「儒禍 二千年の呪縛」黄文雄著 光文社刊 発
(8)
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からのつづき。
儒教はどのように日本的に取り入れられたのか
①「永劫の罰」がなかった日本の特性 より
「儒禍」の著者、黄文雄氏は、日本は古代国家の成立において聖徳太子が「和」を国家理念とし、その際、儒教の「仁義礼智信」の五常の「仁」を「和」に置き換えたとする。そして、その「和」は仏教を背景にしたもので、儒教倫理を超えて日本の有史以来の社会原理として定着したとする。
これに対して私は、日本人にとっての「和」の実質的な内容は、そもそも人類普遍の<部族人的な心性>として有史以前の共同体を安定化させる人間関係原理としてあった体系的な暗黙知であり身体知であったと考える。それが漢字の導入と仏教の興隆よって「和」という明示知として体系立てられた、ということだと思う。
著者は、中国古代における儒教と仏教の競合や混淆が念頭にあって、それが日本でも展開したと考えているのかも知れない。しかし、日本人はもともとあった土着的な<部族人的な心性>の暗黙知や身体知をベースとして温存して、外来の<社会人的な心性>の明示知を取捨選択して独自の<部族人的な心性>を形成したのである。そして、このような認知論的ダイナミズムは今日も民族性として続いている。
以上のことを踏まえて以下、日本人にとっての儒教の基本概念を検討していこう。
まず「仁」とは仁愛、情け深い心で人を思いやること、いつくしむこと、またはその様である。孔子が中心にすえた倫理規定、人間関係の基本である。厳密に言うと、個々の仁愛があると人間関係とその総体である社会が良好になる、という<個々→全体>パラダイムにある。一方、「和」とは和合、集団や社会において個々が互いの人間関係に納得して安定している様である。それは人間関係の理想であり、それをみんなが求めて努めることで人間関係とその総体である社会が良好になる、ひいてはその一員である個々も心穏やかに平穏に暮らせる、という<全体→個々>パラダイムにある。このような「和」を最優先する日本人の社会や有史以前の部族の共同体は、正確には<世間>というべきである。
(論述が複雑になりすぎることを回避して詳述を避けるが、 <個々→全体>パラダイムは、<関係→状況>パラダイムであり、 関係性を明示知として捉えてそれを主語=実体とする「主語主義」にある。 一方、 <全体→個々>パラダイムは、<状況→関係>パラダイムであり、 状況性を暗黙知や身体知として捉えてそれを述語=実体とする「述語主義」にある。)
欧米人は、個々が単身、直接に人格神と対峙する<個人>であり、その集合が<社会>である。中国人も、個々が単身、直接に天意や天命に従うしかない<個>であるという点で、欧米人に近い。しかし日本人は、自然(生活に密着した風土)を神とし、それと共生する共同体の一員として存在する。ポイントは、個々が単身、超越的な神たる自然には、直接に対峙するのではなく、あくまで共同体として(垂直関係ないし全体部分関係で)対峙する、ということである。(たとえば、個々が単身、草花のような自然に接するのは、自然と一体化した人間として同様の草花と(水平関係ないし部分同士関係で)で接している。)
自然という超越者にあくまで共同体として対峙するという日本人は、帰属する人間関係の総体という<世間>においてそこでの位置づけである<分際(自分)>として存在する(自らのアイデンティティを確保している)ということである。
ざっくり言えば、欧米人や中国人は<超越者(神・天)→個々→社会>というパラダイムにある一方、
日本人は<超越者(自然・風土)→世間→自分>というパラダイムにあると言える。一方、
以上をまとめると、<超越者(天)→個々→社会>パラダイムにある中国人は、<個々→全体>パラダイムにある「仁」を起点に(主語主義=明示知の)人間関係を重視する一方、<超越者(風土)→世間→自分>パラダイムにある日本人は、<全体→個々>パラダイムにある「和」を起点に(述語主義=暗黙知の)人間状況を重視するということになる。
著者は中村元氏が「日本独自の寛容、宥和の精神の最もよく表われるところ」とたびたび指摘しているとして、以下のことに言及している。「古代より保元の乱に至るまでの約三百年の間、死刑が行われなかった。 戦争が終わると自軍はもとより敵軍の死者を含めて冥福を祈り、合祀までして敵味方の霊魂を弔った。(中略) これらは日本以外の国ではなかなか見られないことである」これも人類普遍の<部族人的な心性>をベースとして温存して形成された日本人の<社会人的な心性>の働きであると考えられる。(<部族人的な心性>においては「交換」ではなく「贈与」のやりとりが行われた。それは「負い目感情」の経済である。この「負い目感情」というものが自分のそれでも他者のそれでも主観的に感じたり慮ったりするしかない暗黙知や身体知である。また人間関係というよりもそれが伴う人間状況によって生起したり増減する述語主義的なものと言える。 <部族人的な心性>において戦争は言わば負の「贈与」経済であった。終戦は何らかの形での「負い目感情」の相殺でなくてはならなかった。 日本人の場合、そうした捉え方が有史以後も長く温存され重視されたということではないか。)
