「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(48) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[る][れ]から始まる言葉」のメモでございます。
「[留守居役]るすいやく
(前略)
②[大名]では、江戸に常駐して、日常から幕府や他藩との連絡、情報交換をする役職でございます。
[殿様]が留守にする際には江戸屋敷の責任者となりました」
諸藩の江戸留守居役は「御城使」とも言われ、江戸武鑑でもほぼ「城使」と記される。
幕府公認の「留守居組合」をつくって情報交換をしていて、いわば諸藩の外交官であった。
留守居の副官・補佐役を「留守居添役」と呼ぶことが多い。
多くの諸藩留守居は物頭級(小藩にあっては番頭級)の有能な家臣から選ばれた。また、一部の藩では家老、用人、側用人が兼務する場合もあった。なお、武鑑上では全ての藩で用人より下座扱いである。
つまり[留守居役]は、江戸城と城下で幕藩関係において活躍するものの、地位的には高くなかったことに留意されたい。
[留守居役]は、その名の通り、主が江戸藩邸にいない場合に藩邸の守護にあたった他、藩主が江戸在府中であっても御城使として江戸城中の蘇鉄の間に詰め、幕閣の動静把握、幕府から示される様々な法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成を行っていた。江戸時代は「礼儀三百威儀三千」ともいわれるほどで、前例に従って落ち度のないことが第一と考えられており、それに資する先例を捜査するために「留守居組合」にて他藩の留守居と情報交換を行った。また自藩の本家(本藩)・分家(支藩)との連絡・調整に当たるのも留守居の役目であった。
私は、明治新政府において明治二十三年(1890)に成立した帝国議会、そこから始まる日本の国会議員という存在が、この[留守居役]にダブルように思えてならない。
幕府のトップであった将軍が天皇に代わり、藩のトップであった藩主が知事に代わり、それらがさらに戦後の民主主義化で総理大臣や都道府県民に代わったとして、地方選出の議員というものが、諸藩の江戸[留守居役]になぞらえてきたように思えるのだ。
「幕閣の動静把握」→政府首脳の動静や意向の把握
「幕府から示される様々な法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成」
→立法府における立法作業
「留守居組合」にて他藩の留守居と情報交換
→政党や派閥を通じての都道府県の利害調整
「自藩の本家(本藩)・分家(支藩)との連絡・調整」
→中央省庁と地元自治体との連絡・調整
政治体制の変化を踏まえた以上のような符号を指摘できる。
ちなみに、日本独特の世襲議員の多さだが、彼らの家族の暮らす自宅が東京にあって=「江戸詰め」をしていて、選挙の時だけ地元に帰る=「お国入り」というライフスタイルや行動スタイルも江戸[留守居役]のそれに他ならない。
唐突に思われるかも知れないが、たとえば、慶応義塾高校出身の政治家の内、世襲議員がどれくらいいるか、を見てみよう。
石破茂、石原伸晃、石原宏高、伊藤信太郎、江崎洋一郎、奥野信亮、亀井善太郎、河野太郎、小坂憲次、佐藤公治、竹下亘、中曽根弘文、福田達夫、岸信夫、松野頼久、櫻内義雄、山岡達丸など。
世襲議員が多いとは言え慶応義塾高校1校の出身者だけでもざっと17人。もともと通学可能な首都圏を地盤とする者も入っているが、それにしても派閥を形成できる人数の世襲議員を誇るという、まさに高校閥は他にないだろう。
高校閥は基本的に家族の通学圏在住、つまりは東京の高校の場合「江戸詰め」を前提にしている。
(ちなみに、早稲田大学付属にも慶応大学付属の日吉高校と同等の早大高等学院が上石神井にあり、そこの出身者の世襲議員を調べてみると、赤松広隆、河野洋平、住博司(故人)、久野統一郎とざっと4人と少ない。「高校世襲閥」に関しては早稲田・慶応と並び称されない。これは慶応大学の方が財界閥が強く、政治家の人脈として有利であることによるのではなかろうか。一方、早稲田大学は貧乏だが弁が立つ雄弁会出身者の政界進出がすごいのだがあまり群れず閥に固まらない。久遠の理想を求めて集まり散じる、ということか。)
