「日本人らしさ」の起源と「移動民〜転住民〜定住民」(3:後半) |
https://cds190.exblog.jp/27357770/
からつづく。
武智氏は、南シベリアや天山の北から日本海を横断して本州へ到達した渡来民の可能性について、以下のような主旨の解説をしている。
日本海は内海であるから、いまのウラジオ・敦賀航路のような日本海横断の最短距離を渡ることは、民族移動という遥か異郷の地への転住を繰り返した民にとって恐れることでも不可能なことでもなかった。
天山の北に住む原住民、後に高車(こうしゃ)・丁零(ていれい)、鉄勒(てつろく)、突厥(とっけつ)などをつくり上げる古代トルコ系遊牧民族なら、天山北路の東端から、さらに海を渡ってその一部が、古代日本に侵入した可能性が想定されうる。
丁零、鉄勒、突厥は、いずれもテュルクの宛字である。
ちなみに、このフン族が今のフィンランド人の祖先と言われている。
匈奴の民族移動性は著しいが、それに同行して鉄生産を受け持った「テュルク族」も民族移動性に富んでいた訳で、鉄の原料を採掘できる山や川などを探り当てる能力も当然合わせもっていたと考えられる。
武智氏はこう続ける。
テュルク(鉄勒)は天山の北、バイカル湖の南の原住民で、天山には豊富な鉄鉱があり、製鉄技術を西方から伝承して、匈奴や柔然の鉄生産専従者となった。
2世紀ごろから居住地が乾燥しはじめ、民族移動が活発になる。
元来が遊牧民なので、それ以前に、気候風土のよい地域を求めての移動ももちろん考えられる。
広大な天山の北から南シベリアにかけて住んでいた民族であるから、その地理的分布もきわめて広汎である。
アジアにおける古代の鉄生産は、おおむねテュルクに帰属し、朝鮮で製鉄が一般化したのは2世紀ごろとされる。
辰韓の鉄採集に、倭人が強制労働させられたと『韓伝』の記事にあるのは、主に中国への鉄鉱輸出のためのものであった。もっとも、中国人千五百人が辰韓に捕えられ、伐木の強制労働をさせられたのを、楽浪大守が救う話(紀元20年ごろ)もあるから、このころから冶金(鉱石から金属を精製したり、それから合金を作ったりする技術)は少しは行われていたのであろう。当時、製鉄の燃料は、主として木炭であったので、伐木奴隷の必要があったのだった。
最初に断っておきたいことがある。
私は、
武智氏の「邪馬台国=テュルク系騎馬民族」説に賛同し、
日本へ製鉄の技術が渡来したのは、いったいいつごろだったであろう?
そのいちばん古い登り竃は石川県加賀市豊町にあるヒョウタン池二号炉で、(中略)およそBC400年±100年ということになる。(筆者注:従来編年の)縄文晩期終末か弥生初期には、すでにこの地方で製鉄が行われていたことになる。
木炭(精錬用燃料)を鉄器で切断しているほどであるから(筆者注:その炭素により年代を確定)、それほど鉄を貴重品と考えない部族であった証拠で、天平時代でさえ鉄器が貴重品扱いされていた事実と比べて、テュルク族以外にこの年代にそのような鉄の刃物を惜しみなく使用できる民族を想像することは困難である。
この時代の鉄遺跡は、ほかに、
福井県金津町細呂木(ほそろぎ)駅製鉄跡Ⅰ (中略)BC550~370
同 Ⅱ (中略)BC380~180
などがあげられる。
これも登り竃状の冶金設備で、いずれも豊町とほぼ同一年代に属する。
ここからは鉄滓が出土しているが、その珪酸度の高さから、後世(中世)のタタラ遺跡などよりも、精錬設備が高度だった(砂鉄による銑鉄=ずく生産ではなかった)との指摘もある。
金津町(福井県)と豊町(石川県)とは、県は二県にまたがっているが、牛ノ谷峠を中にはさんで、わずか十数キロの距離しかない。
この(筆者注:従来編年の)縄文末〜弥生初期と推定される時期に、この地にテュクル人が高度の製鉄文化を担って定住したことは、ほぼ間違いのないことと思える。
この地域から南、九頭竜川の支流日野川の右岸沿いに、20キロを距てて福井市、さらに15キロで鯖江市、それから30キロで敦賀市に達する。
(中略)
約百年余りをついやして、この地にテュルク王国の基礎を築いたであろうことは、容易に想像される。
思えば、テュルクの音はツルガ(敦賀)とまったく相似しているではないか。
また、テュルク族の王は可汗(カカン)、王妃は可賀敦(カガトン)と呼ばれる。この可汗は加賀の国(石川県)の語源をなすものではないだろうか。
一方、私の見解では、
この経過については私は武智氏の見解を踏まえている。
武智氏は、
「邪馬台国」は「邪馬壹国(さばいこく)」であり福井県の「鯖江」に由来する
とする。
武智氏はこう仮説する。
二百年に及ぶか(筆者注:私の見解では百年足らず)と思える加賀(石川県)や越前地方のテュルク王国建設の道程で、しだいに定着化して、先住倭人(筆者注:縄文人のこと)の採集農業の中へ溶けこんでいった彼らは、鉄文化の威力を大きい背景として、内陸方面に首都を建設する段階にまで進んでいった。
その条件にぴったりの土地に建てられた都が、鯖江(福井県)ではなかったろうか。
この地方の古名は「越(コシ)」である。『古事記』には有名な「高志之八俣遠呂智(コシノヤマタノオロチ)」の記載があるが、この「高志(コシ)」は「越(コシ)」(後に越前=福井県、越中=富山県、越後=新潟県に分かれる)の国のことだというのが定説になっている。
コシ(kush)というのはアイヌ語で「渡る」の意で、海を渡ってきた人たちの国の意味だともいう。いかにも、テュルク族も海を渡って来た人であるに違いない。
八俣遠呂智のように、出雲までも侵略しようとたくらんでいたのであろう。
一方、この点でも私の見解は武智氏とは異なる。
まず、鉄の伝来については、
①鉄の使用 =舶来の鉄器を使えば始まる
②鉄の加工 =冶金された鉄素材を輸入して加工すれば始まる
③製鉄 =国内で原料の採取からして始まる
の3つに分けて考える必要がある。
①鉄の使用
発見されている最古の鉄器は、(従来編年の縄文時代晩期つまり)紀元前4〜3世紀のもので、後に伊都国となる福岡県糸島郡から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部である。
一方、(従来編年の弥生時代前期後半つまり)紀元前3世紀後半の綾羅木遺跡でも、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されている。
この頃は武器、農具ともに石器が主体で鉄器は貴重品だった。北九州では鉄器は朝鮮からの輸入に頼っていた。
最古の使用鉄器は、輸入というような交易ではなくて、戦国時代(BC403年〜BC221年)に戦乱を逃れた渡来民が稲作とともに持ち込んだ。それは、稲作民や鉄生産民を入植させるという高度人材の交易だったとも言えよう。
持ち込まれた稲作については、渡来した時代と出身地、途中の転住経路、そして最終的に定住した日本列島の地域によって、稲作を含む「網羅型農耕」か稲作重視の「選別型農耕」か、自給自足目的か商品米量産目的かの違いがあり、灌漑づくりの有無、それに関わる鉄器使用の有無や使用鉄器の違いもあった。
(従来編年の弥生時代中期中頃つまり)紀元前後、綾羅木が栄えはじめて伊都や一大と対峙した頃になると鉄器は急速に普及する。それにより稲作の生産性が上がり、大土木工事で低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に「くに」が萌芽していく。
後漢の班固(AD32〜92)の撰になる「前漢書」に「それ楽浪海中に<倭人>あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」とある。つまり、<倭人>が楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流をしていたことが分かる。この<倭人>は楽浪郡の外臣化してその出先機関として「くに」を建てた「安曇氏」でのことであって、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点としてきた縄文人交易民の「倭人」のことではない。
「安曇氏」による楽浪郡や帯方郡との交流が盛んになるとともに、朝鮮半島から北部九州への鉄器の輸入はより活発になった。しかし、鉄器の日本列島への流入はそれに限らなかった。一般的に、鉄器が北部九州から全国各地に伝播したように言われるが、それは「安曇氏」の勢力圏であった瀬戸内地方から環大阪湾(浪速潟)地方にかけてであり、それ以外にも鉄器の流入の経路と伝播の分布があった。
(従来編年の弥生時代中期中葉から後半つまり)1世紀にかけては、北部九州で鉄器が普及する一方で石器が消滅した。
ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的には鉄器への転換を終えたのは(従来編年の弥生時代後期後半つまり)3世紀とされる。
『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、濊、倭みな従ってこれを取る(=採掘していたの意)。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とある。
②鉄の加工
ここで、鉄の加工とは、冶金された鉄素材を輸入して加工すれば始まる鍛治加工のことである。
鉄器の製作を示す弥生時代の鍛治工房は十数カ所発見されている。
鉄の加工は(従来編年の弥生時代中期つまり)紀元前後に始まったとされてきたが、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛治道具がすべてそろった遺跡はないという。しかしそれは、稀少な鉄器製造民が鍛治加工を移動なり転住なりを繰り返して仮設的な工房で行ったことを示しているのではなかろうか。
(ちなみに、
③製鉄
すでに触れたように弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないために、一般的には、弥生時代には製鉄は無かったというのが定説になっている。
ただ、弥生時代に製鉄はあったとする意見も根強い。
ちなみに弥生時代に製鉄があったとする意見の理由は以下である。
1)弥生時代中期以降に石器は急速に姿を消し、鉄器が全国に普及する
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。
4)(従来編年の弥生時代後期つまり)2〜3世紀には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。
技術の観点からすると、後世の刀剣づくりを前提としたたたら製鉄のような大掛かりなものではない。
人材と生産設備の観点からすると、製鉄の伝来当初は「テュルク族」のような渡来鉄生産専従民が担い、時代が下るに従い工房が常設化・大型化して専門性が高まり定住民化したと考えられる。
炉の遺構を残しているのはもっぱら前者だが、遺構を残さない仮設的な後者も多様に存在して各地を回遊した可能性は否定できない。
そもそも匈奴に同行した鉄生産専従民だった「テュルク族」において、渡来後、母集団から離脱して独自に新たな鉄資源採掘地を求めて転住する者が最終的に各地の「くに」ぐに樹立を導いた訳だから、遺構を残さない仮設的な炉を前提とした後者がいた可能性は大きい。
武智氏の
以下の図は、中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布と使用鉄原料を示したものである。
「テュルク族」が使ったのも岩鉄であって、砂鉄ではなかった。
これに対して山陰側その他は、ほとんど砂鉄を使っている。
この分布は鉄鉱石と砂鉄の産地の分布でもあるが、そもそもは利用したい鉄資源を求めた渡来民がその産地に転住し定住したということを示している。
山陰側は、島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築した同盟「出雲族」と交易関係にある産鉄拠点
