 よって「凡庸之徒」と「冠蓋之族」を大別しようする目的意識は日中で同じだが、手段となった氏族系譜(本系帳)の有り方は日中で本質的に異なった。 中国では、門閥間の上下関係は血統の等級や血縁関係の親疎によって決められる。 そして、血縁の親疎や有無は生得的であり、人為的に変えようがない。 これに対して 日本では、「ウヂ」集団の血縁関係は人為的に自由に操作できた。 前述した 古事記において四十八氏が「欠史八代」の天皇を祖としていること 特に、阿部、蘇我、小勢(こせ)、膳(かしわで)などの有力豪族の祖はほぼ「欠史八代」に集中していること また、四十八氏の内、臣姓を与えられた有力豪族が「欠史八代」に集中しているのに対して、 中級豪族は第10代崇神天皇から第15代応神天皇までの系譜に連なっているものが多いこと はその筆頭である。 結果的に、中国とは異なる日本型の「凡庸之徒」と「冠蓋之族」の大別が、「皇別」「神別」「諸蕃」の三つの分類として成った。 「新撰姓氏録」において、諸「ウヂ」は実際の祖先を辿るのではなく、当時の1182「ウヂ」はみな出自◯◯天皇、◯◯皇子の後、◯◯と同祖、もしくは出自◯◯神と自らの祖先を記載した。渡来人も、出自(祖国の)◯◯王・◯◯皇帝という形で記載した。 注目すべきは、主要氏族たちの自己申告をそのまま嵯峨天皇が認可していることである。 それは、天皇の勅に従って氏々の始祖や別祖などの名を記載し、枝流および継嗣歴名を列記しなかった当然の帰結とされる。 結果、「皇別」に属した「ウヂ」の子孫はほとんど天皇の子孫となったが、これは天皇の正統性を認めることだから天皇の政権安定に寄与した。 換言すれば、「皇別」「神別」「諸蕃」による祖先の遡り方は、天皇が「万世一系」であり、かつ天皇が姓を持たない状況でこそ可能なのであり、また意味を持ちえたと言える。 天皇側からすれば、本当の血縁の子孫かどうかはまったく問題ではなかった。 朝廷が、主要氏族の「ウヂ」に天皇の子孫であるという観念を植え付けることで求心力を形成することこそが目的であり、それを着実かつ総合的に達成したのである。 中国において、このような祖先の遡り方は、まったく意味をなさないばかりか、皇帝と何ら血縁関係がないのに皇帝の「姓」を名乗ったり、皇家の血統を詐称したりしたら、殺人罪より重い処罰を受けなければならなかった。 だが言い換えれば、中国古代の等級分封制や門閥制度や宗法制のもとで形成された宗族は、日本古代の天皇が「ウヂ」を媒介に主要氏族に対して持ったような求心力を形成できなかった、ということでもある。 各封国では、国や皇帝への求心力よりも、諸候が自らを大宗とする宗族内部の求心力が優り、その自立性が助長された。 神話・伝説の人物を始祖とすることは、原初的な祖先崇拝の延長線上にあり、大化の前代からすでにあった。 始祖を神話に登場する神やヤマト王権樹立期に登場する伝説の人物に設定することによって、政治的関係を仮想の血縁関係において表現した。 「ウヂ」集団は、職掌において代々天皇に仕えるという理念によって支えられ、その政治的性格が現実の血縁関係より重視された。 一言で総括すれば、「政治関係と、仮想と現実が渾然一体化された血縁関係との結合」である。 中国でも「君権と族権の合一」が現象しているが、中国の場合、生得的な現実の血縁関係を政治関係に展開している。 これに対し日本では、神話・伝説上の人物を氏々の恊働の祖先とすることで、政治関係を人為的に仮想の血縁関係に作り替えたと言える。 「ウヂ」集団の状況が、その時代の社会政治構造をリアルに反映していて、その政治関係をヤマト王権が容認してその血縁関係を正当化したのだった。 以来、人為的な血縁関係と擬制的な祖先意識はじょじょに日本人の全体に浸透していき、日本人特有の固定した祖先意識になった。 