母語が民族の発想思考を特徴づけるとはどういうことか(1) |
母語の「底力」をもつ「日常語」で思うということ
長谷川氏はその著「日本語の哲学へ」の第一章「日本語と哲学」で、和辻哲郎が「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ」と言った経緯を解説しつつ、<存在の学>と<言葉の学>との重なり合いについて検討を進める。
それについての西洋哲学における無自覚や不問を指摘してアリストテレスやプラトンにまで遡る。そしてアリストテレスよりもプラトンがその重なり合いを自覚していたとして対話篇『ソフィステース』の登場人物に言わせている台詞を引用する。
「・・・君たちが『存在する』という言葉を使うとき、いったい君たちが何を意味するつもりなのか、それを君たちがとうの昔から熟知しているのは明らかなことだからだ。
だがわれわれは、以前にはそれをわかっていると信じていたのに、いまでは困惑におちいっているのだ」
要は私たちは、何をもって「存在する」と言うのか、ということについて、知っているようで知っていない、ということだ。
具体的には、何かをもって「存在する」と言っているとして、それは言葉遣いの結果から明らかであるが、なぜそのような何かをもって「存在する」とするようになったのか、については言葉が育まれる過程なりその背景に探るしかない、ということだと思う。
著者はこれを「わかり」の形、「わかること」の実現、と言っている。
「わかり」「わかること」は、文字通り分けることであり、人類は「分け方」を人類全体で共有したり、民族で他民族とは異なる形で共有してきている。
そして、この「わかり」「わかること」が共有されていることが前提としてあって、人類全体ないしは民族全体で意思疎通ができている。
著者は、私たち日本人が、ギリシャ人がもった困惑は、たとえギリシャ語で『ソフィステース』を読んでも分からない、という。
何をもって「存在する」とするようになったか、その「わかり」「わかること」にそって、言葉が育まれた以上、その言葉にまつわる困惑は、それを母語とする者にしか実感できない。
日本人の場合は、日本語を母語とする者ゆえに実感する困惑がある訳である。
たとえば、印洋語の困惑の焦点はbe動詞isである。isが省かれては、英語話者の耳には不自然に響く(文法学者ならば『非文法的』と言う)。そしてbe動詞の意味は「存在する」なのに、A is BでA=Bを意味するが、そのどこに存在が関わっているのだろう、と著者は例示する。
それが印洋語の困惑の焦点だが、それは明らかに日本人が日本語について抱く困惑の焦点とは違う。
AはBです、で、A=B を意味してスッキリしている。
しかし、日本語の場合、AはBである と言い、AがBである とも言う。
は、が、を省いて A B と言って通じる時もあるが、それを繰り返せば日本人の耳には不自然に響く。
日本語の困惑の焦点は ある ではないのは明らかで、は、が はどのように違いどうしてそのような違いにこだわるようになったのか、にある。私たちは、深く研究しない一般人の場合、だってそうなんだもん、としか言いようがない。
(Aを彼、Bを山田、とするとA=Bを表す日本語は、彼は山田である と 彼が山田である の二通りある。山田以外に鈴木や田中などの名字を持つ者がいる中=広い世間で、彼は山田である、という前者。彼以外の彼女を含む彼らがいる中=狭い世間で、彼が山田である、という後者。この両者は暗黙裏に対照的な世間の捉えを前提している。それを、は、が というてにをはだけで表現してしまっている。)
著者は和辻氏の講演草稿のメモの冒頭を紹介している。
「言語(二重傍線)は夫夫の民族に特有なる体験を、即ちその民族の歴史的体験を荷ふ集団的体験を表現(傍線)したもの、と云はれる。
それは精神生活に於ける無意(ママ)的無反応的な所産である。
しかしこの無反省的な状態に於ても、この『体験を表現する』といふことには、既に反省以前(傍線)の人間の自己理解(傍線)が含まれていゐる。
云ひかへれば人間は、反省的におのれを認識する以前に、ただ(旧)日常的に生活するその存在に於いてその存在を理解するといふ仕方に於て存在しているのである。(中略)
この存在が本来、『世の中にあるもの』『歴史的なるもの』としての性格を有すること、かか(旧)るものとしての自己理解が言語となって現はれるのであることを認めておきたい」
著者はこう解説する。
「このメモに傍線まで引いて記されている『反省以前(傍線)の人間の自己理解(傍線)』という言葉は、間違いなく、ハイデッガーの『存在と時間』における哲学的方法のことを語っている。(中略)
人はみな、なんらかのかたちで自分が存在していることについての無意識の理解をもっている-----そういう『反省以前の人間の自己理解』を通じて『存在の意味への問い』を仕上げてゆこうというのが『存在と時間』なのである」
さらにこう和辻を引用する。
