自分の「どんぐり」の本領を知り発揮させる (1/2) |
マーカス・バッキンガム&ドナルド・O・クリフトン共著 日本経済新聞社刊 発
パラダイム転換発想のファシリテーションは、人々の「どんぐり」が望んでいる「人格の変化」を引き出すという作業でなければ、その場限りの発想ゲームに終わってしまうことはすでに述べました。
この「人格の変化」とは、あなたがある状況において自他にとって有意義なパラダイム転換を、あなたならではの観点、立場、取り組み方において発想しあるいはその達成に挑戦することで「どんぐり」の本領が発揮されて、発揮されていなかった以前に対して起こる「生の次元の変容」のことであります。
ここで問題になるのは、個別化を生きる個人の核(精神)であり、集合的無意識の元型(精神)をめぐる神話的思考を直感や発想において押し進める「どんぐり」というものの、あなたにとっての実態に他なりません。
いくらプラトンに敬意を表して神秘主義をプラグマティックに応用しようとする私でも、ここがブラックボックスのままでは困ります。
実際の仕事人生でも重要な分岐点において幾度か神秘主義的な経験をし、日常的な仕事でも自分の直感や発想がどのような観点、立場、取り組み方において発揮しうるかすでに習慣になっている私は、「どんぐり」というものの私にとってのおおよその実態を捉えています。しかしそうした経験や習慣のない、あるいはそれらについての明快な認識がない人々にとって、「どんぐり」はあくまで比喩としてのイメージにとどまってしまうからです。
さて、そんな問題意識を抱き回答を求めていた昨年末のことです、私は地元に2〜3年前できた小さなブックオフに何気なく立ち寄りました。そこでその問題を解決する本に出会いました。これも「どんぐり」が何らかのパラダイム転換過程で心的要素を再配列すべく起こすシンクロニシティなのでしょう。私はこういう現象はいたって自然であると感じていますが、まさに「人それぞれにとって『どんぐり』とは具体的に何なのか」を教えてくれる、しかも世界で唯一の本だったことを読み終わって理解し、改めて驚きました。
私と同じような問題意識をもって研究していた先達がいて、的確な答えを出していたことへの驚きは、本書の理論がユング心理学と脳科学を土台にしていることに気づいてさらに高まりました。
おそらく、本ブログで昨年来のパラダイム転換発想研究に気長におつきあいくださったみなさんも、ここで世界有数の調査会社ギャラップ・オーガニゼーションの経営トップの共著であるビジネス実用書である本書と、それがネット上で提供するいわば<あなたの『どんぐり』検索サービス>に行きついたことは、いまご自身がなすべきパラダイム転換発想について、これまでの抽象的かつ内省的な思考段階から、今後の具体的かつ対外的な行動段階への移行を迫るのではないかと思います。
「どんぐり」とは人それぞれ独自の永続的な「一番の強み」のこと
著者は、企業において「強み革命」を起こすことを目指しています。
その土台となる基本認識は、
「1 人の才能は一人ひとり独自のものであり、永続的なものである。
2 成長の可能性を最も多く秘めているのは、一人ひとりが一番の
強みとして持っている分野である」
ということです。
「強み革命」とは「強みを土台にした企業を築く」ことで、そのためには間違った基本認識である
「1 人はだれでもほとんどすべてのことにおいて、能力を発揮する
ことができる。
2 だれにとっても最も成長の余地があるのは、その人の一番弱い
分野である」
という考えを改め、それにのっとって世間に蔓延しているダメージコントロール(弱点を補う)型の研修よりも「資質を強みに磨く」研修にもっと力を入れ、抜本的には、採用後の人材育成よりもそもそもの人材採用にもっとお金と時間を掛けて「人材の資質を精査して構成配分すべし」と、著者は力説します。
私のコンセプト思考術の研修も、受講者自らが得意とする発想や洞察を誘う、つまり自分で自分の「強みを資質に磨く」術を会得してもらうという主旨です。また、その講義内容にある「情報対応特性による階層分類」を前提にしたスクリーニングによって、企業の人材採用において、特にパラダイム転換の発想と実現をする人材については、「コト実践層」の資質の顕著な者をある枠で確保すべしと提唱してきました。
