(1)
のつづき。
高層神殿は「出雲神話」の編纂中に後付けの証拠として建てられた現在の出雲大社の神殿前から心の御柱の根っこが発見されて、実際にそこに「国譲り」譚に出てくる「高宮」、高層神殿が立っていたことが明らかになった。
大学の研究室やゼネコンの研究所が多くの復元案を提示していて、その様式は総じて長い階をもった高床式穀倉である。
私は出雲大社の現地を視察して、大鳥居のある丘陵頂上からダラダラ坂を降りてずっといった山裾の窪地に、「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」と奈良東大寺大仏殿、平安宮大極殿に勝る日本随一の高さを誇った「高宮」が建てられていたことを知り、不思議でならなかった。
なぜわざわざ、高さを打ち消す窪地に、しかもその雄姿を遠望する視界を狭める山裾に建てられたのか。
そこにはヤマト王権の隠された意図があるに違いないと直感した。
「出雲族」が島根半島西部を環日本海交易ネットワークのハブ拠点として発展した遠隔地交易民だったと捉える私は、内海の神門水海と外海の日本海の両方を眼下に望める、出雲大社の大鳥居のある丘陵頂上に、物見櫓としての高層構築物が立っていたと考える。
それが「国譲り」の前段でタケノミナカタがタケノミカヅチに軍事的に対抗した際に破壊され、オオクニヌシが「国譲り」の条件交渉において遠隔地交易の続行と港湾インフラの復興を求めた。
「実際に起ったこと」としては、ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」はこれを許さなかった。
その際、オオクニヌシが求めたのは「高層神殿」の建立などではなく、あくまで港湾インフラとしての物見櫓の高層構築物であったと考える。
ヤマト王権は後世、『古事記』によって、出雲と「出雲族」が遠隔地交易で発展などしていない、あくまで出雲は信仰拠点であり、「出雲族」は全国の主要神社を消費センターとする「信仰共同体」と同様の存在であると印象づけた。
それを後付けで証拠立てるべく、丘陵頂上に破壊された物見櫓の代わりに大鳥居が建てられ、「高宮」が交易を連想させる港湾から最も遠い山裾の窪地に、交易のための港湾インフラを決して想起させない遠望の限られた形で建てられたと考える。
もし「高宮」の大学やゼネコンの復元案が正しいならば、「高宮」の建立は、高床式穀倉の神社建築様式が標準化されたのが伊勢神宮の第一回の式年造替なのだからそれが行なわれた持統天皇4年、690年から後のことではないか。
『古事記』の編纂が最初に企画されたのが天武天皇の時代(673〜686)で、編纂が成って太安万侶が元明天皇に献上したのが和銅5年(712年)である。
よって「高宮」は、復元案のような神社建築様式であるならば、『古事記』の内容を証拠立てるものとして、690年から712年までの間に建てられた可能性が高い。
また、長い階に着眼しても、それは仏教建築によって伝来した木造建築方式であるから、蘇我氏が仏教建築を私的に建立した6世紀前半から後のことでなくてはならない。
いずれにしても、「国譲り」というヤマト王権樹立期に「高宮」という高層神殿が建てられた訳はないのである。
しかし、後世の日本人は『古事記』の記述と「高宮」の存在によって、
出雲大社に象徴される出雲は信仰拠点であって
オオクニヌシに象徴される「出雲族」は「国造り」「国譲り」したものである
と信じ込まされてしまった。
そして、「出雲族」がじつは出雲を遠隔地交易で発展させた交易民だったなどと想像すらせずに来てしまった。
「国譲り」以前の「出雲族」は脱国家主義の遠隔地交易民だった
殷(紀元前17世紀ころ〜紀元前1046年)が滅ぶとその遺民は行商や露天商として流浪の民となった。殷の蔑称が「商」で、その民の蔑称の「商人」が商業者をさすようになったという。
その「商人」の一部が朝鮮半島北部東岸に辿り着いて、そこで環日本海に向けた遠隔地交易拠点を形成した。
その内の島根半島に渡来した交易ビッグマンが率いた遠隔地交易民が「出雲族」の始まりと考えられる。
「出雲族」が繁栄したのは、環日本海交易ネットワークのハブ拠点を島根半島西部の中海に構築し、オオクニヌシに象徴化される首長の交易ビッグマンが環日本海交易ネットワークの盟主となったことによる。
『古事記』ではオオクニヌシは「国造り」をしたとされるが、オオクニヌシがしたのはハブ拠点の交易活動を支える後背地経済圏の、主要交易品目の生産拠点を開拓しネットワークすることによる形成だった。
その方法は、神話にあるように生産拠点の縄文人首長の娘を娶ってまわるという縄文人部族の「贈与」経済の原理にのっとるものだった。
(朝鮮半島北部東岸の環日本海に向けた遠隔地交易拠点から日本列島に渡来した交易民は、直接、島根半島だけに渡来した訳ではなかった。転住を繰り返して有望な拠点をネットワークして、最終的に島根半島西部をハブ拠点としたと考えられる。
たとえば庄内平野は、平安初期に石鏃が降った所として正史に記録されているが、鳥海山の山麓から海に突出した三崎山からは、大陸からもたらされた本州最古の青銅器が出土しているという。これは青銅器を主要交易品目とした彼らが、島根半島よりも前にこの地を拠点化した可能性を示している。)
「出雲族」の交易の特徴の第一は、
日本列島の縄文人部族の「贈与」経済を、中国の都市市場の「交換」経済に接続したことである。
これは、朝鮮半島北部東岸と環日本海各地の交易拠点の遠隔地交易民の共通の方法論だった。各地の交易拠点の後背地にはそれぞれの先住民部族とその「贈与」経済があったと考えられる。
(負い目感情の経済である「贈与」経済を、一般的な商取引である「交換」経済に接続するにおいて、鍵になるのはオオクニヌシによって象徴される「交易ビッグマン」である。
「交易ビッグマン」は、古代中国の侠客的な豪商から清水次郎長のような港町の親分、欧米のマフィアまで古今東西に多様に存在する。何らかの縄張りで「交換」経済の商売をしながら、様々な取引相手と「贈与」経済の関係づくりをすることで、交易拠点と交易ネットワークを維持発展させる。
文化人類学的には、戦争も交易の一種とされる。だから秦末の動乱で一介の侠客から成り上がった漢の高祖、劉邦などの「戦争ビッグマン」も「交易ビッグマン」に隣接する存在と言えよう。)
「出雲族」の交易の特徴の第二は、
もともとが中国の都市市場についての知見をもった「商人」であったがゆえに、統一王朝である秦漢代に貨幣経済の進展とともに中国の都市市場が官需に加えて民需も拡大成熟したことを知っていて、
都市の消費ニーズを満たす商品を、その原材料を環日本海各地から集めて加工アッセンブルして提供するビジネスモデルを展開できたことである。
これは、縄文時代以来の自然発生的な自由貿易を、極東グローバルないわば脱国家主義で発展させたものである。
同じ交易民でも朝鮮半島と集中的に関わった朝鮮半島南部と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」や、そもそもは呉の遺臣であり海上交易民となって北部九州を拠点とし後漢帯方郡の出先機関として「くに」を建てた「安曇氏」との大きな違いである。
「安曇氏」は「領域国家」化が先行した漢および魏の郡の出先機関となって、
「倭人」は「濊(わい)人」を全面的にバックアップして「領域国家」としてヤマト王権を樹立させて、
ともに言わば国家主義で「領域国家」の管理貿易を展開したことと好対照である。
遠隔地航海の舶載輸送のコストとリスクを考えると、扱う商品は軽量小型の中国では生産されない希少価値商品に限定される。
具体的には宝飾品や薬品であって、中国にはないか中国より格段に安く入手できる原材料を用いた、しかも先住民の技能でも原材料を量産できる商品でなければならない。
軽量小型の宝飾品の場合、
環日本海の交易拠点の交易ビッグマンたちにそれぞれの後背地から産出される原材料を持ち寄らせ(投資)
これを加工し青銅をベースとしてアッセンブルした多様な宝飾品を持ち帰らせる(リターン)
というビジネスモデルだったと考えられる。
こうしたビジネスモデルが島根半島西部のハブ拠点で可能となった背景には、
無論、環日本海交易ネットワークに参加した交易ビッグマン同士が、殷を逃れた中国商人以来、亡命中国商人およびその後裔として、漢字文書による商業通信を実物取引の事前に行なったという文明文化の進展度合いという基礎的条件があった。
(遠隔地交易は、新交易拠点開拓というアドベンチャーに始まるが、ベンチャー・ビジネスとしてルーティン化する段階では、実物取引事前の商業通信をする取引相手と双方向の通信手段の確保が必須となる。)
そして、
その上で
◯島根半島が環日本海エリアの中心的位置にある地政学的条件
◯漢および魏に発する「領域国家」化の波とそのための動乱という、自由貿易に対する不安定要素が日本列島の本州には至っていなかったという政情条件
◯ハブ拠点となった中海に隣接して産銅地帯があり青銅加工ができたこと
そして本州の比較的近いところ(ヌマカワヒメの実家の古志)に翡翠の産出拠点があり
後背地にその加工拠点(玉造温泉)を設けることができたという産業立地条件
◯いわゆる宝石、玉の類いは極東では産地が日本列島に集中しているという資源環境条件
があったことが上げられよう。
日本列島の資源的条件としては、
◯翡翠:古くは玉(ぎょく)と呼ばれ金以上に珍重された
中国では他の宝石よりも価値が高いとされた
産地→世界最古の翡翠加工が新潟県の糸魚川周辺遺跡で
縄文時代中期(紀元前3000年)から始まっている
糸魚川がそそぐ海岸は通称「ヒスイ海岸」と呼ばれ
漂着石として翡翠の他、時にはルビーやサファイアも見つかる
◯瑪瑙:錦石は、青森県の津軽地方で採れる瑪瑙や碧玉、珪化木などの
磨くとつやのでる美しい色彩の石
産地→青森県、石川県、富山県、北海道
◯琥珀:「琥」の漢字は、中国において虎が死後に石になったものと
信じられたことに由来
琥珀の利用は旧石器時代にまで遡り
北海道の「湯の里4遺跡」「柏台1遺跡」出土の琥珀玉
(穴があり加工されている)はいずれも2万年前の遺物とされる
産地→岩手県の久慈市
◯珊瑚:赤珊瑚が珍重される
産地→高知県の土佐湾、小笠原諸島、沖縄諸島
環日本海交易ネットワークを構成する朝鮮半島東岸と沿海州の資源環境条件としては、
◯朝鮮半島:多種類の金属鉱脈があり
産金の歴史は古く144年に遡る
加藤清正が威鏡南道端川郡檜億銀山の銀鉱を製錬し
これを豊臣秀吉公に献上したという
◯沿海州:日本海とウスリー川およびアムール川下流部との間の峡谷に
分けられた数本の山脈からなるシホテアリン山脈で
石炭、錫、金を産出する
錫は有史以前から知られている材料で、青銅などの合金に
使用される
日本列島を含んだ環日本海各地の原材料を組み合わせることで様々な宝飾品を商品化することが可能だったこと
そのためのハブ拠点として島根半島が最適立地だったこと
は確かである。
ただし、
「出雲族」が島根半島西部を環日本海交易のハブ拠点として中国の都市市場向けの宝飾品を商品化するにおいては、
