私の「転住民」へのこだわりと我が一族 |
たまたま私がそれができる身の上にあったというだけで気負いはない。
しかし改めて振り返ると、世間では病院で看取ることが多くなっているし、老人施設に託すことも一般的だ。最初は父の認知症が進み母が高血圧で倒れるなどあり母を助けるための同居で看取ることまでは考えていなかった。父が大往生して結果的に看取ってしまったというのが正しい。
お恥ずかしい話だが、私の父は身勝手で癇癪持ちでそれが認知症の進行で苛烈になって母との諍いが耐えなくなり、父の自活能力がある内は諍いを見聞きするのが嫌で可能な限り外出したり仕事をつくって上京したりした。
ところが父がいざ亡くなると、母は父の世話から解放されて元気になるかと思いきや、逆に脱力し、早くパパのところへ行きたい、と言い出した。
夫婦というものの本質は子供には分からないが、うちの両親は子供にとって厄介な仲だったのは確かだ。
父の死後、私は、母にせめて早く死にたいと言わせないようにしたい、と心がけてきた。今母は、死ぬならポックリ行きたい、それまでは健康を保たねば、とかなり前向きになった。
晩年の父が経済的ゆとりがあり長寿を全うするほど健康であるにもかかわらずけっして幸せそうではなかったのを日々みてきた私も、母の意見に同意する。
やりたいこと、やるべきことを全うすればいつ死んでもいい、正直そう思うようになった。
そして、私の場合、今最優先しているのが母の心の暮らしを少しでも豊かにすることだ。それをしつつライフワークを継続し自分の健康を維持して、自分のことは母が亡くなった後にその時の諸条件と世の中の情勢を見てこれと思うことを一気にやる、というスタンスだ。
私はマザコンなのかとも思うが、仮に母が先にいって父と二人になっても同じことをしていた。性格的には母と相性があい、父とはお互いにあわないということはあったが、父への介助は深夜のオムツの交換など肉体的には大変だったが、感情的には気楽に事務的にできた。男同士ということもあって分けの分からない情緒に振り回されるということがなかった。身勝手とか癇癪とかは、ある意味シンプルな一貫性があり想定内の対応ができた。しかし息子にとっての母親というのはそうはいかない。父の死後、気が付けば母の心は娘のそれになっていた。幼少期から思春期にかけて厳しい父(私の祖父)に甘えられなかった反動が晩年に出て来たかのようでもある。
そしてそれを、子供も作らずあまり親孝行のできなかった私自身が嫌でなかったりする、だから厄介なのだ。
デイセンターの人から聞いて分かったのだが、父はおとなしいいい人で通っていた。認知症が進行してからもそうだったのだから、内弁慶、外では借りて来た猫、というのは定着するらしい。
母も、送り迎えの時の様子から、周囲の人に気を使っている感じがする。
施設に入れば、そうした外向きの様子でずっと暮らさねばならない。私は父母にそれをさせたくないというこだわりがなぜか強い。
父母は親(私の祖父)の代からの自営業で二人とも集団行動が苦手で嫌いなタイプだったということがある。
大勢の他人に囲まれて外向きの様子で24時間、365日暮らせば、空間的には人々と一緒にいても、精神的には引きこもりといった感じになるだろう。それなら、父には家で好き勝手を言わせておきたかったし、母には家で娘にさせておきたい。私が同居してできる範囲で応えるのだから、私にとっても大したことはない。仮に施設の経費をヘルパーに回せばたいていのことはできもする。
こんなことをみんな考えているのだろうか、
ひょっとすると私はかなり一般的ではないのかも知れない、
とふと思い当たった。
で、気が付いたのだが、我が家は、父の父から、母の父から転住民の家系だった。
父の父は鹿児島生まれで小商いをしていたが、軍港景気に湧いた佐世保に移る。父は佐世保商業を卒業して横浜の商社に務め、赤紙召集で九州に戻り終戦を佐世保で迎え、進駐軍の通訳をして稼いだ資金で上京して衣料の小商いからマンションメーカーの走りのようなことをして最終的に紀尾井町で今のカフェの走りのような店を経営、引退後、伊豆高原に。
