誰もがイジメられたりイジメた過去を語ろうとしないのと同じように、、、 |
一神教の欧米人は人として神に直接対峙していて神からの報いが善かれ悪しかれ個々に直接来るという感覚をもっている。個人主義というと思考的に聞こえるが起点はもっと感情的だと思う。そして彼らにとってそういう「個人」の総体が「社会」。この「社会」も神との契約の支配下にある。
日本人は、自分をとりまく人間関係の総体である「世間」、それも複数の「世間」に属していて、それぞれの「世間」で位置づけ=分際があり、それを弁えて暮らす。
職場やクラスの空気を読むとか、ナチスとは違うみんなで渡れば恐くない、一億玉砕的な空気全体主義もその延長だ。なんとなく人並みの「自分」と月並みな「世間」の寄せ集まりが日本の社会の真相。この月並みな「世間」の寄せ集まりとしての疑似「社会」は、人間を超える抽象的な存在が支配しているのではなく、具体的な自然や縁のその時々、その場その場の成り行きに応じるだけのものだ。
こうした日本人の世界観ないし世界感は、個々の人生観や生活感にも入れ子構造で展開している。
たとえば、
人の陰口を叩く輩がいる、人を上げたり下げたりする輩がいる、二人では何も言わないでいて三人になると派閥をつくって悪口を言い出す輩がいる、前言ったことと違うことを平気で言ったり相手によって言う事を変えたり言わなかったりする輩がいる、
そういうことのほとんどは「場」が介在した「分際」話だ。
「場」は、知識創造の世界で世界共通語として「BA」になっていると言うが、日本人にとっての「場」は「世間」である。だから「場」に応じた「分際」での対話しかしようとしないから、知識の共有とか共創すると言っても初めから枠組みが矮小化している。要はそこで話していい、話すお約束になっている論題を、その「世間」の一員の証でもある共通の専門用語を使って対話するだけなのだ。当然、そうしたお約束と作法を共有する人以外は暗黙裏に排除される。またそういう囚われや既定路線を嫌う人の方も寄って来ない。
日本では、SNSも「ソーシャル・ネットワーク・サービス」ではなく「世間・ネットワーク・サービス」である。アラブの春のような「社会」を前提にした「個人」が対話し連帯するネットワーキングはまったく働かない。
職場や自宅近隣などの日常的な人間関係の「世間」とそこでの「分際」を最優先で維持向上しようとする人たちがほとんどで、SNSが日常から社会を変容させるようには働かない。
もし日本でSNSが日常から社会を変容させることができるとしたら、マジョリティの「世間」がこれはまずいと騒ぎ出し、個々がそれに呼応しないと「分際」を保てなくなる時だろう。
しかしその手の「空気づくり」は政官財報道の翼賛体制の空気全体主義の方が圧倒的に強力でそれに対抗して粉砕するのは並大抵のことではない。
前の戦争では、天皇陛下が終戦をラジオ放送で宣言することで、ようやくストップした。マジョリティの「世間」は一億玉砕も止むなしと思っていて、陸軍海軍のトップは最期まで自分たちの面子を失いたくなくて降伏を言い出さなかったし、軍部には徹底抗戦を貫こうとする者がいて皇居からNHKに運ぶ玉音版(ラジオ用の録音)を奪おうとさえした。
いま福島の人々の間では、ある種の話題に触れたりその論題である方向の意見をいったり否定することを、自粛したり相互監視するという、まるで、うかつなことを言うと非国民と言われ密告されれば特高にひっぱられたのと同じ事態がすでに現象している。
秘密保護法が成立すれば、治安維持法がそうしたように、そういう人々の萎縮した心理状態や陰湿な人間関係が全国化、全国民化していくに違いない。
もともとSNS上で顔見知り同士は時事問題を避けているくらいだから、一般的な人間関係は萎縮を超えて、学校の子供たちの間にすでに蔓延してきた順送りでターゲットが代わるクラスのイジメのようになるだろう。
つまりは、人の陰口を叩く輩、人を上げたり下げたりする輩、派閥をつくって一人の悪口を言い出す輩、前言ったことと違うことを平気で言ったり相手によって言う事を変えたり言わなかったりする輩、そんな人間にならねばサバイバルできない「世間と分際=自分」になっていく。
これは敗戦までに日本人が実際に辿った道のりだ。
2年半前、95歳で他界した大正4年生まれの父から聞いた事を総合して言える。
目が悪かったため内地に召集された父は、戦闘体験がない分、人々の心の有り様や人間関係の変容を微妙な継続的な推移として体験した。父は英語が多少できたために敗戦直後米軍で通訳をすることになり、日本人全体の一気の様変わりも目の当たりにしている。それでも貴様、帝国陸軍の軍人か!と徴集兵をぶん殴ったような下士官が赤ら様に米軍兵に媚を売るようになる。
私は、誰もがイジメられたりイジメた過去を語ろうとしないのと同じように、
戦時体験をした兵隊と民間人のほとんどが、自分を含めた人々の心の有り様や人間関係の変容を語らないのだと思った。
私は、それこそが歴史に学び、いま平和を守るために語り継がれるべき戦争体験だと考えている。
最大の障害は何だろうか。
陸軍や海軍がダメになるなら国が亡んだ方がマシだ、という軍人がたくさんいた。
政界では、あいつの言うことに従うくらいなら党がばらばらになった方がマシだ、という政治家をよくみる。
経営危機の会社で、あいつの言うことに従うくらいならリストラされた方がマシだ、という社員をよくみた。
場末の飲み屋でもSNSでもかえって顔見知りゆえに、あいつの言うことに賛成するくらいなら対話しない方がマシだ、という狭量もみかける。
以上、一事が万事、人々の心の有り様や人間関係としては同じものが一貫している。
いろいろ困難で複雑なことに対処するよりは、今自分の「分際」が安定している「世間」の枠組みの中で、その外のことは無かったこととして暮らして行こう、孫子や他人の日本人の未来がどうなろうと自分が死ぬまで「分際」を守って生きていければいい。
私は、これが目前の最大の障害だと思うがいかがだろうか。