NHKテレビテキスト
100分de名著「古事記 歴史は一つではない」三浦佑之著 発
「古事記」が記した日本人の<社会人的な心性>のベース=<部族人的な心性>(10:結論/中)
http://cds190.exblog.jp/21466619/からつづく。
本項(11:結論/下)では、前項 (9:結論/上)(10:結論/中)に引き続き
(7:間章)(8:間章)で述べた視座や仮説を踏まえて、
私なりの「古事記の正体とは」とは何かについて整理しておきたい。
「非定住系ヒーローたち」の物語傾向を「贈与」「交換」概念から振り返る最初に、なぜ古事記において
「贈与」と
「交換」という二項対立がそれを読み解く鍵概念になるか、について象徴的な話をしたい。
古事記は、その完成当初からずっと朝廷でも天皇とその周辺の限られた階層にしか読まれずにきた。
古代において庶民が知りえた神話は、個々の地方地域の神社に割り振られた祭神にまつわる一部の物語であった。
庶民は、これが語られるのを聞いたり、神楽の前身になる演舞が演じられるのを見たりするだけだった。
しかし、その漏れ聞きや垣間見を祭りなどで幼い頃から繰り返すだけでも、文字や書物が普及していない時代に日本全国津々浦々に「神々」についての「暗黙知の体系」が普及したことは、考えてみればすごいことである。
古事記全体の語りを聞き通したり書物を読み通した者は、朝廷や宮廷でも中枢の限られた階層であるが、その中で、天皇と皇位継承者である皇太子にとっては必読書だったに違いない。天孫族の末裔ということに皇統としてのアイデンティティを求める以上、そうであるに違いない。
一方、
神話という「神々」の物語は、支配階層のトップと、ボトムの庶民階層を一気通貫で包み込むヴァーチャルリアリティの時空であった。
そういう前提において、
古事記が想定した主たる読み手のトップは代々に即位する天皇であり、
古事記が天皇に訴求する主たる内容は、天皇が把握すべき日本列島の支配階層の本質的な傾向とそれを制御する言わば日本型の帝王学であった
そして帝王学とは、
皇族や主要渡来氏族の間の「暗黙の了解」を踏まえた
戦略的かつ大局観的な「暗黙知・身体知の体系」であった
と言える。
国際的に通用する歴史書という「明示知・形式知の体系」である日本書紀とは対照的に、
言わば<身内>向けの「暗黙知・身体知の体系」である古事記は、
支配階層としての「暗黙の了解」や経験知の有無深浅によって読み手が理解できる内容が違ってくる。
よって、
皇位継承者である天皇や皇太子が読むのと、それ以外の皇族が読むのとでも、大きな違いがあっただろう。
天皇と皇太子は実際に古事記にでてくる主人公と似通った立場にあるため、自らがその立場で感得する現場ならではの「暗黙知・身体知の体系」と照らし合わせることができる。
その最たるものが天皇が担う体系だった祭祀であり、それは他の者が経験しえない「暗黙知・身体知の体系」である。そこには、その他の皇族では把握しきれない「暗黙知」があり、想像できない「身体知」がある。
「暗黙知・身体知の体系」である「神話」と、
「明示知・形式知の体系」である「歴史」との違いは大きい。
読み手が持っている「暗黙知」や「身体知」の有無深浅によって、読み手が把握する内容はまったく違ってくる。皮相的な理解と、本質的な理解のように。
持ち合わせが無いか浅ければ物語の表層に流される。有って深ければ物語が暗示する事の真相に思い当たる。
「神話」は、読み聴きする人が立つ「場」の文脈によっても、把握する内容が異なる方向に誘導される。「場」には人間関係やその規範が伴うが、同じ「神話」を同じ人が読み聴きしても、祝祭的な立場においてするのと、政治的な立場においてするのとでは、全く異なる方向に誘導される。
そういう高コンテクスト性(高い文脈依存性)が「暗黙知・身体知の体系」である「神話」にはある。
この特性のために「神話」を広報戦略(パブリック・リレーション戦略)の基幹コンテンツとして利用することが、日本ではそれを完成させた初めからあったし、戦前戦中戦後の近現代にもあった、今もあると言えよう。
一方、
「明示知・形式知の体系」である「歴史」は、誰がどこでどのように読んだり見聞きしても把握する内容は異ならない。(もちろん理解や記憶は受け手の能力による。)
つまり低コンテクスト性(低い文脈依存性)にある。
国際的に読まれることを前提に漢語で書かれた日本書紀は、国史の性格が強く、その記述は低コンテクスト性を心がけている。
このような現代話にたとえることができる。
日本書紀は文科省が検定した国定教科書である。内容によっては外国から文句を言われたりする。
一方、
古事記はフィクションと断り書きをした歴史小説である。フィクションと断り書きをしているから国内外の誰からも文句は言われない。しかしフィクションには、読み聴きする者が「暗黙の了解」事項を知っていれば、それを踏まえて読み解ける暗示が盛り込まれている。
たとえば、
戦後のある総理大臣になった人物がCIAのスパイだったことはアメリカの公文書が公開されて事実と判明している。それはアメリカでは記録であり、歴史である。
また、戦後、日米合同委員会というものが毎年開催されその指針通りに政治が動いてきたことは、知る人の間では公然の秘密(「暗黙の了解」事項)である。
しかし、そのようなことが文科省が検定した国定教科書に記載されることはない。
だが、フィクションと断り書きした歴史小説ならば暗示的に記すことが許される。
「暗黙知・身体知の体系」である「神話」の古事記には、これと同じ性格がある。
単純に言えば、
「神話」は物語であり、
「歴史」は記録である。
では、
物語は、記録と何が違うのか。
物語は、基本エンターテイメントであり、何らかの意図を持って読者を感動させるように物語られる。
もちろん、鉄道マニアが時刻表を見て感動するように、記録を見て感動する人もいるが、それは歴史家や歴史マニアであって庶民一般ではない。
では、物語のエンターテイメント性の本質とは何だろう。
それは、
物語の創作者や編纂者が
意図する内容を読む者、聴く者に感動とともに刷り込むという目的で
「情動(エモーション)」を喚起させるという手段を多用する
ということである。
情動(エモーション)とは、咄嗟の無意識的な身体反応をともなった感情のことで、意識的な思考によって変容する感情(フィーリング)と峻別される。
情動は、思い出しただけでも、身体的な反応がフラッシュバックする、つまり身体に暗黙知として刻まれる。
だから、
私たちは感動した筈の小説のあらすじを忘れても、カタストロフ(芝居の大詰め)に喚起された「情動」は身体に刻まれていて、その「場」のニュアンスとともに忘れないのである。
「場」というものも、単なる「時空」という明示知・形式知とは違い、ニュアンスという暗黙知・身体知を含んでいる。
ちなみに、
「感情(フィーリング)」は、意識的なもので、時間経過とともに思考の介在によって変容していく。歴史修正主義のように、記録には修正が可能である。
一方、
物語も修正が可能のようだが、カタストロフで喚起する「情動」を置き換えたら、それはもう違う物語だから、可能なのは前の物語の廃棄と新しい物語への置き換えということになる。ところが、前の物語を読み聴きした者は、それに喚起された「情動」が身体に刻まれているから、それにはついていけない。そこで、カタストロフで喚起する「情動」をそのままにしておいて、主客を逆転させるといったことが横行する。具体的には、悪者と善玉と、加害者と被害者を入れ替えるという大胆な改竄が行われる。歴史修正主義の場合、そこまであからさまな改竄はできない。
「神話」は、読み聴きする人が立つ「場」の文脈によっても、把握する内容が異なる方向に誘導される。「場」には人間関係やその規範が伴うが、同じ「神話」を同じ人が読み聴きしても、祝祭的な立場においてするのと、政治的な立場においてするのとでは、全く異なる方向に誘導される
と述べた。
それに関係して、天皇制の実際の史実としてこんなことが注目される。
時の権力者の一族から擁立された天皇なのに、いざ天皇に即位するとその一族の専横に対抗するようになるケースがあった。
中国の皇帝でもこれと同様のことがあったが、それは皇帝の外戚に対抗する権力争いである。
日本の天皇の場合、特徴的なのは、宗教的な最高権威者となった天皇が、政治的な最高権力者である一族の族長に対抗することがあったことだ。
つまり、天皇の「権威」が、為政者の「権力」に対抗するのである。
天皇あるいは皇太子となると、もはや最高権力者の一族の一員ではなく、天孫から連なる皇位を継承する唯一無二の最高権威者となる、あるいはその後継者となる。天皇が担う祭祀を行ったりそれを見習うようになる。
この段階で、「行政時空」ではなく「祝祭時空」に生きるようになる。
そして、
「行政時空」が「交換経済」なのに対して、
「祝祭時空」は「贈与経済」
つまり、カネやモノの経済ではなくて「負い目感情の経済」になる。
風土という自然神が豊穣をもたらしてくれる、人間の営みはそれに依存していて、そんな神と人間との関係は、神に貢納をせずには済ませられない「負い目感情の経済」にある。神道の場合、人間が個々人が直接的に超越者に対峙するのではなく、あくまで共同体の構成員の代表であるシャーマンを介して対峙する。天皇はそのような日本人を代表するシャーマンに他ならない。そして、シャーマンと共同体の構成員との関係も「負い目感情の経済」にある。王土王民の思想となって、天皇に初物を貢納しないでは済ませられない「負い目感情の経済」にあった。
以上の起っている現象の全体を俯瞰すると、
天皇を媒介にして、
「祝祭時空」が「行政時空」に対抗するようになる
「贈与経済」が「交換経済」に対抗するようになる
と総括できる。
「贈与経済」は、「負い目感情」の経済である。
「負い目感情」のやりとりにおいて互いのそれが相殺されることを良しとする。
相殺されないと気持ち悪い、負い目を残すのである。
共同体の代表として神である風土の自然に対峙する祭祀者である天皇は、即位した時点で人間同士における比較優位(帰属する世間における位置づけである分際)を超越してしまう。天皇は「負い目感情」のやりとりを共同体代表として神との間でする唯一無二の存在なのである。
神に対峙する祭祀者として、共同体の神に対する「負い目感情」を相殺することに努めるのである。
神は一方的に共同体に加護を与える。加護に対して共同体は供儀することによって「負い目感情」を相殺する。
それが全うされないと神は共同体に災難を与え、共同体は「負い目感情」を積み増すから、さらに供儀という返報をすることで神の怒りを鎮めようとする。
このように神と共同体との互酬性を、共同体を代表する祭祀者として保つのが、天皇が民の幸せを祈るという行為に他ならない。
ヤマト王権が統一的な「領域国家」を完成させる以前は、地方地域にそれぞれの神を祀る聖地や社があり自俗的な神祀信仰があった。行政拠点でありかつ交易拠点である宮があり、政治と宗教が「まつりごと」として渾然一体であり、主要神社の前身になっていった。
中国由来の遠隔地交易民の主要渡来系勢力(「出雲族」と「安曇氏」)がこれを構築運営したから、その神祀信仰は、道教の起源となる中国南部に発生した自然崇拝の土着信仰と重なるものだったと考えられる。
