私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その3=<メッセージング>と<ルーミング> |
<メッセージング>と<ルーミング>そしてコミュニケーションの「速い」「遅い」
著者エドワード・T・ホールは、家やオフィスの空間の構造に注意を払っています。
「家屋のタイプ(型)における文化的違いが、家族に与える影響は、多くの人が思っているより大きい」
とし、かつての日本の家族関係が非常に緊密であり、家族は同じ部屋に寝たものだが、アメリカ型の子供に個室をあてがう住宅が一般化して、人を思いやる訓練を受けないまま大人になるようになった、と指摘している。
また、別の本では、オフィスの様子について、
「地位の高い北ヨーロッパの重役は、一度に(社員)一人ずつ面会する。入手する情報の多くは、自分が一日に面談する数人と自分で読む本が源である。
これを地中海民族や日本人ビジネスマンのオフィスと比較してほしい。そこでは社員は絶えずお互いに接触し合い、共通の空間に働き、お互い相手のオフィスにせわしなく出入りし、電話がいつも鳴りっぱなしという状態である。誰もが事情に明るく、どんな話題で誰が一番情報通であるかを知っている」
と述べている。
この本が書かれたのが1980年代のはじめであり、21世紀はじめの0年代を終えた現在は、オフィスの状況はかつての日本型は遠に失われ、人間論的な北ヨーロッパ型を飛び越えて、一気に機械論的なアメリカ型になっているところも多く見受けられます。
そんな今から過去の日本を振り返れば、子供が親と同じ空間で暮らす家屋の型と、社員が重役や上司と同じ空間で働くオフィスの型の両方が、多少の時間差をともなってアメリカ型の個室化、分断化に向けて推移してきたことは明らかです。
このことは、グローバリズムが云々される以前から、日本の近代化過程の社会全体において<ポリクロニックな価値体系>が<モノクロニックな価値体系>にとって代わられてきたことを表しています。
こうした知見を踏まえて、私は以下のような
2つのコミュニケーションの型の分類を提唱してきました。
<メッセージング> <ルーミング>
●対象を見ることで理解 ●対象のつくる間に浸ることで理解
●知っているか知らないかが重要 ●いかに捉えいかに味わうかが重要
な知識(明示知) な知識(暗黙知)
●使用よりも所有することが重要 ●所有よりも使用することが重要
な自己顕示型商品 な自己発見型商品
情報発信型商品 自己実現型商品
●視覚と理性が直結する論理 ●五感と情念が織りなす詩心
による近代デザイン による古来からの意匠
●機械をつくるような機能主義建築 ●詩をつくるような象徴主義建築
人間の外側の物理的空間が主題 人間の内側の精神的空間が主題
●神の視座からの完全性を誇る ●人の内面の現象をたくむ
ピクチャーレスク庭園 回遊式庭園
水と緑はデザインエレメント 堀に桜、川に柳の名所原理
<メッセージング>は、
低コンテクストな(文脈依存性が低い)「速い」受発信情報が必要とされる
<モノクロニックな価値体系>にあります。
<ルーミング>は、
高コンテクストな(文脈依存性が高い)「遅い」受発信情報の蓄えがある
<ポリクロニックな価値体系>にあります。
「速い」「遅い」について、著者は以下のように比較対照した上で、
「遅いメッセージは実際には最も速いのかもしれない。
遅いメッセージは、その効果という点では、受け取る側の人間に既に蓄えられている情報に左右されるからである」
と述べています。
<速いメッセージ> <遅いメッセージ>
●見出し ●本
●宣伝 ●美術
●漫画 ●エッチング
●TVコマーシャル ●TVドキュメンタリー
●印刷 ●手書きの日本語
●速成で気楽な親交 ●ゆっくりで深い関係
著者の以上の例解は、ほとんどが<メッセージング>の中での対比ですが、
万人がすぐにメッセージを理解できることが「速い」ということ、
ただし、そのメッセージの内容は低コンテクスな(文脈依存性が低い)
メッセージの送り手が効率的に伝達しようとする限られた内容となる、
知識や感性や気づきなどの蓄積を踏まえて理解できることが「遅い」ということ、
