「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(6:その1) |
「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(5:その3)
http://cds190.exblog.jp/23615123/
からのつづき
本項(6)では、2つのキーワードを使って「家族」について検討していきたい。
キーワード1
<モノクロニック>と<ポリクロニック>
もともとは以下のような比較文化論の用語。
<モノクロニックな民族> <ポリクロニックな民族>
●一回にひとつの課題に取り組む ●同時に多くの事をする
●業務に集中する ●中断に対し柔軟で、
注意をされてもよく耐えられる
●低コンテクスト(文脈依存性低) ●高コンテクスト(文脈依存性高)
で、情報を必要とする で、情報の蓄えがある
●仕事を完了することにかけている ●人々と人間関係に傾倒している
●計画に対して宗教的に執着する ●たびたびかつ簡単に計画を変える
●短期的関係に慣れている ●生涯をかけた関係を結びたがる
●きちょうめんである ●せっかちだが、よく働く
キーワード2
<メッセージング>と<ルーミング>
私がかつて人形の博物館の構想に関わった際に、欧米人形を「窓」を介して見せ、日本人形を「間」を介して見せようとプラニング。
前者の情報コミュニケーション体系を<メッセージング>
後者の情報コミュニケーション体系を<ルーミング>
としたことに始まる。
<メッセージング> <ルーミング>
●対象を見ることで理解 ●対象のつくる間に浸ることで理解
●知っているか知らないかが重要 ●いかに捉えいかに味わうかが重要
な知識(明示知) な知識(暗黙知)
●使用よりも所有することが重要 ●所有よりも使用することが重要
な自己顕示型商品 な自己発見型商品
情報発信型商品 自己実現型商品
●視覚と理性が直結する論理 ●五感と情念が織りなす詩心
による近代デザイン による古来からの意匠
●機械をつくるような機能主義建築 ●詩をつくるような象徴主義建築
人間の外側の物理的空間が主題 人間の内側の精神的空間が主題
●神の視座からの完全性を誇る ●人の内面の現象をたくむ
ピクチャーレスク庭園 回遊式庭園
水と緑はデザインエレメント 堀に桜、川に柳の名所原理
(参照)
私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その2=<モノクロニック>と<ポリクロニック>
http://cds190.exblog.jp/255178/
私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その3=<メッセージング>と<ルーミング>
http://cds190.exblog.jp/259530/
家族について(PARTⅡ)
著者は「家族」というもののパターンについてこう解説している。
「大きく分けるとつぎの二つです。
核家族と、拡大家族」
核家族は、
「夫婦とその子ども、みたいに、最小限の人びとから出来ていて、その家族の中に夫婦は一組しかいない。
誰かが結婚して夫婦が二組になりそうになると、分裂して別々の家族になる」
拡大家族は、
「家族のなかに、二組以上の夫婦がいてもよい。
これにはいくつかの類型があって、まず、兄弟がそれぞれ結婚しても、両方とも親夫婦の家族に残って、一緒に食事をし、生計をひとつにするというタイプです。
拡大家族といって世界の人々が思い浮かべるのは、このタイプです」
著者は、このやり方は、夫婦がいくらでも増えていくので不安定で分裂せざるを得ないとし、日本の「イエ」について解説する。
「これに対して、日本のイエみたいに、上下に二世代か三世代の夫婦が一緒に家族として住む、というタイプもあります。(中略)
でも、兄弟(同世代)の夫婦は一緒に住まないで、ふつうは弟の夫婦がイエを出て独立します。(中略)