それは教祖や教義の無い、人類普遍の<部族人的な心性>であり、「生活の実践」や「仕事の実践」が「信仰の実践」となる素朴なものだった。
つまり、
人々は共同体において「神話時空」を「日常時空」として生活していて、
そのような共同体を束ねる行政拠点でありかつ交易拠点である宮が「祝祭時空」を「非日常時空」として成立していた。
縄文社会から弥生社会に転じて、さらに小国群である「くに」ぐにが連合していった古墳時代になっても、日本列島では、石器時代の部族が人類普遍的にそうだったように、人々の共同体において首長が権力をもちシャーマンが権威をもつという「権力と権威の不一致」が温存された。
その経緯は複雑で、
中国由来の遠隔地交易民(「出雲族」と「安曇氏」)自体は、実力主義の首長層による首長選任制で選ぶ首長が権力を持って、特段、シャーマンの権威をそれに並立させるほど高く位置づけたとは考えにくい。
だが、「出雲族」が縄文社会を温存しつつ特定の部族を主要交易産品の生産集団化するにおいて、また「安曇氏」が大規模稲作拠点で縄文社会を稲作共同体群に再編するにおいて、自分たちを文化英雄ないし聖王とみなす縄文人の感受性に呼応して、族長の権力と並立するシャーマンの権威を温存した。つまり、「出雲族」「安曇氏」ともに、縄文人を政治的に支配して「交換」経済に組み込むのではなく、宗教的に人心掌握してその「贈与」経済を温存させる道を選んだ。
このパラダイムが、後世の律令神道体制の「権力と権威の並立」と、神道体制における神〜天皇〜神社を拠点とする「信仰共同体」の累層的貢納関係という「贈与」経済に継承されていった。
そして、この「権力と権威の並立」は、敗戦後の象徴天皇制にも継承されている。
<部族人的な心性>は、石器時代の人類普遍の部族人の心性であると同時に、現代世界の人々が普遍的に共有している幼児心理や大衆の深層心理でもある。
そして、
<部族人的な心性>をどう展開して<社会人的な心性>を形成してきたかによって、主観的にも客観的にも共有される<社会人的な心性>に民族的な違いを生じている。
ざっくり言えば、
欧米人は、因果律にのっとった言分けによって<部族人的な心性>を捨象して<社会人的な心性>を形成
中国人は、共時性にのっとった言分けによって<部族人的な心性>を限界づけて<社会人的な心性>を形成
それに対して、
日本人は、因果律と共時性が未分化で渾然一体の縁起にのっとった言分けによって
<部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきた
という特徴を持つ。
これにより、
欧米人と中国人はその<社会人的な心性>から
「権力と権威の一致」(政治的な最高権力者がすべてを統治)の社会を導いたのに対して、
日本人はその<社会人的な心性>から
「権力と権威の不一致」(政治的な最高権力者と宗教的な最高権威者が並立)の社会を導いた。
こうした日本人の<社会人的な心性>の中核に神道的な信仰があり、日本人の社会心理の中核に天皇がいると言える。
(これは、良い悪いの問題ではなくて、そういう特徴が古来、維持されてきたという事実である。
律令神道体制→公家・武家・寺社の鼎立体制→武家政権体制→政権ないし軍部が主導する立憲君主制→戦後の象徴天皇制。)
古事記という「暗黙知・身体知の体系」から読み取れるのは、まさに<部族人的な心性>である。
そのパラダイムは「贈与経済」と「祝祭時空」にある。
しかし、
日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースとして温存して形成されてきた以上、
現代に生きる私たち日本人の<社会人的な心性>とそれが導く心理現象としての社会そして世間*も、<部族人的な心性>を暗黙裡にあるいは無意識的にベースとしている、と言える。
(*
欧米人は、一神教の超越者キリストに単身、直接に対峙する「個人」である。それは最後の審判を受ける神との直接の契約関係にある。そして、そのような「個人」が集まった総体が「社会」である。
それに対して、
日本人は、帰属する人間関係の総体である複数の「世間」において、そこにおける内外上下の位置づけである「分際」(自分)を生きる。日本人にとって超越者は、八百万の神=風土の自然であって、それに「共同体」の構成員として、その宗教的代表者であるシャーマンを介して対峙する。
日本人が「社会」だと思っているものの実態は「世間」であり、「個人」だと思っている自分の実態は「分際」であることが多い。
たとえば、欧米人が理解できなことに、「過労死」や通勤電車への「飛び込み自殺」がある。欧米人は、生きるために働いているので、なぜ働いて死ぬのだろうか?なぜ現実逃避の自殺をわざわざ通勤途中に通勤者としてするのだろうか?と不思議がる。しかし、「世間」において「分際」を生きてそれを自らのアイデンティティとする日本人は、「分際」を文字通り死守して自殺するのである。この感覚は、日本人同士は理解するが、欧米人そして中国人も理解できない。ちなみに、中国人は、天意という超越者に単身、直接に「個人」として対峙している。そしてそのような「個人」が集まった総体である「社会」に生きている。)
改めて古事記の
「非定住系ヒーローたち」、
①スサノヲ
②オオナムヂ=オオクニヌシ
③ニニギ
④ホヲリ=山幸彦
⑤カムヤマトイハレビコ=神武天皇
⑥ヤマトタケルの物語を、
「祝祭時空=贈与経済」「行政時空=交換経済」という観点から振り返ろう。
すると以下のようにざっくりと整理できる。
(その整理にそって主要概念について検討していきたい。)
①スサノヲの移動〜転住〜定住の全体は、
「高天の原」から出雲を経由し「根の堅洲国」へという
垂直軸から水平軸に展開する全行程によって
「移動民」は悪である
と粗暴なはぐれ者的イメージを刷り込んでいる
ただし、
スサノヲは不死身のようでたとえ粗暴でも「穢れ」はなく
その素朴な純粋さにはむしろ「穢れ」を払うイメージがある
最終的に、
八岐大蛇から救って娶ったクシナダヒメとその父母に須賀の宮を譲って去り
最終的に最初から望んでいた母郷「根の堅洲国」の国主におさまっている
=「転住民」から「定住民」へ
「穢れ」を払うイメージ、何事も溜め込まないということから
スサノヲの歩みは「祝祭時空=贈与経済」にある
と言える。
(「穢れ」という概念ないしは感覚を規定する大本は何なのだろうか。
古事記では、
自律的な主体が他者を操作せずに自己目的的行為に専念することが「穢れ」がない
としているように感じる。
その点で、
根堅洲国でオオクニヌシを虐めたスサノオには「穢れ」を感じるが、「負い目感情」はないようだ。
一方、スセリヒメと駆け落ちしたオオクニヌシには「穢れ」は感じないが、出雲の三種の神器を持ち去った「負い目感情」はあったのではないか。「国主になれ」と言われて葦原中国に帰還して八十神を討っての「国造り」の着手がその相殺となっている。
カミムスヒvsタカミムスヒには、母性と父性、水平軸と垂直軸の対照性が読み取れる。
彼らには「穢れ」が感じられない。
カミムスヒはスサノヲやオオクニヌシを助け、タカミムスヒは神武天皇を
助けているが
見返りを求める訳ではないから関係性は「贈与」経済にあると言える。
イザナキvsイザナミには、生と死、創造と破壊の原理が読み取れる。
イザナキは
自律的な主体として自己目的的行為に専念して「穢れ」が感じられない。
一方、
「黄泉の国」に下ってからのイザナミは、結果的に
他者(イザナキ)に対して何らかの目的(復讐)を達する手段的行為をする
存在となり「穢れ」を帯びてしまった
と捉えられる。
黄泉の国に行ったイザナキがイザナミとの約束を破ったことで
イザナキは「負い目感情」を担い、
イザナミはそれを相殺させるべく追跡する。
この両者の関係は「贈与」経済にある。
イザナキが逃げ切って境界域を封印するが、
イザナミは一日に千人殺すと言い、イザナキは一日に千五百人生むと返す。
ここで両者の関係は「交換」経済に変わっている。
これは人間界では珍しいことではない。
結婚する時は「贈与」経済で、離婚する時は「交換」経済というのは一般的。
こうした感受性は現代の日本人も継承している。
たとえば、
自律的に自己目的的行為に専念する人を、少年のようだと形容。
お金に還元できないプライスレスな活動に身を投じていて「贈与」経済にある。
逆に、
他律的に目的を抱き(世間体や他者との比較優位)
その達成のための手段的行為(他者との競争や他者の操作)ばかりをする人を
子供であれば大人びていると形容し、成人であれば俗物と形容。
前者が「穢れ」がなく、後者が「穢れ」がある、と認識される。
ちなみに欧米人は、神と単身で直接対峙する「個人」を前提しているから、
神との契約を逸脱する「罪」との関連において「穢れ」を認識する。
罪を告白しゆるしを請う「懺悔」で払拭される。
気の澱み、滞りといった自然の流れを損なう状態を「穢れ」として認識するのは
日本人独特の情緒的ないし情景的な認知パターンである。
自然の流れを取り戻す「清め」によって払拭される。
記紀神話において「穢れ」は、穢、汚、汚穢れ、穢悪のように表現される。
また「罪穢」とも記述されていることから、
「穢」と「罪」は未分化の状態であることが見てとれる。
総じて、「呪術原理」2つの内の1つ「感染原理」に基づいている。
一方、
中国人は、天意を天気とし、気の澱み、滞りの気象を八卦で捉えるが、それは天命でありそれとして変卦するという前提である。土地土地の自然=風土を風水として捉えたのは中国南部の道教の前身の土着信仰も日本列島の縄文信仰も同じだったが、日本人がその個別具体性にとどまったのに対して、中国人は普遍的な自然を抽象化・構造化して陰陽五行という原理を追求していったと言える。)
タカミムスヒは政治的であり
父性原理(分け隔てる原理)を踏まえて「行政時空」を垂直軸で展開する。
カミムスヒは創造的であり
母性原理(包み込む原理)を踏まえて「祝祭時空」を水平軸で展開する。
イザナキは陽光のように内発的。太陽は常に丸く、自律的。
イザナミは月光のように外発的。月光は太陽の光を反射して形を変え、他律的。
古事記では、アマテラスが左の目、ツクヨミが右の目、スサノヲが中央の鼻とされる。
アマテラスは太陽神であるが、古事記では物語の主人公になる場合(たとえば天岩戸譚)でも、「他者に起因する他律的主体性」(スサノヲを嫌って閉じこもり周囲の者たちの宴に誘い出される)を示している。
これは、スサノヲが周囲で何があろうと「自己に起因する自立的な主体性」を一貫したことと対照的である(スサノヲは最初に熱望した通り妣国「根の国」=「根の堅洲国」に至っている)。
また、アマテラスを象徴する御神体が円鏡であることは、「他者に起因する他律的主体性」の的確な表現でもある。
以上のように位置づけられるタカミムスヒとアマテラスを継ぐ天孫族の後裔である皇統が、
日本の天皇制という「行政時空」(記紀編纂期に向かった律令神道体制の律令体制)を、
垂直軸×父性原理(分け隔てる原理)で成立させてきた。
一方、
日本の天皇制は、一般的な人間現象としての宗教=「信仰の実践」を前提にした
全体社会の「祝祭時空」(記紀編纂期に向かった律令神道体制の神道体制)をも成立させてきた。
ただし、
