社会の成立過程を中国と日本と繋げて考える(5:間章 その2) |
「拠点環濠集落の再検討 東アジア的視点からみた弥生時代の集落景観」中尾裕太氏 発
(5:間章 その1) http://cds190.exblog.jp/22967916/
からつづく
初期環濠に見られる複雑な「階層格差」と多様な「都市性」 つづき
「主に西日本の諸地域における最古の環濠は水稲耕作文化の東進に伴っており、やはり水稲耕作のノウハウとして受容されたと考えられる」
私は、大規模な土木工事を必要とする灌漑設備を伴う水稲耕作の伝播は、当初ほど弥生人だけではできず、縄文人の奴隷化や同化政策を必要としたと考える。
同化政策は当初は侵攻の一環だったが、やがて混血児と彼らが育む家族の拡大とともに平和裡なものとなっていく。
この経過においても、弥生人と縄文人の交易が、ちょうどどこかの国と国の政冷経熱のように継続的に展開したと想像する。
具体的には、
弥生人の侵攻の後、同化政策を進めた弥生人と棲み分けをした縄文人との間で、
①自給自足を補い合って比較的少量の「最寄り品」を日常的に取引する近隣取引
がまず行われた。
やがて縄文人も平和裡に水稲耕作を受容するようになると、
②余剰生産した比較的大量の「最寄り品」を定期的に取引する中域取引
が行われるようになる。
縄文人が生産した余剰産品を交易チャネルをもつ弥生人が物々交換し日本列島内外に流通したと考えられる。こうした過程で縄文人は弥生人の先進文化を積極的に受容していく。縄文人は弥生人と文化文明的にも同化していった。
そして北部九州の経済基盤が充実してくるにつれて、政商的な渡来人=弥生人である安曇氏や、もともと海上移動性に富んだ交易民として朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした倭人が、
③威信財や祭祀財など象徴的品目を不定期に取引する遠隔地取引
を活発化していった。
たとえば、縄文土器、弥生土器という区別があるが、土器形式の変更においてその製造者から縄文人が一掃されてすべて弥生人に交代したということはあり得ない。縄文人やその混血を含む末裔が新土器形式を手がけるようになったと考えるのが自然である。
弥生土器の製造に関しては、東北から九州への流通や九州から朝鮮半島への流通もあったと指摘されている。水稲耕作についても北部九州の方が朝鮮半島南部よりも先行したという説もあり、水稲の米食文化に適応した弥生土器と炊飯ノウハウはむしろ日本から朝鮮に伝播したとも考えられる。こうしたことのすべてを弥生人が担ったとは考えにくい。
(参照:「縄文時代から弥生時代への移行をめぐる論題(3) 」
http://cds190.exblog.jp/22510632/)
同様のことは土器以外の製品製造においても言える。
出雲周辺の山陰地方のヒスイの勾玉の製造と交易も、内陸部における原石の採掘と陸路運搬、沿海部における加工、商品化、取引、海上輸送といったサプライチェーンを、縄文人と弥生人が適材適所で分担恊働するようになったと考えるのが自然である。すべてを弥生人が担ったとは考えにくい。
じつは、こうした日本列島の内外の時代時代の製造拠点や交易拠点や消費拠点を互いに結びつける交易ネットワークが縄文時代からずっとあった。
その交易ネットワークに弥生人による水稲耕作のノウハウと人材の移植ということも乗っかった、というのが自然な物事の順序にそった理解なのである。
こうしたことは農本主義的発想からは見えて来ないが、交易主義的発想からはもとより明らかだ。
それゆえに、交易拠点としての「都市性」、交易ネットワークとしての「都市のネットワーク」ということが、農耕拠点、製造拠点、さらには軍事拠点、信仰拠点など様々な拠点にその性質に関わらず大なり小なり反映していると見ていい。
論者は、
「板付遺跡の例からは、やや複雑な階層分化の萌芽をみることができるが、それでもなお、その階層差は顕著であるとはいえない。各地の初期環濠は、内と外を限る濠こそあるものの、その他顕著な施設等を認めることができず、安全度以外の明確な差が認められないからである。本格的な階層は、その後水稲耕作文化が発展するなかで、環濠の数が増加し複雑化していく弥生時代中期以降に顕著にあらわれる」
としている。
論者のいう階層分化は、弥生人の中だけの権力の階層性や経済の格差なのだとすれば、その通りだと思う。初期環濠の言わば原始共産制的な収穫の共同管理と公平な分配をしたという「交換経済」ばかりを前提にすればそうした格差がないとするのは当然の帰結である。