こういうやり方をする社会は、世界にそう多くありません。(このタイプの家族は、拡大家族ではなく、別な三番目の類型だ、とする考え方もあります。)
実際にひとつの家族のなかに、複数の夫婦がいるかは、時期によります。(中略)
その途中で見たところ核家族みたいになるのは、ほんとうに核家族なのではなくて、拡大家族の夫婦がたまたまひと組になったところ、と理解します」
「拡大家族になるのか、核家族になるのかは、民族・文化によって違います。アングロサクソンといって、イギリス人やその系統のアメリカ人は、もともと核家族の文化をもっています。それに対してイタリアやスペインなど、ラテン系の人びとは、拡大家族の文化をもっている、という違いがある」
著者は、家族のあり方は「民族・文化によるほかに、社会状況も影響する」として日本の例を解説していく。
「江戸時代には、イエ制度が広まっていました。
農村のイエも、武士のイエも、イエ制度によって、代々、ひと組ずつの夫婦が継承することになっていた。財産を分割しなかったのです。
農村では、財産を分割する人は『田分け(たわけ)』といって、とんでもないやり方だということになっていました。じゃあ、弟がいたら、どうするかというと、よそのイエにお婿さんに行くか、独身のままでいる。夫婦に子どもがいなかったら、どうするかというと、どこかから養子を連れてくる。
武士の場合も、同じです。『三百石取り二人扶持の◯◯家』は、中小企業みたいなものですから、必ず社長(そのイエの当主)夫婦がいないといけないので、跡取りを探す。兄が跡取りなら、弟は独身でずっと『部屋住み』で暮らすか、家を出てよそのイエの婿になる。娘しかいなければ、婿をとる。子どもがいなければ、養子を連れてくる、みたいにしました」
「こういうふうに、農家の経営を夫婦一組でやりなさい。武士のイエの経営を夫婦一組でやりなさい、みたいな決まりがあると、それにみあった家族が形成されるんですね。
農村のやり方も明治になって変わったし、武士もいなくなったので、イエ制度は揺らいで、いま、ほとんどなくなっています」
私は、
家族制度としてのイエ制度はなくなったが、
疑似家族的な会社や役所の組織制度に展開していった
と考える。
明治以降から戦後昭和まで、基本的には男社会だったから、「夫婦一組」という概念はたとえば、組織の長と女房役のような助役といった他の人間関係に変換された。「子ども」という概念も組織に入ってくる新人に置き換わる。
この日本の近代化の過程における、「イエ」を雛形にした疑似家族的組織が観念されたのに並行して、「ムラ」を雛形にした疑似地域共同体的組織が観念された。たとえば、若者ばかりが集まる若衆宿を雛形にして、地域名を冠する青年団が組織されたり、暴走族が自然発生した。
ちなみに、後者のような反社会的な若者集団は、比較文化論的にとても面白い。
アメリカではカラーギャングが典型だが、おそらく人種を反映して集団同士が対立しつづける。これは人種やカラーといった記号に密着していて基本的に<メッセージング>の体系にある、と言える。
それに対して日本の集団は、地域名を冠する◯◯連合に統合されていき、お上に対抗する。そして時に、お上が集団同士の抗争を集結させたり、◯◯連合を解散させたりする。つまりアメリカとはまったく違う物語が展開しているのだが、これはある縄張りにおける左右上下の空間概念に密着していて基本的に<ルーミング>の体系にある、と言える。
たとえば、日本の官僚社会では、局長に昇進する者が決まるとその同期は、誰に言われるでもなく自ら退官して外郭団体や民間企業に天下りするのが慣行になってきた。
これも長男が結婚して夫婦となると、次男三男が「部屋住み」(あまり家の表立った所に出て来ないことの状況メタファー)になったり他家に婿入りしたりする武家社会の慣行と構造的に重なる。
日本の企業社会では、最近は、即戦力になる大学や高校の卒業者を求めるという傾向が強くなってきたが、1990年代の就職氷河期以前は、会社が新人を人材育成する、それも仕事を通して見習いから育てるという考え方が一般的だった。それはざっくり言ってしまえば、生活を通して子どもを躾けたり家業を見習わせる「子育て」のアナロジーであった。
