江戸時代、武士以外にも共有された「武士的な心性」(3) |
日本人にパラダイム転換発想あり
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2017年 04月 23日
前項(1)で、 ◯ 町人が武士を尊敬し有志が自らの信条にも取り入れたのは、「武士道」そのものではなく、武士本来の役割を一途に全うする「武士的な心性」だった それであれば、商人も職人も農民もその本来の役割を全うする一途さにおいて「武士的な心性」を我が信条とすることができる ということを確認した。 前項(2)で、 ◯最も重要な条件は、 「世のため人のために役立つ、身分本来の役割」という武士本来の理想的な役割を全うする信条であること ここで「世」とは言葉の正確な意味での「社会」であって、自分の帰属する「世間」ではない ということを確認した。 そして、 ◯「武士的な心性」はいかにして庶民一般有志に普及浸透したか、というと、 農工商身分の有志が、実際に見聞きした武士の理想的な実践から「武士的な心性」を感じ取った ということを確認した。本項(3)では、 「武士的な心性」の主要成分をさらに別の角度から検討していきたい。 「武士」絡みの慣用句やことわざが継承してきた「武士的な心性」 非武士身分の農工商も、そして現代人の私たちも共有している共通概念を示すのは、「武士」を含んだことわざや慣用句である。 ●「武士に二言はない」 武士は信義と面目を重んじるから、一度口にした言葉を取り消したり、約束を破るようなことはしないの意。 中国語の「君子无戏言」(jūn zǐ wú xì yán)に重なるが若干ニュアンスが異なる。昔は「君子说话从不开玩笑」と言った。つまり、君子は戯言を言わない、常に冗談を言わないの意。 一方、「武士に二言はない」の用法は、一大事についての言明に添えるのが一般的で、翻意しないことを強調する。時々、武士ではないのにこの用法で言う人がいる。 ●「花は桜木、人は武士」 花では桜の花が最も美しく、人はぱっと咲いてぱっと散る桜のように、死に際に潔く美しい武士が最もすぐれているという意。 何かに殉じる潔さを尊重する武士の死生観が背景にある。 思想的には、江戸中期に肥前国佐賀鍋島藩士、山本常朝が口術し、同藩士田代陣基(つらもと)が筆録した「葉隠」の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という武士としての心得と関係する。いかに死ぬかとは、いかに生きるかでもある。新渡戸稲造は、正しい生き方があるように、正しい死に方がある。もし死なねばならない時に誇りを捨てて不正義の中に生きることを武士は選ばない。いつでも死ねる勇気を持つことは、武士が正義の中で生きる事を保証するという主旨を述べている。吉田松陰が高杉晋作に手紙で伝えた言葉、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」にも通じる。 農工商身分や現代人に置き換えれば、「世のため人のため」に社会貢献する本来の役割を全うする生き方と死に方が潔く美しい。それを裏切ったり貶めてまで役割にしがみついたり保身したりするのは潔くも美しくもないということになる。 ●「武士は食わねど高楊枝」 たとえ貧しい境遇にあっても、貧しさを表に出さず気位を高く持って生きるべきだという意。 ネガティブな意味合いとしては、やせ我慢のたとえ。 空腹でも満腹のふりをするということから浪人がイメージされる。 これに対して、禄を食む武士をイメージさせる同意のことわざが「一合取っても武士は武士」である。 どんなに貧しくとも、武士には武士の誇りがある。禄高はたとえ微々たる一合であろうと武士は武士であり、武士の誇りや気位の高さをもつべしの意。 農工商身分や現代人に置き換えれば、「世のため人のため」に社会貢献する本来の役割を全うするプロフェッショナルとしての矜持に通じる。プロフェッショナルとしての矜持を持つ者は、たとえ収入が少なかろうと無名だろうと、自分の仕事に誇りと気概をもって臨みそれを貫くべしということになる。ただ、江戸時代の士農工商という身分がほとんどの人にとって一生物だったことから、現代人の場合はライフワークに関しての矜持と捉えるべきだろう。 ●「武士は相身互い」 「相身互い」は「相身互い身」の略。 武士同士は同じ身分なのだから互いに助け合って協力し合わねばならないということから転じて、同じ境遇や身分にある者は互いに助け合う気持ちが大事だということ。 江戸時代の御家人や藩士も常にリストラ圧力にさらされ実際にリストラが敢行されもした。しかし、現代日本の企業社会のように短絡的に希望退職者を募ったり肩叩きや追い出し部屋で陰湿に人減らしに走ることはなかった。現代で言うところのワークシェアリングをして、出仕を半分にし俸禄も半分にして副業をさせることで可能な限り人員削減を抑制した。そして、武士の中でもそのような具体的に同じ就労環境におかれた同身分同士が、互いに助け合って協力し合った。 一方、農工商身分の一般庶民が限界的な就労環境に遭遇した場合、背に腹は代えられないとの思いから足の引っ張り合いが自然発生しがちである。彼らにはそれを戒める武士道のような規範が無かったためである。水争いや買い占めなどもっぱら領主や町奉行といった武士によって調停や取締りが行われた。しかし農工商身分のリーダー的な顔役たちが輪番制や自粛などの穏健な共生モデルを展開することもあった。そんな顔役たちの中には私利をおいて公益を摸索する「武士的な心性」を発揮する者もいた。 現代日本のブラック企業の職場では、ホワイト企業に就職できなかった社会的弱者が、自分より弱い立場の社内的弱者を追い込む形で足の引っ張り合いが展開している。