山陽側は、琵琶湖周辺(下掲図参照)を含めて「テュルク族」が建てて行った「くに」ぐに(連合政府「邪馬台国」と「吉備国」を含む)の産鉄拠点
岩鉄使用の製鉄遺跡は、「吉備国」に重なるエリア(上掲分布図)と琵琶湖周辺(下掲図参照)に限られている。
武智氏はこう解説していく。
鯖江に本拠を構えたテュルク人は、一部は九頭竜川沿いの平野に定住して、その地方の<倭人>(筆者注:先住民の縄文人のこと)の支配者(王)として、採集農業や狩猟や鉄生産に専念したことであろう。
金沢から金津へかけての砂丘からは、能登半島をふくめて、相当量の砂鉄が採取された。(中略)
しかし、(筆者注:従来編年の)縄文末期から弥生初期にただちに砂鉄精錬に入ることは、技術的にかなり困難だったと思える。(中略)
砂鉄精錬のためにはタタラ(大型フイゴ)技術の導入が必要だった。テュルクが体験した天山北の豊富な鉄鉱石の冶金技術が、砂鉄精錬(銑鉄=ずくの生産)にただちに有効だったとは思えない。
そこでテュルク人の一部は、鉄鉱資源を求めて、移動を開始したに違いない。地理的な関係から最初に彼らの目にとまったのは、近江(滋賀県)北部地方の、マキノ(牧野鉱山・良質の赤鉄鉱を産し、露頭鉱を有した)を中心とした鉱脈だった。(中略)
近江には琵琶湖に自然に沈殿した赤い砂(赤鉄鉱の粉末化したもの)もあったであろうし、北岸だけでなく、南岸からもある程度の鉄分を含んだ石が採取されたことと思う。(中略)
天平時代にも近江は鉄鉱産地だったわけで、福井県に隣接した湖北地方はもとより、南部の大和国境の信楽(滋賀県)にまで鉄の産地は伸びていたものと想像される。
しかし、鉄以上にサバイ族の関心をひいたのは、大和地方の豊かな地味や、北国とは比べものにならない温暖な気候であったことと思う。
「出雲族」は、殷遺民の流浪の商人が朝鮮半島北部東岸に逃れ環日本海交易を始め、その一部が渡海して本州日本海側に渡来した遠隔地交易民を祖とする。
そして、その後も中国の戦乱や動乱を逃れた遠隔地交易民が参入し、最終的に四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」となった。よって正確には、それ以前は「出雲族」の前身諸派と言うべきだ。
(ちなみに、
産鉄地帯を後背地に持った交易拠点である丹後半島を拠点とした遠隔地交易民は、「出雲族」前身諸派の一派だった可能性がある。
しかし「テュルク族」が「くに」ぐにを建てて近畿を中心にした勢力圏に拡大し、それが丹後半島に迫る頃には、独自の朝鮮との交易関係を背景に同盟「出雲族」に参加せず、「出雲族」とも「テュルク族」と交易しかつ「テュルク族」の対外交易を代行した可能性もある。)
当初に渡来した殷遺民の遠隔地交易民は、東北北部日本海側で出土した周初の青銅製刀子をもたらした者と考えられ、その渡来は遅くとも紀元前8世紀ころだろう。
彼らは、鉱物資源を求めて新拠点開拓型の「転住」を繰り返し、自給自足のための食糧調達拠点で雑穀栽培に加えて稲作もする「網羅型農耕」を展開し、縄文人を稲作民化すべく農業振興した。青銅製刀子を模したとされる石刀は、稲作民化した縄文人が用いたと考えられる。
最終的に、オオクニヌシに象徴される同盟「出雲族」の族長が環日本海各地の「交易ビッグマン」たちの盟主となり、島根半島西部の神門水海を環日本海交易ネットワークのハブ拠点として、同盟の共通母性である四隅突出型墳丘墓を巨大化して羅列造営し、繁栄のピークを打った。
それが、いわゆる「国譲り」でヤマト王権の初期勢力(「濊(わい)人」)に日本列島内の交易ネットワークを譲渡した前夜だった。
私個人的には、「国譲り」は、「濊(わい)人」が「テュルク族」を下した「神武東征」の後で、(248年の卑弥呼の死の後の)3世半ばだったと考えている。
「出雲族」は、1000年以上、歴史の荒波を乗り越えて活動したことになる。
どうしてそんな長いタイムスパンをサバイバルすることができたのだろう。
先ず、
「◯◯族」「◯◯氏」という概念が「出雲族」や「安曇氏」の場合、民族や血族で限定されない、独特の志向性を持った遠隔地交易民としての職能を媒介とした族的結合のことである
ということがある。
「出雲族」の場合、主要交易品目の生産地の縄文部族の族長の娘を娶ってまわって、対等な交易相手として縄文人と協働し混淆して広範な交易ネットワークを形成、さらにそこに中国の戦乱や動乱を逃れた遠隔地交易民の参入が繰り返ししあった。
彼らが同盟する以前の前身諸派を含めて「出雲族」として括れるのは、脱国家主義(国家と取引しないという意味ではなく国家の管理下にくだらないという意味)の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者であるという一貫性ゆえである。
当初は、
都市市場が中国にしか無かったから、それを最終消費地とする主要交易産品の原材料を縄文社会に生産させ、加工品を大陸から動員した職人に製造させた。
また、ざっくり言うと、
中国の都市市場の「交換経済」と縄文社会の「贈与経済」を接続して、交換価値の不均等を最大化することで利益を上げた。そうした遠隔の消費地と生産地の媒介者であることが、「出雲族」前身諸派としての遠隔地交易民の共通する志向性であり、それを踏まえた族的結合の内部の役割分担と協働の関係があった。
やがて、
日本列島にも小国群の「くに」ぐにが建ってきて、支配層の威信財や買い回り品、富国強兵のための鉄器などの都市市場が萌芽してくると、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である「出雲族」は、特定の小国群勢力に与せず、富国強兵に資する鉄器を主要交易品目としないで、青銅器の威信財で小国群との交易関係を締結維持しながら、その支配層の買い回り品や薬種合薬などを供給するあくまで平和裡な交易を中立的に全方位で展開した。
整理すると、
「出雲族」が長い年月サバイバルできた主な要因は
◯脱国家主義の「自由貿易」前提で特定勢力だけに与せず、あくまで中立的な全方位の平和交易を一貫したこと
◯「自由貿易」前提のベンチャー型交易者として、交易ビジネスモデルの革新による機会開発、市場環境の変化に応じた商品開発による高付加価値を継続し、交易拠点の占有や固定に拘らずに容易に新拠点開拓型の「転住」を繰り返したこと
◯こうした交易体制を維持発展させるべく、指導者である「交易ビッグマン」を実力主義で選任したこと
(ただし、実力主義の対象は現代のような個人ではなく、一門や一族郎党を率いる者であり、新型交易ビジネスモデルの構想力や環日本海各地の「交易ビッグマン」と交渉しての推進力が問われた。)
◯環日本海各地にも中国の戦乱や動乱を逃れた同じ由来の遠隔地交易民がいて、「交易ビッグマン」同士で協働して中国の都市市場を狙うアッセンブル商品作りを展開し、そうした対外的な交易関係が相互安全保障にも働いたこと
(環日本海各地の「交易ビッグマン」たちはいわば交易運命共同体であり、ある「交易ビッグマン」の本拠地が侵攻された場合、たとえ軍事力が劣勢でも援軍が来るまで持ち堪えれば撃退できた。)
であった。
特に、
渡来当初の段階から同盟「出雲族」が形成されるまで段階では、前身諸派の本拠地は流動的で、市場環境の変化に応じて交易ビジネスモデルを更新しては新拠点開拓型の「転住」を繰り返したが、
以上のような要因を満たしていたので「転住」はリスクがなく
むしろ特定の交易拠点に「定住」し続けることに拘ったり、領域としての交易勢力圏に執着することの方が、ビジネス的リスクや軍事的リスクを大きくした
と考えられる。
最初の「出雲族」の前身一派が東北北部に青銅製刀子を持ち込んだのが西周代(紀元前1045年 – 紀元前771年)の、仮に紀元前8世紀ころとして、
同盟「出雲族」がいわゆる「国譲り」で日本列島内の交易ネットワークを初期ヤマト王権に譲渡して解体し、歴史の表舞台から、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である「出雲族」本流が歴史の表舞台から去ったのが3世紀半ばとして、
その間なんと1000年以上の長さである。
「安曇氏」は、「出雲族」と同じ中国由来の遠隔地交易民だったが、その独特の志向性は対照的だった。
「安曇氏」は、呉の遺臣を祖とし、おそらく軍船で五島列島に逃れて海洋交易民となり、北部九州に渡来、前漢武帝が朝鮮半島の直接経営に乗り出したことに呼応して、楽浪郡の外臣化し出先機関として「くに」を建て、後には後漢帯方郡や魏の外臣化し出先機関として「くに」を展開した。そして、「濊(わい)人」が「テュルク族」を下した「神武東征」の後も、「テュルク族」の同盟者だったにもかかわらず初期ヤマト王権に政商型交易者として重用されている。
つまり、
「安曇氏」は国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者であり、一貫して中国の「領域国家」を後ろ盾とし、さらに統一的な「領域国家」とその「管理貿易」を目指したヤマト王権を後ろ盾とした。
そして、
「安曇氏」はそもそもが「出雲族」のように民間人商人ではなかったから、中国の都市市場を狙う交易ビジネスモデルや高付加価値商品を開発するといったベンチャー的な志向性は欠いた。
北部九州を本拠地として定着するまでの当初は、
縄文社会を「領域国家」の下部構造単位である稲作共同体に再編して、自給自足を越えて商品米の量産をする大規模稲作拠点(稲作特化の「選別型農耕」)を展開し、後ろ盾である中国の「領域国家」に上納する意味合いの朝貢交易をしたと考えられる。
北部九州の拠点が安定化していくに従って、
「安曇氏」は瀬戸内地方そして環大阪湾(浪速潟)地方に向い、石器の原材料の石素材の量産を、生産地の縄文社会を言わば鉱工業共同体に再編して展開した。このような飛地的な生産拠点を排他的「領域」として領有するにおいても、中国の「領域国家」の後ろ盾は有効だったと考えられる。
やがて、
日本列島にも小国群の「くに」ぐにが建ってきて、支配層の威信財や買い回り品や富国強兵のための鉄器などの都市市場が萌芽してくる。「安曇氏」は、北部九州の行政拠点「伊都国」、交易稲作拠点「奴国」、軍事拠点「一大国」を展開した。
「テュルク族」が北陸上陸したのが100年前後で、それが台頭した2世紀半ば以降、
近畿を中心として「くに」ぐにを建てて大和地方に連合政府「邪馬台国」を建てた「テュルク族」とともに排他的な領域を主張する二大勢力となり
山陰地方と瀬戸内地方の東西中央部を占めた「出雲族」の本拠地地方を緩衝地帯として対峙した。
しかし、
「テュルク族」が女王卑弥呼を共立して魏朝貢交易をして「邪馬台国」が冊封国となると、魏の外臣である「安曇氏」そして出先機関であるその「くに」ぐには自動的に同盟関係になった。宇佐の地にあったと思しき「女王国」を中継拠点として魏との交易が展開するが、その交易活動の補佐をすることになった。
「安曇氏」が博多湾地方の本拠地を安定化させたのは、紀元前200年頃(弥生中期後半の須玖式土器の時代)だった。
その前段階として、
「出雲族」の前身一派が博多湾地方を本拠地としていた時代が紀元前300年頃(弥生中期初頭の城之越式土器の時代)があった。
紀元前306年に越が楚に滅ぼされ、「安曇氏」は越遺民の稲作民を上越地方の越に入植させている。「安曇氏」が「出雲族」の北部九州から能登半島に至る勢力圏に大規模稲作拠点を展開できなかったから、その向こうの上越地方を開拓することになったと考える。
私個人的には、
越王勾践の下を辞した范蠡が山東半島の南部に連れて行った、水田稲作の北限を北上させるノウハウを持った稲作民を動員して
上越地方で稲作拠点を開拓した
(山東半島の南の大規模稲作拠点で商品米を量産して、それまで米の生産地の長江流域から消費地の黄河流域への輸送コストを大幅に削減、それにより范蠡が巨富を築いたことを「安曇氏」は知っていた)
と考える。
つまり、紀元前4世紀の初頭、
「安曇氏」は北部九州に渡来したものの、先住民である縄文人交易民の「倭人」や先行した「出雲族」と共生することでサバイバルできていた