人類学の分野では、狩猟採集によって移動生活をしている部族社会の研究(フィンランドのオーボ・アカデミー大学のダグラス・フライとパトリック・セーデルベリ)が、暴力によって発生した死亡事故の中で、戦争行為として定義されてもよいものはごく僅かで、暴力のほとんどは個人対個人のものであり、通常は、女性や盗みに関わる個人的な恨みによるもとだったとしている。研究者によると、死亡事故の約85%は、殺害者と犠牲者が同じ集団に属するケースで、暴力による死亡事故の約3分の2は、家族内の確執、妻をめぐる争い、事故や合法的な処刑だったという。暴力的な出来事の55%は個人間のもので戦争ではなかった。集団的な抗争を調べると、その典型的なパターンは家族間の確執や復讐の殺人でこれも戦争ではなかった。このことは、農耕が登場する以前の時代では、戦争はあまり一般的ではなかったことを示しているという。
狩猟採集民の部族内部で個人間、家族間で暴力闘争があり、農耕民となって部族が拡大家族化し、家族間の暴力闘争が集落間の暴力紛争に高次化し、やがて集落群の結集した「くに」同士の戦争に高次化したと考えられる。よって日本列島においては、長く狩猟採集民であった縄文人は、農耕民となって拡大家族的な部族による集落を形成するまでは、戦争はあまり一般的ではなかったと考えられる。人類普遍の<部族人的な心性>が平和的だったことは日本列島の縄文人も例外ではなかった。それが、縄文人が縄文時代末に農耕をはじめた段階で集落間の紛争が起こり始めた。この段階で、縄文人の<部族人的な心性>は紛争による死者を、家族内の確執や集落内の処刑による死者と同様に葬った。その葬祭の呪術的な心性は、死者の魂や身体を自然に帰すというアニミズムで、自然に帰ってしまえば区別のしようもないという素朴な感受性が、結果的に敵味方の区別なく弔うという慣行に繋がっていったと考えられる。
だとすれば、それは、中村元氏が指摘する「寛容、宥和の精神の最もよく表われるところ」と言えるか疑問である。むしろ、そうした慣行が繰り返されて「寛容、宥和の精神」が育まれ、それをベースとしてそうした慣行を「寛容、宥和の精神」からするような<社会人的な心性>が後世に渡って形成された、と考えるのが自然である。
「さらに日本には、極悪非道の人間までもが、死ねばすべて救われるという究極の寛容と慈悲の思想も生まれている。死者は、みな仏と称されて許されるのだ。日本には永遠に救われない、『永劫の罰』がなかったことも特筆すべきことであろう」著者はこのような日本人の信仰特性にも言及している。
これも、もともとは石器時代までの人類普遍の<部族人的な心性>としてあった素朴な死生観をベースとして温存して形成された<社会人的な心性>の暗黙知や身体知であり、それを仏教の用語や文脈を利用して明示知として表現するようになったと考えることができる。
以上のように、仏教の用語を使っているからその心性が仏教に由来すると考えるのは短絡である。もともとあった<部族人的な心性>の暗黙知や身体知を、仏教の用語と文脈を使って明示知として表現するようになった。そう考えるべきタンジュンな理由がある。それは、仏教の経典を読んだこともお経を聞いた事もない一般庶民が、誰に教わるでもなく「和」を重んじる心性を共有するようになる、ということである。「和」を重んじる心性は、<家>や<世間>という「和」を重んじる集合的無意識の働く<場>において、体験的に、つまりは暗黙知や身体知として学習され継承されている。
私は、日本人が原理的に尊重する「和」については著者と意見を異にする。しかし以下のような、中国文化で育った台湾人の著者からそうみえるという日本人の様相については、日本人の私からみてもそうだと同意する。
「和を保つためには公平かつ平等でなければならない。突出した言動、一匹狼が何よりも嫌われ、出る杭は打たれることになる」「能力主義よりも、序列主義が大事にされ、日本の年功序列制度が生まれた。また、実力競争で生じる対立を避け、談合による問題解決が好まれるので、リーダーによる独断よりも、長老による根回しや意見のとりまとめが重要視され、日本的民主主義が生まれた」
このような日本人の集団志向の実態についての著者の指摘は正しいと日本人の私たちも認めざるを得ない。しかし、忘れてはならない、忘れられがちなことがある。
日本人の集団志向には、集団を身内で固める「家康志向」自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の2つがあり、前者が日本人に血肉化していてメジャーであるが、後者も一部有志によって重要な局面で展開し、前者一辺倒化による組織の硬直化や社会の膠着化を打開してきたということだ。著者の指摘する日本人の集団志向の実態は正しいが、すべて「家康志向」の話であって、著者の指摘しない「信長志向」もありその実態は「家康志向」と真逆の様相を呈する。
人類普遍の<部族人的な心性>に照らすと、
集団を身内で固める「家康志向」は、共同体の秩序と安定を確保する<内向きの志向>であり
「安全基地の確保」という哺乳類の本能に由来する
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」は、外来者を来訪神やまれびととして歓迎して共同体の変化と発展を確保する<外向きの志向>であり、
「冒険・探索」という哺乳類の本能に由来する
と考えられる。
著者もそうだし、日本人の一般的な常識としてもそうなのだが、聖徳太子が重んじた「和」を、集団を身内で固める「家康志向」の「和」、<内向き志向>の「和」とのみ捉えがちだ。