このように著者の主張は、私の研修の主旨に重なり、人材採用についての提唱内容をより具体的に精緻化するものでありますが、このことについては機会を改めて論じさせて戴きます。
さて、本書はじつに、
「過去三十年にわたり、ギャラップは分野を問わず、傑出した才能を持つ人々に関する体系的な調査を行ってきた。(中略)現時点で200万人強の人たちにインタビューを実施し」た成果なのです。
調査方法の詳細は本書を読んで戴くとして、ここではそれが「自由形式で行われた。彼らが実際に行っていることを彼らの自身のことばで聞きたかったからだ」といわゆる質的調査、会話分析の手法で行われたことにだけ触れておきます。
そして彼らの得た結論は、
「彼らの資質にはパターンがあるということが徐々に明らかになった。われわれはそんなパターンの中から34のパターン、すなわち『強みとなりうる資質』を抽出したのだが、
ここで言っておきたいのは、その34の強みとなりうる資質は特殊なものではないということだ。人間が持つむしろ最も普遍的な資質である(筆者注:追って掲載)。この34の資質(さらにそのさまざまな組み合わせ)がすぐれたパフォーマンスを可能にする鍵を握っている」
ということなのです。
本書がインターネット上で提供する<ストレングス・ファインダー>は、「被験者の無意識の反応を誘発するようにできている」「強みになりうる最もすぐれた潜在能力の源泉を見つける」ためのものです。
本書とネット上の検索サービスによって、私たちは優位を占める五つの資質を知り、それに関する説明をその活かし方を含めて理解することができます。
「五つの資質の組み合わせは3300万通り以上あり、まったく同じ資質を持つ人に出会う可能性はかぎりなくゼロに近い。それがきわめて重要なところだ。なぜなら、その人が持つ五つの資質は、ほかに比べるものがない、その人独自のものだからだ」
その真価はご自身で試して戴くしかないが、本論では、著者の考えの内、パラダイム転換発想にとって示唆深いものを紹介することで、みなさんをパラダイム転換発想を単なる思考段階を超えてそれぞれにユニークな行動段階へと誘いたいと思います。
「成功を収めた人々すべてに共通することだが、持てる才能を最大限に発揮し、自らの強みを磨き、仕事に活かす術を知っていた」
パラダイム転換発想が、自分は何についてのいかなる問題を発見するか、から始まるのは、まさに自分の持てる才能が試されるということです。自分の強みゆえに問題を見出すのか、仕事に活かせる術を知っていると直感してのことなのか、切り口はいろいろでありえますが結局はそういうことです。
発想というと、その時々の閃きであり、一過的で移り気なもののように誤解されています。しかし、その人ならではの独自性をもった自他に有意義な発想を生じさせる「強み」について、著者はまずこう定義します。
「強みとは常に完璧に近い成果を生み出す能力」
そして、
「強みは首尾一貫することができて初めて、真の強みになる」
「満足のいく成果を得るには、自らの職務に関わるすべての業務に適した強みを持つ必要はない」
「傑出した存在になるには強みを最大限に活かせ、決して弱点にこだわってはいけない」
以上の3点を強調します。
無意識が浮かび上がらせる発想や洞察とは、余計な意識が介在しないからこそ、ほっておいても働いてしまう独自の永続的な「強み」が発揮されて浮かぶということでもあるのです。
著者は以上のことを、「強みを中心に据えた人生を築く三つの革命ツール」として分かり易く説明します。
「第一の革命ツールは、天性の才能か、後天的な能力かを見分ける方法を知ることだ」
「・才能とは、無意識に繰り返される思考、感情、行動のパターンで
ある。才能となるさまさまな資質。
それは<ストレングス・ファインダー>で見つけてほしい。
・知識とは、学習と経験によって知り得た真理と教訓である。
・技術とは、行動のための手段である。
才能、知識、技術。この三つが組み合わさって初めて強みが生まれる」
「簡単に言ってしまえば、技術と知識を使って天性の才能に磨きをかけると、強みになるということだ」
「強みを築くには才能も知識も技術もすべてが必要となるが、なかでも最も大切なのは才能だ。なぜなら、技術と知識は学習と経験によって身につけられるが、才能は天性のものだからだ」