金ベースではなく青銅ベースであることが重要な不可欠のポイントだった。
それはどういうことか。
中国の都市市場は、統一国家をなした秦漢時代に貨幣経済によって発展し、朝廷や王宮の官需だけでなく庶民の富裕層や一般層の民需も拡大した。
そこで金ベースの宝飾品は、王侯の妃や豪商の婦女が消費し、そのニーズに応えて中国国内で生産されていた。この市場に、遠隔地の文明文化後進の地から参入することは不可能である。
一方、青銅ベースの宝飾品ならば、宮廷の多数を占める女官に配給され、庶民の一般層の婦女が消費することを前提する。これであれば、中国国内では宝石のコストが高くて生産しても高くて売れない。だが、環日本海各地の先住民部族から入手したコストが安い宝石を青銅ベースでアッセンブルすれば、ターゲット階層への配給や販売が可能となる安価な普及品を商品化できるのである。
緑青がはえると青くなるので「青銅」と呼ばれるが、手入れを欠かさなければ「金銅」とも呼ばれるように遠目からは金無垢ないし金メッキに見える(ex.出雲地方でまとめて出土した銅剣)。
女官の配給品や庶民婦女の普及品であれば金製を模した青銅製で十分であり、その市場のボリュームは巨大だ。
また、中国の都市市場では普及品・配給品の類いでも、環日本海各地の先住民部族や中国北方の遊牧民部族では高級品・威信財の類いとなりその首長層をターゲットとした交易アイテムとなった。
中国の都市の消費ニーズを満たす商品を、その原材料を環日本海各地から集めて加工アッセンブルして提供するビジネスモデルは、
中国では入手困難な「妙薬」という医薬品(合薬)でも成り立つ。
これについては追って検討する。
いずれにしても、
「出雲族」の島根半島西部をハブ拠点とした遠隔地交易がこうした中国の都市市場の「交換」経済と日本列島の部族社会の「贈与」経済を接続する形で成立したとすれば
それは中国の統一王朝が「領域国家」として貨幣経済を発展させた後で
島根半島西部を含む環日本海の交易拠点が「領域国家」化によって管理貿易の管理下に組み込まれる前まで
ということになる。
朝鮮半島の「領域国家」化は、前漢の武帝による直接経営に始まり、おおよそ北から南へ、高句麗そして百済や新羅へと展開した。
中国都市市場への陸路の輸送チャネルに接続した朝鮮半島北部東岸の交易拠点が、「領域国家」の管理貿易の管理下に下れば、出雲のアッセンブル型のビジネスモデルのうまみは損なわれる。
オオクニヌシが「国譲り」という、遠隔地交易のハブ拠点の解消と日本列島内外のネットワークの譲渡にあっさり応じた背景には、こうした極東の交易情勢の変化がすでに始まっていたか、予測があったと考えられる。
このような環日本海の遠隔地交易をした「出雲族」は、もともと遠隔地交易をしてきた日本列島各地の縄文人交易民を交易相手や交易恊働者とした筈である。
列島内の沿岸航路を縄文人交易民が担い、大陸との外洋航路を「出雲族」が担うという分担恊働をし、やがて混淆していったのではないか。
そのような構図として、『出雲風土記』の「国引き神話」を解釈することができる。
朝鮮半島南端と北九州沿岸を行き来し交易活動を当該海域に限定した「倭人」
これを除いた一般的な縄文人交易民は、縄文時代の悠久の古から黒曜石などの交易を活動海域を制限することなく展開した言わば「海の転住民」だった。
「出雲族」の交易相手や交易恊働者となったのは、本州や北海道の沿岸を拠点としたこの一般的な縄文人交易民の方だった。
これに対して朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点として縄文人交易民である「倭人」は、活動海域を両地域が挟む海域にほぼ限定する言わば「海の定住民」と言うべき例外だった。
「出雲族」は、
日本列島に渡来する前に朝鮮半島南半東岸に渡来して交易拠点を設けた可能性
そして島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を設けた後もそこに出向いた可能性
がある。
出雲神話のスサノオが母の住む国として行きたがり最終的に定住した根堅洲国、それはオオクニヌシとなる前のオオナムチが兄たち八十神から逃げて「国造り」に向け再起した地でもあるが、朝鮮半島南半東岸を想起させる。
朝鮮半島南半東岸には、漢民族の交易者が来ていて漢民族の亡命民の流入が繰り返された。
彼らは「出雲族」の交易者と顔を合わせ、縄文人との混淆が進んだ「出雲族」のことも、朝鮮半島南端や北九州沿岸から来る縄文人交易民の「倭人」と一緒くたに倭人と呼んだ公算が高い。その際「出雲族」は、自分の祖先は殷遺民の「商人」だと、中国人に蔑視された出自をわざわざ明かすことはなかった筈である。
よって、
殷遺民の「商人」が朝鮮半島北部東岸で遠隔地交易拠点を形成しそこから島根半島に渡来した「出雲族」
だが、「倭人」と呼ばれ自らもそう自称したということが、殷代に続く西周代(紀元前1046年ころ〜紀元前771年)以降、つまりはおおよそ国立歴史博物館の年代区分にのっとった弥生早期以降にあったと考えられる。
なぜ主要な交易が
「安曇氏」「倭人」が鉄素材輸入だった時期に
「出雲族」は小型青銅器だった
と考えられるのか
結論めいたことを先に述べればこういうことである。
「出雲族」の環日本海交易は、言わば「領域国家」化を逃れる脱国家主義の自由貿易である
のに対して、
「倭人」や「安曇氏」の朝鮮交易は、言わば「領域国家」化を支援する国家主義の管理貿易(朝貢交易を含む)である
という好対照があった。
「出雲族」だけでなく古今東西、自由貿易が健全に発展するには平和が不可欠の前提であり、自らの管理貿易下に入ることを強いる「領域国家」を避けるのは当然として、「領域国家」同士が戦争する動乱をも避けた。
さらに「出雲族」の場合、縄文人という先住民に対して対等に、つまりは平和裡に交流して、彼らを交易相手あるいは交易産品を生産する生産民とした。(この平和志向は『古事記』のオオクニヌシ譚の全体から読み取れる。)
よって、
「出雲族」の脱国家主義はけっして無軌道な不安定な交易をするものではなく、逆に安定した交易をするための平和主義であった
と言える。
(平和主義には、積極的か消極的かという以前に、
国家主義を前提にした平和主義=国家間外交による
国家主義を脱して平和主義=市民や企業の民間交流による
の2つがあるのは現代世界でも同じである。)
その上で「出雲族」は、
中国の統一王朝の秦漢代に貨幣経済が発達し単なる朝廷や宮廷の官需だけでない庶民の民需を含んで巨大化した都市市場の「交換」経済と
日本列島に残存していた縄文人部族が原材料を供給する「贈与」経済とを
宝飾品や「妙薬」「霊薬」の普及品といった非軍需品を媒介に接続した。
オオクニヌシを盟主とした環日本海交易ネットワークの大陸の交易ビッグマンたちも、
競合する「領域国家」各国の官需と民需に対応する際、特定の国の管理貿易下に入らずにあくまで自由貿易を行ない、かつ取り扱う交易産品を非軍需とすることで、国家間の動乱に巻き込まれることを回避した。
(「領域国家」化とは、統一通貨化ないしは特定産品の基軸通貨化とそれらによる主要な交易産品の公定価格化を含む。
交易者が基軸通貨的な特定産品ないしは統一通貨の使用が強制されれば、それは自動的に、通貨発行権者である国に交易活動の上前がはねられる管理貿易となる。特定の国の管理貿易下に入った交易者が他国の官民と取引した場合も、自動的に交易者を管理下におく国を利することになる。)
一方、
朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」は、縄文時代以来、当該海域で自然発生的に自由貿易の遠隔地交易をしてきたが、朝鮮半島の「領域国家」化=管理貿易化で食いっ逸れる。(管理貿易の利権を得るのはごく一部でそれが交易と利益を独占する。)
同様に、朝鮮半島の小国群から未勝目料をとってまわっていた黒幕的二重支配者であった騎馬民族の「濊(わい)人」も、「領域国家」が統一的な軍隊によって国内の安全保障をするようになり食いっ逸れる。(「領域国家」において支配層としての地位を得るのはごく一部でそれが軍事部門を独占する。)
そこで「倭人」は日本列島で征服王朝を建てることを「濊(わい)人」に持ちかけそれを全面的にバックアップした。(九州への上陸=「天孫降臨」、九州での養兵=日向三代、黒潮にのっての一気の海上東征して「テュルク族」を連合する「邪馬台国」を降伏させる=神武東征。)
それは成功報酬として、新王朝の管理貿易を独占することを約束するものだった。
つまり、
この段階から、「倭人」は「領域国家」の管理貿易を独占する政商型交易民に転じた
ということになる。
だが、
神武東征は難航する
それを「邪馬台国」と同じく魏を仰いでいて同盟関係になった「伊都国」の長官=「安曇氏」が「邪馬台国」の宰相を謀殺することで好転させた。
そして、
その功績によって「安曇氏」も新王朝の管理貿易をシェアすることになっただけではない
新王朝の「領域国家」としての体制整備においては、呉の遺臣を祖として漢や魏の郡出先機関として「くに」を建てて朝貢実績もあった「安曇氏」が縄文人交易民の「倭人」よりも重用されてしまう。
「安曇氏」は、呉の遺臣が軍船で五島列島に逃れて海上交易民となり北部九州を拠点とし、漢の郡の出先機関として「くに」を建てて以来、「領域国家」の管理貿易の独占を志向する政商型交易民であり続けた。
ヤマト王権では、下った「邪馬台国」の魏(西晋)への朝貢を実質的に補佐した。「倭人」と管理貿易の交易利権をシェアするだけでなく、渡来人を入植させて官需の鉄製武器の生産拠点を構築してその調達利権を独占した(物部氏、肩野物部氏)。
さらに後世には、北九州の拠点を失うも、全国のアズミに発音の似た各地の主要な交易産品の生産拠点に分布して、国内外の交易ネットワークを中央の「贄人」と地方のその配下として担ったと考えられる。
おおよそ「倭人」と「安曇氏」は、ともに朝鮮半島南半から北九州にかけてを活動範囲として、「領域国家」の管理貿易の独占を志向した政商型交易民だった。
そして、彼らの最も主要な交易産品は、鉄素材と鉄製武器だったことは間違いない。
なぜなら、それらが「領域国家」化と「領域国家」同士の競合を勝ち抜く上で不可欠な、軍国主義の富国強兵策を具現化する官需の筆頭だったからである。
それは、自立的に自由貿易を貫く交易民の「出雲族」が平和主義で宝飾品や薬品の普及品といった非軍需で都市市場の民需を重視するのと大いに異なる。
ここで青銅器と鉄器について基礎的な知識を整理しておきたい。
そもそも青銅器も鉄器も西方・西域から中国に伝来した。
青銅製の武器を用いた殷を、鉄製の武器を用いた周をはじめとする殷に支配されていた周辺部族の「くに」ぐにが共同して滅ぼした。
また、殷は文字(漢字)を使っていて門外不出としたが、周辺部族はこれを盗んで使って言語の壁を乗り越えて共同した。
ではなぜ、文明文化的に劣った周辺部族が、青銅製武器の殷を鉄製武器で滅ぼすことになったのか?