しかし、聖徳太子の時代の支配層には日本列島内外のさまざまな出身の氏族がいたのであって、勢力を誇る他所者同士が主導権争いに明け暮れた状況にあった。それを収束させて「オール身内となる」あるいは「身内ではない者とも共生する」ことが国家建設の第一歩だった。つまり、競合する支配階層の諸勢力が狭量な<内向き志向>を脱してお互いに寛容な<外向き志向>を発揮することで、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の「大和」を成就することこそが日本古代の国家建設のスタートラインだった、と言える。
「聖徳太子の憲法十七条にも『大なる事は独り断(さだ)むるべからず、必ず衆と与(とも)に論(あげつら)うべし』と謳われており、独断と独走の禁止を明文化している」
この背景には、聖徳太子が「大王(おおきみ)」への集権を目指す前段階の、その権力基盤の脆弱と豪族たちの競合そして蘇我氏の大王を凌ぐ覇権確立への反省があったと考えられる。
ここで大王が天皇を名乗るにいたる経過を振り返っておきたい。
まず大王家と密接な関係にあった朝鮮半島の伽耶諸国が新羅と百済という領域国家の支配下に置かれ、ヤマト王権は百済と関係を深めるが、次第に新羅の勢力が強まっていった。中国に統一国家、随が誕生し、その遠征によって高句麗が弱体化されやがて滅ぼされ、新羅もその属国化していく。こうした極東情勢にある時代、ヤマト王権の政権内部では、それまで大王を支えてきた豪族たちが争い、蘇我馬子が時の大王崇峻の殺害を図って実行させるなどして大王家を脅かした。つまりは内憂外患の状態に陥った。そこで、大王への集権を進めて周辺諸国のような中央集権の領域国家を目指し、それによって内憂を払拭し外患に対峙しようとしたのが、大王用明の子で、初の女性大王=大王推古の摂政となり、後に聖徳太子と呼ばれた王子厩戸であった。周知のように、彼は冠位十二階や十七条憲法の制定などで大王の権威を高め、随に遣隋使を送り、大王が随の皇帝と対等の地位にあることをアピールした。
注目されるのは、聖徳太子の改革は志半ばで終わるが、その業績が彼の前半生に集中していて、後半生ではあまり政治的業績がないことである。思うに、聖徳太子は位階と憲法という制度と法によって大王の権威を固定した訳だが、これにより「誰が大王になるか」という権力闘争だけが続くことになる。つまり国体が確定し、権力闘争は大枠として内政問題となった。それまでは、権力闘争が内戦化してそこに周辺諸国が介入する可能性があった。じつはこの可能性を絶つことが聖徳太子の課題の第一であって、前半生においてそれを果たしたということではないか。
太子としては、後の権力闘争は権力亡者同士で勝手にやってくれ、ということだったのではないか。聖徳太子は仏教興隆に尽力している。
『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は聖徳太子による(彼の著作、彼の下で朝鮮から来日した僧の著作、中国から入手した書からの彼の抜萃といった説がある)。勝鬘経義疏で信仰の対象とすべき仏(釈迦如来)を説き、維摩経義疏で信仰者の立場(在家仏教)を説き、法華義疏で根本とすべき経典(法華経)を説いた。聖徳太子は、民衆に近い存在として人々に仏教の教えを広めたとされ、それは仏教興隆へのソフト面での尽力と言える。
一方、聖徳太子は、仏教興隆へのハード面での尽力もしているようだ。日本の大工は仏教伝来とともやってきた渡来民に始まるが、大工集団には聖徳太子を自分たちの始祖と仰ぐ太子信仰が普及している。聖徳太子が、大工にとって大切な道具である「曲尺(かなじゃく)」を発明したということになっていて、太子が木造建築という先端知識を習得した技術者やプロデューサーとして仏寺建築に携わったことを想像させる。また太子信仰は木地師にも普及していて、聖徳太子が仏寺建築の建材確保から建設現場までのサプライチェーンを統合するシンジケートを組織したことを推察させる。
古墳時代までは、豪族の権力の象徴は古墳だった。それが仏教興隆にともなって仏寺建立が権力の象徴となっていく。その仏寺建立に不可欠な大工集団と木材供給集団を、聖徳太子が組織的におさえたとすれば、蘇我氏が権力闘争に勝っても、その権力を象徴する仏寺の建立に際して、太子信仰を共有する建築シンジケートの力を借りねばならない。そうであれば、当時のハイテクを支える者としての権威はいつまでも聖徳太子側に認められることになる。同様に、いくら蘇我氏が財力によって仏寺を建てて仏像を造ったとしても、それを拝み崇める庶民の信仰心が聖徳太子によって育まれたとすれば、当時の新興宗教を育んだ者としての権威はいつまでも聖徳太子側に認められることになる。このように考えると、権力闘争で敗れたとされる聖徳太子だが、信仰や建築といった宗教文化政策を主導する権威という観点から見れば揺るぎない勝者になっている。
