シンクロニシティ、意味をもつ偶然の一致を求めて(1) |
発想において脳科学の前にあること
発想は無意識的にあるいは直感によって浮かぶ、ということについて、私たちには経験則からの合意があります。
しかし、発想とは何か?についてはいろいろな考え方が乱立しています。
私は、<予め設定された問題と正解があってその上で答えを探す発想>と、パラダイム転換発想のような<問題自体を発見したり正解の用意されていない解決策を洞察する発想>とでは大いに異なると考えます。
<予め設定された問題と正解があってその上で答えを探す発想>は、基本的に脳内の働きだけで完結させることが可能です。なぜならば、問題と正解の作成がそもそも出題者の脳内の働きによっていますから、それ以上の何かを必ずしも必要としない。
一方、<問題自体を発見したり正解の用意されていない解決策を洞察する発想>は、問題発見者ないし問題解決者の人生や生活や仕事に関わり、個々人の性格や人格、熱意や信念などに影響される現実や理想への態度に関わります。無論脳内の働きを通過はするのですが、そこに何をインプットしそこから何をアウトプットするか、という脳内の働きの役立て方、つまりは個人の脳の使い方に左右されます。そして個々人の脳の使い方は、脳の働きに含まれはしますが、つまりは科学的合理主義では分からない「こころの中核部分」に関わります。
この後者の特徴を象徴する代表的な現象が、まさに「シンクロニシティ」、共時性=意味のある偶然の一致に他なりません。
パラダイム転換発想に関わるシンクロニシティには、おおよそ2×2=4つある言えます。まず大きく分けて、
ある人が意味ある偶然の一致から<従来パラダイムの問題性>を発見するケースと、
ある人が意味ある偶然の一致から<新規パラダイムの理想性>を洞察するケースがあります。さらにこれらを
<当の本人>が考えに考え抜いたが何の収穫もないところにふと想い浮かぶといった場合と、
<他の人間>がたまたま問われたり気になって思いつくといった場合があり、
総計4つということです。
発想論やこのシンクロニシティ論、さらには知識創造論においても、往々にして個人や組織が論じられますが、私は自らの経験則や現場観察から、パラダイム転換の発想と実現においては人と人の出会いが決定的な役割を果たすと考えていることを、最初に申し上げておきましょう。
本書のシンクロニシティ論についても、脳科学やトランスパーソナル心理学と重なる示唆的な内容を検討して行きますが、私は人と人の交流による独創を促すにはどうすればよいか?という視座を保とうと思います。
「意味のある偶然の一致」というと大袈裟ですが、ある人にたまたま問うた、ある人がたまたま問われたというのも、「問いが存在した」という出来事と「たまたま自分に問う相手が存在した」ないし「たまたま自分が問う相手が存在した」という出来事との偶然の一致です。
そもそも、出会いがかけがえのない大きな可能性をはらむという「一期一会」の意味合いとはそういうものですし、そのような「一期一会」に至ったことも当の本人のそれまでの出会いの累積の成果である訳です。
私が最初にご指摘したいのは、こうした人との出会いに代表される人的交流に依存する発想活動の全体については、脳科学をはじめとする科学では解明できないという当たり前のことです。
「魂のコード」の解説で触れた「どんぐり論」、その延長にあるだろう「類友の法則」などで説明するしかありません。
脳科学が解明できるのは、人と出会った後に人間同士の発想コミュニケーションがどのように行われるかであり、科学は、それがどのように行われることが創造的なのかを、あくまで科学的合理性にのっとって説明するに過ぎません。トランスパーソナル心理学以前の心理学においても事情は似たようなものです。
考えに考え抜いたが何の収穫もないところにふと想い浮かぶ、その切っ掛けとなる出来事との出会いがある場合があります。
ニュ−トンの前でリンゴが落ちなかったら万有引力の法則は発見されなかったのか?おそらく世紀の天才は他の何かが落ちるのを見て同じひらめきを得たことでしょう。しかし、凡人である私たちの場合、とくに言われてみれば誰もがアハーと納得するようなアイデアの場合、類推を可能とするアナロジーとの偶然の出会いなしにはひらめかなかった発想も多々あるのが現実ではないでしょうか。
私が最初にご指摘したいのは、こうした出来事との出会いに代表される類推想起に依存する発想活動の全体についても、脳科学をはじめとする科学では解明できないというしごく当たり前のことです。
まさに本書「シンクロニシティ」で解説される「共時性論」などで説明するしかありません。
脳科学が解明できるのは、出来事と出会った後に人間同士の発想コミュニケーションがどのように行われるかであり、科学は、それがどのように行われることが創造的なのかを、あくまで科学的合理性にのっとって説明するに過ぎません。トランスパーソナル心理学以前の心理学においても事情は似たようなものです。
そもそも人はなぜ、意識的ないしは無意識的なこだわりのある問いを発し、また問いに答えようとするのでしょうか?