後者の「祝祭時空」の全体は、天皇を含むヤマト王権だけでは成立しなかったことを、古事記は出雲神話で正直に物語っている。オオクニヌシが「国造り」をして「国譲り」をさせたと物語っている。
「国譲り」でアマテラスがオオクニヌシにした約束において、
「目に見える世界」=垂直軸の父性原理の「行政時空」はアマテラスと天孫族の後裔が担当し、
「目に見えない世界」=水平軸の母性原理の「祝祭時空」はオオクニヌシが担当する
という役割分担がなされている。
その帰結として今日も、
天皇家および宮廷と密接に関係する伊勢神宮が、垂直軸の父性原理の「行政時空」に隣接した「祝祭時空」にある
のに対して、
出雲大社が、垂直軸の父性原理の「行政時空」から距離を隔てて、水平軸の母性原理の「祝祭時空」にある(神在月に八百万の神が集合して神議りをする)
という印象が保たれている。
交易活動や経済体制に焦点を当てると、
「領域国家」を前提にした「管理貿易」は垂直軸の「行政時空」
律令体制下、班田収授法で朝廷が田を供与して年貢を徴収するのは「交換」経済
であるのに対して、
縄文時代からある冒険的な遠隔地交易の「自由貿易」は水平軸の「祝祭時空」
神道体制下、神〜天皇〜主要神社〜信仰共同体の累層的貢納体制は「贈与」経済
にある。
この二項対立のパラダイムが、神話の神々とその関係性に暗示されている。
初期ヤマト王権は統一的な「領域国家」の体裁を整えるに際して、縄文以来の自然発生的な遠隔地交易民(「倭人」)と、中国由来の主要渡来系勢力(「出雲族」)の「自由貿易」を解消させ、すべてを「管理貿易」に再編した。
神武東征勝利後の喫緊の「管理貿易」の課題は、邪馬台国の魏朝貢交易の継承だった。これは、「テュルク族」と同盟関係にあった魏外臣の「安曇氏」が補佐したもので、神武東征終盤で裏切って味方になった「安曇氏」が達成した(壱与を女王に共立して邪馬台国の建前で行う)。
その後、「管理貿易」の課題は、その体制に従わない密貿易者やまつろわぬ者の対策で、ヤマトタケルの西討東征などで成敗平定した。その後も、中央政権から離反する者、その支配に応じない勢力は残存し、九州と東北については軍事的対応を余儀なくされた。これについては、天皇の親衛隊的な軍事豪族となった「倭人」由来の「大伴氏」が活躍し、政商型交易者として軍需装備品(軍馬を含む)の国内「管理貿易」を担ったと考える。律令体制における政治勢力として「朝廷の公経済」に関わる「交換」経済に身を置いた。
一方、
「安曇氏」は、国軍的な軍事豪族となった「物部氏」以外のその他大勢が、これと一線を画して政治勢力とならずに「管理貿易」を独占する政商型交易者として経済勢力に徹した。古墳時代は、初期ヤマト王権の統一的な「領域国家」の体裁を整えることに貢献すべく、前方後円墳を標準化して全国展開する国内外交易ビジネスモデルを展開。同時に中央と地方の天皇直轄の「贄人」となって、天皇への初物貢納を担うという建前で、国内外交易によって「天皇の私経済」を潤した。磐井の乱の頃から「安曇氏」は北九州の本拠地を失い、全国各地のアズミに発音の似た地名の交易要衝に分布し、主要な交易拠点かつ行政拠点である「宮」を展開(後の主要神社や国府の前身)。律令神道体制では、その神道体制として主要神社を消費センターとして必要産品の生産者を「信仰共同体」に編成した地方経済圏を形成し全国ネットワーク化。経済勢力に徹してサバイバルした「安曇氏」は、一貫して「天皇の私経済」に関わる「贈与」経済に身を置いた。
ここで以上のような、
律令体制における政治勢力〜「朝廷の公経済」に関わる「交換」経済
神道体制における経済勢力〜「天皇の私経済」に関わる「贈与」経済
という記紀編纂期に向かおうとしていた経済体制としての二項対立が、
記紀神話における
タカミムスヒは政治的であり
父性原理(分け隔てる原理)を踏まえて「行政時空」を垂直軸で展開
カミムスヒは創造的であり
母性原理(包み込む原理)を踏まえて「祝祭時空」を水平軸で展開
や
「国譲り」でアマテラスがオオクニヌシにした約束における
「目に見える世界」
=垂直軸の父性原理の「行政時空」はアマテラスと天孫族の後裔が担当
「目に見えない世界」
=水平軸の母性原理の「祝祭時空」はオオクニヌシが担当
という二項対立と重なることが確認される。
このような構造的な符合は決して偶然ではあり得ず、記紀神話の編纂者が構想したものと考えて間違いない。
天皇直轄の贄人がマネジメントする「初物の貢納」という「祝祭時空」は、交易活動の「場」として具体的にどのようなものだったのだろうか。
天皇に初物を貢納する贄人に通行特権=通関免税特権を与えて国内外交易をさせて「天皇の私経済」を潤した。たとえば、干し鮑の生産集荷拠点は全国各地にあるが、その初物貢納の総量は宮廷の消費量を優に上回った。その余剰は輸出され、交換する対価として宮廷の必需品が輸入された。
主要神社を消費センターとした地方経済圏の創成とは、具体的にどのようなものだったのだろうか。
持統天皇が伊勢神宮の第一回の式年造替を始める準備として、環伊勢湾地方の必要物資の生産地を巡幸して、生産者によるその貢納を組織した。その生産者たちの「信仰共同体」の広がりが、伊勢神宮を消費センターとした環伊勢湾経済圏を創成した。
贄人は、通行特権=通関免税特権に加えて、計画道路を利用する通信特権も与えられたと考えられる。
「管理貿易」の国内外交易拠点を結ぶ物流は遠隔地ほど海路だったが、物流の前提となる商業通信は計画道路網を早馬が継走する朝廷の宿駅伝馬制を利用したと考えられる。
この場合、
計画道路と宿駅伝馬制という朝廷が国司の移動や連絡そして年貢の輸送に使ったインフラが
「目に見える世界」=垂直軸の父性原理の「行政時空」
それを天皇直轄の贄人が特権的に利用するという運用が
「目に見えない世界」=水平軸の母性原理の「祝祭時空」
に相当する。
<天皇の私経済>は、
神道体制の水平軸のネットワーク構造=主要神社を消費センターとした地方経済圏
とともに
律令体制の垂直軸のピラミッド構造=「朝廷の公経済」の中央集権型のインフラ
をも活用した。
おそらく、贄人による宿駅伝馬の利用は祝祭的ニュアンスをもっていて、宿駅の役人に恩賜の酒食を提供するなどしたのではないか。役人の方もそれを楽しみしていて喜んで協力するといった、交易者ならではの現場の工夫や人間関係づくりがあったと考える。
②オホナムヂ=オオクニヌシの移動〜転住の全体は、
因幡〜出雲を移動するオホナムヂ段階(水平軸)
>因幡の白ウサギを助けるオホナムヂだけが
「移動民」の来訪神マレビトの好イメージを示すものの
兄弟たち八十神の極悪非道イメージが圧倒的に上回り
「移動民」は悪である
と刷り込む
水平軸の<内><外>に展開する「根の堅洲国」との往還を挟んで変化
スサノヲから命じられた「国造り」をすべく
スクナヒコナとともに全国遍歴するオオクニヌシ段階(水平軸)
>「国造り」=交易ネットワークづくりで
「転住民」の建設的なイメージが高まる
(スクナヒコナは古事記ではカミムスヒの子とされる。
一方、日本書紀ではタカミムスヒの子とされる。
記紀の編纂者は重なっているから、こうした違いは何らかの意図をもっているのだろう。
そもそも出雲神話は、古事記においては大きなウェイトを占めるが日本書紀の正文にはない。
スクナヒコナについてのみ、一書と言う形で言及がある。
そこで、わざわざ古事記と異なる記述をしているのだから、意図的でない訳がない。
スクナヒコナを中国系渡来人とするのは異聞の類いとされるが、私個人的には、そもそも「実際に起ったこと」として「出雲族」「安曇氏」という二大遠隔地交易民が中国由来であると考える。
オオクニヌシは同盟「出雲族」(島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を設けて発展した四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする族的結合)のメタ「交易ビッグマン」を象徴し、スクナヒコナは環日本海各地のどのような産品をアッセンブルしてどのような完成品にすれば中国の都市市場を狙えるかという現地ニーズを熟知した「交易ビッグマン」だったと考える。
出雲神話はそのことを暗示するものとして読むことができる。一般的に、オオクニヌシもスクナヒコナも産業振興して回った産業神と解釈されるが、その目的は「国造り」ではなく、島根半島西部の環日本海交易ハブ拠点の後背地交易経済圏の形成であった。
そもそも、「出雲族」の最初の前身は、滅びた殷から朝鮮半島北部東岸に逃れた商工民が、そこを環日本海交易拠点とし、そこから輪日本海各地に渡来した内の、本州日本海側に渡来したものだった。その後も、中国の戦乱や動乱を逃れた、言わば脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者が繰り返し参入し、そうして日本列島各地に分布した「出雲族」の前身諸派が島根半島西部の日本海交易ハブ拠点を本拠地として族的結合を成して同盟「出雲族」となった。
一方、「安曇氏」は、呉が滅びた際に遺臣が五島列島に逃れ海洋交易民となった者が北部九州に渡来し、やがて前漢武帝が朝鮮の直接経営に乗り出したのに呼応して、外臣化し楽浪郡の出先機関として「くに」を建てて、巨大「領域国家」の政商型交易者となった。こちらは、言わば国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者で、「出雲族」と同じ中国由来の遠隔地交易民でありながら、交易者としての職能に対照的な違いがあった。)
日本書紀は、古事記のような読み方を可能にする、読み解きを前提した暗示的記述の一切を嫌った。
まず出雲神話を全部、割愛し、スクナヒコナはタカミムスヒとアマテラスを継ぐ天孫族の後裔の皇統に近しい存在としてそれだけを記述した。
つまり日本書紀は、有意義なことのすべては皇統に連なる系譜の神々がしたものとする記述に努めている。
結果、スサノヲとオオクニヌシの存在感をできる最小化している。その筆頭が、古事記ではスサノヲとオオクニヌシの間に五代あるが、日本書紀の正伝ではオオクニヌシはスサノヲの息子とし、様々な暗示が読み取れる五代の存在を抹消している)。
日本書紀が割愛している古事記にある内容から、
タカミムスヒ〜アマテラス〜スクナヒコナの血脈を<主>
カミムスヒ〜スサノヲ〜オオクニヌシの血脈を<従>
とする記紀編纂者、そしてヤマト王権の強い意志が感じられる。
北部九州には、ヤマト王権成立のずっと前から中国型の「行政時空」を展開した中国系渡来人がいた。
呉の遺臣を祖とする「安曇氏」である。
巨大「領域国家」の外臣化して前漢楽浪郡、後漢帯方郡そして魏の出先機関として「伊都国」(行政拠点)「奴国」(大規模稲作拠点〜産業拠点)「一大国」(軍事拠点)を建てて治めた。
その経済は、大枠が巨大「領域国家」に帰属する「行政時空の交換経済」である一方で、その枠組みの中で縄文社会を稲作共同体として再編した大規模稲作拠点は「祝祭時空の贈与経済」を展開した。稲作民化した縄文人を管理するには、文化英雄たる「安曇氏」はシャーマンないし聖王として振る舞うことで、信仰的に人心掌握することが有効だったと考えられる。支配して収穫を収奪するのではなく、稲作共同体の集落に大型建物を建てて赴任して、開墾と稲作を指導し種籾や苗を贈与し収穫を貢納させたのである。
