シュールな現代神話に漂う私?私たち?マトリクスの世界?? |
遠い国の知らない人々が死んだり子供たちが健康を損なっても自分たちが良ければいいという気持ちを正直もってきた。
だけど、知り合いが急死したりこの国の子供たちが鼻血を出しても、まいっかとスルーするだけの人が多いという現実には正直参った。
自分や家族に火の粉がふり掛かってきても仕方ないで済ますだけの人たちがメジャーで、どうにかしようじゃないかと言い出す人がマイナーだった。
自分がいい歳していかに世間知らずだったか分かって正直脱力した。
自分が人並みに非力だということは十分弁えてきた。
だからこそ、非力な者同士が市民として対話し連帯することで何かができると、タンジュンに考えてきた。
私がエエカッコしている訳ではない。
なぜなら、企業社会では対話と恊働を人材育成で力説するのをみな聞いてきたし、関係者は誰もがそう教えてもきたのだ。
ところが、そういう企業社会の常識をほとんどのビジネスマンは市民社会で通用させようとしないか、通用すると思っていない。
これに驚く私は愚かなのだろうか。勘が悪いのだろうか。
みんなお約束で建前の話を交わしていただけなのだろうか。
ビジネスと時事問題では違うのだろうか。
だが、自分と家族の命や健康に関わることに目をつぶって、どのツラ下げて生活者志向だとか企業市民とか言ってられるのだろうか。
そこは都合良いところで切り離したり不問に付すのが大人なのだろうか。
だとすれば私はずうっと子供できてしまった。
さらに愕然とするのは、気にする人を放射脳だとか、事実を伝えよう明らかにしようとする人を風評被害だ名誉毀損だとか、給食を拒む生徒や親に自分だけ助かりたいのかとか責め立てる人が多くいることだ。
はじめて世間というものを恐怖するようになった。
生前、父が話していた戦前の全体主義の地域や軍隊の空気はこれなのかと思う。
果たしてみんな異常だと思っていないから、対話しないのか。
異常だと思うが諦めているから、対話しないのか。
それともすでに、世間から弾かれるのが怖くて、口を閉ざしてしまったのか。
これでは、市民どころか顔見知りとも連帯しようがない。
いくらSNSが発達して誰もがスマホをかっこよく使いこなすようになっても、
この国にはアラブの春は来ないのか。
戦前のように、隣組に入れ込まれ相互監視のもと連帯責任を負わされるようになっていくのか。いやすでに、経済至上主義の現代社会版のそういう状態にあるのか。
一方、テレビ画面ではお笑い芸人たちとタレントたちが入れ替わり立ち替わり24時間365日くだらない話をして笑っている。みな明るく健康的でカワイく快活な話題ばかりだ。人間関係もゆとりと希望をもった同士の穏やかで豊かなものという印象だ。
そんなテレビ画面の世界とは真逆の現実や人間関係がそこかしこに根をはっている。
このような現実とテレビの世界の仮想現実の対照的なセットは、真実は小説より奇なり、なんてレベルをはるかに超越している。
私たちは日本の歴史そして人類の歴史の渦中にいると思うのだが、
あまりの不条理の錯綜はあたかも台風の目が無風状態であるように、
善悪の彼岸にある神話の中を漂うかのようだ。
私たちは神々の行いにただ振り回されるだけのあくまでも無力な存在なのか。
ただこのシュールな現代の神話は、神々のように振る舞う一部の不条理な人間たちと、それに振り回されることを甘受するだけのやはり不条理な大多数の人間によって織りなされているのだが。。