「第二の革命ツールは才能を特定するシステムだが、強みとなる隠れた才能を確実に見つける方法が一つある。それは客観的な眼でしばらく自分を見つめることだ。
何かの業務を遂行するにあたり、いかに早くその業務をこなすコツをつかめるか、いかに早く上達し、学んだことを発展させられるか、さらに、時間を忘れるほどその業務に没頭できるかどうか。こうした観点から三ヶ月ほど自分を観察するといい。」
「第三の革命ツールは才能を表わす共通の言語だ。
強みを説明するには新たなことばが必要となる。このことばはまず、正確でなければならない。さらに、個人間の微妙な差まで表せ、弱点ではなく強みを説明するからには肯定的で、だれにでもわかることばでなければならない。
たとえば、だれかが「マーカスは歩く<指令性>だ」「ドンは<活発性>そのものだ」などと言ったとき、だれが聞いてもその意味がまちがいなく伝わらなければならない」
追って掲載する34の資質は、すべてこうした用語になっています。
「こういった新たな言語がなぜ必要なのか。それは、われわれがふだん使っていることばでは用をなさないからである」
著者が指摘するように、私たちの言葉使いは、弱みを表わすネガティブな言葉については微に入り細に入り的確な表現ができるようになっているのに、強みを表わすポジティブな言葉については貧弱というしかありません。
「たとえば、『人あたりがいい』ということばを用いて『AさんもBさんも人あたりがいい』と言った場合、実際にそれで何がわかるのか」
「『戦略家』とはどういう人か。概念的で理論好きということなのか、それとも、分析力に長け、何より事実を重んじるタイプなのか」
「『販売技術にすぐれた人』とはどういう人か。客の弱点を突くのがうまいのか、それとも、客に親しみを感じさせる技を持っているということなのか、理路整然とした話ができる説得上手ということなのか、製品に対するゆるぎない自信を客に伝えるのが巧みということなのか。客一人ひとりに適した販売員を選ぼうとするなら、この販売技術の相違はきわめて重要な要因である」
「『販売技術がある』『戦略的思考に長けている』『人あたりがいい』『自主性がある』。
これらのことばを個々がそれぞれ自分なりに定義するのは別にむずかしいことではないが、それでは、他人の定義はどうなるのか。同じことばを使っていても、互いに定義がちがっていては、話し手の意図どおりに相手に伝わるとはかぎらなくなる。
これはコミュニケーションの最悪のパターンだ。同じ土俵で話をしていると思っているだけで、実のところ、同じ言語を使っているとさえ言えないのだから」
私も、販売技術に関してまったく同じ批判的観点から、顧客窓口様の情報対応特性に応じた資質を持った営業マンを対応させることを前提に、営業マンのタイプ別育成とグループユニット化による営業活動を提唱しています。この提唱内容に本書の強み論を重ねることでより精緻化ができると考えられます。
知識、技術、才能、そして才能の独自性と重要性
著者は、知識とは何かについて、「大きなテーマは哲学者に任せておくとして」と前置きして、「それは事実に基づく知識、つまりコンテンツである」と説明します。
語学でいえば語彙、販売でいえば商品知識、看護でいえば麻酔薬の投与量など欠く事のできないものですが、これがあったからといって満足な成果が約束される訳ではありません。このことは、発想とは似て非なる単なる知識の累積延長がパラダイム転換をもたらさないことに通じます。
また営業に関していえば、販売する商品サービスの知識を充実するのは、やって当たり前のダメージコントロールに過ぎず、それで満足な成果が約束される訳ではありません。
次に、技術とは何かについて、「技術は経験に基づく知識の体系化をもたらす」とし、「どんな分野であれ、賢明な人間は、何かをする際、どこかで一歩退き、蓄積したすべての知識を段階-----たどっていけば、飛び抜けてするれた成果とはかぎらなくとも、とりあえず満足のいく成果に導いてくれる筋道-----に変える」と説明します。つまり、知識や経験をメタ思考することで体系的ノウハウをうるとしますが、