もしそういう現場で、職場を理想的な共生モデルに改善しようと試み続ける挑戦者がいたならば、それが会社と職場の反感と抵抗を買う大変なことだけに、私たちは「武士的な心性」の発揮を見ない訳にはいかない。そして実際にそのような「武士的な心性」の純粋な体現を、私たちはブラック企業の不条理と戦っているユニオン(合同組合)の有志に認めることができる。 こうした強者が弱い者イジメをしている状況との格闘について、「強きを挫き弱きを助く」という言葉が使われる。 この語源は、明治9年上演の歌舞伎の舞台台詞と言われる。 「総じて武道の極意と申すは、弱きを助けその強きを挫き、今目前の利を得ずとも」(河竹黙阿弥「川中島東都錦絵-二幕」) つまり、「強きをくじき弱きを助ける」という慣用句には「武士」という言葉は入っていないが、武士道の極意を心有る士農工商の庶民有志も持とうじゃないかという心意気、「武士的な心性」が息づいている。 大塩平八郎〜大岡忠相〜遠山景元に町人がとらえた「武士的な心性」の純粋な体現 繰り返すが、本論シリーズで論じているのは「武士の心性」ではない。 「武士の心性」であれば、清和源氏や桓武平氏の軍事貴族から、鎌倉幕府の御家人になった坂東武者、戦国時代の戦国武将、江戸の幕臣・藩士までの武士を個別具体的に検討し、変化なり一貫性なりを検討しなければならない。 だが、本論シリーズで論じているのは「武士的な心性」なのである。 それは農工商身分でも現代人でも有志であれば具体的に担うことも実践することもできるという前提のものである。 この前提を踏まえる限り、前項(2)で検討したような農工商身分から様々に武士身分になる者がいて、武士の理想と現実についてほぼ統一的な理解が農工商身分にも普及浸透していた幕藩体制の武士が主題となる。 そしてその社会状況として重要なのは、江戸時代のメディア状況である。 江戸時代の庶民の見聞きは、自分の目で見るか、人の噂で耳にするかが大半を占めた。これに、瓦版などの出版物で事の顛末を読んだり、歌舞伎などで演じられる物語や童歌で歌われる歌詞による見聞きが加わる。 そうした中でたとえば、天保の大飢饉による民衆の窮状に際して、大坂で民衆とともに蜂起した大塩平八郎(大坂東町奉行与力を辞めて私塾「洗心洞」で陽明学を教えていた)や、老中水野忠邦の天保の改革の行き過ぎから町人の暮らしを守るべく手を尽くした江戸南町奉行の遠山景元など、その功績が直接に町人の暮らしを左右した逸話から「武士的な心性」は町人に容易に受けとめられた。 大塩平八郎は、奉行所時代、正義漢として不正を次々を暴いてその辣腕ぶりは大坂町人の尊敬を集めた。腐敗した奉行所内では平八郎を憎む者が少なからずいたが、上司の東町奉行高井実徳の応援があって活躍できたという。平八郎の功績、腐敗役人の糾弾と破戒僧の摘発は、京都町奉行所や奈良奉行所、堺奉行所などの上方の諸役所にも波及したから、近畿地方の町人にその「武士的な心性」がよく知られた筈である。 天保の大飢饉による窮状は、天保4年から5年にかけてと、天保7年から8年にかけての二度のピークがあった。 前者では、大坂西町奉行が平八郎を顧問のごとく遇し、その配下に経済専門家も揃っていたので無事に切り抜けた。しかし後者では、前述の西町奉行が勘定奉行に栄転し、大坂東町奉行跡部良弼が幕府への機嫌取りのために大坂から江戸に廻米しかつ豪商が米を買い占めたために米価が高騰。平八郎は、町民の窮状を解消すべく献策するがまったく聞き入れられなかった。跡部の江戸への廻米政策のために京の都に餓死者が溢れ流民が大坂に流れ込みその治安が悪化する。平八郎は私財を投げうって救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち豪商を焼き討ちする以外に根本的な解決は望めないと考える。ここに至って、陽明学者でもあった平八郎は、朝廷への忠を念頭に主君たる幕府への諫言を行う意図を明らかにする檄文をしたため、門人らとともに蜂起する。 蜂起は失敗に終わり平八郎は養子の格之助とともに自決する。 大坂町人が、私を顧みず死を恐れず「世のため人のため」に町奉行与力本来の役割を全うした平八郎に、「武士的な心性」の純粋な体現をみとめたのは間違いない。 この乱で焼け出された町人も数多くいたにもかかわらず、誰も平八郎を責める者はおらず『大塩様』と呼んで賞賛したという。 乱の影響は広がり、平八郎に共鳴した者たちの一揆がしばらくの間、全国に広がった。 これは「強きを挫き弱きを助く」「武士的な心性」に感化された庶民一般有志たちの拡散と言えよう。 平八郎は役職を養子に譲って辞して学者身分として乱を行った訳だが、奉行所時代から一貫した陽明学の基本精神である「知行合一」、良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではないの実践者だった。 朱子学にのっとり幕府の意向を忖度するだけの御用学者たちとは一線を画していることは、士農工商の庶民全般の誰の目にも明らかだった。 一方、町人の見聞きの内の噂の伝聞については、いわゆる尾ヒレがついたまことしやかな風評が定着する場合もあった。 たとえば現代に「大岡裁き」として伝えられる政談の多くは、南町奉行の大岡忠相ではなく関東郡代や同僚の北町奉行の裁定だったり、忠相没後の事件も含まれているという。 さらには、有名な一人の子供を奪い合う二人の母親の調停物語については、旧約聖書にあるソロモン王の裁判物語が北宋の名判官包拯の故事になりそれが日本に翻訳された説や、イエズス会の宣教師が豊後でソロモン裁判劇を行った記録がありそれに由来する説もある。 