日本人の「仕事感」ならでは色濃い信仰性(6:つづき) |
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からのつづき。
日本は道教の具体的な何を「為政者の宗教」として取り入れ何をパスしたか(つづき)
以上、前項(5)の後半から(6)にかけて、道教の「神話」が、「為政者の宗教」として競合する儒教や仏教を優位的に差別化するべく、なるべく初めに登場するスター神についての内容をいろいろに更新してきたことを確認した。
「為政者の道教」は民衆にも歓迎されるものを目指して、たとえば農耕神だったものを商業振興神にもしてしまうなど「教義」においても柔軟性を示したために、そうした更新のすべてが「民間の道教」にも反映していった。また逆に、「民間の道教」の発展要素を積極的に「教義」に取り入れて「為政者の道教」を幅広いものにしていった。
草の根的に発達した「民間の道教」の「祭祀」を「為政者の道教」が取り込むということの典型として「関帝信仰」を取り上げたい。
関帝(かんてい)とは、中国後漢末期、三国志で有名な劉備に仕えた関羽が神格化されたものである。
もともと中国には、通常の死ではなく非業の死を遂げた人は強い霊力が宿ると考えられており、その感受性は日本の神道でも見受けられる(菅原道真や平将門)。関羽の生前の武将としての知名度に加え関羽の死を巡る展開が信仰のルーツとなったと考えられている。
11世紀末、北宋で荊州の玉泉祠が「顕烈廟」という名にされたのを皮切りに、歴代の中国王朝で封号(称号)として爵諡を追贈されていった。19世紀の清の神号の贈呈にまで至る。
清の時代には5月13日が誕生日として皇帝による式典がおこなわれていた。
関帝を祀る廟名は当初はまちまちだったが、後に「関帝廟」と呼ばれるようになった。
この経緯からも、もともとは草の根的に自然発生した「民間の道教」だったものが「為政者の道教」に徐々に引き上げられていったことが見てとれる。
関羽が高名な武将であったことから武神として出発するも、関羽が義理や信義に厚い人物だったことや、元は塩の密売業者で算盤や大福帳を開発したという伝説や、山西商人にとって地元の英雄だったことから主に商業の神として信仰されるようになっていった。
現在では、中国はもとより世界各地の中華街など華僑の町にはほぼ必ず関帝廟や祭壇が設けられている。
酒見賢一氏はその著『中国雑話 中国的思想』(文春新書)で、「中国人に、代表的な神を一人挙げてくれというと迷うことなく関帝と答えると聞く」と書いている。
日本の「為政者の宗教」は、さまざまな道教の要素が部分的に導入されている。
しかし、導入が消極的だったのがその呪術である。
中国の「為政者の宗教」儒教も、対立する道教について呪術をまっさきに批判し排除している。
孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざく」と言い、弟子は「子は怪力乱神を語らず」 と伝えている。「怪」が怪異、「力」が異常な力=超能力、「乱」が背徳・殺戮の類い、「神」が鬼神である。
日本古代において、儒教は神道や仏教のような「為政者の宗教」として体制化はしなかったが、聖徳太子を筆頭にエリート必須の教養となっていた。よって、儒教の感受性からも道教の呪術が嫌われた可能性は否定できまい。
(儒教は周礼を尊重し易経を主要経典に含めた。日本の「為政者の道教」も大枠としてこれにならい、都を定めるにおいて重視した風水を筆頭に、陰陽寮で教えられた陰陽道、そして天皇の健康を維持し病気を治癒する漢方などは、否定すべき呪術の範疇とは看做されなかった。)
ただ、以上のことは「為政者の宗教」としてのオフィシャルな建前であって、プライベートな本音はそもそもの「民間の宗教」である土着信仰の延長にあり、道教の呪術は土着の呪術に積極的に取り入れられていった。
道教の呪術の内、原初的な土着信仰由来のものは、縄文由来の土着の呪術と同じに、人類普遍の<部族人的な心性>を踏まえるものである。よって、「民間の宗教」におけるその導入は素朴な混淆として展開した。
素朴な混淆とは、深層心理に根ざした暗黙知と身体知のパラダイムである呪術原理が共通の土台となるために、明示知のパラダイムを体系立てて共通化するという高度な混淆を必要としない、ということである。つまり、(風水や陰陽道の低コンテクストな陰陽パラダイムは除いて、高コンテクストな道教の神話体系や神仙序列など)明示知として全体パラダイムを体系的に導入することなしに、神道なり仏教なりが自分たちの文脈(コンテクスト)において都合のいい部分的要素の「いいとこ取り」的な導入となった。