それは、もっとも西に位置した部族の周が鉄製武器を先行入手し、これを殷をとりまく周辺部族に供与したためで、文字(漢字)の入手と供与とともに殷攻略のリーダーシップをとったものと考えられる。
(ちなみに、鉄剣の性能は後世にかけて向上していくが、前漢の武帝が匈奴を敗るまでは、騎馬民族の鉄剣の方が漢民族の鉄剣よりも性能が優れていた。
武帝は、匈奴を挟撃するべく大月氏に勅使を派遣した。どこにあるとも知れない大月氏への旅は長い年月と艱難をともなった。挟撃策は成就しなかったが、勅使が匈奴の鉄剣を上回る性能の鉄剣を製造する技術を持ち帰ったのだった。)
鉄剣と鉄製武具の高性能化とその量産体制は、「領域国家」化および「領域国家」同士の競合において最優先課題であった。
戦国時代、天下を統一する国家となるにはこの課題において他の追随を許さないことが不可欠だったことは明らかだ。
春秋時代がいつ戦国時代になったかについては諸説あるが、鉄器の普及をもって画する説が多方面のことを分かりやすく説明する。
それ以前の青銅器の時代、殷代の遺跡でも鉄器が発見されているが、製鉄技術が低くて鉄はとてももろく青銅よりも下に見られていた。
それが春秋時代中期ころ、紀元前600年ころ、楚の国で製鉄技術が発達し硬くて強い鉄ができるようになった。この製鉄法は鋳鉄法で、西方の製鉄法が鍛鉄法であることから、中国で独自に開発されたものと考えられている。一説には青銅器の鋳造法が製鉄に応用されたという。
戦国時代、廉価で鉄の武器や農具が作られて広く普及するようになる。すると開墾が進み生産力も飛躍的に拡大し耕作地そして領有地が拡大して「くに」となり、「くに」ぐにがさらに再編統合して「国」=「領域国家」となっていった。
鉄器の普及は農具などの日用品から広がった。
武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。
秦でも高度に精錬された青銅剣が使われ、始皇帝(在位:紀元前246年〜紀元前221年)が中国初の統一王朝をなした時代に鉄製武器の威力が発揮されたと考えられる。
秦代、公地公民の理念のもと、条里制で規定された家族単位に田畑とともに鉄製農具と耕牛が貸与された。
やがて耕牛を所有して富裕化し私有地を拡大した族的結合である「豪族」が台頭、武装自衛して自立勢力化する。
漢代には、「豪族」は国家体制に組み込まれ官僚を輩出して貴族化、中には遼東に半独立政権を樹立した公孫氏のように諸候化する「豪族」も出てくる。
漢代、当初は鋳鉄は民間の投機家が独占して富裕化するが、前漢の武帝が紀元前119年にすべての鋳鉄所を国営化し(鉄官)、皇帝がその製造を独占、政府の役人が鋳鉄製品の大量生産を管理し塩、酒とともに専売化した。後に酒の専売は解かれるが、塩と鉄の専売は後漢でも続いた。
「安曇氏」の「肩野物部氏」が鉄器製造拠点を構築し「物部氏」が国軍的な軍事豪族となった経緯は、こうした中国の「領域国家」による鉄の製造独占や専売を踏まえたと考えられる。
後漢代、鍛鉄技術が飛躍的に向上して鉄製の武器に革命が起った。
それまでは鉾(ほこ)や戟(げき)や刀が主流で、鋭利な切っ先で刺突する槍はなかった。脆い切っ先しか作れず、重さで叩き切る、重さで突き刺す武器が重用された。
それが鍛鉄技術の向上で、細身であっても切っ先で刺突する精度の高い鋼が作れるようになったのである。
後漢代、朝鮮半島以南で精度の高い鋼が作れるのは弁辰に限られ、「領域国家」化を目指し始めた朝鮮半島の「くに」ぐにはそれを競って入手しようとしたと考えられる。
そんな時代に至るまでの朝鮮半島の経緯を振り返っておこう。
前195年、漢朝の高祖の幼なじみだった燕王が謀反の嫌疑により漢軍の討伐を受けて匈奴に亡命、その部下、衛満が朝鮮半島に逃れて衛氏朝鮮を建てた。
前漢の武帝(在位:前141〜前87)は朝鮮半島の経営に直接乗り出し前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして漢四郡(かんのしぐん)を設置する。衛氏朝鮮には中国からの亡命民が多くいた筈だったがすでに南下していた。
秦の始皇帝の労役から逃れてきた亡命民(秦人)を馬韓が、その東の地を割いて住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、辰韓の言葉には秦語(長安に都があった頃の標準語)が混じり秦韓とも書いたという。
朝鮮半島には秦代から前漢代にかけて中国からの亡命民がいて、漢朝の直接経営が朝鮮半島北半に及ぶとその地の亡命民はさらに南下した。
後漢代、自立化した公孫氏が、204年、楽浪郡の南半、朝鮮半島中西部を帯方郡としその実権を握る。
「安曇氏」は漢の郡の出先機関として北部九州に「くに」を建て、朝鮮半島南半以南との管理貿易を担ったが、実質的には帯方郡公孫氏の配下となったと考えられる。
帯方郡は313年に魏に滅ぼされ、魏が朝鮮半島の直接経営に乗り出す。
これに呼応して朝貢交易を展開し、魏からの鉄素材の下賜を狙ったのが「テュルク族」の連合「邪馬台国」だった。この時、「安曇氏」は魏の郡の出先機関となり、冊封国の「邪馬台国」を補佐する立場となった。
辰韓と境界がはっきりしない形で弁韓が接したとされる。
私個人的には、
その境界域が弁辰で、産鉄地帯を後背地にもったどこの「くに」にも属さない国際的な交易拠点を形成した
中国からの代々の亡命民に含まれた産鉄民は、最終的にこの弁辰の産鉄地帯に結集
朝鮮半島の「領域国家」化で需要の高まった鉄のどこの「くに」にも属さない供給拠点を形成した
と考える。
三韓(馬韓・辰韓・弁韓)は、この弁辰の鉄を背景に帯方郡公孫氏に対抗したが
これを滅ぼして朝鮮半島の直接経営に乗り出した魏が最終的に弁辰の鉄を支配した
と考える。
縄文時代以来、自然発生的に自由貿易をしてきた縄文人交易民の「倭人」は、朝鮮半島の「領域国家」化=管理貿易化で食いっ逸れたが、唯一、自由貿易ができたのが、どこの「くに」にも属さない弁辰の交易拠点だった。
小国群から未勝目料をとって回っていた「濊(わい)人」も、朝鮮半島の「領域国家」化=軍事力統合化で食いっ逸れたが、弁辰への陸路の行き来をする交易者の安全保障をすることで凌いだ。
両者は食いっ逸れた者同士の恊働から信頼関係を築いて、日本列島における征服王朝樹立とその管理貿易の独占という共同構想を具現化していくことになる。
陸上軍事力をもつ騎馬民族と、日本列島への海上輸送力をもつ海上交易民が力を合わせる
それに弁辰という中国を除いた極東随一の鉄生産拠点の武器武装の調達力を活かす
共同構想は決して夢物語でなかった。
日本列島への製鉄の伝来は、
匈奴に同行した産鉄民「テュルク族」の北陸への渡来を起点とするルート
「出雲族」が渡来し産鉄民を島根半島東部に入植させたことを起点とするルート
「安曇氏」や「倭人」が朝鮮半島で生産された鉄素材を北九州に輸入したことを起点とするルート
が考えられる。
ちなみに北九州に輸入された鉄素材は燕由来とされる。
それは、燕由来の亡命産鉄民が朝鮮半島に持ち込んだ鉄素材で製造した鉄器が交易により輸入された可能性を示す。
一方、留意しておくべきこととして、
東アジア北部に中国よりも早く鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年ころに鉄器時代を迎えている
ということがある。
中国の北方の草原の道、ステップロードを通って騎馬民族が鉄器を携えて移り住んだのか、遊牧民から派生した遠隔地交易民が伝播させたのか、あるいはその両方であろう。
匈奴は、紀元前4世紀ころから5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族であり、紀元前209年から93年にかけて遊牧国家をもっている。
匈奴に同行した鉄生産専従民である「テュルク族」が日本海を渡って北陸に上陸したのがいつどのような経緯によってかは分からないが、紀元前4世紀以降、すでに鉄器時代を迎えていた沿海州を経由してということになる。
「テュルク族」は、鉄器を媒介に縄文人を稲作民化して支配し「くに」を建て、鉄資源を求めて移り住んでは「くに」ぐにを建てて行った。琵琶湖地方を経由して大和地方そして吉備地方に至っている。
支配域が拡大する一方、慢性的な鉄不足が生じたと考えられ、「出雲族」の交易拠点の後背地である島根半島東部の産鉄地帯に侵攻して撃退されている。
これは、「テュルク族」の鉄剣の方が「出雲族」の鉄剣よりも性能が劣ったことを示す。「テュルク族」の鉄剣は北陸渡来以来、性能がそのままだったのに対して、「出雲族」の鉄剣は環日本海交易を通じて常に性能がバージョンアップしていたと考えられる。
「テュルク族」の宰相(難升米、ナガスネヒコ)は、神武東征を迎え撃っていた最中、鉄製の鎧を着ていた筈で、これを謀殺した「伊都国」長官=「安曇氏」が隠し持って使ったであろう鉄製短剣は、「出雲族」の鉄剣よりもさらに性能の優った最新鋭のものだったと考えられる。
なぜなら、
「国譲り」の力くらべ譚における、タケノミナカタがつかんだタケノミカヅチの手が氷や剣に変化し、恐れをなしたタケノミナカタの手がタケノミカヅチに握りつぶされてしまうという展開が、「濊(わい)人」の鉄剣が「出雲族」の鉄剣よりも性能が優ったことを象徴していて、
この時の「濊(わい)人」の鉄剣が、私個人的には(神武東征の後に「国譲り」があったと捉えるため)、神武東征をバックアップした「倭人」が「濊(わい)人」に供給したものではなく、難航した神武東征を好転させた「安曇氏」が鉄製の鎧を着た「邪馬台国」宰相の謀殺に使用した大陸最新鋭の鋭利な短剣と同性能のものだったと考えるからである。力くらべ譚で凡庸な鉄剣が象徴化される訳はない。
なお、
スサノオが退治したヤマタノオロチを十拳剣(とつかのつるぎ、拳十個分の長さの剣)「天羽々斬(アメノハバキリ)」で切り刻んだ際、剣の刃が欠けてしまい、オロチの尻尾から一振りの大刀が出て来る。それをスサノオはアマテラスに献上する。その刀が「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」、後にヤマトタケルが使って三種の神器の一つとなる「草薙剣(くさなぎのたち)」である。ヤマトタケルはこれを妻のもとに置いて山の神と戦い致命傷を受けて客死してしまった。
こうした剣絡みの神話の経緯は、
スサノオの「天羽々斬(アメノハバキリ)」が
「濊(わい)人」が朝鮮半島で小国群から未勝目料をとって回っていた時に使っていた鉄剣を象徴し
それよりも性能の優ったヤマタノオロチ体内から出て来た「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」が
「テュルク族」の鉄剣とその性能優位を象徴し
「草薙剣(くさなぎのたち)」を携帯すれば山の神との戦いで致命傷を受けることもなかったことが
「テュルク族」の製鉄技術がヤマト王権に下らない「蝦夷」に伝播していたことを暗示する
といった解釈を可能にする。
産鉄民である「テュルク族」の鉄剣よりも、産鉄民でもある「出雲族」の鉄剣が性能優位で
さらに「出雲族」の鉄剣よりも最終的に「濊(わい)人」=タケノミカズチが使った鉄剣が性能優位である
という鉄剣性能の序列は、
ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」の軍事力が突出して最強だったと暗示している。
鉄剣が、
現実的に「くに」や「国」=「領域国家」の軍事力の要であり、
物語的に軍事力の象徴となっていたことは間違いない。
ちなみに、日本で出土した最古の鉄器は、紀元前5世紀に(朝鮮半島北部に接する)燕で作られた鋳造の鉄斧で、北部九州の朝倉地域で出土したものである。
北部九州の朝倉地域に完全な形の鉄斧が持ち込まれ、使用して割れて壊れると破片を加工してノミなどの工具として再利用していた。鋳鉄は炭素を2%以上含有し硬いがもろく割れやすい。朝倉では完形の鉄斧と破片を加工した小鉄器が出土するが、その加工品が西日本各地に広まったと推定されている。
釜山市の東萊福泉洞萊城(トンネポクチョンドンネソン)遺跡の紀元前4世紀の住居跡から鉄器製作時に出る鉄滓と弥生土器が出土していることから、紀元前4世紀中ごろには、鉄を求めて弥生人(「倭人」や「安曇氏」や「出雲族」)が海を渡っていた可能性が考えられている。
紀元前3世紀頃から朝鮮半島南部において九州北部の弥生土器が見つかるようになっている。
