日本の企業社会の変質-----テスラより先行した「電池パック交換」案の否定に象徴されること(3/3:結論) |
日本人にパラダイム転換発想あり
カテゴリ
全体 コンセプト思考術速習10編 コ思考術を中国語で伝える! ☟大巾改訂を進行中☟ ★日本型の発想思考の特徴論 ☆発想を個性化する日本語論 ☆発想のリソース 日本文化論 ☆発想を促進する集団志向論 ☝大巾改訂を進行中☝ 「江戸の用語辞典」を読んで ◎発想ファシリテーション論 ☆日本型集団独創とパターン認識 私たちが無自覚でいる「日本型」 ■日本語論からの発想 ■日本文化論からの発想 ■コミュニケーション論発想 ■洞察論・発想論からの発想 ■脳科学からの発想 ■知識創造論からの発想 ■ユング系心理学から発想 ■交流分析心理学から発想 ■マズロー心理学からの発想 ■マーケティング論から発想 文化力発想な世間話 ■■ 文化力発想なコンセプト ■■ こんな商品をコラボしてほしい! (研修テキスト改訂関係他) 以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 09月 2023年 07月 2023年 04月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 04月 2022年 03月 2021年 11月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 03月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 03月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 10月 2018年 05月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2017年 03月 14日
(1/3)
(2/3) からのつづき テスラより先行した「電池パック交換」案の否定に象徴されること 以上の述べてきた「カスタマー・マーケティング」の観点を踏まえて、本論(1/3)冒頭の「はじめに」で提示した電気自動車の「電池パック交換」案の経緯を振り返りたい。 まず、クルマ・メーカーの製品ラインアップについて、「マス」マーケティングそして「カスタマー・マーケティング」がどのように位置づけられるかを確認することから始めたい。 (1/3)冒頭で紹介した「電池パック交換」案を否定した専門家の <電気自動車の電池の重量がとても重いので、単体のカセット=パックで運ぶにしても、分割して軽くしても個数が増えるため交換時間が掛かってしまい、急速充電と変わらなくなってしまう> という意見は、 低コンテクストな数値に裏づけられた明示知の「確定性」にある。 だいたい専門家が「できない理由」をあげつらう時、その内容は「できないこと」についての明示知の「確定性」にある。 彼らも専門家だから「こうすればできるかも知れない」というアイデアが無い訳ではないのだろう。しかし頑なに言おうとしない。なぜならそれは直観という暗黙知の「不確定性」にあるからだ。 とにもかくにも明示知の「確定性」に固執する者が、安定した地位の専門家ほど、その保身を優先する者ほど多いのが現実だ。 できないと決めてやらなければ失敗もしない。そうすれば、専門家としての信用も地位も損なうことがない。これも明示知の「確定性」に属する。(これが大きな間違いなのだが、彼らの属する<世間>ではそれが常識や建前になっている。) だがトライ&エラーを繰り返さなければ「新しいこと」「面白いこと」はできない。これも明示知の「確定性」に属する。 そして、もし他者がトライ&エラーを繰り返して成功すれば、本来は、トライしようとしなかったことで損害を導いた責任がある筈なのだが、彼らの属する<世間>では、みんなそろってそう思ったという建前から責任問題にはならない。 このような<空気>が企業の組織知識創造における文化や体質となれば、企業の中長期的な経営戦略や事業戦略において致命的となる。 だが、致命傷だったことが言い逃れできない形で明らかになる時までは、これも暗黙知の「不確定性」にある話であり、明示知の「確定性」の建前に閉じこもった者同士は容易に無視してしまうのである。 じつは、以上の話とまったく同じ思考態度が、福島第一原発の建設計画において「原発を高台ではなく海浜に建設すればコストは浮くが、もし津波がきたら電源喪失するのかも知れない」と「原子力ムラ」が真剣に自問しなかったことにもあった。 極論に聞こえるかも知れないがそうではない。 原発の専門家によって客観合理的な明示知の「確定性」のように語られた「電源喪失させるような津波は来ない」は、単なる決めつけであり思考停止だった。 冷静に考えれば、暗黙知の「不確定性」にある「津波は来るかも知れない」が客観合理的な判断であって、実際それを裏付ける歴史資料も提出されていた。 しかし原子力ムラでは、暗黙知の「不確定性」にある話を、明示知の「確定性」に閉じこもった者同士の建前話で容易に排除してしまったのである。 トヨタはテスラと提携し結果的に解消して「水素エンジン車」に向かった。 それは、テスラが『電池パック交換』方式車のトライ&エラーを繰り返すことについて、「成功することはないだろう」と捉えたか、「もし成功したとしても自分たちは自分たちのやり方で対応できるだろう」と捉えたということである。 それはともに、本来、暗黙知の「不確定性」にあることを、明示知の「確定性」のように語る決めつけであり思考停止でだった。 そして現実はどうなったかというと、「電池パック交換」案をテスラがトライ&エラーを繰り返して成功的に実現してしまったのである。 よって今、残っているのは、「もし成功したとしても自分たちは自分たちのやり方で対応できるだろう」という決めつけと思考停止だけだ。 先に、誤解を避けるために述べておくが、 私の論点は、トヨタの判断が正しかったか間違っていたかではない。 本来、暗黙知の「不確定性」にあることに対しては、どうころんでも良いような布石をすべきであるのに、トヨタがそうしなかったということが論点である。 つまり、トヨタグループとして「水素エンジン車」も独自に追求するが、「電池パック交換」方式車もテスラと共同で追求するという並行策を選択肢とせずに、前者に一辺倒化した意思決定に問題性を捉えるのである。 子供でも分かることは、 「かくかくしかじかで、これはできない」という明示知の「確定性」の決めつけは、 誰にも「期待」というものを抱かせない 一方、 「こうする方向で知恵を結集すればできる可能性がある」という暗黙知の「不確定性」の提唱は、 誰かに「期待」というものを抱かせる。 誰かとは、 「新しいこと」「面白いこと」を選好する意欲的な技術者かもしれないし、 「新しいこと」「面白いこと」に投資チャンスを求める投資家かもしれないし、 「新しいこと」「面白いこと」に成長チャンスを求める経営者かもしれないし、 「新しいこと」「面白いこと」を選好して「モノ」を使い「コト」を体験したがる生活者かも知れない。 このような人間の連鎖が未来を切り拓いていく人間関係を構築することは明らかである。 「かくかくしかじかで、これはできない」と言われて、 そうだできないと同意するだけの人たち、 そうかできないのかと真に受けるだけの人たち、 彼らがどれだけ多く集まっても未来志向の人間関係は発生しようがないことと顕著に対照的である。 トヨタは本来、未来志向のクルマメーカーである。 そのことは、「ハイブリッド車」の市場を創出したという誇るべき実績からも明らかだ。 しかし、トヨタがテスラと共同開発をした後、袂を分かったことに、 私はトヨタの未来志向とテスラの未来志向の質的な違いを感じ取った。 これは、当時、業界で言われた「企業文化の違い」などという抽象的で曖昧な話ではない。 