「安曇氏」が排他的な領域を領有できるようになるのは、紀元前200年頃(弥生中期後半の須玖式土器の時代)の博多湾地方を待たねばならず、さらにその「くに」ぐにを建てての台頭は紀元前2世紀の初頭、前漢の外臣化して楽浪郡の出先機関となるのを待たねばならなかった
と考える。
「安曇氏」が北部九州で政商型交易者としての交易活動を始めたのが紀元前2世紀の初頭として、
後世の6世紀、磐井の乱のころ、北九州の本拠地を失って全国のアズミに発音の似た地名の交易要衝に分布した「安曇氏」が、ヤマト王権の中央と地方の贄人となって、その活動が律令神道体制が王朝国家体制に移行する平安中期(900年ころ)まで続いたとすれば、
その間なんと1000年以上の長さである。
どうしてそんな長いタイムスパンをサバイバルすることができたのだろう。
先ず、
「◯◯族」「◯◯氏」という概念が「出雲族」や「安曇氏」の場合、民族や血族で限定されない、独特の志向性を持った遠隔地交易民としての職能を媒介とした族的結合のことである
ということがある。
「安曇氏」の場合、中国の「領域国家」、そして統一的な「領域国家」を目指したヤマト王権という後ろ盾を確保し続けた。
呉の遺臣を祖として海洋交易民となった「安曇氏」しか、日本列島には中国の「領域国家」の外臣化しその「管理貿易」を独占する政商型交易者になろうとする動機と能力を持つ者がいなかったということが決定的だ。
中国由来の「出雲族」は脱国家主義の「自由貿易」前提だから、競合しなかった。その点、むしろ役割分担をして協働した可能性がある。
「濊(わい)人」が「テュルク族」を下した神武東征だが、その終盤は難航した。
その序盤で北部九州の拠点を侵攻された「安曇氏」の族長、「伊都国」長官は「テュルク族」の宰相難升米の下に逃げる。ここで、同じく魏を仰ぐ同盟関係にあった「テュルク族」を裏切って難升米を謀殺し、「濊(わい)人」を勝利に導く。
そして、
「濊(わい)人」の喫緊の課題として、「テュルク族」の魏朝貢交易を継承することが持ち上がるが、「テュルク族」を補佐していた「安曇氏」がその交易活動を代行したと考えられる。
おそらく、死亡した卑弥呼に代わる女王壱与の擁立と、建前としては「邪馬台国」としての朝貢を「安曇氏」がお膳立てして、事前に魏の了解を得たのだろう。
留意すべきは、
「安曇氏」はヤマト王権の政商型交易者として、「濊(わい)人」を南九州上陸(天孫降臨)以来バックアップした「倭人」とともに「管理貿易」を独占し、軍需装備品調達を独占する「物部氏」(「倭人」は同様に「大伴氏」)となったが、やがて軍事豪族(「物部氏」は国軍的、「大伴氏」は親衛隊的)となり、最終的には「蘇我氏」に滅ばされている
つまり、政治勢力化した「安曇氏」は滅んでいる
ということである。
一方、
政商型交易者という経済勢力であり続けた「安曇氏」が、北九州と中央で連携して国内外交易を統一的な「領域国家」の「管理貿易」体制として整備していった。後世、北九州の本拠地を失った際も、地方の交易要衝に分布して、中央と地方の贄人となってネットワークした。
「領域国家」の「管理貿易」前提の政商型交易者としてのネットワークを常に更新維持してきたことが、そうした交易ネットワークを背景にした具体的な族的結合の持続可能性を確保したのである。
(朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」は、九州にとどまった「倭人」と中央に進出した「倭人」の連携がなかった。
それどころが、九州にとどまった「倭人」は「濊(わい)人」の南九州上陸以来の長期的な貢献をしてきたにも関わらず、期待していた北九州沿岸の縄張りの拡大が、北部九州の「安曇氏」が重用されてできず、中央に進出した「倭人」のように「管理貿易」利権に預かることもできず、不満分子となり、同様の不満分子となっていた「熊襲」(陸戦隊)や「隼人」(海戦隊)と連携してヤマト王権に離反する九州豪族を形成していった。)
「安曇氏」が長い年月サバイバルできた主な要因は、
◯国家主義の「管理貿易」前提で常に統一的な「領域国家」を後ろ盾とする政商型交易者となったこと
◯国内外の交易ネットワークを常に更新して環境変化に俊敏に対応して保身したこと
◯こうした交易体制を維持発展させるべく、「伊都国」長官から大規模稲作拠点の監督官、後世には中央と地方の贄人などトップや幹部管理職を実力主義で選任したこと
◯北部九州と朝鮮半島西岸の対外交易と、瀬戸内地方、環大阪湾地方の対内交易とを接続する媒介者としての役割と能力を常に更新したこと
◯日本の国策商社の文化的遺伝子の淵源であり、おそらく幹部候補者に国内外、中央地方の異動を伴った必要な職能経験をさせる「転住」型の人材育成が行われたこと
であった。
「出雲族」「安曇氏」は、
知識集約型+内外ネットワーク型の遠隔地交易民が本質で、
それゆえに長いタイムスパンをサバイバルすることができた。
それに対して、
「テュルク族」「濊(わい)人」は、
労働集約型+版図拡大型の侵攻支配民が本質で、
それゆえに「出雲族」「安曇氏」とは比較にならない
短いタイムスパンしかサバイバルできなかった。
「テュルク族」全体としては「濊(わい)人」に降って雲散霧消した。
一方、
「濊(わい)人」首長層は、天皇を擁立する黒幕的二重支配者となり、政商型交易者の「安曇氏」「倭人」からの上納を得たが、その立場は長続きはしなかったと考えられる。
軍需装備品の調達を独占した「物部氏」「大伴氏」が軍事豪族になったのは、「濊(わい)人」首長層に地位役割にあぶれる者が出てきて、騎馬戦闘力を持って降下したものと考えられる。
継体天皇(第26代、507年〜531年)は、先帝とは4親等以上離れてかつ傍系で即位した最初の天皇とされる。大伴金村・物部麁鹿火らが推戴した(『日本書紀』の記述では越前国を治めていた)。この頃には、「濊(わい)人」首長層による黒幕的二重支配は無力化していて、「大伴氏」「物部氏」の勢力が天皇を擁立するほどの勢力を持っていたと考えられる。
よって、
「テュルク族」全体としては、100年前後に北陸に渡来してから、3世紀半ばの「神武東征」で「濊(わい)人」に降るまで、約200年足らずの栄枯盛衰だった
「濊(わい)人」全体としては、「神武東征」で「テュルク族」を下してから、継体天皇即位の前段階の500年ころまでとして、約250年ほどの栄枯盛衰だった
ということになる。
武智氏は、
八岐大蛇退治は、出雲の原日本人(倭人)の異民族支配からの脱却を神話化したもの
とする。
その主張が正しいかどうかについて意見の相違があるということではない。
その上で私は、
武智氏のように、その退治・撃退は「原日本人(倭人)」の異民族支配からの脱却であるという文脈では捉えない。
武智氏はオオクニヌシについてこう解説している。
高志族を出雲から追い払って、倭人の独立を回復したのは、もちろん「天の下造らしし大神」であったオオアナモチでなければならない。鉄穴という言葉が鉱山を意味するように、「大穴持」というのは、まさに高志族を追い払って、「鉱業権を倭人の所有に取り戻した大鉱山の持ち主」の意である。
オオアナモチは『出雲風土記』の中で、(中略)たくさんのスキ(金篇に且 鉄鋤)の保有者で、その農具を人民に貸しあたえることによって、水田稲作農耕を達成し、国造りに成功したオオアナモチ(オオクニヌシ)の性格を端的に物語っている。
国造り(『記紀』)または「天の下を造らしし」(『出雲風土記』)ということは、実はオオアナモチが民族共同体の最初の創始者であった歴史的事実を物語っている。
鉄器製造と計画農業(水田稲作農耕)とを一手に握って、それを総合的におしすすめることで、はじめて日本民族共同体は成立しえたのである。
以上の武智氏の主張については、色々な基礎的な事柄を踏まえた議論が必要である。
彼(筆者注:オオアナモチ、オオクニヌシ)の協力者で、おそらく燕(えん)から舟に乗って綾羅木の入江にたどりつき、河北の集約的な水田農耕(筆者注:稲作重視の「選別的農耕」)を伝えて、国造りの協力者となったスクナヒコナも、もちろん農耕神であるが、スクナというのをズク(銑鉄)とナ(土)の結合語とみることもできる。オオアナモチに協力して、水軍の将としてコシノヤマタノオロチ(筆者注:武智氏の意味合いとしては「テュルク族」の鉄器を媒介とした支配)を退治し、鉄と田とを倭人のものとした神の意であろう。
綾羅木の丘陵の南側の山峡にある小平野は、当時は深い静かな入江であった。渤海湾から民族移動のため船出した燕人は、新たな耕作地を求めて東南下した後、ここへたとりついたに違いない。河北の集約農耕のベテランであるこの民族は、朝鮮の荒蕪地には目もくれなかったであろうし、また、気候の悪い北側の山陰地方にわざわざ回ったとはとても考えられない。やはり本州西端の曲折の多い海岸線をたどりながら、綾羅木の入江に碇泊した、と考えるのが常識だろう。
それはいつごろのことであったか。燕人は、属国である倭について、すでによく知っていたはずだ。燕の滅亡は紀元前222年であるから、そのころから白河(パイ川・黄河支流)沿いの大移動ははじまったと思える。漢の武帝の朝鮮討伐は紀元前108年であるから、戦乱の余波を受けた渤海沿岸の住民が難民となるのは、それ以前のことだった筈だ。
スクナヒコナは
『古事記』では、カミムスビの子とされ、
『日本書紀』では、タカミムスビの子とされる。
ムスビ=「産霊」は生産・生成を意味する言葉で「創造」を神格化した神を意味する。
カミムスビは、天地開闢の時、アメノミナカヌシ、タカミムズビの次に高天原に出現し、造化三神の一柱とされる。性のない独神とされるが、「御祖(みおや)神」という記述、オオクニヌシが八十神らによって殺された時、オオクニヌシの母(刺国若比売)がカミムスビに願い出て、遣わされた𧏛貝比売と蛤貝比売が「母の乳汁」を塗って治癒したことから女神であるともされる。
一方、
タカミムズビは、葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)、高木大神(たかぎのおおかみ)という名で登場し、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。『日本書紀』の神代下では、将軍や皇孫を葦原中国に降ろす神として登場する。
私個人的には、
カミムスビは、母性原理、包摂化、水平軸の創造神
タカミムスビは、男性原理、序列化、垂直軸の創造神
という対照を捉えている。
スクナヒコナは
『古事記』では、カミムスビの子とされ、
『日本書紀』では、タカミムスビの子とされる
ということは、
天皇の周囲の支配層を対象に和語で書かれた『古事記』では、
カミムスビとスクナヒコナによって
対象に対して、母性原理、包摂化、水平軸の連帯を誘導している
ヤマト王権のエリート支配層そして中国の外交官吏をも対象にして漢語で書かれた『日本書紀』では、
タカミムスビとスクナヒコナによって
対象に対して、男性原理、序列化、垂直軸の支配被支配を正当化し共有価値化している
と言える。
『古事記』によれば、
スクナヒコナは、オオクニヌシのいわゆる「国造り」に際して、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実とされる)に乗り、鵝(ヒムシ=ガとされる)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、カミムスビの命によって義兄弟の関係となって「国造り」に参加した。
『日本書紀』では、これと同様の記述があるが、ミソサザイ(山の谷あいのうす暗い林が好きな小さい地味な鳥)の皮の着物を着ている。
なおスクナヒコナは、『記』『紀』以外でも『播磨国風土記』や『伊予国風土記』(逸文)、山陰や四国、北陸などの地方伝承で登場している。
スクナヒコナはオオナムチ(オオクニヌシ)同様多くの山や丘の造物者であり、命名神である。その一方で、スクナヒコナは悪童的な性格を有するという記述がある(『日本書紀』八段一書六)。