唯一の信ずるに足る伝記資料である「大岡忠相日記」は、公人としての忠相の職務記録であって、行政官僚としての町奉行を活写しているがその内容は『大岡政談』とほとんど関係がない。 しかし、さまざまな物語において「大岡越前」は庶民の味方、正義の武士として登場する。それは、江戸町人に賞賛された町火消し制度の創設や小石川養生所の設置などの事実を踏まえて、「政治家はかくあるべし」という江戸町人の願望が仮託されて『大岡政談』に結晶されたと考えられている。 しかし私は、『大岡政談』に象徴された江戸町人の「政治家はかくあるべし」の願望こそが、「武士的な心性」の純粋な体現であったと考える。 無論、町人は町奉行のような裁きをすることはない。しかし、農工商の庶民でもその生業の柵において「大岡裁き」のような公正で巧みな調停が求められることは多々ある。江戸町人が「リーダーたる者はかくあるべし」というモデルを「大岡裁き」に認めたとして自然である。 現代でも名奉行としての人気を「大岡越前」と二分するのが「遠山の金さん」こと遠山景元である。紆余曲折あってただ一人、北町南町の両奉行になっている。 老中水野忠邦が推し進めた天保の改革は、将軍徳川家慶が享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じる形で開始された。これに対して、景元は同僚の町奉行矢部定謙とともに厳格な統制に対して上申書を提出して見直しを進言する。 景元の江戸町人に対する直接的な動きとしては、天保の改革の実施にあたって代表を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令していて、風俗取締りの町触れを出したり、寄席の削減を一応実行するなど、当初は水野の方針の大枠に従っていた。しかし、町人の生活と利益を脅かす極端な法令の実施には、矢部定謙とともに反対し、老中水野忠邦や目付けの鳥居耀蔵と対立する。 ここから幕閣の政争が始まるがその正確な詳細は大方の江戸町人の知るものとはならなかったと考えられる。現代の私たちがテレビ時代劇で「大岡裁き」は知っていても幕閣の内部事情など知らないし関心もないのと、大方の江戸町人の見聞きや関心のあり様もさして変わらない。 ただ江戸町人の暮らしや仕事に関わる事態から、「遠山=正義、鳥居=悪逆」という受けとめ方が定着していった。 たとえば寄席の削減について、景元は女浄瑠璃を出している寄席のみの営業停止を伺うも、水野は寄席の全面撤廃を主張。景元は芸人の失業と日雇い人の娯楽が消える恐れから反対し、結果として寄席の一部を残して教育物の興業を許すことになった。 また、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。こうした景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛して『遠山の金さん』ものを上演したという。こうして評判が評判を呼んでいった。 景元は青年期に彫り物を入れるような放蕩をしていて、侠気の徒とも交わるなどして町人に対する理解や共感が深くあり、言わば「町人の庇護者」としての自負があったと思われる。 そうでなければ私を顧みず、将軍につぐ権力者である老中水野忠邦に逆らってまで、同僚矢部定謙を罷免改易に追い込んだ鳥居耀蔵と闘い続けることはなかったに違いない。 江戸町人によって上演され鑑賞された『遠山の金さん』ものはフィクションではあるが、景元によって救われた町人たちが遠山景元の行動に認めた正義感とそれを貫く意気地はリアルである。それを広く世間に知らしめるのに芝居は最適のメディアであり、『遠山の金さん』ものは最適のコンテンツだった。現代の歴史学者が古文書を分析してやっと知れるような幕閣内部の政争などは、町人が事細かに知ったところで、景元自身をブレずに突き動かしたその「武士的な心性」への理解と共感にはダイレクトには結びつかない。 私は、『遠山の金さん』ものも『大岡政談』と同様に、江戸町人の「政治家はかくあるべし」の願望の集中表現であってまさに「武士的な心性」の純粋な体現であったと考える。 「武士道」「ノブレス・オブリージュ」そして「軍刀」についての雑感 これは当時、特に旧大陸の貴族社会に憧憬を抱く保守的なアメリカ人の共感を得たようだ。 曰く、 「bushidoは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば『武士の掟』、すなわち武人階級の身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)である」 本論シリーズの用語法では、それは「武士の心性」ということになるが、内容的には、非武士身分も理想として共有する「武士的な心性」を含んでいる。 武士道の含蓄とは、武士という高い地位にある者が実行しなければならない、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義の徳目である。この徳が守れない時、その武士は周りから非難を受け、その地位を損なうことになるとした。 しかし、これは建前の理想であり、現実にはまったくそれにそぐわない本音による言動をする武士もいた。こうした理想と現実のギャップは騎士と騎士道においても同じだった。 16世紀頃、日本の戦国時代の頃の欧州では、兵器や鎧を独占した荘園領主などの支配層が、騎士道の行動規範とは逆の行動、つまりは裏切り、貪欲、略奪、強姦、残虐行為などを常としていた。だからこそ彼らの暴力を抑止するための倫理規範「騎士道」が、無私の勇気、優しさ、慈悲の心といった徳目で形成されたとも言われる。