日本人は踏みとどまることができるだろうか |
このまま行くと、誰がどう考えてもまったく不条理ということでも、「それは間違っている」と公言できない、そういう空気を読まねば暮らしていけないような世間になりそうだ。けっこう、今がその正念場なのではないか。
こういう悪い方向に向かう時の私の誰よりも早い予感、当たると周りも認めている。
↓
「それは間違っている」と公言すると、波風を立てる奴だ、何様のつもりだ偉そうに、となってくる。そういう空気はどこでもあって、すでに下地はでき上がっている。
↓
きっと、戦前も世の中がだんだんおかしな方向に行くのを食い止められなかったのは、時事についての自分の意見を言わないことを理由はいろいろだろうが正当化する人が多数を占めて、自分の意見を言う人の方を冷淡に見下すような風潮が蔓延したためだと思う。
ようは<個我>にとらわれたということだ。
自身の「個の核」を露にし「宇宙」のエネルギーと心身を自然体でつなげる<超我>、意味深い連帯はそれからしか生まれない。
それはまず一人ひとりが当たり前に生きようとする、というシンプルなことなのだが。
↓
日本人に特有なことかどうか分からないが、こういうことがある。
一人でいると寂しいから人に会う、あるいは人が群れる。それは人間のサガでどこの国の人もそうだろう。
私が不思議なのは、日本人の場合、会って相手を馬鹿にする、あるいは馬鹿にするために人に会うような人がいることだ。そして、群れにはみんなで馬鹿にする人がしつらえられ、馬鹿にされても群れに留まる人がいることだ。なんで馬鹿にしている相手にわざわざ会うのだろうか。なんで馬鹿にされてまで群れに留まるのだろうか。
それ以外の暮らし方が考えられないためだと想像するが、試しもしないでどうしてそう決められるのか。私には分からないが、試した人を馬鹿にして失敗するに決まっていると言い、実際失敗するとだから言っただろうと言う人たちを見ていると、自分で自分を縛っていると思い当たる。
これは、集団を身内で固める「家康志向」一辺倒化の弊害の一つだと思う。
自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」の人や集団や組織は、そんな厄介なだけで何も創造しない人間関係にかかずらわってられない。