これが、「ウヂ」集団の職掌において代々仕えるという制度的慣行につながって、特定の職能集団が同じ◯◯氏を名乗るなどの、社会集団の同祖意識を土台とする「姓」が普及していった。 (ちなみに、 このような名乗りや呼び名の造語感覚は現代の日本人にまで連なっている。 たとえば、「在日認定」という言葉が在日韓国人を批判する人々の間で使われる。実際の戸籍は日本人であっても、反日的な言動をするがために、日本人ではない在日韓国人と同じだということを根拠として「在日認定」するのである。 ここには、政治関係を人為的に仮想の血縁関係に作り替えた古代人と同じ感受性と表現性がある。) 中国の「姓」は、宗法制にのっとって父系・男性一系の宗族集団の標識である。別々の「系」は「姓」の違いをもって区別される。 一方、日本古代の「姓」は「ウヂ」集団の標識となった。 「ウヂ」と「姓」の展開史は大化の改新を境に二つの時期に分けられる。 大化の改新以前、六世紀末期から七世紀初期の推古朝までは、「姓」はほとんど天皇から、各「ウヂ」の居住地と古い部の職名に基づいて賜ったものだった。これらの称号は天皇の随意性に基づき、それゆえに神意性を帯びた。 そしてこの「ウヂ」の地名や職名に基づく称号は、すべての子孫に伝承されたのではなくて、職掌や地位を継承した子孫、すなわち一族の代表者にのみ継承された。 つまり、神意性は職掌や地位が帯びたのであって、それに就かない子孫にも呼称が許されて神意性が薄まることはなかったのである。 それが大化の改新以降、中国風の姓氏制度の導入を契機として、また律令体制の本格導入が進むにともなって、「ウヂ」の称号は変化していった。 まず、大化元年(645年)の「男女の法」によって中国の「姓」の父系継承の原則が導入され、一族の代表者だけでなく、良民であったら同一血縁集団内のすべての構成員が「ウヂ」の称号を継承することになった。 そして、それを前提として、天智九年(670年)全国的に戸籍が作成された。 豪族は「ウヂ」の名である「カバネ」を「姓」とし、庶民は◯◯部、◯◯族という呼び名を「姓」として、すべての子に継承されて戸籍に記録された。 これが日本人の「姓」の出発点となった。 古代日本において、男系、女系、双系なんでもありでかつ恣意的に祖神や始祖を設定する「ウヂ」構造の、非出自的・無形的な継承が天皇から氏族、そして庶民までに普及した。 そして、それが今日の日本人の父方、母方、兄弟姉妹の配偶者までの含む「親類」観念=「親戚」観念にまで至っている。 こうまで根強い共通認識および共通感覚は、けっきょく何に由来しているのだろうか。 無論、中国の「宗法制」の宗族社会に由来するものではない。 また、征服王朝を樹立した「濊(わい)人」やそれに降伏した「邪馬台国」が連合していた「テュルク族」の騎馬民族に由来するものでもない。 けっきょく私が思いあたったのは、私自身が提唱していた「信仰単位としての家族」という概念であり、 それが日本人の場合、<あくまで「いまここ」を起点とした時間軸と空間軸の拡張性>を持つという、キンドレッド(主体を中心として関係づけられる血権関係者=「親類」)と同じ構造にある特徴だった。 具体的にはこういうことである。 たとえば、中国人の「信仰単位としての家族」は、同じ祖先に対する祖先崇拝をともにする宗族である。 それは、前述したように出家した者や賤視される職についた者は排除され、夭折した者や未婚のまま死んだ者も「宗譜」に記載されても一般「宗人」とみなされない。 これに対して、 日本人の「信仰単位としての家族」は、「宗譜」のような客観的に明示知化された系譜が一般庶民において制作されず、主体が自分の「世間」として帰属するつもりの「親類」を「親戚」として観念するに留まる。