日本の企業社会の変質の帰結として、日本のメーカーを代表する世界的企業が露呈した象徴的な様相であり、 日本の企業社会の今後の方向性を示唆するものと捉えた。 そこで、トヨタとテスラについて、その提携と解消を中心に両者を対照的に検討していきたい。 2010年、トヨタとテスラの電撃的な提携話が浮上した。 テスラCEOに会ったトヨタ社長のほとんど即決即断だったという。 そして、RAV4にテスラのEV技術を搭載した電気自動車「RAV4 EV」を共同で開発・販売した。 しかし、2014年には提携を解消する。 この後トヨタは「電気自動車」の開発から距離をおき水素を燃料とする「燃料電池自動車」へとシフトしていく。 当時、提携解消の最大の理由は、両社ともにブラックボックスの開示を拒み、そのため技術統合を徹底できなかったことだと業界筋で言われた。 しかし両者の企業文化はともに未来志向であり、ベンチャー企業との「企業文化の違い」など予め予測されたことが共同開発続行の障害になったとは考えにくい。 私には、トヨタ側が、表向きにはそういう話にしておこう、とした話のように思えてならない。 私は、 トヨタとテスラは、 いかなるクルマ市場の構築を目指していくかというシナリオに隔たりがあった、 それが隔たりというよりもむしろ対立的な競合関係にあることを双方のトップが理解した、 ということだったのではないかと考えた。 おそらく、 トヨタ社長がテスラとの共同開発を電撃的に決断した時は、「新しいクルマ」「面白いクルマ」をつくりたい、という思いだけが先行したのだと思う。 それは賞賛されるべきことであり、セマンティック・カタリスト(意味の触発者)としてのトップの判断として正しかったと思う。 しかし、 実際に「RAV4 EV」を共同開発を進めていったのは、トヨタ側は、エキスパートを束ねるナレッジ・エンジニア(知識の触発者)としてのミドルだった筈だ。トヨタの社長が頻繁に共同開発現場に顔を出したり事細かく進捗をチェックすることは無かった筈で、トヨタ社長はこのキーマン中間管理職の報告・連絡・相談を受けて対応したのだと思う。 むしろ私が重視するのは、この共同開発の間に、トヨタ社長がテスラCEOと会談を繰り返す一方で、経産省の官僚と話し合うこともあったと推察されることである。 一方、テスラ側は、セマンティック・カタリストとナレッジ・エンジニアと知識の適用者・開拓者としてのエキスパートを三位一体で体現するベンチャー企業CEOが、頻繁に共同開発現場に顔を出し事細かく進捗をチェックして、トヨタ側のキーマン中間管理職とも直接に交流したと思われる。 自ら巨額の投資をしているCEOならば、ちょっとしたミスで開発が遅延すれば多大な損失を蒙るのだから当然である。 このようなことは、「企業文化の違い」として予め想定されたことである。 そして、提携解消の本質的な理由はそこにはなかったと思う。 トヨタの未来志向とテスラの未来志向の違いそして対立が明らかになったのは、トヨタ社長とテスラCEOが直接会談を重ねる内に、セマンティック・カタリスト同士として、電気自動車によっていかなるクルマ市場の構築を目指していくかというお互いのシナリオを披露しあった時だと思う。 そして一緒にはやっていけないと双方のトップが判断し、結果的にブラックボックスの開示はお互いにしないということになった。 つまり、 業界筋が提携解消の原因とみなした「ブラックボックスの非開示」はじつは原因ではなく結果だった 原因はトップ同士が、本来最初に確認すべきお互いの未来志向の中味の異同を共同開発が始まった後から確認したことだったのではないか、 というのが私の推察である。 すでに前項(1/3)で触れたように、 >日本の自動車業界が「産官学協同」ないしそれ的な体制で取り組んでいる「電気自動車」「水素自動車」「自動運転」 >JR東日本が「産官協同」(開通すればその電力消費を原発が補うことになり、赤字になれば公的支援を受ける)で取り組んでいる「リニアモーターカー」 >国と重電大手の日本連合(「産官協同」的な体制)で海外に売り込んでいる新幹線と原発 >国が成長産業と位置づけて「産官学協同」で取り組みはじめた軍需産業 これらはすべて、明示知の「確定性」に形式的にこだわる「家康志向」に一辺倒化していて、産業界は官界を媒介に一体化している。 そして、トヨタが開発する「電気自動車」は、トヨタが想定する「電力の供給と需要の社会体制」を象徴的に示すものとなる。 それは、官界により一体化された産業界が想定する「電力の供給と需要の社会体制」と一致するものでなくてはならない。 すくなくとも対立するものであってはならない。 ところが、 テスラ側の「電気自動車」によっていかなるクルマ市場の構築を目指していくかというシナリオは、トヨタのクルマメーカーとしてのシナリオと対立的に競合するに留まらず、トヨタが体現すべき、官界主導の日本産業界の「電力の供給と需要の社会体制」とも対立するものだった。 テスラは、日本では一般に、スポーツタイプの「電気自動車」のベンチャー企業として知られている。 しかし、実際は世界市場を目指す「太陽光発電と蓄電池のベンチャー企業」である。 テスラの「電気自動車」の打ち出しはそれとのシナジーを深慮遠謀した戦略性をもっている。 官界主導の日本産業界の「電力の供給と需要の社会体制」と対立したのは、テスラの「電池パック交換」方式車と「電池パック交換」ステーションの普及による、蓄電池および蓄電ステーションや蓄電所の拡大である。 2011年の原発事故を契機として脱原発の流れの中で再生可能エネルギーの普及拡大を目的とする特別措置法が制定され、旧民主党菅政権下、FITがスタートした。FITとは一定期間、太陽光発電による電気を高値で全部買い取るというものだった。これによって参入インセンティブが強く働いた。しかし風力や太陽光には、稼働率の低さと、大量な出力の集中によるブラックアウトの危険性があった。結果的に多くの参入企業が撤退し、自民党政権になって買い取り価格による推進政策が後退する。 ここでポイントは、風力や太陽光の推進政策が後退したその技術的なネックはどこにあったのかということである。 稼働率の低さを補い、出力集中によるブラックアウトの危険性をなくす技術、つまりは蓄電技術が世界的に確立されていないことだった。 そして、国も電力会社もこのことを理由に蓄電所建設を積極的に進めてこなかった。 たとえば、原発の必要性が首都圏の電力需要のピークを理由に語られたが、蓄電所建設が進めばピーク需要と同等の電力供給が常に必要ということではなくなる。にも関わらすだ。 しかし、 テスラがすでに現実に進めている ①家庭単位の蓄電装置(「電池パック交換」方式車に対応) ②地域単位の蓄電ステーション(「電池パック交換」ステーション) ③地方単位の蓄電所(メガソーラー発電所とネットワーク) の三点セットは、 風力や太陽光の推進政策を後退させた技術的なネックをすべて解決してしまう。 それは、原発再稼働を進めてあくまで原発を火力と水力と並ぶベースロード電源としたい国および原子力ムラの意向と対立する。 そのような事態になる前に芽の段階で摘んでおこうと考えて自然である。 トヨタにとってはクルマ業界の話ではないが、官界主導の日本産業界の主要メンバーとして国の意向に楯突く訳にはいかない。 このことがクルマ業界の自動車ジャーナリズムでは語られない。 トヨタが、 トヨタグループとして「水素エンジン車」も独自に追求するが、「電池パック交換」方式車もテスラと共同で追求するという並行策を選択肢とせずに、前者に一辺倒化した意思決定をした その合理的な理由を探すと、 ビジネスライクには、リスクは分散した方がいいしチャンスは多い方がいいのだから見当たらない。 追って述べるように、トヨタの利益源泉である車両の量産体制の価値を、テスラの「電池パック交換」方式車の普及が減衰させる、そのことにトヨタ自らが協力するのはナンセンスだという考えも短期的には成り立つのだが、未来志向で「ハイブリット車」の次の時代の成長事業を考えるならばその考えの方がナンセンスだ。 