しかし、初期環濠で水稲耕作する弥生人にも「交換経済」だけでなく豊穣神との関係で「贈与経済」の体制が建前的にあった。つまり権力とは言えないまでも、祭祀を司る権威の有る者と無い物の格差はあった。さらに弥生人の同化や交易や恊働の相手である縄文人には本音的に「贈与経済」の体制が色濃くあった。
だから格差として問題にすべきなのは、こうした縄文人と弥生人の関係における、「物質の経済」ではなくて「感情の経済」の格差なのである。それは、一方的に相手の暮らしが良くなることを贈与する弥生人と、一方的に暮らしを良くしてもらう贈与をされる縄文人という非対称の格差であった。(無論、こうした捉え方をしない縄文人もいた訳で、彼らは弥生人に敵対したり山間にとどまって絶交した。縄文人が崇めたのは狩猟採集のアニミズムの神で、弥生人の崇めたのは農耕の豊穣神で、重なるとも隔たるとも受け取れた。)
「感情の経済」の格差は「感情の摩擦」を生むが、じつはそれさえ解消されれば、縄文人と弥生人は適材適所で分担恊働することが、農耕でも製造でも交易でも、信仰でも祝祭でもトータルにできた筈なのである。そしてそれは順序さえ適宜に踏めばさほど困難なことではなかった。
「これら各地(筆者注:西日本の諸地域)における初期環濠は、前期後半以降に北部九州から瀬戸内にかけて増加する貯蔵穴用の非集落環濠に先駆けて出現することも指摘されており」
と論者が指摘することは、
貯蔵穴用の非集落環濠というものが板付遺蹟のように軍事拠点の兵站庫だったことに関わり、西日本の各地でそうした軍事色、侵攻色のない初期環濠が平和裡に出現していったことを示している。
軍事的な対立は、弥生人と縄文人の間よりも、さまざまな渡来ルートを辿ってきた渡来民勢力同士、つまりは弥生人同士の間で深刻化したのだろう。それが、追って検討する、弥生時代中期を画期として近畿地方と北部九州において、防御性能の強い外郭をもつ大規模な環濠集落が出現していった背景である。
一方、弥生人と縄文人の間の水稲耕作伝播受容に関わることでは、戦争と言えるような事態は少なかった、あるいは規模が小さく長引かなかったと考えられる。
なぜなら、渡来民の各勢力は兵站を早急に平和裡に確保しなければ軍事力において渡来民勢力同士の競合に対応できなかったからである。
また、渡来民勢力同士の軍事的な対立というものも、戦闘という形は非日常的な最終形であって、日常的には縄文人の同化政策と彼らの開墾による支配域の拡大の競争だったのではなかろうか。たとえは悪いがヤクザで言えば、前者が対立する組同士の抗争の勃発であり、後者が日々のシノギであり対立が表面化するのは縄張りをめぐる組員同士のいざこざ程度であるような感じだ。
弥生時代中期以降の「拠点環濠集落」に見られる中国化の様相と展開
「環濠集落の消長は各地域によって様々であるが、中期を画期として近畿地方と北部九州において大規模な環濠集落が出現する。
それらは一般的に拠点環濠集落と呼称されている。
拠点環濠集落は、初期環濠集落と比較すると、規模、構造、内部に所有する施設など、ほとんどの点で上回っている」
「弥生時代中期以降の環濠集落は、一般的な農耕集落や小規模な環濠集落とは一線を画するものとして捉えられている。
『環濠都市』という概念が提唱されるようになった要因のひとつにはこのような背景がある」
論者は、中国化を景観に見出し、そこに「都市性」というものを求めている。
私はこれに賛同するものであるが、「都市性」について交易拠点性、交易ネットワーク性というものを中心に捉えていて、景観=「景観性能」はそこから導かれた拠点のもつべき要素の一つだったという理解である。
しかも「景観性能」には、交易拠点の要素となるそれと、行政拠点の要素となるそれと、信仰拠点の要素になるそれと、軍事拠点の要素となるそれがあり、論者も含めて主に論題にされるのが行政拠点のそれであり、ゆえにそれが「国」=国家の形成に向かったつまりは中国化していったという文脈に終始することになりがちだ。
論者の場合、追って触れるが「方形化」ということに注視し、それは四合院の住居形式にも通ずるとするから、さまざまな拠点の景観要素の共通性として中国化を論じようとしているように感じる。
私も、寺院建築や霊廟建築も仏や霊を王と見立てて、行政拠点の「景観性能」の要素である「方形化」を導入したという理解をしている。