ちなみに江戸時代に編纂された『古事記伝』によれば、「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とある。この神が必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係は古くから議論されている。
記紀神話はオオクニヌシが「国造り」をしたという大枠の前提で語られている。
スクナヒコナがオオクニヌシ同様に「山や丘の造物者」「命名神」というのはその文脈である。
しかし、
オオクニヌシがその盟主を象徴する「出雲族」は、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者として環日本海交易をした遠隔各地交易民であり、それが成し遂げたのは「国造り」ではなく、日本列島における広範な交易経済圏の形成であった。
それにスクナヒコナは必要不可欠のオオクニヌシの協力者、協働者であった。
当然、両者は相反補足的な能力や性向を持った筈である。
そこで、
スクナヒコナの「悪童的な性格」というのは、オオクニヌシにない遠隔地交易のベンチャー型交易者として必要とされた能力だったと考えられる。
具体的には、先進的な文明を後進的な縄文人に受容させるのに必要な「文化英雄」としての能力や性向の内、オオクニヌシにはない「トリックスター」のそれである。
「トリックスター」とは、
神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者
である。
往々にしていたずら好き=「悪童」として描かれる。
善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。
オオクニヌシとスクナヒコナは、産業振興をしながら全国を遍歴する。
その際、
オオクニヌシは、主要交易産品の生産地の縄文人部族の族長の娘を娶って回って、姻戚関係を結ぶことで交易関係を締結維持した。
この時、族長の婿が「悪童」では話にならない。
オオクニヌシの役割が、族長との関係構築とそれによる産業振興の全体的な方向づけ(トップダウン)だったのに対して、
スクナヒコナの役割は、部族の構成員全員を驚かせて魅了し産業への就労を動機づける(ボトムアップ)だった
と考えられる。
スクナヒコナは、「国造り」の協力神とされる以外に、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つとされる。
酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナヒコナが酒造りの技術を広めたとされる。
病人を治癒する医薬、温泉を掘り当てる、禁厭(まじない)、米を発酵させて酒を造る酒造は、
部族の構成員全員を驚かせて魅了し産業への就労を動機づける(ボトムアップ)だった。
米を自給自足する以上に量産すれば余剰の米から酒を造って楽しく暮らせるぞ、と共同稲作への就労が動機づけられた。
百薬の長である酒を含む医薬は、病気を治癒するのだから、薬草や薬種の採集も同様に動機づけられた。
そして、
人間の感情である喜怒哀楽の内、医薬や温泉がもたらす健康による喜びと、酒造がもたらす飲酒による楽しさを増進するスクナヒコナは、縄文人部族の族長よりも一般構成員と打ち解けて、「トリックスター」として歓迎されたに違いない。
スクナヒコナはのちに常世国へと渡り去ったと物語られるが、これについては、草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。
オオクニヌシによる「国造り」を前提とする記紀では、スクナヒコナはその登場も退場も、矮小な存在として印象づけている。
確かに、
「国造り」という国体づくりからすれば、個別具体的な地域ごとの産業の振興者は矮小な存在となるしかない。
しかし、
交易経済圏の構築という民間経済活動からすれば、スクナヒコナの役割は大きい。
だが、
記紀はそれを隠蔽するのだから、スクナヒコナの存在はその名前からして極端に矮小化された。
スクナビコナが去ってオオクニヌシが協力者を失うと、代わってオオモノヌシが登場する。
結論から言うと、私個人的には、
オオクニヌシは、
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である、環日本海交易をする遠隔地交易民だった同盟「出雲族」の盟主を暗示している。
そして、
スクナヒコナが、
オオクニヌシの「交易経済圏の形成」(同盟「出雲族」の構築)の協力者を暗示している
のに対して
オオモノヌシは、
オオクニヌシによるその譲渡の後
「濊(わい)人」による初期ヤマト王権樹立という「国造り」において
外戚勢力化してその協力者となった同盟「出雲族」の解体者、かつ初期ヤマト王権下での再編者を暗示している
(この文脈で、オオモノヌシとコトシロヌシが同神とされる)
と考える。
オオモノヌシの神名の「大」は「偉大な」、「物」は「鬼、魔物、精霊」と解し、名義は「偉大な精霊の主」と考えられ、
「国造り」の文脈において、退場したスクナヒコナの矮小性との対照性を際立たせている。
オオクニヌシが象徴する同盟「出雲族」が果たした広範な交易経済圏の形成は、スクナヒコナの協力によって達成された。
「神武東征」で「テュルク族」を下した「濊(わい)人」は、「テュルク族」の「くに」ぐにをその連合政府「邪馬台国」に代わって支配し、「出雲族」を圧迫してその交易経済圏を譲渡させ(いわゆる「国譲り」)、初期ヤマト王権として統一的な「領域国家」の体裁を整えるにおいて、「出雲族」の協力的な一派を外戚勢力として取り込み、その島根半島東部の産鉄民を「テュルク族」の産鉄拠点だった三輪山地方に入植させた。
オオモノヌシは、こうした経緯を神話において正当化し権威化するべく登場させた存在なのである。
『古事記』では、
オオモノヌシは海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、オオクニヌシはこの神を祀ることで「国造り」を終えた。この山が三輪山とされる。
『日本書紀』の異伝では、
オオモノヌシはオオクニヌシの別名としている。
大神神社の由緒では、
オオクニヌシが自らの和魂をオオモノヌシとして三諸山に祀ったとある。
『古事記』では、オオモノヌシは神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父にあたり、また三輪氏の祖神でもある。
『日本書紀』では、三穂津姫を妻としているが、その事績はコトシロヌシ(オオクニヌシを継いだ「国譲り」に応じた嫡男)のものとなっている。
一方、コトシロヌシの別名がオオモノヌシであったという主張もある。
オオモノヌシについては、オオクニヌシやコトシロヌシとの関係性がさまざまに想定されているが、
総じて、
オオモノヌシの存在は、元来のものであること(オオクニヌシの和魂)
オオモノヌシの存在は、初期ヤマト王権を樹立した中枢勢力と時間的・空間的に連なること(三輪山、神武天皇の岳父)
を印象づけている。
それは、
スクナヒコナが、一時的に登場して退場した矮小な存在であることと対照性を際立たせている。
つまり、
オオモノヌシの登場は
オオクニヌシとスクナヒコナ(同盟「出雲族」の構築協力者)による広範な交易経済圏の形成を隠蔽し
「神武東征」に勝利した「濊(わい)人」が初期ヤマト王権樹立に必要とした
コトシロヌシ(同盟「出雲族」の解体者)の協力やその産鉄民の三輪山地方への入植とオオモノヌシとダブらせることで
「テュルク族」の「くに」ぐにを大和地方に存在したその連合政府「邪馬台国」が率いたことを隠蔽し
彼らの連合国家体制をあたかもヤマト王権の初期勢力が立ち上げたものかのように印象づけている
と言える。
「実際に起こったこと」は、
「神武東征」に勝利した初代神武天皇が、協力的な「出雲族」の一派を外戚勢力化し、島根半島東部のその産鉄民を三輪山地方に入植させたのであって、
この外戚勢力を権威化し、外戚化に至る経緯を正当化すべく、神話において以下のような神武天皇の皇后譚が物語られている。
古事記によると、
三嶋湟咋(みしまのみぞくい)の娘の勢夜陀多良比売という美人を気に入った美和のオオモノヌシは、赤い丹塗り矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女は驚き走り回ったあと、すぐにその矢を自分の部屋の床に置くと麗しい男の姿に戻った。こうして二人は結ばれて、生まれた子が富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ)であり、後に「ほと」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と名を変え、神武天皇の后となった。
『日本書紀』第8段の第6の一書では、「又曰」として、
コトシロヌシが八尋熊鰐となって三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ。或いは玉櫛姫という)に通って生まれた子が姫蹈鞴五十鈴姫命(神武天皇の皇后)であるとする。
三嶋湟咋(みしまのみぞくい)は、別名、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、『新撰姓氏録』によれば、カミムスビの孫とされ、「神武東征」の際、タカムスビとアマテラスの命を受けて日向の曾の峰に天降り大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献したとされる。
オオモノヌシあるいはコトシロヌシを岳父とする「出雲族」一派の外戚勢力化は、「神武東征」に貢献した三嶋湟咋そしてカミムスビの血統を混じえていることで、権威化・正当化されている。
私の考えを改めて総整理すると、
●「出雲族」の前身諸派は
殷遺民に由来する遠隔地交易民以来、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である。
●オオクニヌシは
同盟「出雲族」の族長であり
島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点によって環日本海各地の「交易ビッグマン」をネットワークした盟主であり
記紀神話がオオクニヌシがしたとする「国造り」とは
日本列島内の交易ネットワークによる広範な交易経済圏の形成であった。
(縄文人を対等な交易相手、産業振興の協働者として縄文社会を温存したため
縄文社会側からの主体的な共生が展開した)
●スクナヒコナは
最後に渡来してきた「出雲族」の前身一派で
すでに日本列島各地で展開していた前身諸派を同盟化して
オオクニヌシの広範な交易経済圏の形成(記紀では「国造り」)に協力した
というものである。
武智氏は、「スクナヒコナ=燕人」とするが、
私は、
華北地方の燕人が直接に日本列島に渡来したとしたらそれはごく一部であって、
燕・斉・趙から朝鮮半島北部に逃れた亡命商工民の後裔が朝鮮半島を南下し
最終的に辰韓に集結しその一部の環日本海交易をした遠隔地交易者が渡来して
「出雲族」の前身諸派を同盟させて盟主となろうとする者(オオクニヌシ)に協力した
と考える。
その経緯をそもそもの背景から整理すると、以下となる。
殷遺民に由来する「出雲族」の最初の前身一派が日本列島に渡来
(西周代の青銅製刀子を東北北部に持ち込んだ)
紀元前1000年前後(遅くとも紀元前8世紀)
周代、春秋、戦国時代に渡って存在した燕は
紀元前4世紀後葉、朝鮮半島北部を領有していたとも考えられている
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、中国商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた
紀元前3世紀前葉、燕は国内に郡制をしき、朝鮮(半島北部)と真番(朝鮮半島南部)を「略属」=従属国化させ、要地に砦を築き官吏を駐在させ中国商人の権益を保護したとされる
燕が秦に滅ぼされたのが紀元前222年
燕の植民地だった朝鮮(半島北部)と真番(朝鮮半島南部)は、郡や県外の「徼外」に属し、中国皇帝政権の「外臣」として存在した