しかし通常の騎士であればそれを遵守することは難しく、だからこそ騎士道に従って行動する騎士は周囲から賞賛され、騎士もそれを栄誉と考えたという。 騎士が身分として成立し、次第に宮廷文化の影響を受けて洗練された行動規範を持つようになっていく。騎士として武勲を立てることや主君に忠節を尽くすことは当然だが、さらに弱者を保護すること、信仰を守ること、貴婦人への献身などが徳目とされて、騎士道が現在知られるような完成形に至った。 洋の東西を俯瞰的に比較すると、欧州における騎士の成立と騎士道の展開と、日本における武士身分の農工商からの分立と幕藩体制における武士道の制度化とは、時間的にも内容的にも大枠として重なり、部分的に異同を論じることができる。 日本でも戦国時代、生き残りをかけて裏切る戦国武将はいたし、戦国武将の配下のどこまでを武士と呼べるのか、はたまた主体的にか命令されて受動的にか判然としないが、武士たちが貪欲、略奪、強姦、残虐行為など行ったことは否定できない。 つまり「武士道」についても、「通常の武士であればそれを遵守することは難しく、だからこそ武士道に従って行動する武士は周囲から賞賛され、武士もそれを栄誉と考えた」と「騎士道」と同じことが言える。 日本の場合、秀吉の刀狩りによって農民が武装解除されて兵農分離し、武装が武士の特権となって武士身分が農工商から分立。そして幕藩体制において、旗本や御家人や藩士といった武士が世襲制の役人や行政官になった。 ここで、欧州の騎士が宮廷文化の影響を受けて「貴族」化していったのに対して、徳川将軍家はその祖である源氏の鎌倉幕府に倣ったのか公家社会に対峙して、幕藩体制の武家社会が「貴族」化することはなかった。 行動規範の洗練化は、もっぱら武家社会内部における階級秩序とそれに伴う儀礼を精緻化することで展開していった。 ざっくりとした洋の東西の俯瞰的比較を時代を下って続けると、さらにこういう展開の重なりと異同を指摘できる。 欧州では産業革命を経て資本家階級、ブルジョアジーが台頭する。その市場社会における専横を抑制する形で彼らにも「ノブレス・オブリージュ」が課せられることになる。 この段階から「ノブレス・オブリージュ」が、今日でも一般的に通用している意味合い、つまりは、財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴う、それ相応の社会貢献や社会還元をすべし、になっていく。 日本では産業革命の成果を導入する明治新政府が成立する以前の江戸時代から、豪商や豪農といった資本家階級が市場社会で台頭していた。 しかし、彼らの欧州のような専横は武家政権の政策によって回避された。 その一方で、彼ら自身が主体的に「ノブレス・オブリージュ」を果たす傾向があった。これは豪商や富農に限ったことではない。江戸や大坂や京都の町人の富裕層の顔役がそれぞれ地元の祭りや公共事業に相応の寄付をしたり貢献をする慣行があった。 その起源を遡れば、古代の神社を拠点とした「信仰共同体」の構成員がそれぞれの生業において神社の祭祀や建て替えに貢献したことに求められよう。 高貴な身分や階級に伴う義務「ノブレス・オブリージュ」だが、大別して2系統ある。 1つは、同じ身分や階級の者同士として果たさねばならない義務 いま1つは、自分よりも下の身分や階級といった弱い立場にある者に対して果たさねばならない義務 である。 そして、 武士ではない農工商の一般庶民や私たち現代人もが理想として共有しうる「武士的な心性」で問われる行動規範の「ノブレス・オブリージュ」は後者の義務である。 なぜなら、農民や商人、さらには現代の一般市民には、それぞれに同じ身分や立場の者同士が交流する際に守らなければならない前者の義務があり、それをわざわざ高貴な身分や階級からもってくる必要がないからだ。 典型的な例を上げれば、服装や立ち振る舞いである。武士であれば武士としての品格を保った相応の服装や立ち振る舞いをしなければならない。それは武士同士のマナーであると同時に武士全体が非武士身分に対する優位を堅持するための前者の義務である。しかしそのような義務は農民の名主や商人の大店主にもあった。 そもそも「ノブレス・オブリージュ」の原初形態は、洋の東西を問わず、領主が武力によって領民の安全を保障することだった。 領民はその見返りに税を納めたから、それは双務的な義務であった。 領主と領民は運命共同体を構成し、他国との戦争に領民の男が兵士として駆り出されたり志願することもあった。 日本の場合、戦国時代の途中まで合戦は農閑期に限られた。兵農分離していない兵が繁忙期に参戦できないためだ。それが、兵を言わば常勤サラリーマン化する常備軍となり、常に練兵していつでも戦争できるようになる。その常備軍の最下層の兵士が足軽(幕藩では徒:かち)であり、そこまでが領主とともに領民の安全保障を担う武士階級となった。 ところが幕藩体制になると、大名同士の合戦は禁じられ太平の世になり、領主が武力によって領民の安全を保障する必要がなくなる。しかし幕府も藩も建前的に臨戦体制にある軍事組織の体系を温存した。 その上で、武士を役人化して民政に専従させたり、行政官化して公共工事を構想推進させた。 結果的に、他国と戦った軍隊を主君を守るガードマン組織にリストラし、民政部門では少数精鋭化した行政官によって大規模な治水利水や城下町建設を構想推進していく。 ここで、 日本の武士の「ノブレス・オブリージュ」は、 武力による領民の安全保障から、 インフラ整備によって庶民全体の生活や商売を下支えする行政サービスになった と言える。 無論、これも庶民が年貢や上納金を納めることに対応する幕藩側=武士側の双務的な義務である。 しかし、この変化は質的な大転換であった。 