またなぜ人は、意識的ないしは無意識的なこだわりのある問いをそして答えを求めて人や出来事との出会いを求めたり、逆に意識的ないしは無意識的なこだわりのある人や出来事との出会いを求めて何らかの問いを発したり答えを探すのでしょうか?
大ざっぱに言ってしまえば、人間性心理学はそうした欲求を自己実現と呼び、成長動機が自己実現へと向かわせるのだと答えました。
しかしなぜ成長動機があるのかについては、自発性についてと同様、人間にとって自明のこととしたようです。
それに対して、トランスパーソナル心理学は、自己実現に向かうのはさらに自己超越へと向かうためとしました。
それでは、なぜ人は自己超越へと向かうのか?
「魂のコード」の著者は、人間のコントロール下にない「どんぐり」の成長動機によるとしました。トランスパーソナル心理学者の意見はいろいろだと思いますが、人間には分からない自然や宇宙の摂理があるなり、それを想定するという点では一致しているのではないかと思います。
何か無責任な答えのようですが、じつは科学の最先端である量子論も脳科学も、結局は同様の宇宙の原理、自然の摂理としか言いようのない分からない中核領域に達しているのが実情なのです。
本書「シンクロニシティ」の前半は、心理学者ユングと物理学者パウリの出会いに象徴される、こうした最先鋭の現代思潮の動向を分かり易く解説してくれます。
これを読むと、科学的に割り切れないことがあるという事態に私たち現代人は居心地の悪さを感じてしまいがちですが、現実におけるよく分からないことが森羅万象の中核領域にあることのまさに自然、宇宙を受け容れることの大切さを、かなり科学的思考重視の人(ex.テレビに辞表をもって登場する理工学部教授)にも感じ取ることができる筈です。
なぜならアインシュタインやアーサー・ケストラーのような人類最高の知性が尊重する議論なので、科学贔屓の凡人が安易な贔屓の引き倒しをすることはできないからです。
具体的には本書を読んでいただくとして、ここでは、それは神秘の前で思考停止すべしということにではなく、神秘を科学以外の論理で合理的に思考することもじつは可能なのだという思潮に繋がるとだけ述べておきましょう。
さて、本論では本書前半部分から発想ファシリテーションに関わる示唆深い内容を抽出し検討していきたいと思います。
[シンクロニシティ]意味のある同時生起(コインシデンス)、
意味をもつかのようにむすびあわされた偶然のパターン
「この本が主張しようとしているのは、内的世界と外的世界とのあいだに橋をかけることはたしかに可能であり、シンクロニシティ(共時性)こそ、その出発点になりうるということなのです」
「シンクロニシティは、これまでわたしたちが信じこんできた時間と因果関係という概念をこえて、自然がくりひろげる広大なパターン、すべての事物をむすびつける秘められたダンス、内的宇宙と外的宇宙のあいだに宙づりになった鏡を、かいまみせてくれる」
「シンクロニシティは、一方の基礎をハード・サイエンスの客観性にしっかりとうちこみ、もう一方を個人的な価値の主観性におく、そんな橋をかけてみたまえと、わたしたちにいどんでいるのです」
冒頭、著者は以上のように本の主旨を述べた上で、着実な手順を踏んで説明していきます。
私は、なるべくその主旨を簡明に解説する努力をしてみようと思います。
まず、「内的世界と外的世界」の概念ですが、これは「主観的な精神世界と客観的な物質世界」と位置づけられ、ただし両者が明らかな境界で隔てられるものではないという結論に向かうものです。
著者は、まずその両者ともに、「因果関係」つまり原因と結果の観念によって捉えられてきたことを指摘してそれを注意深く批判します。
「線的な因果関係の連鎖とは、習慣と、信念と、常識の、混合物にすぎない(中略)
この常識とは、以下のように、おおくの仮定にたったものです。
*ふたつのできごとが、おたがいから明確に分離されており、
それ自身の独立した存在をもつこと。たとえば、あきらかな
境界をもつ、ふたつの物体のように。
*なんらかの接触、力、影響が、ひとつの物体もしくはでき
ごとから、他のひとつへとながれつたわってゆくこと。
*原因が過去にあり結果が現在におこるという、あきらかな
時間の流れが存在すること。」