「安曇氏」は中国の「巨大領域」国家から全権を委ねられる見返りに米を上納した。これが大枠の「行政時空の交換経済」であるが、米の上納の見返りに鉄素材を下賜された。つまりは、政商型交易者としての「管理貿易」を展開した。鉄素材で鉄製の開墾具や農具や武器を製造して、富国強兵してその排他的な領域を主張する産業拠点や交易拠点を瀬戸内地方そして環大阪湾地方へ展開していたった。
この大枠の「行政時空の交換経済」の枠組みの中で、「安曇氏」の首長である「伊都国」長官は、稲作共同体や石器素材製造共同体の構成員に再編した縄文人向けには、宗主国に朝貢する冊封国の王のように振る舞ったと考えられる。縄文人からすれば、その違いは説明されても分からなかったし、自分たちの日常や人生に具体的に関わる「祝祭時空の贈与経済」が支障なく回っていれば文句はなかった。むしろ、大規模稲作拠点で行われた商品米を量産する灌漑を伴った水稲作特化の「選別型農耕」は、それまでの狩猟採集と陸稲水稲の他に雑穀も栽培する「網羅型農耕」の自給自足に比べて食糧事情が豊かに安定した点から、支配された感は乏しかったと考えられる。どうしても支配された感があってそれを嫌った縄文人が、山間地や南九州
に逃れたと考えられる。
中国の巨大「領域国家」への出先機関からの上納は、実質的には朝貢交易であり、その点「祝祭時空の贈与経済」にあったと言える。上納した米よりも、価値高い下賜品として鉄素材を得られた(もちろんそこには交換価値の不均等が介在している)。その鉄素材で鉄製の開墾具や農具を製造して稲作民に貸与した。つまりは、稲作共同体内部で展開していた「安曇氏」と共同体構成員との「祝祭時空の贈与経済」に接続した。
(ちなみに、
この時、それまでは支配層が固定化されていなかった縄文部族から、支配層が固定化された稲作共同体への転換があったと考えられる。
一般的には、稲作が大規模化して余剰が蓄積されるようにり、それを管理したり外敵に備えたりするべく支配層が固定化したといった説明がなされる。しかし私個人的には、それとは異なる2つの可能性が高いと考える。
1つは、固定化した支配層とは、集落の大型建物に赴任した「安曇氏」のことである可能性。
1つは、「安曇氏」と稲作共同体の構成員とを仲介する代表者(族長と祈祷師)が固定化された可能性である。「安曇氏」「出雲族」はともに中国由来の遠隔地交易民で長い歴史スパンをサバイバルしたが、それは少数精鋭の実力主義によって可能になった。首長が首長層による実力主義の専任制だったのは当然として、いずれ首長層を構成するだろう幹部候補生が、特別な知識労働者という交易職能者として継承的に育成されたと考えられる。具体的には、各種の産業拠点に異動したり各地の交易拠点を巡回したりしてオンジョブ・トレイニングを重ねつつ、同族が形成する国内外交易ネットワークの全貌を体得したと考えられる。)
「安曇氏」も「出雲族」も、大陸の「交換経済」に縄文社会の「贈与経済」を接続して、交換価値の不均等を最大化することで利益を上げたという交易ビジネスモデルの構造は同じである。
しかし、
「安曇氏」の国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者としてのやり方と、
「出雲族」の脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者としてのやり方は、
長い歴史スパンで一貫して対照的な違いを示している。
たとえば、
「出雲族」は主要交易産品の効率的な量産のための産業指導はしたが、基本的には縄文社会を温存し、縄文人が自己完結できるやり方を指導した。富国強兵に資する米や鉄を主要交易産品とせず、食糧については縄文人が自給自足できることと産業拠点の活動を支えることを目的として、たとえば採掘拠点である山間地では、灌漑を省ける陸稲作や雑穀も栽培する「網羅型農耕」を指導したと考えられる。「出雲族」は非軍需の青銅器の威信財や平和的な高付加価値の民需品を主要交易産品としたので、市場環境の変化に応じてネットワークする産業拠点や交易拠点を変更した。それを前提して縄文人が自立できる産業指導をしたと考えられる。
「安曇氏」の大規模稲作拠点で稲作共同体を展開する「行政時空の交換経済」は、基本、中国由来である。
秦で王土王民の思想を踏まえて始まった阡陌(せんぱく)制は、ヤマト王権の公地公民の思想を踏まえた班田収授にまで影響している。阡陌(せんぱく)制は、単位家族を家族構成で規定しそれに応じた田を与えて、種籾を供給し、鉄製農具と耕牛を貸与した。その際、地縁血縁集団の代表が村役人的な役割をして年貢の取りまとめを含めて取り仕切った。(中国の場合、王土王民化が先だったが、鉄製農具と耕牛を私有した者が農民を囲い込んで台頭して行って、武力を持って自立する私的大土地所有者である「豪族」が発生している。日本は逆で、先に主要渡来系勢力が「豪族」化し、後に統一的な「領域国家」となったヤマト王権が「豪族」を中抜きして公地公民化している。)
つまり、
中国は、統一的な巨大「領域国家」の支配が及んだケースでも、台頭した「豪族」が支配したケースでも、「行政時空の交換経済」が一貫してきた。
それに対して、
日本は、「安曇氏」の大規模稲作拠点群を稲作共同体で展開した原初的な「豪族」のケースから、ヤマト王権が統一的な「領域国家」となって朝廷の班田収授法が及んだケースや、高床式穀倉をモチーフにした神社建築様式が標準化された「神道体制」において豊穣祭祀や初穂貢納が行われるケースまで「祝祭時空の贈与経済」のニュアンスが一貫して色濃く温存された。
ここにも、
日本人の<社会人的な心性>が、<部族人的な心性>をベースとして温存する形で形成されてきた
という経過が見て取れる。
「国譲り」を迫るアマテラスの垂直軸の圧力に対して
オオクニヌシは派遣者を信服させ娘婿とするという水平軸の対抗をするも
最終的にタケミカヅチが降下し(垂直軸)、
抵抗するタケミナカタが諏訪に逃げ(水平軸)、
コトシロヌシが、オオクニヌシがネットワークした全国各地の縄文部族を
引き連れて恭順。
>「転住民」は悪ではないが最善ではない
と新拠点開拓型の「転住民」のオオクニヌシの結末「国譲り」をもって
刷り込み
同時に言外に、
「定住民」が最善
と「国譲り」に大人しく従ったコトシロヌシが神武天皇の岳父になる
ことで刷り込む
(暗示を読み聴く者は、
外戚勢力化した転向「出雲族」の家系から初期ヤマト王権の皇后が
輩出したことや
祭祀豪族の出雲国造家が令制国となった出雲国を治めたことを
思い浮かべた筈)
(オホナムヂは死にうる国つ神で、二度死んで蘇生されている。
八十神にいじめられてもよく忍耐して人間的に善良だが、その結果「穢れ」をためこんでいて、二度の死は「穢れ」の極みと言える。
「根の堅洲国」に逃げてスサノヲにいじめられてその娘と帰還し八十神を河の瀬、坂の裾に追い払ったことは、言わば厄落としで「穢れ」を払ったかのような再出発と感じられる。「穢れ」を<外>に払い、「国造り」という新たな<内>を広げていく。
オオクニヌシがスクナヒコナと協力して進めた「国造り」も建設的で善良だが、
アマテラスの所有欲=他者の妬み嫉みを導いたという意味で「穢れ」を潜在させた。
実質的には「行政時空の交換経済」圏を欲しがったアマテラスが、「贈与経済」で「国譲り」させた訳で、「穢れ」を「行政時空の交換経済」に潜在させたとも解釈できる。
オオクニヌシが、主要産品産地の縄文人部族の族長の娘を娶って回ったことは、姻戚関係によって交易ネットワークを形成したのだが、それは婚姻を「贈与経済」と捉える縄文社会のやり方に応じたのだった。だから、本来、中国由来の「出雲族」のスサノオの娘である正妻スセリヒメは、納得できず嫉妬と怨嗟の炎を燃やしたのだった。
古事記にあり日本書紀にない出雲神話は、「祝祭時空の贈与経済」にある物語で満ちている。出雲神話には、ヤマト王権の「行政時空の交換経済」が潜在させた「穢れ」を払う意味合いがあり、天孫降臨〜日向三代〜神武東征の前に配置されたのかも知れない。)
律令神道体制で規定されたヤマト王権は農本主義の体制である。
その大枠は「行政時空の交換経済」であり、その枠組みの中で「祝祭時空の贈与経済」が展開している。
年貢をはじめとする租庸調の徴税制度が大枠の「行政時空の交換経済」である。
生産や行政の年度周期の節目節目に歳時記的な祭祀や祭りが展開するのが、その枠組みの中での「祝祭時空の贈与経済」である。
こうした時空観念と時空慣行は、現在の私たち日本人の、<部族人的な心性>をベースとして温存する形で形成されてきた<社会人的な心性>として今も息づいている。
たとえば、
東京証券取引所が正月に開く「大発会」では、今でも若い女性が振り袖の晴れ着で登場するのが恒例である。そしてご祝儀相場で市場は高値の動きをしてみせる。
外国人投資家や機関投資家が多いグローバルな時空の筈の株式市場という「行政時空の交換経済」の場にも、古式ゆかしい「祝祭時空の贈与経済」が「大発会」「大納会」という節目に介在している。
首都都心の神田明神では、正月の仕事始めに企業社員が団体で参拝する業務参拝が目白押しだ。
現代日本の首都東京の企業社会でもこんな調子なのだから、律令体制下の朝廷や国衙郡衙の官僚社会、役人社会は両者はもっと渾然一体だったのだろう。
③
ニニギの移動〜転住の全体は、
「高天原」から高千穂の峰に天孫降臨(垂直軸)
日向三代に一貫した縄文人の選別的取り込み(水平軸)
>
転戦型「転住民」として「定住民」を取り込み (山野系縄文人「熊襲」を陸戦隊化
海洋系縄文人「隼人」を海戦隊化)
「神武東征に協力する山野系縄文人」を象徴する山の神オホヤマツミの娘
美しいコノハナサクヤビメを娶るも、
セットでついてきた姉の醜いイハナガヒメを送り返して呪われる
神武東征に向かう戦時経済において
美しい妹=「行政時空の交換経済」(弥生文化)を標準化
醜い姉=「祝祭時空の贈与経済」(縄文文化)を排除
ということを暗示している
④ホヲリ=山幸彦の転住の全体は、
本来は、
日向三代に一貫した縄文人の選別的取り込み(水平軸)のさらなる展開として
「神武東征に協力する海洋系縄文人」(「倭人」「隼人」)を象徴する
海の神オホワタツミと姻戚関係を結んだ話だったと考えられる。
ところが、
後世、それらが中央政権に離反したことから、
初期ヤマト王権に政商型交易者として重用され貢献した「安曇氏」が
海の神オホワタツミの祖とされた
その海の神オホワタツミの娘トヨタマヒメを娶るも
ウガヤフキアエズの出産時、約束を破って正体を見たため実家に帰られる
妹のタマヨリヒメが乳母として残り、後にウガヤフキアエズと結婚
神武天皇の母となる
(この異常な展開は、結果的に
「安曇氏」が重臣とはなるも外戚勢力にはならなかったことと整合している
神武天皇の外戚勢力には岳父フコトシロヌシ=転向「出雲族」がなっている)
そもそもは
山幸彦=「山の民」の「定住民」と海幸彦=「海の民」の「定住民」が
お互いの幸=産物の「贈与」のやりとりをしていた
その物々交換は、モノの等価をもってする「交換」のやりとりではなく
収穫の苦労の等価=もらう負い目感情の等価をもってする
「贈与」のやりとりだった
「生産手段のとっかえっこ」をしたことからその関係が破綻
兄の釣り針をなくした弟が剣を鋳溶かし沢山の釣り針を渡そうとしたところ