当初は交易民の行き来=移動だけだったのが、転住、定住へと展開したということを示している。
鉄器の使用については、朝鮮半島北部で紀元前4〜3世紀ころから始まっている。
竜淵洞遺跡などで燕の貨幣、明刀銭が伴出していて、鉄器類の器種・形式が燕の鉄器文化に近似するという。
紀元前3世紀になると鋳造鉄器とともに、炭素量2%以下の鋼で作られた鍛造鉄器も入ってくるようになる。
同時に青銅器とともに鉄器の国産化も始まった。その加工原料となる青銅原料や鉄素材がいずれも朝鮮半島南部産であることが一致している。
朝鮮半島中南部へは、鉄器文化が紀元前2〜1世紀に普及していった。燕の産鉄民を含めた亡命民の南下によると考えられる。
日本列島では、鉄鉱石成分をもった花崗岩鉱床は吉備と近江にあり、これは、匈奴に同行した鉄生産専従民「テュルク族」が離脱して北陸に上陸した後、鉄資源を求めて移動して「くに」ぐにを建てて行った地域と重なる。
その他の多くの地域においては、朝鮮半島から輸入された鉄斧型の鉄インゴット(鉄梃)を使って鉄器を製造するしかなかった。
近年の製鉄開始についての一般的理解では、弥生時代後期後半(1〜 3世紀)といわれる備後の「小丸遺跡(三原市八幡町)」や北部九州(博多遺跡群)であり、それから時代が下り出雲地方や吉備の製鉄が行われたとされる。
しかし、製鉄能力があった「テュルク族」の渡来や、遠隔地交易民の「出雲族」による産鉄民の入植の時期次第では、もっと早い製鉄開始の可能性も否めない。
以上のような鉄絡みの様々な検討を踏まえて、
なぜ主要な交易が
「安曇氏」「倭人」が鉄素材輸入だった時期に
「出雲族」は小型青銅器だった
と考えられるのか
という論題への回答を導く上で重要なポイントを整理すると以下である。
◯まず、これを論ずる私たちは、私たちの祖先のことを漠然と<倭国の人という意味の倭人>と捉えている。
しかしこの<倭人>とは、そもそも朝鮮半島に日本列島からやってきた交易者のことを、漢語を使う漢人が十把一絡げにして呼称したものだった。<倭国>もそのような<倭人>が営む「くに」なり「国」を呼称したものだった。
そもそも漢字をもたない縄文人が、漢語で書く<倭人><倭国>を自称する訳もないし、他称されてそれを受け入れて自称するようになる訳もない。
つまり、漢人に他称されてそれを理解して受け入れ自称するようになった<倭人>とは、そもそも漢語を理解した大陸から日本列島に来った渡来人だった、ということである。
これは、縄文人に対するところの弥生人についての私たちの一般的な理解とおおよそ重なる。
◯漢語を使う漢人が朝鮮半島で出会った大陸由来の渡来人である交易者とは、
具体的には
・朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」(縄文系渡来人とも呼ばれる)
・呉の遺臣が海上交易民となり北部九州を拠点として漢の郡の出先機関として「くに」を建てた「安曇氏」
・島根半島西部を環日本海交易ネットワークのハブ拠点とした「出雲族」
・匈奴に同行した産鉄民で北陸に渡来して「くに」ぐにを建て「邪馬台国」として連合した「テュルク族」
である。
◯朝鮮半島に渡来していて<倭人>と遭遇してそれをそう呼称した漢人とは、
秦漢代を通じて中国から来って漢代に南下した亡命民の内の交易民および交易産品の生産者
である。
◯本論題の鍵になるのは、
発達した鍛造技術によって鉄器が農具をはじめとする生活道具だけでなく武器として使われるようになった後の時代
特に「領域国家」化と「領域国家」同士の競合における富国強兵策として鉄の農具と武器の性能とその量産体制が課題となった時代
である。
それは具体的には、朝鮮半島で「領域国家」化が進んで「領域国家」同士の競合が活発化した後漢代である。
◯その時代以前の朝鮮半島および日本列島における鉄素材および鉄器の需要は、その時代以後に比べれば小さい。渡来人が鉄器を媒介に先住民を支配ないし管理しておおよそ小国群を率いた「くに」を建て、主に開墾のための農具や自衛のための武器を調達するものだった。鉄器の性能は劣ったがそれでも木器や石器より役立った。
しかし中国において鉄器の性能と量産が飛躍的に向上し、それを活かした「領域国家」の雄が統一王朝を打ち立てさらには朝鮮半島の直接経営に乗り出すと、朝鮮半島および日本列島でも「領域国家」化が進みはじめ、富国強兵策の要である鉄器の総需要は巨大化していった。
ところが、鉄生産は、岩鉄や砂鉄がとれる産鉄地帯の拠点に、鉄製造技術をもった産鉄民が集まらなくては始まらない。
後漢は、鉄官で鉄製造を独占した前漢からの鉄専売を継続していて、中国以外に流出する漢人産鉄民は限られていた。しかしすでに秦代から前漢代にかけて中国東北部の燕から朝鮮半島に漢人産鉄民が流出していて、彼らは前漢の朝鮮直接経営で朝鮮半島北半から南半へ南下する。そして後漢代には、弁辰の産鉄地帯に集合し、それを後背地としたどこの「くに」にも属さない交易拠点が形成されていたと考えられる。それは、中国を除いた極東最先鋭の性能を誇る鉄製武器とその鉄素材の供給地であった。
◯このような弁辰の産鉄地帯=最先鋭の鉄製武器とその鉄素材の交易拠点と、
・朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」
・呉の遺臣が海上交易民となり北部九州を拠点として漢の郡の出先機関として「くに」を建てた「安曇氏」
・島根半島西部を環日本海交易ネットワークのハブ拠点とした「出雲族」
・匈奴に同行した産鉄民で北陸に渡来して「くに」ぐにを建て「邪馬台国」として連合した「テュルク族」
がそれぞれの思惑とやり方で関わりをもった。
先ず、遠隔地交易民である「倭人」「安曇氏」「出雲族」は、自らが王になって「くに」や「国」を建てる志向性を欠いていたということに留意してほしい。
「倭人」は「濊(わい)人」が日本列島で征服王朝を建てることを全面的にバックアップはしたが、それは新王朝の交易利権を独占するためであって、自らが王として民を支配する「くに」や「国」を建てる志向性はなかった。縄文人交易民として、山野系縄文人の「熊襲」や海洋系縄文人の「隼人」を神武東征軍に誘致するなど、先住民に対しても支配的に振る舞ってはいない。
「安曇氏」も朝鮮半島の直接経営に乗り出した漢の郡の出先機関として北部九州に「くに」を建て、「伊都国」長官になったが、自らが王として民を支配する「くに」や「国」を建てる志向性はなかった。ただし、灌漑をともなった大規模稲作拠点に縄文人を稲作民として動員して管理するに際して、長官が縄文人に対してあたかも新文明をもたらした文化英雄の来訪神である聖王のように振る舞った可能性は高い。ひょっとすると、後世のヤマト王権の律令神道体制下、実質的に稲作民の管理機能を担った神社の祭祀様式や建築様式の起源は北部九州にあった、としても自然である。
「出雲族」も島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点の経営が主眼で、その交易活動を支える主要交易産品の生産拠点を後背地経済圏として形成した。その際、縄文人部族の族長の娘を娶って回るという、縄文人側の「贈与」経済の原理にのっとっている。これは、後世のヤマト王権は記紀で「国造り」を称したが、自らが王として民を支配する「くに」や「国」を建てる志向性ではなかった。だから「国譲り」であっさり拠点を解消しネットワークを譲渡している。
自らが王になって「くに」や「国」を建てる志向性をもったのは、主要渡来人勢力の中では、「テュルク族」だけだった。
匈奴に同行した「テュルク族」は、大陸において見聞きした転住しつつ「くに」を建てた遊牧民のやり方の日本列島版を展開した。匈奴の鉄器を媒介にした民の支配ノウハウを、遊牧民支配を稲作民支配に置き換えて展開した。
鉄資源を求めて支配域を拡げ「くに」ぐにを建てて行ったが、慢性的な鉄資源不足から奪い合いの内乱「倭国大乱」となり、その解決策として魏に朝貢して鉄素材を下賜してもらうことを狙う。この段階で「邪馬台国」ないし「女王国」の代表者として交易者を朝鮮半島に派遣している。魏を宗主国と仰ぐ冊封国となるには「くに」ぐにを統合する「国」の体裁が不可欠だった。
なぜ主要な交易が「安曇氏」は鉄素材輸入だったのか
「安曇氏」はクライアントが漢の郡ないしは自立的にその実権を握った公孫氏だった。
なぜこのクライアントに近づいたのか。それは前漢への直接の朝貢交易を狙ったのだった。
だがそれは果たせず、後漢代にかけて公孫氏帯方郡の出先機関としての管理貿易に甘んじることになった。
しかし、その枠組みで「安曇氏」はもっとも儲かる商売を考え続けた筈である。
具体的には、後漢代には鉄の鍛造技術が飛躍的に向上し朝鮮半島の「領域国家」化の進展とともに鉄需要が巨大化した市場環境において、朝鮮半島南半の中国からの亡命産鉄民が展開する産鉄地帯への公孫氏帯方郡の軍事的圧力を利用して鉄素材を入手し、代わりに公孫氏が望む産品を公孫氏に供給したと考えられる。
(直接的な朝鮮経営に乗り出した魏に朝貢した「邪馬台国」ないし「女王国」が下賜を狙った鉄素材も、魏が軍事的圧力をもって弁辰から徴発した鉄素材だった。この交易の現場実務を担ったのも「安曇氏」だったと考えられる。)
なぜ主要な交易が「倭人」は鉄素材輸入だったのか
「倭人」は、もともとは自然発生的に自由貿易を営んできた縄文人交易民で、ただし活動海域を限定した例外的な縄張り海域での交易にこだわる「海の定住民」的な海洋交易民だった。
後漢代には鉄の鍛造技術が飛躍的に向上し朝鮮半島の「領域国家」化の進展とともに鉄需要が巨大化した市場環境において、日本列島の小国群も鉄需要の高まりを見せつつあり、朝鮮半島南端と北九州沿岸を行き来する「倭人」による輸入においても鉄素材と鉄器の取り扱いは高まったと考えられる。
(ではそれを相殺する形で、日本から朝鮮への輸出において何の取り扱いが高まったのだろう。
私個人的には、
それは日本列島で乾田稲作で収穫された温帯ジャポニカ米と、それを炊飯するための土器だった
と考える。
灌漑をともなう大規模拠点の温帯ジャポニカ米の乾田稲作は大陸から九州に伝来したが、朝鮮半島よりも先行することになり、乾田稲作で収穫された温帯ジャポニカ米が九州から朝鮮半島に輸出されたと考える。その味と炊飯方法は、朝鮮半島で湿田稲作で収穫された熱帯ジャポニカ米とは異なり、美味しいから炊飯用の土器ともども伝播したと考える。
灌漑をともなう大規模拠点の温帯ジャポニカ米の乾田稲作が大陸から九州に伝来させたのは、北部九州を拠点とした「安曇氏」で、朝鮮半島と北九州を行き来する「倭人」とは縄張り海域的に競合する関係にあった。しかし「安曇氏」には、貨幣が流通する前段階にある日本列島において、乾田稲作で収穫された温帯ジャポニカ米を、交易における基軸通貨的な産品として流通させようとする目論みがあった。鍛造技術を向上させた鉄が朝鮮半島で基軸通貨的な産品となっていたことに対抗するには、「倭人」に当該米を基軸通貨的な産品としてもらうのが一番だった。
当該米を交易の基軸通貨的な産品としようとする目論みは、同じ日本列島を拠点とする交易民として「倭人」も「出雲族」も共有したと思われる。
鉄も稲も保存が効いて、農具や武器、食糧となるから自身でも必要であり使用する、有って邪魔になるものではなかった。鉄が基軸通貨的な産品となることは、朝鮮半島の「くに」で先行していた、「領域国家」化と「領域国家」同士の競合が深まるにつれてさらに強まった。
これに日本列島の交易民がこれに対抗するには、日本列島の風土でしかできない美味しい当該米とその炊飯方法を朝鮮半島に伝播させて、当該米を基軸通貨的な産品とするエリアを拡大するしかなかった。
これを最も効率的にできたのが、朝鮮半島南端をも拠点とした「倭人」であった。)
しかし、馬韓が百済に、辰韓が新羅に変わり朝鮮半島の「領域国家」化が進むと同時に、管理貿易化が進み、縄文時代以来、自然発生的に自由貿易を更新してきた「倭人」の多くは食いっ逸れてしまう(一部を除いて管理貿易の利権を得られなかった)。
そこで、同様に多くが食いっ逸れた「濊(わい)人」(一部を除いて「領域国家」の支配層に立場を得られなかった)に日本列島で征服王朝を打ち立てる構想を持ちかけ、全面的にバックアップする。
この時、騎馬民族の「濊(わい)人」が軍事力を使って弁辰の鉄を徴発した可能性が高い。鉄製武器と鉄製農具、そして木造船を軍船化するための鉄製部材などの軍需を満たすには、落ちぶれた「倭人」と「濊(わい)人」には荒っぽい実力行使しかなかった筈だ。