武力による領民の安全保障は、いざという時に矢面に立って戦う武士が命をかけるために、その代償として領民が年貢を納めることは「贈与」経済だった。 片方だけが命がけなのだから命がけでない方に負い目感情があり、そこから負い目感情のやりとりが生じるからだ。それは年貢という物質的ないし金銭的な代償だけでは相殺されない。命がけで守ってくれる武士を領民が心底から高貴なものとして貴ぶことではじめて相殺されたのである。 ところがインフラ整備は、いくら大規模な治水利水や城下町建設だとしても現場は庶民の職能人が担う訳で武士が先頭きって命がけでやる訳ではない。つまりは幕藩が税収の一部を公共事業に支出して社会還元する「交換」経済に過ぎない。 近年、士農工商は身分制度ではなくて職能分担だったという考え方が強くなっている。 これも、 「贈与」経済であれば、貴ばれる上の身分とそれを貴ぶべき下の身分による身分制度が形成される のに対して、 「交換」経済であれば、富の再分配過程において、税を納める者、納められた税を使う者、その使い道で生業をする者、その使われた成果によって生業を発展させる者といった職能分担が形成される ということを踏まえれば同意できる。 さらに、こうした幕藩体制の様相が、幕末の黒船来航を契機とした維新を経て明治新政府の体制になって大きく変化する。 黒船の来航は、日本人全体に挙国一致による日本全体の安全保障の必要を直感させた。 これは社会心理学的に大きなインパクトとなった。 武士が命がけで領民を守ることが期待され、また武士もそれに応えようという気運が高まった。それは非武士身分(農工商と公家や天皇)が武士身分に負い目感情を抱く「贈与」経済の復活だったからだ。 ところが幕府は、領民を守る「攘夷」ではなく「開国」を進めた。これに反対した武士は、倒幕派だけでなく佐幕派にも多かったと考えられる。建前はともかくも本音では経済至上主義化した「贈与」経済の<世間>において、失墜していた武士の<分際>を「贈与」経済の<世間>においてまさに起死回生するチャンスを、みすみす棒に振ることになるからである。倒幕派は、「尊王」を公家と尊王派の武士に向けた建前として掲げて、「攘夷」で、外敵から守ってほしいという万人の求めとそれに応えることで言わば誇りを取り戻したいとする武士の本音をつかんだのだと思う。 ここで日本の歴史は、尊王攘夷を叫ぶ倒幕派が幕府に大政奉還させる→すると「攘夷」を撤回して「開国」に転じて明治新政府を樹立し富国強兵を進める、と展開する。富国強兵は、殖産興業と軍事力強化と国民皆兵によった。 この過程で、攘夷と倒幕のキーワードだった「尊王」は、挙国一致と四民平等のキーワードにシフトする。 廃藩置県によって日本全体が天皇が支配する大日本帝国に再編された。それを正当化したのは「尊王」である。 庶民である士農工商の身分を平等としたが、それは皇族を最上位の階級として、公家を特権階級とすることでもあった。公家に重ねる形で維新の功労者に爵位を与えて近代日本型の「貴族」とした。この天皇を頂点とするピラミッドを成立させたのも「尊王」である。 そこには絶妙なバランス感覚があった。 「攘夷」を撤回して「開国」に転じれば「贈与」経済の<世間>が解消するが、すかさず「神道」の全国津々浦々に展開する神社を媒介とした神とする自然風土と共同体の「贈与」経済の<世間>を天皇に直結する国家神道化を図るのである。 一方、「開国」を一気に殖産興業と軍事力強化に進ませて「交換」経済の公共事業を近代化させた。 そして、この両者を、天皇の赤子が各家から徴兵されて皇軍を形成し、天皇に賜った近代兵器に乗り込んだり軍需装備品に身を固めて出兵する国民皆兵が連絡する。 これによって、天皇と臣民の間に負い目感情のやりとりである「贈与」経済が展開する土壌が復活した。 「贈与」経済の文脈において、貴ばれる上の身分とそれを貴ぶべき下の身分による身分制度が形成されたのである。 身分制度とは、貴ぶべき者を貴ばなければまともに暮らしていけない社会が前提になる。 幕藩体制では、将軍が偉い、藩主が偉い、都にいるらしい帝はもっと偉いらしいと知ってはいても、特段、貴ばなくても暮らしていけた。つまり、江戸町人は将軍に負い目感情をもたないから、自分自身や自分たちに将軍を貴ぶべしと強制することがなかった。 現代の法律用語で言えば、将軍を貴ぼうと貴ぶまいと許される「内心の自由」が有ったのである。噛み砕いて言えば、将軍を愚弄することを公言すればお上に罰せられるが、内心愚弄していてもお上が罰することはない。周囲の者も仲間内で将軍を愚弄することを許し合うどころか楽しみあった。 ところが、天皇制の帝国主義体制が整っていくと、天皇を敬わないことが「不敬罪」となった。 (戦後世代は、昭和天皇や今上天皇をテレビに見てその言動から人となりにも触れている。そして自然と人として天皇を敬い慕うことができる。 しかし、戦前世代は、終戦の詔勅がラジオで報じられた「玉音放送」を聴くまで誰も天皇の声を聞いたことがなかった。各家庭で、天皇の肖像写真や肖像画である「御真影」を額に飾ってご尊顔を敬うという慣行だけが行われた。天皇は「現人神」とされたから、どのような人となりなのかと想像することすら不敬であった。 戦後の天皇が自己の神格を否定したいわゆる「人間宣言」を踏まえる象徴天皇制の今日からは、想像できない神格化された天皇に対する国民の崇拝があったことを念頭においてほしい。) 現代の法律用語で言えば、天皇を貴ぼうと貴ぶまいと許される「内心の自由」が無いのである。 天皇を愚弄することを公言すれば当局に罰せられるのは当然で、このことの効果はもっと広範に及ぶ。 たとえば、天皇を貴ぶ者がみなでしている行為を誰かがしないとする。するとそれは天皇を貴んでいないからではないかという嫌疑がかかる。