から「交換経済」が介入しはじめる
それでも兄が許してくれないために弟が悩むことは
この時点では「贈与経済」が「交換経済」より優勢だった
それが、
水平軸とも垂直軸とも、移動とも転住ともとれる時空の歪んだ
ワタツミの宮との往還を境に
「交換経済」が「贈与経済」より優勢になっていく
「交換経済」にあった遠隔地交易民を象徴する海の神オホワダツミの支援
により弟が兄を圧倒していく
海の神オホワダツミが兄の釣り針その物を見つけ出してきても
兄は許そうとしない
そこで海の神オホワダツミは、
「潮満玉(しおみつたま)」と「潮乾玉(しおかるたま)」を渡し
兄を満潮にして溺れさせ、干潮にして助けるを繰り返して懲らしめてやれ
と誘導する
兄の産品の物流を担う港湾を支配してその経済を破綻させたことを暗示
兄は弟に降る
(この兄の海幸彦が、なぜか「阿多隼人」の祖とされる。
「阿多隼人」はそもそもはインドシナ半島から中国南部沿岸を行き来したマレー系の遠隔地交易民。
中国南部沿岸への上陸を許されず南西諸島に展開。
各海域で島嶼交易や沿岸交易をしていた海洋系縄文人「隼人」を連鎖させ、南九州の阿多に渡来し南西諸島から南九州にかけての遠隔地交易を展開。
製鉄能力と、風に向かって進める外洋帆船の造船と操舵の能力を持つ。
神武東征に「隼人」を率いて協力し軍船と水軍の軍需装備品を供給。
初期ヤマト王権では、高速航海船の造船と操舵の能力を買われて天皇に近侍。
ただし、
後世に離反勢力となった南九州の「隼人」を入植させ、東海関東沿岸に展開した「狗奴国」の陸戦隊化した「熊襲」と海鮮隊化した「隼人」(後世の「蝦夷(えみし)」)を海上輸送したのは「阿多隼人」だったことから、
微妙な立ち位置ながら天孫族である海幸彦がその祖とされたのか。)
お互いの幸=産物の「贈与」のやりとりをしていた
山幸彦=「山の民」の「定住民」と海幸彦=「海の民」の「定住民」は、
最終的に
山幸彦が
「行政時空の交換経済」の軍事経済を敷いて転戦型の「転住民」化
⑤カムヤマトイハレビコ=神武天皇の移動〜転住の全体は、
九州から瀬戸内地方を経て畿内へ東征
=転戦型の「転住民」として
瀬戸内地方を年月をかけて東進
筑紫国1年→安芸国7年→吉備国8年=計16年
朝鮮半島で小国群からみかじめ料を取って回っていた騎馬民族の「濊(わい)人」
それを全面的にバックアップした縄文人交易民の「倭人」
彼らは軍事経済を「祝祭時空の贈与経済」から「行政時空の交換経済」に転換させていく。
美々津を出港して、「女王国」の魏朝貢交易の中継拠点があったと思しき宇佐を制圧し、「安曇氏」の行政拠点、主に稲作の産業拠点、主に発着する交易船の護衛をした軍事拠点のあった北部九州を制圧する。これが比較的速やかに済んだのは、軍事経済がまだ「祝祭時空の贈与経済」の残滓の色濃い段階でも対応できたということではないか。
ところが、安芸国の多祁理宮(たけりのみや)、吉備国の高島宮(たかしまのみや)に進軍すると、「テュルク族」の「くに」ぐにの連合軍と敵対して、着実に地歩を固める形で「行政時空の交換経済」を徹底して体制構築ことが求められた。それゆえに7年、8年という年月がかかったのではないか。そして、畿内に侵攻しようとした血沼海(ちぬのうみ)で大敗した。ここから、記紀では紀伊半島南部に回った物語が展開している。
しかし、
私個人的には、
時間をかけて「行政時空の交換経済」の軍事体制=物量主義を整えても限界があり、畿内への侵攻が難しいことが判明し、南九州に控えていた別働隊、「阿多隼人」の水軍が黒潮に乗って一気の海上東征をして紀伊半島南部に上陸して大和地方に奇襲する作戦に変更した
と考えている。
この奇襲戦略であれば、別働隊が準備していたこともあり、「祝祭時空の贈与経済」の軍事体制=籠絡主義で乗り切れる可能性があった。
籠絡主義とは、具体的には、「テュルク族」と同盟関係にあった「安曇氏」首長の「伊都国」長官(ニギハヤヒ)に「邪馬台国」の宰相難升米(ナガスネヒコ)を謀殺させ、大和地方を守る兄弟豪族の弟磯城に兄を裏切らせる、それを成功の暁の報酬を約束して行うことであって、それが奏功した。
「安曇氏」はヤマト王権の「管理貿易」を「倭人」とともに独占する政商型交易者となり、弟磯城の転向「テュルク族」は、転向「出雲族」とともに2つの外戚勢力の1つとなった。
「阿多隼人」が微妙な立ち位置ではあるが海幸彦という天孫族を祖とされた第一の功績も、この別働隊の外洋高速船での輸送であったと考えられる。
⑥ヤマトタケルの移動の全体は、
初期ヤマト王権が統一的な「領域国家」の体裁を整えた後も
離反勢力はまつろわぬ者として残存
ヤマトタケルの西討東征もその成敗平定
=転戦型の「移動民」
父子関係の葛藤そして夫婦関係の充実と言えば
現代人にも通じる<内>=身内のパラダイムの問題や理想である
しかし、
江戸時代の「お家至上主義」が
主に家督相続などの「交換経済」=モノの経済・ギブ&テイクにある
のに対して
ヤマトタケル譚のそれは
<内>=身内のパラダイムの問題や理想が「贈与経済」=感情の経済にある
たとえば、
父に疎まれながらもその期待に応えようとする子
=非対称な「贈与」のやりとり→負い目感情が相殺されない
悩む甥を叔母が精神的に支えたり宝剣を与える
=非対称な「贈与」のやりとり→負い目感情が緩和されるが相殺はされない
夫の移動のために自死する妻
=非対称な「贈与」のやりとり→思い出しては偲ぶ
妻のために宝剣を置いて戦いに向かったゆえに客死
=非対称な「贈与」のやりとり→「定住民」になれずに終わった悲劇
一方、
<外>=非身内に対するパラダイムは「交換経済」=モノの経済にある
典型的には、
ギブ・アンド・テイク
目には目を歯には歯を
戦いにおいては敵を出し抜く騙しは常套手段、良心の呵責は捨てる
(ヤマトタケルには、騙し討ちした相手に対し、その名前をもらうなど
良心の呵責を捨てきれないところがあったように見受ける)
ヤマトタケルの西討と東征を比較するといくつかの対照性に気づく。
西討では自ら単身での謀殺 ←→東征では軍を率いている
西討では助ける女性がいない←→東征では助ける女性が何人かいる
西討では障害がなく無事 ←→東征では障害に見舞われ多難
西討では 東征では
古事記にある出雲ルートが ←→日本書紀にある東北〜中部ルートが
日本書紀にない 古事記にない
あくまで私なりの検討や解釈を踏まえた個人的な印象だが、
西討譚は、
古事記にだけ出雲ルート(密貿易者出雲タケル)譚があることを含めて
「祝祭時空の贈与経済」で対応できた初期ヤマト王権時代の離反勢力の成敗譚
がそのまま物語られている
東征譚は、
日本書紀にだけ東北〜中部ルート(鉄器と軍馬の需給拠点)譚があることを含めて
「行政時空の交換経済」でなければ対応できない記紀編纂期の東国経営の展望や危惧
が仮託されて物語られている
という感触の違いがある。
<部族人的な心性>と<社会人的な心性>を「縄文性」と「弥生性」から捉える
私の学生時代、1970年代までよく「ディオニソス的」と「アポロン的」という対概念が言われて、
それが「縄文文化」と「弥生文化」に重ねて論じられていた。
この対概念は、
ギリシア神話の
酒神ディオニソスが示す陶酔的・創造的衝動
太陽神アポロンが示す形式・秩序への衝動
との対立を意味する。
日本の神話でも、
「八岐大蛇退治」までのスサノオは陶酔的・創造的衝動を示し
「国造り」に励むようになってからのオオクニヌシは形式・秩序への衝動を示している
と言えよう。
男神と女神の関係解消の前後で
前に陶酔的・創造的衝動の盛り上がりが
後に形式・秩序への衝動の放棄や断念が
展開していると言えよう。
イザナキが黄泉国のイザナミを追ってきて見るなと言うのに見てしまった前後
→ 一日1000人殺すvs一日1500産屋建てる
ニニギが見染めて娶ったコノハナサクヤヒメが一夜で孕んで疑われた前後
→ 火中出産
山幸彦がトヨタマヒメを娶り産屋を覗くなと言うのに覗いてしまった前後
→ 妹タマヨリヒメを乳母に残して実家帰り
ヤマトタケルが草薙の剣をミヤズヒメのもとにおいて戦さに向かった前後
→ 致命傷を負っての客死により結婚ならず
日本の建築界で、昭和30年(1955年)に「伝統論争」が起こった。これは日本の伝統美の現代的継承についての論争で、縄文vs弥生という図式から日本古来の美学を捉え直していった。
丹下健三は、日本的な<みやび>や<わび>といった伝統の継承を消極的な態度として批判し、デュオニソス的な「暗い」ものからアポロ的な「明るい」ものへと伝統継承のあり方を変革することを主張した。
これに対して、
白井晟一は、「弥生(アポロ的なもの)ではなく縄文(ディオニソス的なもの)」にこそ日本古来のものに宿る価値を見出せると主張した。
つまり、
日本古来の伝統として、弥生を強調する丹下に対して、縄文を強調する白井という構図となった。
しかし、
両者の建築作品を見た上で、
丹下は近代的な合理主義を踏まえた無機的な機能美と様式性を追求していて
その典型的な祖型を「弥生土器」に見出した
白井は非近代的な象徴主義を踏まえた有機的な即物美と作品性を追求していて
その典型的な祖型を「縄文土器」に見出した
と建築学科に通った私はとらえていた。
その後、社会に出てさらに長い月日を経た後、ビジネス上の課題として集団や組織の人間関係論から、「縄文社会」と「弥生社会」を検討するようになった。
その興味関心は、デザイン論ではなく、日本人に独特と言われる集団志向について、集団協働のあり方、目的と手段のヒントが「縄文社会」と「弥生社会」にあるのではないか、という人間論にあった。
考古学や歴史学の知見はとても参考になったが、土器の編年問題などのディテールにまでは踏み込まなかった。私が検討したのは、どのような人間が、どのように分布して定住したのか、どのように転住して土器や磨製石器、青銅器や鉄器を伝播させたのか、どのように定住拠点間を移動して交易としての物流を担ったのか、といった人間の組織と活動であった。
学生時代に、紀元前300年から紀元300年くらいだった弥生時代は、その後、紀元前500年近くからとなり、さらに国立歴史博物館による実年代では紀元前1000年近くからとなった。
そうなると、それまで縄文時代晩期の出来事だと思っていたことが、弥生時代の早期や後期の出来事となってしまい、「縄文社会」の人間の組織と活動と思われたことが、「弥生社会」のそれらであることになってしまった。土器による編年は、北部九州とたとえば東日本では違ってくるが、それも合わせて考え直すことになる。
結局、
私は、土器や磨製石器、青銅器や鉄器といったモノの遺物や遺構から捉える編年にとらわれず、自己流でいいから直接的に人間の組織と活動を捉えることにした。
結果、
分かってきたのは、
殷遺民の商工民に由来する「出雲族」の最初の前身一派が、紀元前10世紀ころ周初の青銅製刀子を伴って東北北部に渡来した。それは、縄文時代の三内丸山などと中国北方文化との交易が続いていて、その交易路を踏まえた渡来、つまりは新拠点開拓型の転住だった。一般的には、稲作伝来は北部九州を起点に捉えられて、なぜ関東よりも早く東北北部に伝来しているのかと不思議がられる。その際なぜか、北部九州よりもずっと前の時代に瀬戸内地方や山陰地方の稲が発見されていることは捨象される。
