「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(40) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[み]から始まる言葉」のメモでございます。
「[御左口様]みじゃくじさま
東日本の土着神で、土地によって様々な姿、伝説がございます。非常に古い信仰で、縄文時代にすでにあったとされ、アイヌの信仰ともいわれます。
『荒脛巾様(あらはばきさま)』などと同様に『客神(まろうどがみ・まれびとがみ)』として神社に祀られます」
「客神」=客人神は、客人の神で、土地土地の地の神(地主神)との主客転倒があったものとされる。
[御左口様]が特に江戸でどのように信仰されたのかについてはよく分からない。だが、蝦夷がヤマト王権によって東北地方に追いやられながらも守り続けた神といった説がある、同じく縄文神の一種の「荒脛巾様」と同様、古事記に出て来るが日本書紀には出て来ない。
私としてはこうした両者はともに、
江戸の三大祭りのような言わば<建前としての表の信仰>に対して、
<本音としての裏の信仰>という側面をもって江戸庶民に受け取られていたのではないか
と想像する。
「荒脛巾様」には蛇神説がある。「陰陽五行思想から見た日本の祭り」の著者である民俗学者、吉野裕子は蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説を唱え、その中で、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
そして、伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角で、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われる、「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから蛇と深い関わりがあるという 。ちなみに「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神(不浄を忌み、火を好むというところから、近世以降、かまどの神として祭られた三宝荒神など)となったという。
また、多賀城市のアラハバキ神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが、後に「下半身全般」を癒すとされ男根をかたどった物も奉げられた。それは、長脛彦(ながすねひこ)を祀るということから、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰があったためだ。
私は、この「荒脛巾様」と「伊勢参り」とが何らかの脈絡をもっているのではないかと疑っている。
その真偽は分からず、真としての実際も想いもよらないが、ともに<本音としての裏の信仰>であったことは明らかだ。
「伊勢参り」は「お蔭参り(おかげまいり)」と言われ、この別名は<本音としての裏の信仰>にふさわしい。またの名を「抜け参り」と言い、江戸の三大祭りのような<建前としての表の信仰>が地元町内の者同士を一つに纏めるダイナミズムが働くのと正反対に、地元世間を離脱させるダイナミズムが働く。お蔭参りの最大の特徴は、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことだ。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しをうけることができた時期もあった。
数百万人規模の伊勢神宮への集団参詣が、60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こったという。
当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮だった。特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていた。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたという。
厳格な封建制度で秩序だった江戸社会においてどうしてこのようなカオス的逸脱が容認されたのであろうか。
封建制度の枠組みに収まった<建前としての表の信仰>では解消されない庶民の鬱積するエネルギーがあり、それを<本音としての裏の信仰>が吸収して暦一周りに一回くらいは爆発しても仕方ないだろうという了解が為政者にも共有されていたのではなかろうか。
<弥生的な時間軸>において60年に1度<縄文的なカタルシス>を許すということになる。
ちなみに、流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、真宗地域には広まりにくかった傾向がある。死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。思うに、一向一揆を形成した浄土真宗はそもそも縄文的色彩を日常に秩序だって帯びさせる傾向があり、「お陰参り」のように縄文的色彩を稀少な非日常にカオスとして発散させる傾向とは相容れなかったのではなかろうか(と、父方が鹿児島の浄土真宗の私は想像してしまう)。