当局によって任意の呼び出しをされたり容疑者として逮捕されたりする可能性が生じる。それだけではない。周囲の者が嫌疑をかけて、こんな不敬の輩がいますよ、と当局に密告する可能性も出てくる。当局が司法取引で密告を奨励すれば、一気に密告社会になる。 さらに、最終的に天皇の裁可によって決定した政策や、天皇が最高指揮官である軍隊を批判することが、天皇を貴んでないと看做されるようになる。すると、政権や体制を批判する言動の一切を国民が自粛するようになる。 これは仮説ではない。 明治の45年、大正の14年、昭和の最初の20年、合計80年足らずの間に着々と進んだ日本の現実である。 最終的に軍国主義の全体主義体制になると、軍隊では、徴兵された兵卒が上官に「上官の命令は天皇陛下の命令である」と公言された。少しでも不服そうな顔をした者は即座に鉄拳制裁された。 大統領を最高指揮官とするアメリカ軍や、ヒトラー総統を最高指揮官としたドイツ軍でも軍隊では命令系統は絶対であり、上官の命令に部下が従わなければ軍法会議にかけられた。しかし、「上官の命令は天皇陛下の命令である」と上官が公言して部下を鉄拳制裁するのは、法的根拠を欠落している。 また、冷静に日本人の情緒に照らしても、いちいち勝手にダシにされた天皇陛下もいい迷惑で、こちらの方が不敬ですらある。 しかし、客観合理性を欠いた不条理までが、身内の内向きな主観の共有やその強制によって正当化されるのが「身分制度」というものなのである。 天皇陛下に1ミリでも近い上官が1ミリでも遠い部下に対して、軍務だけでなくすべてにおいて絶対上位なのである。 白色人種ならばどんなに最悪な人間でも、有色人種のどんなに素晴らしい人間よりも絶対上位とする人種差別と同じ短絡なのである。 男性ならばどんなに最悪な人間でも、女性のどんなに素晴らしい人間よりも絶対上位とする男尊女卑と同じ短絡なのである。 「身分制度」とは、何らかの差別を身内だけで内向きに正当化する制度と言えよう。 これが、そのような差別を受け入れて共有する者しか身内と看做さない排外主義でもあることは言うまでもない。 このように考えてくると、 「贈与」経済の文脈で差別を正当化する身分制度は、 これまで一般的に考えられていたように江戸時代当初に士農工商として形成されたのではなくて、 明治時代当初に天皇〜貴族(特権階級)〜平等市民として形成されたと言える。 そして昭和20年の敗戦まで、強い立場の者が天皇の名を持ち出したり帝国の威光をかさにきて弱い立場の者を虐げるといった、まったくもって天皇陛下が臣民に望まない事態が、そこかしこの日本人同士の間で、さらには植民地化した現地人に対して展開するようになっていった。 これは、江戸時代の国学者が打ち出した「尊王」の本質を損なっていく過程だったと言えよう。 明治新政府のスタート時の話に戻ろう。 天皇と臣民の間の負い目感情のやりとりである「贈与」経済の関係を、より直接的でより強靭なものとするために、王政復古と廃仏毀釈が行われた。 自然や風土を神とする神道は、神と人間との「贈与」経済に他ならない。 自然や風土という神は、人間に恵みをくれる。これに対して人間は負い目感情を抱く。供物や生贄を捧げて返礼することで負い目感情を相殺する。洪水や旱魃や地震といった天災に見舞われるのはそれを怠ったためと自戒して神を畏れた。 これは、石器時代の人類が普遍的に抱いていた<部族人的な心性>である。日本人は、<部族人的な心性>をベースに温存しながら<社会人的な心性>を形成してきた。その素朴で根強い側面は常に<部族人的な心性>に由来する。八百万の神を敬い、自然と調和して暮らし、自然素材を活かした人工物にも魂が宿ると考えて大切にするといった素朴な感情を総合的に保ってきたのは、人類普遍の<部族人的な心性>の日本列島の自然や風土を踏まえた展開である。 明治新政府の喫緊の課題は、幕藩体制で培われた<社会人的な心性>をリセットして、天皇制の近代国家にふさわしい新しい<社会人的な心性>を挙国一致で共有させることだった。 それは、仏教や儒教に由来する<社会人的な心性>を排除して、日本人の最大公約数のベースである<部族人的な心性>から<社会人的な心性>を立ち上げ直す作業となる。 ここで「尊王」と「神ながらの道」が鍵になるが、それは江戸時代の国学者が準備していた路線であった。 王政復古とは、天皇を天孫の末裔としてその権威を正当化した古代の祭政一致、政教一致への回帰である。その「祭」=「教」を神道に一本化することで、天皇と臣民の間の「贈与」経済を単純で直接的な信仰関係に統合できる。それは宿命的に、中央集権の政治体制と一体化した中央制御型の「国家神道」に向かっていった。 中央と地方、都市と農村という対比において、日本全国の大方は後者である。 そして地方農村ほど、その<社会人的な心性>はベースである<部族人的な心性>が根強い。 時代によって政権体制が交代して中央都市の<社会人的な心性>は様変わりするが、地方農村のそれはあまり変わらない。 明治新政府の首脳たちをはじめ地方出身者ほどこのことをよく理解していた。挙国一致の国民皆兵を実現するには、地方農村の人心と共同体こそおさえなければならないことも理解していた(特に熟知していたのは、武士と庶民の混成部隊である奇兵隊を創設し活躍させた長州の出身者だった)。 地方農村の地元神社の祭りに地元共同体の構成員がさまざまに参加して、地方農村の共同体はゆるやかな「信仰共同体」としての側面をもってきた。中央制御型の「国家神道」は最終的にそのような全国の地元神社とその「信仰共同体」を中央集権的に統合していく。 富国強兵を主目的とする近代国家建設は、殖産興業と軍事力強化と国民皆兵を進め、その成果に応じるかのように帝国主義的な大陸進出を進めていった。 