秦の鉄官政策を嫌った燕の産鉄民が亡命したと考えられる
亡命先は、国内にいた産鉄民は燕王が逃れた遼東へ、さらに朝鮮半島北部へ
朝鮮(半島北部)にいた者はその東岸の環日本海交易拠点と朝鮮半島南部へ
それらからさらに日本列島に渡来して「出雲族」の前身一派となったものもいた
と考えられる
秦が滅んだのが紀元前206年
秦末漢初の動乱で遼東を含めた地に新たな燕王が立って自立したりするが
前漢代に燕国が廃されて郡県となったのが紀元前200年前後
前漢の鉄官政策を嫌った産鉄民が亡命した
亡命先は、その支配が及ばない朝鮮半島北部の主に西岸で
東岸の環日本海交易拠点に至った者、さらに日本列島に渡来して「出雲族」の前身一派となったものもいた
と考えられる
燕からの亡命者である衛満が衛氏朝鮮を建てたのが紀元前195年ころ
衛満は亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王にとりいり、朝鮮(半島北部)西部に亡命者コロニーを造った
秦漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼったとされる
さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々と狙った
この時、燕・斉・趙の(産鉄民を含む)商工民が朝鮮半島北部西岸に来った
と考えられる。
前漢武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしたのが紀元前108年
この時、武帝は「匈奴の左臂を断った」と評していることから、衛氏朝鮮は前漢より匈奴の支配下にあったとされる
衛氏朝鮮に伝来していた鉄生産技術・鉄器生産技術は、武帝以前に前漢を圧迫していた匈奴に劣るレベルであり、武帝が匈奴を打ち負かすようになった以後の前漢のレベルにはなかった
滅亡した衛氏朝鮮の故地は、楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ前漢の領土となった
厳しい重税策や鉄官政策が延長されることを嫌い、朝鮮(半島北部)にいた商工民や産鉄民の多くが、真番(朝鮮半島南部)に亡命した
この時の亡命民は、燕・斉・趙からの亡命者を含んでいて、まとめて「秦遺民」と捉えられた
と考えられる。
紀元前2世紀末から4世紀中葉にかけて朝鮮南部に存在した馬韓は、「くに」ぐに(少国群)の連合で、その大きな首長(盟主)は「臣智」と言い、中国皇帝に対する臣下であることを自称した。つまりは、勝手連的に外臣化した。
これは、
「安曇氏」が、前漢武帝の朝鮮直接経営=郡県による直接支配に乗り出したことに呼応して朝貢し、外臣化し楽浪郡の出先機関として「くに」を建てた経緯と同じである。
注目すべきは、
『後漢書』辰韓伝および『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人(秦韓人)と名づけたとされること
『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたとされること
である。
つまり、
衛満が誘い入れた燕・斉・趙からの亡命者には、衛氏朝鮮樹立に向けて殖産興業、富国強兵に資する人材が優先された筈で、秦漢の「領域国家」の「管理貿易」の国内外体制に不満を持つ者が呼応した筈である。そんな彼らが、衛氏朝鮮を滅ぼした武帝が設置する漢四郡を嫌って、間接支配の朝鮮半島南部にさらに逃げた
と捉えることができる。
ところが、
馬韓は中国皇帝の外臣を自称しているからそのまま受け入れる訳にはいかない。特に、古来、中国から日本列島に至る交易路になっていた朝鮮半島西岸で中国主導で展開していた「管理貿易」に支障を来たす。
そこで、
彼ら「自由貿易」を望む商工民を「秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民」と称して、「東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけた」と考えられる。
一般的な商工民であれば、「管理貿易」でも過酷な重税を強いられなければ食べていける。食べていけない程の過酷な重税を「領域国家」が強いるとは考えられない。
よって、
亡命した商工民とは、「管理貿易」を独占する政商型交易者になれなかった遠隔地交易民、「自由貿易」においてベンチャー型交易者であろうとうする遠隔地交易民、(生産可能な地と生産不可能な地が遠隔で存在することによって)遠隔地交易の主要交易品目となりうる鉄素材や鉄器、青銅器の生産民であった。
長い歴史スパンでアジア極東の全体を俯瞰すると、
環東シナ海各地〜朝鮮半島西岸では、中国の巨大「領域国家」の「管理貿易」を前提として、外臣化して本拠地に「くに」を建てることで、「管理貿易」の利権独占を目指す政商型交易者の遠隔地交易民が活躍した。「馬韓」の政商型交易者や北部九州を本拠地とする「安曇氏」である。
一方、
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者の遠隔地交易民と、その遠隔地交易の文明先進性を誇る主要交易品目の生産民(合わせて商工民)は、中国から朝鮮半島へ、朝鮮半島の北部から南部へと及んだ「領域国家」化の波から逃れて、その先その先へと転住した。
そして最終的に、「辰韓」へ、なかんずく周辺のどの「くに」にも属さない経済特区と思しき「弁辰」に集結した。
一方、
朝鮮半島北部東岸の環日本海交易拠点に逃げた者もいて、そこから環日本海各地に転住し、同じ志向の「交易ビッグマン」同士で環日本海交易ネットワークを形成していった
その内の日本列島各地の「交易ビッグマン」が率いた遠隔地交易民が、「出雲族」の前身諸派である。
私個人的には、
出雲神話における、
①スサノオが降下して去る段階
②オオクニヌシが八十神に殺されて逃げるスサノオのもとに逃げるまでの段階
③オオクニヌシがスセリビメを連れて帰還し八十神を廃して「国造り」向かう段階
「国造り」=じつは同盟「出雲族」本流による交易経済圏の形成
④オオクニヌシがスクナヒコナを協働者として「国造り」を進める段階
「国造り」=じつは同盟「出雲族」本流による交易経済圏の形成
⑤スクナヒコナが去り代わってオオモノヌシが協力者となってオオクニヌシが「国造り」を達成する段階
「国造り」=じつはヤマト王権の初期勢力による統一的な「領域国家」の体裁の整備
(「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」がしていた魏朝貢交易の継承が急務だった)
「国譲り」=「出雲族」の日本列島内の交易経済圏・交易ネットワークの譲渡
という展開は、
①〜④で
脱国家主義の「自由貿易」前提で、ベンチャー型交易者が遠隔地交易民として活動できる環境を整備した過程を暗示している
⑤で
同盟「出雲族」の解体者が
日本列島内の交易ネットワークを譲渡し、国家主義の「管理貿易」体制(魏朝貢交易ふくむ)に再編して
同時に「テュルク族」と「出雲族」の主要産鉄拠点を接収して監督する体制を構築した過程を暗示している
と考える。
「出雲族」の前身諸派が同盟「出雲族」となり
いわゆる「国造り」の同盟解体と交易資源譲渡まで繁栄した経過を
記紀神話の展開と重ね合わせると、
その各段階の主要譚が「実際に起こったこと」の何を暗示しているかが
以下のように見えてくる
「出雲族」の前身諸派が日本列島各地に展開するも
主要交易品目の生産地の縄文人部族と安定的な交易関係を持てていない
段階❶
↑
神話では
①スサノオが降下して去る段階の最初の
オホゲツヒメにご馳走されるも虐殺する譚
で暗示
縄文社会の「贈与経済」に、中国由来の遠隔地交易民の「交換経済」では対応できなかった
という交易関係の締結失敗を象徴化している。
そこに新たな動きが始まる
紀元前100年頃(弥生中期後半)に四隅突出型墳丘墓が登場する
(出現当初の四隅突出型墳丘墓は小規模の素朴なものだったが、縄文人を魅了するには十分だった。
私個人的には、平坦な台部上で祝祭的な交易が行われたと考える。
当初の四隅突出型墳丘墓では、縄文人部族との「贈与」のやりとりが行われたのではないか。
ちなみに、
従来編年の縄文後期から末期の山梨県の金生遺跡の膨大な数の石が集められた配石遺構は、墳墓であり同時に祭祀の場だったとされる。八ヶ岳山麓には存在しない花崗岩などの出土から、遠方との交流もあったとされる。番組では寒冷化によって人口減少し集住んだ集落と解説され、その集落内の住居のすぐ隣に配石遺構があった。寒冷化と人口減少を生き抜くには集落が交易拠点となる必要があり、配石遺構での祭祀は冬至祭であると同時に、遠隔地からも交易民が結集する定期市となったのではなかろうか。 )
紀元後100年頃に「テュルク族」が北陸に渡来、「くに」ぐにを建てていく
以上のおおよそ紀元前100年〜紀元後200年の
「出雲族」の前身諸派が日本列島各地に展開するも諸派同士が安定的な交易関係を持てていない
段階❷
↓
神話では
①スサノオが降下して去る段階のメインの
ヤマタノオロチ退治譚
クシナダヒメを娶り宮を営んでその父親を首長にして去る
(根堅洲国=朝鮮半島南部東岸に去りその国主になる)
で暗示
ヤマタノオロチ退治は
島根半島東部の産鉄地帯に侵攻した「テュルク族」の撃退を暗示
「テュルク族」は鉄器を媒介に縄文人を支配して稲作民化
「出雲族」の前身諸派も縄文人部族に稲作振興するが
主要交易産品の生産拠点化できないところからは撤退
『日本書紀』の一書第4では、
天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず、息子の五十猛神(いそたける)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った後、八岐大蛇を退治した
とある。
一書第5では、
木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子の五十猛命 、娘の大屋津姫命(おおやつひめ)、枛津姫命(つまつひめ) に命じて全国に植えさせた
とある。
(ちなみに、
記紀神話においては出雲の神の祖神とされるスサノオだが、
『出雲国風土記』では彼はあまり登場しない
「国造り」の文脈に通じる地名制定や御子神たちの説話が書かれいる一方で、八岐大蛇退治の説話は記載されていない。)
以上の神話は、
スサノオが、そもそもは朝鮮半島南部東岸(辰韓)の「交易ビッグマン」で、本州日本海沿岸に交易拠点を開拓しようと渡来したが、遠隔地交易上の成果が上がらず撤退した
ということを暗示していると捉えられる。
(オオクニヌシのように全国遍歴して交易ネットワークの構築と交易経済圏の形成をした形跡がない。
辰韓人は穀物と稲を育て養蚕を生業としていた。「出雲族」の前身諸派と同じく交易拠点の活動を支える自給自足のために雑穀栽培に稲作を加えた「網羅型農耕」をしていたと考えられる。)
2世紀後半、「テュルク族」の「くに」ぐにが鉄資源を奪い合う内紛「倭国大乱」が起こる
「出雲族」の前身諸派はその余波を受けて不安定化するが
同盟「出雲族」となることで交易勢力として安定化して繁栄する
段階❸
(四隅突出型墳丘墓が同盟「出雲族」の共通墓制となっていった)
↓
神話では
②オオクニヌシが八十神に殺されて逃げるスサノオのもとに逃げるまでの段階
③オオクニヌシがスセリビメを連れて帰還し八十神を廃して「国造り」向かう段階
「国造り」=じつは同盟「出雲族」本流による交易経済圏の形成
④オオクニヌシがスクナヒコナを協働者として「国造り」を進める段階
「国造り」=じつは同盟「出雲族」本流による交易経済圏の形成
で暗示
ただし、
神話では
島根半島西部(神門水海)の環日本海交易ネットワークのハブ拠点が繁栄
(巨大な四隅突出型墳丘墓の雁行羅列を可能にした)
は隠蔽
3世紀半ば
「濊(わい)人」(天孫族)が「テュルク族」を下し(神武東征)
「出雲族」に日本列島内の交易ネットワークを譲渡させる(国譲り)