ここで思い起されるのが、なぜ後の天武天皇は中国式の「皇帝」になれたのに日本式の「天皇」になったのか、という論題である。蘇我氏の権勢はさらに強まり大王家を凌ぐ勢いとなる一方、中国では隋に代わった唐がさらに発展していく。そんな中、唐から帰った留学生からの情報で国内外について危機感を募らせていた大王皇極の子、王子中大兄がクーデターで蘇我氏を滅ぼす(大化の改新、乙巳の変)。そして朝鮮半島で同盟国の百済が新羅と唐によって滅ぼされると、彼は遠征して大敗する(白村江の戦い)。この後、国政は新羅の指導を仰ぐようになる(唐と新羅の連合が朝鮮半島と九州を平定した後、新羅が唐と敵対し追い出した結果。ちょうど太平洋戦争に敗戦した戦後日本が、日米合同委員会の指導を受け入れて来たように)。王子中大兄が大王天智となって進んだ政策は、百済型から新羅型へという変化はあったものの基本的には中国化政策だった。これを新羅同様に中国の属国で甘んじる政策であると否定して対抗したのが、大王天智の死後の後継者争い(壬申の乱)に勝利した、大王天智の弟、王子大海人だった。彼は、劣勢からいったんは吉野に逃れるが、伊勢から豪族勢力を結集して近江京の王子大友を討って政権を奪取、飛鳥に都を戻して大王天武として即位した。この時点で、大王は絶対的な支配者となり、中国式に「皇帝」を名乗ることも可能だった。しかし、中国化政策に対抗した彼は中国式の「皇帝」を名乗らなかった。そして日本式の「天皇(すめらみこと)」という呼称をその皇后、持統天皇が「飛鳥浄御原令」を施行して正式に名乗ることになる。では、その何が日本式ということの本質だったのだろうか。
私は、中国式の「皇帝」は、覇王であることによって(結果論的に)天意により選ばれし天子とされる、ということから「権力と権威の一致」というパラダイムにあるのに対して、日本式の「天皇」は、天孫の直系であるという正統性によって権威とされ、たとえ権力を(蘇我氏のような)時の権力者に奪われてもその権威は揺るぎない、ということから「権力と権威の不一致」というパラダイムにあるということだと考える。
そして、この日本式の「天皇」のパラダイムは、古事記と日本書紀の神話という戦略的コンテンツによって体系立てられた。全国各地に神と神話が割り振られ、全国ネットワークする主要神社という戦略的メディアがそれを踏まえた祭祀によってパブリックリレーションする。これにより日本人の精神風土が統合的に形成されて今日に至っている。
主要神社が戦略的メディアとなるためには、神社建築と神社祭祀の様式スタンダードの確立が必要だった。それらは伊勢神宮の式年造替の開始において確立したが、その際、必要な資材や産品の供給地を組織する形で、伊勢神宮を消費拠点とする環伊勢海地方を一つの地方経済圏として産業振興した。これを雛形として、全国の主要神社を消費拠点とした地方経済圏が創成されていった。この初期設定を完遂したのが持統天皇だった。
祭祀する神と神話を共有する信仰共同体と、産業共生する地方経済圏との緊密に重なる時空が、人々の日常と非日常の枠組みとなっていった。以後、日本は、中央の権力体制において最高権力者が藤原氏の摂関家、平清盛の太政大臣、源、足利、徳川の将軍家などと移り変わっていっても、全国地方の宗教的かつ文化的な権威体制において統括的な最高権威者は、常に神話の神に連なる万世一系の天皇家であり続けてきた。戦前の立憲君主制の天皇制、戦後の象徴天皇制もその延長にある。
天武・持統両天皇によるこうした「神道」の新造を媒介に達成した「権力と権威の不一致」のパラダイムは、聖徳太子が仏教興隆のソフト面とハード面の根本をおさえて達成した「権力と権威の不一致」のパラダイムを、もともと日本列島の各地にあった土着の信仰と神話を統一的な祭祀と神話という戦略的コンテンツに統合的に再編し、地元豪族の祭政拠点であった社を主要神社として全国ネットワーク化することで、空間的にも時間的にも拡張して体制化したものと言えよう。
太子信仰の普及状況から、聖徳太子が仏寺建築を手がける大工や木地師などの建築シンジケートを組織したと考えられること持統天皇が式年造替の準備段階で盛んに環伊勢海地方を巡幸して木曽の檜の供給地や、休閑期に萱の刈り取りを担う志摩の海女との未来永劫にわたる提携をしていることともに、信仰共同体と産業共生する地方経済圏との緊密に重なる時空が人々の日常と非日常の枠組みとなっている。
ここで留意しなければならないことは、「天皇の宗教的かつ文化的な権威」と言っても、支配層にとっても被支配層にとっても現代人が考えるような観念的なものではありえないということである。観念的とは、概念的で言葉に言い尽くせる明示知ということである。古代人にとっての宗教的かつ文化的な権威とは、はたまた今も日本人ならでは感受している宗教的かつ文化的な権威とは、そのような観念的なものではない。言葉に言い尽くせない暗黙知や身体知であり、身体感覚をともなった情緒、ないしは、情緒をともなった身体感覚として感受されるものである。
一般的に現代人の<社会人的な心性>が感受する権威は主語主義にある。たとえば、「紫綬褒章」が制度的に明示知として権威づけられるようにである。ところが<部族人的な心性>が感受する権威は述語主義にある。古代の日本人の<社会人的な心性>は、ベースとして温存した<部族人的な心性>が今よりずっと濃厚だった。そしてその暗黙知および身体知が「天皇」の宗教的な権威を決定づけた。そして、現代の私たちの<社会人的な心性>もベースとして<部族人的な心性>を温存していることには変わりない。だから、法的な手続きに従って与えられる「紫綬褒章」が天皇の親授により儀礼的に暗黙知および身体知として権威づけられる必要性があるのである。
無論、権勢を誇る政権担当者でもそれを蔑ろにできない具体的な現実としての「権威」でなければ意味がない。それは具体的に何かというと、庶民が自分たちの伐った木材や刈り取った萱が神社の建築資材に使われることが「信仰の実践」となり、カネでは買えない今でいうプライスレスの「信仰の報酬」を得られるといったことである。祝祭化した木材の運搬が行事となりそれに街道沿いや河川沿いの庶民が参加することが「信仰の実践」となり、目には見えないが着実な共同体の絆のような「信仰の報酬」を得られるといったことである。庶民の日常の仕事を非日常の行事が意味づけるのである。これは庶民の主体性によるしかなく、権勢を誇る権力者でも庶民に強いて可能になることではない。