以下、具体的に列挙して、それぞれに個別的な検討を加えて行きたい。
<禁術>
鬼調伏、辟邪、魔物封じ、お祓い、等を呪文で行う。呪符(靈符れいふ:お札やお守り)が発行される。
調伏(ちょうぶく)は、人に害を及ぼす化け物を祈祷によって人間の意に従わせること。密教の四種法の一つとなり、怨敵・魔障を降伏(ごうぶく)することに。
「辟邪(へきじゃ)」は、中国で古来より信仰された疫鬼を懲らしめ退散させる善神で、虎、獅子、麒麟、羊、象などの形をとった想像上の動物。調伏はそれを描いた「辟邪絵」を用いる。
<劾鬼術>
鬼、邪、妖怪の類を寄せ付けないための措置。鏡と剣を用いる。
日本の「神話」に出て来る「三種の神器」、鏡・玉・剣もこの道教の呪術に由来する。
日本では、本格的な青銅器がもたらされたのがおよそ紀元前2世紀で、ほぼ同時期に鉄器ももたらされたため、青銅器はもっぱら威信財となった。朝鮮半島に出土例がないタイプが多数あり、それらは朝鮮半島を経ずに海路、中国の王朝文化から直接もたらされた可能性があり、道教に由来する文物の日本型の受容そして展開と考えられる。
弥生時代後期には、北部九州では銅矛、瀬戸内海沿岸そして出雲で銅剣、近畿で銅鐸が祭器として使われた。これは日本各地の渡来民の出身地で盛んな道教呪術の違いを反映したのではないか。
古墳時代には銅鏡が多数つくられ、中でも三角縁神獣鏡は墳墓の副葬品として重視された。劾鬼術でもあったと考えられる。古墳時代前期の前方後円墳と三角縁神獣鏡の分布は、弥生時代後期の銅剣と銅鐸の分布と様相が異なっている。ヤマト王権が中央で打ち出したスタンダードが周縁に分布したことが見てとれる。それはヤマト王権の「為政者の道教」の普及ということではないか。
そしてぱたりと前方後円墳が造られなくなり、7世紀に入って方墳・円墳、八角墳などが造り続けられたいわゆる「古墳時代終末期」となる。仏教伝来について蘇我氏が物部氏が争って勝利してから乙巳の変で滅ぼされる約半世紀続いた蘇我氏主導の時期と重なることは、ヤマト王権が中央で打ち出す「為政者の宗教」のスタンダードの変更とみて間違いない。
古墳時代とは、王侯が陵墓建設を重視する中国にならい、日本型の「為政者の道教」が地域国家レベルでそして統一国家レベルで展開した時代と言うことができよう。
しかし、その動きは前方後円墳と三角縁神獣鏡が盛んだった時期をピークにして断絶。以後、道教が「為政者の宗教」として体制化することはなかった。
<替代術>
人形(ヒトカタ)に災厄病難等の肩代わりをさせる。
神社では、古代から息を吹きかけた紙製あるいは金属板製のヒトカタが用いられてきた。道教の影響と看做されている。
しかし、人形(ヒトカタ)の原形が釈迦堂遺跡から発見された、予め壊す時にきれいに分解されることを企図する「分割塊製作法」でつくられた縄文土偶だとすれば、もともと土着信仰の中に同様の替代術があったことになる。
古代スコットランドのブロッガー遺跡でも「ブロッガー・ボーイ」と呼ばれる円筒状で頭部・胴部・脚部に分解される土器の人形が出土している。人類普遍の<部族人的な心性>の作らしめたものということではないか。
中国では龍王に祈る。世界的に見られる土着信仰で仏教でも儒教でも行われる。
日本でも各地にさまざまな雨乞いが見られる。
山野、特に山頂で火を焚き、鉦(しょう)や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いが、日本各地に広く見られ土着信仰に由来すると考えられる。雷鳴を真似ることで雷雲を呼び寄せる類感呪術である。和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたと言われており、長野県茅野市の縄文時代中期の集落遺跡、尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されたと推定される土器が出土している。
神仏に芸能を奉納する雨乞いが近畿地方に多く見られるのは、社寺が成立するはるか以前から各地を遍歴して太鼓を鳴して大騒ぎの雨乞いを盛り上げていた芸能民が、社寺の成立以降その祭りに参加するようになった、ということではないか。鉦(しょう)は順序としては、その時に芸能民が大陸から伝来した鉦を使うようになり、各地の山野や山頂で火を焚き太鼓を叩く雨乞いでも鉦を使うようになり、最終的に芸能民に頼らずとも各地の民衆自らが鉦や太鼓を鳴らして演奏するようになった、ということではないか。
禁忌を犯す雨乞いの内、水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに動物の内臓や遺骸を投げ込み水神を怒らせて雨を降らせようとするものは、世界中で見られる供犠を用いた雨乞いを連想させて、土着信仰に由来するように感じる。