私はたまたま、千代田区立の番町小学校と麹町中学に通ったのだが、私のような地元からの徒歩通学の生徒は1割で9割は越境、つまり住民票だけを学区に移して子供は定期で国鉄や地下鉄で通う者だった。私の小学校の級友には神奈川県の大船から今のJR四ッ谷駅まで毎日通う男子がいてテレビでドキュメンタリー取材されていた。地元のしがない家業の洟垂れ小僧の私は、みんな何が良くてわざわざ遠い所から通ってくるのか分からなかったが、中学生くらいになって遊び友達に国会議員や大手企業の社長の子女が多いことに気づき、やはり何かが違うと気づき始めた。
かつて番町→麹町→日比谷高校(場所は赤坂)→東京大学というのがエリートコースだったのだそうだが、私の頃は都立高校が学校群制度になって日比谷高校のレベルがすでに落ちていて、エリートコースは昔話になっていた。それでも越境が多かったのは、公立学校の中でも日頃から教育委員会によく出入りして早く校長に出世するようなエリート教師が集まっているためとも言われるが、生徒の目から見ればいい先生もいればこれはあかんという先生もいるのはどこも同じだ。それでも幼い子供に殺人的な満員電車で通学させた親たちは何を思ったのだろうか。塾通いをさせる教育ママというだけなら全国津々浦々にいたから教育熱心だけでは理由にならない。
自分がその当時の親の年齢になって思ったのは、いいとこの子女が通っているから、ということだ。私のうちは放任主義で父親など勉強しないで家業を手伝えと言っていたくらいで、両親ともに私の級友の親のことやPTAのことをまったく気に掛けなかったので、私もあまり考えなかった。だがよくよく思い出すとこんなことがあった。小学校の低学年で、外務省高官の息子の級友が親と一緒に海外に行くというので、官舎暮らしの役人の娘の級友とその母親がみんなでプレゼントを送ろうと言い出して、いわれなきお金を徴収され母が不承不承私にもたせた。後者の女子の父親の役人にしてみれば前者の男子の父親の高官の覚えが目出たいことにこしたことはない。クラス全員がそれに付き合わされた格好だ。それでいて親が何者でもない級友の転校などでそういう送迎話が持ち上がることはなかった。
小学生同士の集まりで、この高官の家にも行ったし、大学教授の家にも行ったし、親が経営する会社の郊外のグラウンドにも行った。当時、今のようにみんなサラリーマンで所帯が画一的ということはなく、級友の家や家業は千差万別で子供にとっては他所の家の一つ一つが新鮮であり、豪邸だから凄いなどと誰も思わなかった。豪邸は庭を含めて広く複雑で隠れんぼが楽しい、会社のグラウンドは野球場を貸し切ったかのようにワクワクしただけだ。ただ今から思えば、招いてくれた級友のお母さんとその取り巻きの母親たちが行き帰りの送迎やお昼ご飯やお八つの支度をしてくれていた。ただの区立の小学校なのに、ビバリーヒルズのセレブのような、あるいは海外の大使館員や商社マンの婦人たちのような話だ。
話は脱線してしまったが、麹町中学には、私の通った番町小学校の他に麹町小学校と永田町小学校の生徒が入ってくる。永田町小学校出身者には国会議員の子女もいて、やはり前述のような級友からのセレブなお呼ばれ体験をしているものが多かった。そういう小中の付き合いが大学そして社会人になっても続いているケースは多く、必ずしも親が期待したものとは違うのだが、いいとこの子女同士が仲良くなっていったことは確かだ。
ちなみに、私が麹町中学卒業時、学年550人くらいの内、慶応大学付属高校の前述の日吉に志木を合わせて4〜50人入った。これは当時の麹町中の例年並みだが、区立中学の平均と比較すると異常に多かった。経済的に裕福な越境家庭が多かったためと思われるが、なぜそのような富裕家庭の人気が継続したかと言えば、かつてエリートコースだったといった合理的な理由よりも、象徴的な都心の旧武家屋敷エリアに価値を見出す情緒的な理由が大きかったように感じる。繰り返すが私立ではなくて区立、あくまで公立の話なのだ。
たまたま当該学区で実家がしがない家業をしていたために子供の私が体験した、旧武家屋敷エリアの区立小中学校の特殊な人間関係だが、私には、江戸時代からずうっと繰り返されて来た江戸的なものの残滓だと思えてならない。
社会の体制や価値観は大きく変化はしたが、子供同士、子供の母親同士の付き合いとしては、似たようなことがこのエリアの武家社会でもあったのではなかろうか。
国会議員の妻と子女がいたように、諸藩の江戸[留守居役]の妻と子女もいて。
[留守居茶屋]るすいぢゃや
各藩の[留守居役]が[寄合]をする高級料亭でございまして、毎晩のように寄合が開かれておりました」
留守居の情報交換は、藩の財政を無視して遊郭や料亭などで頻繁に行われたため、財政難に苦しむ各藩の国許や勘定方からは怨嗟の眼差しで見られたという。