今よりも濃厚な<部族人的な心性>によって感受された古代における「権威」は、そういう庶民の日常の仕事と非日常の行事との関わりで感受された集合的な暗黙知や身体知であった。
無論、神社の祭りに参加した地元民は神話の語りや歌舞を見聞きしたのだろう。しかし、それは点的な共同幻想の受発信である。面的には、やはり日常的な仕事が非日常的な行事に接続する現実世界の共同幻想化が必要かつ有効だった。そして、このような点的〜面的な空間、日常的〜非日常的な時間の立体的な手立てによって庶民に共有された「権力と権威の不一致」=「権力に絡めとられない権威」のパラダイムが、制度や経典といった観念的な明示知ではなく、仕事や生活を通じた「信仰の実践」と、共同体として享受する「信仰の報酬」の身体感覚をともなった情緒ないしは情緒をともなった身体感覚という暗黙知と身体知として形成されてきた。
これほど曰く言い難いが日本人ならばおおよそ心あたる事柄もないのではないか。人によって出身地が違えば主要神社も異なり、そこに割り振られた神も神話も違うから体験した祭りも異なることばかりである。しかし、おおよそ心あたる仕事や生活を通じた「信仰の実践」と共同体として享受する「信仰の報酬」の暗黙知と身体知は同じパターンにあると認め合える。勿論、欧米人や中国人の「信仰の実践」と「信仰の報酬」にも同様の暗黙知と身体知はある。違うのは、日本人の「信仰の実践」と「信仰の報酬」は暗黙知と身体知だけで成り立っているということなのである。ここにはとても微妙だが本質的な論点がある。
たとえば、キリスト教とユダヤ教とイスラム教が対立したり戦争したりするのは、聖典に書いてある明示知の違いに起因する。同じだったら対立しないのだから。一方、神道にはそうした聖典がない。神道にとって、神話は一神教の聖典とはまったく違う性質のものである。敢えて一神教の聖典に相当するものをあげれば、それは神道がベースとした土着信仰が崇めた自然の集中的な表現である御神体、山や滝や巨石などである。本来の神道は、観念的な自然ではなく地元の具体的な自然、つまりは風土を神とした。その神を体現するのは、地元の山や滝や巨石である。つまり神道の「信仰の実践」は、あくまでも地域密着型でありかつ暗黙知と身体知によるのである。よって、教勢を拡張して、他所の人たちにも自分たちの「信仰の実践」を強要しようとするような他宗教との対立動機が、本来、原理的に内在しない。よって、神仏習合といった展開も可能となっている。このことと、日本人がキリスト教のクリスマスを祝った数日後、正月元旦に神社に初詣することにまったく違和感を感じないこととは通底している。教義、経典といった観念的な明示知の違いについては一切、無視なのである。
たとえば、私たちは、おいしいお茶漬けをサラサラと食べた時、「日本人に生まれて良かった」と言ったり感じたりする。こういう感じ方をアメリカ人や中国人はしない。アメリカ人がうまいハンバーガーを食べて「アメリカ人に生まれて良かった」と言うのを聞いたことがない。中国人がうまい餃子を食べて「中国人に生まれて良かった」と感じているのを見掛けたことがない。些細なことのようだが、このことから、日本人がどのように日本人としてのアイデンティティを感受しているかということが、外国人との違いとして理解できる。おいしいお茶漬けをサラサラと食べた時の、ほっとするような情緒をともなった身体感覚の暗黙知と身体知を感受できる。それが日本人のアイデンティティなのである。
それとまったく同じ認知構造で、鳥居や注連縄をくぐり森や山を分け入って神社の境内を行くと心身が清められるような気持ちになる、そういう情緒をともなった身体感覚の暗黙知と身体知を感受できる。それが日本人のアイデンティティなのである。
無論、このような感受性は外国人でももっている。ただ彼らはそれを「信仰の実践」や「信仰の報酬」に結びつけないし、まして民族のアイデンティティとはしない。
このような日本人の民俗性と総括できる事どもがいつ始まったかと言えば、それは為政者が「日本」という国号とともに「日本人」という概念を想定し、仏教に対峙する「神道」を新造すべく神社建築と神社祭祀の様式スタンダードを確立し、神話という戦略的コンテンツを編纂し、主要神社という戦略的メディアを全国ネットワーク化し、それぞれを消費拠点として産業共生する地方経済圏を創成していった古代なのである。
②「国家統合と社会秩序」の原理として重視されたもの より
ここで、聖徳太子から持統天皇の時代の日本での儒教の受け取り方を振り返っておきたい。
儒教の大本は周礼の尊重で、天と天子である皇帝の支配が前提になっている。よって「為政者の宗教」という側面が強く、民は本音、受動的にこれに従うのであるから、主体的に信仰する「民間の宗教」という側面はたとえば仏教やキリスト教そして神道と比べて希薄と言わざるを得ない。為政者レベル、民間レベルともに建前化するという嫌いがどうしてもある。
(参照:交流分析心理学の5つの自我機能)交流分析心理学でいうと、全体パラダイムがCP(権威的な父)→AC(順応する子供)関係にある。A(合理的な大人)も発揮されるが、それは全体パラダイムを前提とするロジックにおいてであるから、全体パラダイムに内包されたものと言える。