この段階から「倭人」は、まだ目標でしかなかった「領域国家」の管理貿易を担う政商型交易民に転じたことになる。そして、「濊(わい)人」が神武東征で「邪馬台国」を降伏させ、「国譲り」で国内外をネットワークする自由貿易で繁栄した「出雲族」を換骨奪胎した後は、「安曇氏」とヤマト王権の支配層として競合する2大政商型交易民となった。
(ヤマト王権は、「出雲族」一派を傀儡化して外戚化し、島根半島東部の産鉄地帯にいた産鉄民を三輪山周辺の産鉄地帯に入植させる。そこはもともとは「テュルク族」の連合政府「邪馬台国」の産鉄拠点だったと考えられる。
「テュルク族」は降伏したものの最大の軍事勢力だったので、少数派の「濊(わい)人」は「テュルク族」に産鉄拠点を返還すせずに、傀儡化して外戚化した基本交易民である「出雲族」一派の管理に委ねたと考えられる。
ヤマト王権樹立で、「安曇氏」も「倭人」も中央に留まる派と九州に留まる派に分かれる。
「安曇氏」は互いに連携したが、「倭人」は九州派がヤマト王権から離反する。
「安曇氏」は、中央で国軍的な軍事豪族「物部氏」が台頭し、「肩野物部氏」が鉄生産拠点を構築する。
「倭人」は、中央で親衛隊的な軍事豪族「大伴氏」が台頭するも、離反した九州派の「倭人」は朝鮮半島との関係を深める。九州北西部の産鉄拠点はヤマト王権に対抗した「倭人」が富国強兵策として確保したものと考えられる。)
なぜ主要な交易が「出雲族」は小型青銅器輸出だったのか
それを検討する前に、銅と青銅についての基礎知識を確認しておこう。
先ず、
銅は、自然銅として自然の中に存在していて、その使用は少なくとも1万年の歴史があるとされる。
紀元前9000年の中東で利用され始めたと推測されているが、銅の溶練は世界のいくつかの異なる地域で発明されたとされる。その一つが紀元前2800年ころの中国だった。
そして各地ともに、銅の溶練から鉄の溶練(塊鉄炉)の発見に至ったとされる。
次に、
銅と錫(スズ)の合金である青銅は、製造が銅の溶練法の発見からおよそ4000年後に行なわれ、その2000年後には一般化している。ただしこれについては、世界の各地で自然発生的に発明されたのではなく、どこかで発明された合金製造法が他の各地に伝播して世界各地の青銅器文明が開花したと考えるのが自然ではないか。
中国で青銅器がいつのころから使用され始めたかは明確になっていないが、今のところ紀元前2000年ころ、二里頭文化時代にはすでに制作されていたことが発掘調査で判明している。
いわゆる四大文明の中で、エジプト、メソポタミア、インダスの3者が紀元前3500年ころに青銅器時代を迎えたのに対して、中国が遅れていることから、中国の青銅器文明は西方・西域から伝来したとも考えられる。
一方、紀元前3000年ころの中国に石器と銅器の併用時代(銅石器時代)があることから、中国の青銅器も銅器と同じく中国大陸で独自の発達をしたとも考えられている。
では、中国の青銅器はどのように展開していったのか。
その初期の展開が
なぜ主要な交易が「出雲族」は小型青銅器輸出だったのか
に関わってくる。
中国の青銅器の展開は五期に分類される。
第一期:二里頭文化から殷初期まで
器物の種類は少なく、大きさも小さい
実用品が多い
(小型の墳墓からも出土することから)
大きな権力の保持者でなくても日常使用
第二期:殷中期から西周前期まで
模様が鋳造され、器の全面を覆い、立体的な浮き彫りになっていく
全体が動物型の器も出てくる
器物の種類が増えて、大きさも大きくなる
(最大で1.2メートル、800キログラム)
殷代のものには文字が1から20程度鋳込まれたが
西周代のものには200字以上の堂々たる文章を鋳込まれる例がでて
くる(金文)
第三期:西周中期から春秋戦国時代前期
酒器が少なくなり、食物を盛る器が多くなる
幾何学模様が多くなり、立体的で奇矯な模様はなくなる
銘文は長文が多くなり(479字の例も)、文字形は謹厳ではなく
自由に
第四期:春秋時代後期から戦国時代
多数個セットの鼎が多出する
金銀ガラス象嵌を施した華美なもの、複雑精緻な透かし彫りを
施したものも出現
音楽演奏用の鐘の大きなセットも多出する
武器や馬車用の部品の青銅器に金銀を装飾したものもでてくる
第五期:秦代〜漢代〜唐代
鉄器の普及とともに徐々に質・量ともに下火になる
唐代に入ると鏡などの一部の青銅器が残るも他は激減
殷が滅んでその難民が流浪の商人化しその一部が朝鮮半島北部東岸に至って、そこに環日本海に向けた遠隔地交易拠点を形成した。
その当初の殷由来の交易民は、青銅と青銅器をつくる産銅民を従えていて、
彼らは上記の
第一期:二里頭文化から殷初期まで
第二期:殷中期から西周前期まで
の殷代の中国の青銅技術をもっていた筈である。
そして、
日本海を航海する輸送の能力とリスクから輸出品目は軽量小型でなくてはならず
かつ輸出相手である文明文化後進の部族社会の支配層のニーズを掘り起こすものでなければならなかった。
結果的に、
第一期の器物の種類は少なく、大きさも小さい
実用品が多い
(中国に比較すれば)大きな権力の保持者でなくても日常使用
という特徴を活かした部族社会支配層向けの装飾品、宝飾品となったと考えられる。
それらに
第二期の模様を鋳造し、器の全面を覆い、立体的な浮き彫りをする技術が応用されたと考えられる。
そこから、
中国とは異なる朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点を発信地とした青銅器交易品の展開が始まった。
戦国時代にも、朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点には中国からの産銅民を含む亡命民が参入する。
その際は、
第四期の金銀ガラス象嵌を施し、複雑精緻な透かし彫りを施す技術が応用されたと考えられる。
また青銅器に金銀を装飾する装飾品、宝飾品も作られるようになったと考えられる。
秦代にも、朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点には中国からの産銅民を含む亡命民が参入する。
その際は、
中国は第五期で、青銅器は鉄器の普及とともに徐々に質・量ともに下火になる。
中国からの亡命民の産銅民はもっぱら、青銅器をありがたがる遠隔地原住民の支配層と交易する朝鮮半島北部東岸へ向かったと考えられる。
漢代、前漢の武帝が朝鮮半島の直接経営に乗り出して以来「領域国家」化が進むにつれて、
朝鮮半島の「領域国家」化=管理貿易化および産鉄への管理圧力の高まり
に対して
朝鮮半島北部東岸を含む環日本海交易ネットワークの脱国家主義=自然発生的な自由貿易の維持と高度化
という好対照の潮流が対峙した
と考えられる。
日本における青銅器の歴史でおさえておきたい基礎知識は以下である。
◯縄文時代(〜紀元前300年)
日本国内の最古級の出土例として、紀元前1000年頃の青銅刀子が三崎山遺跡(山形県飽海郡遊佐町)で発見されている。紀元前1000年頃とは、殷が滅亡して紀元前1046年の直後である。よって、滅亡前夜に殷で作られた青銅器が、殷遺民によって朝鮮半島北部東岸に持ちこまれ、そこで遠隔地交易民となった殷遺民が交易によってもたらしたと考えられる。
(ただ縄文時代には、青銅器の製造技術の移入は見られず、縄文後・晩期に現れる石刀は大陸から持ち込まれた青銅刀子の模倣と考えられている。つまり縄文時代には、青銅器を使った文化だけが移入されたということか。)
◯弥生時代(紀元前300年〜)
一般的には、本格的に青銅器が移入されたのはおよそ紀元前2世紀で、生産もその後すぐに行なわれたと考えられている。
しかしその前段として、殷遺民に始まる中国から亡命した交易民や産銅民の渡来による生産が先行した可能性は否めない。国内における銅の採掘が先行した可能性も否めない。
主な青銅器は、鏡、矛、剣、戈(か)の武器類、銅鐸、鉇(やりがんな)などである。
武器類の青銅器は当初、実践に使うものだったが、日本では青銅器と同時期に鉄器と製鉄技術が伝来し、実用的な武器や道具はすぐに鉄器にとって代わられた。青銅器はもっぱら武器の形をした祭具や威信財となった。
朝鮮半島に出土例がないタイプが多数発見されていて、朝鮮半島を経由せずにその北部東岸から日本海を渡って伝来したものと考えられる。
一般的には、武器型祭器や銅鐸は稲作の豊穣祭祀に用いられたという見方が有力である。
「銅鐸」の名称の初出は8世紀に編纂された『続日本記』においてである。
語源となった「鐸」は中国において用いられた青銅器の楽器で、柄を持ちもう一方の手にもった打器で打ち鳴らすものだった。「銅鐸」は銅製で「鐸」のような形をしているためそう名付けられたが、吊るして揺らして鳴らすものだったと考えられ、そうであれば本来は「鐘」「銅鐘」と呼ばれるべきだった。
そして、「銅鐸」を吊るす台が祭壇である「壇」におかれたと考えられる。
古代中国では、「壇」は地面から高く作られた建築をさした。もともとは城邑の外の開けた空地をさし、露天で「野祭」が行なわれたが、語義が分化し、「墠」が舞台となる空地、「壇」が祭祀台をさすようになったという。その後、神祖の祭祀は「廟」で行なわれるようになるが、これは「墠」「壇」から発展したものという。
私個人的には、
殷代の素朴な「壇」が朝鮮半島北部東岸に伝播し、中国とは異なる展開をして
「出雲族」の四隅突出型墳丘墓の起源と推測される高句麗の積石塚に至ったのではないか
と思う。
中国では殷周代から祭祀が「壇」で行なわれた。
祭祀の目的には、災害の除去、幸福の祈願、神霊への感謝、同盟関係の締結の4つが上げられるという。
第一の災害の駆除には、病気を追い払い、治療の祈祷をすることも含まれる。
第二の幸福の祈願は、農神を祀り、農収を祈る儀礼である。五穀豊穣は、天の支配する雨風にかかっていて、農神の加護を祈った。幸福の祈願には、子を求めることも含まれた。農業の労働力の維持と増加を祈った。
第三の神霊への感謝には、一年の終わりに万物の神を合祀して一年間の無事を守ってくれた恩に報いるものと、先祖を祀り季節行事を祭るものとある。
第四の同盟関係の締結は、神鬼への信頼を踏まえた盟約の祭祀である。
朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点では、
一年の終わりに万物の神を合祀して一年間の無事を守ってくれた恩に報いる神霊への感謝が
環日本海交易ネットワークを前提にした「八百万の神」への祭祀に展開し、
同盟関係の締結のための神鬼への信頼を踏まえた盟約の祭祀が
遠隔地交易をする環日本海各地の交易ビッグマン同士の同盟を交易神に誓う祭祀に展開した
と考えられる。
朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点の活動を支える後背地では、
農神を祀り、農収を祈る儀礼が
その土地の穀物栽培を前提に展開した
そして、
以上のような祭祀が「壇」が現地化した積石塚で行なわれた
と考えられる。
中国では宗廟化する「廟」の中に「壇」が設けられたが、それは継承形式が血縁主義を前提としたためである。
一方、朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点では、遠隔地交易民の首長である「交易ビッグマン」の継承形式は実力主義を前提とした。
私個人的には、
公共財として設けられた「壇」の一部に、交易拠点の発展に功績のあった「交易ビッグマン」を埋葬することで
「壇」で行なわれる祭祀を見守ってもらったのではないか
と思う。
突飛なようだが、そうではない。
同じ交易拠点の交易民が一つの族的結合として連帯意識を持つ場合、ともに敬うべき祖先とは、交易拠点の発展に功績のあった先達に他ならず、その埋葬場所として、公共財として設けられた祭壇である「壇」ほどふさわしい場所はないと思うのである。
つまり公共の祝祭場である「壇」において、第三の神霊への感謝である先祖を祀り季節行事を祭る祭祀が、季節ごとに交易商売の繁盛や交易航海の安全を祈る祭祀として展開し、その度に先達の功労者の「交易ビッグマン」が祭られたと考えられる。
(古今東西、都市の公共の祝祭場とは、市が立つ交易場でもあった。その多くは何らかの尊崇すべき功労者の名前を冠したり彫像が立てられた広場である。公共場を功労者に紐づけすることでそこで行なわれる祝祭や商売への加護を求めるというのは、人類普遍の感受性と言えよう。)