しかし、以上のような仮定が森羅万象のすべての現実において成立している、とは言えないのです。
最も象徴的かつ決定的なのは量子論的な現実です。ニュートン力学は、あらゆる現象がひとにぎりの物理法則によって説明可能になるとし、最小の基礎的単位の物理法則にのっとった確実性に基づいた運動を基盤とする筈だと考えました。しかし、量子力学は、以下のような結論に達します。
「あらゆる素粒子とエネルギー量子は、それがおどるダンスのタイプによって、ふたつのグループに分類することができる。電子、陽子、中性子およびニュートリノは、それ以外にもいくつかの素粒子とともにひとつのグループをつくり(これらは非対称なダンスをおどります 筆者注=不確実性に基づいた運動)、他方には中間子や光子をふくむもうひとつのグループがある(そしてこちらは対称的なダンスをかたちづくる 筆者注=確実性に基づいた運動)」
つまり、最小の基礎的単位のうち半分は確実性に基づく運動をし、半分は不確実性に基づく運動をしている。そして、
「前者(筆者注=不確実性に基づいた運動をする方)の場合、この抽象的な運動すなわちダンスの性質は、おなじエネルギーをもつ素粒子を、つねにおたがいからはなしておくという効果をもたらす。とはいえ、おたがいのエネルギー空間からこうした素粒子のしめだし(排他)は、それらのあいだにはたらくいかなる力の結果でもないし、通常の意味での因果関係にしたがうふるまいでもない。むしろそれはひとつの全体(ホール)としてみられた素粒子群の、抽象的運動の非対称性から生じているのです。このため全体のダンスの背後にあるパターンが、個々の素粒子のふるまいにたいして、ふかい影響力をもつことになる。
たとえば、ある原子中の電子たちを一連のエネルギー・レベルにつみかさねてゆき、そうすることでその原子を他の原子から化学的に区別することができるようにしているのは、この排他原理です。このパウリの原理こそ、自然界にみられるゆたかな化学組織を生じさせているものなのであり、それがなければ宇宙全体は、どうにものっぺらぼうにみえるものとなっていたことでしょう」
対称性、という言葉は難しいようですが、線対称が線を媒介に反転させれば重なり、点対称が点を媒介に回転させれば重なるように、時間軸においても同じ原因に対して同じ結果が反復して重なるという性質を表現しているだけで、予想し再現しうる確実性と言い換えていいと思います。
科学は、結局、因果関係を仮説し実験により再現して証明するもので、基本的には確実性をめぐる体系です。そして現実の不確実な現象をも確率や大数の法則によって確実性や決定論に取り込んでいく訳です。しかし、科学の限界は、ある現象のHOWを説明できたとして果たしてなぜそうなのか、つまりWHYという問いが残ることです。つまり、究極的な必然を発見したり証明しようとしても、最後まで偶然そうなっているとしか言えない。科学は因果関係を問うが意味は問わない。
しかし後で触れますが、このことはシンクロニシティを単なる偶然と区別しようとする際にも、ぶちあたる問題でもあります。
ここで私たちが再確認しておくべきことは、科学が説明する機械論的合理性は、現実そのものではなく、あくまで「そのように機械論的に説明できる」ということであり、「そのように機械論的に説明できること」がそのままの現実であると考えることは、明らかに短絡であり誤りであるということです。
「まさにヒュームがいうように、『わたしたちがもっている原因と結果の観念は、これまでいつも結合してきたある種の対象についてのそれであるにすぎない・・・。わたしたちには、その結合の理由そのものをうかがいしることはできない』のです」
以上、「外的世界」=「客観的な物質世界」の話を、その基礎的単位においてしてきました。
それを有名な話で締めくくりましょう。
全体(ホール)の中であるパターンを形づくるダンスをおどる基礎的単位は、一つの原子や物質の中だけの現象にとどまりません。
「ニールス・ボーアは、量子論が自然の本質的な分割不可能性をあきらかにした点を強調し、一方でハイゼンベルグの不確定性原理は、観測者自身が、いま観察しつつあるシステムにいかに影響をおよぼしてしまうかをしめしたのでした」
「ボーアとハイゼンベルグのいうこの参与的宇宙、空間と時間の相対性、ものごとのこの相互連結性は、ニュートン力学の世界観とはきわめてことなった世界観を、うかびあがらせます」