ただし、そのメッセージの内容は高コンテクストな(文脈依存性が高い)
メッセージの受け手がそれぞれの受け入れ方で受け入れられる内容となる、
ということを言っています。
著者が「遅いメッセージは実際には最も速いのかもしれない」と言うのは、
メッセージを理解できる能力とメッセージを自分なりの受け入れ方で受け入れる受容性が受け手にある場合、受信される情報は質的に深く量的に多くかつ「速い」、
ということです。
メッセージを理解できる能力とメッセージを自分なりの受け入れ方で受け入れる受容性が受け手にない場合は、<速いメッセージ>の場合でも、見たり聞いたり読んだりは容易にできても、その意味するところは「遅い」どころか分からなかったり分かろうとしない。
対象を、メッセージの理解能力と受容性のある受け手とすれば、圧倒的に<遅いメッセージ>の方が「速い」し効果的ということになります。
以上のように著者は、<メッセージング>の中での<速いメッセージ>VS<遅いメッセージ>の対比を論じている訳ですが、
私が提唱する<メッセージング>VS<ルーミング>でもまったく同じ「速い」「遅い」の対比が成立しています。
それは基本的に「明示知」「形式知」VS「暗黙知」「身体知」の対比でもあります。
<窓>と<間>というコミュニケーション媒体とその現代的様相
私は、<メッセージング>VS<ルーミング>の対比を以下のように解説しています。
<メッセージング>の媒体は「窓」です。
窓は壁を穿つものですから、発信者と受信者の関係が壁で分断されていることを前提します。この分断を乗り越えて受発信というコミュニケーションが成立するには、ある種の集中と効率が求められます。
西欧の絵には額縁があり、演劇にはプロセニアムがあり、キリスト像にはアプスという窪みが必ずあるのは、発信者が受信者にここを見るのですよと暗黙裡に導いているということで、それらはすべて構造的に前述の意味での「窓」に他なりません。
絵や演劇や像を鑑賞するとは、「窓」を通して目でみて頭で理解することで成立します。
一方、<ルーミング>の媒体は「間」です。
間は注連縄や鳥居など大自然のある領域を印付きとする結界によって成立します。壁のような物理的な分け隔てではないことは、人間が、人間同士を自己と他者に分け隔てる以前に自然と共存すべきものとしての一体感の内にあったことを意味するのかも知れません。
建物においても敷居や縁などは、物理的には通通の空間を心理的に分け隔てる結界と同じ構造にあります。そして、日本画は額縁に飾らず床の間にかけたり屏風や襖に描き、能や歌舞伎は客席と一体化するせり出した舞台や花道をもうけ、仏像は金堂の中央に端座させる。いずれもそこに居合わせる人々一同にある心理状態の場、つまり「間」を醸成する仕掛けです。
人々はこの「間」に浸り心と身体を同化させることこそを鑑賞の極地とします。それは目でみて頭で理解するだけでは至ることのできない境地とされます。
さて、以上のようなコミュニケーション論は、美術史の世界でのみ有効である訳ではありません。
たとえば、これから高齢化社会、多くの人が高齢の親御さんを心配なさり、安心したいあるいは何かの時はすぐに対応したいという需要が拡大しつつあります。
そうしたニーズに対応するものとして、
すでにある「遠隔監視カメラ」は<メッセージング>です。
しかし、どうでしょう。
かつて大家族で同居していた日本人は、自分の用事をしながら何とはなしに気配でおじいさんおばあさんの様子を把握し安堵していたのではないでしょうか。
この「気配で様子を把握して安堵する」のは<ルーミング>です。
そして、このような日本古来の生活文化を踏まえて<ルーミング>を前提とするならば、おじいさんおばあさんの様子を画像として直視する<メッセージング>の遠隔監視カメラとはまったく異なる仕掛けを発想できる筈です。
これは、文化力による「日本型の発想思考」の一例です。
(例解:◯プラズマ障子による「遠隔家族の同居感覚生活支援サービス」)
また、かつて堀江貴文氏が率いたライブドアがフジサンケイ・グループのラジオ局であるニッポン放送の株式を大量に取得するという騒動があった時(2005年)、その経営権問題をめぐって両者のラジオ番組づくりに対する考え方の違いがとても象徴的に浮上しました。