聖徳太子の時代、儒教は支配層のエリートの必須教養だったが、日本では中国のように儒教は体制化しなかった。中国で建前として流通しているものをエリートたちが建前として習得するに留まったと言えばそれまでだが、その他にも根源的な理由があり、理由は複合的だ。
一般的には、仏教vs神道の対立ということが論題になりがちである。しかし、そもそも私たちがイメージする神社の建築様式や祭祀様式が定まったのは後の持統天皇が伊勢神宮の式年造替を始めた時である。だから、当初は、中国由来のグローバル仏教に対するところの、大王家や豪族のそれぞれのローカルな「神ながらの道」との対立だった。それは、渡来出身地により異なる土着道教が、渡来展開地によって異なる風土に根ざした土着信仰と混淆したものだったと考えられる。そして、道教も中国南部の自然崇拝の土着信仰から出発していて、日本列島各地の土着信仰も自然崇拝だから、道教による日本の風土に根ざした土着信仰の高度化という形の混淆となったのだろう。
たとえば、ヤマト王権の樹立当初、出雲に国譲りの約束として出雲大社が建てられたが、その建築様式は伊勢神宮と対照性をもつ高層神社建築だったと考えられている。しかし、国譲りの以前に出雲族がその神を祀った社とそこで行われた祭祀はまったく異なるものだった筈だ。私自身は、国際的な交易港となった神門水海への入港を誘導する灯台と物見櫓でもある高楼が外海と内海の両方を見晴らせる位置に立っていたと考えている。そしてそこで行われた祭祀は、交易航海の安全と国際交易の振興を祈るもので、それは出雲地方を拠点とした先住交易民の土着信仰に道教の陰陽風水や現世利益の要素が混淆したものだったと考えている。
ヤマト王権の草創期、王権樹立に貢献した氏族とその後に恭順の意を示して従った氏族が、それぞれの渡来出身地と渡来展開地によって違う土着道教と土着信仰とを混淆したと考えるが、それはその土地でどのような渡来民が支配者となってどのような産業を振興したかに影響された筈だ。そうした全国各地の多様な信仰状況を包み込む形で、日本列島の自然(風土)を神として多様な産業を振興する全国区の決定版神話として古事記と日本書紀が打ち出された。そして、土地土地に割り振った神と神話で祭祀をする主要神社が全国にネットワークされた。それによって今、全国の日本人が同じパターンとしてイメージする「神道」が新造されたのである。
(地方における主要神社の筆頭は、律令制に基づいて設置された令制国に派遣された国司が最初に参拝した神社であった一宮である。それは土着の有力豪族の祭政拠点だった社が改編されたものと考えられる。 たとえば、相武(さがむ)と磯長(しなが)という2つの国を合併して相模国ができた際、相武国最大の神社である寒川神社と磯長国最大の神社である川匂神社、そのどちらを合併後の相模国一宮にするかで起こった論争の様子が、国府祭の座問答になったと言われている。これに従うと相武と磯長が合併した7世紀にはすでに相模国に一宮・二宮の制度があったことになる。)
この新造された「神道」には、道教の部分的要素が多く取り入れられているが、道教の全体的体系は捨象されている。さらに儒教については、新造された「神道」にはまったくその影響が見られない。その理由は、「神道」は神である自然(風土)と人間との関係性を主題とするのに対して、儒教は、天を前提として、天意に従ってなった天子とそれに従うべき民といった基本、人間同士の関係性を主題とするからである。
(ちなみに、天武・持統両天皇が新造した「律令神道」とも呼ばれる「神道」と、戦前の大日本帝国の「国家神道」との信仰上の本質的違いは、 前者が、神である自然(風土)と人間との関係性を主題とする地域密着型で、庶民が主体的に貢納物を提供するボトムアップ型の信仰であり、制度的に地方分権であるのに対して、 後者が、天孫に連なる万世一系の天皇とそれに従うべき民との人間同士の関係性を主題とする国家体制型で、政権の意向を上意下達的に反映するトップダウン型の信仰であり、制度的に中央集権であることである。)
神道では、人間と自然の未分化性、人間と人工の未分化性、自己と他者の未分化性を特徴とする<部族人的な心性>がそのまま息づいていて、自然の一部である人間にとって自然は調和すべき対象である。これに対して、儒教では、天意としての天が人間と自然を支配しているが、自然は人間が制御しうる支配すべき対象である。道教でも、原理としての天が自然と人間を支配しているが、人間は(神と同じく天界に属する)仙人になってはじめて自然と一体となったり自然を制御できる者となる。普通の人間は自然に適応するしかないという石器時代からの人類普遍の自然崇拝の土着信仰が「民間の道教」ほど息づいていて、それが文明化して陰陽風水の占いや開運術に至っている。こうした道教と儒教の違いが、「神道」における一切の捨象か部分的要素の取り入れかという違いに繋がっているのだろう。