迫り来る列強から国を防衛するという明治当初の目的はすぐに達成され、攻撃は最大の防御なりという論理からか列強と同じに帝国主義で大陸進出するようになっていく。 ここで本論に戻る。 「武士道」や「武士的な心性」との関連で着目したいことがある。 私の父方の祖父は日清、日露の二つの戦争に参加し、亡父の兄二人は日露戦争で亡くなったと聞く。 日清戦争や日露戦争の頃までは、日本人の一般庶民は掛け値なしに「帝国をともに守った」という気持ちや「帝国によって守られている」という気持ちをもった。帝国を天皇が支配するものと額面通りに捉えた一般庶民は、現人神である天皇を敬い心底から感謝した。 それは、徴兵された一般庶民と上官である軍人との人間関係にも反映していた。白兵戦で戦死者を多く出すも彼らにはそれを自ら受け入れる覚悟があり、同じ覚悟の持ち主として一兵卒と上官軍人には信頼関係があった。一般軍人と大将や陸海軍大臣との間にも同じ信頼関係があった。 乃木希典陸軍大将が明治天皇の崩御の後を慕って殉死したことは国際的に著名だ。旅順攻囲戦の指揮を執って多大な犠牲を出した責任を痛感していたことが関係するとも言われる。トップがこのような人格高潔な大将であれば、配下の軍人も人格高潔たろうとし、徴兵されて白兵戦に参加した庶民兵士も心を同じくできたのだと思う。 このような軍隊の上下の人間関係には、明らかに負い目感情のやりとり、「贈与」経済が働いている。 言葉の正確な意味で、自らの人格や人間性が問われる本質的な負い目感情を相殺することに、関係者のそれぞれが心を砕いている。 象徴的には、上の立場の者が下の立場の者に犠牲を強いることについての負い目感情である。 部下に決死の突撃を命じる上官は、部下とともに先陣を切って出撃することによってしか、その負い目感情は払拭されない(このことは日本人の「義理」の本質が、主体的に相手と同じ者になろうとすることであることに重なる)。しかしそれを忍耐して指揮を完遂することも上官の責務である。そうしないと部下の犠牲が無駄にもなろう。しかしそれは理屈であり、感情は理屈では収まらない。乃木希典の殉死は果たせなかった負い目感情の相殺を果たすことでもあったのだと思う。 ところが、満州事変から後、太平洋戦争そして敗戦前夜の特に陸軍の上下の人間関係や、一般市民との人間関係は、必ずしも以前のような高潔で心の通い合うものではなくなっていく。 象徴的には、上の立場の者が下の立場の者に犠牲を強いることについて、負い目感情など毛ほども持たずに、ただ天皇の権威と軍の権力を振りかざして、自らの損得勘定だけで立ち回ることが横行した。畏れ多くも賢くも云々、上官の命令は天皇陛下の命令である、などなど軍人は建前論を声高に叫んであたかも「贈与」経済が働いているかのような体裁を装ったが、本音としては本人の損得勘定ばかりが働く「交換」経済だった。 それは具体的には、自分ないし自分たちだけの安全、面目、威張り、憂さ晴らし、満腹などのために、自分より弱い立場にある他者に危険、隷従、忍耐、空腹などを強いるものだった。 孔子は「己の欲せざる所は、人に施す勿れ」と言いそれを「恕」とした。「恕」は許すことである。軍人や兵隊が民間人や市民にしたのは、それとは逆の「不寛容」ばかりだった。 部下に決死の突撃を命じた指揮官が、自分は司令部に報告に行かねばならないと自分だけ逃げてしまう。 大本営の参謀が前線の兵卒を死駒のように捉えていて、自分の立てた作戦で多数の戦死者や餓死者を出しても何ら反省しない。 敗戦が決定的になった御前会議で、陸軍大臣と海軍大臣が自軍の面目を保ってばかりで先に敗戦を言い出せない。 沖縄では、婦女子が立てこもった洞窟に後からやって来た兵隊たちが接収するといって彼らを追い出したという。 こうしたことは、言葉の正確な意味で、自らの人格や人間性が問われる本質的な負い目感情を抱いているとは言えない。よって彼らは少しもその相殺に心を砕いていない。あたかも人間性を消去した機械のように杓子定規に振る舞って威張っていた。 負い目感情とは、基本的には魂が感じる感情である。体面や面目や威張りといった、その場限りの瑣末な、他者や世間の目を意識した低い自尊心とは無縁である。 結局、大勢がああせいこうせいと偉そうに言っていた戦前を後から振り返ると、まったく空しい話である。 そもそも誰が責任者となって始めたか分からない戦争であって、誰も終わらせることができず、けっきょく天皇陛下が終戦の詔勅の玉音放送という超法規的な手段で収束させるしかなかった。 天皇陛下が直接に国民全員に語ったこの最後の行為だけは、天皇と臣民の間に猥雑が一切介在しない「贈与」経済だった。 有名なお言葉、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、とは負い目感情の臣民に対する発露に他ならない。 その前後の現代語訳はこうである。 「日本国民であって戦地で命を失った者、 職場で命を落とし、悔しくも天命をまっとうできなかった者、そしてその遺族のことを考えると、 心も体も引き裂かれんばかりの思いがする。戦争で傷つき、戦災被害にあって家や仕事を失った者たちの暮らしについても、非常に心配に思っている。 この後、日本が受けるであろう苦難は言うまでもなく尋常なものではないであろう。みなさん臣民の悔しい思いも、私はよくよくそれを分かっている。けれども 私は時代の運命の導きにそって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、これからもずっと続いていく未来のために、平和への扉を開きたい。 私はこうやって日本の国の形を守ることができたのだから忠誠心が高く善良な臣民の真心を信頼し、常にあなたがた臣民とともにある。」 