私は、それぞれ違った人間が違った目的でやってきて、その食糧として米を携帯したり、稲作をしたと考えた。そうすれば、それらを一筆書きのように繋げて伝播論を論じることは必ずしも必要ではなくなる。そして、それぞれの稲作の遺物遺構の検出地は、交易者が何らかの交易産品を採取するために渡来し、その採取活動を支える食糧の備蓄や生産の拠点だったと考えた。
中国の戦乱や動乱から朝鮮半島北部東岸に逃れる商工民は、その後も繰り返し現れ、そこで環日本海交易をしたものの一部が繰り返し日本列島日本海側に渡来し、有効な交易産品を求めて新拠点開拓型の転住を繰り返した。彼らはお互いに交易をし合ったが、最終的に後の弥生中期以降、島根半島西部に環日本海交易のハブ拠点を設け、四隅突出型墳丘墓を共通墓制として協働したのが同盟「出雲族」となった。
そして、
弥生中期に、もう一つの重要な中国系遠隔地交易民が北部九州に渡来した。「安曇氏」である。
「安曇氏」の祖は、長江下流域の呉越同舟の呉の遺臣で、五島列島に逃れて海洋交易民となったものが北部九州(筑紫)に渡来した。しかし、北部九州にはそもそも、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点として行き来する縄文人交易民がいて、かつ先行参入した「出雲族」も展開していた。よって、「安曇氏」は大規模稲作拠点の群展開ができず、それを最初にしたのは、呉を滅ぼした越が楚に滅ぼされ、越の稲作民を越(上越)に入植させた時だった。それはおよそ紀元前300年ころと思われる。越王勾践の元を辞した宰相范蠡(はんれい)が稲作民を率いて山東半島の南に転住し、最初の巨富を築いている(彼は斉に宰相になることを求められ去って他でまた巨富を築いていて、中国では商売の神様になっている)。それは、米の生産地が華中、消費地が華北だった時代に、消費地に近い華北で稲作をしたからで、北限を北上させる稲作技術を越遺民の稲作民は持っていた。「安曇氏」はこれを入植させて、「出雲族」の勢力圏だった山陰、越前、能登半島を超えた上越に大規模稲作拠点を群展開したと考えられる。
この時の稲作は、「出雲族」が採取拠点の活動を支える自給米(雑穀も栽培する「網羅型農耕」)ではなく、主要な交易産品となる商品米(稲作特化の「選別型農耕」)である。具体的には、大規模な灌漑を伴って乾田稲作をする温帯ジャポニカ米である。遠隔地でも量産して海上輸送すれば北部九州の交易拠点の交易産品とすることができた。
「安曇氏」が台頭し、北部九州(筑紫)から「倭人」を西北部九州(松浦地方=肥前)に、「出雲族」を関門海峡を挟んだ本州側に追いやったのは紀元前100年ころである。前漢武帝が朝鮮の直接経営に乗り出し漢四郡(かんのしぐん:前108年)を設置。「安曇氏」はこれに呼応して外臣化し、楽浪郡の出先機関として「くに」を建てた。行政拠点「伊都国」、大規模稲作拠点ふくむ産業拠点「奴国」、交易船の護衛などした軍事拠点「一大国」。もともと呉という「領域国家」の遺臣だった「安曇氏」は、言わば脱国家主義の「出雲族」とは真逆の「国家主義」でサバイバルしていく。後に、後漢の外臣化して「くに」ぐにを帯方郡の出先機関とし、さらに魏の外臣化している。
「安曇氏」は中国の巨大「領域国家」を後ろ盾に、排他的な領域を主張する交易拠点を瀬戸内地方そして環大阪湾地方へと展開していった。(「出雲族」が本州西端に陣取ったのは関門海峡の自由な航行を確保するためであり、そもそも「出雲族」の側には排他的な領域を主張する国家主義的な志向は無かった。)
以上、
このように「出雲族」と「安曇氏」の遠隔地交易の動向を見ていくと、北部九州を起点とした稲作の東進伝播は「安曇氏」の動きであって、東北北部や越後などのスポット的な稲作伝播はそれより時代を遡った「出雲族」や「安曇氏」の動きと理解できる。
また、
「出雲族」「安曇氏」ともに遠隔地交易民であり、交易ビジネスのメインは大陸交易だった。
「出雲族」の主要交易産品は、中国の都市市場(宮廷や朝廷や城壁都市の富裕層)を最終消費地とする完成品とその原材料で、日本列島内の交易ネットワークはそれを調達するためのものであった。
「安曇氏」の主要交易産品は、朝鮮半島北部西岸の前漢楽浪郡、後漢帯方郡、そして魏へ上納という建前で輸出する米などで、対価として鉄素材を得た。日本列島内の交易ネットワークは、鉄素材や鉄器を供給することでその生産力を維持拡大した産業拠点や大規模稲作拠点という後背地経済圏だった。
そして、
「出雲族」は、「自由貿易」前提のベンチャー型交易者で、交易ビジネスモデルを多様化し変更してサバイバルしたから、縄文社会を交易産品の生産拠点化するにあたり、縄文社会を温存し縄文人が自立的に自己完結できる産業指導をした。そのような新拠点開拓型の転住では、「交易ビッグマン」が部族の族長の娘を娶るなどして混交が進んだ。
それに対して「安曇氏」は、「管理貿易」前提の政商型交易者で、交易ビジネスモデルを基軸通貨的な米や鉄に固定化し巨大「領域国家」の後ろ盾を確保してサバイバルしたから、縄文社会を稲作共同体や産業共同体に再編し、その集落の大型建物に赴任する形で新拠点開拓型ないし拠点運営型の転住をした。結果、現代の商社マンが海外勤務しても現地人と結婚するケースが少ないように、縄文人との混交は進まなかったと考えられる。
ちなみに、
私個人的には、
「弥生時代」の人間を「弥生人」、「縄文時代」の人間を「縄文人」とは捉えていない。
大陸から渡来し、金属器を媒介に先住民と協働したり先住民を支配したりしたのが「弥生人」
これに支配されたり指導されて協働した先住民が「縄文人」
と捉えている。
このことは、
人間の組織と活動から「縄文性」「弥生性」を捉える私の立場からはとても重要なことである。
以上のような私の観点や立場から、
「縄文性」=石器時代の人類に普遍的な<部族人的な心性>
「弥生性」=<部族人的な心性>をベースに温存して形成された日本人独特の<社会人的な心性>
を捉えていきたい。
さらに、
それが日本の神話にどのように展開しているかを検討して、本論シリーズの結論としたい。
ここで、
「ディオニソス的」「アポロン的」の対概念の話に少し戻ると、
シェリングは、「内容が形式に優越する詩」と「両者が調和した本来の詩」との対立を、この対概念で捉えている。
ざっくり言えば、
「ディオニソス的」=「内容が形式に優越する詩」=独自表現を重視した方言
「アポロン的」=「両者が調和した本来の詩」=文法を普遍化した標準語
と言ってしまえる。
「縄文性」=石器時代の人類に普遍的な<部族人的な心性>
とは、方言が独自表現を重視した心性
「弥生性」=<部族人的な心性>をベースに温存して形成された日本人独特の<社会人的な心性>
とは、標準語が文法を普遍化した心性
ということになる。
それが、
言葉としてはヤマト王権の標準語である和語、文字としては万葉仮名で書かれた古事記
言葉としては極東グローバルな共通語である漢語、文字としては漢字で書かれた日本書紀
においてどのように展開しているか
俯瞰していきたい。
「贈与経済」は、負い目感情のやりとりであり、お互いの相手に対する負い目感情が相殺する方向に動く。ただし、朝貢交易などの朝貢をした側の貢納品よりも価値の高い下賜品を朝貢された側が返すことで、負い目感情を相手に負わせるやりとりもある。
一方、
「交換経済」関係は、あくまでギブアンドテイクでありモノやカネの等価交換である。
それも一過的に成立する「交換」のやりとりを繰り返す。
ちょうどグローバルなeコマースやネットオークションのように、価格競争を繰り返し、その度に最安値を提示した者や最高値を提示した者との取引が成立する。一度取引したからといって次回の取引が保証される訳ではない。
このように「贈与」と「交換」が二項対立として明快に峻別される場合ばかりなら世の中はしごくタンジュンだ。
しかし人類の現実は、中でも日本人の現実は特に「贈与」と「交換」が不可分かつ曖昧に錯綜している。
具体的には、
「贈与経済」の大枠に「交換経済」が忍び込み、逆に「交換経済」の大枠に「贈与経済」が忍び込んでいて、両者の展開がメビウスの輪のように繋がっていたりする。
たとえば、戦争を祝祭として、戦争経済を究極の蕩尽として「祝祭時空の贈与経済」として捉える考え方も可能である。
その場合、大枠としての「祝祭時空の贈与経済」の枠組みの中で、部分的に「行政時空の交換経済」が展開していることになる。
具体的には、
どこかの国の国民が時の政権に情緒的に戦争を煽られその冒険主義に巻き込まれて犠牲になる
という「祝祭時空の贈与経済」が現象する一方で、
敵味方双方の軍需産業が自国に売値で武器を売り込み消費させて巨利を貪る
という「行政時空の交換経済」が現象している。
たとえば、日本社会にはこんな卑近な例もある。
上司に部下が盆暮れの贈り物をするのは建前として「贈与」である。本音として見返りを求めていて何かを得るのであれば、結果的に「贈与」のやりとりとなる。しかし、両者間にこれを上げた場合はあれを返すというお約束がある場合、それは限りなく「交換」のやり取りに近い。
具体的には、
かつて日本の企業社会に一般的だった、メインバンクを同じくする旧財閥系の企業系列の企業同士の取引である。お約束として多少、割高でも同じ企業系列から商品やサービスを調達した。この場合、実質的に割高分を「贈与」していることになるが、今回はこちら側が、次回は相手側がという「贈与」のやりとりとなっていた。
全く同じことが、同じ商店街のパパママストア同士でも現象している。各店がなるべく駅前の大手小売店を利用しないでお互いの店で買い合ったり、会話混じりの売り買いを楽しむ常連客に店がオマケしたり値引きしたりする。常連客はお得な購買機会と楽しい会話機会を「贈与」されていて、それに報いるべくわざわざ遠くからでも来店する、つまり反復利用を「贈与」している。これはお金に換算できる「交換」のやりとりではない。
こうした全体を俯瞰すると、こう結論できる。
「贈与」のやりとりは主体同士の関係性を構築維持することを主たる目的としている
それが結果的にその大枠の一部として行われる「交換」のやりとりを安定化させている。
これとは対照的に、
「交換」のやりとりは数値化できるモノやサービスの客観合理的な売り買いを主たる目的としている
この場合、主体同士の関係性は不安定であるため
その大枠の一部として「贈与」のやりとりが主体同士の関係性を安定化の一助として行われる。
石器時代の人類に普遍的だった<部族人的な心性>は、前者の「贈与経済」にあった。
定住化、集住化以前の小集団(バンド)が移動生活を送った時代には、狩猟した大型哺乳類をみんなで食べた。たまたまそこに遭遇した他の小集団にも分け与えて共食した。そうする方がお互いのサバイバル確率が高まるからである。これが人類原初の「贈与」のやりとりであった。
それは、小集団間のそのような関係性を構築維持するものであるから、「目的」でありかつそれを達成する「手段」でもあったと言える。
つまり、生きることと働くことが一体であった。
石器時代は打製石器を使った旧石器時代から、磨製石器を使った新石器時代へ。そして縄文時代は後者であるが、草創期から晩期まで約一万年の長きにわたる。
だがざっくりと、
弥生時代=金属器を使う渡来人が導いた時代になる前の時代の
人間関係の人類普遍的な様相を「縄文性」とするならば、
それは、