一方、やはり世界中で見られる禁忌を犯す雨乞いの内、石の地蔵を縛り上げて水を掛けるなど、聖なる偶像を悪戯する類いは、特定の偶像への崇拝が<社会人的な心性>として浸透した段階のものである。タンジュンに、太陽やトーテムを素朴に崇拝する<部族人的な心性>の場合、太陽や動物を象徴する偶像を悪戯するということは情動に抵抗があってできない。聖なる偶像を悪戯する、というのは<社会人的な心性>においてそれを正当化する思考によって感情に受け入れられてはじめて可能になる。
日本の文献に見える最古の雨乞いの例は、『日本書紀』皇極天皇元年(642年)の条の記述である。
すぐ後(645年)に父が天皇の御前で殺される自らも自害した蘇我蝦夷が大乗経を輪読させてするが微雨のみで効が見られず、日を改めて皇極天皇が天に祈ると、突如大雨が降り、天下万民は共に天皇を称えたとある。
他に、推古天皇33年(625年)に 高麗僧恵灌に命じて雨乞いの儀式を行わせたという記述や、嵯峨天皇の命(824年)で空海が神泉苑において北天竺の善女龍王を御勧請し請雨経法を修したという記録があるが、前述の皇極天皇の話が格段にドラマチックである。
皇極天皇は天智・天武 両天皇の母で斉明天皇として重祚していて、皇極天皇の神格化という狙いがあったと考えられる。
たまたま私が趣味で見ている中国後宮物のテレビドラマシリーズで、似たような展開があった。
前漢の武帝の時、旱魃に民が苦しむ。先王の弟で「淮南子」を学者たちに編纂させた淮南王劉安が、勝手に上洛してペテンの雨乞いによって王位奪還を画策して失敗するというストーリーである。劉安が反乱を計画するも密告により露見し自害したのは史実であるが、このストーリーはドラマ作家の創作と思われる。ただし、雨乞いのペテンの下りはとても参考になる。
劉安は最初に城下で、細工した枯れ井戸とサクラの群集でペテンの雨乞いを成功してみせる。その上で、宮廷で雨乞いの儀式をすることに持ち込む。その際、新しく皇后に即位したばかりの衛夫子が凶星だから宮廷から出るように要求。それで雨乞いが成功すれば衛夫子が凶星と決めつけられて立場が危うくなるのだが、衛夫子はこれに従う。しかしそれはそぶりだけだった。雨の降り出すタイミングを予測してそれに合わせて雨乞いをするだけと見破っていた衛夫子の仲間が、いざ儀式が始まると祭壇に上がって、武帝と観衆の前で儀式を始めようとする劉安と対決。あなたは「淮南子」に日照りは自然現象と書いているのに雨乞いの呪術をするとはおかしいではないかと。答えに窮しているところに衛夫子が登場。劉安に雨乞いをさせずに雨傘を従者にささせて自ら天に祈ってみせる。すると案の定、雨が降り出した。衛夫子は凶星という濡れ衣を晴らし劉安の画策は武帝の面前で頓挫した。
蘇我蝦夷も、雨の降り出すタイミングを予測して大乗経を時間をかけて輪読させたのだろう。しかし微雨しか降らなかった。そしてより高い精度でまともな雨天を予測した皇極天皇が日を改めて衆目の前で祈ってみせた。
留意すべきは、このカラクリは、「淮南子」編纂に携わった学者はもちろんその日照りについての気象論を読んだ知識人ならば誰でも思いついた。中国人のドラマ作家がテレビドラマに仕立てたように、「淮南子」を読んだ者が『日本書紀』編纂に携わったならば物語に仕立てることができた、ということである。
<招魂術>
魂魄分離状態を元に戻すことで罹病者を回復させる。
日本書紀には、応神天皇の皇太子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、天皇が崩じても即位せず、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と互いに皇位を譲り合った。そして永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に「招魂の術」を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納(い)れるよう遺言して再び薨じたとある。
ここでは、招魂術は遺体に施す蘇生術とされている。
おそらく道教に権威づけられた蘇生術を施したとすることで、架空の遺言を本人が言ったものとして正当化したのだろう。
<風水術>
道教は山岳崇拝でもあり、山岳から流れ出る気が周囲すべてに影響するという信仰。風水的な評価は計画を立てる上で極めて重要な指針となる。
