「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(3) |
「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(2)
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からのつづき
憲法について(PARTⅠより)
「憲法は、手紙です。
人民から、国にあてた手紙。その国の政府職員(筆者注:官僚や大臣)に向けて、こうしなさいと約束させるものです。(中略)
憲法も、広い意味では、法律です。
法律は、あらかじめルールを決めておき、人びとがそれに従うことです。
でも、一般の法律と、憲法を、ごっちゃにしないことが大事です。
一般の法律は、国が決めて、人民が守ります。(中略)
憲法は、この向きが正反対です。
人民が、約束を守らせる側。
国(政府や議会や裁判所)が、約束を守る側です。
人民が政府に言うことを聞かせるところに、憲法の本質があります」
古来、人民が国に約束をさせるという本質をもった憲法がなくても、古今東西の国や社会は回っていた。
あの「和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」から始まる、日本古代の官僚や貴族に対する道徳的な規範が示した「十七条憲法」というのは、こうした本質をもった近代憲法ではなかったことは言うまでもない。
近代憲法ができるまでは、社会は回っていたが、人民はすこぶる迷惑を繰り返し被りこれに対抗する手立てがなかった。
「憲法がないと困る点を強いて言えば、政府が暴走すると止めようがないことです。
人民にああしろこうしろと、国王が命令して、法律で決めます。その国王が、正しくないこと、間違ったことを命令した場合、人民は困ります。また人民は、国王にこうしてほしいと要求があっても、国王に伝える方法がない。(中略)
そこで、いくつかの国ではだんだん、憲法のもとになる考え方が、生まれました。人民の要求するように政治を行ってくれませんか、と意見を述べる仕組みです。その仕組みが、議会です。議会は憲法より古いのです」
ここで重要な本質は、人民の要求が議会を通じて下から上に向かうというベクトルだ。
この下から上へのベクトルの結晶が憲法、ということである。
近代憲法ができても国の暴走を必ずしも防ぎ切ることはできなかった。
戦前の日本には大日本帝国憲法があったが、軍部の暴走を天皇が終戦の詔勅を発するまで誰も止めることができなかった。
中国はソ連のスターリン憲法(1936年)に範をとった「中華人民共和国憲法」(54年憲法)を公布したが、文化大革命という暴走を防ぐことはできなかった。むしろ文革期の不安定な政治的環境の下、法を軽視する傾向(法的ニヒリズム)の強まりの中でそれを反映した憲法改正(75年憲法)が行われ、それは文革集結後に再改正(78年憲法)された。
中国では憲法が制定されてから1年から数年で制憲時の政治的基礎が根本から失われるという事態を繰り返してきた。最終的に82年憲法の実質的寿命が際立って長く、その内容は文革の影響を完全に払拭し、54年憲法を基本的に継受しつつ発展させた憲法と位置づけられている。
中国の憲法が問題含みである土壌には、「人民共和国」という国号ながらも共産党一党独裁であり、憲法は下から上へのベクトルの結晶という本質を伴っていないことがある。
ひるがえって戦後日本の日本国憲法はどうだろうか。
アメリカ軍の占領下において新憲法の公布が企図されたことから、その成立過程からはけっして憲法は下から上へのベクトルの結晶とは言えないことは確かだ。
しかし、公布当時の日本国民は、敗戦まで軍部に振り回されお国のため天皇陛下万歳と多大な戦争の犠牲を払った直後にあり、もうそれだけはこりごりだと思っていた訳で、いわゆる平和憲法と象徴天皇制を歓迎したことは紛れもない事実だ。つまり、当時の日本国民の総意が反映していた訳で、内容的には少なくとも終戦直後の公布当時は憲法は下から上へのベクトルの結晶だった。
今、私たちが問うべきは、現代の日本国民にとっても内容的に憲法は下から上へのベクトルの結晶なのか、ということだ。
一方、現安倍政権が成立させようとしている安保法制が、大方の憲法学者から憲法違反であるとされ国会の参考人質疑でも指摘され、過半の国民が拙速な安保法制成立に反対しているという事態がある。憲法が憲法解釈によって骨抜きにされる、議員内閣制と小選挙区制で実質的には過半に満たない国民の支持を受ける政権によって立憲主義が損なわれているといった批判がある。
以上はすべて、憲法は下から上へのベクトルの結晶なのか、という疑義と言える。
世論は、違憲か合憲か、ということに論議を集中させがちである。