つまり、ガラスの実験箱の外側にいる私たちが内側の物質と、ある基礎的単位レベルの非対称な運動において影響しあってしまう、ということですが、これが私たちが物理的と言っている現象に限られるとは言い切れません。私たちが精神的と言っている現象にも、究極的には基礎的単位レベルの非対称な運動が予測されるからです。そして、全体としての一つの有機体、ガイアとしての地球そして宇宙までもが、ある基礎的単位レベルの非対称な運動のパターンを形成しているのかも知れません。
さて次に、「内的世界」=「主観的な物質世界」の話に話題を展開しましょう。
本書は、前出の物理学者パウリと心理学者ユングとの出会いを、この本の主旨にのっとって解説しています。
本論では、非因果的な論理を解説する文脈で両者のやりとりに触れていきます。
「因果律という概念は、あきらかに、心的なできごとの世界にはふさわしくありません。わたしたちのふるまいのうち、原始的ないくつか(筆者注=マズローの言う欠乏動機による欲求など)はたしかに因果律によって『条件づけられている』のかもしれません。
ところが<思考>についてかんがえてみるなら、それは区分された個別のものではなく、さまざまな思考どうしがおたがいをつつみあいまじりあっているようにみえるところは、むしろあきらかに、(筆者注:比喩としてビリヤードのボールではなく)煙の輪にちかいでしょう。ときには『思考の流れ』(トレイン・オブ・ソート)、つまり時間内での線的な進行を含意するような連続性が存在するとしても(筆者注=人に説明したり自分で学ぶ際の起承転結や因果関係)、この『流れ』(筆者注=流れ自体、人と人の交流や人が遭遇する出来事など)は、一連の因果的な鎖をかたちづくりはしない。なぜなら、ある思考をひきおこすメカニズムは、別のある思考をひきおこすメカニズムとは、たいへんことなったものかもしれないからです。
いくつかの思考は、連想によってつぎつぎにながれてゆく。ところが別のいくつかは、ひとつの共通の基底(筆者注:たとえば集合的無意識)からあらわれるものであったり、さらにはおたがいにまったく関係がないようにもみえたりする。つまり、心理的な時間とは、ビリヤード場の時計がしめす時間とは、ふかくことなったものなのです」
「一般的にいって、わたしたちの内的な世界は、因果律がその基礎をおく三つの基準を、みたしてはいないわけです。
*できごとは、おたがいに明確に区別されてもいなければ、
それぞれが独立してもいない。
*ひとつのできごとから別のひとつのできごとへの、
あきらかな影響の流れは、存在しない。
*時間は線的ではなく、明確でもない」
さて、シンクロニシティは、「ものとこころのあいだを結ぶ橋の役割を果たす」訳ですが、それは因果律のほころびから漏れた「外的世界=客観的な物質世界」と、そもそも因果律に束縛されない「内的世界=主観的な精神世界」が共鳴するということです。
言うまでもないことですが、意味のある偶然かどうかに関わらず、人との出会いとか出来事との出会いは、物理現象でもある訳です。それが意味という精神現象を伴って起こるところにシンクロニシティの妙味があり、それを「ものとこころのあいだを結ぶ橋の役割を果たす」と言える訳です。
じつは、ここに最新の注意を払うべき大切な核心があります。
「そこで、シンクロニシティを単なる偶然とほんとうに区別するのは、そこに内在する意味だという視点を強調する、カール・ユングの登場となるのです」
ユング単独の話は、フロイトが因果論、機械論であるのに対して、彼が意味論、宇宙論を展開したと解釈すれば分かりやすいと思います。
「ユングは、無意識にはかくされた創造的な役割があり、ただ単に性的な衝動によってうごかされているわけではない、とかんがえました」
「のちになって彼が集合的無意識、あるいは客観的無意識とよぶようになる領域です。やがてそれは全人類に共通のものだと、ユングがしめすことになるこの領域において、彼はたくさんの象徴を発見し、それをマンダラと名づけ、またたくさんの自律性をもった人格を発見しました」
といった神話的思考につながる話です。
一方、物理学者パウリの排他原理には、シンクロニシティに繋がるような意味をどのように見出せばいいのでしょうか?