主体同士の関係性を構築維持することを主たる目的とする「贈与」のやりとり
を大枠とする「贈与経済」にそのベースを求めることができる。
これに対して、
弥生時代=金属器を使う渡来人が導いた時代になってから後の時代の
人間関係の日本列島における様相を「弥生性」とするならば、
数値化できるモノやサービスの客観合理的な売り買いを主たる目的とする「交換」のやりとり
を大枠とする「交換経済」にそのベースを求めることができる。
(もちろん、大枠の中の一部としてもう一つの「経済」が働くこともある。)
弥生時代は、金属器を使う渡来人(遠隔地交易民としては「出雲族」「安曇氏」)が、先住民の縄文人を導いた。
その際、
渡来人は、「弥生性」=大枠「交換経済」でその部分として「贈与経済」を展開
先住民は、「縄文性」=大枠「贈与経済」でその部分として「交換経済」を展開
という二重構造になっていた。
(脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者の「出雲族」と
国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者の「安曇氏」とでは
縄文人とその社会への対応が異なるが、
ともに大陸の「交換経済」を縄文社会の「贈与経済」に接続して
二重構造にあったという点では同じだった。)
縄文社会も弥生社会も、人間の社会であるから人間的であるのは当たり前だ。
しかし、社会としての知識創造の構造に着目すると、
縄文社会は
庶民が下から自発的に育んできた「文化」の積み重ねが大枠となっている。
これに対して、
弥生社会は
為政者が上から先住民を主導した「文明」が大枠となっている。
そして、
そのような知識創造を可能にした社会の集団や組織の人間関係としての構造に着目すると、
縄文社会の全体の大枠は
主体同士の関係性を構築維持することを主たる目的とする「贈与経済」にある。
(社会の全体は、新石器時代の縄文人部族の群立と相互交流で、
人間が共生して「贈与」のやりとりをする「共同体」の類層構造)
数値化できるモノやサービスの客観合理的な売り買いを主たる目的とする「交換経済」にある。
(「安曇氏」の大規模稲作拠点の集落における、稲作民化された縄文人の「共同体」はその部分。
厳密には、中国の巨大「領域国家」の出先機関としての「くに」の下部構造の構成単位。
社会の全体は、「国家主義」の「管理貿易」という「交換」のやりとりをする「機能体」)
と言える。
100年ころに、北陸(越前)に上陸したと思しき、匈奴に同行していて離脱した鉄生産専従民(鍛鉄奴隷とも言われる)「テュルク族」が、鉄器を媒介に「くに」ぐにを建てていったその連合も、同様に弥生社会の全体の大枠を持った。
しかし、鉄器の開墾具で開墾した水田に稲作民化した縄文人を労働させるにおいて、「安曇氏」と同様にその部分において、縄文社会を稲作「共同体」に再編して、年貢を納めるという「交換」のやりとりを、豊穣神への貢納という「贈与」のやりとりとして行った。その際、神への貢納は「共同体」として行われ、「テュルク族」の場合、その代表たる祈祷師(シャーマン)は、卑弥呼のような「テュルク族」の首長層の女子が巫女となったと考えられる。
200年ころに、南九州に上陸(天孫降臨)したと思しき、朝鮮半島で小国群からみかじめ料を取って回っていた騎馬民族の「濊(わい)人」(天孫族)は、「神武東征」に勝利するまでは軍事体制にあった。
「濊(わい)人」(天孫族)は、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点として縄文人交易民「倭人」の全面的バックアップを受けた。「倭人」を介して、山野系縄文人の「熊襲」、「阿多隼人」が率いる海洋系縄文人の「隼人」の順で、その族長の娘を娶って取り込んでいった。
九州段階の軍事体制は、「熊襲」の陸戦隊化と「隼人」の海戦隊化がメインで、鉄生産能力と外洋高速航海船の造船と操舵の能力のあった渡来人の「阿多隼人」と大陸交易をしてきた「倭人」だけが「交換経済」に馴染み、前線部隊を構成する「濊(わい)人」「熊襲」「隼人」は「贈与経済」に馴染んできていて、その文脈で軍隊という集団組織の人間関係を構築した。よって、神武東征は橋頭堡となった「末盧国」が近い九州(宇佐、筑紫)では進捗が速かったが、遠い瀬戸内地方(安芸、吉備)では敵味方ともに兵站となる後方支援基地を含めた総力戦となって、進捗が滞って長い年月を要した。つまり、同じ軍事体制でも、後方支援基地の交易による軍需物資の調達を筆頭に「交換経済」が求められ、「濊(わい)人」は瀬戸内地方と北九州では「倭人」のバックアップによって、南九州では「阿多隼人」のバックアップによって軍事体制を立て直していかねばならなかった。
ところが、安芸に7年進駐、吉備に8年進駐して転戦型の転住をして畿内侵攻に備えたものの、大阪湾で大敗してしまう。近畿の「くに」ぐにの連合軍である「テュルク族」の軍事体制の方がもとより「交換経済」にあり、畿内の戦いでは後方支援が充実しているので、奇襲戦しか勝ち目はないと判明した。私個人的には、
南九州に「阿多隼人」が率いる別働隊が待機していて、沖合いから黒潮に乗って一気に紀伊半島南端に神武天皇を上陸させる作戦を断行した
と考える。
「阿多隼人」は大陸由来の渡来人の遠隔地交易民で軍事体制を「交換経済」で構築していて、紀伊半島南部沿岸の上陸部に後方支援基地を設けてそこに軍需物資を海から搬入して神武天皇を短い兵站で援護したと考えられる。このような大和盆地の紀伊半島側からの奇襲であれば、地勢的に環大阪湾地方からの侵攻と違って、後方支援基地を含めた総力戦でも優位に立つことができた。このような合理性と効率性を徹底した軍事体制は「交換経済」を一貫させてできる。それができたのは神武東征軍では「阿多隼人」だけだった。初期ヤマト王権における「阿多隼人」の天皇に近侍させての重用、そして記紀がその祖を海幸彦(天孫族)としていることの理由は、この時の貢献にあったと考えられる。
私個人的には、
初期ヤマト王権成立当初、天皇の周囲(天皇を擁立する黒幕的二重支配者となった「濊(わい)人」首長層)と神武東征を戦った主要氏族の間で流布した風聞神話では、海の神オオワタツミが象徴したのは、神武東征に協力した海洋系縄文人で「倭人」と「隼人」だった
それに、「隼人」を率いた「阿多隼人」の話を海神の宮譚で重ねた
と考える。
しかし、後世に九州の「倭人」「熊襲」「隼人」が離反し、海の神オオワタツミが象徴したのは「安曇氏」とし、「阿多隼人」は海神の宮の主として象徴するのを改め、その祖を海幸彦とした
「阿多隼人」の一派には、後世に九州の「隼人」に連なった者や、「濊(わい)人」が「熊襲」「隼人」に建てさせた軍事国家「狗奴国」を東海・関東沿岸部に海上輸送し、後世にそれが離反勢力となった「蝦夷(えみし)」に連なった者がいたのではないか。ゆえに、皇統の正統たる山幸彦に抗ったが最後は降った海幸彦という、微妙な立ち位置の天孫族が祖とされたのではないか
と考える。
弥生時代=金属器を使う渡来人が導いた時代になる前の時代の
人間関係の人類普遍的な様相を「縄文性」とし、
それは、
主体同士の関係性を構築維持することを主たる目的とする「贈与」のやりとり
を大枠とする「贈与経済」にある
そもそも「くに」を建てて自分が民を直接支配する動機を持たなかった
◯ 渡来人だが騎馬民族で黒幕的二重支配者となった「濊(わい)人」
◯ 「濊(わい)人」を九州上陸から全面的にバックアップした縄文人交易民「倭人」
〜国軍的な軍事豪族となった「大伴氏」
◯ 山野系縄文人の「熊襲」〜蝦夷(えみし)に展開した「熊襲」
◯ 海洋系縄文人の「隼人」〜蝦夷(えみし)に展開した「隼人」
は総じて「縄文性」を帯びていた
そして
縄文社会の全体の大枠は
庶民が下から自発的に育んできた「文化」の積み重ね
主体同士の関係性を構築維持することを主たる目的とする「贈与経済」
であり
これらへのこだわりを文化的な遺伝子として継承した。
これに対して、
弥生時代=金属器を使う渡来人が導いた時代になってから後の時代の
人間関係の日本列島における様相を「弥生性」とするならば、
数値化できるモノやサービスの客観合理的な売り買いを主たる目的とする「交換」のやりとり
を大枠とする「贈与経済」にある
広範な「交易経済圏」を形成したり自らの「くに」を建てたりして民と直接的関係を持った
◯「出雲族」
◯「安曇氏」
◯「テュルク族」
◯「阿多隼人」
は総じて「弥生性」を帯びていた
そして
弥生社会の全体の大枠は
為政者が上から先住民を主導した「文明」
数値化できるモノやサービスの客観合理的な売り買いを主たる目的とする「交換経済」
であり
これらへのこだわりを文化的な遺伝子として継承した。
以上のような理解を、記紀編纂者は共有したと考えられる。
しかし、その理解をそのまま提示してはまずいことがある。
律令神道体制という「弥生性」の発展完成に向かうに際して、「濊(わい)人」の実態が「縄文性」にあることは、「濊(わい)人」首長層の実態が天皇を擁立する黒幕的二重支配者だったことを含めて隠蔽しなけらばならなかった。
そこで、「濊(わい)人」首長層=「天孫族」として、その末裔として天皇を正当化した。
具体的には、
広範な「交易経済圏」を形成した「出雲族」が「国譲り」して「国譲り」したという
オオクニヌシ神話
「弥生性」を体現した転向「出雲族」と転向「テュルク族」を外戚勢力にしたことを正当化する
コトシロヌシ神話やオオモノヌシ神話や弟磯城譚
である。
一方、
記紀がその初頭に完成した8世紀の古代社会体制の全体は以上の概念ポートフォリオのようなもので、それは「弥生性」が統一的な「領域国家」体制として発展完成した姿と言える。
律令神道体制の内、
律令体制のPR(パブリック・リレーション)戦略の基幹コンテンツが
国内外に天皇と主要氏族を正当化し歴史理解を標準化する日本書紀
神道体制のPR(パブリック・リレーション)戦略の基幹コンテンツが
全国の主要神社に祭神と神話を割り振り神道祭祀を標準化する古事記
であった。
記紀編纂期、律令神道体制の具現化の方向性を示すべく、天皇がこうあって欲しいという理想を記紀に仮託させたという側面があった。
それは、以上の概念ポートフォリオの右上から左下に斜め45度の線を引いた左上領域で「祝祭時空の贈与経済」が重視された。
(記紀の完成を受けた8世紀は、右下領域で「行政時空の交換経済」が重視された。)
そして、
この左上領域については、
全体パラダイムについては、
天皇の周囲の支配層を読者として彼らが共有した「暗黙の了解」事項を前提に
「暗黙知・身体知の体系」である古事記が暗示的に指し示した。
具体的には、ヤマト王権は「濊(わい)人」が「テュルク族」を下して成立したが、それに至るまでの「出雲族」と「安曇氏」の遠隔地交易民としての対照的な動きがそれぞれにいわゆる「国造り」に介在している、ということが彼らには暗示として読み取れた。
個別具体的な歴史理解については、
漢文を理解する国内外の支配層を読者として、正文と一書で伝承群を併記する
「明示知・形式知の体系」である日本書紀が明示的に指し示した。
具体的には、
・縦軸を遠隔地交易軸=国家主義vs管理貿易
・横軸を経済枠組み軸=贈与経済vs交換経済