私個人的には、
こうした尊崇すべき「交易ビッグマン」への感受性が、オオクニヌシから大国様へ、そして七福神の宝船にまで投影しているのではないか
と夢想する。
宝船図にそえられる聖徳太子の作と伝えられる和歌がある。
「なかきよの、とをのねふりの、みなめざめ、なみのりふねの、をとのよきかな(長き夜の遠の眠りの皆目覚め浪乗り船の音の良きかな)」という回文で、七福神の船が波の上をやって来て幸福を授けるありさまを詠んだものという。
古来の日本人は「幸福が海の果てから来る」という来訪神を信仰してきた。私たち現代人も無自覚的に信仰していて、それが戦後のアメリカ礼賛や欧州高級ブランド崇拝に帰結していると言えなくもない。
『古事記』も、海の果ての「常世国」から来た神々が人々に有益な知識を授けてくれる、亡くなった人間は霊魂となって「常世国」に行って永遠に生きると想定している。そして「国譲り」の後、オオクニヌシの嫡子コトシロヌシが船に乗って海の彼方に行ったとする。
後世、コトシロヌシが「常世国」から人々の住む世界を訪れて助けてくれる恵比寿神になったと言われ、そこから七福神が宝船で海の果ての神々の世界から来るという発想も生まれたとも指摘されている。
私には、このような日本人の神話的思考の淵源に、朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点における交易信仰があったと思えてならない。
弥生時代の後期になると、
北部九州では銅矛、瀬戸内海沿岸では銅剣、近畿では銅鐸が祭祀で用いられる重要な祭器となった。
これは威信財の設定と威信を誇る祭祀の形式が異なる、対抗的な政治勢力の分布を示すと考えられている。
私が注目するのは、
出雲半島から瀬戸内海に掛けての中間エリアが、
銅矛エリアと銅鐸エリアの重なりエリアとなっている
ということである。
これは、
青銅器の祭器とそれを用いた祭祀を「出雲族」が日本列島にもたらし、
自らの交易勢力圏から東西に伝播したことを示している
と考えられる。
東西の対抗的な政治勢力に対して、「出雲族」はそれぞれの標準祭器と標準祭祀の様式を提案し、青銅器のプロトタイプを供給したり、青銅器生産をする職人を斡旋したのではないか。
私個人的には、「出雲族」の繁栄はあくまで環日本海交易ネットワークを活用した対外交易によると考え、日本列島内の対内交易、なかんずく政治勢力との交易には重心をおかなかったと考える。
それゆえ、富国強兵に直結する鉄製の武器や農具に力点をおかずに、実用器にはならず威信財や宝飾品ベースにしかならない青銅器に力点をおいた。しかも、威信財は対抗的な政治勢力に対して公平中立な立場を保って争いに巻き込まれない工夫として、二者の標準祭器と標準祭祀の様式を意図的に異なるものとしたと考えられる。
おそらく「出雲族」は、政治勢力との交易は安全保障上の対策として行ない、儲けを狙ったものではなく、プロトタイプの供給と職人斡旋という最低限度の取引内容にとどめたのだと思う。
青銅をベースとして環日本海各地からの宝石をあしらった宝飾品は、交易でありながら、輸入と輸出の遠隔地航海を交易相手がやってくれることから、もっとも利益率の高い交易ビジネスモデルだった。
小型軽量の商品だから原材料の銅は島根半島西部の山地で採掘される銅でほとんどを賄い、その不足と日本列島では取れない合金用の金属を大陸からの輸入に頼ったのだと思う。
日本の大量の銅器の鉛同位体比の測定によって、弥生期の鉛(銅の産地と一致すると仮定)の素材供給地の変遷が調べられた。
その結果、
弥生初期では朝鮮半島から供給され
紀元前108年の前漢武帝による楽浪郡設置を境に、中国・華北地方から供給されるようになり
古墳時代(3世紀中頃〜)から華中・華南地方から供給されるようになった
とされた。
また韓国の同様の測定によって、
弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる殷や西周の時代に多く見られる青銅器と鉛同位体が一致することが判明し、極めて特殊な種類の鉛が含まれていた
とされた。
以上を総合的に検討するとこういうことではないか。
一般論として、日本には青銅器と鉄器がほぼ同時にもたらされたとされる。
最初にもたらしたのは、大陸由来の渡来人である「出雲族」「安曇氏」である。彼らの渡来自体が、青銅器と鉄器を携行するものだった筈だからだ。これに朝鮮半島との行き来を縄文時代以来していた「倭人」が、朝鮮半島に先行伝来した青銅器と鉄器をもたらすことが加わった。
このことを順序立ててより詳しく検討する。
「安曇氏」が渡来する前に「出雲族」ないしはその前身の、朝鮮半島北部東岸由来の遠隔地交易民が環日本海の日本列島沿岸および朝鮮半島東岸の交易拠点に渡来していた。この時期は、朝鮮半島に青銅器そして鉄器が伝来するはるか前である。
この最初の最初の「出雲族」ないしはその前身による、製造技術の移入を伴わない青銅器の伝来が、
弥生初期では朝鮮半島から供給され
に符号する。
この段階の青銅器は、「出雲族」が所有していたものと、輸入品として朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点で買いあさったもので、ともに殷や西周で作られたものだった。
それが、
弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる殷や西周の時代に多く見られる青銅器と鉛同位体が一致
に符号する。
前漢武帝が朝鮮の直接経営に乗り出したために朝鮮半島の「領域国家」化が進む。
朝鮮半島では、前漢・後漢に対抗する「くに」ぐにの富国強兵に直結する鉄製の武器と農具の需要供給が拡大し、青銅器の需要と供給が減衰した。
しかし日本列島では、「くに」ぐにが遅れて鉄器の需要を拡大していくが、青銅器の需要も、当初に武器としてあった後、威信財として拡大していくことになる。
「くに」ぐにが支配地を拡大すべく他の「くに」と戦争する前段として、それぞれの「くに」が先住民の縄文人を支配管理して「くに」の体制を整える段階があった。この段階では、鉄製の武器と農具だけでなく、農耕祭祀のための祭器と、祭祀を執り行う支配者であることを権威づける威信財としての青銅器が不可欠だった。そのために、威信財としての青銅器の需要も拡大したのである。
ここで、
鉄と鉄器の生産供給を優先した「安曇氏」「倭人」そして「テュルク族」は、自分たちで青銅器を製造する余裕がなく、「出雲族」によるプロトタイプの供給と青銅器をつくる職人の斡旋に頼ったと考えられる。
これが、
紀元前108年の前漢武帝による楽浪郡設置を境に、中国・華北地方から供給
に符号する。
「出雲族」はプロトタイプを作るための銅素材を朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点に求め、そこは中国・華北地方から供給した
やがて「くに」ぐにが自分たちで青銅器を作るようになると、そのための銅素材を「安曇氏」「倭人」が朝鮮半島中部西岸の遠隔地交易拠点に求め、そこも中国・華北地方から供給した
ということではないか。
弥生中期、日本列島の東西で政治勢力が台頭していく。
東の「テュルク族」が「くに」ぐにを立てた勢力圏
と
西の「安曇氏」と「倭人」が朝鮮半島と連携して拠点群を設けた勢力圏
である。
富国強兵を競ったのだから、彼らの関心の重心は大量の鉄器の取得と使用にあった。
これに対して、
両勢力に挟まれる中間エリア=中国地方の「出雲族」は、あくまで交易民という経済勢力として、どちらか一方に加担することなく、またどちらに攻められても専守防衛に徹した。
「出雲族」にとって両勢力の「くに」ぐにに対する威信財や祭器としての青銅器絡みの協力は、安全保障上の対策を目的とした交易だったと考えられる。
古墳時代には、征服者「濊(わい)人」が「倭人」と「安曇氏」を征服協力者として「テュルク族」を降伏させヤマト王権を樹立する。
「出雲族」が「国譲り」に応じたため、彼らによる環日本海交易ネットワークによる自由貿易は途絶えた。
ヤマト王権の交易利権を「倭人」とシェアした「安曇氏」は、呉の遺臣を祖とする彼らの伝手によって前々からしていた華中・華南地方との直接交易を、ヤマト王権の管理貿易として展開した。青銅の素材も華中・華南地方から供給された。
それが、
古墳時代(3世紀中頃〜)から華中・華南地方から供給
に符号する。
(この時期、朝鮮半島から青銅の素材を輸入したとすればそれは、神武東征の後、九州に留まった「倭人」による。彼らはやがてヤマト王権に離反して朝鮮との連携を深めて行く。この動向において、「倭人」は鉄素材および鉄製の武器と農具に力点をおいた筈で、日本列島内の青銅器製造のために朝鮮半島から青銅の素材を輸入することに力をさいたとは考えにくい。)
最終的にヤマト王権の樹立によって、東西の対抗的な政治勢力が統一されたために、威信財としての青銅器は全国において銅鐸が姿を消して鏡がメインとなった。
ここで、そもそも青銅器が日本の威信財になった経緯を検討しておこう。
確かに先行する中国で鉄器の実用道具としての普及によって青銅器が威信財や祭器や楽器になった。
これに日本も倣ったと言えば、そうなのだが、単体やセットで重い鼎(てい)や編鐘(へんしょう)の類いはなく、銅鐸や銅矛そして鏡など比較的に軽い類いが多い。
また、祭器でもある酒器がほとんどないことも気になる。
日本では限られた青銅器を威信財としての標準器にしようという絞り込みの動きがあった、とみてまず間違いない。
問題は、その文化的な標準化を誰が主導したかである。
最終的にはヤマト王権が統一化した訳だが、その前段に東西地域差のある東西それぞれの勢力による標準化があった。
それが支配者による政治的なものだとして、支配者の協力者として文化的なガイドラインとして標準様式を提示した者がいた筈で、それは中国由来の遠隔地交易民以外には考えられない。
基本的には、
支配層の弥生人が先住民の縄文人を農耕民化して支配管理し、混淆によって支配被支配関係を共生関係にもっていく。
その際、全体を「信仰共同体」とするという文脈において、支配者を宗教的に正当化するための威信財であり祭器であった。
よって当初は、
政治的な権力を誇示する重厚長大路線に向かわずに
宗教的な権威を誇示するべく軽薄精緻路線に向かった
ということではないか。
基本的には、
農耕祭祀であるから
農耕民族の漢民族の国家祭祀を基調としつつ
農耕に従事する縄文人が感動する現地化が図られた
筈である。
支配者の協力者として文化的なガイドラインを提示した中国由来の遠隔地交易民とは、
・中国南部と直接交流のあった、呉の遺臣を祖とする「安曇氏」(北部九州が拠点)
・朝鮮半島北部東岸を通じて故地である中国北部と交流のあった、亡命民の中国商人の後裔である「出雲族」(島根半島西部が拠点)
である。
そして私の考え方はこうだ。
最終的に天武・持統両天皇が神社の建築様式を標準化したが、
その高床式穀倉というのは明らかに中国南部から東南アジアに連なる照葉樹林帯の川沿い、海沿いの低湿地に必須の建築様式である。
よって、これは「安曇氏」が北部九州の大規模稲作拠点において農耕恊働との兼ね合いで実用的に標準化した。そして高床式穀倉を信仰場とする祭祀も標準化した。
一方、
祭器の標準化については、中国北部に位置した殷周の国家祭祀を雛形として、殷周の地と関係深く交易主品目として青銅器を得意とした「出雲族」が主導した。
しかし、
脱国家主義の自由貿易者である「出雲族」は、「くに」ぐにの管理貿易に与することを最小限にとどめた。
自らが独占的に量産して量販することを意図的に回避し、「くに」ぐににプロトタイプを供給し青銅器職人を斡旋した。
こうして「出雲族」が提示したガイドラインにそって、
九州では、朝鮮半島の郡や「くに」ぐにの協力者である「安曇氏」や「倭人」という交易民が青銅器製造を主導し、
近畿では、支配者である「テュルク族」が産鉄民であったため同じ鋳造技術である青銅器製造を自身が主導した。
「テュルク族」は遊牧民族の匈奴に同行したため農耕の国家祭祀に疎かったから「出雲族」が提示したガイドラインに従った。彼らは、「出雲族」を攻めて撃退されもしたが、「出雲族」が専守防衛の交易民であり政治的野心がなかったので抵抗なく受け入れたのだと思う。