日本最古にして最大の都、藤原京(藤原宮)は、地理的条件の良悪を占う風水思想によってその位置が決められたのではないか推察されている。『日本書紀』天武11年(682年)に「小柴三野王(みののおおきみ)と宮内官大夫(みやのうちのつかさのかみ)らに命じ、新城に遣わしてその地形を視察させ、都を造ろうとされた」とあり、この「新城に遣わしてその地形を視察させ」がそれに当るとされる。
一般に、藤原京は、遣唐使の通いがない時代に書物だけで作ったために、長安のように宮廷が都城の端にあるのではなく中央にある、といったことが指摘される。また、再開した遣唐使の留学生が長安でそれを確認して報告してたりもする。
「藤原京のこうした形態は、平城京以後の都城とは大きく異なっており、時期の近接する中国都城にも類例を見ない。その反面、中国の古典『周礼(しゅらい)』考工記(こうこうき)の記述と多くの点が一致する」
ということを、時代遅れと知らずに書物の記述にならってしまったという理解に結びつけているのが一般的だ。
それに対して、
「『周礼』は儒学で尊重された理念法典で、古代の中国では大きな影響力をもっていた」
「藤原京の基本設計プランは『周礼』考工記記載の理想的な都城を採用した」
「そこでは、都城の理想型として、正方形の都城の中央に宮をおき」
と意図的に唐とは違う理想型を追求したという主張がある。
私も、同時代の唐の宮廷が都城の真ん中か端かくらいのことは伝聞でも分かることだから、書籍だけを頼りにして時代遅れの模倣をしてしまったという推察には無理があると思う。
『周礼』を尊重したということは儒教を尊重したということで、儒教は風水の基本である易経を含むから、当然、風水思想を踏まえての立地選択だった。
<卜筮術>
卜(焼いた亀甲/獣骨の兆象から判断)と筮(道具を用いて数学的計算から判断)がある。
卜(ぼく)は殷以前に興った亀卜を、筮(ぜい)は周代に興った筮卜をさす。
平城京遷都に際しては、『続日本紀』和銅元年の元明天皇の詔で、具体的な風水術と卜筮術の活用が具体的に記述されている。
「正に今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の四つの動物が、陰陽の吉相に配され、三つの山が鎮護のはたらきをなし(←風水術)、
亀甲や筮竹(ぜいちく)による占いもかなっている(←卜筮術)。
ここに都邑を建てるべきである。」
古墳時代以前の日本では、太占 (ふとまに) と呼ばれる鹿の肩甲骨を焼いた占いがあったが、中国から亀甲による卜法が輸入されると朝廷はこれを採用した。
古代の祭祀貴族に伊豆卜部氏、壱岐卜部氏、対馬卜部氏の3卜部氏がいて、伊豆、壱岐、対馬の海上交易の要衝を拠点とした。亀甲を使う亀卜が彼らに特徴的なものだった。
一方、シカやイノシシの獣骨を使う骨卜をする占部(氏)は東京湾周辺の房総半島から三浦半島にかけての地域を中心にほぼ全国に分布する。
律令制において官僚機構的な体制をとった朝廷が、亀卜を国際交易に携わる伊豆卜部氏、壱岐卜部氏、対馬卜部氏の3卜部氏だけに許し、それ以外の太占が盛んだった各地で占部(氏)が土着祭祀の骨卜を担ったということなのだろう。
ただし殷代、周代の卜甲には淡水の亀の腹甲が主に使われていて、日本の三卜部氏は海亀の背甲を使ったと考えられている。
亀卜で占う内容(貞辞)、それに対する判断(占辞)や実際の結果(験辞)などを刻んだ文字が、亀甲獣骨文字(甲骨文)と称する初期の漢字である。
道教祭祀のこの漢字を使う亀卜が中国から日本に伝来し朝廷が受容したのだが、そもそも縄文時代から、漢字を使わない太占 の亀卜(海亀を使う)が対馬、壱岐、伊豆の海上交易民の間に交易祭祀としてあった可能性も否定できない。
例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見され、伊万里腰岳産の黒曜石が朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡で出土しいて、遠隔地航海をする海上交易民の行き来があったことが知られている。
<相術>
手相や人(顔)相。
観相学の原本は、宋(420年 - 479年)の時代の仙人・陳希夷が著した人相の秘伝書「神相全編」。日本には遣唐使の時代に仏典などと一緒に伝来。
<命>
占星運命。
歴史や政治上の変革を占星術や暦学の知識によって解釈し予言しようとする讖緯説(しんいせつ)が漢代末から盛んになる。
「日本書紀」の紀年もこの説に則っている。国史としての国際的な体裁を整える一環だったと言われる。
讖緯説は、陰陽五行に基づき、日食、月食、地震などの天変地異又は緯書によって運命を予測。緯書とは、儒教の経典である経書に付託した予言の書が七つある内の一つ。先秦時代から起こり漢代から盛行、弊害が多いので晋以後しばしば禁ぜられた。どちらかといえば儒者が唱え始めたものとされる。