ヤマト王権は、中央集権化を目指して中国化を進めたが、「為政者の宗教」としてまず仏教を興隆させ、後に神道を新造した。そして、儒教や道教については部分的な利用や導入はしてもその全体的体系を体制化させることはなかった。儒教の一切の捨象については、大王が日本式の「天皇」になるも中国式の「皇帝」にはならなかったことともに、脱中国化の独自路線を歩み出したこととして象徴的だ。道教の全体的体系の捨象については、道教において、中国大陸の地平線に囲まれた天空と大地の自然を前提に、自然が抽象化されて原理としての天を神とするようになったのに対して、神道において、日本列島の山が海に迫って狭い平地と里山に暮らす人々が手に触れられるそれぞれの風土という自然を前提に、あくまで具体的な自然の多様性そのものを神(八百万の神)とすることを堅持したということが象徴的だ。仏教は後に神道と習合して、山海草木悉皆成仏の自然主義化という日本独自の展開をしていく。そのように日本仏教を方向づけた文化的遺伝子も、ヤマト王権の草創期に新造された「神道」に求めることができよう。
何か複雑な展開のようだが、そうではない。以上は、人類普遍の<部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきたというのがヤマト王権の草創期に生まれた「日本人」というアイデンティティの原理原則であり、その最初の「信仰の実践」に関する展開だったということである。中国由来の仏教や道教という、<部族人的な心性>を捨象したり限界づけて形成された中国式の(明示知主導の)<社会人的な心性>をそのまま受け入れず、日本列島の風土に根ざした土着信仰の(暗黙知と身体知主導の)<部族人的な心性>をベースとして温存して、受け入れられるものだけを受け入れて独自の文脈の日本式の文明化によって<社会人的な心性>を形成したということである。
交流分析心理学でいうと、具体的な自然の多様性そのものを神(八百万の神)とすることが、自然の多様な加護を前提とするNP(保護的な母親)であり、これを祭り喜び楽しむことがFC(自由な子供)であるという全体パラダイムにある。この神への加護に対して捧げ物や生贄といった返報をしなかれば神の怒りをかい祟られる、それはPC(権威的な父)→AC(順応する子供)関係である。それを回避すべく計画するのはA(合理的な大人)であるが、全体パラダイムのNP(保護的な母親)→FC(自由な子供)関係を前提とするその枠組みの中での発揮と言える。
政治史では、「為政者の宗教」として神道派と仏教派の対立が論じられる。しかし宗教史では、神道は日本の風土で展開していた各地の土着信仰とその道教との混淆を統一再編して新造したものであり、仏教は興隆期を過ぎればすぐに建築、仏像などで日本的な展開をしてやがて信仰全体が神道と習合していく。 そのような長い宗教史のスパンから俯瞰すると、本質的な社会動向としては、「中国化によるグローバリズム」と「日本化によるインターナショナリズム」というパラダイムの対立および融合だったと言える。(敢えて後者を「日本化によるローカリズム」と言わないのは、そもそも支配階層が多様な出自の渡来人の末裔で構成されていて、海外の文物を盛んに導入している国際性を特徴として捉えるからである。)
最終的には律令体制の崩壊にともない後者が優さる訳だが、聖徳太子と天武持統両天皇によるこの国の成り立ちにおける大きな方向づけは、「中国化によるグローバリズム」と「日本化によるインターナショナリズム」を日本の実情や資源を踏まえて「合わせ技」するものだったと言える。
「中国化によるグローバリズム」は、①「権力と権威の一致」というパラダイムにある(天意を後ろ盾にした)上意下達型=トップダウン型「日本化によるインターナショナリズム」は、
②「権力と権威の不一致」というパラダイムにある(八百万の神を後ろ盾にした)風土密着型=ボトムアップ型
この両者を適宜に「合わせ技」するものだった。
具体的にはこういうことだ。中国が「為政者の宗教」として儒教や道教や仏教を体制化したが、元来①である律令体制において、当然①である太政官一官制の下で宗教マターが重きをなさないようにしてあるのに対して、日本は「為政者の宗教」として神道と仏教を体制化したが、元来①である律令体制をとりながらも、②である太政官と神祇官の二官制の下で神道マターが重きをなすようにしている。
さらに日中の大きな違いとして、律令体制に収まらない「令外の官」があり、その中に天皇直轄の「贄人」などの「信仰の実践」として交易を行う者も設定されたことである。「贄人」は、初穂や初物を天皇に貢納する役割を担わされていて(神道儀礼の延長線上にある)、建前は①の上意下達型=トップダウン型であるが、与えられた通行特権で令制国を自由に通関して国内外の産品の交易を主体的に行い上納によって天皇の私的経済を潤すという②の風土密着型=ボトムアップ型だった。
伊勢神宮の式年造替や通常の祭祀に必要な資材や産品を供給する生産地が環伊勢湾の地方経済圏として形成された。その生産者は権力によって生産と供給を強いられたのではなく、あくまで「信仰共同体」の一員として主体的に帰属して「信仰の実践」として生産と供給を行ってきた。これも②の風土密着型=ボトムアップ型だった。
こうした全体を交流分析心理学の観点から俯瞰すると、
「中国化によるグローバリズム」は、
儒教のような「分け隔てる」男性原理で発想思考しPC(権威的な父)→AC(順応する子供)関係に軸足をおく。一方、「日本化によるインターナショナリズム」は、
神道のような「包み込む」女性原理で発想思考しNP(保護的な母親)→FC(自由な子供)関係に軸足をおく。
そういう原理的な一貫性を示して来たと分かる。
そして、この原理的な一貫性を示す2つの発想思考の違いは、現代の日本社会においても現象していて面白い。具体的には、
「アメリカ化によるグローバリズム」
と「日本化によるインターナショナリズム」である。
「アメリカ化によるグローバリズム」の典型は、