「しかし、気をつけてほしい。技術は強い味方だが、それに頼ってばかりいると、技術が持つ欠点を見逃してしまう。技術は仕事をする上では役に立つが、技術があるからと言って、まざましい成果が得られると決まったわけではない」
スキーマに従っていれば物事を効率的に考えられるが、スキーマのパラダイムを一生転換する発想はなしえない、ということに通じます。
また営業に関していえば、販売技術という体系的ノウハウをもつのも、よそも似たり寄ったりやっているダメージコントロールに過ぎず、それで満足な成果が約束される訳でありません。
さらに著者は技術について、重要な一点を付け加えます。
「技術のもう一つの欠点は、技術というものの性質上、分野によっては段階に分けられないものがあるということだ。
たとえば共感。共感は他人の気持ちをくみとる才能である。どれほど頭脳明晰であっても、共感を何段階かに分解できる人はいまい。共感は瞬時に起こる感情作用だ」
「また、真の主張も、共感と同様、技術とは無縁だ。
戦略的思考や独創性もまたしかり。どれほど観察力が鋭くても、どれほど万全の態勢で臨んでも、こうした感情や意識をまえもって予測することはできない」
「要するに技術とは、容易に伝えられる極意を伝える手段にすぎない」
「強みを築くに際して、技術というものは、真の才能と手を結んだときにこそ大いに頼りになるものなのである」
そして、才能とは何かについて、「才能とは『繰り返し現れる思考、感情および行動のパターンであり、何かを生み出す力を持つ資質』である」と定義します。
たとえば、販売に関して先に結論を言えば、まず営業マン個人の「強み」という資質を活かすグランドデザインが必要で、その中でそれに適した販売知識と販売技術が掛け算されるべきなのです。営業マンの人材育成そして人材採用は、こうした「強み」という資質の観点からグランドデザインのやり直しが必要です。そして、顧客窓口様の個人的な、あるいは顧客企業の組織的な「強み」という資質を見極め、それをバックアップするよう営業活動を方向づけたり、対応する資質をもった営業マンをグループユニット化することが有効ということになります。
著者は、脳科学の知見をもって、そのパターンなるものを説明します。
不思議な脳の発達過程を説明していわく、
「なんらかの理由で、自然はわわわれに、きわめて入念につくられた回路の多くを無視するように促すのだ。(中略)きわめて入念に形成されながら、使われないために三歳から十五歳までのあいだに、それこそ無数のシナプスが失われてしまう。そして十六歳の誕生日を迎えるころには、回路の半分が使いものにならなくなってしまう」
しかし、
「シナプスが多いほど、賢く優秀な子に育つというわけではない(中略)。賢さや優秀さは、最も強固な回路をいかにうまく利用するかで決まる。自然は選ばれた回路を有効利用させるために、何十億ものシナプスを失うことをわれわれに強いるのである。だから、回路が失われること自体は案じなければならないことでもなんでもない。回路の減少こそむしろ重要なことなのだ」
「世界を理解するには受ける刺激をいくらか遮断しなければならない(筆者注:「志向性」のこと)。そのため吸収の時期が過ぎると、脳は遮断という作業に移る。(中略)親から譲り受けた遺伝的特質と幼児期の体験に基づき、遮断すべき回路と、流れがよくて使いやすい回路とが選別される。(中略)そうして決められた回路は、使用頻度がさらに高くなることで、より一層強靭で高感度なものになる」
このことは、ユング心理学では、思考・感情・感覚・直感の4象限をもった水車が半分水に浸って浮いていてつねに意識が活用する水面上の部分と、つねに意識下に抑圧されがちな水面下の部分があるとする性格形成の理論に符合します。
「われわれの意識はみな一人ひとり異なっている。だから、世の中の事象に対する考え方、感じ方も当然一人ひとり異なってくる。それは、われわれの意識-----繰り返し現れる思考、感情および行動のパターン-----がその人独自の脳内回路によって生み出されるものだからだ。脳内回路がフィルターの役割を果たし、日々出会う出来事をふるいにかけ、集中すべき対象と切り捨てるべき対象を分類しているのである」
著者は、このような例を挙げて説明します。少し長いですが、実感をもってもらうべく引用します。