そして、「イエ」が三世代の夫婦の上下関係(祖父夫婦と父母夫婦と家督を継承する夫婦となるべき嫡男)として成立していたように、
日本型経営の会社の典型は、創業者とその女房役の経営陣、その薫陶をうけた中堅、現場の見習いから始め次世代を担うべく育てられる若手平社員という三層の上下関係にあった。
野中郁次郎氏は、日本型経営の知識創造組織としての本質を、上下三層からなる「ミドル・アップダウン・マネジメント」と喝破した。
その上下三層とは、上図(筆者の考えに基づく自作)のような、
◯セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)
◯ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)
◯エキスパート(専門家=ロアー)
と説明されるが、
◯祖父祖母
◯父母
◯子ども
の上下三世代に重なる。
おそらく、日本型経営の知識創造組織は日本の三世代家族の「イエ」を雛形に自然発生し、それが現代化を繰り返して今日に至ったのであろう。
日本の企業社会では、一つの会社の中の事業部制から、事業部を独立採算の別の会社とするカンパニー制に移行したり、また一つの会社に統合して事業部制に戻したりがあった。
もともとの一つの会社の中の事業部制は、基幹事業を中心として上下三世代の「イエ」的構造が安定していた。それが事業の多角化やソフト化、サービス化によって複雑性を増して不安定化し、別会社のカンパニー制に移行して、それぞれに上下三世代の「イエ」的構造をもたせるようにした、というのが実際だったと思う。要は「分家」である。
そんなカンパニー制が最終的に統合されまた一つの会社に戻されたのには、経済環境のグローバル化に応じて企業資源の「選択と集中」を図る再編ということが大きな動きとしてあった。つまり「田分け」していられないほどに余裕がなくなったのである。
そしてこの過程で、大手企業のほとんどで日本型経営が短絡的に全否定された。上下三世代の「イエ」的構造の冗長性や俊敏なディシジョンができないことが問題視され、トップと現場が直結するフラット組織が志向されるようになった。本来はナレッジマネジャーとして多様な役割を担っていたミドルが、単なる上下をつなぐ中間管理職として軽視され役割を矮小化され時に中抜き=リストラされた。社員の仕事内容が厳格にマニュアル化され限定された上で現場に自由裁量が与えられた。
かつての本来的な日本型経営においてナレッジマネージャーとしてのミドルは、事業部門横断的な連携や異業種異業界を含む対外的な恊働を主体的に構想し推進した。
それによってどんどん新しい仕事自体を、つまりは新しい事業や商品サービスを創出した。
しかし今やそのようなことは、会社が決めた既定路線からの逸脱行為と看做されるようになってしまった。つまり、会社が経営方針としてこの枠組みで考えろと部門部署に与えた課題だけを考える、それだけがナレッジワーカーの仕事内容とされた。
これでは、自由意志と個性をもった「イエの一員」ではなくて、自由意志と個性があってもないに等しい「機械の部品」に他ならない。
ここで、かつての本来的な日本型経営におけるミドルをこんな風に捉えることができる。
かつて日本型経営においてナレッジマネージャーとしてのミドルが事業部門横断的な連携や対外的な恊働を主体的に進めたことは、「イエ」の中核を担った長男(夫婦)が本家の代表として、次男の分家や三男の婿入りした先の家との連携を常日頃から図っていたことに重なる。
武家社会、特に戦国時代のそれにおいては、有事の際にあるいは事を起す際に、一族の親戚や縁者を勢力として取りまとめて動かす裁量が本家の当主に求められた。そして、当主が高齢だったり、領地が広く連携すべき対象が多数である場合、当主は「◯セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)」の役割に集中することになる。具体的な連携の計画と推進は、軍師や次期当主である嫡男が「◯ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)」の役割として担った。