この観念において、犯罪者などを「親戚」扱いしない、あるいは「家族」扱いしないことはあるだろうが、夭折した者や未婚のまま死んだ者を排除することはない。 日本人の場合、死んでしまったら悪人でも仏になるという観念がある。それは仏教伝来以前からある、死んでしまったら悪人も魂に回帰して純化するといった<部族人的な心性>を仏教の文脈で言い換えたものではなかろうか。 中国人と日本人の「信仰単位としての家族」の違いは、本質的には両者の死生観の違いを反映している。 中国人の死生観では、あの世はこの世と並行するパラレル・ワールドである。 この世で悪人だった者はあの世でも悪人であり続ける。この世で権勢を誇った王はあの世でも同じように暮そうと考える。 この世で生きる子孫はあの世で暮らす祖先や父母に供物を供えることで彼らのあの世での暮しを盛り立て、それによって自分たちのこの世での暮しが見守られるという互酬性が想定される。 これに対する日本人の死生観の大きな違いは2点である。 1つは、基本的に日本人のあの世には時間が想定されない。 だから正確には、時間が止まっているとも流れているとも言えない。 結果的に、時間が流れているこの世と並行するパラレル・ワールドではない。 1つは、中国人の場合、この世で生きる一族を見守るのは、死んであの世にいったあくまで「宗譜」で明示された宗族という父系の一族である。 日本人のご先祖様に見守られる感覚もこれと同じようだが、ご先祖様は父系でもあり母系でもあり、祖父および祖母より前代の見知らぬ人々については漠然と思うだけで「宗譜」で明示された宗族のような具体性に乏しい。 漠然とは、父系だけでなく母系や傍系の遡りが不確定的に含まれるということである。 結果的にどういう事態となるかというと、日本人のご先祖様の遡りは末広がりに広がっていて、かつ昔に遡れば遡るほど日本列島の住人は少なかったのだから、高い確率でお互いのご先祖様が重なることになる。 この観念は、死んでしまったら悪人も魂に回帰して純化するという<部族人的な心性>に繋がっている。 日本列島に先住した縄文人は、死んでしまったら悪人も魂に回帰して純化するという<部族人的な心性>を抱いていた。 石器時代の<部族人的な心性>は人類普遍であり、人間と自然の未分化性、自己と他者の未分化性を特徴とするから、死ねば自己も他者もみな自然に帰するという素朴な観念を抱いていた。 つまり、死んだ人はその人の魂に回帰して純化すると同時に、人それぞれの魂は人々の集合的な魂に回帰する、つまりは自然への回帰に至るという感覚である。 これは、 中国人の宗族を前提にした<社会人的な心性>が、新石器時代まで部族人が人類普遍に抱いていた<部族人的な心性>を限界づけて、きわめて閉鎖的かつ排他的な血統に基づいて、この世の生を個別的に識別すると同時に、あの世の魂も個別的に分別した のに対して、 日本人の親類縁者を前提にした<社会人的な心性>が、新石器時代まで部族人が人類普遍に抱いていた<部族人的な心性>をあくまでベースとして温存して、きわめて開放的かつ包摂的な「縁」に基づいて、この世の生を主体を起点に包括的に融合すると同時に、あの世の魂も自然に回帰して包括的に融合した という対照性を示している。 このような日本人の死生観を背景として、日本人の「信仰単位の家族」は伸縮自在に展開し、「居住単位の家族」「婚姻単位の家族」「経済単位の家族」のすべてを包含しうる。 「居住単位の家族」に違和感なく亡くなった祖父母や父母や妻夫や子供が加わり、それがお盆や仏壇に手を合わせる時にあたかもそこに居合わせるように感じる「信仰単位の家族」になる。現実としてそれが感覚的には共同生活者である人々も多いだろう。 「婚姻単位の家族」に血縁関係のある親戚に違和感なく血縁関係のない縁者が加わり、冠婚葬祭の場において日本人の死生観を共有する「信仰単位の家族」になる。 