「六人の仲間がお気に入りのレストランで夕食をとっているとしよう。
このような場面で、<共感性>にすぐれた人は脳内フィルターの作用によって、ほかのみんなはその夜の会食をどのように感じているか考え、一人ひとりに笑みを向け、問いかけ、本能的に脳内回路の周波数を相手に合わせ、相手から発信されるシグナルを正確に受け取ろうとする。そして、全員がだいたい同じ気持ちでいることがわかると、自分も愉しい気分になれる。ありていに言えば、この人はそうして安心感を得るのである。
しかし、もちろん全員が同じ気分でいることなどありえない。なかに一人遅れてきた人がいたとしよう。その人はそのことを気にかけ、食事代を持つことで埋め合わせをしようかと考えている。(中略)これは<責任感>という才能のなせるわざだ。また別の人はみんなが何を注文するか考えている。これは<個別化>という才能による。ある人は一番親しい人の横にすわり、その人の『近況をどうしても知りたい』と思っている。これは親密な人間関係を築こうとする<親密性>との『近況をどうしても知りたい』と思っている。これは親密な人間関係を築こうとする<親密性>という才能。また別の人は同席している二人が、前回同じ顔ぶれで食事をしたときのように口論を始めないかと心配し、二人が激しやすい話題にならないよう気を配っている。これは<調和性>という才能だ。残る一人はまわりのことなど眼中にない。食事のあとでみんなに披露しようと思っている、ジョークを心の中でただひたすら練習している。これはことばでドラマをつくり上げようとする<コミュニケーション>の才能である。
置かれた状況は同じでも、六人の脳内フィルターは一人ひとり劇的に異なる。社交の場が盛り上がりながらも、どうして一人ひとり少しずつほかの人には理解できない部分があるのか、そのわけはその脳内フィルターにある。
だから脳内フィルターはその人独自のものだという事実を踏まえておくと、仕事の場でもほかの人をより一層理解しやすくなうだろう」
パラダイム転換発想において、何についてのどのような問題を発見するかは、その発想を原初的にかつ根本的に特徴づけますが、このことも同じその人独自の脳内回路のフィルターの影響下にあることは間違いありません。
発想は、意識して自分が身につけた技術に頼ってしまった段階で、テーマをできることとその仕方に限定してしまいます。また同様に、意識して自分が得た知識に頼ってしまった段階で、テーマを分かることとその分かり方に限定してしまいます。
「技術はできるかできないかを決め、才能はより重要な問題、すなわち『いかに巧みに行うか、それをどれほどの頻度で行うか』を決めるのである」
つまり、無意識的に才能をもってして発想しようとした場合、技術や知識に依存しないで、非因果的な自信をもって状況に対峙します。何をどうやってやっていくか具体的に明快ではなくても、才能という心の構えによって打開可能な筋道を直感する訳です。
「才能は持ち主に、その才能を『活かしたい』と思わせる力だけでなく、活かして『愉しい』と思わせる力を持っている(筆者注:才能自体に主体性を想定した物言いであることに留意)」
「どういうわけか、最強の脳内回路は、この『活かしたい』と『愉しい』という二つのシグナルがスムーズに流れる(筆者注:冒険を促進するべく分泌される脳内麻薬に関連する)ようにてきているのである」
「その人らしい反応というものがあるが、知らず知らずのうちに、同じ反応を示すことで満足が得られ、自然とその反応を何度も、場合によっては永遠に繰り返すようになるのだ」
よって、その人のこうした最強脳内回路という意味での才能によって発想されたパラダイム転換は、その人ならではの独自性と永続性をもった正しいものであることは、注目すべきでしょう。その人がある組織に属するとして、そのパラダイム転換が、組織のどの程度の範囲に及ぶもので、どの程度の人員で対応すべきかという問題の大小、優先順位などは適宜に判断されなければならないが、その人が組織の構成員である限り重要であることには変わり有りません。けっして無視したり一笑にふすべきものではありません。
さらに、独創性とは、そこに居合わせた人のそうした発想の組み合わせによって生じるとすれば、より有効で広い範囲におよぶ優先すべき改革策にもなりうると考えるべきでしょう。