「バブル期以降のテレビの本質変化」について |
年輩の人は覚えているだろう。
会社や工場や役所の昼休み時間にNHKがお笑い番組を提供していた。
そして週休1日制だった日曜日に、民放が寄席や演芸場中継をそして売れない芸能人参加の「底抜け脱線ゲーム」のようなバラエティを放送した。
日常の労働があって、非日常の余暇が定期的にやってくる、そういう感じだった。
それがバブル期くらいを境に、俺たちひょうきん族くらいから逆転していって、
24時間365日、お笑い芸人と人気タレントのバラエティやゲームをテレビでやるようになった。
私が覚えているのは、正月しか見掛けなかった海老一染之助染太郎が一年中出るようになった年があったことだ。
この変化の本質的な意味はなんだろう。
かつてはテレビの前にお茶の間があった、つまりリアルな世間があった。
今はテレビの中に世間があり、模範的なヴァーチャルな世間を提示している。
かつて、芸人は客の前では話芸をするもので、楽屋話は話芸に入らなかった。
今のお笑い芸人がテレビでしてるのは、話芸はグランプリなど非日常の例外で、日常はすべて楽屋話であり、それにスタジオ参観者を代表とする視聴者は自分も彼らの提示する世間の一員であると思い込みつつ笑っている。
そして、ニュース番組やNHK教養番組の多くをお笑い芸人が媒介しているということは、欧米のように個人が超越者に直接対峙する<社会と個人>ではなく、<複数の世間に帰属しそこでの分際=自分がある>日本の特殊性と無関係ではないのだろう。
前の戦争では、お笑い芸人や人気タレントは戦地の慰問団として余暇の娯楽を提供しに行った。インターネットでオンデマンドの今、そういうことはないだろう。
むしろ戦争になる前段から、模範的なヴァーチャルな世間を提示するテレビ番組のほとんどでお笑い芸人と人気タレントが、世間には何ら問題はないと浮かれていることが、最大の効果をもたらしている。