「電池パック交換」方式のクルマに留まらないすべての動力媒体においてビジネスチャンスを求めた方が成長性が高いことは明らかである。 テスラと当初はクルマの共同開発をするものの、いずれはトヨタが動力媒体の市場を分担し、テスラが住宅〜地域〜地方の太陽光発電〜蓄電所から繋がる不動産媒体(宇宙ステーションや宇宙基地を含む)の市場を分担する、という役割分担を約束すればいいことである。 当然、未来志向の世界企業のトップはそこまで考えた筈である。自らが、織機から自動車に展開したトヨタグループの未来に向けた中興の祖となる発想でもある。 一方、ポリティカルには、官界主導の日本産業界の主要メンバーとして国の意向にそったという理由が、国および原子力ムラの動向からしてうなづける。 改めてテスラの動向を、最近のクルマの話題から確認していこう。 テスラは、2016年に、5人乗りの新型車「モデル3」を発表。発売予定は今年2017年末である。 発表直後に同社店舗の前に長蛇の列ができて受注台数が11万5000台に達したという。 試乗してない人がほとんどなのだから、これぞ「顧客期待」の高さというものだろう。 アメリカでの価格は3万5000ドル(約393万円)で、同社の主力車種「モデルS」の半額程度である。「モデルS」を高価格車とすれば「モデル3」は中価格車となろうか。 注目すべきは、「モデル3」が日産の電気自動車「リーフ」と同じ価格帯ながら、1回の充電で走れる距離がリーフの2倍以上の346キロということだった。 これは、テスラが日産より性能のよい蓄電池をより安く生産できる、ということである。 注目すべきは、 イーロン・マスクCEOが「モデルS」の発表会で、価格を抑えた新型車で電気自動車の普及を推進する考えを示して、 「テスラの使命は、世界が持続可能なエネルギーに移行するのを後押しすることだ」 と述べたことである。 これが、テスラのいかなるクルマ市場の構築を目指していくかという近未来シナリオに他ならない。 そしてその後のマスク氏は、単なる電気自動車に留まらない拡張した文脈で「顧客期待」を着実に高めてきている。 次に、テスラモーターズの誕生からここまでに至る経過を簡単に振り返ろう。 2004年、PayPalの恊働設立者イーロン・マスクが第1回シリーズA投資ラウンドを主導して取締役会長に就任。 2005年の第二回シリーズB投資ラウンド、2006年の第三回シリーズC投資ラウンドを主導。 第三回には、ベンチャー・キャピタルや投資ファンドの他にGoogle共同設立者や元eBay社長が加わって話題になった。 2007年の第四回シリーズD投資ラウンドを経た、2008年の第五回シリーズE投資ラウンドでは、イーロン・マスクは個人資金7000万ドルを提供、会長だったイーロン・マスクがCEOになる。 2010年1月、パナソニックと共同で電気自動車用の次世代パッテリーを開発すると発表。最新バッテリーパックに、パナソニックのリチウム・イオン・バッテリーを採用する。 同年5月、すでに触れたトヨタとの電気自動車の共同開発を行う業務提携を発表。 テスラがスポーツタイプの電気自動車のメーカーであるという印象が浸透したのは、2008年に販売された最初の生産車両「ロードスター」だった。 2シーター・オープン化ーの車体は「ロータス・カーズ」によるもので、プロトタイプが2006年に一般公開され、同年のタイム誌選出による「Best Inventions 2006 - Transportation Invention」の受賞者として表紙を飾った。 発売から人気が高く、98000ドル(約1000万円)の高値にもかかわらず、最初のロードスター「Signature One Hundred」は3週間足らずで完売した。 ちなみにテスラの真骨頂は「ありふれた部品で画期的な車を作る」ことだという。 これは、アップル社の各種デバイスと同じ得意技である。 日本の大手メーカーの「モノづくり」の逆を行っている。 「ロードスター」のバッテリーは、なんとノートパソコンに使われているのと同じ汎用品で構成されていた。「技術的にも成熟しており性能も十分われわれの要求に応えられる。独自に開発することを考えればコスト面でも有利」という割り切りである。 このような柔軟な考え方で大胆にパラダイム転換していく志向が、テスラをして「電池パック交換」方式の具現化を躊躇うことなく推進させたと言えよう。 マーケティングの観点から最も注目すべき最近の話題は、2014年に「モデルS」のバージョンアップによる自動運転機能を発表したことだ。 日本のクルマメーカーが、「自動運転機能を装備したり向上させた新車への買い替え」を前提にして対応するのに対して、 テスラは、「ユーザーが買ったクルマをそのままに、まるでパソコンのOSのバージョンアップをするような自動運転機能を追加」を前提にして対応する じつはこの考え方が、テスラの「電池パック交換」方式にも通底している。 クルマが古くなっても電池はいつも新品でかつ最新型であり、蓄電池を共有財ないしは公共財としていく考え方なのである。 つまりテスラの電気自動車は、 クルマを買い替えなくても、OSのバージョンアップで自動運転を含む走行性能を向上させることができるし、 蓄電池が一体の車体のように蓄電池の劣化に合わせてクルマを買い替える必要がないのである。 トヨタがテスラと電撃的に提携を発表した2010年から、提携解消する2014年までの間の共同開発中に、このことを知ったトヨタ社長は愕然としたに違いない。 クルマの基幹技術は「エンジン」「トランスミッション」「シャシー」と言われる。トヨタはそれら基幹技術と車体の量産体制(生産技術)を利益源泉としてる。 いわゆるブラックボックス問題は基幹技術に関わるだけだ。 クルマメーカーのトヨタにとって本質的な問題は、 テスラの次世代シナリオが、トヨタの利益源泉である車体の量産体制(生産技術)の価値を大きく減衰させる ということだった。 トヨタの基幹技術である「エンジン」がほとんど電気モーターで代替されるだろう未来は確定している。 それに対して、ハイブリッドという中継ぎ市場を創出し、当面これに依存することができるだろうとトヨタは考えていた筈だ。 しかしテスラの「電池パック交換」方式車が普及拡大して、車体を一度買ったユーザーは買い替えせずに走行性能を維持向上させることができるとなれば、オマンマの食い上げなのだ。 つまり、クルマメーカーのトヨタがテスラに協力することは、トヨタの首を絞める近未来を自らたぐり寄せることになるのである。 おそらくトヨタ側は提携によって、テスラの日産を凌ぐ電気自動車の基幹技術を確保することで、ハイブリッド車に代わる市場創出車ないし市場牽引車を打ち出すことを狙ったのだろう。 ところが、テスラ側の「電池パック交換」方式の普及拡大という次世代シナリオを聞いて、トヨタ側にとってのテスラとの提携の意味合いがまったく変わってしまった。 しかしそれだけであれば、すでに述べたように、トヨタグループとしてのビジネスライクな客観合理的な意思決定として、 「水素エンジン車」も独自に追求するが、「電池パック交換」方式車もテスラと共同で追求するという並行策も展開する という選択肢もあった筈なのだ。 やはり、官界主導の日本産業界の主要メンバーとして国の意向にそった、というポリティカルな理由から、 クルマメーカーのトヨタとしてもトヨタグループとしても追求する次世代技術を「水素エンジン車」に一辺倒化する 意思決定に至ったと考えられる。 (「水素エンジン車」というよりも、「水素発電装機」や「水素発電所」の豊かな未来を技術的に描くことに、領域の想定しだいで高い客観合理性がある。 しかし日本国内のポリティカルな問題として、果たしてその原発の電力供給を脅かすほどの成長が見込めるかどうかとなると甚だ疑問である。) 結果的に、テスラとの契約解消の後のクルマメーカーとしてトヨタが「水素エンジン車」にシフトしていった背景には、 「ハイブリッド車」に代わる市場創出車ないし市場牽引車の打ち出しという中長期的な経営課題に対して、 大きくは2つのな経営意図が配慮されたと思われる。 ①トヨタの誇る車体の量産体制(生産技術)が利益源泉としての価値を維持向上する方向性 ②クルマの高品質化が進んだ今や、買い替え需要は、ハードの劣化やソフトの陳腐化よりも、車両にかかる税金の増税といった制度によるところが大きい。 前者は技術革新や標準技術の進歩によって解消していくが、後者は各国政府とその管轄省庁の裁量で維持されたり解消されたりする。 よって、特に市場の大きな各国政府とその管轄省庁とは良好な関係を保つべき ①を踏まえると、 「電池パック交換」方式ではない電気自動車か、「燃料電池車」か、ということになる。 前者はテスラが「電池パック交換」方式車を普及拡大させれば対抗できなくなることが見越せるから注力しない。 では「燃料電池車」の量産体制を整えるかと言えば、当面、需要拡大が見込めないためほぼ一車体ごとの手作り体制で望むしかない。 ②を踏まえると、 国および原子力ムラの動向を踏まえその意向を忖度して、 クルマメーカーのトヨタとしてもトヨタグループとしても、 世界市場を目指す「太陽光発電と蓄電池のベンチャー企業」であるテスラと親密な提携関係をもたない、ということになる。 2011年の福島原発爆発事故の後、ドイツのように脱原発に進まず原発再稼働に向かい、必ずしも太陽光発電などの再生可能電力に積極的とは言えない国の意向にそうには、家庭用の太陽光パネルや蓄電池を事業化しつつあるテスラとの提携解消は適切だった。 さらに今後は、日本とアメリカのクルマ市場においてトヨタはテスラの動きに同調せず対峙する姿勢をとる、ということになる。 *①②を踏まえた結果として、 トヨタは、 「燃料電池車」を国との産官協同を基軸にして、 需要拡大が見込めないためほぼ一車体ごとの手作り体制で、 日米のクルマ社会や自動車ジャーナリズムへのメッセージ性の高い動きをしていく。 そしてそれがトヨタの実際の動きとなっている。 テスラのいかなるクルマ市場の構築を目指していくかという近未来シナリオは、 車体の生産と廃棄の絡みも含めた環境負荷を最低限にするエコ志向であり、 かつ、 <個人所有を前提にしたクルマ社会>から<共有共用を前提にしたクルマ社会>へのパラダイム転換を内包している。 これは徹底的なエコ志向である。 しかもテスラは、それを絵に描いた餅のお題目ヴィジョンとせずに、 以下のような事業ですでに足下の現実として具体化してきていた。 ◯住宅太陽電池パネル イーロン・マスクが会長を勤める別会社、ソーラーシティ社を取り込み、家庭の屋根に取り付ける太陽光発電システムを提供。 家庭の充電器により電力網の負担なしで一日当り80キロの旅行を可能にするという。 ◯パワーウォール 目標最大10kWhの家庭用リチウム蓄電池。 ◯パワーパック 企業および電力会社向け蓄電池。 ◎スーパーチャージャー 同社のEV用として開発され、約20分で「モデルS」のバッテリーの半分(約250キロ分)を充電できる。 出力は最大120kWで、車載充電器を介することなく直接バッテリーに充電を行う。CHAdeMO規格充電器の最大モデルの2倍以上のスピードで充電が可能とされる。 以上の電力システム事業は、すべてテスラの「電気自動車」、それも「電池パック交換」方式車とそれへの対応を自動化した「電池パック交換」ステーションの普及拡大とのシナジーを前提している。 さらに私がマスク氏のリアリストとしての側面を垣間みるものとして注目するのは、テスラの「大気汚染対策」である。 「テスラHEPAフィルター」の実験を昨年2016年に行い、環境汚染からの健康リスク回避を目指すとしている。 私は最初、CO2対策に消極的なために国民が大気汚染に悩む中国市場やアメリカ市場への対応かと思った。 しかし、それがとても高度なもので「生物兵器モード」もテストしていることに注目した。 おそらくテスラは軍用車両としての「電池パック交換」方式車と移動式パワーウォールと呼ぶべき蓄電池車両なども構想しているのではなかろうか。 ならば、大型ドローンや電気ヘリコプターへの「共通電池パック」も構想しているのだろう。 一般的には、これまで軍需用は価格が安く耐熱性が高い亜鉛電池が想定されてきた。 しかし、「テスラロードスター」でパソコンに使われている汎用品のリチウム電池を大量に使って温度調節装置をつけたテスラの発想力は、技術的には亜鉛電池の優位性を逆転する筈である。そして巨大な軍需を民需と合わせた蓄電池の量産体制と供給体制となれば、「電池パック」とその交換サービスの大巾な価格低下が見込める。 当面は、一般民需はリチウム電池、特殊軍需は亜鉛電池という合わせ技を展開して、スマートグリッド(次世代送電網)の「電池パック交換」方式版のような電力供給ネットワークのサービスやシステムを主力事業に追加するのかも知れない。 その特殊軍需の市場に軍需車両から参入する際に、「生物兵器モード」を不可欠の条件として売り込むのではなかろうか。 以上のように門外漢の私が考えても、テスラモータースがただの電気自動車屋ではないことだけは明らかだ。 このようなテスラとトヨタの中長期的な事業戦略を比較した場合、両者の中味を子細に把握するまでもなく、 「企業文化の違い」などという抽象的かつ曖昧模糊としたクルマ業界話が問題の本質ではないことは明らかだ。 いかなるクルマ市場の構築を目指していくかという近未来シナリオの明快かつ具体的な違いが、 内向き従来型のトヨタと外向き開拓型のテスラとの対照として了解される。 このように考えてくると、 トヨタとテスラの提携とその解消の背景として、 トヨタの豊田章男社長とテスラモータースのイーロン・マスクCEOの セマンティック・カタリスト(意味の触発者)としてのトップ同士の発想思考と立ち位置の違いが うまく噛み合なかった ということが見えてくる。 豊田章男氏は、アントレプレナーシップの分野で世界的に高い評価をえている起業家教育に特化した大学、バブソン大学でMBAをとっている。 そんな豊田章男氏とイーロン・マスク氏の直接対話では、共同開発の枠組みでは十全に事前の合意がなされ特段の支障がなかったのではないか。 ただし、さらに共同開発を継続して高度化していくにおいて、マスク氏から「電池パック交換」方式車の普及拡大というシナリオが提示されてトヨタとしては応じられなかった。 その判断は日本の官界主導の産業界で重要な立場にあるクルマメーカーのトヨタの社長として間違ってはいなかったのだろう。 しかし、 未来志向の世界企業として、豊田織機に始まるトヨタ・グループの総帥として、 世界と日本のクルマ生活者や電気使用生活者の未来を左右する事柄を、現在の日本国内の柵にとらわれて意思決定したとすれば、 それは果たしてほんとうに正解なのだろうか? もしトヨタグループの創始者でありベンチャー起業家であった豊田佐吉だったら同じ判断をしただろうか? 私はそう問うてしまうのである。 豊田佐吉は、幕末から明治初期の動乱期に困窮を極める村に育ち、十四、五歳の頃から「なんとか人のために役立ちたい」「国家のためにつくしたい」と考えるようになったという。 佐吉が思った「国家」とは、あくまで国民に役立つための国であった筈で、後の軍国主義の全体主義で国民に苦しみを強いるようなものではなかったと思う。 よって、今の官界が主導する産業界が無条件にイコール「国家」とは佐吉ならば捉えないのではないか。 佐吉は、明治18年、十八歳の時に政府が「専売特許条例」を発布したのを契機に発明家を志す。 最初にとりかかったのは、高価な石炭を使う蒸気機関に代わる「無限動力」の発明だったがうまく行かなかった。 明治23年、東京で行われた「第三回内国勧業博覧会」でみた国内外の最新機械に衝撃をうけて、最初の発明となる「豊田式木製人力織機」を完成する。翌年二十四歳で特許を取得。 手動式から動力式を目指すも、発明のための資金を確保するべく「豊田式糸繰返(いとくりかえし)機」を完成。 