古いノマドだとお思いでしょうが、古い奴ほど・・・ |
スタバで仕事するノマドの長居をマナー的に問題視したり、
店がWi-Fi環境提供して客を呼んでいるのだからそれはないだろと反論したり、
客同士がネット上で議論している。
私はすぐに違和感をおぼえたのだが、何に違和感をおぼえたのか分からなかった。
それがやっと分かった。
そういう議論が行われている「現代ノマド事情」そのものに違和感を覚えたのだ。
ノマドなんて言葉がない時から、私は四ッ谷のジャズブースで仕事や授業をさぼって読書や居眠りやただぼや〜とする社会人や学生の客にまじってノートPC持参で仕事していた。客の少ない昼の店内では、大きなテーブルを占有して資料を広げることもできた。
快適な天候の時は明治神宮の宝物殿前の芝生で寝転がって想を練ったものだ。
事務所があるのにわざわざ他で仕事するのは、その方がいい発想が浮かんだり集中しすぎないためだ。
だからわざわざ料理が出てくる時間のかかる鰻屋に行き鰻の待ち時間に鰻を餌に仕事するなんてこともした。
代々木から伊豆にひっこす50歳くらいまでの都心での習慣だった。
私の「現代ノマド事情」への違和感は、主にノマド側に対するものだ。
なぜスタバとかMacとかが重要ファクターになっているのか分からないが、何よりも、なぜ白い目で見られるような所で反論してまでノマドしようとするのか、が分からない。
ノマドとは遊牧民のことだから、自分を放し飼いにする、みたいな飄々としたニュアンスが基本だと思う。
カッコにこだわる人情は私も共有しているが、そうした何事にも何処にもとらわれない飄々としたニュアンスがカッコ良さの基本だと思う。
縄張りを主張して騒ぐ猫が来るならば、それをもっと快適な居場所を自分の嗅覚で探り当てる野良猫のようにさらりとかわすのが、本来ノマドではないのだろうか。
私のような臨機応変に場所を移った者からすると、一カ所で長居するノマドというのは、まるで図書館で受験勉強をする受験生のように見える。つまり本質的には縄張りやお上の管理を前提とした定住社会の定住民でしかないように感じてしまう。
移動社会の移動民、転住社会の転住民、東京都心には国内外から多様な人々がやってきて暮らしている。そんな時空で「スタバ〜ノマド論争」はあまりにガラパゴスではなかろうか。