前者が、インターネットと連携する<モノクロニックなメッセージング>の事業戦略の主張をして、
後者の、街頭や深夜のリスナーと臨場感をもって一体化する<ポリクロニックなルーミング>の従来路線と対立しました。
両者のそもそも念頭に置いているパラダイム(考え方の基本的な枠組み)のギャップを捉えることができました。
当時、この対立はネットVSテレビの対立とも捉えられ、ハイテクVSローテク、ニューエコノミーVSオールドエコノミーの対立とも看做されました。
しかし、ことラジオ番組づくりに対する考え方については、
<モノクロニックなメッセージング>VS<ポリクロニックなルーミング>であり、
それはグローバリズムVSローカリズムの文化論的な対立だったと言えます。
これは本来、どちらの方が正しいとか生活者ニーズに叶っているとか二者択一すべき問題ではなありません。両方の生活文化ニーズがあるのであって、それらをいかにメディアミックスで捉えて行くか工夫していく時代になっていた、ということだと思います。
たとえば、毒蝮三太夫さんが街角のおばあちゃんをつかまえて「このババァ!」と言えるのはまさに、ある場に居合わせて面と向かってするコミュニケーションの<ポリクロニックなルーミング>です。
毒蝮さんといえどもネット上で「このババァ!」と書き込めばそれは<モノクロニックなメッセージング>として受けとめられて問題になるでしょう。
それと同じように、その一言一句が細切れに一人歩きして問題視された堀江モン氏の物言いは<モノクロニックなメッセージング>として受発信されていた、と言えましょう。
1980年代後半のバブル時代、日本のDCブランドが隆盛でした。
この時、ファッションのデザインだけでなくショップのデザインにもモノトーンを基調に日本らしさが現代的に表現されました。
そのデパートのインショップは、通路に向けてまったく遮蔽物のない通通のステージでした。
現在の高級ブランドのデパートのインショップが、壁で覆ってショーウィンドーを穿っていて、出入りは限られたドアからするのと対照的です。
前者が日本型の<ルーミング>で、
後者がヨーロッパ型の<メッセージング>です。
さらに、アメリカで発達した商品の大量陳列自体に生活世界を展示させるVMDという手法があります。
ユニクロがこれを徹底して展開していますが、これはアメリカ型の<メッセージング>と言えるでしょう。
ヨーロッパ型とアメリカ型の違いは、ヨーロッパ型は店構えにおいて壁で囲ってショーウィンドーを重視するとともに、「ディスプレイ」と言ってたとえばマネキンに商品を着せるなど生活世界を展示しますが、アメリカ型は「VMD」と言って商品そのものの大量陳列で商品世界として表現します。生活世界は入店した顧客自身が脳裡で構築するということになります。
バブル時代の日本のDCブランドショップは、とても大胆にスッキリしたステージ的な売り場に数少ない商品陳列するのが特徴でした。しかしそれでも売れ行きはよく商品は高回転していました。
それは好景気ゆえの高い購買意欲のためだけではありません。高回転は、入店者当たりの購入客比率が高いことと、購入客当たりの購入品数が多かったことが理由でした。今のデパートの高級ブランドのインショップが、冷やかしの客も多く、一品購入客がほとんどであることと対照的です。
では、なぜこのような購買客比率と購入品数の高い集客が可能だったのでしょうか。
2つの心理的要因が作用していました。
1つは、「僕はイッセー、わたしはコムデギャルソン」といった具合いに、顧客が言わば「部族化」していたことです。部族の一員であろうとしたファンは、そのブランドというトーテムばかりを集中的に買うことでマニアックなトーテム崇拝者になっていきました。購買能力があっても他の部族のテリトリーには入らない訳です。