そして、明治29年、二十九歳の時に、日本初の動力織機である木鉄混製の「豊田式汽力織機」を完成した。 得意先と合資会社をつくり綿布を織機で製造したが、その際の動力源として蒸気機関だけでなく石油発動機も用いた。 これが豊田自動車のエンジンに繋がっていく。 豊田章男氏は、以上のような佐吉の創業物語を意識し自分の経営判断を照らしたと思われる。 特に、佐吉が最初に取り組んで挫折した発明である「無限動力」と「水素エンジン」は著しく重なる。 章男氏は、たとえすぐに事業が軌道にのらなくても、「水素エンジン車」に先鞭をつけ、モデルとして車両と水素ステーションを世に送り出すことに使命感を抱いたと思われる。 一方、すでに日産が先行していた「電気自動車」は、それだけでは言わば「発明感」が乏しい。 ただ、テスラが「電気自動車」のスポーツカーをロータリーと共同開発していたことに、モータースポーツ好きの章男氏が魅力を感じそこにある種の「発明感」を捉えた可能性は高い。 であるなら、章男氏はマスク氏の「電池パック交換」方式車の普及拡大というシナリオにより大きな「発明感」を捉えた筈なのである。 マスク氏のシナリオは「電気自動車」で完結せず太陽光発電と家庭での蓄電をセットで捉えていたから、最終目標は「無限動力」とも言えるし、その未来志向は「なんとか人のために役立ちたい」という創始者の遺志を継ぐものでもあった。 つまりは、「水素エンジン車」も太陽光発電とセットの「電池パック交換」方式の電気自動車も、どちらも佐吉の挑戦「無限動力」の完成なのであった。 私は2つの疑問を抱いた。 1つは、 なぜ豊田章男社長は、テスラとの提携を解消せずに、「電池パック交換」方式の電気自動車と「燃料電池車(水素エンジン車)」の両方を並行して進めていくという選択肢をとらなかったのだろうか? というもの。 これについてはすでに述べたように、国と原子力ムラの動向を踏まえその意向を忖度したのだろうと推察した。 いま1つは、 なぜイーロン・マスクCEOは、トヨタとの提携解消の後、時に罵りの言葉をまじえてまでトヨタの水素エンジン採用を批判をするようになったのだろうか? というものである。 私は、この2つの問いへの答えは互いに絡み合っていると直感した。 イーロン・マスク氏のこれまでの発想思考をトレースしてみよう。 テスラのホームページのマスク氏のメッセージをチェックすると、 2006年の「秘密のマスタープラン」という記事で、 「ハイパフォーマンス電動スポーツカー」を打ち出しているが 「長期的には、手頃な価格のファミリーカーを含む様々なモデルを生産しようと計画している」 とある。 自社の包括的な目的は 「採掘しては燃やす炭化水素社会から、私が主要な”接続可能”ソリューションの1つであると考えるソーラー発電社会へのシフトを加速すること」 「それを実現するためには妥協のない電気自動車が必要不可欠であり」 とある。 気になるのはその後の文章だ。 マスク氏は、 「そのためにテスラロードスターはポルシェやフェラーリなどのガソリン・スポーツカーとの直接対決で勝利を収められるようデザインされている」 「プリウスの倍のエネルギー効率を誇る」 しかしそれが世界の二酸化酸素排出量を大して減らせる訳ではない、と言い切ってこう述べるのだ。 「しかしそれは、上でも少しほのめかした秘密のマスタープランを理解していただければ、的外れなことだということがご理解いただけると思います」 この「妥協のない電気自動車」が「電池パック交換」方式車で、 この「秘密のマスタープラン」が「電池パック交換」方式の「電気自動車」を普及拡大して太陽光発電の電力インフラと接続することだった。 この後の文章で、 新技術の場合、初期の製品は最適化が行われるまでユニットコスト(単価)が高くつく。 テスラの戦略は、まず初期段階のプレミアか格を払える顧客のいる高級市場に参入し、それからできるだけ速く、新しいモデルを出す毎に大量生産、低価格化のできる市場へ進んでいくというもの と解説している。 さらに、 できるだけ早くコストを下げて次の製品を市場へ出すため、フリーキャッシュフローはすべて研究開発に充てる。 つまり高価格のテスラロードスターを購入した人は実質、低価格のファミリーカー開発の資金繰りに協力したことになる と解説している。 これは、自社のクルマの購入者に言わば投資家のような位置づけを与える「カスタマー・マーケティング」と言える。 昨年2016年の「マスタープラン パート2」という記事では、 最初に前述の10年前の記事に照らして現在を語っている。 「私が10年前に書いた最初のマスタープランは最終段階に入りました。 最初のマスタープランはあまり複雑なものではなく、次のステップで構成されていました。 1. 高額になるのは避けられない、少量生産車を作る 2. その売上げでより低価格な中量生産車を作る 3. その売上げでさらに低価格な大量生産車を作る そして... 4. ソーラーエネルギーを提供する。」 ここで本論シリーズ(1/3)冒頭で紹介したことを思い出してほしい。 3年前の2013年に「電池パック交換」方式の電気自動車と「電池パック交換」ステーションのデモを成功させていたにも関わらず、2016年の「マスタープラン パート2」でも、10年前の記事同様に、そのことに触れていないのである。 それは、「電池パック交換」方式の電気自動車と「電池パック交換」ステーションの普及拡大がアメリカ社会において意味することが、相変わらず「秘密のマスタープラン」であることを示している。 マスク氏はメッセージの中で多くの批判にされされてきたことに触れていて、それは隠然たる対抗勢力から攻撃対象になっていることをほのめかしている。 「電池パック交換」方式の電気自動車はトヨタの利益源泉である車両の大量生産体制の価値を減衰させると述べたが、そのことはアメリカのクルマメーカーとて同じだ。隠然たる対抗勢力がこれまで何だったのかは私には分からない。しかし、「電池パック交換」方式車と「電池パック交換」ステーションの普及拡大が意味することを知れば、アメリカの自動車産業とその労働者が歴然たる対抗勢力になることは間違いない。 マスク氏がアメリカでトヨタの「水素エンジン車」を批判する理由もこれに絡んでいると思われる。「水素エンジン車」はトヨタとホンダが製品化していてアメリカのクルマメーカーにとっては、その基幹技術が参入障壁となっている。よって、マスク氏が日本メーカーの「水素エンジン車」を批判することは、彼らからの好感を導くことに繋がる。 一般的には、テスラへの投資を呼び込むために投資家向けに未来技術の競合を叩いているという解釈だが、テスラはすでに太陽光発電起点の電力インフラ事業を活発化していて、水素発電起点の電力インフラ事業を活発化するでもないトヨタやホンダの「水素エンジン車」を批判しても、テスラの投資優位性が説明される訳ではない。 水素エンジン技術について最も強く多彩な批判をしてきたのは、トヨタと共同開発をした後、提携を解消したマスク氏である。 氏は「水素を車に使用しても未来はない」と言い切る。 その理由は、 「電気分解はエネルギープロセスとして非常に効率が悪い。 例えば、太陽電池パネルを使えば、そこから電気を作り出して直接バッテリーパックに充電できる。 これに比べて電気分解は、水を分解して水素を取り出し、酸素を放り出し、水素を非常に高い圧力で圧縮し(またはそれを液化して)、その後、車の取り込んで燃料電池として使用する。 これは効率としては半分以下であり実にひどい。 どうしてそんなことをするのか?意味がない」 と徹底的だ。 投資銀行筋の話としては、 「テスラは、2014年第四四半期(10~12月)決算を開示した。それによると第四四半期の調整後の最終損益は、1億0,762万ドル(約128億円)の赤字で前年同期の1,626万ドルの赤字から赤字幅は大きく拡大した。 電気自動車を販売したいと考えているマスクCEOが、水素自動車についてこのようなコメントをすることは予想できた」 というものである。 