だが、交易拠点の「景観性能」の要素については、基本的には海や河川の交通や輸送の要衝において交易者のアプローチや出入り、拠点主体の交易活動の安全確保や管理運営ということが主題となっている。王や仏や霊との垂直関係が伽藍的に計画されるのとは対照的に、交易者同士の水平関係が地勢を活かした実績の積み重ねで増殖していく。
だが一方で、城塞都市の中の広場で市がたったり街路に屋台がならぶということがある。
それは、行政拠点の中に交易拠点がとり込まれた管理交易の段階の話である。
そのような行政拠点が計画的に成立する以前から、つまりは部族社会の交易発祥の段階から、交易拠点は多様に自然発生していたのである。
論者の注視する「方形化」という中国化は、行政拠点にとり込まれた管理交易の「景観性能」に関わり、行政拠点成立以前の自然発生的な交易拠点の「景観性能」は論じる対象にそもそもなっていない。
歴史的スパンを長くとって俯瞰すると、
「方形化」という「景観性能」には、
集落を囲む外郭の話①、
その内側の内郭や街区の話②と、
さらにその内側の建物の話③がある。
「中国化」は、最終的に都市計画ないし伽藍計画として①②③が統合化して完成する。
日本の拠点環濠集落において、そうした「中国化」の初期的段階を見ようとする論者の主張は挑戦的であり示唆に富んでいる。
そこに「都市性」があるのは確かだ。
しかし私が求めたいのは、むしろ「中国化」以前の「都市性」なのである。
文明化された<社会人的な心性>による「都市性」よりも前からあった、
文化として息づき続けてきた<部族人的な心性>による「都市性」
と言ってもいいだろう。
それは、現在の日本社会においても濃厚かつ濃密に息づいている。
権力に管理されたり権威に従属するのではなく、自由な自分の意志と個性という主体性をもった様々な人々が集まってきて様々な交流をする、そういう「都会」としての「都市性」である。
現代の高層ビルが林立する都心は、言ってみれば「方形化」が水平方向だけでなく垂直方向にまで徹底している。
しかしそれでも、世界の人々がわざわざそこを目当てにやってくる秋葉原や原宿や渋谷は、世界に類例のない「都会」としての「都市性」を温存し、むしろそちらの方が現代的に個性化しかつ国際化している。
新宿の花園神社に隣接する一帯のゴールデン街は、「猥雑性」において象徴的で最近は外国人が異様に増えてきて出島状態になっている。
こうした日本型の「都会」は、常に目に見える「形」に囚われない増殖や変容を繰り返してきている。そこに日本型の「都会」の個性的な本質がある。
私は、こうした日本型の「都市性」の起源が、縄文人と弥生人の同化拠点となった初期環濠や、日本列島の土地土地の風土と民族状況に応じた交易拠点、典型的には出雲大社建立以前の出雲に求められると考えている。
弥生時代中期の拠点環濠集落についても、日本型の「都市性」の要素の起源を見出せるのではないかという観点から、以下、論者の論述を検討していきたい。
最初に私の個人的な概観を提示しておくと、それは
初期環濠が、弥生人が侵攻してから縄文人と共生するまでのもので、弥生人と縄文人との関係性において同化政策媒体としての様相と展開を捉えられるのに対して、
その後の時代の拠点環濠集落は、中国の国家との関係性において、その出先機関や冊封国のなんらかの拠点としての様相と展開を捉えられる
というものである。
また、
初期環濠においては、弥生人と縄文人の関係性において実質的には「贈与経済」の体制が色濃くあり、同様の和語の「くに」という概念に繋がるのに対して、
その後の時代の拠点環濠集落は、中国の国家との関係性において、実質的には「交換経済」の体制が色濃くあり、同様の漢語の「国」=国家という概念に繋がる
交易活動も、前者では「贈与」のやりとりという側面が強く、
後者では「交換」=ビジネスという側面が強くなった
というものである。
論者は、こう述べている。
「弥生時代中期後半以降、日本が楽浪郡を通じて中国と直接交流するようになることは北部九州の出土遺物から明らかであるが、この時期になると上述の板付遺蹟にみることができる二重環濠は、内郭部分が発展するとともに大型建物を典型とする諸施設が内郭内に吸収される。
これは階層の分化に起因する明確な首長権力の台頭を意味しているが、この内郭施設が方形を志向するようになるのである。
これは、(中略)中国的な文化の流入と考えられる」
確かに、方形の木造建築が導入された訳で、それは竪穴式住居などの円形とは著しく違いその文化の断絶を意味した。