「言語において於て表現せられたる意味を反省的に純化することによって、vorontologisch[前存在論的]な人間の自己理解を概念的な知識に高め得る筈である」
著者はこう述べる。
「ちょうどプラトンが『ソフィステース』において『存在する』という言葉に躓いてみせたようにして、自らの言語に躓き、その言語のうちにある『わかり』------人が自らはわかっているとも知らずに共有している『わかり』-----の形を明らめることこそが『哲学』の仕事なのだ、と氏(和辻氏)は語っているのである。
和辻はこの哲学の仕事について「日本は如何」と問うた。
その答えを著者はこう解説する。
「これに対する(筆者注:和辻氏の)さしあたっての答えは、
『日本に於ては、学問は日本語を以てはなされなかった』
という答えである。(中略)
ごく古くから、日本人は中国から輸入した漢字と漢語を日本語のうちに取り込み、消化し、日本語として使いこなしてきた。そして、それらの『漢語』を駆使して、仏教にせよ儒学にせよ、外来の学問を、かたちの上では日本語で行いえたのである。
そしてまた、幕末から輸入された、さまざまな西洋の学問も、そうした『漢語』を自在に用いて、いわゆる『翻訳語』を大量にこしらえ上げることによって、日本語で学ぶことが可能となった。
他の多くのアジア諸国のように、西洋語を用いなければ全く学問が学べない、という状況におちいらずにすんだのは、この『翻訳語』のおかげだったと言っても言い過ぎではない。
しかし、それらのことをすべて認めた上で、和辻氏は敢えて『学問は日本語を以てはなされなかった』と言う。
ここに氏が言おうとしているのは、そうした『学問的用語』と『日常語』が切りはなされており、『日常語は大体として取り残されてゐる』ということなのである。
和辻氏はそういう状況をさして、
そのような『学問的用語』は『根をきり離してゐる』言葉であり、日常語のように『Tiefe[深奥]から出る根の上に立つ』『底力』を欠いている、
と評する。
そして、
そういう『底力』のない学問的用語によって哲学が学ばれるときには、たしかに正確な学問の受容は行われるであろうが、それは『その外国語自身の持ってゐる発展の力を含んでゐないと共に、又それ自身に発展する力を持っては居ぬ』と氏は言うのである」
つまり、母語の「底力」とは、正確には日本語のそれではなく、日本語の「日常語」のそれなのである。
そして、日本語の「日常語」の「底力」は、和語がもたらすものであり、かつそれが漢字や漢語そして欧米由来のカタカナ言葉を取り込むダイナミズムにある、と言える。
和辻は、「学問的用語」である哲学用語に背を向けて、日本語の「日常語」で哲学することを実験していく。
「氏はデカルトのあの有名な『コギト・エルゴ・スム』を、ふつうに訳されるときのように『我思惟す、故に我存在す』(あるいは『我思う故に我在り』)ではなしに、『我々の日常語』で、『私が思ふ、だから私がある』と訳してみよう、というのである」
これについて著者は、和辻氏の重大な見落としを指摘している。
それは、
「デカルトのCogito,ergo sum.は日常語であるフランス語のJe pense,conc je suis.のラテン語訳であり、その逆ではない」
ということである。
子細は省くが「いずれにしても、これはまず最初フランス語で語られた言葉なのである」。
そしてそのフランス語は日常語だったのである。
著者はこれを起点とした検討を、第二章「デカルトに挑む」で展開していく。
項を改めて検討したい。
ちなみに私は、人類普遍の話し言葉の4つの基本概念要素の組み立てを分析したり構築する「コンセプト思考術」をブログ上で提唱し企業研修などの講座で解説してきた。
その延長なりフォローとして日本語の検討もしてきたが、これも「日常語」に注目してのことだった。
正しい日本語を大切にしましょうという運動や、和語=大和言葉を尊重しましょうという発想法と同じ類いと誤解されがちなのだが、それらとはまったく違う。
たとえば、女子高生の「日常語」である「チョー」が一般化したことなどに着目し、日本語の擬態語のもつ、情緒性を内包した身体性を表現する特徴がその造語感覚に展開していると指摘してきた。
また、和語を根幹に漢語とカタカナ英語を混交することで戦後の日本語は独自の発想思考を展開してきたし、今後もその高度化が期待されると指摘してきた。
参照:
「私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その6=暗黙知をネットワークする<和漢洋の言葉遣い>」 http://cds190.exblog.jp/11950949/
「発想を個性化する日本語論 キーワード 「和漢洋の使い分け」「述語主義」「女性語」 への添付資料」
http://cds190.exblog.jp/20796344/
「母語が民族の発想思考を特徴づけるとはどういうことか(2)」
http://cds190.exblog.jp/22808517/
につづく。