いま1つは、こうした特定の部族だけを効率的に誘い込み、足を踏み入れた以上は儀式を終えなければ退出できないような仕掛けが機能したことです。これには「ハウスマヌカン」と呼ばれた巫女さんみたいな存在が活躍しました。そして顧客が部族の一員として巫女さんとやりとりする光景がデパートの通路を行き交う人々から見られた、あるいは見られているような高揚感をもった。買わないで退出するのは「罰が当たる」ような心理的抵抗を感じさせる。これに通路から通通のステージ的なショップデザインが効果したのでした。
バブル時代のリード顧客は、みんなと同じ横並びにこだわる「団塊の世代」とは対照的に自分流にこだわる「ポスト団塊世代」でした。
彼らの消費性向は、21世紀初頭の現在、彼らの子供である「ポスト団塊ジュニア世代」に継承されています。それが、現在の渋谷や原宿のカワイイ系の様々なファッションの乱立する109的様相や裏原宿的様相に反映しているのです。親の時代にデパートのインショップがステージになったのに対して、子供の時代はビルの回遊空間や街の裏道がステージになっていて、さまざまなファッション部族が行き交っている、と解釈できます。
ファッションをめぐる顧客とショップそして顧客同士のコミュニケーションの構造論は、けっして懐かしむべき昔話ではなく、形をかえて息づいているのです。
たとえば、ユニクロやナイキは、アメリカ型の<メッセージング>の「VMD」を基調としますが、それを機能的な倉庫のように空間化しているだけでは、その店舗空間の魅力で人々を引き込むことはできません。
世界的人気デザイナー、片山正通氏をユニクロのニューヨーク店やナイキの原宿店が採用したのは、彼の店舗空間がステージ的な劇場性を重視した日本型の<ルーミング>だからと言えます。それが外国人には新鮮なユニークな空間体験を提供し、日本人には無自覚的に慣れ親しみを感じさせます。
具体的には、物理的には通通で周囲から見られるステージ状なので、部族としての自負と誇りのある心理状態のお客しか入りにくいという結界を、厳格に感性統一したショップデザインによって成立させている、ということです。
(↓片山正通デザイン「NOWHERE」原宿1998年)
一方、銀座や新宿のデパート一階に出店している世界ブランドの直営店は真逆です。
金があればどんな格好のどんな心構えの誰でも同じように入って買える、買わなくても心理的抵抗がない。ただお客は買いたい商品があればお金を払って買い、なけらば買わずに出て来るだけで、そこには売り手と買い手の関係性による「コンテクストの低い物語」しかありません。ブランドをトーテムとして崇拝する巫女と信者の関係性による「コンテクストの高い物語」はありません。
男性アパレルの世界ブランドも直営店、デパートのインショップともに、バブル崩壊以降ずうっと同じ傾向にありました。新宿伊勢丹がニューヨークのバーニーズをヨーロッパ型の店構えのビルで展開したのもその延長に位置づけられます。
しかし新宿伊勢丹が新生メンズ館において打ち出し成功したのは、それまでとは違う売場デザインでした。
売場デザインは、
通路から通通の売り場がステージ的に見える点で<ルーミング>、
しかし売り場内は商品陳列量をVMDで確保する<メッセージング>
という考え抜かれた合わせ技になっています。
リモデル当初、新宿二丁目系の高感度なゲイのお客さまの人気を得たことから、売り場にはイケメンの体育会系店員をそろえたという噂がありましたが、彼らは巫女ならぬ行者だったのでしょうか。
いずれにせよ、店舗空間が売り場の内外でもお互いに視線を交わすステージ状であるために、買い手にしてみれば買い手同士の見合いの関係の上に売り手との対話の関係が成り立つ訳で、そこには不可避的に「コンテクストの高い物語」が前面に出てきます。
私たち日本人は、日頃当たり前のように体験している店舗空間に、外国人からすればユニークである構造的特性があることを見落としています。
本論では、ステージ状の店舗空間を取り上げましたが、たとえばもっとタンジュンな典型例を上げればデパ地下です。
日本のデパ地下の食品売り場の劇場性には、浅草の仲店のような門前町的な、そして祭り夜店屋台の参道的な構造的特性を捉えることができます。
私たち日本人は、慣れ親しんださまざまな日常生活の体験時空を構造的に捉え直すことにより、その構造的特性を踏まえたさまざまな現代的な「日本型」の時空を「文化力で発想する」ことができるのです。