しかしそもそも、こうした論議のあり方が憲法の本質にそって下から上へのベクトルなのか、それとも上から下へのベクトルなのか、ということに集中すべきだろう。
政権が政策を通すという目的のためには手段を選ばず、国民の過半の反対を押し切っても何でもする、というのは明らかに下から上へのベクトルに逆行する。
「議会に集まっているのは、税金を納める人びとの代表。国王は税金を集める側。
国王は、税金をたくさん集めたい。納税する側は、まけてもらいたい。そこで、納税者の代表である議会が、同意した場合に、国王が税金を集めてよろしいという仕組みなんですね。
議会で税金の額を決めることを、予算といいます。
議会は予算を審議するところです。そのほか、重大事件について、裁判を行う場合もありました」
この発生当初の議会の本質的な働きは、今の日本の国会も同じだ。
ただし戦前の帝国議会は、さらに発生当初の議会の本質的な働きが色濃い。
帝国議会は、英国とプロイセンの上院制度が折衷され、皇族、華族及び勅任議員で組織される「貴族院」と、公選議員をもって組織される「衆議院」から成る二院制が採用された。
貴族院は、民選議院である衆議院に反政府的な勢力が伸張することを警戒して、衆議院を抑制する役割を営ませようとしたものである。貴族院では子爵団体を母体とする研究会が最大会派だった。
つまりは、税金を集める国王側の勢力がおさえていたということになる。
貴族院議員には、多額納税者の中から互選された者について勅任される多額納税者議員という類型があったが、これは税的優遇を受ける特権階級ということかも知れない。
帝国議会は両院平等原則が採られていたが、貴族院は、衆議院に対して対等な権限を有するとともに、政府からも強い独立性を有し、 特に政党内閣となった場合は、政府は貴族院をどう抑えるかに腐心を強いられたという。
衆議院が税金を払う側の代表とすれば、これに対して税金を集める側よりの代表の貴族院が優位であった、ということである。
ちなみに衆議院への国民の参政権はどうなっていたか。
当時の支配層のなかには、生活が安定しない下層民は、容易に煽動され、過激な方向に走りやすいとする考え方が一般的であり、従って政治を安定させるためには、選挙権を生活の安定した上層の国民に限定しなければならないとされた。その際、土地こそが「恒産」であり、土地所有こそが生活安定の基礎として考えられていた。そして、政治参加をこうした恒産を有する上層階級のみに限るための方法として編み出されたのが、 選挙権を一定額以上の国税納税者(とくに地租を納める土地所有者=地主)に限る選挙制度だった。
明治22(1889)年に制定された最初の衆議院議員選挙法では、この制限は応接印税(地租と所得税)15円以上と規定されたが、直接国税のなかでも地租が中心に考えられていたことは、地租の場合には選挙人名簿作成前1年間の納付で足りたのに対して、所得税は最低3年間の継続した納付が必要とされたことによるという。
つまり衆議院の選挙権は多額納税者に限定されていた。
戦後の国会議員の選挙権は納税条件がなくなり女性参政権も認められて現在の普通選挙となった。
「いまのようなかたちの(筆者注:近代)憲法を最初につくったのは、アメリカ合衆国だと言われています。
アメリカ植民地の人びとは、独立を宣言し、独立戦争を戦って、イギリス軍に勝ったあと、『アメリカ合衆国』をつくりました。そのとき、アメリカ合衆国の『憲法』なるものを取り決めたのです」
イギリス議会で決まった税金がアメリカ植民地にも課されたのだが、アメリカ植民地を代表する議員を受け入れていなかったことが問題となった。
ボストン茶会事件(1773年)の際のアメリカ人の唱えたスローガンは、『代表なければ、課税なし』だった。
アメリカにあった13の植民地が州となり結束してアメリカ軍を構成したが、その司令官が「大統領」だった。独立を勝ち取ろうと独立宣言にみなが署名し、一般市民を銃を取って独立戦争を戦った。
このアメリカ建国の動きの本質も下から上へのベクトルだった。
よってアメリカ人にとっては、憲法は下から上へのベクトルの結晶であるのは自明のことなのである。
「この戦争にやっとのことで勝利して、制定したのがアメリが合衆国『憲法』です。
この憲法の狙いは、ずばり、国王の出現を阻止することです。せっかく国王と戦争をして、市民たちの国をつくったのに、大統領が国王になったりしたら、元の木阿弥です。何のために独立したのかわかりません。そこで、任期を決めて、大統領は四年たったらもとの人に戻る、みたいにしました。(中略)
憲法のなかみの、第一。
政府機関をこうつくりなさい。議会があって、大統領がいて、裁判所があって、三権分立にすること。軍があって、大統領が指揮をとること。それぞれの政府機関の役割や、権限も決めます。
憲法のなかみの、第二。