本書では、カマラーの系列性(やはり非因果的連続の影響力のもとにおこる、各要素が空間・時間内で規則的に再現されたり連続したりすること)の概念が、確率論に還元されてしまう単なる偶然と区別されて、シンクロニシティと言えるためには意味をもつことが必要だとして、ユングを登場させています。
著者は、排他原理が原子を化学組織として成り立たせることをもって、意味をもつとしているのでしょうか?私には、著者がはっきりとそういう言い回しをしていないことが気になります。
たとえば有機体の現象についての意味は、進化の過程で必要だった有効だったと説明できることが意味をもつとされます。では、原子や素粒子、星や宇宙の現象についての意味は、何をどう説明できることで意味をもつとされるのでしょうか?ここには深い哲学的な考察が必要のようです。
そのような疑問を抱きながら、ユングとパウリの思考の交流を顧みましょう。
著者はこのように整理します。
「これ(パウリの排他原理)はシンクロニシティの一般的概念と、興味ぶかくひびきあっています。わたしたちがこの本でのべようとしているところでは、シンクロニシティは、自然界のできごとときいてわたしたちがふつう連想するような、さまざまな力の因果関係をつうじてではなく、宇宙の底によこたわるさまざまなパターンから生じるものです。そのせいでユングはシンクロニシティのことを『非因果的連結原理』とよんだのでした。ところが非因果的連結とは、まさにパウリが彼の排他原理によって提唱しようとしていたことにほかならないのです」
「(ユングによって)シンクロニシティはつぎのように、さまざまにいいあらわされています。
*『因果的には無関係でありながら、おなじ、あるいは
似かよった意味をもっている、ふたつあるいはそれ以上の
できごとの、時間的な一致』
*『創造的行為』
*『非因果的な、複数の事件の平行的生起(パラレリズム)』
彼はまた、つぎのようにもかいています。
*『事件の意味のある同時生起は、まったくの偶然だとは
かんがえられない-------。
それらがふえ、また対応関係がよりおおきく、より厳密に
なればなるほど-------。それらはもはやまったくの偶然だ
とみなされることはできず、けれどもそれには因果的な
説明がおよばない以上、意味のある組み合わせだ、とでも
しておくしかないのだ』」
ユングは、シンクロニシティをめぐる彼の直観を、現代物理学の枠組みに統合しようと試みて、次のような概念ポートフォリオを考案しました。
因果律
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時間ーーーーーー+ーーーーーー空間
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シンクロニシティ
因果律の時間、因果律の空間、シンクロニシティの時間、シンクロニシティの空間で自然が構成されるというのは、科学的時空と神話的時空の対峙(上下)として分かりすいのですが、時間と空間についての考え方が現代物理学には馴染まなかったようです。
これに対してパウリは、次のような概念ポートフォリオを提案しました。
影響関係によるコンスタントな直結
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時空連続体ーーーーーー+ーーーーーー破壊できないエネルギー
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接触、等価性あるいは「意味」によるコンスタントではない連結
「自然という概念にこのように『意味』という価値を導入することによって、パウリは、物理学の客観的思考態度(結果によるコンスタントな連結 筆者注→機械論や決定論に通じる)が、より主観的な諸価値(接触、等価性、意味による連結 筆者注→生態論や可能論に通じる)と、統合されるような道を示唆したのです。
この意味という概念の全体こそ、あきらかにシンクロニシティの本質にとっての重要な手がかりであり、それはカマラーのいう系列性をはっきりこえた、あたらしい一歩をしるすものでした」
この概念ポートフォリオで、科学的時空と神話的時空の対峙(上下)に加えて、両者の類似性を、外的世界=客観的な物質世界と内的世界=主観的な精神世界の対峙(左右)として捉えることが可能になりました。