(私個人的には、軍師はまさに高度なナレッジワーカーであるナレッジ・エンジニアであるが、軍師を擁した次期当主や重臣は基本的には人材マネジメントをしていたのであって、その意味で「ナレッジ・マネジャー」と呼ぶべきだと考えている。
日本型経営で社内外のネットワーカーとなったミドルの場合も同様に多くは「ナレッジ・マネージャー」であり、外部ブレインの「ナレッジ・エンジニア」を活用した。また、「ナレッジ・マネージャー」の資質を高度化するミドルがトップないし経営陣に出世するケースの多々あった。)
本来の日本型経営盛んなりし時代の企業社会でも、社内外のキーマン人材同士の(会社同士ではない)ネットワーク力が「ナレッジ・マネジャー」としてのミドルの実力として評価された(人によっては転職したり独立してもネットワーク力を維持活用した)。
かつてのミドルには、誰に教わるでもなく、伝統社会の「イエ」と「イエ」の連携を人伝手に形成したことを雛形に、そうした社内外の行動力を自然体として備える人材が一般的に多くいたのである。
彼らは決して前近代的な非創造的なタイプの人材ではない。様々に発生する諸事情に臨機応変に対処すべく、対処する人材体制を外部人材を合わせてゼロベースから創出する極めて高次の組織開発者であり機会開発者であった。
なぜそのようなことが、戦国時代の武家本家のナレッジマネージャー役の当主や嫡男や重臣が可能だったのか、はたまた時代を下った戦後昭和の日本型経営の企業のナレッジマネージャー役のミドルたちが可能だったのか。
それはキーマン同士が常日頃から仕事と遊び、公と私を混ぜこぜにした多様な付き合いを通じて情報収集したりアイデアをひねったりそれを対話したりしていたからである。
敢えて言うが、そこでは相手の居城や城下町に出向き直接に相手と顔を合わせるという行為が重要な前提となる。手紙によるやり取りも当然なされた筈だが、それは<メッセージング>の交換に過ぎない。
一方、場に居合わせることによって得られるのは<ルーミング>である。
<メッセージング>は、あくまで明示知である。手紙が典型だが、暗黙知を読み取るには行間を読むしかないし、相手の心理状態を示す身体知は筆致から想像するしかない。軍師がスピーチライターとなり代書されればそれもおぼつかない。
一方、現地現場で相手と顔を合わせる<ルーミング>は、暗黙知と身体知を直接に感得すること、そして相手に感得させることができる。こうした枠組みで口頭の物言いという<メッセージング>が交わされるが、手紙と違って物言いする相手の表情や語気にさまざまな暗黙知と身体知を汲み取ること、そして汲み取らせることができる。城下を歩き民の表情や立ち居振る舞いの雰囲気からも多くを察することができよう。
キーマン同士が常日頃から仕事と遊び、公と私を混ぜこぜにした多様な付き合いとは、当人同士が交わした<メッセージング>以上に、<ルーミング>を交感しているものなのである。
私は、クルマ、情報家電、事務機、コンビニ、広告代理店など同業界の大手企業を複数クライアントにしてきた。社屋を訪れて社員と会うたびに、同じ業界大手でもどこか異なる<ルーミング>を体感した。文書化された内部資料も多く目にしたが、おどろくほど似たり寄ったりの内容でびっくりすることが多かった。つまり<メッセージング>がほぼ同じでも<ルーミング>が異なり、結果的に経営方針や経営状態の違いを生じていることを不思議に思ったり面白く思ったりしてきた。
日本企業の場合、重要なのは、
場に依存しない低コンテクストな明示知の<メッセージング>の体系ではなくて、
場に依存する高コンテクストな暗黙知や身体知の<ルーミング>の体系なのではないか、
と実感するようになった。
そして、後者の鍵を握るのが、ナレッジマネージャーとしてキーマンとなったミドルたちだったと考えられる。
そして、彼らの存在と彼らが活躍するようなワークスタイルを排除してしまった企業は、総じて<ルーミング>的にも大差なくなり経営も悪化していった。