聖徳太子の時代から儒教教育を受けたエリートの間で讖緯説は周知のものとなっていて、未来に向けた予言として危険視された影響力を、過去の歴史や神話の信憑性についての印象操作に使えるという理解と思惑が神話編纂者にあったのではないか。
『日本書紀』に、西暦602年(推古10年)に百済の僧観勒が天文、遁甲、暦書を伝えたとある。
遁甲とは、二十四節気や干支から算出される遁甲局数を基にした遁甲盤を作成して占う方位術「奇門遁甲」である。民間ベースではそれ以前にも色々な種類のものが伝来していた可能性がある。
起源は古く一説には中国の黄帝の時代にまで遡る。隋の文帝のとき行政上、軍事上の理由から発禁され、それにならい日本でも「養老令」(制定718年、施行757年)で禁じた。三国時代の蜀の諸葛亮も用いたとされ、真伝は単なる占術ではなく呪術の要素も含んでいたようだ。いずれにしても時の権力者が軍隊を動かす兵法として使用した。
後世、戦国時代に日本の風土に合わせて改変されたものが軍配者とよばれた軍師によって使用されたという。
そもそもは土着信仰の呪術的な治療と投薬から出発した経験知が、「陰陽」パラダイムにおいて陰陽五行で分析的に体系立てられていった。
自然の態で生きるをよしとする老荘思想と、自然も人間も森羅万象すべて「気」の流れとする陰陽パラダイムが融合して、心身一体の医学に再構成されていった。
「古事記」の因幡の白兎で、オオナムヂ(後の大国主命)が、ワニに皮を剥がれた白兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えて完治させたことが広く知られている。その処方は蒲の花粉を薬用部位とする蒲黄(ほおう)であり、『神農本草経』の上品に収載されている。古代から止血、利尿薬として用いられている。
オオナムヂが兄たち八十神に焼け石を猪だと騙されて捕まえさせられ大火傷をした時には、天神カミムスヒが派遣したキサガイ(赤貝)姫、ウムガイ(蛤)姫に喩えられた貝粉貝汁の治療で生き返った。これは、山陰地方では火傷などの特効薬である「八上薬(やかみぐすり)」であるという。 大火傷で抗酸化作用のあるタウリンが 尿から大量排泄され不足するのをを補い、殻の炭酸カルシウムが抗炎症と冷却作用があると科学的にも効果が裏付けられている。
中国の神話では、神農という医療神がクローズアップされるのに対して、日本の神話では、治療や投薬の具体的なノウハウがさまざまな神々の登場によって羅列されていく。
しかも、その医療ノウハウには、中国伝来の漢方だけでなく、土着の「八上薬(やかみぐすり)」のような和方も掲載されている。
古事記という神話が、神々の話のようでいて、神々の登場する新ノウハウ話となっていて、しかも中国伝来ノウハウだけでなく日本固有ノウハウが盛り込まれているというのは、日本神話の個性的な特徴と言えるだろう。
最後に「仙人」由来の日本人に馴染み深い「桃」のことに言及しておく。
折口信夫が「桃の伝説」という文章で解説している「西王母とその桃」の話である。
西王母は、孫悟空の話にも出てくる仙女であり、玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という道教の最高位の神様の妻である。2つの仙境、東の蓬莱山と西の崑崙山、その後者の主人で、女神の中では最高位の神様である。もともとは疫病や刑罰をつかさどる神様だったのが、周から漢の時代にかけて不老不死の薬(霊丹妙薬や蟠桃はんとう)を有する長寿の神様に変化した。漢の武帝が天界で桃を賜った話など多くの伝説に名前を残している。西遊記で孫悟空が西王母の桃を盗むなどして知名度と人気があった。
崑崙山には王母桃または蟠桃といわれる桃があり、それは銃の玉ほどの小さいもので3000年に一度しか実がならない。西王母がこの桃が実ったのを祝って「蟠桃宴」を開き、そこに孫悟空が乱入したのだった。
『古事記』では、イザナギが桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた。イザナギはその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたとある。
桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話「桃太郎」、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る三月三日の行事である「桃の節句」などにも、イザナギの桃ともども「西王母とその桃」の文脈が息づいているのかも知れない。