話を[御左口様]に戻そう。
[御左口様]も「荒脛巾様」同様に「客神」として祀られていた。
日常の秩序だった<建前としての表の信仰>の対象である「地主神」とは真逆に、非日常のカオスな<本音としての裏の信仰>の対象だったと位置づけられる。
そうした主客の何らかの形の転倒が、「お陰参り」で60年に一回あったようにあったのではなかろうか。「お陰参り」の主客転倒としては、産業の大神である豊受大御神が祀られている外宮を先に参拝し天照大御神が祀られている本殿の内宮へ向かうしきたりがあり、これを外宮先祭という。
柳田國男は、[御左口様]は塞の神(サイノカミ)=境界の神、すなわち、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとしている。
ちなみに「荒脛巾様」にも「塞の神」説がある。宮城県にある多賀城跡の東北にアラハバキ神社がある。多賀城とは奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点で、朝廷が外敵から多賀城を守るためにアラハバキを祀ったとしている。
ここで、
天照大神が<中心×日常>とすれば、
[御左口様]と「荒脛巾様」は<周縁×非日常>を象徴している、
と言える。
ただし、多賀城において朝廷は公民とは差別された俘衆(ふしゅう)を活用した。つまり「蝦夷をもって蝦夷を制す」で同じ民族を対峙させた。そこで「荒脛巾様」に期待された呪術的な境界性は、素朴に具体的な空間性で済む訳はなく、複雑に心理的な異次元性を帯びていた筈である。
[御左口様]にも「荒脛巾様」同様に蛇神説がある。ミシャグジ信仰の淵源が諏訪信仰に関わるとする見方もあり、諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれている。諏訪大社の最大行事は御柱(おんばしら、みはしら)祭であり、御柱は、古来祭りの中枢にあった蛇に見立てられ直立する樹木、「ハハキ」「蛇木(ははき)」「竜木(ははき)」に通じる。また、マタギ等の山人たちにも信仰されていたと言われる。
蛇→龍、山→滝と繋げれば東京都の奥多摩の山間にも残る龍神様やその修験者への憑依を連想させる。江戸には城下の社寺とは無関係に修験者や御師(おし/おんし)が来訪してくる。御師とは、特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことで、特に伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。彼らが江戸庶民にその活動を通じて漠然とした信仰を広めた可能性も否定できない。
ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があるが、天照大神との対比でこのように位置づけられるのではなかろうか。
つまり、
天照大神が<全体×極大×可視的=陽>とすれば、
[御左口様]は<部分×極小×不可視=陰>を象徴している、
と。
現代的に言えば、
天照大神が宇宙と太陽の世界の帰結
であれば、
[御左口様]は素粒子とスピリチュアリズムの世界の起点
ということになる。
太陽が白日の下ではなく本として明らかなのに対して、原子も核も目に見えず暖かみもない得体の知れないものであるが実在はする。近代以前の人々は科学的な認識は当然ないが、彼らなりに不可解な現象についてそれを生む何かを祟りなど畏れの源泉として捉えていた。
誰も捉えきる事は叶わず、断ち切る事のできない原始の顕現。自然への畏れに潜む祟りの力。
近代以前の人々の畏れの実感とは、いま現在私たちが原発事故による放射能汚染に対してある時は漠然とある時は苛烈に抱く収拾のつかない恐怖、それとほぼ同質のものかも知れない。
それは岩も樹木も関係なく、蛇や鼬などの小動物に至るまで人に神秘や畏れ抱かせた森羅万象全てに発生しうる現象の神である。むしろ自然がソレであり、自然を逸脱した原子力もソレなのだ。
一つ一つは微細かつ矮小な霊に過ぎない。群体であり単体でもある、顕れるが姿はない、影に潜む神。有象無象の極小な八百万の霊は『御左口』の名において信仰を得た。
それはすなわち御左口様そのものが信仰を受けるのと同義であり、日本そのものが御左口様の領地と言えなくもない。
時間をいにしえに戻そう。
「荒脛巾様」が想起させるイメージは、蛇や龍から、脛(すね)=という身体→脛巾=脚絆という身につける物→旅=中心〜周縁という空間移動へと具体的にかつ可視的に遠心した。
これに対して、
[御左口様]が想起させるイメージは、蛇や龍から、石や樹木や滝はじめ自然の森羅万象→目に見えないが感じる八百万の霊へと抽象的にかつ不可視に求心した。
以上は、神や神話の系譜の複雑な事実の話ではない。
一般庶民の受けとめ方とそれを誘導した伝達者たちの物語化による単純なイメージの話である。