歴史にもしもはないが、文化先進地の交易相手なり宗主国として仰ぐ中国が、もし匈奴が支配する国だったならば、方形の木造建築ではなくて、円形の移動式住居のゲルになっていたことだろう。
匈奴は騎馬民族であるが穀物栽培民を隷属させて穀物を生産し交易もしていた。よって仮に日本列島が匈奴に侵攻され支配下となった所では水稲耕作が展開した筈だ。しかしその場合、環濠集落に相当する砦的な拠点は移動性の高いものとなってその「景観性能」も大きく異なったことだろう。
何が言いたいかというと、方形とは、単に円形ではないという「形」にとどまらない本質を内包している、ということなのである。
ゲルの円形には移動性の容易さという機能があり、竪穴式住居の円形には移動性の容易さへの残滓がある。円形を拒絶した方形には、移動性を拒絶した定住性への志向が見てとれる。
それは、交易活動というものが移動を前提とすること、新しい交易先を求める市場開拓というものが転住を前提とすることと対極にある志向に他ならない。
このように考えると、
集落の目に見える建物や外郭における「方形化」ということは、移動志向から転住志向へさらには定住志向へのバロメーターである
と解釈できるのである。
一般論として言えるのは、拠点環濠集落の「方形化」が①②③の統合に向けて進めば進むほど、その内部の交易拠点性は「方形化」にとり込まれて目に見える「ハード=モノ」としての「景観性能」をなくしていった。
一方で、縄文時代以来の交易ネットワークの交易拠点はそれぞれの立地条件や交易特性を反映した交易拠点性を際立たせていったと言える。
両者の対照性はヤマト王権と出雲の対立でピークに達する。そして前者による出雲大社建立とは、後者の祭政交易都市としての「景観性能」を換骨奪胎する過程であったと考える。
「古代中国の囲繞施設は、商(筆者注:殷のこと)代以降になると基本的にほとんどが方形であり、漢代にはいっそう方形化が進む。対中国交流の門戸である楽浪郡そのものの郡治の城壁は楕円形を呈するものの内部は方形の平面プランをとると想定されており(谷 1995)、朝貢の際、首都長安およびそこに至る途上で城壁・外郭および内部施設を方形プランとする例を、長安に向かった、あるいは中国化された諸韓国に足を運んだ使者は実際に目にしているはずである。それを日本で実現したのであろう。したがって、方形志向こそ集落の中国化のあらわれであると考えられる」
論者の論述で注目されるのが、楽浪郡そのものの郡治の城壁は楕円形、だったことである。
方形ではなく円形に近い楕円形だったのはたまたまではなく、漢朝によって東夷に設置された楽浪郡、真番郡、臨屯郡 、玄菟郡の漢四郡の、東方における中華文明の出先機関の仮設性という基本的な性格づけが反映していると解釈できる。つまり、強烈な定住志向ではなく、場合によっては移動や撤退をする移動志向ないし転住志向を読み取ることができるのではないか。
このように中国、朝鮮と繋げて見てくると、日本の拠点環濠集落には中国との冊封体制を意識して計画されたものもあった筈だが、総じて「方形化」は不徹底であり、①②③を統合する完成段階に向かわなかった訳で、私たちはそこからそれぞれの拠点環濠集落の運営主体と中国や朝鮮との関係性の実態を推し量ることができる。
先ず分かるのが、中国や朝鮮の王朝からの資源投入は人間を含めて乏しいことである。現地で全権を担う代理者が運営主体となって、その持ち出しというか現地調達できる資源による土木と建築が行われた公算が高い。そして全権代理者の最優先の課題は支配域の維持以上に拡大であり、移動志向ないし転住志向を読み取れる仮設性とはその前線拠点としての役割を拠点環濠集落が担ったことによる。
この拠点環濠集落の運営主体の話は地味なようでじつは重大である。
なぜなら、政商的な渡来人=弥生人が出先機関を請け負って全権を担ったり、中国の威光を借りて連合の盟主になろうとした「くに」が意欲的に朝貢したりしたことが、中国側からはさほど歓迎されなかったことに符号するからだ。
なぜ、さほど歓迎されなかったと言えるかというと、中国側が日本列島を支配下におくことに積極的な意味を見出していたならば、直接的に資源投入し運営管理にも関与した筈で、もしそうであれば。朝鮮の楽浪郡そのものの郡治のような環濠よりも定住志向の強い「楕円形の城壁」や方形志向の強い「城壁内の方形平面」が展開していた筈だからだ。