社会学者エズラ・ヴォーゲル氏はその著「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で、「勉強会の自然発生」に着目していた。
バブル期までは、キーマンであるミドルが自分のアフター5の時間とお金を使って、異業種異業界のキーマンが集まる勉強会を催したりそれに参加したりしていたのである。
今のネットで知り合ったビジネスパーソン同士が集まるオフ会とはまったく違う。どこが違うかというと、大きくは2つある。
1つは、オフ会のように共通の関心事がある人がそれを入口に集まる訳ではないこと
1つは、参加して自分が何かを得る、何を得るという確証がないのに参加すること
である。
今のオフ会は、明示知の<メッセージング>を入口にしてそれが出口まで繋がって行く。オフ会では最初に名刺交換をしてくる人が多く、そういう人の名刺には必ず有名企業の名と本人の肩書きがあり、あああそこであれしている人なんだという情報伝達をしてくる。これも<メッセージング>である。フリーディスカッションをして、意外な話を聞くことはまずない。ただ、彼があの会社のあれをしたんだ、とか、彼女があの会社のあれをした時はそうだったんだ、とかいわゆる「中の人」ゆえに知るより詳しい情報を得るだけである。私は、そんな話はどこの会社にもあって当たり前なので面白いと思わないが、参加者は今後の仕事関係に役立つ人脈づくりという意図からだろう、熱心に聞いたり話したりしている。
一方、バブル期まで盛んだった勉強会は、オフ会と真逆である。
個性的なキーマンという評判の人や自負をする人が、類は類を呼ぶ的に集合するのである。
極めて暗黙知と身体知に根ざした相性のようなものを嗅覚で嗅ぎ分け合って、参加を誘ったり、参加を受け入れたりする。企業主催のオフ会の参加者100人以上がざらなのに対して、多くても十数人の小集団の会合だった。
バブル期、30前後の無名のフリーランスだった私は二三の勉強会に呼ばれて参加した。様々な業界大手のミドルや大学助教授、有名なロゴのデザイナーやレストランの経営者などにまじって有意義な交流ができた。そこから生まれた仕事も多くあった。
おそらく今の若い人には信じられないだろうが、所属する会社と肩書きはまったく関係なかった。その場で何を発想し何を言うかだけが問われ、その思考展開が面白いと思った人が速攻でオフィシャルな恊働をもちかけてきた。主催者が気に入って呼んだ若者ならばという安心感も大きかったのではないか、と今にして思う。社長からフリーランスまで地位役職を問わない人材の目利きが勉強会を主催し相応しい人選をしていた。私の参加した勉強会の基準は、何を考えどんなことをしている人か、だけだった。
そして勉強会の目的は、じつは勉強することなどではなく、楽しく人と人が繋がることだった、と今にして思う。
場に居合わせることで暗黙知と身体知が交感し、相性のいい者同士の化学反応が起こる偶発性を期待する、そういう不確定性を重視する姿勢を共有できるタイプが厳選されていた。フリーランスだからと言って下請け根性丸出しの人間はけっして呼ばれなかったし、俺は社長だとふんぞり返っている人間などもいなかった。
名だたる大企業の社長やマーケティング担当取締役が、今度会社に遊びにおいでと言ってくれてのこのこ行くと、その気さくさに心底びっくりしたこともあった。私も欲得ではなく好奇心で行ったので、必ずしもオフィシャルな仕事に結びつきはしなかった。しかし得たものはなまじの仕事以上に大きかった。口頭で何かを教えてくれたということ(メッセージング)ではない。彼らの場に居合わせた(ルーミング)だけで、言葉に言い表し難い重要な何か、つまりは重要な暗黙知や身体知を感得した。それをあえて言葉にすれば、世界観それに一体化した人生観、そしてそれを踏まえた自然体のようなものか。目先の何かに直接的に役立つことはなかったが、人生の節目や仕事の難局になぜかふと思い出し勇気づけられること度々であった。