とする以下の概念ポートフォリオのような個別的歴史理解をしたものと考えられる。
つまりは、
<脱国家主義〜自由貿易>の勢力群と、<贈与経済>の多様な勢力群が
最終的には全て、<国家主義〜管理貿易>で<交換経済>の勢力群として
統一的な「領域国家」の体裁なり体制なりにある初期ヤマト王権に取り込まれた
という記紀の明示や暗示を踏まえた全体的歴史理解が指し示されている。
記紀が、直接的にこのような全体的歴史理解を普及させたとは考えない。
そうではなくて、このような全体的歴史理解が天皇や朝廷の意向として支配層に忖度されていったと考える。
たとえば、
支配層の中央地方の豪族や官吏、主要な神社仏寺は、単に政治や宗教、行政や信仰に関わるのではなく、その経済的な意味合いや内実を重視した。
その際、以上のような全体的歴史理解が忖度されると、
みな以下のような<公経済vs私経済><表経済vs裏経済>の概念ポートフォリオで社会全体を捉えるようになったと考えられる。
各象限の経済活動が、朝廷や天皇によって社会的に正当化されたり容認されたり取り締られたり取り込まれたりするが、それは根拠なしに行われた訳ではない。だが、早い時代ほど法律や制度が整備されていた訳でもない。しかも、そうした朝廷や天皇による対応は、中央地方の多様な経済活動主体となる勢力にも納得されなければならない。そこで共通の普遍的な根拠とされたのが、記紀に語られていて中央地方の氏族や神社に継承されてきた記紀神話やそれに関わる形で創作された伝承なのである。利権を与えられた者は、利権の成立と継承を正当化する根拠となる神話や伝承を提示された。そもそも神社の成立と継承を正当化したのが、割り振られた祭神とその神話である訳である。主要神社を消費センターとしてその必要産品の生産者が「信仰共同体」に組織されることも、その身分の成立と継承を正当化した。神社の境内で市が立ったり芸能がなされるにおいても、祭神が商売の公正や安全を担保したり祭神への奉納という建前で興行を許すという形で利権を供与した。このような「利権」は、現代の「交換経済」のそれとは違い、「贈与経済」が主導で「交換経済」を従えている。しかし、古今東西、「みかじめ料」「通行料」「朝貢交易」「戦争」「利権」「系列」といったものは、正確に見ると関係者間で「贈与経済」と「交換経済」が渾然一体になっている。日本の古代社会では、その渾然一体を取り仕切るための根拠に、記紀神話やそれに関わる形で創作された伝承がなった。(ヤクザの組事務所に神棚があるのは、彼らの信仰や政治信条のためではないだろう。江戸時代のヤクザが神前で交わした親分子分の盃が「系列」化の儀式だったことに由来するのだろう。 神を持ち出すことで正当化され安定化する「贈与経済」と「交換経済」が渾然一体化した人間関係、集団関係、組織関係、国家関係、国民と国家の関係といったものは、古今東西に普遍的であり、時に厄介である。)
日本人の<社会人的な心性>は、欧米人や中国人のそれが<部族人的な心性>を捨象ないし限界づけて形成されてきたのに対して、<部族人的な心性>をベースとして温存して形成されてきた。それは、律令神道体制や神仏習合によって社会体制が「弥生性」の完成形として構築されたとは言っても、そのベースには「縄文性」が温存されたということを意味する。具体的には、<部族人的な心性>をベースとして温存した<社会人的な心性>を持った支配層や被支配層が、社会体制を担ってそれを運用したりそれに対応したりすることが前提され、かつそうしたのである。つまりその時点で、私の用語法で言う「弥生人」(支配層)と「縄文人」(被支配層)で構成された一つの民族のアイデンティティとして、ベースに「縄文性」を温存しつつ「弥生性」を展開する日本人というものが前提されかつ仕事をしたり暮らしたりしていた、ということなのである。
たとえば、
現代の象徴天皇制にも認められる「権力と権威の分立」「政治的権力者と宗教的権威者の並立」の淵源を求めると、
それは、朝鮮半島で小国群からみかじめ料を取って回っていた騎馬民族(搾取型の移動民)の「濊(わい)人」が「領域国家」化によって食いっぱぐれて西日本に侵攻し、征服王朝を樹立し、統一的な「領域国家」として「管理貿易」を行い(政商型交易者「倭人」「安曇氏」に「管理貿易」を独占させて)、黒幕的な二重支配者(天皇に同行する遷都型の転住民)として天皇を擁立して<天皇の私経済>を利益源泉とした。
(余談になるが、
私は最近、中国のテレビドラマシリーズで、騎馬民族の契丹人の征服王朝である遼のある宮の映像を見た。それは、木造建築の宮をテント様の移動型住居であるゲオが取り巻いていた。「濊(わい)人」首長層も宮に天皇を住まわせてこのように周りに集住し、宮処替えを繰り返したと考えられる。初期ヤマト王権樹立の当初は、大きな「管理貿易」機会として宮処の造営があって、「濊(わい)人」首長層はこの利益機会に密着しつつ遷都型の転住をした。それは「濊(わい)人」首長層が解消した後も慣行として残り、後に藤原京が造営されるまで続いた。)
「権力と権威の分立」「政治的権力者と宗教的権威者の並立」の淵源は、
この際の、政治的権力者=黒幕的な二重支配者の「濊(わい)人」首長層宗教的権威者=擁立された天皇(天皇は首長層の男子、皇后は外戚勢力の女子)という構造に求められる。これは、石器時代以来、部族社会において普遍的だった「政治的権力者の族長と宗教的権威者のシャーマンの並立」(ただし実力主義の選任制で世襲に固定化していない)という<部族人的な心性>を踏まえたものであった。
<社会人的な心性>は、「中間団体」によって文化的遺伝子として継承される。「中間団体」とは、国家と家族の中間の両者を媒介する組織のことである。現代で言えば会社や学校、古代社会では、行政拠点かつ交易拠点であった「宮」であり、その交易拠点性だけを残して信仰拠点性を加えた「神社」がそれであった。律令神道体制の「神道体制」とは、「神社」という全国各地の「中間団体」とその活動を捉える体制だった。そして、黒幕的二重支配者の「濊(わい)人」首長層が天皇を擁立して<天皇の私経済>を、朝鮮半島で小国群から取って回っていたみかじめ料に代わる利益源泉とした経済体制の構造(初期ヤマト王権では<天皇の私経済>と<朝廷の公経済>が渾然一体の未分化)は、結果的には、律令神道体制における、律令体制の<朝廷の公経済>と神道体制の<天皇の私経済>を並立させる構造へと継承されている。その途中段階として、各地の主要神社や国衙郡衙の前身である、行政拠点でありかつ交易拠点である「宮」と、天皇直轄で天皇に初物を貢納する役割を建前として通行特権や通信特権を得て国内外交易を構想推進した「贄人」(後に令外官になる)の存在や活動があった。
誤解されがちだが、伊勢神宮のような中央(近畿)の主要神社が、地方のそれに対して集権的にピラミッド構造をとるということはない。そのことを象徴するのが、伊勢神宮に参拝した天皇は、持統天皇と昭和天皇だけで他はないということである。692年(持統天皇6年)3月3日、持統天皇は、臣下の中納言・三輪 高市麻呂(みわ の たけちまろ)の制止の諌言を振り切り、伊勢神宮への行幸を強行した。持統天皇は環伊勢湾地方への行幸を繰り返し、伊勢神宮の式年造替に必要な産品の生産地を巡り、その生産者を「信仰共同体」に構成した。それにより主要神社を消費センターとする地方経済圏を創成し、それがその後、各地で繰り返された地域経済圏創生のモデルとなった。第一回の式年造替は690年で、この時に神社の建築様式が標準化され神道の祭祀様式が標準化された。それは、主要神社の建立とメンテナンス、日々の祭祀で必要とされる産品を標準化することで、「祝祭時空の贈与経済」を標準化してその国内ネットワークを形成させて行った。(その中には、中央の主要神社の式年造替によって発生する古材や全とっかえされる神宝(宝飾品や高度な装飾)が、地方の主要神社でリユースされる流通チャネルも含まれていた。しかしそれは中央集権的な上位下達の構造ではなく、「贈与経済」による「神社の系列化」であり、総社は必ずしも中央とは限らない。出雲大社の系列があり、宇佐八幡の系列がある。)こうした役割を第一回の式年造替で果たした伊勢神宮は、朝廷の「行政時空の交換経済」からすると天武天皇の私的神社に過ぎず、持統天皇の直接参拝を臣下は制止しようとしたのだろう。一方、持統天皇は、環伊勢湾地方の地方経済圏の「祝祭時空の贈与経済」を起動させた伊勢神宮の第一回の式年造替の成果をどうしても見たかったに違いない。
持統天皇の参拝の後、長い歴史スパンを経て、敗色色濃くなった戦中、軍部の求めに応じて昭和天皇が参拝するまで、天皇による直接参拝はなかった。あくまで、天皇の代わりに未婚の皇女の斎宮が伊勢神宮の神様に仕えて、天皇の使者である勅使が参拝したのであった。その理由には諸説あるが、私個人的には、天皇本人の直接的な伊勢神宮参拝を慣行化すると本来、水平的なネットワーク構造であるべき「祝祭時空の贈与経済」の「神道体制」が中央集権的なピラミッド構造に歪んでしまう結果的に「行政時空の交換経済」の「律令体制」や時の「政治体制」に取り込まれてしまうそういう危険性を回避したと考える。
伊勢神宮には、「私幣禁断(しへいきんだん」の原則がある。天皇以外のお供物や願い事を禁じるという原則である。昭和天皇は軍部の求めに快く応じた訳ではないようで、その背景として、昭和天皇の願い事が必ずしも軍部の願い事と一致していなかったということが考えられる。私個人的には、「私幣禁断」とは、時の政治的権力と、遥か古から未来永劫に続く宗教的権威を峻別する原則であり、天皇自身の専横や時の権力者が政治的に天皇の宗教的権威を利用することの防御であったと考える。
日本人の<社会人的な心性>を特徴づける「権力と権威の分立」「政治的権力者と宗教的権威者の並立」は、・渡来人の「弥生人」が、先住民の「縄文人」の政治的支配や交易的協働において部族社会のそれを温存した経緯・初期ヤマト王権樹立に際して、「濊(わい)人」首長層が黒幕的二重支配者となって天皇を擁立した経緯・律令神道体制が、律令体制の「交換経済」(徴税〜納税)と「神道体制」の「贈与経済」(貢納〜便宜供与)を並立した経緯を経て始まり、長い歴史スパンの間に神社とその祭りといった「中間団体」とその活動を通じて、最終的に日本人の一般庶民の血肉化したつまりは、結果的に為政者が上から先住民や一般庶民を主導した「文明」ではなく
庶民が下から自発的に受け入れ育んできた「文化」の積み重ね
となっている。
古事記という「暗黙知と身体知の体系」日本書紀という「明示知と形式知の体系」両者の神話や伝承は、あくまで限られた支配層を対象として編纂されたが、それが神社に祭神とその神話を割り振り、その神社が「中間団体」として祭りという活動を毎年毎年、繰り返してきた。それによって形成されてきた日本人の<社会人的な心性>は少なくない。なぜなら、建前としての社会体制が「弥生性」の完成形であろうとするのに比例して一般庶民の本音にある「縄文性」が神社の祭りで発散されてきたからである。そして、常に一般庶民の本音は「暗黙知と身体知」を起点としているから特に古事記の神話がその発露を正当化する根拠とされ続けてきた。
語り尽くせていないこと多々であるが、以上をもって本論「古事記」が記した日本人の<社会人的な心性>のベース=<部族人的な心性>
の結論としたい。