けっきょく日本における「方形化」の①②③を統合する完成段階は、ヤマト王権が成立した後の朝廷建築や寺社建築を待つことになる。
ただし私は、
それを拠点環濠集落における中国化の遅れと看做すのではなくて、
むしろ中国型を日本化して受容した、つまりは日本型の展開のはじまりだったと看做したい。
現代の主要都市が古の城郭都市の発展形であることは日中欧みな同じだ。しかし中国と欧州は城郭の中に街をとり込んでいるのに対して、日本の城下町の街は文字通り城下=城郭の外にある。それは中国や欧州と比べれば、相対的に定住志向が弱く、移動志向ないし転住志向が強いということに他ならない。この日本と中欧との言わば都市空間パラダイムの違いの端緒を求めて歴史を遡っていくと、弥生時代に中国や朝鮮の国家が日本に進出した際、前線拠点のあり方を大陸のそれよりも移動および転住を前提とした仮設性の色濃いものとしたことに至る。
これは論者が指摘する「中国化=方形化」という文脈で語ることのできる、朝廷建築を中心とする都建設や、寺院建築や神社建築の伽藍の話とは違う系統の話である。あえて概念化すれば、前項(5:間章 その1)で論じた「日本化=結界化」という文脈となる。
論者はまず、吉野ヶ里遺跡を解説する。
「吉野ヶ里遺跡は、広範囲を囲い込む環濠や 2 つの内郭施設、特定集団の墓を意識した大型建物とそれに伴う拝殿らしき建物、さらには市を彷彿とさせる掘立柱建物群など極めて複雑な構造をもつ環濠集落である。だが、基本的には、外と内の二重の環濠からなる板付遺跡と同様の構造である。ただし、外と内では環濠の種類が異なっており、この点が特徴となっている」
広範囲を囲い込む環濠は、まったくの不定形であり、地形にそってつくられたと考えられる。
「吉野ヶ里遺跡では弥生時代後期前半までに約 40ha に範囲に環濠が掘削され、その後、後期中頃になると、環濠内に2 ヶ所の内郭が設けられる。
集落のすべてを囲む外濠は、板付遺跡と同様に断面V字形を呈している。さらに、逆茂木を配するなど、極めて堅固な防御の様子をうかがうことができる。内郭も少なからず同様の性格をもつ。
北内郭は、平面不正円形の環濠の四ヶ所の張出部に物見櫓を置いていたことが想定され、入口は鈎形に屈曲しているなど、ある程度の閉鎖性をみることができる。
また、南内郭からも張出部が確認されており、やはり物見櫓の存在が想定されている。
しかし、内郭は断面U字形を呈しており、溝そのものの防御的側面は弱く、主に区画を目的としたものと思われる。内郭のU字化の要因として、外濠の発展,逆茂木設置などを挙げることができる」
「この内郭をもって方形志向のあらわれととる考えもあるが、この段階ではまだ不定形であり方形を志向してつくられたものとは考えにくい。
張出部に関しては、大陸的な要素をもっているとも考えられており(七田 2006)、複雑な集落構成をもつが、集落のプランニングから考えると初期環濠である板付遺跡タイプが複雑化したものではあるが、中国的な集落景観をもつとはいい難い。
吉野ヶ里遺跡の内郭の発展形が池上曽根遺跡のそれである」
「池上曽根遺跡については、直接的な影響のもと中国的文化が流入したことを指摘することができる。その特徴として、板付遺跡や吉野ヶ里遺跡にみられる内郭施設が消失するとともに建物同士が直交してコの字型の配置をとるようになる点、そしてそれらが南北主軸をとる点が挙げられる。
建物群は遺跡のほぼ中心部に位置している。中心となる建物は同一地点での建て替えが確認されており、最も大きく特徴的な大型建物跡は、10 間× 1 間で,両妻側の約 1m 外側に屋外棟持柱、屋内にも 2 基の棟持柱をもつ建物で、約 133 ㎡の床面積をもつ。また、真南北からは約 6 度東にずれているものの、ほぼ正方位にのった方向軸をもっている。この東西に展開する大型建物の東に近接して、南北に展開する建物跡も検出されている。(中略)
実際は完全なコの字型にはならない。しかし、方向軸は上記の東西方向の大型建物とともに南北を意識しており、同じ場所で建て替えがなされていることは決して偶然ではなく、何らかの意図をもってのことと考えたい。
時期がやや下る滋賀県伊勢遺跡においても南北主軸を意識した建物群が直交しており、コの字型に復元されることもこの考えを助ける」
論者は弥生時代と並行する漢代の四合院ないし礼制建築との類似を以下のように論じている。
「建物のコの字型配置は、中国の四合院に通じる。四合院形式のような明確な左右対称の建物配置は、方形プランの城壁が出現する時期と比べると新しく、四合院の増加も弥生時代と併行する漢代をまたなければならない。