この話については、前述したように、水素自動車をいくら批判してもそれが直接的なテスラへの投資誘導にはならないから的外れと思われる。 私は、水素自動車が日本だけでなく、水素ステーションの一番多いカリフォルニア州をはじめアメリカでも展開していることに注目する。 このことにこそアメリカの自動車産業が警戒感をもっている。 日本でも堀江貴文氏が、トヨタは「ガソリンエンジンに代わる参入障壁を作るためにFCV(燃料電池車)にいこうとしている」「自動車はローコストで作れるようになるEV(電気自動車)が世界の趨勢」と主張した。 堀江氏の主旨は、EVは、参入障壁が低く多様な異業界企業やベンチャーが容易に参入できて競争原理が働くということだ。 これがアメリカのクルマメーカーも賛同するポイントである。単なる電気自動車ならば、クルマメーカーはモーターと蓄電池では新参者でも車体のその他の基幹技術と量産体制において一日の長がある。 マスクCEOの「秘密のマスタープラン」とは、 ①「電池パック交換」方式車と「電池パック交換」ステーションを普及拡大し ② 太陽光発電所や蓄電所を起点とする電力供給インフラを整備し、 ③ 両者を相乗効果をもって統合する ことと考えられる。 しかし、①はトヨタよりもむしろアメリカのクルマメーカーの利益源泉であり工場労働者の生活の糧である車体の量産体制の価値を減衰させる。この①の意味することだけが露呈すれば①は妨害されて頓挫するリスクがある。そこで、先走ってここを表立って強調しないことが「秘密」ということなのだ。 マスクCEOとしては、②を進めて、①と②の統合である③を現実的な社会モデルの既成事実として提示することで、妨害されずに説得力を確保しようと考えていると思われる。 具体的には、車体量産体制の雇用の減少分を新たな体制全体の雇用で吸収する可能性を数字で示すことができれば社会的な賛同を得やすくなる。マスクCEOそれまで①②③を「秘密のマスタープラン」とするのではなかろうか。 誤解されないように先に述べるが、 私は、堀江氏のように「トヨタが悪者でテスラが善玉」的な考えはしない。 本論シリーズの論題である「日本の企業社会の変質」の象徴として、そういうことを結論にするつもりは毛頭ない。 私が本論シリーズの結論として「日本の企業社会の変質」の象徴として問題視するのは、以下の2つである。 (さらに、ただ問題視だけして「昔の日本の企業社会は良かった」と言いたい訳ではない。 「昔よりもさらに良い日本の企業社会にする方途」を象徴するものとして、トヨタグループが「水素発電」を、「水素エンジン車」と「水素ステーション」というクルマ社会の枠組みから、「水素発電機」や「水素発電所」による電力インフラ事業のイノベーション技術の中核へと拡張することで歩める可能性を示す。) ①トヨタが、ハイブリッド車やPHVプラグイン・ハイブリッド車の次の市場として、 あくまで ・テスラの「電池パック交換」式の電気自動車の普及拡大に協力するか ・ それとも水素エンジン車で行くか という二者択一をしたことである。 なぜ両方を並行させる選択をしなかったのかということである。 仮にクルマメーカーとしてのトヨタの経営判断が内向きに主観合理的だったとしても、 客観合理的に未来のトヨタグループの全体最適を考えれば、それは現在の部分最適に過ぎない。 ②トヨタが「水素エンジン」および「燃料電池車」(FCV)という言葉を使って、 ・クルマ市場への対応ばかりを追求していること ・じつは本質はクルマの中で「水素発電」をしている「コト」であり、 その「水素発電機」という「モノ」が革新的な核心技術なのである ということを意図的に伏せているような気がすることである。 トヨタグループには、トヨタホームがある。 さらにトヨタグループの起源は、豊田織機であり、豊田佐吉による「無限動力」の発明への挑戦だった。 「水素発電機」をクルマに内蔵させるだけでなく、工場の動力源とすることも目指して自然である。 一画に「水素発電機」を設置した住宅地や地下駐車場に「水素発電機」を設置した大型マンションなどを開発し、 そこに「水素タンクローリー車」が水素を供給して回る。 一画に「水素発電機」を設置した工業団地を開発し、 そこに「水素タンクローリー車」が水素を供給して回る。 こうした「水素発電機」の設置場所を「水素エンジン車」用の「水素ステーション」にする。 その建設コストを、電力ランニングコストの長期的な低減を理由として、住宅地や大型マンションや工業団地の開発コストに組み込むことができる。 なぜそのような誰でも想い浮かぶようなトヨタグループとしてのマスタープランを豊田章男社長は打ち出せないのだろうか。 やはり、官界主導の日本産業界の主要メンバーとして国の意向にそった、というポリティカルな理由から、 クルマメーカーのトヨタとしてもトヨタグループとしても追求する次世代技術を水素エンジン車に一辺倒化する意思決定に至ったのだろう。 しかし、産官協同は別段日本だけのことではない。アメリカや中国などで発達している軍産複合体も産官協同に他ならない。 じつは問題の核心は、 日本の産官協同が「モノ割り縦割り」で、かつ集団を身内で固める「家康志向」に一辺倒化していることなのである。 つまり、クルマメーカーのトヨタがそっている国の意向とは、主に経産省の製造産業局の自動車課と資源エネルギー庁のそれである。 電気自動車について、経産省と国土交通省の旧運輸省帰属の自動車局などが連携する会議体ができたのも最近なのである。 まして、「水素ステーション」を設置する住宅地や大型マンションや工業団地を管轄する旧建設省帰属の部局との、言わば「コト割横ぐし」の連携は希薄である。 そういう連携は、自由に活動する個々が適宜に集団を構成する「信長志向」である。 伝統的に省益の最大化を最優先する部分最適志向の官僚体制は、集団を身内で固める「家康志向」に一辺倒化して、「信長志向」を排除する傾向が強いのだ。 経産省の製造産業局の自動車課は、資源エネルギー庁の原発推進政策を優先し、それを抑制することになるほどの「水素発電」の普及拡大をしたくはない。 そこで、 国土交通省の旧運輸省帰属の自動車局などとはあくまで「水素エンジン車」をテーマに連携するものの、 「水素ステーション」を設置する住宅地や大型マンションや工業団地を管轄する旧建設省帰属の部局との連携には消極的なのである。 おそらく豊田章男社長は、日本ではクルマメーカーのトップとして経産省の意向にそいまたそれを忖度したと考えられる。 しかし、本来はトヨタグループの総帥としては、創始者の「なんとか人のために役立ちたい」と「無限動力」の発明に挑戦したスピリットを貫徹すべきである。 私は、豊田章男社長は、前述したような「水素発電機」を設置した住宅地や大型マンション、工業団地や大学キャンパスによる「水素ステーション」網の展開を、そこでの「水素エンジン車」の共有共同使用を連携させてするのではないか。トヨタグループの総帥として創始者の「なんとか人のために役立ちたい」と目指した「無限動力」社会を、日本でではなくアメリカでやろうとしているのではないかと期待する。 もしそうであれば、まさしくテスラの「秘密のマスタープラン」と投資誘導で競合するから、アメリカにおけるマスク氏の厳しいトヨタの「水素エンジン」批判も頷けるのだが。 こうした電力インフラのイノベーションの文脈で、近年、話題となったテスラの動きは、アメリカ領サモアの600人程度の島民が住む孤島「タウ島」と、ハワイの人口約7万人の「カウワイ島」である。 「タウ島」は、テスラが買収したソーラーパネル導入企業「SolarCity」がメガソーラー発電所を設置したことで、太陽光だけで生活できるクリーンな離島になった。 メガソーラー発電所とテスラの蓄電バッテリー「Powerpack」を併設したマイクログリッド(大規模発電所からの送電電力にほとんど依存せずに、エネルギー供給源と消費施設をもつ小規模なエネルギー・ネットワーク)で、島の生活やインフラに必要な電力のほぼ100%を太陽光による再生可能エネルギーだけで発電できるようになった。 