日常的な「地主神」と非日常的な「客人神」の主客転倒を観念的に捉えれば、
「荒脛巾様」では<日常>の基盤である既知の<中心>が未知の<周縁>に転倒して起こり、
[御左口様]では<日常>の基盤である可視的な<遠心>が不可視の<求心>に転倒して起こる、
と整理できるのではなかろうか。
現代の日本に生きる私は、
グローバルな政治経済問題の打開を「荒脛巾様」に祈り、
原発事故の放射能汚染問題の克服を[御左口様]に祈りたい。
「抜け参り」という現実逃避はしないという前提で。
(参照:「放射能のせいで外で遊べないフクシマの子を描いたショートアニメ。 ドイツ在住の日本人作家 Shoko Hara 作品。 」 http://vimeo.com/51297975)
「[水茶屋]みずぢゃや
寺社や名所にある休憩所でございます。お茶一杯八文ほどで休めました。
『二十軒茶屋』は浅草寺内境内のお茶屋さんのことで、二十以上が軒を連ね賑わっておりました。
お茶屋さんには看板娘がおりまして、みなさん彼女たち目当てで通ったりもいたします。人気の娘は百文のチップなどをいただくことも珍しくございません。彼女たちは[茶汲み女]と呼ばれます」
織田作之助の小説「夫婦善哉」で芸妓の蝶子が経営したカフェ、その原初形態と言えよう。[茶汲み女]がカフェの女給の原初形態である。
[水茶屋]の「水」は、葉茶屋と区別したと一般に説明されるが、飲食で稼ぐのではなく客の人気や贔屓によって収入が左右される商売「水商売」の「水」の意味を含むと庶民には受け止められたろう。「水物」=そのときの条件によって変わりやすく予想しにくい意味である。
この文化的遺伝子は、現代のメイド喫茶にまで連綿と連なっている。
本書が解説する「二十軒茶屋」は、伝法院から仁王門寄りに並んだ役店(やくだな)と呼ばれたもので、雷門寄りの平店(ひらみせ)と呼ばれた玩具、菓子、みやげ品などを売るものとは異なる。門前町を形成したとはいえあくまで裏手、吉原に抜ける一画であった。
二十軒茶屋の看板娘としては、水茶屋「蔦屋」の蔦屋およしが有名で、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の柳屋お藤、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の笠森お仙とセットで江戸の三美人(明和三美人)ともてはやされた。
繁盛する水茶屋の[茶汲み女]は数人いた筈でそれなりの器量よしが採用されていたに違いない。すると、現在のAKBとか乃木坂46とかを代表するセンターみたいな位置づけだったと考えられる。今でも秋葉原とか乃木坂とか江戸の地名にちなんでいるのは面白い。
なぜか昔から日本人は三人にこだわる。
元祖大当り三色娘=美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみ。
花の中三トリオ=山口百恵、森昌子、桜田淳子。
花の御三家=橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫。
新御三家=郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎。
三種の神器以来、3つそろうと無敵という感覚が身にしみているのだろうか。
「[見立番付]みたてばんづけ
相撲の番付に見立てまして、様々なランキングを東西に分けて記載した刷り物でございます。
当時の方はこれがとっても好きでした。
例えば、役者番付、[遊女]番付、温泉番付、金魚の番付なんてのもありました」
もともとは興行する場所で板に出場する力士の名前と序列を記して明らかにしたことに由来する。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためだという。
江戸時代にはこの形式を借りて、園芸植物の品種や各地の名所、温泉、三味線演奏家、遊女、拳遊び、落語・講談などの寄席芸人や歌舞伎役者などありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。
長者番付、世界の富豪ランキングのようなランク付けが好きなのは日本人に限らない。
しかし、東西に対照するとなると日本人独特である。
そこには日本人の順位ではなくて、格へのこだわりがある。
同じ格にランクづけるから、順位ではなくて同格の東西にふるのである。
格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」は、番付の格付けを狂わせることから発している。
順位の序列ではなく、格の序列が日本人の「世間」を秩序だてている。
それは現在でも日本人の感覚に息づいている。
電通と博報堂、資生堂とカネボウなど、売上げから言ったら雲泥の差があっても一般庶民は同格の対として捉えがちだ。
業界という「世間」は、大手、中堅、中小、零細企業の格の序列で漠然と全体像が受けとめられている。
「[見習奉公]みならいぼうこう