中国との直接的な交流の結果である可能性は大きく、集落景観を比較しても吉野ヶ里遺跡よりはるかに計画的である。
さらに、池上曽根遺跡、伊勢遺跡の平面プランが、漢代の礼制建築と類似していることは注目すべき点である。(中略)
伊勢遺跡については,居住を目的とした一般の集落ではなく、広域な地域の祭儀場である可能性が指摘されている(中略)。
しかし、国内の弥生時代遺跡を集落景観からみると、池上曽根遺跡、伊勢遺跡よりさらに計画的な景観をもつものがある」
私は論者の主張を否定するものではないが、むしろ「日本型=結界化」を経た簡素化に注目したい。
まずは池上曽根遺跡の「たか殿」の復元された姿を見てほしい。
この平面は、夏王朝後期の二里頭の長方形の「宮殿」の長手方向の開口部に面した横長のパブリックスペースと相似形である。
この横長のパブリックスペースは王の祭政空間だった訳だが、そのプライベートスペースである側室を除いたそこだけを壁なしの列柱空間として、「たか殿」の<背の高い床下空間>は具体化している。
壁を設けずに列柱を「結界化」させているところが「日本型」の祭政空間と言える。
私は、
①中国の二里頭の横長の列柱空間の長手方向に開口部を設けた「宮殿」
②ギリシャのアクロポリスの横長の列柱空間の短手方向に開口部を設けたパルテノン「神殿」
③日本の池上曽根遺蹟の壁を設けず列柱を結界化した「たか殿」
は古代の祭政空間の3典型となってそれぞれの空間パラダイムを象徴している
と考える。
(①と②については(7)http://cds190.exblog.jp/23120034/で詳しく検討する。)
つまり、横長の列柱空間というものが古代の祭政空間の普遍的なスタンダードであり、日中欧でそれぞれの文化や風土を背景にバリエーションが展開した。
ただし、①と②の中国と欧州は、ギリシャ神殿のもとになった人間が住んだ木造宮殿は中国の二里頭の木造宮殿と時代的にも重なるのに対して、③の日本の池上曽根遺跡の「たか殿」は弥生時代で1000年以上後のことになる。結果的に、「たか殿」ははるか昔に発生した祭政空間の普遍的なスタンダードの本質だけをもっとも簡素に捉えて、かつ日本の文化と風土を背景に列柱を「結界化」するという形で、単なる「中国化」ではなくむしろ「日本型」を創出している。「たか殿」の建設に携わった渡来人はどうしてそんな着想をもてたのだろうか。
私は答えはけっこうタンジュンだと思う。二里頭の「宮殿」形式は日本の京都御所にまで至るもので、漢代であれば王宮に限らず論者が論じる四合院にも反映し、横長のパブリックスペースはその北房(正房)に展開している。
このような横長列柱空間の建設に携わることは建設関係の渡来人にとっては一般的な経験だった。そして棟上げ式までの過程で列柱が林立するだけの空間を体験していた訳である。そのような渡来人が日本に来て、その文化と風土を勘案して壁で遮らない方が相応しいと判断すれば可能となった。文化と風土を勘案した簡素化なんて悠長な話ではなく、予算や資材の不足や、移動や転住の可能性を配慮した仮設的な簡略化だった可能性も否定できない。
論者の主張する「中国化=方形化」ということは確かにあった。
しかし私としては、
それをも「日本化=結界化」するという形で「日本型」が創出されている
ということを留意しておきたい。
次に論者は、弥生集落において極めて広大な面積をもち、景観的にも上述のものを凌駕する集落であり、中国の史書に記された国の中枢をなす集落遺跡である須玖遺跡群とそれに近接する比恵・那珂遺跡群を取り上げて、街区や道路の登場を解説する。
「須玖遺跡群は、日本が中国と直接交流を開始した弥生時代中期後半の奴国の中心であり、同時期の王墓から漢系の副葬品が多数出土している。そして、須玖遺跡群のさらなる特徴の一つとして挙げられるのが、春日丘陵北の低地に集中する青銅器などの生産工房である。青銅器生産は、中期前半にははじまったとされ,中期後半以降になると工房の数は急増し、春日丘陵上ならびに丘陵以北の低地に集中して展開されるようになった。
この工房群のいたるところから溝状遺構が検出されている。武末純一は、これらの溝について集落の内部を区画した街区の一部である可能性を指摘している。(中略)