私たちの権利を守りなさい。政府は私たち人民の、生まれながらの権利を奪うことはできません。たとえば、生存権、幸福追求権、所有権、信仰の自由、言論の自由、集会・結社の自由、居住の自由、などです。
あと、憲法改正のやり方など、細かなことをいろいろ書きます。
アメリカ合衆国は、いちから出来た国なので、こういう憲法をつくりやすかったのです」
「アメリカ合衆国が成立したあと、フランス革命が起こりました。
フランスの人びとは、国王や貴族がいないアメリカ合衆国をすばらしいと思って、応援していました。フランスの国王や貴族にみんな、困っていたのです。(中略)
これまでの国王の政府に代わる、フランス共和国が出来あがっていきました。
その中心になったのは、議会。いろいろな名前の議会がつぎつぎに開かれては廃止され、革命を薦めました。革命派の人びとは、国王の横暴を非難し、アメリカ合衆国憲法を参考に、フランス共和国憲法をつくり、高らかに人権を宣言したのです」
このフランス革命の動きの本質も下から上へのベクトルだった。
よってフランス人にとっても、憲法は下から上へのベクトルの結晶であるのは自明のことなのである。
「(筆者注:大統領にあたる)ナポレオンはフランス共和国軍を率いて、『自由・平等・友愛』の理想をヨーロッパ全体に広めるのだと、まわりの国々に攻め込みました。結局ナポレオンは、最後に敗けてしまいます。でも、フランスのようなやり方がヨーロッパ全体のモデルになったのは、ナポレオンの活躍のおかげです。
そのあとヨーロパでは、国王がいる国も、憲法をつくるのが標準的なやり方となり、立憲君主制が広まりました。日本の明治憲法(大日本帝国憲法)も、このやり方にならったものです」
問題は、議会制度や憲法をもとうとした日本が、必ずしも下から上へのベクトルが強かったとは言えないことである。
このことが最終的に戦後まで引き継がれてしまい、
今の日本人にとっては、憲法は下から上へのベクトルの結晶という認識が希薄なままになっている。
それは明治維新を経た近代国家樹立まもない頃で致し方なかったかの印象があるが、維新の功労者である勲功者が貴族として世襲制の特権階級を構成する(伊藤家、大山家、山縣家、松方家、桂家の五家は公爵になった)など、吉田松陰の提唱した「草莽崛起」(そうもうくっき)の結末としては大いに矛盾する上から下へのベクトルを固定化するものだった。
江戸時代の幕藩体制の士農工商の身分制度に比べれば四民平等で下から上に向かう流動性が増したということに過ぎない。
特にアメリカやフランスの動きに比べて下から上へのベクトルは著しく弱く、立憲君主制のイギリスに比べて上から下へのベクトルが強かったと言えよう。
ここで言う「上」は天皇=国王であるようでいて必ずしもそうではない。
そこがポイントである。
立憲君主制度は議員内閣制をしき、政府が「上」=お上なのである。
日本では、イギリスの憲法を構成する慣習法の一つである国王の「君臨すれども統治せず」が形を変えて展開する。
イギリスの場合、議会で可決された法案(庶民院の優越により貴族院が否決・修正しても庶民院が可決していれば庶民院案が通る)が王位に承認されることにより、法令が認可される。王位は、それに在る者の意志と関係なく、儀礼的に可決された法案を承認することとなっていて、首相の助言によって行動するのみである。
これが、戦前日本の場合、庶民院に相当する衆議院の貴族院に対する優越がなかった。
政府が「上」=お上だと述べたが、議員内閣制をしいていて貴族院に対するところの衆議院が弱いのだから一般国民の民意が反映されにくい。
結果的に極めて安定的に権力を維持拡大し発揮するのは官僚体制だった。そしてその中核的存在として、世界最大の官僚機構に膨張していく陸軍省、そして海軍省があった。
統帥権とは、大日本帝国憲法が定めていた天皇大権の一つで陸軍や海軍への統帥の権能を指す。
その内容は陸海軍の組織と編制などの制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などの権能である。これらは陸軍では陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長・軍令部総長は軍令権を担った。
明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が輔弼(ほひつ)することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補翼することとなっていた。
この軍令と国務大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生する。この明治憲法が抱えていた欠陥が終戦に至るまでの日本の軍国主義化を助長した点は否めないと言われている。