良家の娘さんや、商家の跡取りが礼儀作法や仕事を覚えるために、よそにお手伝いに上がることを申します。お手伝いですんで給金はございませんが、名家に見習いに行きますと、それだけで箔が付きますし、その家との繋がりも深くなります」
私は大学は建築学科だったのだが、同窓生が大卒で社会に出た当時、今から30年ちょっと前。設計事務所の給料は一般的にとても安く、それでも一級建築士資格をとって独立すれば元が取れるという前提でみな我慢していた。一級建築士資格をとる試験を受けるのに何年かの実務が必要されてもいた。私は修士課程に進んでディスプレイ業界の会社に就職したのでその後の業界事情は知らないが、今にして思うと、設計事務所業界に流通していたあの常識は[見習奉公]だったと思う。
またテレビ業界では、NHKの出演料は民放に比べて安いと聞く。それはNHKに出たことで出演者に箔が付くからと言われる。
これも日本人の「世間」ならではの[見習奉公]の感覚ではなかろうか。
「[見世物]みせもの
寺社境内や[広小路]などに建てた小屋で行われます。庶民の娯楽でございます。
『ゾウ』『ろくろ首』『河童』『かえる娘』『化け物屋敷』『べな』『大ざる小ざる』『人食い人間』などがございました。一見の御利益を謳うものや、恐いもの見たさで寄ってみると、実はダジャレだったりいたします」
「見世」は「店」に通じる。
何かを見せて売ったりお金をとる、お金を払えばそれに見合う世界が開ける、そういう場と場のやりとりについての基本的合意があったと考えられる。それは古今東西に普遍的である。
浅草の門前町は仲見世といった。各地からの物見遊山客に江戸ならではの世界を商店街として見せつけようという意気込みを感じる。それは今も健在で、世界各国からの外国人観光客を引きつけている。
妓楼(ぎろう)で遊女が通りかかる客を呼び入れる格子構えの座敷を張見世という。この場合、商品は遊女でありそのサービスだが、遊女それぞれが自分なりの遊戯世界を見せつけようと意気込む、そういう空間媒体だったことは同じだ。
「[宮地芝居]みやぢしばい
『宮芝居』ともいいます。
もともと芝居の多くは、お宮の境内に仮小屋を建てて行われておりました。それと同じような粗末な芝居小屋での興業のことを申します。
江戸では寛永六年(1629)から芝居への規制が厳しくなりまして、四十年後には許可される芝居小屋は四座のみに規制されます。これを『江戸四座』と申します。
官許を得られない一座は、『舞台以外に屋根を作らない』『引き幕や花道は禁止』『百日までの興業』『蓆掛けの仮小屋』、という規制の中で興業いたしました。後に、[天保の改革]で全面禁止されてしまいます」
前出の[見世物]も、火除地の一種の幅の広い街路である広小路に仮小屋を建てて行われたが、[宮地芝居]のようには厳しく規制されなかったようだ。同じ絵空事でも真実を穿つ物語性、つまりは体制批判の物語性を込めうる芝居と違い、子供騙しの[見世物]は差し障りがなかったということか。
また常設の建物の四座は監視が利くが、[宮地芝居]は規制しなければゲリラ的に巡回したり増殖していく可能性もあり危険視されたのだろう。
寺社の境内を借りて催されたという点では、寄席の起源も同じだ。現在の講談に近い話を聞かせる、もともとは砕けた説教のようなものだったらしい。
これが原型となって初めて専門的な寄席が開かれたのは、寛政十年(1789)に江戸下谷にある下谷神社の境内で初代・三笑亭可楽によって開かれたものであったという。当初は寄席場(よせば)と呼ばれ、後に寄席と呼ばれるようになった。
こちらも天保の改革の影響で規制を受け一時衰微するが水野忠邦の失脚とともに復活したというから、やはりそれなりの規制を受けたが、その後、幕末にかけて江戸を中心に大いに普及し各町内に一軒は寄席があったという。
江戸では町方や新吉原、寺社境内などに寄席が広まっており、同時に、乞胸(ごうむね)と呼ばれる辻で大道芸を行う都市下層民の芸能民も同様の演芸をしたため、両者はしばしば対立したという。
乞胸は、身分は町人とされるも、大道芸をおこなって金銭を取る生業は非人頭車善七の支配を受けた。非人が門付(かどづけ)芸を生業としていたことが、この支配関係に結びついているのではないかと考えられる。
乞胸は江戸中期までは乞胸頭仁太夫の家の周辺等江戸の街の数カ所に住んでいたが、これまた天保の改革の時、幕府によって集住を命じられる。その理由は「身分は町民だなどと言っているが、非人と同じような業をしているのだから市中に置くのはよろしくない」(町奉行・鳥居忠耀〈耀蔵〉の老中・水野忠邦への上申)というものだった。
このお上の差別意識は一般の町人も共有するもので、寄席関係者と号胸の対立にも反映したのかも知れない。
路上ライブとライブハウスくらいの違いのようだが、生業をする場所や住み暮らす場所と身分や格が同一視される身分意識が強く世間体が重んじられた社会では、そこに厳格に差別する一線があった。
ちなみに明治三年、新政府によって「平民も苗字を名乗ってよい」という布告が出されたが、乞胸は布告の対象から除外された。つまり近代になっても行政的に被差別民の規定を受けたのである。
じつは被差別民ということでは、江戸四座に出演していた歌舞伎役者も含まれる。
