赤信号と黄信号のざっくりとした一般論。 |
どこまでが心因的な症状でどこからが身体的な症状かは分からない。やる気にならなかったり元気が出ないのも同じだと思う。症状と書いたが、病気かどうかも分からない。
すべて二項対立ではなくグレーゾーンを介在する相乗関係にあるからだ。
明らかなことは、問題は原因がどちらかではなく気力や体力の減退の程度だ、ということ。
で、重要なチェックポイントは、好きで習慣的にしていたことまで面倒になるか、それは人にやるなと言われてもしてしまうか。
後者はムラがあるというレベル、前者は赤信号。
もう一つ。
人間、同じことを同じやり方でする、しかも相手があることだと条件反射的にできてしまう、そういう習慣というものがある。そこでは赤信号が出にくい。
だが、同じやり方で済む筈なのにちょっとしたイレギュラーなことが起こったり相手に起されるとついカリカリしたりキレたりしてしまう、人によっては鬱っぽくなったり自己否定的になったりするとしたら、赤信号を疑ってみた方がいい。
赤信号の人は医者に診断してもらうべきだが、厄介なのは赤信号の手前の黄色信号の人が一般大衆として増えること。
彼らは、多少ネガティブな事柄でもずうっと変化しなさそうなら秩序として受け入れて心理的に安定する方に向かっていく。
その秩序体系の中に暴力や死といったタナトス的要素が組み込まれた段階で、空気全体主義は真正の全体主義に昇華する。
それは社会全体の病いであり誰も治せない。
一人一人それぞれにすでに、習慣として形成されている暮らし方や仕事の仕方ではない、新しい試みを避けて拒むようになっていて、自然治癒も自己治癒も励まし合って治す恊働にも向かわない。
つまり、そうなる前の黄信号が分岐点で、赤信号とは立ち入ったらアウトだよということなのだ。
ちなみに、秩序体系の中に暴力や死といったタナトス的要素が組み込まれた真正の全体主義には社会全体が一気に転換するのではない。
人々の生活世界の部分部分に空気全体主義が蔓延りそれがそれぞれに真正の全体主義に転換し、主要部分が転換したところで社会全体が真正の全体主義に昇華する。
建前はともかくも本音としてはしょうがないとイジメを許してきた学校社会、過労死や各種ハラスメントを許してきた企業社会という部分社会は、すでに真正の全体主義化の側面を持っている。
それが建前として許されざることで否定されている内はまだ社会全体としては、お上に楯突くことを言って波風を立てることやそうする者が敬遠される空気全体主義にとどまっている。
しかしより上位の建前が出現して、そのためには許しても致し方ないとなれば、イジメやハラスメントがまるで秩序や制度の一部になったかのような位置づけを得ていく。
以上はけっして机上の抽象論ではない。
すでに福島県では、放射能汚染について口にすることがタブー化していて、学校給食の牛乳を拒んだ生徒が教師から「自分だけ長生きしたいのか」と恫喝されたという。
こうした部分社会は、すでに真正の全体主義になっていると言える。
これはかつて一億玉砕に向かった日本の全体社会の具体的様相であった。