幕府が諸藩の留守居役による暗躍・工作活動を嫌い、江戸城登城を禁止した時期も数次に及ぶが、不便であるためまたすぐに解禁されるなどしていたことは、その微妙な立場を物語っている。また、正式ルートを通じる以前の内証を得るための調整が諸藩留守居役と取次の老中の間でなされ、スムーズな幕藩関係を築く努力がなされたという。
「待合」とは、茶屋のことで「待合茶屋」を起源とし、京ではもっぱら「待合」と呼ばれたようだ。
商人の寄合いや旅人の送迎など、本来の待合せに利用する茶屋であったが、明治初年以後は花柳街における芸者との遊興場所として急成長した。これには,政治家や政商などが「待合政治」という熟語を生むほどに盛んに利用したことも見のがせない。待合における芸者の売春が公然の秘密であったのも,政治的圧力が介在したといわれる。
「待合政治」は戦後もつい最近まで盛んだった。
私の子供の頃は赤坂や紀尾井町に料亭がたくさんあり、私の通った麹町中学の友達にも料亭の娘がいたし、姉の通った永田町小学校の友達にも別の料亭の娘がいた。赤坂の溜池よりには芸者坂とみなが呼んでいた、芸者さんを送迎する人力車が並んで駐車してある坂があったりした。
赤坂の花柳界が栄えた理由には、間違いなく国会議事堂のある永田町に隣接して「待合政治」に便利だったことが外せない。
また、これは修士の時に家庭教師のアルバイトをしてはその報酬で通った神楽坂のことだが、地元民には有名な話がいろいろある。神楽坂はある大物政治家がお妾さんの芸者のところに通いやすいように一方通行を午前と午後で逆転にしたとかだ。そのご子息のことも地元民はみな知っていて多少私も関わりをもった。
以上のような小学校低学年から修士までの人間関係や生活実感を踏まえた個人的な推論でしかないが、
「待合政治」を料亭でしていた国会議員が、
かつて「待合」で「寄合」をしていた諸藩の江戸「留守居役」に、
「待合」以外のいろいろな文脈においても高コンテクスト的にダブる
という前項「留守居役」の冒頭述べた論は、あながち外れていないと思う。
「[零落]れいらく
①草木の枯れる様。
②落ちぶれることを申します」
①が状態メタファーとなって②を意味する。
「[連座]れんざ
[縁座]とも申します。
重大な犯罪で、犯人と共にその管理者、縁者が共に裁かれる連帯責任制度です」
現代の日本でも、選挙運動に携わった特定の人が買収など悪質な選挙 違反で有罪になった場合、候補者の当選を無効とする制度が[連座]制である。
しかしこれは管理者としての立候補者が問われるという罪と罰について合理的なものである。
一方、江戸時代の[連座]は監督責任のある管理者だけでなく、管理しようのない縁者も共に裁かれてしまう。言ってみれば、北朝鮮が脱北者の家族に連帯責任を負わせるような話だ。
それは極端な話としても、北朝鮮、江戸幕府そして戦中の日本が徹底的に展開した「五人組」ないしは「隣組」という国民管理方式は同じ[連座]である。組の構成員の一人の過失の全員が連帯責任を負わされる。少なくともそういう圧力をもって統制されたことは事実である。そしてこの制度の恐さは、お上からの統制圧力を内部の身内同士の葛藤圧力に転換して、国民の心理を常にストレス下に置くことである。限界的な状況に至れば、上からの圧力であれば非継続的で気の休みようもあるが、内部の身内同士の相互圧力となれば継続的で気の休まることがない。
[連座]的な人心支配は軍隊も同じで、日本軍の失敗の本質がいろいろ高尚に議論されるが、しごくタンジュンに現場の兵隊の人間関係が荒んでいたこと、差し迫った状況になればなるほど心理的に疲弊していくしかなかったことが大きいと思う。
「五人組」制度の起源は古く、古代律令制下の五保制(五保の制)といわれる。つまり日本のそれは北朝鮮のそれと由来を同じにする。
時代が下って慶長二年(1597)、豊臣秀吉が治安維持のため下級武士に「五人組」を、庶民に「十人組」を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した。
五戸前後を一組として編成し連帯責任・相互監察・相互扶助の単位とした。領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。
「隣組」は、日独伊三国同盟が成立した1940年9月、第2次近衛文麿内閣が全国で制度化し、食糧配給や防空演習を約10戸単位の連帯責任で実施させた。大政翼賛会の末端組織だった。
制度を広めるため国民歌謡の「隣組」がラジオで流された。
戦後は替え歌がザ・ドリフターズのお笑い番組「ドリフ大爆笑」のテーマ曲となった。