母は、佐世保の日産でタイピストをしていたが、夫婦仲の悪かった親許を離れて上海か台湾か満州への脱出を狙っていて、海軍病院の公募に応じて台湾に軍医付きタイピストとして赴任する。敗戦直前、命からがら病院船で帰国。二艘に分乗し一艘は米潜水艦に撃沈されている。父と知り合い、何が意気投合したのか結婚して上京。今にして思えばもともと夫婦というより同志のような仲だったのかも知れない。
母の父は、早稲田の前身の東京専門学校で経済を明治で政治を学び帰郷、佐世保ではじめて新聞社と銀行と映画館を立ち上げ(すべて人手に渡っている)、市議や商工会議所初代議員をしたという。日本全国、各地方にいる明治人の典型と言えよう。私はこの祖父の、自分の人生を時代に呼応させて多くの知識分野を自由闊達に渡り歩いた移動民性を尊敬しとても気に入っている。
私には十歳離れた姉がいて、姉も私も子供の頃から諍いの耐えない両親に悩んだ。姉も母に似て、家を出たい一心で早々に結婚、離婚して20代半ばでパリに。日本人観光客が今の中国人のようにパリに押し寄せた時期に、高級ブランドの店員募集に応募してのことだった。フランス語ができるという条件だったが姉は話せなかった。パリにたつ直前、秋葉原でテープレコーダーを買って来て、私に使い方を教えてくれと言う。何かテープない、と言い渡されたテープを掛けてみせると、「ボンジュール、コマンタレブ」だった。私はその時、姉がフランス語がまるでダメなことを知った。しかしそれでも渡仏し、やがて仲間と店を共同経営して、今では先様の年金で暮らすアパート持ちなのだから姉のバイタリティは凄いと敬服する。
そして、姉の日本人の夫との間にできた娘(私の姪)は、フランス国籍を選び、欧州の東映アニメに勤めた後、カナダに移住、むこうでジャパンアニメ関連の仕事をしている。
つまりは、私を除いて、我が一族はみな転住民なのだ。
私が7年前に一年かけて東京を引き払い伊豆に越したことなど、一族のスタンダードからすれば定住に毛がはえた程度のことでしかない。
転住民の一族には「故郷」というものがない、「我が町」というものもない。
別荘地というと優雅に聞こえるが、そういう言わば「無主」「無縁」の場所でないと暮らせないというのが転住民のサガなだけなのだ。 母はここで死にたいと言う。それは伊豆高原という地に愛着を覚えているからではない。ただ父と最後に暮らしたこの家を転住の終着地にしたいということだと思う。
転住民の親の最期をどう過ごさせるか、これは子供にとっても、じつは本人にとっても大きなテーマである。
私が親を家で看取りたいと思うのは、一般的な定住民の人々の思いとは質がかなり違うのではなかろうか。
一番の違いは、転住民のままで、転住民としての安堵の内に晩年を全うさせたい、ということだと思う。
子供がいない私は、いつになるか分からぬが母が逝った後、どうするか。
転住民としてどこかに移り住むより、まず移動民になろうと思う。(おおよそ、台湾から上海、成都、中国南西部と照葉樹林帯を想定していて中国語学習を続けている。移動想定が外れてもボケ防止、頭の健康維持になると割り切っている。)
どこで野たれ死んでも納得するような移動のテーマを設定し計画を練ろうと考えている。で、野たれ死にしない内に移動ができなくなったら、最期を迎える地に転住、その後はあの世への転住である。
使えるお金で暮らせる地域を移動し飢えて死ねばそれまでだ。自分のことはこんな感じでザックリと気楽に考えている。私は特段にすごい覚悟をしているとは思わない。たとえば今夏、熱中症で若くして亡くなる人がいて、年寄りはもっと多いが、死に場所が違うだけのような気がする。
しかし、父母のこととなると、自分のことのように気軽に考えられない。
父母ともに親戚づきあいを嫌い、父は市民活動以外の友達づきあいをしなかったし、母は一人遊びが好きで気遣いがいらない同人種との僅かな淡交しかない。
夫婦ともに、定住民的な集いをまったく必要とせず、それがなくても淋しいどころか自由でいいというタイプだった。そこに二人の絆があったのかも知れない。
しかし人間は老衰する。必ず誰かの助けを必要とする。
親にはその時、自分のいたい心持ちでいさせて上げたい。
きっと、それは私の転住民一族としての血がこだわらせるのだと思う。