「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」がしていた魏朝貢交易を
壱与を女王に擁立して「安曇氏」を徴用して継承
「濊(わい)人」に協力的な「出雲族」一派を外戚勢力として
大和地方に初期ヤマト王権の中枢を急拵えする
段階❹
↓
神話では
⑤スクナヒコナが去り代わってオオモノヌシが協力者となってオオクニヌシが「国造り」を達成する段階
「国造り」=じつはヤマト王権の初期勢力による統一的な「領域国家」の体裁の整備
で暗示
ただし、
神話では
中国の史書に登場している「邪馬台国」「女王国」は一切出てこない
以上のように、
「実際に起こったこと」の経緯と記紀神話の物語の展開とを重ねると
スクナヒコナが登場が
段階❸の「出雲族」の前身諸派が四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」になった時期であり
スクナヒコナが退場が
段階❹の巨大な四隅突出型墳丘墓が雁行羅列が示す
島根半島西部(神門水海)の環日本海交易ネットワークのハブ拠点の繁栄がピークに達した
「国譲り」の前夜の「濊(わい)人」が朝鮮からの南九州上陸(天孫降臨)した時期である
と推察される。
長い歴史スパンでアジア極東の全体を俯瞰すると、
環東シナ海各地〜朝鮮半島西岸では、中国の巨大「領域国家」の「管理貿易」を前提してその外臣化し本拠地に「くに」を建てることでそれぞれの経済圏との「管理貿易」を独占する政商型交易者の遠隔地交易民が活躍した。「馬韓」の政商型交易者や「安曇氏」である。彼らは、「領域国家」絡みの状況に応じて時に競合し時に協働した。
一方、
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者の遠隔地交易民と、文明文化の後進地との遠隔地交易において主要交易品目となる文明文化の先進性を誇る産品の生産民(合わせて商工民)は、中国から朝鮮半島へ、朝鮮半島の北部から南部へと及んだ「領域国家」化の波から逃れて、その先その先へと転住した。
文明文化の先進性を誇る産品の筆頭は鉄素材および鉄器であり、その絡みの商工民は「辰韓」へ、なかんずく周辺のどの「くに」にも属さない経済特区と思しき「弁辰」に集結した。
朝鮮半島北部東岸の環日本海交易拠点に逃げた商工民の中には、さらにそこから環日本海各地に転住した者がいて、同じ志向の「交易ビッグマン」たち同士で環日本海交易ネットワークを形成していった。その内の日本列島各地の「交易ビッグマン」とそれが率いた遠隔地交易民が「出雲族」の前身諸派であり、後に同盟「出雲族」となった。
スクナヒコナは、「出雲族」の前身諸派の最後の新参者で、オオクニヌシに協力して前身諸派を同盟化させ、同盟「出雲族」を主に「辰韓」(朝鮮半島南部東岸)の「交易ビッグマン」たちと繋げる交易ビジネスモデルを構想推進したと考えられる。
朝鮮や日本で都市市場が育っていない時代は、環日本海各地で希少な原材料が調達され、中国の都市市場を最終消費地として狙う商品に加工ないしアッセンブルされたが、
朝鮮や日本で「くに」ぐにの都市市場が育ってきた時代には、そこで消費される中国由来の文明文化先行的な商品や、鉄器や青銅器の製造に関わる高度人材、鉄素材や鉛、各種宝玉や朝鮮人参のような薬種といった希少な原材料が盛んに交易されるようになった。
それにより、
朝鮮半島の西岸と東岸に、日本と朝鮮と中国の産品が行き来する遠隔地交易拠点が展開した。
西岸で、楽浪郡や帯方郡と「安曇氏」のような国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者たちが活動し、
東岸で、「出雲族」の前身諸派を含む環日本海各地の「交易ビッグマン」=脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者たちが活動するようになった。
特に、
亡命中国商工民の後裔が最終的に朝鮮半島南部東岸の「辰韓」に集結し、その遠隔地交易者の「交易ビッグマン」が、日本に対して、中国からの輸入品を中継するとともに、「辰韓」現地の生産品を輸出するようになった。
この時、その対価となる日本からの輸出品として、従来の中国の都市市場を最終消費地とした産品とは異なる「辰韓」現地のニーズに対応する産品が加わった。
スクナヒコナはこうした市場環境の変化に対応して、同盟「出雲族」を「辰韓」の「交易ビッグマン」たちと繋げる交易ビジネスモデルを構想推進したと考えられる。
スクナヒコナは、「領域国家」化の波を逃れて最終的に「辰韓」に集結した、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者(燕・斉・趙からの亡命商工民の末裔で中国語系の言語を話し「出雲族」の前身諸派と親和性がある)だったと考えられる。
「領域国家」化の波が朝鮮半島南半にまで及んで、まだ「領域国家」化の波が及んでいない日本列島に活路を見出して渡来し、同盟「出雲族」によって日本列島に大陸交易と緊密に接続する交易経済圏を形成し発展させた。
しかし、やがて日本列島にも「領域国家」化の波が及ん来るのを察知し、いわゆる「国譲り」で同盟「出雲族」が解体される前に、朝鮮半島南半の周辺のどの「くに」にも属さない経済特区と思しき「弁辰」に帰っていったのではないか
そのような推量を記紀神話は誘う(つまり暗示している)。
スクナヒコナは波の彼方から渡来し、「常世の国」に去ったともされる。「常世の国」は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界であり、一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた。
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者という元来の「出雲族」の価値観からすれば、彼らの理想郷は、彼らが自由奔放に活動できる交易拠点であった。
朝鮮で言うと箕子朝鮮(〜紀元前194年)の時代まで、都市市場は中国にしかなかった。
よってそれまでは、中国から逃げて朝鮮半島や日本列島に渡来した遠隔地交易民は、中国の都市市場を最終消費地とする原材料を調達して輸出するか、それらをアッセンブル加工して商品化して輸出するかしか、遠隔地交易をする術はなかった。
前漢の司馬遷は『史記』世家に「武王は箕子を朝鮮に封ず」とし記述し、班固は『漢書』地理志で「箕子は殷を去って朝鮮にゆく」と記述している。殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以降、「山東地方斉に根拠を持つ箕族集団が、殷・周の権威のもとで燕に服属しながら、朝鮮の西部に接する遼寧地方で活動」しており、燕・斉人の東来は、古くから認められている、とする。
つまり、
箕子朝鮮のあった(後に衛氏朝鮮となる)朝鮮半島北部に接する遼寧地方が、西周代以来、中国の都市市場を前提とした交易経済圏の境界域であったと言えよう。
最初の「出雲族」の前身一派は、東北北部に西周代の青銅製刀子をもたらした殷遺民の遠隔地交易民だった。
殷遺民の商人は、殷周の支配や権威の及ばない朝鮮半島北部東岸に逃れて遠隔地交易拠点を形成し、環日本海交易を中国の都市市場に接続することでサバイバルした。周代、殷遺民は蔑視され、後に商業者を意味することになる「商人」とはその蔑称だったともされる。
周が東西分裂した後の春秋時代(紀元前771年〜403年)、そして魏・韓・趙の国が建ち戦国の七雄が揃った戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)、中国の都市市場を前提とした交易経済圏の境界域である遼寧地方が朝鮮半島との交易要衝であった。
一方、
燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)は、周代・春秋・戦国時代にわたって存在した国で、春秋十二列国の一つ、戦国七雄の一つである。河北省北部、現在の北京を中心とする地方を支配したが、その極盛期には、現在の河北省・遼寧省のみならず朝鮮半島と山東半島のほとんどを併合していた。
つまり、
戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)、これは朝鮮で言うと箕子朝鮮(〜紀元前194年)の時代と重なるが、燕が、中国の都市市場を前提とした交易経済圏の境界域とその先の朝鮮半島を支配していたことになる。
よって、
朝鮮半島や日本列島を拠点とする遠隔地交易民は、燕の「管理貿易」を担う政商型交易者や、遼寧地方の「自由貿易」をするベンチャー型交易者を介して、中国の都市市場と関係性を持ったということになる。
繰り返しになるが、この時代までは、都市市場は中国にしかなかった。
そうした市場環境が大きく転換する契機となったのが、紀元前107年の前漢武帝による漢四郡の設置による朝鮮の直接経営だった。
巨大「領域国家」が朝鮮半島に進出したために、「領域国家」化の波が朝鮮半島北半に及び、やがて南半に、そして西日本へと及んでいくことになる。
都市市場が朝鮮にも、そして西日本にも育っていった。
遠隔地交易民にとって、辺境の原材料や希少産品の輸出拠点でしかなかった朝鮮や日本列島に、中国由来の文明文化先進の希少産品の輸入拠点、その生産技術の移転拠点、高度人材の輸入拠点となる都市市場が、「領域国家」=「国」には至らぬ小国群の「くに」ぐにとして群化していった。
こうなると、
環日本海交易(主に朝鮮半島東岸)をしていた「出雲族」の前身諸派も
環東シナ海交易(主に朝鮮半島西岸)をしていた「安曇氏」も
その遠隔地交易ビジネスモデルを革新して対応することになる。
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である「出雲族」前身諸派や環日本海各地の「交易ビッグマン」たちは、統合的にネットワークする遠隔地交易ビジネスモデル(追って具体的に解説)を前提に役割分担して協働すべく同盟化した。
(ちなみに、国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者である「安曇氏」はどうしたかというと、
巨大「領域国家」の外臣化しその出先機関として「くに」ぐにを建て、日本列島内ではさらにその飛び地として排他的な交易拠点を展開して交易勢力圏を拡大していった。対外的には、当初は前漢の郡県の前漢楽浪郡の出先機関から始めて、後漢の実質的に諸侯化した公孫氏帯方郡の出先機関へ、そして最終的には魏の東夷政策に直接関わる出先機関と、政商型交易者としての格を上げていった。)
その際、
「出雲族」の前身諸派の同盟「出雲族」化、そして島根半島西部の環日本海交易ハブ拠点の構築という全体構想とその推進はオオクニヌシ(のような盟主)が担った。
一方、
スクナヒコナは、主要交易品目ごとの交易ビジネスモデルの構想者であり、その日本列島側現地の推進者であった。
オオクニヌシとスクナヒコナはともに全国遍歴をしているが、
オオクニヌシは、主要拠点の族長の娘を娶って回って交易関係を締結維持し、交易活動を支える食糧確保のための稲作指導をしている一方、
スクナヒコナは、主要交易品目ごとの産業指導と消費振興をしたと言える。
例えば、
薬種などは、現地の地産地消から始めて、余剰採取を拡大して産業振興につなげることができる。そこが、例えば宝玉を採掘して宝飾装身具に商品化し中国の都市市場を最終消費地として狙う、かつての遠隔地交易ビジネスモデルと異なる点である。
一方、
「領域国家」化の波が直接的に反映したのは、威信財の宝飾装身具や青銅器を消費する都市市場であって、朝鮮半島そして日本列島に「くに」ぐにとして群化していった。その需要に応えてそれらを供給することで、それぞれの「くに」に求める産品を対価として入手することができた。
朝鮮で言うと箕子朝鮮(〜紀元前194年)の時代まで、都市市場は中国にしかなかった。