ああ、それが「形骸に触れる」ということなのか、と気づいたのは最近である。
そんな<ルーミング>の暗黙知と身体知は、<メッセージング>の明示知のように古びたり色あせたり忘れたりしない。
日本の企業社会はバブル崩壊以降のここ四半世紀で大きく変質した。
知識創造の変化そして重視される知識そのものの変化が並行した。
それが経済のグローバル化という世界動向と、コミュニケーションのIT化という社会の高度情報化を背景とするのは間違いない。
◯重視される知識が低コンテクストな明示知でかつ個々人の短期的な業績向上に直結するものに偏っていった。
かつての日本型経営では、場において、その場に居合わせた者たちが共創する暗黙知や身体知を重視し集団単位の中長期的な業績向上が目指されたが、そうした高コンテクストな知識と知識創造の場が軽視ないし排除されていった。
◯知識労働の専門分化が進み細分化されていきワークスタイルがモノクロニックになっていった。
知識創造組織は、モノクロニックなワークスタイルの組み合わせで成立する機械論的なものとなっていった。
かつての高コンテクストな知識と知識創造の場は、多様な人材が多彩な話題で自由に対話する、その中から自然発生的にあるいは偶発的に生まれる知的成果を尊重した。
場に参加するナレッジワーカーは自分の専門分野以外のことについても思いつきや気になったことを気兼ねなく自由に発言した。実際に何に役立つか分からない楽しい知的遊びを一緒にやったりもした。勉強会も、その名前からすると堅苦しいイメージだが、私の場合、一次会でグルメの会食をしながらのゲストスピーカーの発表とフリーディスカッション、そこで気の合った者同士が三々五々二次会の飲み会へというパターンだった。一次会が神楽坂の料亭で芸者さんを呼んだこともある。
つまり、ナレッジマネージャーのミドル、その中でも社内外のネットワーク力をもったキーマンたちの場合、そのワークスタイルは必ずしも専門や分担にとらわれないポリクロニックなものだった。
かつての日本型経営の知識創造組織は、ネットワーカーであるキーマンがそのポリクロニックなワークスタイルを自由に展開する場やイベントや機会を積極的に設けた人間論的なものだったと言えよう。
こうした
・場に居合わせた者が共創する高コンテクストな暗黙知や身体知重視から
どこの誰でも理解可能な低コンテクストな明示知重視へ
(知識創造組織においてナレッジワーカーが容易に交換可能な人材として前提されるようになっていった)
・ポリクロニックなワークスタイルからモノクロニックなワークスタイルへ
(知識創造組織における人間関係が非常に画一的で知識偏重なものに限界づけられていった
たとえば勉強会で意気投合しオフィシャルな恊働関係に発展した人間関係は知よりもむしろ意や情の側面で相性が良かったが、オフ会では名刺が担保する知のバックグラウンドで繋がるようになっていった)
・人間論的組織から機械論的組織へ
(機械論的な「アメリカ型のグローバル化」が国内において蔓延した
一方、海外市場で成長した優秀企業の多くは、人間論的な「日本型のグローバル化」を現地の諸事情に応じて工夫したところだった)
という日本の企業社会のパラダイム転換は、あまり重大視されていないが文化論的には決定的なことだった。
以上、企業社会における文化論的に決定的なパラダイム転換を実体験をまじえて検討した。
その旧パラダイムに属するかつての日本型経営の会社が伝統社会の「イエ」つまりは「家族」を雛形として自然発生したことや、その中核となったナレッジマネージャーとしてのミドルのキーマン同士の、個人としての公私混同の付き合いが「イエ」的な会社と会社を自由奔放に繋いだ勉強会を振り返った。
以下さらに企業社会における文化論的に決定的なパラダイム転換を、著者が解説する「中間集団」という角度からやはり実体験をまじえて検討してみたい。
「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(6:その2)
http://cds190.exblog.jp/23442344/
につづく