また、他の遺跡を凌駕する工房群でつくられた青銅器は九州外にまで供給されていたことが明らかになっている(井上 2009)。弥生都市の内実的な条件のひとつとして挙げられる専業集団の顕在化が明確にみられることは重要な点であり、生産物の広域にわたる外部供給も一般集落との隔絶をあらわしているといえよう。
須玖遺跡群の北方に近接する比恵・那珂遺跡群からも,集落を南北に貫くと考えられる道路状の遺構が検出されている。
近接した遺跡群に同様の区画整理があることは、両者に有機的な関係があったからに他ならない。那珂遺跡群は奴国の中心であるのに対し、比恵・那珂遺跡群は、弥生時代後期前半以降、国内各地の搬入土器が多く出土していることから、 交易の中心地であったと推定されている(久住 2009)。須玖遺跡群に近接し、遺跡群の北には海が広がっていたという地理的環境を考慮すると、 比恵・那珂遺跡群は奴国の港であったと考えられる。
また、比恵・那珂遺跡群の道路を南に延長すると,その線上には須玖遺跡群がある。比恵・那珂遺跡群では、さらに道路が広がることも指摘されており(久住 2009)、奴国の中枢と港を結ぶ道路が存在していた可能性も否定できない。
地割り、町割りについての例は、後の時代の藤原京や平城京などの都城にみることができる。ここで挙げた地割りや道路は,都城のような条坊制に基づく都市計画にははるか及ばないものの、集落を計画的に区画し、それぞれを道路で結ぶ点は、機能的にも、景観的にも同時代の拠点環濠集落をはるかに凌ぐ」
「環濠集落の発展、展開については、武末純一により、
(A)円形の中の方形、
(B)円形の外の方形、
(C)円形のない方形へと展開していく
と指摘されている(武末 1989・1998 a・2002)。
これは環濠集落内に方形の区画が出現し、その方形区画が独立する過程である。独立した方形区画は古墳時代の豪族居館の祖形として連続的に考えられる。
A類型の前段階に、環濠の出現、そして環濠内の方形区画に先立つ二重の環濠を加味して考えてもよいだろう。
ここで挙げられるB類型に関しては、それ自体の普遍性を問う意見もあり(久住 2006)、 再考の余地もある。
ただし、環濠の多重化、方形化の流れは新石器時代以降の中国の例で説明することが可能である。
日本の環濠の祖形は新石器時代の中国に求めることができるが、その典型として陝西省に所在する姜寨遺跡、半坡遺跡が挙げられる。(筆者注:姜寨文化は、定住しアワを栽培し豚を飼育していた黄河文明の「仰韶(ぎょうしょう)文化」。前4000年以前から前3000年以後。)
姜寨遺跡は、内と外を隔てる溝はあるものの広場を中心に均質なグループが共存していたことが明らかになっており、日本各地の初期環濠と同様の性格をみることができる。
南方の初期環濠も最初期のものは一条の濠により形成されている。
これに対し、時期が下る江蘇省淹城は濠を三重に巡らす。これは板付遺跡,吉野ヶ里遺跡でみたような集落内の同一共同体内における格差の表れとして捉えてよいだろう。(筆者注:淹城=えんじょうは、西周時代から春秋時代までの中国最古の城とされる。古い城壁は一番高い所が20メーター、幅が25~30メーター、すべて泥で作られた。内城で丸木舟が出土。)
地域性や時期を考慮すると弥生時代の環濠集落と結び付けるには、やや飛躍的ではあろうが、首長権力の伸長および集落の拡大、そしてそれに起因する集落内の格差の表出として同じ流れがあること自体に意味があり、直接、間接の影響以前に同様の防御施設をもつ社会の流れとして捉えてよいだろう。
環濠の方形化に関しても黄河流域を中心に円形プランをもつ環濠は方形の城壁へと変化していくことから、東アジア文化圏内の囲繞施設の展開の流れとしてみる事が可能である。
特に城郭都市形成以前の東下馮遺跡(筆者注:山西省の夏王朝とされる二里頭文化)に方形の平面プランをもつ環濠があり、豪族居館の平面プランと類似しているのは興味深い例である。
ただし、中国における囲繞施設が円形から方形へ以降したのは弥生時代とは時期的に開きがあり、あるいは弥生時代の環濠の方形化も、直接的な要因ではなく、文化の漸進の結果出現したという可能性も少なくない。もっとも韓半島において、これに関する資料が不足しており、直接、間接の影響についてはさらに検討しなければならない」
長く引用したが、私なりにざっくりと総括すると、
須玖遺跡群とそれに近接する比恵・那珂遺跡群は、
池上曽根遺跡、伊勢遺跡よりも高度な計画性が見てとれるが、環濠ではなく溝状遺構が展開していて、街区や道路(拠点間を結ぶ街道を含む)が登場している。
それは、