孤島の島民は、発電に必要だった化石燃料の不足におびえる心配もなく、24時間を通して安定した電力が供給されるようになったという。 「カウワイ島」は、約5万5000枚ものソーラーパネルを使ったメガソーラーと、272台のテスラ製蓄電装置「Powerpack」(パワーパック)を使って人口約6万7000の島全体の電力を昼夜を問わず再生可能エネルギーである太陽光でまかなう。 1年あたり160万ガロン(約6000キロリットル:ドラム缶3万本)に相当するディーゼル燃料の節約が可能になる見通しという。パワーパックは、アメリカ・ネバダ州で稼働を開始した超巨大バッテリー工場「ギガファクトリー」で生産されたものであり、テスラが同様の計画を他でも進めつつあることをうかがわせる。 太陽光発電や風力発電など再生可能エネルギーの最大の弱点は「安定性が確保できない」と指摘されてきた。 しかし、テスラは「パワーパック」の大量投入によって、この問題を膨大な量のリチウムイオン電池による言わば「電力のダム」で解決する。 今後、都市部や(電気)鉄道沿線地域での落差あるエネルギー供給特性を補うマイクログリッド化と合わせ技して行くのだろう。 テスラは住宅づくりにしろ、町や島のマイクログリッド化にしても、「ソーラー発電+蓄電」という考え方を基本としている。 クルマと住宅やマイクログリッドとの連携を想定しているのは当然として、クルマ自体でも宇宙船同様に「ソーラー発電+蓄電」の考えを実現しようとしている。 ただし、現時点の投資誘導という側面で、トヨタの「水素エンジン車」ないし「水素発電」電力インフラとバッティングするが、未来の着地点としてはバッティングするよりも適材適所の役割分担で相互補完的に共存する可能性が高い。 だから、テスラCEOのマスク氏の提携解消後のトヨタの「水素エンジン批判」も、私はどこまで本気なのか図りかねている。 前述したように、「秘密のマスタープラン」の①「電池パック交換」方式車と「電池パック交換」ステーションの普及拡大を完遂するために、アメリカの自動車産業界の好感を得るべく、実は豊田章男社長の納得済みでトヨタ批判をしているの感も否めない。 総括 本論シリーズの主題は、「日本の企業社会の変質」を広義のマーケティングや組織知識創造の観点から検討することだった。 「自分の好きな仕事を選んでしている人」たちが導く「現代社会最後の共同体性」について、それを体験したことのない人々にも理解してもらえるように、私自身の体験や見聞きのニュアンスを重視して解説した。 それは、制度化された明示知であるよりも、集団や組織や社会に共有された集合的無意識に根ざした暗黙知である。 そして、その有り方を常に時代の変化に適応させたものだけが存続する。そうでないものは自然に淘汰されてしまう。 特にその淘汰は、戦後昭和に一般化していた「日本型経営」がバブル崩壊後に短絡的に全否定されて顕著になった。 よってその前後に仕事人生を歩んだ私としては、1980年代から2010年代までの日本の企業社会の実像に照らし「現代社会最後の共同体性」がどのような変遷をたどったかなるべく具体的に物語りニュアンスを伝えることで、少しでも追体験のように暗黙知を共有してもらいたいと願った次第である。 その冒頭で、「自分の好きな仕事を選んでしている人」たちが導く「現代社会最後の共同体性」は、日本人の創造的な共同体性の最後の砦であるが、じつは日本人に絶えることのない「日本人元来の創造的な共同体性」であるということを、私の古代日本についての歴史仮説をもって概説した。 その歴史仮説とは、日本人に特有の「仕事感」なるものが古代日本で全国各地で同様に形成された、というものである。 日本人に特有の「仕事感」とは、 神社の「信仰共同体」の一員として、様々な社や神への供え物(商品)そして奉納事(サービス)という神を祀る神社を成立させるプロダクトを供給する仕事についての「仕事感」 である。 逆に言えば、 「信仰共同体」の一員としての仕事に専念し精進して、共通の「仕事感」を抱くことが日本人の「信仰の実践」となった ということでもある。 「自分の好きな仕事を選んでしている人」たちが導く「現代社会最後の共同体性」ということの大前提として、 「世のため人のために役立つ仕事」ということがある。 それゆえに「自分の好きな仕事」に心底から誇りや愛情を持てるのである。 言わずもがなのことのようだが、人によっては「自分の好きな仕事」が他者を傷つけることや他者から盗むことである人もいたり、そういう人が正当化される社会の様相もないではない。 IQの高いIT技術の先端知識をもった「自分の好きな仕事を選んでしている人」は、ハッカーでもありえるし、そのハッカーにも単なる泥棒もいれば各国の政権の不正を暴く正義の味方もいる。 日本人の「世のため人のために役立つ仕事」を好むニュアンスは独特である。 それを好む者は誰に教わるでもなく自然と好む。 歴史的には身分の上下や職業の貴賤が想定された時代にもそれに関わらず、好む者は個々それぞれに好み、好む者たちが集団や組織を自然発生させた。 現代でも、同じスーパーのレジ打ちのパート店員さんでも、経済的余裕ができれば今日にでも辞めたいことがありありと伺えるそっけない人もいれば、ひょっとするとこの人は経済的余裕があるのにこの仕事が好きでやっているのではないかと思うほどに楽しげに微笑んで接客している人もいる。おばあさんの常連客が彼女との対話を楽しみにわざわざ行列するような人だ。同じ仕事でも人によって「世のため人のために役立つ仕事」にしてしまう人とそうではない人がいる。 たとえばアメリカ大統領ジョン・F・ケネディには、父親から「溝掘り人夫になるなら世界一の溝掘り人夫になれ」と教えられたという有名な逸話がある。それはアメリカ人の「世のため人のために役立つ仕事」のニュアンスを示している。 一方、日本人の「世のため人のために役立つ仕事」のニュアンスは、他者と比較して優位に立つべしとするような他律性にない。 あくまで本人が、何でも良いから「自分の好きな仕事」を張り合いと誇りをもって苦も楽も引き受けて、少しでも「世のため人のために役立つ仕事」と感じれば(他者がどう思おうと、同じことをしている他者に劣ろうとも)それで良いという自律性にある。 この自律性は、単なる自己中心的な自己満足ではありえない。 ここがポイントなのだが、なぜなら自律性の中核に言わば「風土と一体化した八百万の神」がいるからである。 「風土と一体化した八百万の神」は、自然と人間との関係性において把捉される暗黙知であり身体知である。 これは、国家神道のような形式知から導かれるものでもなければ、キリスト教の人格神のような聖書に著された明示知でもない。 (2/3)から、 (3/3)http://cds190.exblog.jp/25526417/ にかけて、 「カスタマー・マーケティング」について、主にバブル崩壊以降の各業界の大手メーカーの動向に照らして解説した。 それは、 「マス」マーケティングが、 <送り手側のモノ提供の論理>において、 個々の選好傾向を捨象した万人を対象に、 「明示知としての確定性」を建前として重視する 「モノ割り縦割り」の枠組みのものであるのと真逆に、 <受け手側のコト実現の論理>において、 特定の選好傾向の保持者を対象に 「暗黙知としての不確定性」を現実として重視する 「コト割り横ぐし」の枠組みのものである。 この「カスタマー・マーケティング」の考え方は、人間や社会の捉え方であるから、 生活者の顧客への対応として一般消費者市場だけでなく、 事業者の顧客への対応としての業務用市場にも、 世界各国の政府への対応としての公共事業市場にも展開しうること、していることを確認した。 そして、 「モノ割り縦割り」の「マス」マーケティングを展開している組織は、 日本の縦割り行政の省庁を含めて、集団を身内で固める「家康志向」が強くそれに一辺倒化していく嫌いがあり、 「コト割り横ぐし」の「カスタマー・マーケティング」を展開している組織は、 原理的にそうするしか発展できないベンチャー企業を筆頭に、自由に活動する個々が適宜に集団を構成する「信長志向」にある。 