「出雲族」は威信財としての青銅器のガイドラインを、西は銅矛、東は銅鐸を基軸にして両勢力の対峙を踏まえて対照性を織り込んで提示した。
これは、仮に「出雲族」が青銅器の製造供給を求められて応じたとしても、どちらか一方を利することがない、あるいはあっても可視化しない工夫と考えられる。
「安曇氏」も「テュルク族」も第一の関心事は、政治的な権力を維持向上させる実用に供する鉄素材の確保と鉄器の供給の最大化だった(朝鮮半島との管理貿易)。
宗教的な権威を維持向上させる青銅器にさくエネルギーは最小化したと考えられる。
一方、
「出雲族」は逆だった。
自らの交易拠点や後背地経済圏で必要とされる鉄素材の確保と鉄器の供給の必要は満たしたものの、交易品目としてうまみのある中国の都市市場の需要を捉えた青銅器ビジネスモデルの工夫と実践に専念した(環日本海交易ネットワークによる自由貿易)。
日本列島の「くに」ぐにの政治的権力を象徴する威信財としての青銅器については、大して利益は上がらなくても構わないから、直接的な関わりを最小限に留める取引を工夫したと考えられる。
一般的に、あるプロダクトのガイドライン(外来品の導入策を含めて)を決めたメーカーであれば、その後、自らそのガイドラインを改訂してプロダクトを更新したり多様化していく。
しかし、他が決めたガイドラインをただ単に受けとったメーカーは、それを短絡的に守り続けて、多様化せず、更新も細部のマイナーチェンジに留まったり、単純により大きくするといった画一的なものに留まる。
私には、日本全体の銅矛や銅鐸の推移は後者のように思うのである。
(たとえば、威信財としての鉄剣の場合、大陸から伝来したものをいかに現地化するかというガイドラインを自己決定した勢力が多数いて、それぞれがエネルギーを継続的に注いでガイドラインを多様化させたり大きく変更している。総じて、当初は中国式を忠実に模倣するが、独自性を帯びた日本型になっている。
弥生時代における鉄刀剣は、様々な法量、形態があり、日本列島のなかで時期ごとに偏在性をもって分布していて、副葬品の場合、他の副葬品とともにセットでの分布を示している。)
島根半島から瀬戸内地方にかけたエリアが、銅矛エリアと銅鐸エリアの重なる中間エリアになっている。
それは、東西のエリアに比べて二倍の多様性があるということに他ならず、もともとガイドラインを決めたのが「出雲族」で、中間エリアはその交易勢力圏だったということではないか。
古代人の青銅器に対する認識と、鉄器に対する認識はまったく質的に異なるものであったということを力説したい。
私たち近代人は、どうしても物事を機能論的・物質論的に捉えてしまう。
しかし古代人は、もっぱら物事を意味論的・精神論的に捉えていた。
そして特に日本人の場合、「青銅器」という名づけが緑青がふいた銅器を連想させてしまっている、物理的な印象の弊害が大きい。
たとえば、五円玉が黄銅(銅と亜鉛の合金)、十円玉が青銅(銅とスズの合金)、五十円玉・百円玉が白銅(銅とニッケルの合金)だが、青銅の十円玉は茶色いという認識がある。
しかし、発行された新品は純銅に近い赤銅色で光沢をもっている。
青銅の色は添加物の量によって様々で、スズの量が多くなると次第に黄色味を帯び、ある一定量以上では白銀色にもなる。
そのため、古代の銅鏡はスズの添加量の多い白銀色の青銅を素材とするものが多く、日本語の「白銅」の語も元来はその白銀色の青銅を指していたという。
硬度は錫の添加量が多いほど上がるが、それにともなってもろくもなるので、青銅器時代の青銅製の刀剣は黄金色程度の色彩の青銅が多く使われているという。
たとえば古代ギリシャや古代ローマの錬金術においては、銅の光沢の美しさと銅が鏡に用いられたことから、銅はギリシャ神話の美と性を司る女神アプロディーテーおよびローマ神話の愛と美の女神ウェヌスにより象徴された。
人類の文明において鉄が登場してからは、
鉄が男性的で政治的な権力志向
銅が女性的で宗教的な権威志向
という対照性があったことは間違いない。
鉄が登場する以前の中国では、青銅器の中で、
男性的で政治的な権力志向の鼎(てい)のような重厚長大な類い
女性的で宗教的な権威志向の鏡のような相対的に軽薄短小な類い
という対照性があった。
それが、
日本で青銅器が威信財となるガイドラインにおいては、
銅矛、銅鐸、銅鏡といったどちらかというと両者の中間から後者よりの類いばかりとなった。
これは、
ヤマト王権が樹立する以前の小国群の群立状態の日本列島では
「くに」ぐにの内部で弥生人の支配層が先住民の縄文人を稲作民化して管理支配する文脈で効果するにはそれで事足りたことと
支配者およびその協力者が青銅器製造に割こうとするエネルギーやコストを最小化したことのためと考えられる。
(たとえば鏡について言えば、大分県日田市のダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡という多種の宝石を金銀で象嵌した宝飾鉄鏡は、後漢の皇帝クラスの所有品という。これは、豪華さという点で政治的な権力を象徴する威信財と言える。
銅鏡には、宗教的な権威を象徴する威信財のためだろう、こうした宝飾化は見られない。)
「出雲族」が中国の都市市場のニーズに応えた合薬ビジネスモデルの可能性
「漢書」よりも前の正史ではない史書に<倭人>の記述がある。
その一つが後漢の王充(27〜97年)の書いた「論衡」である。
それにはなんと、
「周の時、天下太平にして、倭人が来朝して、暢草(ようぞう、ウコン)を献ず」とある。
この周は、紀元前1046年頃に興って紀元前771年に遷都するまでの西周のことと考えられる。
なぜならその後の紀元前256年に滅んだ東周は、王室が衰弱して諸候が勢力を伸ばし互いに争い、秦の始皇帝による全国統一までの戦国時代(紀元前770〜紀元前221年)である。それはけっして天下太平とは言えないからだ。
よってあまりに昔の話であるため、「論衡」が書かれた時代に周王朝を聖代として称える歴史観が広まっていてそれを踏まえ、最果ての夷人である<倭人>が朝貢していたとした創作であるとも考えられている。
これについて私は、創作ではない可能性を夢想する。
この周が西周であれば、この<倭人>は、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」ではない。また呉が滅ぶ(紀元前473年)前だからその遺臣を祖とする「安曇氏」ではありえない。よって「出雲族」ないしはその前身の、朝鮮半島北部東岸の遠隔地拠点から日本列島に渡来した交易民だったと考えられる。
殷遺民の「商人」の後裔である「出雲族」の交易ビッグマンが、自分たちの交易ビジネスモデルを摸索すべく西周の都に行ったのではないか。
遠隔地航海の舶載輸送のリスクとコストを踏まえれば、軽量小型の高額商品の輸出しか成立しない。
しかも、文明文化先進の中国の都市市場に向けた商品を、文明文化後進の環日本海の先住民部族から安く入手できる原材料から製造するものでなければならない。
そんな条件に合致する商品のニーズは、実際に中国の都市市場を視察調査するしか想定できないし、確証を得ることもできない。
仮に前述した青銅ベースに宝石をあしらった宝飾品を扱うとしても、ターゲットとする宮廷の女官の配給品や庶民の婦女の普及品としてどのようなファッションやデザインが流行っているのか、市場調査が不可欠である。
また、環日本海交易ネットワークの交易ビッグマンの恊働による同じビジネスモデルで成立する宝飾品以外の軽量小型の青銅をベースとする商品として、あるいは青銅器以外の商品としてどのようなものがあるか、市場調査が重要だった。
殷代、西周代、銅器と玉器は材料の入手と製作が困難だったため、礼楽の祭祀として極めて崇高な地位を占めていた。
殷代に、銅器が成熟した礼制において極めて重要な礼器として用いられ、玉器が新石器時代晩期から続く礼器の機能を受け継ぎ、神祖の霊を憑依させる祭器、そして主祭者の身分を象徴する瑞器として用いられた。
各種の器の個々の形態や文様、セットとして使用する構成などは変化したが、以上の大枠の考え方は西周代に継承された。
殷代、西周代では、青銅をベースに宝石をあしらった宝飾品は限られた支配層の需要しかなく、それは中国国内で供給されたと考えられる。
東周代の戦国時代を経て秦漢代になると、統一国家の貨幣経済が発展して都市市場が高度化し、金無垢ないし金張りのベースに宝石をあしらった宝飾品を皇后や妃が使い、宮廷の女官や富裕庶民の婦女が青銅をベースに宝石をあしらった宝飾品を使うようになったと考えられる。
中国では古くより簪(しん)や釵(さい)で結った髪を固定した。
簪(しん)は正式には笄(けい)ともいったが漢代以降に簪(しん)というようになったという。
正式名称の笄(けい)は支配層の限られた者だけが使った時のもので、それが簪(しん)というようになったのは、漢代以降に女官や富裕庶民も使うことが一般化したということではないか。
笄(けい)については、清代まで使われ、材料が等級により区別があったという。これは朝廷の女官の序列を前提に、青銅でも黄銅、白銅などが序列化されたのではあるまいか。
こうした都市市場の変化を、朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点の亡命中国商人やその一部の日本列島への渡来者である「出雲族」に、中国の時代時代の節目に視察した者がいたことは交易者である以上、当然だろう。
ちなみに、日本列島では、縄文人が石器・骨角器の笄(こうがい)や簪(かんざし)を使っていた。
先端が尖るものと篦(へら)状のものがあり、前者は先端が1本で針状になるものと二股に分かれて双脚状になるものとあった。
縄文人が髪を結っていて頭髪を整え、飾った用途が想定される。男女、生者死者の使用の区別は見当たらない。
弥生人の「出雲族」は、すでに縄文人が笄(こうがい)や簪(かんざし)を使い作っていたことに着目した筈である。
なぜなら、棒状の青銅と、その形を整える金槌などの鉄製の道具を与え、整形技術を教えれば生産工程を稼働できたからである。
青銅製の笄(こうがい)や簪(かんざし)のベースに環日本海各地から供給される宝石をアッセンブルすれば、中国の女官や富裕庶民の婦女が使う笄(けい)や簪(しん)を等級別に商品化することができた。
(なお、こうした宝飾品が出雲の地から出土しないことについては、百貨店の遺跡があったとして陳列していた商品が出土するかと問うてほしい。すでに売れた商品は店にないし、売れ残った商品も店じまいする時に撤去される。)
「論衡」には周王に拝謁したとは書いていない。
ウコンを献上したとだけ書いてある。
実態は朝貢というよりも、朝廷の当局に、余所者の視察を怪しまれないよう挨拶をしたという程度のことだったのかも知れない。
西周の都に朝貢した「出雲族」とおぼしき「倭人」は、ウコンを献上していた。
この時代の殷遺民後裔の「出雲族」は、まだ島根半島西部をハブ拠点とした環日本海交易ネットワークを活用した、中国の都市市場向けのビジネスモデルを確立していない。また、中国の都市市場の方も統一国家になって見せるような貨幣経済の発達による高度化をしていない。
だから、薬種(薬草、薬木)は貴重品だったのだろうが、ウコンという原材料をそのまま献上している。
もし、都市市場が高度化していれば、複数の薬種に秘密の調合を施した入手が困難な「妙薬」「霊薬」にして献上した筈である。だが、後世の統一王朝の皇帝が不老不死を切望したようなウォンツの高度化が起っていない。
そして、
「出雲族」ないしはその前身の日本列島に渡来した遠隔地交易民の方にも、環日本海の交易ビッグマンがもちよった薬種を出雲でアッセンブルして商品化する「合薬」ビジネスモデルの発想はまだなかったのだろう。
しかし、
秦漢代、おそくとも後漢代には、「合薬」ビジネスモデルの発想と実践を「出雲族」はしていた可能性が高い。
なぜならその可能性を、
『古事記』の出雲神話で「国造り」をしたとされるオオクニヌシとその協力者スクナヒコナがともに薬祖神である
ということが示唆しているからである。
中国神話では、神農(炎帝)が本草学の始祖とされている。
『淮南子』には、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)、あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物を食べたので神農は1日に70回も中毒した」とあるという。