世界共通語としての英語と世界共通の低コンテクストな(文脈依存性の低い)専門知識や専門技術でグローバルに活躍する個人主義的なエリートの発想思考である。スポーツのアナロジーとしては、ちょうど今やっているWBCワールド・ベースボール・クラシックで日本代表が活躍していることに相当する。ふだん日本人選手は日本のボールでプレイしているが、この大会ではアメリカのメジャーリーグのボールが世界標準として採用されている。基本的には前提されるルールや道具という明示知が共有されている。食べ物飲み物のアナロジーとしては、マクドナルドのハンバーガーやスターバックスのコーヒーなど、世界的なチェーン店が世界各国、基本的に同じであることに相当する。
一方、「日本化によるインターナショナリズム」の典型は、
スポーツのアナロジーとしては、これも今ちょうど大阪場所をやってる大相撲で横綱ふくめて外国人力士が活躍していることに相当する。世界にはモンゴル相撲やセネガル相撲など古来から似たような相撲が分布していた。ちょうど中国の担々麺がシルクロードを辿って西進するとともに変化してイタリアのミートソース・スパゲッティに至るような分布があった。日本の相撲は、日本列島のローカルな風土や宗教や文化に密着した様式性をもち、それが伝統として現在まで発展的に継承されてきた。担々麺をイタリア人が食べても、ミートソース・スパゲッティを中国人が食べても、美味しいものは美味しい。それと同じに、外国人が相撲をしてもうまい相撲はうまいし、外国人が相撲をみてもうまい相撲は楽しい。そういう素朴な身体知と暗黙知の普遍性が前提になっている。
食べ物飲み物のアナロジーとしては、ラーメンが象徴的だ。もともとは極東のグローバリズムであった中華料理の拉麺が伝来し、それを日本列島の各地の人々が地元の産品で地元の風土でおいしいと感じるご当地ラーメンを工夫していった。東京など大都市にラーメン店主が工夫したラーメンを出す人気ラーメン店が発生していき、それがさらに海外進出するようになった。最終的に、本家本元の中国で「日式拉麺」として中国人の人気を呼ぶようになった。そして、中国人経営の店が、中国の地元の産品で地元の風土でおいしいと感じる「日式拉麺」を生み出していっている。つまり、成熟したローカリズムが国際化し、インターナショナルにメタ・ローカリズムが展開している。これと同じことは、寿司でも展開している。アメリカ西海岸で「カリフォルニアロール」が生まれ日本に逆輸入されている。
では、「日本化によるインターナショナリズム」の典型の発想思考とは、どういうものか。
その象徴的なアナロジーの筆頭は、漢語だろう。漢語は漢字とともに中国から出来した。そして日本人は古代からもともと中国の漢字になかった和製漢字をつくり、近代には欧米語の漢語訳としてもともと中国の漢語になかった自作漢語をつくっていく。そしてそれを中国が自らの近代化を進めるにおいても活用して今日も使っている主要概念がたくさんある。中国から伝来した仏教も神道と習合して日本化していき、僧侶にとって重要な宗門による経典や戒律といった明示知の異同はあるものの、庶民にとって重要な「信仰の実践」にまつわる暗黙知と身体知はおおよそ日本的と言える自然主義的な傾向を指摘できる。キリスト教徒が多い欧米人の仏教徒や仏教に関心をもつ者が日本の密教や禅宗に引きつけられ、その中には日本で僧侶になって自国で寺を開く者もいる。これも「成熟したローカリズムが国際化し、インターナショナルにメタ・ローカリズムが展開している」と言える。
儒教は、聖徳太子の時代、漢語を駆使するエリートたちの必須教養だった。極東の島国で、中国のグローバリズムの影響下にあったエリートたちは、中国の支配階層にならって「建前」として儒教を習得したのであって、「本音」からその体系的な全体に心酔したとは考えにくい。もしそうならば、儒教は日本において「為政者の宗教」として体制化していた筈だからだ。だがそうはならなかった。そして、一般庶民の「民間の宗教」にもならなかった。文字を読めない庶民が信仰するには、暗黙知や身体知を誘導する孔子廟や孔子像が不可欠だがそれらが社会的に普及することはなかった。
このことは、現代の日本で、アメリカ型のグローバリズムが、世界共通語としての英語を駆使できるべしとされるエリートたちには必須知識である一方で、一般庶民が地元、会社や役所などの中間団体といった帰属する<世間>で日常的に仕事したり生活するにおいてはまったく意識しないで暮らしていられることと重なる。
聖徳太子は「和」を原理原則として重視した。
「和」は、主語主義で捉えれば、漢字「和」の意味する概念に他ならない。そして、それが明文化されて「和」の客観的な明示知になっている。聖徳太子が制定した「十七条憲法」の第一条に出てくる言葉「和を以て貴しとなす」である。これは、儒教の経書の五経の一つ「礼記」の「礼は之(これ)和を以て貴しと為す」からきている。そこだけを捉えれば、「中国化によるグローバリズム」にとどまる。一方、「和」は、述語主義で捉えれば、和語の「和やか」が示す状況に他ならない。そして、それは暗黙知であり身体知であり想定される共同主観が想起するしかない。「十七条憲法」においては、聖徳太子の制定に向けた経緯を知る者が、太子が込めた行間の意図を読むしかない。
次項(10)では、聖徳太子が重んじた「和」をこのような観点から子細に検討していきたい。
(10)http://cds190.exblog.jp/25349400/
へつづく。