軍国主義の全体主義の体制下で、「武士道」は日本軍人の精神と重ねられた。 そして「軍刀」が「武士道」の象徴とされた。軍刀は当初、西洋刀式=サーベルだった。 それが日本刀式に変更された。 精神論を唱える皇道派将校らの国粋主義と伝統回帰による。変更された1934年は、皇道派の重鎮、荒木貞夫が軍事参議官に就任している。 その翌1935年には吉川英治が「宮本武蔵」を朝日新聞に連載を開始。「宮本武蔵」は当時の日本社会に剣豪ブームを起こし、青年将校を中心に軍人一般に大きな影響を与えたと考えられる。 しかし、日本軍が日本刀式の軍刀に回帰したものの、相変わらず竹刀を使う「剣道」がもてはやされ、陸軍戸山流といった軍刀術は普及せず、多くの将校は日本刀を扱うことができなかったという。 また、官給軍刀は粗悪品が多く使い物にならなかった。人を切れずに破損して刀に責任転嫁されることが多く、「伝統的な日本刀ならば、故障せず何人でも斬れる」という神話を広める者も少なくなかった。そして「官給軍刀は役に立たないから」と、伝統的な日本刀を軍刀拵えにして使用するものが増えていった。 軍刀やサーベルの佩用は、下士官(士官と兵卒の間に介在する)以上に認められた。陸軍では伍長以上、海軍では二等兵曹以上で、士官候補生も許された。 そして例外として、「憲兵」については兵卒(上等兵以上しかいない)も佩用を許された。 ここで、「武士道」と「日本軍人の精神」をイコールで結ぶ象徴である軍刀が、軍隊内部である一線から上の身分を示す記号になっていたことが留意される。 軍刀は、下士官は官給品だったが、将校(士官)は自前調達だった。刀剣商や軍人相手の集会所であった偕行社の軍装品販売を通じて入手した。実家が裕福な将校の中には、伝家の宝刀を軍刀拵えに改造した者や、知人の上級士族出身者に刀箪笥から分けてもらう者がいた。 官給品は安価な量産型のアルミ製ながら強度と切れ味は十分だった一方、時代物の日本刀の軍刀拵えは切れ味や細身に化けていたり難点があったという。それでも将校には、実用よりも刀の由来や格式による象徴性を尊重する傾向があったということである。 軍刀は、出征時に家族や親戚知人から贈られるケースも多々あり、伝来の刀がない場合、在郷の予備役将校などを通じて軍刀を買ってもらった。そうまでして入手する言わば縁起物だったということである。 佩用は許されないものの所有そのものは、二等兵から認められていた。召集されて入営する際に伝家の名刀を持参する者も多かったという。帯剣は規則でできないから、入営と同時に私物袋に入れて隊で保管された。 しかしそれは平時の内地の場合で、外地に出征する際には、隊に預けた刀も私物として出征先に持って行き、戦地では規則が緩みまた前線では護身上の必要から帯刀および使用の例もあった。中国戦地の報道写真には兵卒が刀を背中に背負っている写真が珍しくないという。つまり、二等兵が軍刀拵えしていない日本刀を帯刀使用ということだから、それより上位の軍人にも同様の例はあったのだろう。 しかし、斬首刑など人を斬れるほどの実力を持った者は、陸軍戸山学校で開発された戸山流居合術を学ぶ機会があった者か、入隊以前に居合術の修行をした者に限られたという。 つまり、二等兵から将校までのほとんどは、軍刀を象徴として佩用し使用したことになる。指揮官は戦国武将の軍配のように軍刀を使って兵隊を指揮した、その象徴使いは実用に属すると言えよう。しかし、二等兵が背中に背負っていたのは誰に対して何を象徴したのだろうか。 下士官に支給された官給軍刀は使い物にならないという評判が流布しても、その向上が図られたという記録が見当たらない。軍部も軍刀の象徴使いを前提にしていたふしがある。 大陸で現地人に対応した軍人は軍刀をどのように使ったのか。 軍刀で白兵戦や斬首刑が行われたケースがあったのは事実である。 日露戦争(1904年〜1905年)当時、日露戦争の記録映画が上映されていて、魯迅はそれで中国人の馬賊の斬首刑を見たのをきっかけに医学留学生から文学に転向したと語っている。 (参照:魯迅と仙台留学 -魯迅の見た露探処刑「幻灯」に関する資料と解説- 一方、 「総じて武道の極意と申すは、弱きを助けその強きを挫き、今目前の利を得ずとも」 『武士の掟』、すなわち武人階級の身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ) といった「武士道」を象徴するような使い方をした話をとんと聞かない。 聞くのは真逆の蛮行証言ばかりである。 もともと軍刀による斬首刑は非効率な処刑方法であり、そもそも戦国時代の合戦でもノーマルな日本刀はほとんど使われなかったという。 軍部が知らなかった訳はないから、軍部は軍刀の象徴使いを前提とし、多くの軍人が象徴を携行すること自体が全軍の士気を高めるといった心理効果を期待したのかも知れない。 「武士道」を象徴する日本刀 「日本軍人の精神」を象徴する(日本刀式)軍刀 こうした概念を重ね合わせる軍刀を象徴使いし、象徴としての軍刀を携行した日本軍人は、果たして「武士道」の実践者だったのだろうか。 新渡戸稲造ならばいかに思うのだろうか。 私の論述の文脈からは、 戦地の軍隊で軍人たちに共有された「日本軍人、かくあるべし」は、 理想からほど遠い現実としての「武士の心性」であった そこに一般市民が理想として共有したい「武士的な心性」をみとめることはできない と言うしかない。 (4:間章) へつづく。
by cds190
| 2017-04-23 16:12
| ☆発想を促進する集団志向論
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