「ゆとり教育」ならぬ「ゆとり」の話をしておきたい。 |
それは私の通った早大学院という全員エスカレーターで早大に上がれる付属校の話だ。
もちろん人気学科に入るには学内で成績上位でなければならないが、人気学科でなければ無競争で入れた。つまり贅沢を言わず留年さえしなければ高校受験で合格した三年後には早大に入れた訳だ。人気学科も競争率は高いとは言え、年数回の定期テストの通算で短期決戦の繰り返しだから受験勉強に比べれば楽だった。
で、こんなことがあった。
私が建築学科に入った時の教授の半分が早大学院出身者だったのだ。さらに修士課程に上がった時、やはり学院出身者が多くを占めていた。好きで選んだ学科ということと、高校時代に十分遊んでいたために好きな勉強の方が遊びより楽しかった、そういう学生が修士に上がったり、教授になったのだ。
私の屋上でタバコをすった仲間には、大学教授が一人、大学院教授が一人、アニメ界の著名プロデューサーが一人、外資系損保のアジアナンバー2になった営業マンが一人と、私は違うが出世した者が多くいた。大手企業で部長クラスになっているのはざらだ。アメリカ交換留学帰りの大学院教授を抜かせばみな成績はさほどよくなかった。しかしみなよく遊んだことが共通している。
教授になった者は一日一冊外国小説の文庫本を読んでいた。長い行き帰りの通学時間に好きな読書に没頭していた。早大から東大の大学院経由で国立大の英米文学の教授になったらしい。
屋上タバコ組ではないが、野球部のキャプテンだった成績優秀者は、どうしても六大学野球に出たいと言って、エスカレーターで早大に行かずにわざわざ受験して東大に入った。東大なら何学科でも良かったそうだ。一年の秋から神宮球場に出場した。早大野球部なら一生ベンチにも入れなかった。
ティーンエイジャー後半の多感な時期、好きなことに没頭する精神的な「ゆとり」が彼らを自分ならではのやり方で成長させたと思えてならない。
「ゆとり教育」か「つめこみ教育」か、という二者択一が論じられているが、
私はティーンエイジャー後半には「教育に振り回されないゆとり」こそ大切だと実感している。