そして、江戸と関東の被差別民の総支配者であり代表者だった弾左衛門、その配下にない被差別民として、歌舞伎役者と座頭と願人(がんにん)が上がる。
願人も乞胸とほとんど同じ大道芸を生業とし生活圏もほぼ重なる。違うのは成り立ちであって、京都の鞍馬寺の僧侶のたく鉢での行いが始まりとされる。享和二年(1842)に、大きな鉄の鉢をたたいて「お釈迦、わい!」と大声で叫びながら往来する願人の存在が記されていて、この頃はまだ「僧侶」的なものを感じさせる存在だった。しかし40年ほど後の天保十三年(1842)には、もっぱら踊りや謡などを街頭で見せて銭を稼ぐ存在として記録されている。これまた天保の改革で、こちらは寺社奉行によって厳しく取り締まられた。
明治四年、「穢多・非人賤称廃止令」(太政官布告)が出た後、弾左衛門配下にあった長吏・非人・猿飼・乞胸の身分呼称は廃止され、同時に歌舞伎や座頭も身分呼称として廃止された。しかしどういうわけか「願人」だけはしばらくの間残り、正式になくなったのは明治六年で、東京府が特に「願人呼称廃止」を布告したことによる。
(願人は願人坊主と呼ばれ、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離(みずごり)などをしたりした乞食僧だった。物乞いをするだけでなく移動を生業と暮らしの中核とした。この移動性が、定住した乞胸との大きな違いとしてあったことが、新政府の差別の理由だったのではなかろうか。
ちなみに明治四年に姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に本姓を名乗ることはなくなった。姓尸とは、名字ではなく「源」のような氏(本姓)や「朝臣」のようなかばね(古代に存在した家の家格)のことだ。そして明治八年に平民苗字必称義務令が出され、国民はみな公的に名字を持つことになった。明治六年の東京府の「願人呼称廃止」はこの間のことになる。名字と名前で戸籍ができるが、名字を持たなかった庶民の多くは現住か出身か定住地にちなんだ名字にした。移動性の顕著な願人はこうした名字づくりにも戸籍制度にも馴染まなかった。
そもそも戸籍制度は、東アジアで戸と呼ばれる中華文明圏で成立した家族集団の国家による認定を基礎とした。幕藩体制下の住民把握の基礎となった人別帳は、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括した「家」単位に編纂されたもので、明治新政府は「家」間の主従関係、支配被支配関係の解体を急務とした。結果的に戸籍を復活させて「家」単位ではなく「戸」単位の国民把握体制を確立し、「家」共同体は封建的体制下の公的存在から国家体制とは関係のない私的共同体とし、「家」を通さずに国家が個別個人支配を行うことを可能にした。「願人呼称廃止」の立ち後れや後追いはこうした経過の影響ではなかろうか。
新政府による戸籍制度の復活は封建的な主従関係、支配被支配関係から国民を解放するものであったが、完全に個人単位の国民登録制度ではないため、婚外子、非嫡出子問題、選択的夫婦別姓問題などの「戸」に拘束された社会問題を現代にまで持ち越させている。
婚外子・非嫡出子問題について、2013年9月4日、相続において婚外子を差別する民法の規定が違憲であるとの判断を最高裁判所が下したことは記憶に新しい。)
願人や乞胸は、「賤称廃止」が布告され身分が引き上げられたが稼業(物貰い)が禁止され、その生活は困窮を深める。生活圏が重なる非人ともども、明治維新後近代化が進む中で発生した新たな窮民と合流しながら、近代都市東京の貧民層を形成していった。
江戸社会は、その一般庶民の「浮き世」だけでなく最下層の「憂き世」についても紆余曲折をへて明治に持ち越されていった。
私の親の世代、大正生まれの世代には、私が子供の頃までかなり芸能人蔑視の感受性が残っていたように思う。
それは以上検討してきた江戸からの延長にあると考えられる。
今でこそ、テレビに出ている芸能人であり、ニュースキャスターまで勤めるお笑い芸人であるが、それでも差別意識が、私たち自身が気づかない形で現象していると思う。
それは、どつき漫才、顔を叩く張り扇やゴムバンド、熱湯風呂やドッキリの落とし穴のような日本のお笑い芸人特有の、言わば「公開いじめ」のような笑いの取り方である。
外国にはないどつき漫才について、外国人なら喧嘩になる、気性がおだやかな日本人だから成立するなどという意味不明の意見を聞くが、どつき漫才が生まれたのが何時かが問題だ。
明治中期に正月の街を門付けして掛け合いをやったのが漫才の起源だから、その当時まで遡るのかも知れない。とすれば、明治前期まで色濃くあった芸能民への差別意識が、新しいお笑い芸人とお笑い芸の中で形を変えて、つまりは自虐化して浮上したのかも知れない。そのダイナミズムは、確かに、どつき漫才→張り扇やゴムバンド→熱湯風呂や落とし穴と綿々と継承されている。笑う方もずっとサディスティックな笑いを共有してきている。
日本人の気性のおだやかさを反映した日本ならではのお笑い芸が演じられ人々も当たり前のように心休まる笑いを笑っていたのは、むしろ江戸時代だったのではなかろうか。