「経済単位の家族」は、人類普遍に地縁や血縁を踏まえて生産活動を分担したり恊働する単位として形成されたが、日本人において特徴的だったのは地縁や血縁を超越した「信仰共同体」が、経済活動を「信仰の実践」とすることで「信仰単位の家族」となったことである。 具体的には、主要神社を消費センターとして、その必需産品の生産者たちが「信仰共同体」に組織されて地方経済圏が創成された。これは、持統天皇が伊勢神宮の式年造替を前に環伊勢湾地方を巡幸したことに始まり、奈良・平安時代、都の神社仏閣を消費センターとして特に主要な宝物や祭具の手工業者たちが「信仰共同体」に組織されて一大手工業圏が形成されたり、江戸時代、伊勢参りや出雲参詣を観光レジャー機会としてその必需サービスを提供する御師たちが「信仰共同体」に組織されて一大観光レジャー産業が形成されたりしていった。 さらに日本人の「信仰単位の家族」の特徴であるその伸縮自在性だが、「伸縮の縮」の極みとしてそれが「行政単位の家族」ともなったことは重大である。 江戸幕府は檀家制度と宗門人別帳によって、寺に行政末端機関として戸籍管理を代行させた。そこでは「信仰単位の家族」が「行政単位の家族」となっている。 明治新政府が廃仏毀釈によって目指したのは、幕藩体制の行政末端機関としての寺の解消であり、神社を行政末端機関として国家神道を地域密着型で徹底することだった。つまり、ここでも「信仰単位の家族」が「行政単位の家族」となることが目指されたのである。 天皇と国民 が一体であるところの「君臣一体」の理念は、思想的には天皇と国民を家族的な関係として捉える。国家を一つの家族とみなす「家族主義国家観」が明治民法 によって規定された「家」制度に体現された。戦前日本においては、家族主義と「家」制度が「国体」の政治と密接な関わりをもった。それは、「信仰単位の家族」が「伸縮の伸」の極みとして「国家」となったということである。 最終的には戦前昭和の軍国主義の全体主義の体制において、日本人の「信仰単位の家族」は、天皇の赤子である臣民の暮らす御真影の飾られた家庭、出征兵士をともに見送る隣組や町内の人々、徴兵されて同じ連隊に配属された同郷人、天皇陛下万歳と叫んで死ぬことを誉れとする軍人、労働奉仕や軍事教練で什伍の守りを固めいざという時の一億玉砕を覚悟した婦女子と、伸縮自在に展開した。 文化人類学においては、戦争も一つの交易であり、経済行為とされる。 よって、こうした日本人の伸縮自在の「信仰単位の家族」=「行政単位の家族」は、伸縮自在の「経済単位の家族」として国家主義により自由自在に操作されたとも言えよう。 日本古代の氏族制度の現実として「ウヂ」構造の非出自的・無系的な継承によって多様な「親類」が自由自在に展開している状況に対して、 律令神道体制が、記紀神話において主要氏族の祖神を設定して天皇と一体化した支配層を正当化し 主要神社を消費センターとするその必需産品の生産者を「信仰共同体」として組織して地方経済圏を創成維持し 国司が令制国に赴任する際に一宮・二宮・三宮の順で奉拝することでそれらを中央集権体制と連動させた といった一連の事柄が、 日本人に独特な<あくまで「いまここ」を起点とした時間軸と空間軸の拡張性>を持つ伸縮自在の「信仰単位の家族」を形成し全国津々浦々に展開させた と私は総括する。 多様な「親類」が自由自在、伸縮自在に展開することを容認、むしろ積極的に活用するためにメタ「親類」の観念が形成されてきた。 それが、戦前の国家を一つの家族とみなす「家族主義国家観」にまで至ったことは否めまい。
by cds190
| 2018-01-07 15:48
| ☆発想を促進する集団志向論
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