よってそれまでは、中国から逃げて朝鮮半島や日本列島に渡来した遠隔地交易民は、中国の都市市場を最終消費地とする原材料を調達して輸出するか、それらをアッセンブル加工して商品化して輸出するかしか、遠隔地交易をする術はなかった
と前述したが、
厳密には、諸条件から可能な具体的な遠隔地交易できる産品は限られた。
本州日本海側の「出雲族」の前身諸派の交易産品は、当初は朝鮮半島北部東岸の環日本海交易のハブ拠点に渡海して運ぶという高いリスクとコストの制約条件から、軽量小型で中国の都市市場の需要に中国国内および朝鮮との競合なく応えるものでなければならなかった。
それは、原理的に、
原材料としては、
中国には産出しないか、希少で高価なものが、日本で多く産出され、かつ縄文人を労働力としてコスト安く調達できるものである。
具体的には、そのような薬種や宝玉である。
アッセンブル加工して商品化するものとしては、
日本でしか調達できないものか、中国よりもコスト安く大量に調達できるものである。
具体的には、前者は妙薬として売り込むことができる合薬であり、後者は青銅ベースに宝玉をあしらった装身具、それも王侯貴族の金ベースに宝玉を豪華にあしらったハイエンドの装身具ではなく、宮廷女官や朝廷官吏が身分を示すべく配給された遠目からは金に見える青銅ベースに宝玉をあしらった威儀財の装身具である。
合薬の主な薬種、装身具にあしらわれる主な宝玉が、日本でしか大量に産出しないものであれば脱競合する。
宮廷朝廷側からずれば大量の宝玉が中国より安く調達でき、交易者側からすれば原材料が安く大量仕入れできれば、薄利多売となる。
合薬も、皇帝が探し求める不老長寿の神薬などではなく、同様の薄利多売が見込まれるボリュームゾーン市場が想定され、継続的・反復的な納品が見込める商品化が工夫された筈である。
日本列島においては、「出雲族」の前身諸派の「交易ビッグマン」が本拠地の後背地の縄文人部族に薬草や宝玉原石を採取採掘させ、技術指導をして薬種や宝玉に加工させた。
環日本海各地の「交易ビッグマン」も、それと同じように本拠地の後背地の新石器時代人の部族に原材料を採取採掘させ、技術指導をして単純な加工による商品化をさせた。
そして、中国の都市市場を最終消費地として狙える宝飾装身具や妙薬の合薬が、必須主要の宝玉や薬種が日本列島でしか大量に調達できないとすれば、環日本海各地の「交易ビッグマン」はそれぞれが調達した宝玉や薬種を、島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点に持ち込み、そこでアッセンブルされた宝飾装身具や妙薬を対価として持ち帰るという交易ビジネスモデルの協働関係が成立した。
同盟「出雲族」ふくむ環日本海各地の「交易ビッグマン」は、後背地の縄文人ふくむ新石器時代人の部族の族長やその妻に威信財の装身具を贈与して交易関係を締結維持した。
それは、彼らの伝統様式を踏まえながらも青銅器化・鉄器化して威信性を増した威信財の装身具であった。
受け取る産品の対価は、部族社会の全体に対して食糧調達を効率化・安定化させる中国由来の文明文化を伝授して活用すべき道具工具を供給することだった。それは、調達したい産品の生産に専念する労働力の確保でもあり、労働の効率化でもあった。
衛氏朝鮮(紀元前190年ころ〜紀元前108年)が前漢武帝に滅ぼされ、漢四郡が置かれて(紀元前107年)巨大「領域国家」の朝鮮直接経営が始まる。
否応なく「領域国家」化の波が朝鮮半島の北半に及び、やがて朝鮮半島南半へ、そして日本列島へと及んでいく。
それは、中国王朝に倣った都市市場を発生させていく経過でもあった。
すると、
最初は、様式デザインは違うとしても品質的には中国の巨大「領域国家」の宮廷女官・朝廷官吏と同レベルの威儀財の装身具が、「くに」ぐにの支配層に威信財として供給され需要されるようになったと考えられる。
つまり、
「出雲族」の前身諸派が同盟「出雲族」となり、その盟主が環日本海各地の「交易ビッグマン」たちの盟主ともなった背景には、
原材料の産出地、それをアッセンブル加工して商品化する生産地、その消費地(都市市場)の相関関係が、交易産品ごとに多様化し、また消費地の「領域国家」化の進み具合いによって多層化していったということがあった。
こうなると、
原材料の産出地、商品の生産地、商品の消費地をつなぐ交易ビジネスモデルを構想し推進する言わば「コーディネイター」が必要となる。
朝鮮半島北部東岸、沿海州、朝鮮半島南部東岸、本州日本海側にそれぞれ「コーディネイター」が居て、それぞれの原材料の産出地、商品の生産地、商品の消費地を掌握して、「コーディネイター」同士お互いに交流や通信をして交易ビジネスモデルを具現化した。
彼らは新しい交易産品については、原材料の産出地、商品の生産地、商品の消費地を開拓したり整備したり振興したりから始めて、新しい市場を創出していったと考えられる。
私個人的には、
波の彼方からやってきたスクナヒコナは、「辰韓」(朝鮮半島南部東岸)の「コーティネイター」で、朝鮮半島北部東岸や沿海州の「コーディネイター」と交流があった
日本列島の「コーディネーター」として招聘され、オオクニヌシとともに全国遍歴して、主要交易産品の需給を各地で振興して回って交易産品ごとの交易ビジネスモデルを構想・具現化していった
その帰結として「出雲族」の前身諸派の同盟化が成った
と考える。
オオクニヌシが象徴する「出雲族」の盟主は、環日本海各地の「交易ビッグマン」たちの盟主でもあった。
彼らは、本拠地からわざわざ日本海を渡って島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点にやってきた。
こちらから出向くことなく、どうしてそんなことが可能と成ったのだろうか?
それは、彼らが巨利を得ることができる、以下のような交易ビジネスモデルが構想され推進されたからだと考える。
典型的には、
環日本海各地で産出する各種宝玉を複数あしらった青銅をベースとする装身具である。
環日本海各地の「交易ビッグマン」たちが地元産の宝玉を持ち寄ってきて、アッセンブルした完成品をそれぞれが巨利を得るに足る点数持ち帰る。
つまり、渡海するハイリスクをとって投資すると、ハイリターンを得るという交易ビジネスモデルである。
その際、
複数種の宝玉の内、日本列島産が主体だったり多くを占める
島根半島西部のハブ拠点は産銅地帯に隣接し青銅ベースの宝玉アッセンブルの加工拠点でもある
以上が、島根半島西部がハブ拠点となった理由である。
この環日本海各地の「交易ビッグマン」たちの協働を前提した交易ビジネスモデルは、それぞれが地元産の高価な薬種を持ち寄って妙薬の合薬を持ち帰るというものにもそのまま応用された。
出雲地方は「出雲風土記」が示すように薬草の宝庫であり、古代中国で不老不死の神薬とされ現代中国でも鎮静や不眠症に効く「丹砂」とされる「辰砂」などの鉱物資源も豊富であることが、島根半島西部がハブ拠点となった理由である。
最終的にいわゆる「国譲り」=同盟「出雲族」の解体の前夜、スクナヒコナはどこかに去る。
それは「コーディネイター」として活躍する機会を失って新天地を求めたということだろう。
国家主義の政権意向に従う「管理貿易」とそれを独占する政商型交易者は、脱国家主義の民間主導の「自由貿易」とそれを進めるベンチャー型交易者を排除する。
スクナヒコナはそうした動向をすでに朝鮮半島で体験していて、初期ヤマト王権の樹立を目指す「濊(わい)人」が「安曇氏」を重用し魏朝貢交易に向かうことから、そうした動向を予見したに違いない。
原初的な素朴な段階の「領域国家」では、「管理貿易」はわずかな政商型交易者に独占させ上納をさせるという素朴な制度なので、「自由貿易」は密貿易として一切排除される。
朝鮮半島は先にその段階にあり、日本はヤマトタケルの時代にその段階に入っている。ヤマトタケルの西討東征で討たれたのは、南九州、島根半島、東海関東で従来からやってきた「自由貿易」をそのまま続けていた、ヤマト王権から見ての密貿易者だったと言えよう。
つまり、
スクナヒコナが「コーディネイター」として自由自在に活躍できるような、原材料の産出地、商品の生産地、商品の消費地が複合した「自由貿易」経済圏は、もうどこにもなかった。
スクナヒコナが去った「常世の国」とは、どこにもないユートピアという意味の理想郷だったのかも知れない。
日本列島には、縄文時代以来、錦石、翡翠、目脳、琥珀など玉石および宝玉の産地があったが、同盟「出雲族」の対外的な目玉は、新潟県の糸魚川下流の奴奈川郷で、縄文時代中期(約5千年前)から5世紀頃まで連綿と作り続けられてきた翡翠の玉だったと考えられる。
奴奈川郷は、オオクニヌシが娶った妻の一人、ヌナカワヒメの実家である。その子が「国譲り」に軍事的に抵抗して諏訪地方に追われたタケノミナカタで、彼は実家の翡翠生産拠点が奪われると危惧したのではあるまいか。
また、
島根半島東部に位置する玉造温泉の「玉造」の名の由来は、この地の花仙山で良質の青瑪瑙が採掘され玉製造が行われていたためという。三種の神器の一つ、八尺勾玉(やさかのまがたま)はこの地でタマオヤノミコトが造ったものでスサノオがアマテラスに献上したとされる。
(三種の神器はアマテラスが天孫ニニギに授けた皇統の証であるが、タマオヤノミコトは天孫ニニギの降臨に同行したとされる。スサノオが降りた船通山の麓も、ヤマタノオロチ退治をした肥河=斐伊川上流も内陸の現奥出雲町で、島根半島の東部とも西部とも言えないが、玉造で造られた三種の神器の一つ八尺勾玉の製作者でかつニニギの降臨同行者であるタマオヤノミコトを介して、島根半島東部がヤマト王権と深く結びつけられている。)
ここで、
同盟「出雲族」の本拠、環日本海交易ネットワークのハブ拠点が島根半島西部である
のに対して
ヤマト王権が「出雲国」の国府を置いたのが島根半島東部である
という対照性は重要で留意しておきたい。
一方、
良質な碧玉が、弥生時代から石川県の福井県との県境近くの小松で豊富に産出され、「管玉」という装身具づくりが鉄製の小型工具を用いて行われていた。
小松は、碧玉やメノウなどの玉石の他、良質な凝灰岩の石材や、九谷焼の原料となる陶石、金や銅などの鉱石も産出する。素晴らしい資源にふさわしい加工技術が小松に投入され、小松でつくられた「管玉」は九州まで分布している。当然、これには「出雲族」前身諸派の「交易ビッグマン」たちの交易が介在したと考えられる。
しかし、
関連する神話が記紀に登場しない。
それは、この地が産鉄民である「テュルク族」が上陸した上越であり、この地に最初に「くに」を建てて現地での鉄製小型工具の製造を担ったからではないか。
鉄生産専従民および鍛鉄奴隷とされる「テュルク族」の上陸とは、交易関係にある上越の「出雲族」の前身一派の「交易ビッグマン」と沿海州の「交易ビッグマン」が、匈奴に同行していて離脱した「テュルク族」の入植を交易活動の一環で行ったものと考えられる。
いずれにせよ、
玉石の採掘とその装身具への加工が、縄文人による素朴な段階から、鉄器による量産と高度化の段階へは、大きな飛躍があり
それには大陸の先進文明文化を持ち込んだ中国由来の遠隔地交易民の介在があった
ということは間違いない。
燕から亡命してきた衛氏に攻められて滅びた箕氏朝鮮(紀元前11世紀~紀元前3世紀)、その箕氏(きし)は殷の王族で、殷が周に滅ぼされた際、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じたとされる。当時「朝鮮」は、半島北西部の限定的な地域を指した。
そして、
「朝鮮」という名称は、色鮮やかな岫岩玉(しゅうがんぎょく:岫巖はヒスイの中国最大の産地で埋蔵量も豊富であり「玉都」と呼ばれた)を表現する言葉だったと想像されている。朝は、日が上る東方を意味すれば、中華から遥か東方にある朝鮮半島の位置にふさわしい。
岫岩玉の産地は、遼東半島の付け根で、黄海沿岸から少し山中に入った場所にある。殷王朝の墓から岫岩玉で作られた玉製品が複数発掘されているから、殷では宮廷工房で岫岩玉を含む玉の加工をしていたと考えられている。当時の威信財は青銅器と玉器だった。
よって、