神農氏の後人の作とされる『神農本草経』は、365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述している。上品は無毒で長期服用が可能な養命薬、中品は毒にもなり得る養性薬、下品は毒が強く長期服用が不可能な治病薬としている。『神農本草経』は、後漢から三国の頃に成立したとされる。
西周代には、
こうした中薬(漢薬)の考え方がすでにあり薬草を煎じて飲んでいたが、
薬種を組み合わせるということについては後世のように精緻に体系化されてない素朴な段階だった
とも考えられる。
であれば、
西周代の朝貢品としては、国内では入手できない薬種が単体で歓迎され、
秦漢代を通じて朝貢品としては、薬種を組み合わせた多様な「妙薬」「霊薬」が歓迎されるようになっていった
そして後漢代には、皇帝や妃が用いた希少価値ある「妙薬」「霊薬」の一部が、女官や富裕庶民も用いることのできる普及品となっていた
と考えられる。
「出雲族」は、こうした中国の都市市場のニーズ変化を適宜な視察調査によって把握し、ニーズに応える「合薬」交易ビジネスモデルを工夫していったのだと思う。
日本列島は、大陸にない薬種もあった筈で、少ない例外ではあるが日本独自の和薬も生まれている。
たとえば、広く日本の民間で用いられているゲンノショウコ、ドクダミ等は使用法は漢方の場合とまったく異なるため、通常は漢方薬には含めず民間薬として区分されている。
また、大陸と同じ薬種でもその独自の組み合わせや製法によって中国では入手できない薬(煎じ薬、軟膏、薬液)となり、それが「妙薬」「霊薬」として歓迎された可能性がある。
そこで想起されるのが、
秦の始皇帝の時代に(紀元前219年)童男童女500人を含め総勢3000 人の集団を引き連れ
仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた
という話である。
秦の始皇帝から命を受けて先導した徐福の名から「徐福伝説」と言われる。
それは『史記』の「淮南衡山列伝(わいなんこうざんれつでん)」の記述によるので、伝説ではなく史実だった可能性がある。
徐福は始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申しているが、これは日本列島に大陸にはない薬種があり、独自の組み合わせや製法による妙薬があるという考えの表明に他ならない。
また、秦の始皇帝はアワビを不死の薬として求めて徐福を日本に派遣したという。
「石決明(せっけつめい)」と呼ばれた干しアワビの持ち帰りが期待された。
ちなみに中国はアワビが生息する岩礁が少ないという。
それゆえに中国では古来、高級食材だった。日本列島からもたらされた干しアワビの市場価格はそれに比べて安価で、日本側で集荷輸出する交易者も、大陸で中継する交易者も、中国の都市市場に卸す交易者もみな儲かったと考えられる。
現在の日本の高級な干しアワビの産地としては、青森県や岩手県が知られており、大間町産のもの(広東語で「禾麻鮑 オウマパーウ」)や、大船渡市吉浜産のもの(「吉品鮑 カッパンパーウ」)は香港で非常に高値で取引されている。大きいほど高価になる。
古代でも、良質で大きいものは東北地方産であり、山形県北端に位置する飽海(あくみ)とその沖の飛島などが、北部九州の拠点を失って全国に分布した「安曇氏」による干しアワビの物流や中継拠点となったと考えられる。
初期ヤマト王権においては、国府のおかれた島根半島東部が集荷拠点とされ、そこから日本海を渡る航海船が出る隠岐に運ばれ、この現場の交易実務は傀儡化した「出雲族」一派が担ったと考えられる。
干しアワビは中華料理の食材としての交易が盛んとなる前段として、秦代ないし前漢代に薬種としての交易が先行し、当時は中国の都市市場のニーズに対応した「出雲族」が手がけたと考えて自然である。
飽海(あくみ)の三崎山遺跡から紀元前1000年ころの青銅刀子が出土している。
製造技術の移入は見られないためこれは大陸との交易によるものとされる。
その遠隔地交易をした交易者は、「出雲族」ないしは出雲を拠点とする前に複数箇所の拠点を転住したその前身と考えて自然である。
(もう一つの中国由来の遠隔地交易民「安曇氏」はまだ渡来していない。彼らは呉の遺臣を祖とするが、呉が滅びたのは紀元前473年である。)
戦国時代から秦漢代にかけて徐々に書き加えられたとされる地理書である「山海経」に見られるように、
はるか東海上に立つ生命樹の巨木「扶桑樹」についての神仙思想が育んできた幻想がある。
海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。
海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。
古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという。
始皇帝や徐福は、こうした神仙思想が育んできた幻想を踏まえて、東海の地=日本列島に「霊薬」の薬種を求めたのだろう。
この権威的知識として流通している文脈を、中国の都市市場を狙う「出雲族」が自分たちのビジネスモデルのネタとして利用しない訳がなかった。
オオクニヌシに協力していわゆる「国造り」をしたスクナヒコナは、天乃羅摩船(あめのかがみのふね:ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した。
このことからスクナヒコナは中国系渡来人を想起させるが、医薬の神でもある。
スクナヒコナは日本における医薬の祖とされるが、医薬の中国市場を知る者として中国市場に無いために歓迎される薬種についての目利きであり、中国向けの合薬の商品開発者であったと考えられる。
そもそも『古事記』が「国造り」とすることは、オオクニヌシが島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築して、その活動を支える後背地経済圏を主要産品の生産拠点をネットワークして形成することだった。
そしてスクナヒコナは、主要な交易品目となる薬種の生産拠点と、薬種をアッセンブルして合薬を製造する拠点を構築してネットワークした。それを『古事記』は「国造り」という文脈において民衆に医薬を広めた物語にしている。
おそらくそれは嘘ではないのだろう。
実際にスクナヒコナの諸国遍歴にはそういう側面があり、日本列島内での薬種や合薬の需要を高めることで、国内需要への対応を含めた形の量産量販体制によってより安価に大量の調達が可能となった。それが結果的に、中国の都市市場を狙った対外交易における利益拡大に繋がったと考えられる。
ちなみに薬と言えば、越中富山の薬売りが有名である。
なぜ越中が薬売りの拠点になったのかを調べると、富山で薬種商が始まったのは室町時代で、越中に薬種商の唐人の座ができたことからだという。
奈良時代から平安時代にかけて渤海国との交易で薬種も扱われていて、日本海沿岸の富山の地にその交易拠点があったと考えられる。
渤海国(698年〜926年)は、中国東北部から朝鮮半島北部、沿海州を版図とし、周囲との交易で栄え、唐からは「海東の盛国」と呼ばれたという。
これは、中国からの亡命商人が代々やってきた朝鮮半島北部東岸の遠隔地拠点(「国譲り」まで「出雲族」が交易した環日本海交易ネットワークの一拠点)とその後背地に重なる。
なぜ大陸の一画の陸続きでいける国のことを、唐は「海東」と呼んだのだろうか。
それは渤海国の交易活動が環日本海に及んでいたことによるのではないか。
高句麗の遺民だった大祚栄(だいそえい)が作った「震国」が「渤海国」に国号を改め(713年)唐の冊封を受けて、その文化と律令制度を取り入れて新羅(紀元前57年〜935年)と対抗したされる。
大祚栄が唐から与えられた称号は渤海郡王であり、忽汗州都督府都督の官職を受けた。これは「安曇氏」が帯方郡の出先機関である「伊都国」の長官として後漢そして魏の外臣とされたことと重なる。
『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也)と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」(渤海、本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏)とする。
この解釈には、大祚栄は純粋な高句麗人でもなく、純粋な靺鞨人でもないという「境界人」とする説もある。
これも「安曇氏」が、呉の遺臣の後裔として純粋な漢人でもなく、純粋な(<倭国>の人という意味の)<倭人>でもないという「境界人」性に通じる。
大祚栄は「安曇氏」と同様に遠隔地交易民であり、唐はその国を、環日本海の遠隔地交易による繁栄をもって「海東の盛国」と呼んだと考えられる。
富山のある越中の越前との境が糸魚川であり、その周辺が翡翠の産地(タケノミナカタの母、ヌナカワヒメの地)であった。
その翡翠を、「出雲族」は島根半島の玉造温泉で加工し、環日本海交易ネットワークを活用して原材料をアッセンブルして宝飾品にするビジネスモデルに組み込んだ。
この交易チャネルが、そのまま薬種をアッセンブルして合薬にするビジネスモデルの交易チャネルとなったのである。
糸魚川は本州を東西に分けるフォッサマグナを流れていて、越中は本州の東西の薬種を集合させるに位置的に最適である。
沿海州で産出する薬種だけでつくった合薬は直接に中国市場に入っていたが「妙薬」「霊薬」とはならず(たとえば朝鮮人参や高麗人参は朝鮮半島から沿海州にかけて自生)、日本列島で産出する薬種を加えた合薬にしてはじめて「妙薬」「霊薬」となる、というブランド訴求が「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」との徐福伝説で権威化されたのではないか。
ただし、
「出雲族」は直接的に国家と取引してその管理貿易に下ることはなく、また中国の都市市場のニーズの中でも、青銅をベースとした宝飾品で女官や富裕庶民の婦女の安価普及品市場を狙ったから、皇帝や妃といった限られた者が服用する希少な「妙薬」「霊薬」を扱ったとは考えにくい。もっとボリュームのある階層の需要を狙う普及品の「妙薬」「霊薬」を朝鮮半島北部東岸の交易ビッグマンたちに供給したと考えられる。
私が具体的に想定するのは、熊の胆(くまのい)、熊胆(ゆうたん)である。
日本では、熊胆(ゆうたん)の効能や用法が中国から伝えられ、飛鳥時代に熊の胆(くまのい)として利用され始めたとされる。
奈良時代には越中で「調」として収められてもいたという。
朝廷や宮廷に貢納するという建前で徴収された熊の胆(くまのい)だが、その他の合薬や干しアワビなどの薬種とともに天皇直轄の贄人が国内外の交易ネットワークを駆使して各地から集荷し輸出して天皇の私経済の利益源泉とした可能性がある。
そしてその島根半島東部の集荷中継拠点において現場実務を担ったのが傀儡化した「出雲族」およびその後裔であり、そもそも熊の胆(くまのい)交易も、干しアワビ交易も、「国譲り」以前の「出雲族」が手がけていたと考えて自然である。
熊胆は他の動物胆に比べ湿潤せず製薬(加工)しやすかったと言われ、遠隔地への海上輸送にも適したのかも知れない。
ちなみに熊の胆(くまのい)は江戸時代に処方薬として一般化し、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。
秦漢代、おそくとも後漢代の中国の都市市場には熊胆(ゆうたん)や薬種としての干しアワビの大きな需要があり、朝鮮半島北部東岸の交易ビッグマンは、「出雲族」から安く仕入れて中国の市場価格としては安く売っても大きな利益を上げたと考えられる。
ちなみに、
薬祖神のスクナヒコナは、天乃羅摩船(あめのかがみのふね:ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した。
ガガイモは日本(九州以北)のほか東アジア一帯に分布し、同属の植物が東アジアやシベリアに数種あるという。
スクナヒコナが沿海州経由で島根半島に渡来したことを想起させる。
そして、
ガガイモの種子も漢方の薬種であり、「蘿摩子(らまし)」と呼んで強壮薬に用いることもあるという。
出雲大社への旅の道すがらの雑考(3)
http://cds190.exblog.jp/21931093につづく。