憲法論や行政論は複雑で門外漢である私を含めて一般庶民には難解だ。
しかし、そもそも憲法や議会というものが近代国家において発生した動きの本質だった下から上へのベクトルに照らせば、
それに従う動きなのか、それに歯向かう動きなのかは明らかである。
軍国化していった日本の場合、政府が「上」=お上であり、その中核は陸軍、海軍という軍部だった。
その動きは国民向けの天皇を尊崇するプロパガンダとは裏腹に陰に陽に天皇すらも蔑ろにするものだった。
この夏の終戦記念日に、総理は戦後70年に際して、閣議決定を経ない個人談話を発表するという。(紆余曲折を経て、最終的には閣議決定を経た総理談話となった。)
たとえ閣議決定を経なくても、世界各国は日本の総理の談話を国を代表する談話として受けとめるだろう。
太平洋戦争や大陸への侵略戦争を振り返るとすれば、それを可能にした戦前の国家体制としての憲法と議会を振り返ることが必要であるのは論を俟たない。
総理の談話はそこまで深い洞察を伴うものとなるのだろうか。
国内的には「戦後レジームからの脱却」を連呼してきた総理には、それが「戦前レジームへの回帰」でないことを是非明快にしてほしい。そしてもしそうするのであれば、戦前の国家体制としての憲法と議会を振り返らざるを得ない。
著者、橋爪氏はこの「憲法」の項目を以下のような主権者論で締めくくっている。
「日本国をつくろうと思う人々(人民)が、日本人です。
これは、国籍がどうのという話ではありません。憲法にさかのぼる、いや、憲法のそのまた前にさかのぼる話です。
憲法に先立って、日本国をつくろうと思っている人民(あなた)。これを主権者といいます(まだ国がないので、国民というより、人民というほうがよろしい)。
なぜ主権者かと言えば、人民が日本国をつくるのだから。そのために憲法を定めたからです。
『主権在民』(日本国の主権は人民にある)とは、このような意味なのです。そこで、みなさんは、日本国のあり方に責任を持って、いつも監視していましょう」
日本の官僚は、戦前までは大和朝廷以来、建前として「天皇の臣下」だった。
それが戦後、天皇が象徴になって「天皇の臣下」ではなくなった。
「衆議院」に優越した「貴族院」が解体されその皇族を主体とする影響力からも解放された。
戦後日本の官僚体制は、有史以来、実際的にもっとも優越した権力の担い手として我が世の春を謳歌するようになった。
但しその例外が、戦前の官僚体制の中核だった軍部に相当する、防衛庁であり2007年(平成19年)に省に昇格した防衛省だった。
もし戦前回帰ということが今後あるとすれば、その達成は、防衛省の呼称が国防省になり戦前の軍部と同じに官僚体制の中核を占める時である。
そして今からその方向に向かう動きが着々と進んで行くとすれば、それは小難しい憲法論や行政論をすっとばしても実感できるだろう。
なぜなら、下から上へのベクトルをねじ伏せる上から下へのベクトルが私たち国民の身に否応なく迫ってくるからだ。
憲法の本質と議会の存在意義は下から上へのベクトルの結晶である。
それが「日本国のあり方」を決定づけている。
著者の言う「日本国のあり方に責任を持って、いつも監視していましょう」という提唱を肝に銘じる正念場のような昨今である。
(補記)
戦後ドイツの憲法で日本の憲法と比較し特徴的なのは「憲法忠誠(戦う民主主義)」の内容。
基本法が基礎としている自由主義・民主主義を防衛する義務を国民に課し基本法の法秩序を廃絶せんとする者に対してドイツ国民は抵抗する権利を有している。
この抵抗権は1968年に追加制定=憲法改正。
羽仁五郎bot:
至高の権利また義務としての抵抗権がはなはだしく抑圧されてきたために、この自覚が日本人民の中にまだ確立していない時、日本国憲法が人民主権と人間の尊厳を唱えるだけで、人間の尊厳が侵された時これに対する抵抗権をはっきり立てることができなかったのは、大いなる欠陥とされなばならない。
麻生氏がやり口を参考にしろと言っていたのは、ナチスの合法的な政権獲得を許した全権委任法(授権法)の制定ことではないか。その正式の名称は「民族および国家の危難を除去するための法律」という。「民族および国家の危難」とはまさに国家の「存立危機事態」のことだ。この赤ら様を指摘しない報道。
正々堂々と改憲を目指せばいい。
改憲そのものは悪でも善でもないただ、改善になる改憲と、改悪になる改憲があるだけだ。
正攻法で改憲を目指さずに憲法解釈で憲法の主旨を骨抜きにする勢力は、どちらをするだろう。私が危惧するのはそれだけだ。
「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(4)
http://cds190.exblog.jp/23326967/
につづく