殷遺民の商工民が朝鮮半島北部東岸に逃れて遠隔地交易民となり、その一部が日本列島に渡来して当初の「出雲族」の前身諸派になったと考えられ、彼らが、玉石を用いた装身具づくりを縄文人のそれから飛躍をさせたとも考えられる。
また、
殷が滅んだ時、生き残った玉加工技術者の一部を遼東半島付け根の黄海沿岸に移住させ、岫岩玉の加工工房を再建し箕氏がその工房を差配したという推測もされている。
よって、
箕子朝鮮が衛氏に滅ぼされた時に、その玉加工技術者が朝鮮半島北部東岸や朝鮮半島南部に逃れた可能性もあり、そこから環日本海交易による入植、「出雲族」の前身諸派への参入した者が、玉石を用いた装身具づくりを縄文人のそれから飛躍をさせたとも考えられる。
このようなことは、周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した燕が滅亡した時(紀元前222年)にも起こったが、
当時の朝鮮半島(衛氏朝鮮)と日本列島(中国由来の遠隔地交易民が本拠地とした北部九州・島根半島)への入植や招聘が優先した主要な高度人材は、最先端を行った産鉄民・鉄器製造者や、中国では鉄器に押されて優位性を失った産銅民・青銅器製造者であった。
ここで、産鉄民・鉄器製造者絡みの経過を整理すると以下である。
戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)、燕で製鉄が始まると、燕国内では鉄製農具による生産性向上と可耕地の拡大が始まった。そして秦末の混乱期に、燕の衛氏が現在の平譲近辺に流入し、殷の王族の末裔で鉄製武器に馴染んでなかった箕氏一族とその近臣を追い出し、彼らは海路で「馬韓」に逃れた。
そして「馬韓」は、この時の亡命民を「秦の遺民」と称して彼らに「辰韓(秦韓)」を与ている。それは、その地に産鉄地帯があり、産鉄民・鉄器製造者を入植させたということである。
前漢武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡を設置して朝鮮の直接経営に乗り出す。
すると、一気に「領域国家」化の波が朝鮮半島北半に及び、紀元前1世紀には高句麗(〜668年)が建国する。
中国史料に、
東明聖王(朱蒙)が扶余の7人の王子と対立し亡命して高句麗を建てた
高句麗、夫余(扶余)、東沃沮、濊の言語がほぼ同じである
という記述があること
夫余が、東夷諸族の中でも最も早期(紀元前3世紀)に国家体制を構築した定住農耕民であること
高句麗の建国神話・朱蒙説話と夫余の建国神話・東明王説話が酷似していること
などを背景に、
高句麗と夫余を同族とする説がある。(朱蒙:高句麗の建国者・初代王 在位紀元前37年〜紀元前19年)
しかし、
考古学的には
高句麗が当初より積石塚を中心とするのに対して
夫余は土壙墓または木棺墓であり
その墓制の大きな違いから両者の関連性は見出し難いという非同族説が指摘されている。
私個人的には、
高句麗と夫余について非同族説をとり、
夫余は、定住農耕民から収穫の一部を「濊(わい)人」からみかじめ料として収奪されていた
のに対して、
高句麗は、統一軍を持った軍事国家的な色彩がもとよりあり「濊(わい)人」の収奪を許さなかった
と想像する。
また、
朱蒙(東明聖王)は中国黄帝の後裔であると称していて
中国流の「領域国家」の体裁を整えるべく、中国由来の人材登用と亡命民誘致をしての建国をした
その結果、
中心的な墓制が土壙墓または木棺墓である夫余の墓制ではなく積石塚となった
と考える。
そして、
同盟「出雲族」の共通墓制となった四隅突出型墳丘墓は、高句麗の中心的な墓制だった積石塚を祖型としてそれを簡略化=低コスト化したものと捉えることができる。
それは、
高句麗の中国由来の商工民の一部が朝鮮半島北部東岸で遠隔地交易民となり、環日本海交易を通じて「出雲族」の前身一派として参入した
という可能性を示す。
後漢代には、朝鮮半島南半の「くに」ぐにも「領域国家」化する。
紀元前57年に「辰韓」の地に「新羅」が建国した。
紀元前18年に「馬韓」の地に「百済」が建国した。
それまでの少国群の連合である「くに」から統一的な排他的版図を主張する「国」になった。
後漢末の建安年間(196年~220年)、公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた。後漢の遺民を集めるため公孫摸や張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐した。しかし後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。
それは、
この時代、「国」の「管理貿易」を独占する一部の政商型交易者を除いたほとんどの有力な商工民集団が、後漢の規制や重税を嫌って、朝鮮半島南半の「新羅」にも「百済」にも属さない「自由貿易」の経済特区となっていた産鉄拠点の弁辰に集結したためではないか。
武智氏は、
オオクニヌシが、イツモのミオのミサキで釣りか何かの採集をやっているところへ、ある日、天の羅摩(あめのらま)の船に乗り、ガ(我偏に鳥)の皮の衣服を着て、スクナヒコがやってきた(『古事記』)。ここで両神の協力、米生産のための民族共同体造り(国造り)の活動がはじまるわけである。
と解説する。
武智氏は、
「イツモのミオ」は出雲の美保岬ではないと主張し、内陸に広大で地味豊かな平野を控えた本州の突端、関門海峡か彦島あたりの話である
とする。
私は、
神話が
スクナヒコナが上陸したのはオオクニヌシが釣りをしていた美保岬
オオクニヌシの嫡子コトシロヌシがあっさり「国譲り」を快諾したのも釣りをしていた美保岬
一方、
タケノミカヅチがオオクヌヌシに「国譲り」を迫ったのが伊那佐の小濱(稲佐浜)
ということに留意する。
出雲風土記の「国引き神話」では、
綱で引っ張ってきた土地が流れないように縄で杭に縛りつけたが、
越の都都から引っ張ってきた土地が美保岬、杭が火神岳(大山)、縄が夜見の嶋
新羅から引っ張ってききた土地が杵筑(きずき)の御岬、杭が佐比売山(さひめやま:三瓶山)、縄が園の長浜(稲佐浜がその北端)
である。
以上の島根半島の東部と西部の対照性は、
東部が日本列島内との交易要衝(日本列島内の交易ネットワークの集荷分荷拠点)
西部が日本列島外との交易要衝(環日本海交易ネットワークのハブ拠点)
であることを暗示している。
そして、
ヤマト王権の初期勢力が同盟「出雲族」に
解消を迫ったのが西部
譲渡を迫ったのが東部
だった。
東部は、西部にとっての後背地経済圏である列島内交易ネットワークの最寄りの集荷分荷拠点に過ぎなかった。
だから、西部にオオクニヌシがいて、タケノミカヅチも西部に降下したのだった。
そして、
ヤマト王権の初期勢力は統一的な「領域国家」の体裁で魏朝貢交易を含む「管理貿易」を目指したから、
西部の極東グローバルの「自由貿易」で繁栄したハブ拠点(特に「新羅」=朝鮮半島東岸南部との関係性が深い)があったことは隠蔽して
あくまで東部を「管理貿易」の国内拠点として「出雲国」の国府を置くのだった。
(美保関漁港の西に標高100m~130mの小高い丘がありそこから隠岐島を望める。)
「国引き神話」の解説で割愛したが、
隠岐島は東の島前と西の島後から成り、両者ともに「出雲の北門」とされ、それぞれの一角を引っ張ってきた土地についても語られている。
東の島前が朝鮮半島東岸北部と、西の島後が沿海州と日本海航路で結ばれていたことを暗示している。
一方、隠岐島は、東北北部沖合の飛島、佐渡と(沿岸航路ではない外海の)日本海航路で結ばれていた。
つまり、隠岐島は、日本列島内の高速航路であり、かつ大陸との遠隔航路でもあるという境界性を帯びていたと言える。
スクナヒコナの上陸が、隠岐経由で島根半島東端の美保岬であり、島根半島西端の稲佐浜ではなかったことはとても示唆的である。
つまり、
スクナヒコナが上陸した時点では、「出雲族」の前身諸派は、それぞれが本州日本海側の交易拠点から、それぞれの大陸各地の交易拠点と行き来していた
それが、スクナヒコナがオオクニヌシに協力して同盟「出雲族」となり、東西に長い島根半島を日本列島内外の交易の結節ゾーンにした
それは、島根半島西部の神門水海を環日本海交易ネットワークのハブ拠点としてその盟主(オオクニヌシ)が、日本列島の同盟「出雲族」と大陸側の環日本海各地の「交易ビッグマン」たちを繋いで後者の盟主ともなることで達成された。
つまり、
スクナヒコナが上陸した時点では、島根半島西部はそのようなハブ拠点にはまだなっていなかったのである。
スクナヒコナが「コーディネイター」となって、環日本海各地の資源と需要を結びつける交易ビジネスモデルを構想し具現化することで島根半島西部はそのようなハブ拠点に成ったのである。
ざっくり言えば、
島根半島西部の神門水海の環日本海交易ネットワークのハブ拠点以外は、物流拠点である。
「領域国家」の「管理貿易」では政商型交易者や貿易官吏が通関や税関を担うが、基本的には労働集約型の交易拠点に他ならない。
一方、
島根半島西部の神門水海を環日本海交易ネットワークのハブ拠点は、「神議り」が暗示するように環日本海各地の「交易ビッグマン」たちが集って、主要交易産品ごとの交易ビジネスモデルを構想し推進した訳で、機会開発的な知識創造拠点であった。脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者による知識集約型の交易拠点である。
つまり、
前者は港湾施設と監督施設(ハード)があればどこでも成立するが
後者は知識創造者のしかもキーマンが集って知恵(ソフト)が結集しないと成立しない
のである。
分かりやすく言えば、
前者は貿易港一般
後者は出島のある長崎港や外国人の商館や居留地のある横浜港
と言えば良いだろうか。
私個人的には、
神門水海の環日本海交易ネットワークのハブ拠点は、以下のような交易インフラの集積地だったと考えている。
私個人的には、
神門水海という中海を利用して、船を展示ブースや商談室とした水上国際見本市会場が展開した
中海から河川を遡ったところにある大きな四隅突出型墳丘墓群は、墳丘上をステージとした商品のデモンストレーションをする博覧会パビリオンを展開した
と考えている。
このメッセのように大口の売り手と買い手という「交易ビッグマン」同士が集い商談する交流文化は、すでに中国の王都で発達していた。
それをコスト安く再現する、内海と船を前提とした水上版を、中国由来の遠隔地交易民であれば発想できた筈である。
島根半島西部の神門水海という中海には、東部の中海にはない重要な特徴がいくつもあった。
◯隣接する山地が産銅地帯であり、青銅ベースの宝飾品の生産拠点を至近にもてること
◯河川を遡行すると博覧会パビリオン的にイベント使用できる四隅突出型墳丘墓群にすぐに行けること
◯中海の形状から水域を区切って活用できること
河口付近の浅い北部水域を水上国際見本市会場に
比較的深い南部水域を列島内外の交易ビッグマンが長逗留する交易船の停泊場所に
水上国際見本市会場では、人の入退場や物の搬出入が厳しく管理され安全と防犯が保証された
出展者は展示商談ブースとなる同一規格の船を貸与され、入場客は同一規格の小舟で行き来した
◯中海と外海を一望できる丘陵頂部(現在の出雲大社大鳥居がある)があり
そこに灯台を兼ねた高層物見櫓を建て
海賊の襲来などに際してそこから急報が水上国際見本市会場にすぐにもたらし
出展者と来場者を安全に避難させる逃走路を確保できること
◯水上国際見本市会場となった河口付近の浅い北部水域の岸辺に
高層神殿を建てどこからでも見える貴重品の共同保管庫として
出展者と来場者の財貨の安全を保障できること
*盗賊が襲撃した際は階を破壊してしまうと神殿部=保管庫部に上がれない
◯万一の場合、宝飾品を守ることが容易にできること
浅い中海底の砂地に散布し後から鉄櫛で底引きして回収する*
*「そこり舟による赤貝桁曵き漁」
「日本人らしさ」の起源と「移動民〜転住民〜定住民」(4:その1)
http://cds190.exblog.jp/22293867/
へつづく。