日本の歴史を顧みて明かなのは、 「家康志向」一辺倒化は、組織を硬直化させ社会を膠着化させる。 それを打開してきたのは常に一部有志たちの「信長志向」だった。 「家康志向」一辺倒化の究極の姿が、選民思想や排他主義を良しとする全体主義、軍人という官僚独裁である軍国主義であることは言うまでもない。 以上のような基礎的な知見を踏まえると、 トヨタが、テスラと共同開発をしながら提携を解消した経緯の帰結として、 主に経産省の製造産業局の自動車課と資源エネルギー庁の意向にそって テスラの「電池パック交換」方式車と「電池パック交換」ステーションを採用せずにむしろその普及拡大に対抗し、 「水素エンジン車」のイノベーション技術の中核である「水素発電機」を、住宅地や大型マンションや工業団地に設置してこれを「水素ステーション」とするといった自動車業界から電力エネルギー業界への事業拡張を自粛していると見える状況は とても象徴的だ。 なぜなら、 戦後昭和に一般化していた「日本型経営」は、「改善」を「家康志向」で行い「革新」を「信長志向」でする合わせ技だったのが、 パブル崩壊後の「日本型経営」の短絡的な全否定によって、「信長志向」が排除されて「家康志向」一辺倒化が進んだ。 それによって、「日本型経営」の知識創造エンジンであったミドル・アップダウン・マネジメントの担い手だった「ナレッジ・エンジニア」としてのキーマン中間管理職が一掃され、1990年代以降の日本企業は組織知識創造力における独創性を減退させてきた。 一方、トヨタはバブル崩壊後の大方の日本企業が「日本型経営」の全否定に走った際に、その欠点は排除するも美点は維持して現代化・国際化することで世界的に成長した健全なる未来志向のエクセレント企業であった。事業部門横断的な活動や異業界異業種との恊働や外部ブレインの活用にも積極的な「信長志向」も温存してきている。 しかしそんなトヨタでさえ、日本の官界主導の産業界という国家レベルの「家康志向」には捕われてしまう、ということだからである。 トヨタとテスラの問題が、自動車ジャーナリズムという狭い枠組みだけで論じられていることにも、「家康志向」的な狭量や制約が感じられる。 私はテスラについて敢えて、生活者や国民や人類という受け手側の論理に立って「信長志向」の体制でしか対応できない「カスタマー・マーケティング」という論点から、ビジネスライクなその客観合理性を整理した。 トヨタがテスラと共同開発するにしてもその提携を解消するにしても、トヨタ側もビジネスライクな客観的合理性が一貫していると前提した。しかしトヨタ側の意思決定には、どうしてもビジネスライクな客観合理性では説明できないところがその核心としてあった。 それは、日本の官界主導の産業界という国家レベルの「家康志向」における、その柵を配慮したポリティクスだった。 日本人の仕事感は、伊勢神宮の式年造替に始まった、神社を消費拠点として各種プロダクト(生鮮産品づくり、モノづくりだけでなく芸能なども含む)の生産地や供給者が組織された「信仰共同体」の一員が、それぞれの生業を「信仰の実践」として行ったことに由来する。 そして、 それぞれがそれぞれの仕事を「八百万の神(=自然や風土)のため」→「神社のため」→「信仰共同体のため」→「世のため人のため」にする、 すると「神様が喜んで加護してくれる」→「豊作になる」「よいモノがつくれる」「よい芸ができる」→「みなが喜ぶ」「みなが幸せになる」 という原理原則的な価値観が古来、暗黙知と身体知として学習され継承されてきた。 移動民である芸能民によって担われた祭りでの芸能は、やがて共同体の構成員によって分担され恊働されるようになる。 その恊働の過程で、 「子供たちが好きな歌舞音曲を担ったり、分担させられた歌舞音曲を好きになったりする」 →「年輩名人と若者、若者同士、若者と子供で自主稽古する中で先輩後輩の縦関係と同輩の横関係が培われる(共同体の人間関係の素地となる)」 →「共同体の構成員が参加者および観衆となって祭りを神社境内や門前町通りで展開する(共同体の結束を確認強化する)」 というダイナミズムが現象していく。 こうした「自分の好きな仕事をする人々」や「自分の仕事に誇りと愛着をもち好きになっていく人々」が自然発生させている「共同体性を本質とする<世間>ないし社会」というものが、 かつては村や町に制度的ないし慣行的にあったが、 現代でも、共通の関心事や共通の価値観を依り代とした知縁や志縁の人間関係において想定され現象している。 バブル期までの、共同体性を本質とする「日本型経営」が一般的だった戦後昭和は、日本の産業社会の全体や、日本人の個々が帰属する仕事<世間>が、そのような「共同体性を本質とする社会」であった。 バブル崩壊後、「日本型経営」が解消されそれが育んだ一億層中流意識を抱いた分厚い中間層も崩壊した。会社や役所といった仕事をする中間団体それ自体の共同体性は解消していった。 しかし、インターネットの普及によって、リアルに相対する訳ではないが関心事や価値観を共有する者同士がテーマごとにネットワークすることができるようになった。 今ではむしろ純粋に知縁や志縁だけによって効率的に恊働する現代的で、目的と手段によっては国際的な新たな「共同体性を本質とする社会」が分散的にそして重層的に現象するようになっている。 「カスタマー・マーケティング」の文脈では、 それが「受け手側のコト(生活や仕事)実現の論理」を体現するものでなくてはならない以上、何らかのプロダクトを提供することで受け手のコトを具現化することが好き、あるいは好きになって誇れる人材が、事業や商品サービスの開発や運営のイニシアティブの担い手として不可欠である。 ネット社会では、あるプロダクトを提供する仕事が好きな人と、あるプロダクトを使う生活が好きな人とが、ダイレクトに連絡したり恊働できる。「カスタマー・マーケティング」は新たな次元に突入したと言えよう。 しかし、人間関係の普遍的な原理原則や、日本人の集団志向や日本人ならではの<世間>という民族性は変わらない。 集団を身内で固める「家康志向」一辺倒化の弊害の文脈では、 大方の人々が集団の身内で留まる保身を優先するようになり、既定路線の思考と行動をする者だけが身内であるという排他性を伴うようになる。すると、必ずしも「自分の好きな仕事をする人々」や「自分の仕事に誇りと愛着をもち好きになっていく人々」が活躍できず、彼らが健全に創造性を発揮する「共同体性を本質とする社会」が形成されなくなる。その結果、組織は硬直化し、社会は膠着化する。 その点、歴史的にそうした限界状況を常に打開してきた(ないしは打開しようとしてきた)一部有志たちの、自由に活動する個々が適宜に集団を構成する「信長志向」は、「自分の好きな仕事をする人々」や「自分の仕事に誇りと愛着をもち好きになっていく人々」がその意志を使命感として全うするものであり、古来、共通の関心事や共通の価値観を依り代とした知縁や志縁の人間関係において想定されたり現象している。 従来の「マス・マーケティング」の捉え方をパラダイム転換する「カスタマー・マーケティング」の捉え方を、新しいテーマや関心事で具現化していくには、 現実問題としては、 既定路線を内向きの保身優先の人間関係で保とうとする「家康志向」一辺倒化の恊働を脱して、 新しい地平を外向きのオープンな人間関係で切り開いていこうとする「信長志向」の恊働を動員する必要がある。 このような論旨の本論シリーズが、 これからの日本の企業社会において、 市場創造や顧客創造といった未来志向のマーケティングを目指す職能人や、 未来志向のパラダイム転換の知識創造やパラダイム創造型の人材育成を目指す職能人の方々にとって、 何かの参考に少しでもなれば幸いです。(完)
by cds190
| 2017-03-14 15:25
|
ファン申請 |
||