囲い込まれた一つの拠点に行政拠点性、交易拠点性、信仰拠点性といった様々な拠点性をとり込む方向から、
個別に行政拠点、交易拠点、信仰拠点といった専門拠点を展開してそれらをネットワークする方向への転換に繋がっていく
個別の「都市の発生」段階から、
相互補完的に連携する「都市のネットワーク」による「都市の発展」の段階に移っていく
ということである。
「都市のネットワーク」には、
・交易ネットワーク(信仰ネットワークでもあった)
・支配被支配および同盟の軍事ネットワーク
・都市国家や郡県制などの行政ネットワーク
という側面があり、この順序で生まれてきた三者が一体化した。
そのような一見複雑な「都市のネットワーク」だが、
「交換経済」の体制で捉えれば、その本質は物理的な物流ネットワークであり、
「贈与経済」の体制で捉えれば、その本質は精神的な信仰ネットワークである。
(お互いの信仰がなんらかの形で信頼できる繋がりを持たない限り、双方向の交易は成立せず、成立するのは一方的な侵略や略奪に過ぎない。)
後者の信仰ネットワークは、最終的にヤマト王権が神話のネットワーク、神のネットワークとして物語に再編する。しかしその物語の土台となる文脈は、弥生人と縄文人の同化や非同化、弥生人の渡来民勢力同士の競合という「実際にあったこと」において用意された。
つまりは、
<部族人的な心性>に受容される信仰ネットワークの権威をベースにして、
<社会人的な心性>に認識される物流ネットワークの権力=利権を正当化した、
ということである。
このような日本ならではの諸相を踏まえて、私は、
中国で自然発生的に展開した「円形」から「方形」へという「方形化」は、
新石器時代の展開については日本でも同様に自然発生した同時展開の可能性がある。
しかし、
中国での展開を知識なり体験として見聞きした渡来人が主導した弥生時代の展開については、
多様なルートで渡来した渡来人と渡来先の諸条件によって、中国型を現地化した、
つまりは「方形化」という中国化を日本型で受容した公算が高い
と捉えている。
「くに」や「国」の中枢の行政拠点に向かう「方形化」は、明示知=形式知を総合して比較的に明快な展開をしたのだと思う。
交易拠点や信仰拠点は、最終的にはこの「方形化」をなぞることで、ヤマト王権の権力や権威との結びつきを象徴した。
ところが、それ以前の縄文時代に自然発生した交易拠点や信仰拠点では、基本的に海や河川という交通手段や山や巨石などの崇拝対象に密着し、人工的=幾何学的な「形」に囚われずむしろそういう「形」をもった記号は鳥居や注連縄のような最小必要限度のものにとどめる。それにより人々の賑わいや大自然の妙味に関わる身体知=暗黙知を際立たせる「景観性能」が求められたと考える。
「方形化」や「左右対称性」は、まさに中国文化の根底的な<社会人的な心性>の表われである。
しかし、日本文化の根底的な<社会人的な心性>はベースに<部族人的な心性>を温存するものであるから、弥生時代の段階で中国文化をそのままそっくり受容するを良しとしたとは考えにくい。
むしろ逆に、日本社会の黎明期のこの時代にこそ、ベースに<部族人的な心性>を温存する日本型の<社会人的な心性>が民族性の端緒として形成された可能性がある。
その形成は、結果的には渡来民である弥生人と先住民である縄文人の合作と言える。
弥生人がどの時代のどの地域のどの階層の中国文化が相応しいかを選別して導入し、
縄文人がそれを日本の風土や資源や自分たちが培ってきた技術を活かす形に変容した。
そのような民族状況が、集落づくりや都市づくりから、土器や青銅器などの製品づくりにまで一貫したのではなかろうか。
もし日本を「モノづくり大国」と言うのであれば、その発端の「モノづくり」はそういう民族状況として発生したと言える。
そして、日本列島における「都市性」というものも「都市のネットワーク」を前提に「日本型」で現象していったのだろう。
このような観点に立って、次項(6)からまた本論シリーズの題材である伊藤道治著「中国社会の成立」に戻り、「第2章 王と神々 1殷文化とは何か」を検討していきたい。
中国の都市国家の成立のヤマト王権の成立との相違から、ヤマト王権は何を受容し何を受容しなかったか、それはどのような思惑によるのか、持ち前の何を大切にした結果だったのか、ということを探っていきたい。
「社会の成立過程を中国と日本と繋げて考える(6)」
http://cds190.exblog.jp/23010408/
につづく。